Ⅰサムエル記2章

サムエル記第一2章から学びます。

 

Ⅰ.ハンナの賛美(1-11)

 

まず、1~11節までをご覧ください。

「ハンナは祈った。「私の心は主にあって大いに喜び、私の角は主によって高く上がります。私の口は敵に向かって大きく開きます。私があなたの救いを喜ぶからです。

主のように聖なる方はいません。まことに、あなたのほかにはだれもいないのです。私たちの神のような岩はありません。

おごり高ぶって、多くのことを語ってはなりません。横柄なことばを口にしてはなりません。まことに主は、すべてを知る神。そのみわざは測り知れません。

勇士が弓を砕かれ、弱い者が力を帯びます。

満ち足りていた者がパンのために雇われ、飢えていた者に、飢えることがなくなります。不妊の女が七人の子を産み、子だくさんの女が、打ちしおれてしまいます。

主は殺し、また生かします。よみに下し、また引き上げます。

主は貧しくし、また富ませ、低くし、また高くします。

主は、弱い者をちりから起こし、貧しい者をあくたから引き上げ、高貴な者とともに座らせ、彼らに栄光の座を継がせます。まことに、地の柱は主のもの。その上に主は世界を据えられました。

主は敬虔な者たちの足を守られます。しかし、悪者どもは、闇の中に滅び失せます。人は、自分の能力によっては勝てないからです。

主は、はむかう者を打ち砕き、その者に天から雷鳴を響かせられます。主は地の果ての果てまでさばかれます。主が、ご自分の王に力を与え、主に油注がれた者の角を高く上げてくださいますように。」

エルカナはラマにある自分の家に帰った。幼子は、祭司エリのもとで主に仕えていた。

 

これはハンナの祈り、あるいは賛歌です。サムエルが乳離れしたとき、ハンナは子牛3頭、小麦粉1エパ、ぶどう酒の皮袋一つを携えてサムエルを伴い、シロにある主の家に上りました。サムエルを主にささげるためです。その時ハンナは主を賛美して祈りました。彼女は、まず、主にあって大いに喜びました。「私の心は主にあって大いに喜び、私の角は主によって高く上がります。私の口は敵に向かって大きく開きます。」と言いました。「角」とは、力の象徴です。ハンナは、主によって力が与えられていることを誇っているのです。「私の口は敵に向かって大きく開きます」とは、敵に対しの勝利の宣言です。なぜ彼女はそんなにも主の力を喜び、主の勝利をほめたたえたのでしょうか。それは彼女が主の救いを喜んでいたからです。この場合の救いとは、直接的には不妊から解放されたことを指しています。彼女は、不妊のゆえにずっと苦しんできました。それが今、主によって解放されたのです。つまり、ハンナは主によって力が与えられ、主によって問題から解放されたことを喜んでいるのです。ただ息子が与えられたことを誇っているのではなく、それを可能にしてくださった主ご自身を喜び、ほめたたえているのです。時として私たちは祈りが叶えられると、そのことを喜んでもそれを可能にしてくださった主を忘れてしまうことがあります。大切なのは、与えられた恵み以上に、それを与えてくださった方を喜び、ほめたたえることです。

 

次にハンナは、主がどれほど偉大な方なのかを述べています。2節、「主のように聖なる方はいません。まことに、あなたのほかにはだれもいないのです。私たちの神のような岩はありません。」(2)

それは、主のように聖なる方はいないということ、また、主に比べ得る神など他にはいないということ、そして、神のような「岩」はいないということです。この「岩」とは、力強い方という意味です。詩篇18:2-3には、「主はわが巌 わが砦 わが救い主 身を避けるわが岩 わが神。わが盾 わが救いの角 わがやぐら。ほめたたえられる方。この主を呼び求めると 私は敵から救われる。」とあります。 この主を呼び求めると、私は敵から救われます。なぜなら、主は、わが岩、わが砦、わが救い主、身を避けるわが岩であられるお方だからです。圧倒的な力と栄光に満ちたお方だからです。あなたはどこに身を避けていますか。私たちが身を避けるべきお方は、この岩なる神なのです。

 

3節は、警告です。人はこの主の前で高ぶったり、横柄なことばを口にしてはなりません。なぜなら、主はすべてを知っておられる神だからです。「そのみわざは測りしれません」の意味が不明です。「その」という言葉は原文にはないからです。おそらくここでは、表面的にだまされることのない全地の神による「測り」つまり、神の審判が語られていると思われます。

口語訳ではここを、「あなたがたは重ねて高慢に語ってはならない、高ぶりの言葉を口にすることをやめよ。主はすべてを知る神であって、もろもろのおこないは主によって量られる。」と訳しています。

