エレミヤ9章10~16節「どうしてこの国は滅びたのか」

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今日は、エレミヤ書9:10~16の短い箇所から、「どうしてこの国は滅びたのか」というタイトルでお話します。これは12節から取りました。「何のために、この国は滅びたのか。荒野のように滅ぼされ、通人もいないのか」。第三版では「どうしてこの国は滅びたのか。どうして荒野のように焼き払われて、通る人もないのか。」と訳されています。同じ意味ですが、「何のために」と訳すと目的を問うているような感じになりますが、「どうして」とした方が明確にその理由を問うているとわかるので、そのように訳した方がピンとくるのではないかと思います。「どうしてこの国は滅びたのか。どうして荒野のように焼き払われてしまったのか。」ということです。この「なぜ」とか「どうして」というと問に答えることはとても重要です。それによって悟りを得ることができるからです。神の恵みは悟ることから始まります。どうしてエルサレムは滅びたのか、この問いに対する答えを見出す中で、私たちも私たちの人生が滅びないためにはどうしたらよいかを、御言葉からご一緒に考えたいと思います。

Ⅰ.神が懲らしめを与える目的(10-11)

まず、10~11節をご覧ください。「10 私は山々のために泣き声をあげて嘆き、荒野の牧場のために哀歌を歌う。そこは、焼き払われて通る人もなく、群れの声も聞こえず、空の鳥から家畜まで、みな逃げ去っているからだ。11 「わたしはエルサレムを石ころの山とし、ジャッカルの住みかとする。ユダの町々を荒れ果てた地とし、住む者のいない所とする。」」

10節の「私」は、エレミヤのことです。エレミヤは、愛する祖国ユダの崩壊を思い、泣き声をあげて嘆いているのです。青草を茂らせていた牧場は焼き払われ、不毛の地となるからです。空の鳥から家畜まで逃げ去り、そこは石ころの山となり、ジャッカルの住みかとなります。「ジャッカル」とは小さい山犬のような動物ですが、聖書では荒廃してだれも住む人がいないような所に棲む動物として描かれています。完全に廃墟となってしまうのです。それは、彼らの罪が招いた結果でした。神のさばきによって南ユダは滅ぼされてしまうのです。そのことをエレミヤは、嘆いているのです。これは他人事のように聞こえるかもしれませんが、私たちにも言えることです。ですから、どうぞ自分のこととして受け止めていただいたいと思います。

しかし、11節を見ると、これが単なるさばきではないことがわかります。というのは、ここに「わたし」とあるからです。この「わたし」はひらがなで書かれてありますが、神様のことを指しています。つまり、これは神様がなされたこと、神様が与えたさばきであるということです。このさばきは、神様が許されたことなのです。それは神の民であるイスラエルを滅ぼすためではなく、彼らを矯正するために、彼らを立て上げるために、神が与えた懲らしめであるということです。ですからこれは、前回も申し上げたとおり、希望に満ちた言葉でもあるのです。

聖書には、神様は真実な方とあります。Ⅱテモテ2:13です。「私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである。」皆さん、私たちは真実でなくても、神様は常に真実です。私たちがいくら約束を破ろうとも、神様は決して破ったりはなさいません。ということは、もし神様が何らの罰を与えるようなことがあるとしたらそれは私たちを滅ぼすことが目的ではなく、立て上げる目的であるということです。「わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」(ヨシュア1:5)と言われた主は、どんなことがあってもあなたを見捨てることはないからです。痛い思いをすることはあるでしょう。辛いなぁ、苦しいなぁという思うこともあります。でも、すべてを失ってしまうことはありません。滅ぼし尽くされることはないのです。そうしたレッスンを通して、それは高い授業料かもしれませんが、それはあなたが神に立ち返るために、あえて神が与えておられる懲らしめなのです。

