Ⅰペテロ1章6~9節 「救いの喜び」

きょうは、ペテロの手紙第一1章6節から9節までのみことばから、「救いの喜び」というタイトルでお話しします。

 

Ⅰ.救いの喜び(6)

 

まず6節をご覧ください。

「そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、」

 

この手紙は、キリストの弟子であったペテロから迫害によって国外に散らされていたクリスチャンを励ますために書かれました。彼らは迫害の中にあって苦しんでいましたが、ここには、「そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます」とあります。どういうわけで、彼らは大いに喜ぶことができたのでしょうか。「そういうわけで」です。それは、その前のところで語られたことを受けてのことです。ペテロは3節から5節までのところでこのように語りました。

「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されている救いをいただくのです。」

 

彼らはどうして喜ぶことができたのでしょうか。なぜなら、彼らは神の大きなあわれみによってすべての罪が赦され、永遠のいのちという、生ける望みを持つようにされたからです。また、朽ちることも汚れることもない資産を受け継ぐようにしてくださいました。それは天にたくわえられていて、やがて終わりのときに受けるように用意されているのです。そればかりではなく、今も神の御力によって守られています。私たちは日々いろいろな問題に悩まされていますが、そのような中にあっても平安でいられるのは、神の守りがあるからです。これを一言で言うならば、たましいの救いを得ているからです。「そういうわけで」です。そういうわけで、あなたがたは、大いに喜んでいるのです。

 

皆さん、救いの喜びとは、何か良いことがあったからうれしいとか、幸せだというのではありません。そのような感情的なものではないのです。良いことがあったから楽しいとかうれしいというのは自然な感情の表れですから悪くはありませんが、そのような喜びは一時的で、状況によって左右されるものです。ですから、一方で悪いことがあると逆に不幸に感じてしまうことがあるのです。それはちょうどジェットコースターに乗っているようで、上がったり、下がったりと、安定感がありません。

 

しかし、この救いの喜びは回りの状況に左右されない喜びです。良いことがあっても悪いことがあっても、決して奪われることがない喜びです。それは感情的なことではなく霊的なことなのです。イエス様を信じたことで私のすべての罪が赦されたということ、そして、やがて朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようになったということ、また、それまでの間ずっと神がともにいて守ってくださるということを知ることによってもたらされる喜びです。それが救いの喜びなのです。ですから、この生ける望みがどれほど大きいものであるかを理解すればするほど、大いに喜ぶことができるのです。

 

ですから、パウロはエペソ人への手紙の中でこう祈っているのです。

「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。」(エペソ1:17-19)

 

神の召しによって与えられている望みがどのようなものであるか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、神の全能の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのようなものであるかを、あなたがたが知ることができるように、それをしっかりと見ることができるように、そのために心の目がはっきり開かれるようにと祈っているのです。人は何を見るかによってその結果が決まります。このようにすぐれた神の栄光、希望、力を見るなら、どのような患難、苦難が襲ってきてもびくともすることはありません。そのために神がどれほどあなたをあわれんでくださったかを知るなら、むしろ感謝と喜びがあふれるのです。

 

それは、クリスチャンには悲しみがないということではありません。ここには、「いまは、しばらくの間、さまざまな試練の中で悲しまなければならないのですが、」とあります。クリスチャンにも悲しみはあります。苦しみもあります。たとえば、健康の問題があります。病気になったり、事故に遭ったりすることもあります。あるいは、人間関係の問題もあります。友人との関係、職場の人間関係、親子の関係、夫婦の関係でいろいろ悩むことがあります。人から誤解されたり、ありもしないことで悪口雑言を浴びせられることがあるのです。経済的な問題もあります。また、将来に対する不安もあるでしょう。すぐに解決する問題もあれば、ずっと引きずってしまう問題もあります。私たちにはいろいろな悩みや苦しみがあります。そうした試練の中で嘆き悲しみ、失望落胆し、心が折れそうになってしまうことがあるのです。しかし、その中でも神の恵みを味わうことができる。大いに喜ぶことができるのです。なぜ?なぜなら、私たちには終わりの時に現われるようにと用意されている救いをいただくことを知っているからです。いまは、しばらくの間、さまざまな試練の中で悲しまなければならないこともありますが、それはしばらくの間のことであって、いつまでも続くものではないのです。それは一時的なもの、しばらくの間のことでしかないのです。