最も原文に近い意味としては、新共同訳の訳ではないかと思われます。新共同訳では、「驕り高ぶるな、高ぶって語るな。思い上がった言葉を口にしてはならない。主は何事も知っておられる神、人の行いが正されずに済むであろうか。」と訳しています。つまり、主は正しくさばかれる方であるということです。だからおごり高ぶったり、横柄なことばを口にしてはならないのです。

 

4節と5節では、主がもたらす人生の逆転劇について語っています。勇士が弓を砕かれとは、弱い者とされることを意味しています。逆に、弱い者が力を帯びるようになります。パンに満ち足りていた者が雇われるようになり、逆に飢えていた者が満ち足りるようになるのです。不妊の女が七人の子を産むようになり、逆に、子だくさんの女が、打ちしおれてしまいます。これはハンナとペニンナのことを指しているのでしょう。ハンナにはサムエルを含めて6人の子どもが与えられましたが、ここに「七人の子」とあります。それはそれが完全数であり、多くの子を意味する言葉として用いられているからです。また、子だくさんであったペニンナは、ハンナに子が与えられることによって打ち砕かれてしまいました。

 

6節には、生と死の逆転が見られます。また、7節と8節では、貧富の逆転について語られています。ここに出てくる「ちり」「あくた」は、貧しい乞食がたむろする場所でした。主はそのような者に、栄光の座を継がせます。

「まことに、地の柱は主のもの。その上に主は世界を据えられました。」とは、この世界が主によって保たれていることを表しています。これがこの世の常識と、歴史の通念を破るどんでん返しが起こされる根拠です。

 

9節と10節をご覧ください。聖徒たちに対する神の守りと、悪者に対する神のさばきが預言されています。主は、はむかう者を打ち砕き、その者に天から雷鳴を響かせられます。主は地の果て果てまでさばき、ご自分の王に力を授け、主に油そそがれた者の角を高く上げられます。これはやがてキリストが再臨され、諸国の軍隊を打ち砕き、国々をさばかれるという預言です。「主に油注がれた者」とありますが、これが「メシヤ」ということばです。聖書の中でここに初めて出てきます。ハンナは、霊的暗黒の中にあるイスラエルを救い出すために立てられるサムエルのことを意識して語ったのでしょうが、それは究極的に世を救われる方の預言も語っていたのです。

 

Ⅱ.祭司エリの息子たち(12-21)

 

次に12節から17節までをご覧ください。

「 さて、エリの息子たちはよこしまな者たちで、主を知らなかった。民に関わる祭司の定めについてもそうであった。だれかが、いけにえを献げていると、まだ肉を煮ている間に、祭司の子弟が三又の肉刺しを手にしてやって来て、これを大鍋や、釜、大釜、鍋に突き入れ、肉刺しで取り上げたものをみな、祭司が自分のものとして取っていた。このようなことが、シロで、そこに来るイスラエルのすべての人に対してなされていた。そのうえ、脂肪が焼かれる前に祭司の子弟がやって来て、いけにえを献げる人に「祭司に焼くための肉を渡しなさい。祭司は煮た肉をあなたから受け取らない。生の肉だけだ」と言うので、人が「まず脂肪をすっかり焼いて、好きなだけお取りください」と言うと、祭司の子弟は、「いや、今渡すのだ。でなければ、私は力ずくで取る」と言った。」

 

祭司エリの息子たちはよこしまな者たちで、主を知りませんでした。 主を知らないとは、救われていないということで、主と個人的な交わりがなかったことを意味しています。そういう人が祭司の務めをしていました。これは悲劇です。それはちょうど新生していない人が、牧師や伝道者になるようなもので、大変不幸なことです。彼らの特徴は「よこしまな者」であったということです。よこしまな者とは、主の律法に従って祭司の務めをしていたのではなく、自分の思いや考えによって勝手にそれを行っていたということです。

 

13節から16節までのところに、彼らがいかによこしまであったかが描かれています。まず彼らは、和解のいけにえの中から、祭司の取り分けられていた胸肉ともも肉だけで満足せず、だれかがいけにえをささげていると、まだ肉を煮ている間なのに、子弟に三又の肉刺しを手に持たせて遣わし、肉を奪っていたのです。そればかりではありません。脂肪は焼いて煙にすることが律法の求めていたことでしたが、その前に子弟を遣わして、生の肉さえもを要求したのです。煮た肉よりも生の肉を焼いて食べた方が美味しいからです。

 

こうして彼らは、主へのささげ物を侮りました。和解のいけにえは、本来、罪人が神との関係を回復するための恵みの手段として、神から与えられたものです。その手段を侮るなら、もうそこには罪が赦される道は残されていないことになります。これは、罪人を悔い改めに導く聖霊の働きを拒み、聖霊を冒涜する罪と同じです。それは、イエス様がマルコ3:28-29で言われたことと同じです。