二番目の娘が小学生の時、歯の矯正をしました。上のはぐきから1本だけ歯が飛び出していたのです。口の大きさに対して歯の数が多く入りきれなかったのです。それでワイヤーのようなものを装着したのです。驚いたのはその治療費です。たった1本の歯を矯正するめために何十万円もかかりました。牧師の給料ではとても支払えるような額ではありませんでしたが、妻が教えていた英会話クラスに歯科医の方がいて、その方に矯正歯科クリニックを紹介していただき、分割で支払うことができました。痛かったですよ。それは矯正装具を付けた娘だけでなく、私たちの懐も。でも、お陰できれいな歯並びになりました。

神様が私たちを懲らしめるのも同じです。神様は私たちを滅ぼすためではなく、私たちが神に立ち返るために、私たちを立て上げるために、あえてそのようになさるのです。ヤコブがイスラエルに戻ることが神様のみこころです。「ヤコブ」とは「押しのける者」という意味でしたね。「イスラエル」とは「神に支配される者」です。ヤコブがイスラエルに、押しのける者が神に支配される者となるために、神様はあえてこのようなことをなさるのです。人を押しのけて自分を神とするような傲慢な民を砕き、柔らかくして新しく作り変えるために、懲らしめを与えるのです。そのためにバビロンという国を用いるのであって、それはいわゆる私たちを懲らしめるためのスパンク棒にすぎません。神様はあなたをいじめたり、滅ぼしたりするために試練や災難を与えるのではありません。そうではなく、あなたを立て上げるためにそうなさるだということを、忘れないでください。私たちは真実でなくても、神は常に真実なのです。

Ⅱ.どうしてこの国は滅びたのか(12-14)

いったいどうしてこの国は滅んでしまったのでしょうか。次に、12~14節をご覧ください。ここに、その理由が語られています。「12 知恵があって、これを悟ることのできる者はだれか。主の御口が自分に語られたことを告げ知らせることのできる者はだれか。何のために、この国は滅びたのか。荒野のように滅ぼされ、通る人もいないのか。13 主は言われる。「それは、彼らが、わたしが彼らの前に与えたわたしの律法を捨て、わたしの声に聞き従わず、律法に歩まず、14 彼らの頑なな心のままに歩み、先祖たちが彼らに教えたバアルの神々に従って歩んだからだ。」」

いったいどうしてこの国は滅んでしまったのでしょうか。それは、彼らが主の御言葉を捨てたからです。主の律法を捨て、主の声に聞き従わず、彼らの頑なな心のままに歩んだからです。そして、先祖たちが教えたバアルの神々に従って歩んだからです。

遡る事エレミヤの時代から800年も前に、神はモーセに律法を与え、この律法に歩むようにと何度も何度も語られました。たとえば、レビ26章にはこうあります。「3 もし、あなたがたがわたしの掟に従って歩み、わたしの命令を守り、それらを行うなら、4 わたしは時にかなってあなたがたに雨を与える。それにより地は産物を出し、畑の木々はその実を結ぶ。5 あなたがたの麦打ちはぶどうの取り入れ時まで続き、ぶどうの取り入れは種蒔きの時まで続く。あなたがたは満ち足りるまでパンを食べ、安らかに自分たちの地に住む。・・・・

14 しかし、もし、あなたがたがわたしに聞き従わず、これらすべての命令を行わないなら、15 また、わたしの掟を拒み、あなたがた自身がわたしの定めを嫌って退け、わたしのすべての命令を行わず、わたしの契約を破るなら、16 わたしもあなたがたに次のことを行う。わたしはあなたがたの上に恐怖を臨ませ、肺病と熱病で目を衰えさせ、心をすり減らさせる。あなたがたは種を蒔いても無駄である。あなたがたの敵がそれを食べる。17 わたしはあなたがたに敵対してわたしの顔を向ける。あなたがたは自分の敵に打ち負かされ、あなたがたを憎む者があなたがたを踏みつける。あなたがたを追う者がいないのに、あなたがたは逃げる。18 もし、これらのことが起こっても、あなたがたがなおもわたしに聞かないなら、わたしはさらに、あなたがたの罪に対して七倍重く懲らしめる。19 わたしは、自分の力を頼むあなたがたの思い上がりを打ち砕き、あなたがたの天を鉄のように、あなたがたの地を青銅のようにする。20 あなたがたの力は無駄に費やされる。あなたがたの地は産物を出さず、地の木々も実を結ばない。・・・・