 

パウロは福音のために誰よりも多くの苦難に会った人ですが、そのパウロは苦しみについて何と言っているかというと、「今の時の軽い患難」と言っています。

「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測りしれない、重い永遠の栄光をもたらすからです。」(Ⅱコリント4:17)

パウロはなぜこのように言ったのでしょうか。それは、やがて与えられる栄光が、測りしれない、重い永遠の栄光をもたらすことを知っていたからです。それと比べたら、いまの患難は軽いもので、一時的なものすぎないと感じたのです。

 

ですから、いまは、しばらくの間、さまざまな試練の中で、悲しまなければなりませんが、後に来る栄光を思うと喜びがあります。終わりのときに用意されている救いをいただくことを思うと、どんな試練の中にあっても、大いに喜ぶことができるのです。

 

Ⅱ.信仰の試練(7)

 

では、いったい何のためにさまざまな試練があるのでしょうか。7節をご覧ください。「信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。」

 

私たちに試練がある目的の一つは、私たちの信仰を聖くするためです。ここには、「信仰の試練は、火を通して精錬されてもなお朽ちていく金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。」とあります。当時、金は金属の中で最も堅く、高価で、尊いものでした。そして、その純度を高めるために用いられたのが火です。火で精錬し、不純物を取り除き、もっと尊いものにしたのです。しかし、どんなに火で精錬した金でもやがて朽ちて行きますが、信仰は精錬されればされるほど、やがてイエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉になるのです。その信仰の純粋さを高つために用いられたのが試練です。私たちはイエス・キリストを信じたからといってすぐに完全にされるのではありません。まだまだ不完全な者であり、いろいろな欠点や弱さがあります。いろいろな不純物があるのです。それを取り除かなければなりません。どのようにしてそれを取り除くことができるのでしょうか。それが試練なのです。試練の中で痛みを感じたり、苦しみや悲しみを味わわなければなりませんが、その苦しみを通して自分の弱さを知るようになるのです。それは健康の時には気付かないことです。健康の時には何でも自分でできると思っていました。しかし、試練を通して、苦しみに会ってはじめて、自分が本当に弱い者であることを痛感させられるのです。これまで持っていたプライドが砕かれて、謙遜にさせられるのです。不純な思いがきよめられ、神に信頼することを学ばされるのです。

 

ですから、詩篇の作者はこう言っています。「苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。しかし今は、あなたのことばを守ります。」(詩篇119篇67篇)

また、詩篇119篇71節にはこうあります。「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」

苦しみに会う前はそのことがわかりませんでした。苦しみにあって初めてそれがどういうことなのか、神のことばが本当だということを悟り、みことばに信頼するようになるのです。私たちは、苦しみを通して神のおきてを学ぶようになるのです。

 

2節には、「父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。」とあります。私たちが救われた目的、私たちが救いに選ばれた目的は何でしょうか。それは、イエス・キリストに従うようになることです。私たちは救われるだけでなく、キリストに従い、キリストに似た者となることを神は願っておられます。そのために用いられるのが試練なのです。ですから、試練は私たちを苦しめるのが目的なのではなく、私たちを訓練し、私たちがキリストのようになること、キリストに従うようになるために、神が私たちに与えた恵みなのです。スポーツのアスリートは激しいトレーニングを通して成長していきます。そこには痛みや苦しみが伴いますが、そうしたトレーニングを通して成長していくように、私たちも試練というトレーニングを通して大きく成長していくのです。

 

シンクロナイズドスイミングの井村雅代コーチは、限界を決めない練習を選手に科すことで有名です。それは半端なものではないくらい過酷な練習量で、朝早くから夜遅くまで続きます。なぜそんなに練習をさせるのかを、この前テレビで言っていましたが、それは、自分たちがこれだけ練習してきたんだというのが自信になり、本番で力をはっきりするためだ・・・と。これまで日本の先週は本番になると自分の力を出し切れなかったのは精神的な弱さから来ていたのであって、その弱さを克服するには練習以外にはないと、徹底的に練習をするのだそうです。まさに鬼の井村です。でもそれは選手たちか強くなるためであって、結果、この数年常にメダルを取り続けているのだそうです。

