出エジプト記28章

今日は、出エジプト記28章から学びます。これまで幕屋の建築について見てきましたが、28章と29章には祭司について書かれています。その幕屋で人がどのように奉仕するのか、その奉仕者である祭司について学びます。今日は前半部分28章です。

Ⅰ.祭司として仕えさせよ(1-3)

まず1~3節までをご覧ください。

「1 あなたは、イスラエルの子らの中から、あなたの兄弟アロンと、彼とともにいる彼の息子たちのナダブとアビフ、エルアザルとイタマルをあなたの近くに来させ、祭司としてわたしに仕えさせよ。2 また、あなたの兄弟アロンのために、栄光と美を表す聖なる装束を作れ。3 あなたは、わたしが知恵の霊を満たした、心に知恵ある者たちに告げて、彼らにアロンの装束を作らせなさい。 彼を聖別し、祭司としてわたしに仕えさせるためである。」

ここにはアロンとその子たちを祭司として仕えさせるようにとあります。祭司とは、簡単に言えば、神と人との仲介者のことで、神の幕屋に仕える人たちのことです。神に対して、祭司は人を代表します。とりなしの祈りをしたりすることは、祭司の務めです。そして人に対しては、神の祝福や恵みやいやしを分け与える神の代表者でもあります。祭司の働きによって、イスラエル人は神に近づくことができました。この祭司もイエス・キリストの型であり、イエス・キリストのことを表していました。イエス・キリストこそまことの大祭司です。ですから、この祭司について学ぶとキリストがどのような方であるのかがわかるのです。

モーセの兄アロンと彼の子どもたちが祭司として任じられました。何のためでしょうか。主に仕えるためです。ここには、「祭司としてわたしに仕えさせよ。」とあります。主に仕えるということは何か主のために特別のことをすることではなく、主が命じられたことを行うことです。

2節をご覧ください。ここには「あなたの兄弟アロンのために、栄光と美を表す聖なる装束を作れ」とあります。大祭司は、栄光と美を表す聖なる装束を着なければいけませんでした。普通の服装では聖所に入ることができなかったのです。なぜでしょうか。それは、イエス・キリストを表していたからです。イエス・キリストによらなければ、だれも神に近づくことはできません。ヘブル1:3には、「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり」とありますが、栄光と美を表す聖なる装束は、この栄光のキリストを表していたのです。そのために、主が知恵の霊を満たした、心に知恵ある人たちが用いられました。

Ⅱ.大祭司の装束(4-39)

4-39節までに、栄光と美を表す聖なる装束がどのようなものであったかが記されてあります。まず、4-5節をご覧ください。

「4 彼らが作る装束は次のとおりである。胸当て、エポデ、青服、市松模様の長服、かぶり物、飾り帯。彼らは、あなたの兄弟アロンとその子らが、祭司としてわたしに仕えるために、 聖なる装束を作る。5 彼らは、金色、青、紫、緋色の撚り糸、それに亜麻布を受け取る。6 彼らに、金色、青、紫、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を用いて、意匠を凝らしてエポデを作らせる。」

彼らは大祭司のために、胸当て、エポデ、青服、市松模様の長服、かぶり物、飾り帯を作らなければなりませんでした。なぜなら、それはイエス・キリストを指し示していたからです。大祭司はそのままの姿で、神のみもとに近づくことはできませんでした。また、自分を良くすることによっても、神に近づくことはできませんでした。イザヤ書に、「私たちはみな、汚れた者のようになり、その義はみな、不潔な衣のようです。私たちはみな、木の葉のように枯れ、その咎は風のように私たちを吹き上げます。」(64:6)とあるように、罪に汚れた者だからです。そのような者が神の幕屋に入って行き、神に近づくことができるのは、イエス・キリストの義を身に着けていなければならないのです。パウロは、「キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです。」(ガラテヤ3:27)と言いました。ですから、イエス・キリストが、私たちにとって聖なる栄光と美の装束です。私たちは、自分の正しさではなく、キリストの完全な義を身にまとうことによって神に近づくことができるのです。

最初はエポデを作りました。これはエプロンのような形をしており、大祭司の胸と腹の部分を覆っていました。その材質は、金色、青、紫、緋色の撚り糸と、亜麻布が用いられていました。金色は何を表していましたか。キリストの神性です。キリストが神であることを表していました。青色は天、神の国ですね。それは、キリストが天から来られた方であることを示していました。紫色は王としてのキリストです。緋色は赤ですが、これはキリストの十字架の血による贖いを表していました。そして亜麻布は白ですが、これはキリストの聖さ、キリストの義を表していました。このエポデはキリストの権威を象徴していたのです。