「まことに、あなたがたに言います。人の子らは、どんな罪も赦していただけます。また、どれほど神を冒?することを言っても、赦していただけます。しかし聖霊を冒?する者は、だれも永遠に赦されず、永遠の罪に定められます。」

彼らの問題は、主を知らなかったということ、つまり、霊的に生まれ変わっていなかったことです。私たちは今、神の恵みにより、キリスト・イエスの贖いを信じることによって新しく生まれ変わった者であることを感謝しましょう。そして、さらに深く主を知ることができるように、主を知ることを切に追い求める者になりましょう。バプテスマ(洗礼)を受けてクリスチャンになったということは感謝なことですが、そこに留まっているだけでなく、そこから一歩進みさらに主を知る者となるために、日々みことばを読み、祈り、主との交わりを持たせていただきましょう。私たちはどちらかというと、何かすることに関心が向きがちですが、主が求めておられることは、私たちが何かすることよりも、主ご自身を知ることであるということを覚えましょう。良いわざは、そこから生まれてくるからです。

 

一方、主にささげられたサムエルはどうだったでしょうか。18節から21節までをご覧ください。

「さてサムエルは、亜麻布のエポデを身にまとった幼いしもべとして、主の前に仕えていた。彼の母は彼のために小さな上着を作り、毎年、夫とともに年ごとのいけにえを献げに上って行くとき、それを持って行った。エリは、エルカナとその妻を祝福して、「主にゆだねられた子の代わりとして、主が、この妻によって、あなたに子孫を与えてくださいますように」と言い、彼らは自分の住まいに帰るのであった。主はハンナを顧み、彼女は身ごもって、三人の息子と二人の娘を産んだ。少年サムエルは主のみもとで成長した。」

 

祭司エリの息子たちとは対照的に、サムエルは、忠実に主に仕えていました。彼はまだ少年でしたが、自分にできる範囲で主の前に仕えていたのです。「亜麻布のエポデ」は、祭司が身にまとう衣服です。彼は、自分が主に仕えるしもべとしての自覚をしっかり持っていたのです。

彼の母ハンナは、夫とともに、毎年、年ごとのいけにえを献げるために宮に上って行きましたが、その度に息子サムエルのために小さな上着を作り持っていきました。サムエルも育ち盛りだったのでしょう。年ごとに大きく成長していったので、サイズも大きくなっていったのです。

 

主は、そんな忠実なエルカナとその妻ハンナを祝福し、「主にゆだねられた子の代わりとして、主が、この妻によって、あなたに子孫を与えてくださいますように」と祈りました。すると主はその祈りに答えてくださりハンナを顧みて、彼女に3人の息子と2人の娘を与えてくださいました。サムエル以外に、5人の子どもが与えられたということです。サムエルを主の働きのためにささげたハンナは、主からその5倍もの祝福を受けたことになります。主にささげられたサムエルは、主のみもとですくすくと成長していきました。

 

Ⅲ.警告とさばき(22-36)

 

最後に22節から36節まで見て終わりたいと思います。まず26節までをご覧ください。

「さて、エリはたいへん年をとっていたが、息子たちがイスラエル全体に行っていることの一部始終を、それに彼らが会見の天幕の入り口で仕えている女たちと寝ていることを聞いていた。それでエリは彼らに言った。「なぜ、おまえたちはそんなことをするのか。私はこの民の皆から、おまえたちのした悪いことについて聞いているのだ。息子たちよ、そういうことをしてはいけない。私は主の民が言いふらしているうわさを聞くが、それは良いものではない。人が人に対して罪を犯すなら、神がその仲裁をしてくださる。だが、主に対して人が罪を犯すなら、だれがその人のために仲裁に立つだろうか。」しかし、彼らは父の言うことを聞こうとしなかった。彼らを殺すことが主のみこころだったからである。一方、少年サムエルは、主にも人にもいつくしまれ、ますます成長した。」

 

再び、エリの息子たちの悪い行いと、それに対するエリの叱責が記されます。エリはたいへん年をとっていましたが、息子たちがイスラエル全体で行っていることの一部始終を、そして彼らが会見の天幕の入口で仕えている女たちと寝ていることを聞きました。彼らは和解のいけにえに関して大きな罪を犯していましたが、そればかりか、不品行の罪も犯していたのです。

 

それに対して父親であるエリは叱責の言葉を語ります。「なぜ、おまえたちはそんなことをするのか。私はこの民の皆から、おまえたちのした悪いことについて聞いているのだ。息子たちよ、そういうことをしてはいけない。私は主の民が言いふらしているうわさを聞くが、それは良いものではない。人が人に対して罪を犯すなら、神がその仲裁をしてくださる。だが、主に対して人が罪を犯すなら、だれがその人のために仲裁に立つだろうか。」