 

それは、私たちの信仰にも言えることで、そうした試練を通して、神は私たちをキリストのご性質へと変えてくださり、イエス・キリストの現われのときに、称賛と光栄と栄誉に至るのです。まさに、成長のための近道はないのです。

 

私たちに試練が与えられている第二の理由は、私たちの信仰をためすためです。この7節にある「試練」(ギドキミオン)という言葉は、6節の「試練」(ギペライモス)という言葉とは違う言葉が使われていて、「試験済みの」とか、「検証済みの」「最善のもの」という意味です。ですから、新改訳聖書では7節の「試練」に※印が付いていて、下の欄外の説明を見ると、別訳、「純粋さ」とあるのです。

口語訳ではここを、「こうして、あなたがたの信仰はためされて、火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ、」と訳しています。それはその信仰が火で精錬されても朽ちていく金よりも尊いものであることが明らかにされるためのテストであるという意味です。

また、新共同訳聖書でも、「あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりもはるかに尊くて、イエス・キリストが表れるときには、称賛と光栄と誉れをもたらすのです。」つまり、これは信仰のテストなのです。

 

物事が順調に進んでいるとき、何でも自分の思うとおりにいっているとき、人はだれでも簡単に、「はい、信じます」と言えますが、迫害や試練、苦しみに会った時はそうではありません。自分が本当に拠り所にしているものは何か、自分が頼っているものは何かが試され、明らかにされるのです。そして、本当に神の愛を知りイエス・キリストを信じている人は、どんな試練が来てもキリストから離れることはありません。離れることがあったとしても、必ず悔い改めて神の愛に立ち返ります。神の愛があまりにも大きいので、神が与えてくださった栄光があまりにもすばらしいので、そこから離れたくないからです。

 

この手紙の読者たちは激しい迫害によって小アジヤに散らされ、寄留していた人たちですが、それでも彼らは信仰に堅く立ちました。迫害や試練は彼らから信仰を奪うことはできませんでした。彼らから救いの喜びを奪うことはできなかったのです。彼らの財産を奪うことはできたかもしれません。彼らの肉体を傷つけ、心も傷つけられたかもしれない。でも、彼らから救いの喜びを、永遠のいのちの希望を、キリストにある神の愛を奪うことはできませんでした。なぜなら、彼らは本物の信仰を持っていたからです。その試練によって、彼らの信仰が本物であることが証明されたのです。

 

このように信仰の試練は、私たちが何に信頼しているのかを明らかにします。何に信頼しているのか、何を信じて生きているのかを明らかにするのです。明らかにしたうえで、信仰の純粋性を保ち、やがて称賛と光栄と栄誉をもたらすのです。皆さんはどうでしょうか。皆さんは何を拠り所にしているでしょうか。信仰の試練はそれを明らかにしてくれます。

ですから、私たちはこのさまざまな試練の中で、しばらく間、悲しまなければなりませんが、ただ悲しむというだけでなく、このことを自分自身の中で問いながら、本物の信仰を持っていると明らかにされるように、私たちの信仰がもっと純粋にされていくことを求めていこうではありませんか。

 

Ⅲ.キリストへの愛(8-9)

 

第三のことは、信仰の結果です。そのような信仰の結果、たましいの救いを得ているとどうなるのでしょうか。イエス様を愛するようになります。8節と9節をご覧ください。

「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」

 

皆さんは、イエス・キリストを愛しているでしょうか。いまは見ていないけれども、やがて称賛と光栄と栄誉に至ると信じて、栄に満ちた喜びに踊っているでしょうか。「イエス様の時代に生きていた人はいいですよ、イエス様を実際に見て信じることができたでしょう、でも、いまはイエス様を見ることができないのだから、信じろと言われても無理ですよ、愛せよと言われても、難しいなぁ」と思ってはいませんか。しかし、イエス様を愛すること、イエス様を信じることは、イエス様を見たからとか、見ないからといったことと全く関係ありません。イエス様への愛と信仰、それに伴う大きな喜びは、キリストによって与えられた信仰、救いを受けることによって得られるものだからです。