7-14節をご覧ください。これに二つの肩当てが付けられました。この肩当てはイスラエル12部族を表していました。その肩当てにはそれぞれしまめのうがはめ込まれていて、片方にはイスラエル12部族のうちの6つの部族の名前が、またもう一方には6つの部族の名が記されてありました。つまり、キリストはご自身の民であるイスラエルの12の部族(クリスチャン)を背負ってくださるということです。イザヤ46:3-4には、「胎内にいたときから担がれ、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。背負って救い出す。」とあります。私たちは、大祭司であられる主イエスに担われているのです。ずっと・・。何と感謝なことでしょうか。

8節をご覧ください。ここには「エポデの上に来るあや織りの帯」を作るようにとあります。材料と色はエポデを作る時と同じ色、同じ材料です。すなわち、これもイエス・キリストのことを表していました。この帯は何を象徴していたのでしょうか。出エジプト12:11には、帯を引き締めて、足にくつをはき、急いで行くようにとありますが、それは、着物がはだけないためでした。要するに、働きやすくするために帯を締めるのです。それは、しもべとしてのキリストの姿を象徴していたのです。キリストは仕えるしもべとしてこの世に来てくださいました。そして、この帯がエポデと同じ材質と色で作られなければならなかったのは、権威者であられるキリストとしもべとしてのキリストというこの二つの性質がキリストの中にあるということです。神としての権威をもっておられた方が、しもべとなって仕えてくださいました。栄光の神であられるキリストは仕えるしもべでした。これが真のリーダーです。真のリーダーとは、サーバント・リーダーなのです。

次に15-21節までをご覧ください。

「15 あなたはさばきの胸当てを意匠を凝らして作る。それをエポデの細工と同じように作る。すなわち、金色、青、紫、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を用いて作る。16 それは正方形で二重にする。 長さ一ゼレト、幅一ゼレト。17 その中に宝石をはめ込み四列にする。第一列は赤めのう、トパーズ、エメラルド。18 第二列はトルコ石、サファイア、ダイヤモンド。19 第三列はヒヤシンス石、めのう、紫水晶。20 第四列は緑柱石、縞めのう、碧玉。これらが金縁の細工の中にはめ込まれる。21 これらの宝石はイスラエルの息子たちの名にちなむもので、彼らの名にしたがい十二個でなければならない。それらは印章のように、それぞれに名が彫られ、十二部族を表す。」

ここには、「さばきの胸当て」を作るようにと命じられています。この「さばき」というのは神のさばきというよりも、神のみこころは何かということを判断するさばきのことです。イスラエルが何かのさばき、判断、知恵を求めたとき、彼らは大祭司の所にやって来て、神のみこころを伺ったのです。それがさばきの胸当てです。このさばきの胸当てにはウリムとトンミムが入っていました(30)。ウリムとトンミムとはどのようなものであったかは明確ではありませんが、Iサムエル14:41には、これがくじとして用いられていたことが記されてあります。くじとして用いられていたことから、神のみこころを求めるくじのようなものであったのではないかと考えられているのです。ウリムが出たらイエス,トンミムがノーというように判断していたのでしょうす。判断がくじによって与えられるというのは、このくじは単なる偶然にではなく、神がその判断と決定をそれによって与えられるという信仰が基調にあったのです。

このさばきの胸当てもエポデと同じ色、同じ材質で作られました。ということは、これもまたイエス・キリストのことを表していたということです。違うのは何かというと、この胸当てには高価な宝石がちりばめられていたということです。宝石は3個ずつ4列にしてはめ込められていました。この12の宝石は、イスラエルの12部族を表していました(21)。それがこの胸当てにはめ込まれていたのは、大祭司の心にイスラエル12部族の名前が刻まれていたということです。イエス・キリストの心にクリスチャンの名前がしっかりと刻まれているのです。彼らはそれぞれ違う石で表されていましたが、どれも皆、宝石です。どの部族も価値があります。皆、それぞれ光を持っています。光り方は違いますが、どれもみな大祭司のハートにしっかりと刻み込まれていたのです。

イザヤ49:15-16には、「女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとえ女たちが忘れても、このわたしは、あなたを忘れない。」とあります。私たちはキリストから忘れられるということは決してありません。その心にしっかりと刻まれているからです。それぞれ輝き方はみな違いますが、宝石のように価値ある者として見られているのです。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4)

どの教団、どの教派、どの教会の人であっても、あなたがキリストを信じて神のものになっているのなら、神の目にあなたは高価で尊い存在なのです。宝石のように輝いていめのです。まだ輝いていないという人がいますか?そういう人がいたら、その人は宝石の原石なのです。そのうちに輝いてきますから、心配堂しないでください。