31 わたしはあなたがたの町々を廃墟とし、あなたがたの聖所を荒れ果てさせる。わたしはあなたがたの芳ばしい香りをかぐことはしない。」(レビ26:3~5,14~20,31)

これはまだイスラエルが約束の地に入る前のことです。神様はモーセに律法を与え、彼らが約束の地に入って後、主のみことばに聞き従うならどのような祝福がもたらされ、反対に、聞き従わなければどのような災いが下るのかを語りました。そのポイントはただ一つです。それは、主のことばに聞き従いなさいということです。皆さん、わかりますか?わかりますよね。でも彼らはわかりませんでした。自分ではわかっているつもりでしたが、わかっていませでした。そして主のみことばを捨て、頑なな心のままに歩んだのです。

皆さん、悟ることが大切です。神の恵みは、悟ることから始まるからです。勿論、毎週礼拝に来ることは大切なことです。毎日家で聖書を読み祈ることも大きな助けになるでしょう。でも、そのようにしていれば自動的に悟れるかというとそうではありません。悟るためには、イエス様のことばが心に深く住むようにしなければなりません。イエス様が私たちのために何をしてくださったのか、そして今、何をしておられることを理解しなければならないのです。

コロサイ3:16に、こうあります。「キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。」キリストのことばが、私たちのうちに豊かに住むようにしなければなりません。どういうことですか?これは、言い換えると、キリストを知るということです。前回のところで、この「知る」ということをお話しました。この「知る」という言葉は、ヘブル語で「ヤダー」という言葉でしたが、ギリシャ語では「ギノスコー」と言います。意味は同じです。これは表面的に知っているということではなく、人格的に、体験的に深く知っているということです。たとえば、皆さんは岸田文雄という人を知っていると思いまが、本当に彼のことを知っているかというとそうではありません。私たちが知っているのはその名前とか、出身地とか、以前は外務大臣をやっていたとか、そういう情報として知っているというだけで、彼がどのような人なのかについてはほとんど知りません。本当の意味で知っているのは、恐らく奥様だけでしょう。そのように、私たちがキリストを知るというのは、キリストについて知っているということではなく、キリストを人格的に、体験的に、深く知るということです。そのために、キリストのことばが、私たちのうちに豊かに住むようにしなければなりません。

ですからパウロはエペソの教会に次のように書き送ったのです。「17 どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。18 また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、19 また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。」(エペソ1:17-19)

ここでパウロは、彼らの心の目がはっきり見えるようになって、と祈っています。心の目がはっきり見えるとはどういうことでしょうか。それは単なる経験ではありません。主が語っておられることがどういうことなのかがストンと落ちるというか、御言葉がわかるということです。すなわち、キリストによって心が圧倒されるということです。それは、聖霊に満たされることによってもたらされます。それによって、キリストが私たちのためにどのようなことをしてくださったのか、また今、何をしておられることを知ることができるのです。そしてキリスト(神)を知ることによって、私たちの考え方が変わります。私たちの考え方が変わると私たちの動機が変わります。動機が変わると、行動が変わるのです。その人の中に神の御言葉が生きて働くからです。それは私たちの力ではできません。それは神の御霊が、神の御言葉をもって私たちの心と思いに働くことによって始めて可能となるのです。

「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8)

だから、パウロは祈ったのです。彼らの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光にとんだものか、神の大能の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるのかを、知ることができるようにと。