 

それはペテロのことを考えてもわかります。彼はイエス様の一番弟子として、直接イエス様を見て、イエス様のことばを聞いて、イエス様に直に触れました。誰よりもイエス様を信じ、イエス様を愛していたはずなのです。しかし、実際はそうではありませんでした。彼はイエス様が言われたとおり、イエス様が捕らえられたとき、鶏が鳴く前に三度もイエス様を否定しました。「あんな人なんて知らない」と。見ても信じることができませんでした。それなのに、この手紙の受取人たちは、イエス様を一度も見たことがありませんでしたが、イエス様のことを聞いて信じ、心からイエス様を愛するようになりました。ですから、見たか、見ないかは関係ないのです。見なくても信じることができます。見なくても、愛することができるのです。イエス・キリストを信じて生ける望み、永遠のいのちを受けたことを知っている人は心から愛することができるのです。

 

わが国で最初のキリスト教 信仰を理由に処刑が行われたのは、1597年2月5日に長崎で行われた「二十六聖人の殉教者」です。豊臣秀吉は、当時のキリシタンたちは本気で主を愛し、主に従っていたのを見て恐れ、キリシタンを弾圧したのです。京都と大阪で捕らえられた24人に、道中加えられた2人の、合わせて26人が磔(はりつけ)にされました。その中にルドビコ茨木という12歳の少年がいましたが、歴史家のルイス・フロイスによると、彼は、1月3日、京都で左耳の一部を切り落とされ、見せしめのため、粗末な牛車に乗せられ、町中を引き廻されましたが、「天使のような顔で喜び溢れ、後手に縛られ、耳を剃がれた時も傷痕の痛みをこらえ、また、流れる血にも驚かず静かに純心に『天にまします、めでたし』とその他の祈りを唱えていた。」(「第8章」)とあります。

また、この少年が牢にいた時、身分のある一人が彼に近付き、もしキリシタンをやめれば釈放してやろうと勧めると、彼は『貴方こそキリシタンになるべきです。救いのためには道は他にはありません』と言ったというのです。

そして、刑場に到着すると、一行は、十字架を見て歓喜したと言います。ルドビコ少年は喜々朗々とし、自分の十字架がどこにあるのかと尋ねました。そこには子供の背丈に合わせて十字架が準備されていましたが、十字架を示されると情熱をもってそこに走り寄った、と言います(「第16章」)。

少年は「十字架につけられた時、意外な喜びを見せ、『パライソ(天国)、パライソ、イエズス、マリア』と言いながら、信者未信者を問わず人々を驚かせました。そのことで、彼の心には聖霊の恵みが宿っていることがよく表れていたのです(「第18章」)。

いったい彼はどうしてそんなに喜び踊っていたのでしょうか。それは、信仰の結果である、たましいの救いを得ていたからです。

 

昨年中国を訪問した時も、そのような方々がたくさんいました。K市から車で1時間ほど行ったN市にある家の教会の指導者R先生は、信仰のゆえに何度も公安に捕らえられた経験がありますが、どんなに捕らえられても祈りとみことばという二つの翼があれば、どこまでも高く飛んでいけますと、喜び踊っていました。

 

いったいどうして彼らはそこまでしてイエス様に従うことができるのでしょうか。それは、イエス様を愛しているからです。イエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない栄に満ちた喜びに踊っているからです。

 

皆さんはどうですか。イエス様を愛していますか。イエス様を信じていますか。イエス様を信じて罪の赦しと永遠のいのち、生ける望みが与えられたこと、そして、やがて朽ちることのない資産を受け継ぐことを見て、喜んでおられるでしょうか。

 