その言葉には力がなく、息子たちを悔い改めに導くことはできませんでした。人が人に対して罪を犯すなら神がその仲裁をしてくださいますが、主に対して罪を犯すなら、だれもその人のために仲裁に立つことができません。しかし、彼らは父親の言葉に耳を傾けようとはしませんでした。彼らを殺すことが主のみこころだったからです。

子供を育てるということは本当に難しいですね。親の考えがなかなか伝わりません。でもそのような中でも幼い時からしっかり育てていくなら、大きくなった時でもしっかりと立つことができます。大きくなってからでは遅いのです。幼い時ほど厳格に、そして成長とともにより緩やかにしていき、やがて自分で判断できるようにその範囲を広げていくことが望ましいのです。これは真実です。成人してから欠点を矯正しようとしても、それは困難なのです。鉄は熱いうちに打たなければなりません。エリの息子たちはもう手遅れだったのです。

 

一方、少年サムエルは、主にも人にも愛され、ますます成長していきました。この表現は、イエス様が成長していったに使われたものと同じです。ルカ2:52には、「イエスは神と人とにいつくしまれ、知恵が増し加わり、背たけも伸びていった。」とあります。これは霊的幼子である私たちにも言えることです。私たちもエリの子供たちのように頑なにならないで、サムエルのように、神と人に愛される人になるために、主にあって成長していきたいものです。

 

27節から36節までをご覧ください。

「神の人がエリのところに来て、彼に言った。「主はこう言われる。あなたの父の家がエジプトでファラオの家に属していたとき、わたしは彼らに自分を明らかに現したではないか。わたしは、イスラエルの全部族からその家を選んでわたしの祭司とし、わたしの祭壇に上って香をたき、わたしの前でエポデを着るようにした。こうして、イスラエルの子らの食物のささげ物をすべて、あなたの父の家に与えた。なぜあなたがたは、わたしが命じたわたしへのいけにえ、わたしへのささげ物を、わたしの住まいで足蹴にするのか。なぜあなたは、わたしよりも自分の息子たちを重んじて、わたしの民イスラエルのすべてのささげ物のうちの、最上の部分で自分たちを肥やそうとするのか。それゆえ──イスラエルの神、主のことば──あなたの家と、あなたの父の家は、永遠にわたしの前に歩むとわたしは確かに言ったものの、今や──主のことば──それは絶対にあり得ない。わたしを重んじる者をわたしは重んじ、わたしを蔑む者は軽んじられるからだ。見よ、その時代が来る。そのとき、わたしはあなたの腕と、あなたの父の家の腕を切り落とす。あなたの家には年長者がいなくなる。イスラエルが幸せにされるどんなときにも、あなたはわたしの住まいの衰退を見るようになる。あなたの家には、いつまでも、年長者がいない。わたしは、あなたのために、わたしの祭壇から一人の人を断ち切らないでおく。そのことはあなたの目を衰えさせ、あなたのたましいをやつれさせる。あなたの家に生まれてくる者はみな、人の手によって死ぬ。あなたの二人の息子、ホフニとピネハスの身に降りかかることが、あなたへのしるしである。二人とも同じ日に死ぬ。わたしは、わたしの心と思いの中で事を行う忠実な祭司を、わたしのために起こし、彼のために確かな家を建てよう。彼は、わたしに油注がれた者の前をいつまでも歩む。あなたの家の生き残った者はみな、銀貨一枚とパン一つを求めて彼のところに来てひれ伏し、『どうか、祭司の務めの一つでも私にあてがって、パンを一切れ食べさせてください』と言う。」」

 

ここには、祭司エリの二人の息子たちに対するさばきが告げられています。神の人がエリのところに来て、そのさばきを告げます。28節の「その家」とは、エリの家系のことです。神は、イスラエル全部族の中からアロンの家系を選んで祭司としました。それは特別な祝福でした。他の11の部族は相続地が与えられましたが、彼らには与えられませんでした。なぜなら、主ご自身が彼らの相続地であったからです。それにも関わらず彼らは、その特別な祝福を台無しにしました。彼らは、主へのささげものを軽くあしらいました。また、エリは主ご自身よりも自分の息子たちを重んじて、それを見過ごしていました。そして、彼らは、イスラエルの民がささげるいけにえの最上の部分で、私服を肥やしたのです。

 

それゆえ、神のさばきが下ります。それは、エリの家系が大祭司として主に仕えることがなくなるということです。彼の氏族は衰退を見るようになります。そして、彼の二人の息子ホフニとピネハスは、同じ日に死ぬのです。これは、イスラエル軍がペリシテ軍に打ち負かされ、神の箱が奪われた時に成就します。その時、二人の息子は戦死します(Ⅰサムエル4:10-11)。また、神の箱が奪われたという知らせを受けたエリも、席から落ち、首を折って死にました(Ⅰサムエル4:12-18)。この時、エリは98歳でした。