ちょうどこのメッセージを書いていた時、一本の電話がありました。三重県で牧会しておられる80歳を過ぎた牧師先生からでした。それは、Ⅱサムエル記24章にあるダビデが人口調査の罪を犯した結果もたらされた災いについてでした。その罪の結果神様はダビデに、7年間の飢饉か、3か月間の敵からの敗走か、3日間の疫病か、どれか一つを選ぶようにと言われました。結局、ダビデは3日間の疫病を受け入れるわけですが、その結果イスラエルの中で7万人が疫病で死にました。それで、お尋ねは何かというと、この「7年間」の飢饉が他の訳では「3年間」と訳してあるんですね。これをどう整合性を取ったらよいかということでした。いろいろと悩んで調べていた時に、教会のホームページにアップしている私のメッセージを見て光が与えられたというのです。確かに3年間の飢饉とした方が、3か月間の敵からの敗走3日間の疫病ということで、「3、3、3」と語呂合わせがいいのですが、必ずしもそのようにする必要はありません。重要なのは、元々の言葉はどうなっているかということです。原文が「7年間」とあれば、そのように訳せばいいだけのことです。また、仮に「3年間」であったとしても、ここで重要なのはダビデが罪を犯した結果、それほど大きな悲惨がもたらされることになったということを理解することではないかとお話ししたのです。

ところで、どうしてこの牧師先生がこんなことを聞いてきたのかというと、これはこの牧師先生が気づいたのではなくて、牧師先生の4番目の娘さんと幼なじみ男の子がいて、男の子といってももう50歳になりますが、小さい頃からよく知っている人で、その人が何らかの事情で刑務所に入ったのです。そこで創造主訳聖書を送ったところ、それを読んで手紙をくれたのです。そしてその手紙の中に「なぜ7年でなく3年なのか」という質問が書いてあったそうです。確かに創造主訳聖書を見ると「3年間」と訳されてあるんですね。でも、原語では「7年間」となっているので、それがどうしてなのか、いろいろ調べているうちに私が書いたものに行き着いたらしいのです。

それにしても、刑務所に服役中の方がそういうところに気付くなんて不思議だと思いますが、何よりもその方自身に大きな変化があって、誰が見てもわかるくらい変わったらしいのです。それで、このような質問にもきちんと答えて、彼の更生を助けてあげたいというのです。「何がきっかけでそんなに変わったんですか」と尋ねると、先生がこう言いました。

「聖書のことばがはっきりわかるようになったんです。」

これまでも聖書は読んでいましたが、そこまで心に迫って来なかったのですが、今回は違うのです。誰が見てもそう見えるのです。聖書を何度も何度も読む中で、聖霊が働いて、はっきり見えるようになったのです。

それは私たちも同じです。「私たちは知恵ある者、私たちには主の律法がある。」と思い違いをしていると、先の者が後の者になってしまいます。そうではなく、主の御前にへりくだり、柔らかい素直な心を持って主の御言葉に聞き従うなら、神の御霊が働いて、あなたの心の目が見えるようになり、キリストのように変えられていくのです。

Ⅲ.罪から来る報酬は死です(15-16)

最後に、その結果を見て終わりたいと思います。15~16節をご覧ください。「15 それゆえ、イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。「見よ。わたしはこの民に苦よもぎを食べさせ、毒の水を飲ませる。16 彼らも先祖も知らなかった国々に彼らを散らし、剣を彼らのうしろに送り、ついに彼らを絶ち滅ぼす。」」

それゆえ、主は彼らに苦よもぎを食べさせ、毒の水を飲ませます。「苦よもぎ」は、麻酔としても使われますが、基本的に精神攪乱をもたらす毒草です。それは「毒の水」同様、死に至らしめるものです。つまり、彼らが神のみことばを捨て、自分勝手に歩んだ結果、死に至る苦しい思いをするようになるということです。それは16節にあるように、彼らも先祖たちも知らなかった国々に散らされ、剣を彼らのうしろに送り、ついには断ち滅ぼされることになるということです。これはバビロン捕囚という出来事によって成就します。罪の結果、死に至るということです。それはこの神の民イスラエルのことだけでなく、私たちにも言えることです。神の御言葉を捨て、自分勝手に歩むなら、このような結果を招くことになります。聖書に、「罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ6:23)とあるとおりです。