主イエスは、復活後四十日間この地上にとどまりました。なぜとどまったのでしょうか。それは、ご自分がよみがえられたことを証するためであったことは確かですが、それだけでなく、そのことによって、弟子たちが生けるキリストを信じるようになるためでした。イエスが見えなくなっても、弟子たちとともにおられることを弟子たちに体験させる必要があったのです。見える信仰から見えない信仰です。見ずに信じるものは幸いです。私たちもイエスを見てはいなくても信じています。見てはいなくても、愛しています。そして、栄えに満ちた喜びに踊っています。それは信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。いまは、しばらくの間、さまざまな試練の中で、悲しまなければなりませんが、信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちていく金よりも尊く、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉になることを信じて、心から主を愛し、主に従う者とさせていただきましょう。

 

Ⅰペテロ1章1~5節 「生ける望み」

きょうからペテロの手紙に入ります。この手紙は、イエス・キリストの使徒ペテロから、ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤ、ビテニヤに散って寄留していた、選ばれた人々、すなわちクリスチャンに宛てて書かれた手紙です。なぜペテロはこの手紙を書いたのかというと、この頃はローマ皇帝ネロによる迫害が激しく多くのクリスチャンが小アジヤの各地に散らされていましたが、そうしたクリスチャンを励まし、そのような迫害の中にあっても堅く信仰に立ことができるようにするためです。いったいどうしたら試練の中にあっても信仰に堅く立ち続けることができるのでしょうか。それは、神が与えてくださった生ける望みに目を留めることによってです。

 

Ⅰ.生ける望み(3)

 

まず、3節をご覧ください。

「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。」

 

1,2節のところであいさつを書き送ったペテロは、この手紙の本文の冒頭のところで、「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。」と神をほめたたえています。なぜでしょうか。その第一の理由は、神は私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださったからです。

 

私たちの人生において望みがいかに重要であるかは誰もが知っていること

です。望みがなかったら生きていくことができません。人は望みによって生き、望みによって力を得、望みによって働いています。しかし、望みにもいろいろあります。ある人にとってそれはお金であったり、あるいは財産であったり、権力であったり、家族であったりします。しかし、それが神によるものでなければ、結局のところ、失望してしまうことになります。なぜなら、1章24節に、「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る」とあるように、人の運命はこのようなものだからです。それはあってないようなもの、いつまでも続くものではありません。ほんの少しの間あるように見えても、すぐに消えて無くなってしまうものなのです。ですから、このようなものに望みを置くならば、失望に終わることになってしまうのです。それはちょうど目隠しをしながら淵に向かって歩いているようなものです。しかし、神が与えたもう望みは、そのようなものではありません。神が与えたもう望みは生ける望みです。それは死んだ望みではなく、私たちにいのちを与える望みなのです。神はこの望みを持つようにしてくださいました。

 

いったいどのようにして神はこの生ける望みを持つようにしてくださったのでしょうか。ここには、そのために神がしてくださった三つのことが記されてあります。第一に、神はご自分の大きなあわれみによって、罪人である私を救ってくださったということです。「あわれみ」と何でしょうか。「あわれみ」とは、滅ぼされても当然の者が滅びないですむことを言います。私たちは罪の中に死んでいて、神の裁きを受けるのは当然の身でありながら、神の大きなあわれみのゆえに、救っていただきました。エペソ人への手紙2章4~5節には、「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、・・あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。・・」とあります。私たちが救われたのは、ただ神の恵みによるのです。

 

アメリカでも日本でも有名な、AAという団体があります。アルコール依存症の人を助けるために作られた団体です(Alcoholics Anonimous,1935年創立)。この頭文字を取ってAAと名付けられました。創設者の男性はビルという男性で、彼自身がアルコール依存症でした。  彼は、絶望の底を歩いて、どうしてもアルコール依存から抜け出せない。依存から抜け出せない自分に絶望します。苦しんで、悩み続けて疲れ果ててしまったある日、自分の持っていた時計が壊れてしまうんですね。それはスイス製の高級時計で、自動巻きでした。日付が付いていて、防水加工。当時のあらゆる機能を持った複雑な時計で、修理してもらうために、アメリカの時計屋さんへ持って行きました。