 

アロンの家系が大祭司として仕えるというのが、神の約束でした。しかし、エリと二人の息子が神に従わなかったので、その一つの氏族が断ち切られることになったのです。結局、エリの家系が没落して後、大祭司職はエルアザル氏族に引き継がれます。アロンにはナダブ、アビフ、エルアザル、イタマルという4人の息子がいましたが、ナダブとアビブは規定に反したことによって死に、今、イタマルの氏族であるアロンの家系も没落してしまいました。残されたのはエルアザル氏族だけです。この氏族もアロンの家系に属していたので、アロンの氏族が祭司になるという神の約束は、保たれました。

 

このように、エリの家系が滅ぼされたのは、彼らが主を軽んじたからです。主は、「わたしを重んじる者をわたしは重んじ、わたしを蔑む者は軽んじられるからだ。」(30)と言われました。あなたはどうでしょうか。この原則は、昔も今も、また永遠に至るまで適用されるものです。家族を大切にすることは重要なことです。しかし、そのために主を軽んじることがあってはなりません。主に救われた者として私たちが何よりも優先しなければならないことは、主を愛し、主を恐れ、主に従うことなのです。

Ⅰサムエル記1章

きょうから、サムエル記第一を学んでいきたいと思います。きょうはその第1章です。

 

Ⅰ.ハンナの痛み(1-8)

 

まず、1~8節までをご覧ください。

「エフライムの山地ラマタイム出身のツフ人の一人で、その名をエルカナという人がいた。この人はエロハムの子で、エロハムはエリフの子、エリフはトフの子、トフはエフライム人ツフの子であった。エルカナには二人の妻がいた。一人の名はハンナといい、もう一人の名はペニンナといった。ペニンナには子がいたが、ハンナには子がいなかった。この人は、毎年自分の町から上って行き、シロで万軍の主を礼拝し、いけにえを献げることにしていた。そこでは、エリの二人の息子、ホフニとピネハスが主の祭司をしていた。そのようなある日、エルカナはいけにえを献げた。彼は、妻のペニンナ、そして彼女のすべての息子、娘たちに、それぞれの受ける分を与えるようにしていたが、 ハンナには特別の受ける分を与えていた。主は彼女の胎を閉じておられたが、彼がハンナを愛していたからである。また、彼女に敵対するペニンナは、主がハンナの胎を閉じておられたことで、彼女をひどく苛立たせ、その怒りをかき立てた。そのようなことが毎年行われ、ハンナが主の家に上って行くたびに、ペニンナは彼女の怒りをかき立てるのだった。こういうわけで、ハンナは泣いて、食事をしようともしなかった。夫エルカナは彼女に言った。「ハンナ、なぜ泣いているのか。どうして食べないのか。どうして、あなたの心は苦しんでいるのか。あなたにとって、私は十人の息子以上の者ではないか。」

 

舞台は、エフライムの山地です。ラマタイム出身のツフ人の一人で、エルカナという人がいました。第三版には「エフライムの山地ラマタイム・ツォフィムに、その名をエルカナというひとりの人がいた。」とあります。こちらの方がわかりやすいですね。「ラマタイム・ツォフィム」とは「ラマ」のことです。ですから、エフライムのラマという町にエルカナという人がいたとなります。

彼には二人の妻がいました。一人は「ハンナ」といい、もう一人は「ペニンナ」といいました。「ハンナ」とは「恵み」という意味があります。また、「ペニンナ」という名には「真珠」という意味があります。なぜエルカナには二人の妻がいたのでしょうか。当時の習慣や律法の教えを考慮すると、ハンナに子が与えられていなかったので、さらにペニンナを妻として迎えたのではないかと考えられます。というのは、当時、不妊であるというのは、神ののろいが下ったものと考えられていたからです。申命記7章14節にこうあります。

「あなたはあらゆる民の中で最も祝福される。あなたのうちには、子のいない男、子のいない女はいなくなる。あなたの家畜も同様である。」

それはハンナの存在価値を失わせるようなことでした。それで夫のエルカナは、ハンナによって得られなかった子供をペニンナによって得ようとしたのではないかと思われます。それはハンナのことを思ってのことです。

 

しかし、すべての不妊がそうなのではありません。神の時が来るまで、一時的に不妊の状態に置かれた婦人たちもいました。ハンナはその良い例です。また、神によってあえてそのような状態に置かれる場合もあります。その場合、たとえば、子供がいてはできないような奉仕に導かれることがあります。ですから、すべての不妊が神ののろいによるのではありません。人間的に不幸と思えることの背後にも、神の深いご計画があることを覚えておかなければならないのです。

 