それは私たちだけでなく、あなたの隣人も同じです。あなたの隣人もキリストを信じて神のものとなったのであれば、キリストの目には同じように高価で尊いのです。私たちは、そのような目で隣人を見ていく必要があります。

22-29節をご覧ください。

「22また、胸当てのために、撚ったひものような鎖を純金で作る。23 胸当てのために金の環を二個作り、その二個の環を胸当ての両端に付ける。24その胸当ての両端の二個の環に、二本の金のひもを付ける。25その二本のひものもう一方の端を、先の二つの金縁の細工と結び、エポデの肩当ての前側に付ける。26さらに二個の金の環を作り、それらを胸当ての両端に、エポデに接する胸当ての内側の縁に付ける。27 また、さらに二個の金の環を作り、これをエポデの二つの肩当ての下端の前に、エポデのあや織りの帯の上部の継ぎ目に、向かい合うように付ける。28 胸当ては、その環からエポデの環に青ひもで結び付け、エポデのあや織りの帯の上にあるようにし、胸当てがエポデから外れないようにしなければならない。29 このようにして、アロンが聖所に入るときには、さばきの胸当てにあるイスラエルの息子たちの名をその胸に担う。それらの名が、絶えず主の前で覚えられるようにするためである。」

ここには、胸当てを身に着けるための鎖と環について述べられています。この鎖は、純金で作られました。胸当てを体に固定するために、胸当ての四隅に金の環がつけられます。そして上の環は金の鎖で肩当ての環につなぎあわせ、下の環はエポデにつけられた環に青ひもでつなぎます。それは何のためでしょうか。胸当てがエポデからずり落ちないようにするためです。大祭司の胸当てはイエス・キリストの心です。私たちはあの宝石のように主のみ胸に抱かれて大切に守られているのです。それは決してずり落ちることはありません。

29節には、「このようにして、アロンが聖所に入るときには、さばきの胸当てにあるイスラエルの息子たちの名をその胸に担う。それらの名が、絶えず主の前で覚えられるようにするためである。」とあります。これはキリストの愛情のしるしです。こうして大祭司はイスラエルの民族を代表して聖所で奉仕し、神と人との間のとりなしをするのです。ヘブル7:24-25には、「イエスは永遠に存在されるので、変わることがない祭司職を持っておられます。したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。」とありますが、キリストはこの大祭司として、私たちのために神にとりなしていてくださるのです。

次に31-35節までをご覧ください。

「31 エポデの下に着る青服を青の撚り糸だけで作る。32 その真ん中に、首を通す口を作る。その口の周りには、ほころびないように織物の技法を凝らして縁を付け、よろいの襟のようにする。33 その裾周りには、青、紫、緋色の撚り糸でざくろを作る。その裾周りのざくろの間には金の鈴を付ける。34 すなわち、青服の裾周りに、金の鈴、ざくろ、金の鈴、ざくろ、となるようにする。35 アロンはこれを、務めを行うために着る。 彼が聖所に入って主の前に出るとき、 またそこを去るとき、 その音が聞こえるようにする。彼が死ぬことのないようにするためである。」

ここには、エポデの下に着る青服の作り方が記されてあります。これは青色の撚り糸で作られました。これにはそでがなく、ひざが隠れるほどの長さのものでしたが、あるものは足首にまで達する長いものでした。というのは、33節に裾のことが記されてありますが、それによると足首まである長い服であったのがわかるからです。その真ん中には頭を通す穴を開け、ほころびないように織物の技法を凝らして縁を付けました。その裾周りには青色、紫色、緋色の撚り糸で作ったざくろを作り、その裾の周りに付けました。また、その周りのざくろの間に金の鈴をつけました。ざくろは、多数の実を付けていることから肥沃、豊かさ、生命の象徴でした。それはキリストの生命の豊かさを表わしていました。また、金の鈴は、大祭司キリストの働きを示していました。それはとりなしの祈りです。35節を見ると、アロンが聖所での務めをするときにはこれを着なければなりませんでした。そして、彼が聖所にはいり、主の前に出るとき、またそこを去るとき、その音が聞こえるようにしなければならなかったのです。それは、彼が神と人とに覚えられているというしるしでした。そうしないと、彼は打たれて死んだのです。鈴の音が止まると死んだということが、神と人の両方にわかりました。

36-38節をご覧ください。

「36 また、純金の札を作り、その上に印章を彫るように主の聖なるもの』と彫り、37 これを青ひもに付け、それをかぶり物に付ける。それがかぶり物の前面にくるようにする。38 これがアロンの額の上にあって、アロンは、イスラエルの子らが聖別する聖なるもの、彼らのすべての聖なる献上物に関わる咎を負う。これは、彼らが主の前に受け入れられるように、絶えずアロンの額の上になければならない。」