数日後、彼は、その時計を受け取りに出向いていきますと、時計屋の主人が時計を手渡してこう言いました。

「ビル。君のこの時計は、大変複雑で精巧な品物だ。残念ながら、この時計はうちで直すことはできない。アメリカのどの時計屋に持って行っても、これは直せないよ。これを直す唯一の方法があるとすれば、製造元へ送り返すことだな。つまり、造った人なら、どうやって直すか分かるだろう」  そこで彼はその直せなかった時計をポケットに入れて店を出ます。歩きながら、店の主人の言葉が、自分の人生そのものだということに気が付きました。 「残念ながらこの時計はうちでは直せない。直すとしたら、製造元に送り返す以外にはない」それはまさに自分の人生だと感じ取った彼は、教会の門を叩くのです。  アルコール依存症という問題を解決するためではなく、自分はそもそも神さまによって創造されたにもかかわらず、どこかで神さまから外れて生きている自分の果てに、こういう問題が存在するのだということに彼は気が付いて、キリストを信じ、洗礼を受けて神の子どもとされるのです。それによって、ビルは生まれ変わりました。  ペテロは、それを神さまの「大きなあわれみのゆえに」と、言っています。神さまの大きな憐れみのゆえに、その言葉は、本当にペテロだけでなく、私たちもよくわかります。神さまが私という人間に、どういう計画をもっておられたのかはわかりませんが、でも、私の中に小さな信仰の種を植え付け、育ててくださり、この人物はその小さな種に応じる素直な信仰があるに違いないと、神さまがご覧になって、私を選び、私を神さまによって生まれ変わらせてくださったのです。であるとすれば、それは自分の発想や自分の努力ではなくして、神さまの大きな憐れみ以外の何ものでもないのです。

 

第二に、神は、イエス・キリストを死者の中からよみがえらせてくださいました。生ける望みは、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによってもたらされたものです。どういうことでしょうか。確かにイエス様が私たちの身代わりとなって十字架で死んでくださったという御業は大きな恵みですが、もしキリストが死んだだけであったとしたらどうでしょう。私たちは悲しみの中に沈んでいなければならなかったでしょう。死んでしまえばすべてが終わってしまうわけですから・・。しかし、神はその全能の力をもって、イエス・キリストを死者の中からよみがえらせてくださいました。ここに希望があります。もし、私たちのいのちが無くなってしまったらどうなりますか。本当に空しくなってしまいます。結局のところ、この死の前には何の成す術もないわけですから。人類のすべてが死に飲み込まれてしまうのです。そして、この死に対しては、誰ひとり勝利した人はいません。だから、人々は死を必然的なものとして受け入れるしかないのです。仏教では死とは、決して避けられないものであり、諦めるしかないものだと説きます。しかし、キリスト教ではそのようには教えていません。キリストは死に勝利して、よみがえられました。死は決して終わりではないのです。最後に復活があります。このような来世観を持つ者にとっては、失望とか絶望はありません。人生でどんなことがあっても、どんな死に方をしたとしても、最後は復活があるのです。「終わりよければ、すべて良し」です。

 

フジテレビのトップニュース・キャスターだった、山川千秋さんは、突然のように、のどのがんのため亡くなりました。録画中のことでした。突然、声が消えました。精密検査の結果は、のどのがんでした。医者は、奥さんを呼んで、がんであることを告げました。すると奥さんは、ガツンと頭を叩かれたような衝撃を受け、突然、目の前が真っ暗になり、全身の力も抜けて、体がこなごなに打ち砕かれたような感じでした。それでもクリスチャンであった奥様は、そのことを聖アンナ病院に入院していた夫に告げました。この時山川氏、55歳でした。子どもたちは中学生と小学生でした。面会の時間の終わりが告げられるまで、一言の会話もなく、二人は重い沈黙の中に座っていました。ただ涙だけが、とめどもなくあふれて、落ちました。

それから、山川さんは悩むだけ悩み、苦しむだけ苦しみ、奥さんが通う教会の牧師を訪ねました。

「先生、私は死の準備がありません。どうか、私を救ってください。」

そのようにして山川さんは、イエス・キリストの十字架による罪のゆるしと、復活による永遠のいのちの救いを信じ、病床で洗礼を受けました。そのあと、あっという間に召されていきました。奥さんにあてた遺書には次のように書かれてありました。