では、ハンナの場合はどうだったのでしょうか。神は彼女にどんなご計画を持っておられたのでしょうか。3節には、「この人は、毎年自分の町から上って行き、シロで万軍の主を礼拝し、いけにえを献げることにしていた」とあります。

イスラエル人の男性は、年に3度、主の宮に上って、主を礼拝し、いけにえを捧げるように命じられていました。エルカナは神に対して非常に忠実な人であったので、毎年シロに上り、主を礼拝し、いけにえをささげていたのです。そして、そのいけにえの中から自分の受ける分を取り、家族とともに祝いの食事をしていました。ここには「受ける分」とあります。これは、和解のいけにえをささげる場合に行なわれときにささげる者が受ける分のことです。祭壇でいけにえを焼くとき、脂肪分は完全に焼き、それを主のものとしてささげると、胸と右肩の肉は祭司のものとなりました。そして残りがそのささげた人のものとなるわけですが、それがその「受ける分」です。これを共に食べることによって、神と交わりを持つことができるとされていました。

エルカナは、妻のペニンナとその息子たちと娘たち全員に、それぞれ受ける分を与えるようにしていましたが、ハンナには特別の受ける分を与えていました。この「特別の受ける分」とは、下の欄外の説明にあるように、直訳では「二つの鼻」のことです。これは2倍の量、あるいは最良の部分を意味します。それを与えていたのです。それは、彼女の胎が閉ざされていましたが、彼がハンナを愛していたからです。おそらく、不妊で苦しむ彼女を慰め、自分の愛を伝えたかったのでしょう。また、もう一人の妻ペニンナが、主がハンナの胎を閉じておられたことで、彼女をひどく苛立たせているのを見て、慰めようとしたのだと思います。

 

しかし、そのようなことが毎年行われるので、ハンナが主の宮に上って行くたびに、悲しみのあまり、主との交わりである特別の食事でさえ喉が通らなくなりました。そこで夫のエルカナは、ハンナを励ますためにこう言いました。「ハンナ、なぜ泣いているのか。どうして食べないのか。どうして、あなたの心は苦しんでいるのか。あなたにとって、私は十人の息子以上の者ではないか。」つまり、あなたは私の愛を得ているのだから、それは10人の息子を得る以上のことではないか。だからがっかりしなくてもいい、と言っているのです。だったらなぜペニンナを妻にしたのか、と言いたくなるところですが、彼は自分にできる限りの愛をもって彼女を励まそうとしているのです。彼は自分の存在は彼女のためであり、そのすべてを得ていることが彼女の癒しになると考えていたのです。

彼の存在が10人の息子以上の者であるかどうかはわかりませんが、間違いなく言えることは、私たちの主イエスの存在は、息子10人以上の価値があるどころか、私たちの心の痛みを完全に癒すことができるということです。私たちの心の痛みや嘆きは、エルカナ以上のお方、私たちの主イエス・キリストによって完全に癒されるのです。パウロはピリピ人への手紙の中で、「私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてのことを損と思っています。」(ピリピ3:8)と言っています。キリストを知っているということは、すべてを得ていることなのです。ですから、私たちにもハンナのような痛みやイライラがあるかもしれませんが、息子10人にもまさる方、いや、すべてのすべてであられるイエス様が与えられていることを感謝し、この方を見上げながら前進しようではありませんか。

 

Ⅱ.ハンナの祈り(9-20)

 

次に9節から20節までをご覧ください。11節までを読みます。

「シロでの飲食が終わった後、ハンナは立ち上がった。ちょうどそのとき、祭司エリは主の神殿の門柱のそばで、椅子に座っていた。ハンナの心は痛んでいた。彼女は激しく泣いて、主に祈った。 そして誓願を立てて言った。「万軍の主よ。もし、あなたがはしための苦しみをご覧になり、私を心に留め、このはしためを忘れず、男の子を下さるなら、私はその子を一生の間、主にお渡しします。そしてその子の頭にかみそりを当てません。」

 

さて、シロでいけにえをささげ、食事が終わると、ハンナが立ち上がりました。ただ立ち上がったということではありません。主の宮に行って祈るために立ち上がったのです。彼女の心は痛んでいました。それで彼女は主の宮で激しく泣き、心を注いで祈ったのです。祭司エリは、その様子を主の宮の門のそばで、椅子に座って見ていました。

ハンナは誓願を立てて言いました。「もし神がはしためを顧みてくださり、男の子を与えてくださるのなら、その子を一生涯、主にお渡しします。そしてその子の頭にかみそりをあてません。」これはナジル人の誓願です。(民数記6:5)士師記に登場したサムソンも生まれながらのナジル人でした。この両者の違いは、サムエルは母の誓願によってナジル人になったのに対して、サムソンは神の命令によってナジル人になったという点です。聖書には、生まれながらのナジル人として登場する人が3人います。このサムエルとサムソン、そして、バプテスマのヨハネです。主はこのような祈りを通して、ご自身のみわざを現そうとしていたのです。