この「死」とは何でしょうか。それは第一に、霊的死のことです。肉体的には生きていても、霊的には死んでいる状態です。人は神を信じ、神と交わりを持つことで生きるのに、その神を信じないで、自分を信じ、自分の思いのままに生きている人のことです。その人は、確かに肉体は生きていても、その霊は死んでいます。その結果は仕事に行き詰まり、家庭が崩壊し、政治生命が断たれるといった目に見える形で表れることになります。  

第二にそれは、肉体的な死です。これは私たちが経験している死です。人は死ぬと肉体から霊が離れ、それぞれ生前の行いに応じて相応しいところに行くことになります。

第三にそれは、永遠の滅びのことです。人は一度死ぬことと、死後にさばきを受けることが定まっていますが、そのとき、神さまは私たちが生きていたときに行った行為に従って公正な裁きをなさいます。その時、神さまに背を向けて神などいない、いらないという人たちは、その望み通りに神のいない所に永遠に住むことになります。それがゲヘナです。地獄です。聖書はこれを永遠の死と呼んでいます。「罪から来る報酬は死です。」神の前に罪が解決されていなければ、最終的にこの永遠の滅びに向かうことになります。

では、どうしたら良いのでしょうか。ここには、「しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」とあります。

永遠のいのちとはなんでしょうか?それは、先ほどお話した「死」と反対のことです。それは、第一に、神がともにおられること、第二に、からだの復活のこと、第三に、永遠に神とともに生きるいのちのことです。

私は、かつて、神様なんているはずがないと、自分勝手な人生を歩んでいました。しかし、18歳の時に教会に導かれ、イエス様を信じて、神さまとともに生きるようになりました。何が変わったでしょうか?まず、人生の目的がわかりました。それまでは、結局、人は死んだらすべてが終わりだと思っていたので、人生にどんな意味があるのかわかりませんでした。地に足が着いていないようなフワフワした人生、空しい人生を生きていました。しかし、人は神によって造られ、神の栄光を現わすために生きているということがわかった時、生きることに意味を見出し、本当にうれしくなりました。

第二に、神様がいつも共にいてくださることがわかりました。イエス様を信じて、イエス様の十字架と復活によって、私のすべての罪が赦され、神の御霊が私の心の中に住んでおられることがわかったのです。ですから、いつ死んでも天国です。

第三に、永遠のいのち、天国の希望が与えられました。やがてこの肉体が滅び、最後の審判で神様の前に出る時、イエス様が「あなたの罪の呪いは、すべてわたしが十字架で背負いました」と言ってくださり無罪と宣告され、天国というすばらしい住まいに入れていただくことがわかりました。わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのですと、イエス様が約束してくださった永遠のいのちを受けるのです。それは希望ではないでしょうか。

イエス様を信じて罪赦された者であるとはいえ、まるで不十分であることを認めざるを得ませんが、そんな者でもイエス様を信じて生活するうちに、少しずつ変えられていることがわかります。イエス様を信じて43年、本当によかったなあと思います。この先、あとどれくらい生きられるかはわかりませんが、行き先が神の永遠の住まいであることは安心です。私は、確信をもって言いたいです。イエス様を信じて、イエス様に聞き従うことがいのちですと。それは死んでからのことだけでなく、今この地上に生きている間にも言えることなのです。「罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」

あなたは、このいのちを受け取りましたか。まだ罪の中を歩んではいないでしょうか。神の民イスラエルのように、「私たちは知恵ある者、私たちには主の律法がある。」と思い違いをしていないでしょうか。神の恵みは悟ることから始まります。どうしてこの国は滅びたのか、どうして自分の人生は滅びたのかを思い巡らしましょう。そして、それは神の律法を捨て、神から離れ、自分勝手に歩んだからだということを悟り、神に立ち返りましょう。そして、キリスト・イエスにある永遠のいのちを受け取りましょう。「罪から来る報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」今からでも、決して遅くはありません。神様は、今もあなたが神のくださるギフトを受け入れることを待っておられます。このギフトを受け取ってください。苦よもぎや毒の水ではなく、永遠のいのちに生きていただきたいと思います。