「きよ子よ。私の妻になってくれて十数年、地上では短かったと、すまなく思います。しかし、私はほんとうにしあわせでした。私はあなたによって、二度、生まれ変わりました。この世にも、ほんとうの夫婦愛があることを、あなたは教えてくれた。私は、あなたにめぐり会えたことで、あなたに感謝します。このように計画された神に感謝します。私に、主に対する信仰をうえつけてくれたことで、あなたに感謝します。このように計画された主に、感謝します。

・・・・・

私は愛の中に生き、今、愛の中に死にます。そして、今、主の愛の中に新しく生き、あなたを待ちましょう。

ありがとう。再び、心からありがとう。二人の息子を残されて、これからのあなたの人生は、決して平たんではないことを知って、つらい思いでいますが、道は必ず開けます。二人の息子を信じ、たくましく生きてください。あなたなら、かならず、やっていけます。何よりも、あなたがた三人には、主イエス・キリストの衣があるではありませんか。」

55歳にして、突然、死を突き付けられるとき、ふつうなら、神をのろい、人生をのろい、運命をのろって、絶望と恐れを叫んでもおかしくないのに、山川さんの遺書には、感謝と励ましと愛にあふれています。希望の輝きがあります。それは、死は終わりではない、永遠のいのちのはじまりであるという希望から生まれてくるのではないでしょうか。

 

それだけではありません。イエス・キリストの復活は初穂であり、キリストを信じる者も、やがて同じように復活するという希望があります。やがて私たちもキリストが復活したようによみがえるのです。これが、私たちにとっての究極的な希望なのです。

 

第三のことは、神さまは私たちを新しく生まれさせて、この生ける望みを持つようにしてくださいました。キリスト教では死んでから生まれ変わるのではありません。生きているうちに新しく生まれ変わります。ヨハネの福音書3章には、イエス様とニコデモとの問答が記されてあります。その中でイエス様は、「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ3:3)と言われました。老年になっていたニコデモはびっくりして、「人は老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。」と言うと、イエス様はこう言われました。

「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」(ヨハネ3:5-6)

ニコデモは、新しく生まれるということがどういうことなのかよくわかりませんでした。しかし、やがてその会話を通して、それが神の御霊によって生まれることであることを知りました。人はお母さんのお腹から生まれることで肉体的な命を持ちますが、この命だけでは神の国を見ることはできません。神の国を見るためには、神の国で永遠に生きるためには、神のいのちを持たなければなりません。それは聖霊によって救い主イエス様を信じて心に受け入れ、新しく生まれることによって持つことができるのです。

 

あなたはこのいのちを持っておられるでしょうか。神はイエス・キリストを通して、私たちを新しく生まれさせ、この望み、生ける望みを持つようにしてくださいました。この望みこそ私たちに困難に耐える力を与え、どのような状況の中にあっても代わることのない希望です。パウロはこの希望について、ローマ人への手紙の中でこのように言っています。

「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(ローマ5:1-5)

失望に終わることのない希望、これが本当の希望です。この希望は、泥水をかき回すと茶褐色の濁った水になってもやがてきれいな水を湧き上がらせる泉のように、どんな試練の中にあっても、生ける望みを湧き上がらせることができるのです。

 

Ⅱ.朽ちることも汚れることもない資産(4)

 

そればかりではありません。4節をご覧ください。ここには、「また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。」とあります。

 

当時、財産を代表するものが三つありました。それは食べ物であり、着物であり、また金銀です。食べ物とは大麦とか小麦といった穀物のことですが、どんなにそれらを蓄えてもそれはやがて腐ってしまいます。またどんなに立派で高価な着物でも、虫に食われます。また金銀も泥棒に盗まれたり、錆が付いて使い物にならなくなってしまいます。ヤコブ書には、この錆びがあなたがたを訴えるとありましたね。この世のものはどんなに立派でも、やがて朽ちてしまい、消えて無くなってしまいます。この教会の建物も、建てたばかりの頃はピカピカに光っていましたが、あれから13年経った今では、あちこち補修が必要になってきました。形あるものはやがて消えて行くのです。そのようなものに望みを置いて生きることがどんなに空しいことかがわかると思います。