 

ヨハネ第一の手紙5章14節には、「何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。」とあります。主が人の心に、ご自分の願いを起こされます。そして、神がその祈りを聞かれることによって、ご自分のわざをその祈った人を通して行なわれます。祈りは、私たちの願いではなく、神のみこころがこの地上で行なわれるための手段なのです。

 

詩篇50篇15節には、「苦難の日にわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出しあなたはわたしをあがめる。」とあります。ハンナの祈りに答えてくださった神に、私たちも祈る特権が与えられています。私たちも、私たちを苦難から助け出してくださる主に、心を注いで祈ろうではありませんか。

 

次に12節から18節までをご覧ください。

「ハンナが主の前で長く祈っている間、エリは彼女の口もとをじっと見ていた。ハンナは心で祈っていたので、唇だけが動いて、声は聞こえなかった。それでエリは彼女が酔っているのだと思った。 エリは彼女に言った。「いつまで酔っているのか。酔いをさましなさい。」ハンナは答えた。「いいえ、祭司様。私は心に悩みのある女です。ぶどう酒も、お酒も飲んではおりません。私は主の前に心を注ぎ出していたのです。このはしためを、よこしまな女と思わないでください。私は募る憂いと苛立ちのために、今まで祈っていたのです。」エリは答えた。「安心して行きなさい。イスラエルの神が、あなたの願ったその願いをかなえてくださるように。」彼女は、「はしためが、あなたのご好意を受けられますように」と言った。それから彼女は帰って食事をした。その顔は、もはや以前のようではなかった。」

 

ハンナは主の前で長く祈っていましたが、それは言葉に出さずに心の中で祈っていたので、唇だけが動いていただけで、声は聞こえませんでした。そこでそれを見ていた祭司エリは、彼女がぶどう酒を飲んで酔っているのだと思ってこう言いました。「いつまで酔っているのか。酔いをさましなさい。」

 

するとハンナは、自分が酔っているのではなく、心に悩みがあるので、主の前に心を注いで祈っていると説明しました。

 

それを聞いたエリは、「安心して行きなさい。イスラエルの神が、あなたの願ったその願いがかなえてくださるように。」と言いました。これは祈りなのか、それとも預言なのか、あるいは単なるあいさつなのかわかりません。しかし、それがどのようなものであったとしても、彼女はそれを神からの約束の言葉として信じて受け取りました。このように信仰によって神の約束を受け取ることが重要です。「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」(へブル11:6)とあるからです。

 

彼女はどれほどうれしかったでしょう。そのうれしさは、18節の次の言葉によく表されています。「それから彼女は帰って食事をした。その顔は、もはや以前のようではなかった。」

彼女は、祭司エリを通して語られた主の言葉を信じて、帰路に着きました。すると、食事が喉を通り、その表情も以前のように悲しみに満ちたものではなくなりました。これが心を注ぎだす祈りをした結果です。彼女の顔は変わりました。祈りは周りの状況を変える前に、自分の内面を変えるのです。たましいの創造者に自分を任せることができるようになるからです。

 

19節、20節をご覧ください。主は彼女の内面を変えただけでなく、その実際的な必要にも応えてくださいました。「彼らは翌朝早く起きて、主の前で礼拝をし、ラマにある自分たちの家に帰って来た。エルカナは妻ハンナを知った。主は彼女を心に留められた。年が改まって、ハンナは身ごもって男の子を産んだ。そして「私がこの子を主にお願いしたのだから」と言って、その名をサムエルと呼んだ。」

 

ここの「知った」というのは、もちろん夫婦関係を持った、ということです。そして主が彼女を心に留めておられたので、彼女は身ごもって男の子を産みました。それが「サムエル」です。「サムエル」とは、「神が聞いてくださった」という意味です。ハンナは、自分の祈りが聞かれたことをいつまでも覚えておくために、自分の息子に「サムエル」という名前を付けたのです。あなたは自分の人生の中で主が祈りをきかれ、あなたに良くしてくださったことを、どのように覚えておられますか。今もう一度、主の恵みを思い起こして、主の御名をほめたたえましょう。

 

Ⅲ.子どもを主にささげたハンナ(21-28)

 