ここには、「純金の札」について記されてあります。純金の札を作り、その上に印を彫るように、「主への聖なるもの」と彫り、これを青ひもにつけ、それをかぶり物の前面にくるように付けばなりませんでした。その大きさについてはいろいろな節があります。ある伝承では幅4センチ、長さは耳から耳に届くほどの大きさであったとされています。

しかし、最も重要なのは、そこに「主への聖なるもの」と彫られた純金の札を付けなければならなかったということです。これが、38節に「彼らのすべての聖なる献上物に関わる咎を負う。」とあるように、。イスラエルの咎を負うためであったからです。イスラエル人が持ってきた物はいろいろな清めと洗いがなされていますが、完全に聖い神の御前には汚れています。そこで、民を代表するアロンは、それを額の上に置きその汚れたささげ物がすべて聖められるようにしたのです。これでイスラエル人のささげ物が、絶えず神の御前に受け入れられるようになりました。エペソ書1:7には、「この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。」とありますが、私たちはこの大祭司であられるキリストの贖いによって罪が赦され、聖められているのです。この方にあって私たちは神に受け入れられた物、聖い者とされたのです。大祭司であられるキリストが私たちの咎を負ってくださったからです。そのことによって、私たちは大胆に神の御前に出ることができるようにされたのです。

39節をご覧ください。

「さらに亜麻布で市松模様の長服を作り、亜麻布でかぶり物を作る。飾り帯は刺を施して作る。」

長服は亜麻布で市松模様に作られました。市松模様というのは白と黒の正方形を、互い違いに並べた基盤目模様のことです。「石畳」「あられ」などとも言われます。かぶりものは亜麻布で作られました。これは恐らく主への敬意のしるしだったのでしょう。飾り帯は刺繍で作る。大祭司の装束の中に履物についての言及がないのは、おそらく彼らがはだしで務めをしていたからと考えられます。

Ⅲ. アロンの子らの装束 (40-43)

最後に、40-43をご覧ください。                             「40 あなたはアロンの子らのために長服を作り、また彼らのために飾り帯を作り、彼らのために、栄光と美を表すターバンを作らなければならない。41 これらをあなたの兄弟アロン、および彼とともにいるその子らに着せ、彼らに油注ぎをし、彼らを祭司職に任命し、彼らを聖別し、祭司としてわたしに仕えさせよ。42 彼らのために、裸をおおう亜麻布のももひきを作れ。それは腰からももまで届くようにする。43 アロンとその子らは、会見の天幕に入るとき、あるいは聖所で務めを行うために祭壇に近づくとき、これを着る。彼らが咎を負って死ぬことのないようにするためである。これは彼と彼の後の子孫のための永遠の掟である。」  大祭司アロンの働きを補佐するアロンの子らたちのためには、長服と飾り帯とターバンが作られました。ターバンは栄光と美を表していました。彼らは聖別された油を注がれて祭司に任命されました

彼らのために、裸をおおう亜麻布のももひきを作りました。それは腰からももに届くようにしました。これはアロンと彼の子らが聖所で務めを行うために祭壇に近づく時に着ました。これは彼らの裸が祭壇の上にあらわにならないようにするためのものでした(20:26)。もしも彼らの裸があらわにされてしまうなら、神に打たれて死ななければならなかったからです。どういうことでしょうか。これはキリストの贖いを象徴していました。アダムとエバが罪を犯した時、彼らはいちじくの葉をつづり合せたもので腰の覆いを作りましたが、そんなものは2,3日で枯れてしまい全く役に立ちませんでした。自分の力や働きによって裸をおおうことはできません。自分の裸をおおうことができるのは、神が用意してくださった動物の皮で作られた着物でした。まさにその動物こそキリストの血を象徴していたのです。神は、そのようにして彼らの裸をおおってくださいました。同じように、私たちの裸をおおうのは亜麻布のももひきです。それはイエス・キリストを指し示していました。それを着なければならないのです。アロンとその子らは、会見の天幕に入るとき、あるいは聖所で務めを行うために祭壇に近づくとき、これを着ました。彼らが咎を負って死ぬことのないようにするためです。これは彼と彼の後の子孫のための永遠の掟です。

今日、完全なる大祭司であるイエス・キリスト(ヘブル3:1)が私たちのために神の前にとりなしをしていて下さいます(ヘブル7:24-27)。大祭司アロンはイエスキリストのひな型であり、イエス・キリストこそが永遠の大祭司として神の御前に私たちのためにいつもとりなしておられます。今もキリストは大祭司として真の幕屋である聖所で仕えていることを覚え(ヘブル8:1,2)、キリストによって罪を贖っていただいたことを感謝しましょう。