 

しかし、天にたくわえられてある資産は違います。天にたくわえられてある資産は、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産です。私たちはやがてそのような資産を受け継ぐのです。

 

これは、ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、ビテニヤといった小アジヤに散って寄留していた人たちに宛てて書かれました。彼らは、間違いなく迫害の中にありました。彼らは地上の家や財産が奪われ、生活にも事欠くような状態だったでしょう。そんな彼らに宛ててペテロは、この地上の財産は消えてなくなるけれども、あなたがたに与えられている財産は決してなくならないもので、天にたくわえられている財産であることを示して、このすばらしい資産に目を留めるようにと言って励ましたのです。

 

この世界には喜びが沢山あります。幸せなことも沢山あります。それはそれですばらしいものですが、でも、それと、天国にたくわえられている資産、私たちが最終的に受け継ぐ資産とでは全く比べものになりません。それは次元が全く違う、栄光に満ちた資産なのです。このような資産を受け継ぐ者とされたのです。

 

Ⅲ.神の守り(5)

 

そればかりではありません。5節には、終わりのときに用意されている救いをいただくことができるように、それまでの間神がずっと守っていてくださると約束しておられます。「あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されている救いをいただくのです。」

 

「終わりのとき」とはいつのことでしょうか?これが、Ⅰペテロの主題でもあります。「終わりのとき」とは、イエス様が再び来られる日のことです。これを神学的には、「再臨」と言います。クリスマスは「初臨」と言って、イエス様が人類を贖うために人となって来られました。その御姿があまりにも謙遜だったので、ほとんどの人がイエス様を神さまだとは認めませんでした。しかし、世の終わりに来られるイエス様は全く違います。ヨハネは黙示録の中で、「その頭と髪の毛は白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬されて光輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった」(黙示録1:14-16)と記しています。それは裁き主としてのイエス様のお姿です。ヨハネは幻の中でそのイエス様の姿を見て、足もとに倒れ、死人のようになりました。それだけ、権威があって恐ろしかったということです。そうです。再臨のイエス様はこの世を裁くために来られるのです。世の終わりは、患難の時代であり、星が天から落ち、月も太陽も光を失います。疫病とか迫害で、多くの人が苦しさのあまり死のうとしても、死の方が逃げていくという恐ろしい時代です。そして、そのような時代が近づいていることを感じます。北朝鮮との戦争が起これば核戦争に発展するかもしれません。地震や津波による災害、原発事故など、人類はこれまでにない危険な時代を迎えているのです。まさに一寸先は闇です。

 

けれども、神に信頼し、イエス・キリストによって救われた者にとってはそれでも望みがあります。なぜなら、「あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られて」いるからです。

 

ここの「守られている」という言葉は、戦争において、町の中にある要塞で守られている、という意味があります。どんなに敵からの激しい砲撃があっても守られている、ということです。そして、それはまず、「信仰」によって守られています。信仰は、非常に重要な要素です。天における資産も、新たに生まれたことも、イエス・キリストの死者からの復活も、みな信仰によって、もたらされました。神のみことばへの信仰がなければ、すべてが崩壊してしまいます。けれども、それだけではありません。ここには、「神の御力」によって守られているともあります。自分の信心深さによって、天にある資産を守っているのではなく、神の御力によって、私たちの信仰が保たれ、健全でいることができるのです。

 

イエス様は、「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)と言われました。私たちも、小アジヤの小さな教会に散って寄留して生きているような者ですが、そんな私たちにも同じように御声をかけてくださり、どんな試練や困難の中にあっても希望をもって歩んでいけるようにと励ましていてくださいます。この主の励ましの御声を聞いて、確かに私たちにも困難はありますが、そこにある大いなる救い、永遠のいのちの喜びと感謝、決して朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにされたということを信じ、希望をもって日々歩ませていただきたいと思います。