最後に21節から28節まで見て終わりたいと思います。

「夫のエルカナは、年ごとのいけにえを主に献げ、自分の誓願を果たすために、家族そろって上って行こうとした。しかしハンナは、夫に「この子が乳離れして、私がこの子を連れて行き、この子が主の御顔を拝して、いつまでもそこにとどまるようになるまでは」と言って、上って行かなかった。 夫のエルカナは彼女に言った。「あなたが良いと思うようにしなさい。この子が乳離れするまでとどまりなさい。ただ、主がそのおことばを実現してくださるように。」こうしてハンナはとどまって、その子が乳離れするまで乳を飲ませた。その子が乳離れしたとき、彼女は子牛三頭、小麦粉一エパ、ぶどう酒の皮袋一つを携えてその子を伴って上り、シロにある主の家に連れて行った。その子はまだ幼かった。彼らは子牛を屠り、その子をエリのところに連れて行った。ハンナは言った。「ああ、祭司様。あなたは生きておられます。祭司様。私はかつて、ここであなたのそばに立って、主に祈った女です。この子のことを、私は祈ったのです。主は私がお願いしたとおり、私の願いをかなえてくださいました。それで私もまた、この子を主におゆだねいたします。この子は一生涯、主にゆだねられたものです。」こうして彼らはそこで主を礼拝した。」

 

夫のエルカナは、毎年主の宮に上ることを習慣としていました。しかし、息子が誕生するとハンナは、上って行くことを拒みました。それは彼女が幼子を主にささげたくなかったからではなく、幼子が乳離れするまではその子を手元に置き、それから主の働きのためにささげようとしたからです。当時の習慣では、幼子が乳離れをするのは大体3歳くらいであったようです。夫のエルカナはその申し出を受け入れました。

ですから、サムエルは人生の基礎づくりとなる3年間を敬虔な母親の下で、母親の愛によって育てられることになるわけです。それはやがて信仰の偉人となるサムエルにとっては、欠かせないことでした。昔モーセも乳離れするまで実母の下で育てられたことを覚えていますか。それによって彼はへブル人としてのアイデンティティーをしっかりと持つことができました。同じように、サムエルも信仰と祈りに満ちた母ハンナに育てられることによって、将来主のために用いられる礎をしっかりと築くことができたのです。それにしても、敬虔な母親によって育てられた人は、何と幸いでしょうか。

 

古代キリスト教の偉大な神学者の一人アウグスティヌスも、敬虔な母モニカによって育てられました。16歳の時からカルタゴで修辞学を学んだアウグスティヌスは、19歳で母の同意もなく同棲し2人の子供をもうけます。常に襲い来る肉の誘惑と自分が描く理想の姿とのギャップに苦しむアウグスティヌスは、善悪二元論を唱えるマニ教に帰依して、ますます神様から離れていきます。心配した母モニカは、主教のアンブロシウスに相談しました。アンブロシウスは、「安心して帰りなさい。涙の子は決して滅びることはない。」と言って励ましました。モニカは、息子のために、涙を流して何年も熱心に祈り続けました。そして、天に召される1年前に、モニカの祈りは答えられたのです。すでに32歳になっていたアウグスティヌスが、アンブロシウスによってバプテスマを受けると、モニカは、「私がこの世に少しでも生き永らえたいと思った望みは、一つだけでした。それは死ぬ前に、クリスチャンになったあなたを見ることでした」といって喜んだということです。そしてアウグスティヌスは、やがて初期キリスト教会最大の思想家といわれるほどになったのです。

このことからも、幼児期の信仰の教育がどれほど重要であるかがわかります。それと、涙の祈りが・・。最近は、母親が毎日忙しく子どもとの時間がとりにくい時代になりました。しかし、三つ子の魂百までも、ということわざがあるように、3歳までの幼児教育は、その後のその子の人生にって大きな影響をもたらすということを考えると、まず自分自身がしっかりと主に向き合い、そして自分の子どもに向き合うことがいかに重要であるかを思い知らされます。

 

24節をご覧ください。いよいよその子が乳離れする時がやって来ます。ハンナは子牛3頭、小麦粉1エパ、ぶどう酒の革袋1つを携えてその子を伴って上り、シロにある主の家に連れて行きました。

ハンナは祭司エリに、自分は息子を一生涯主に捧げるが、それは主に約束したとおりであると伝えます。26節から28節にある彼女の言葉に注目してください。ここで彼女は、自分がかつてエリのそばで祈った女であること、そして、その祈りのとおりに、主は彼女の願いをかなえてくださったということ、それゆえに彼女もまた、その子を主におゆだねする、と言っています。つまり、彼女がその子を主におゆだねするのは、主が彼女にその子を与えてくださったからです。私たちも何かを主にささげるのは、主から与えられているからです。主から与えられていないものをささげることなどありません。

 

こうしてサムエルは、生涯ナジル人として主に仕えることになります。そして彼はやがて、イスラエルを導く偉大な祭司、預言者、士師となるのです。ここに王制がスタートすることになります。彼はその王に油を注ぐ任務が与えられます。重大な使命を担う訓練が、ここに始まりました。すべてはこのハンナの祈りから始まりました。祈り深い母の影響力が、いかな大きいかということを痛感させられます。