エレミヤ書12章1~6節「どうして、どうして、どうして」

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きょうは、エレミヤ書12章前半の箇所からお話します。説教題は、「どうして、どうして、どうして」です。すごい題ですね。でも、皆さん、いつもこのように叫んでいるんじゃないですか。「どうして、どうして、どうして」と。
 エレミヤのメッセージは、11章から第三のメッセージに入りました。その最後のところ、つまり、11:18には、主がエレミヤの暗殺計画について知らせてくださいました。何とエレミヤの出身地のアナトテの人たちが、彼を殺そうと企んでいたのです。彼は同胞の救いのために涙をもって神からのことばを語ってきたのに、故郷の人たちはそれを快く思わなかったばかりか、彼を殺そうと企んでいたのです。それを知ったエレミヤはどうしたでしょうか。

彼はそのさばきを主にゆだねました。11:20にあるように、主は正しいさばきをし、心とその奥にあるものを試される方だからです。しかし、彼の心は晴れませんでした。いったいどうしてこのようなことになるのか、自分の中で悶々とする中で、主に祈るのです。それが今日の箇所です。

ですから、これはエレミヤの祈りですが、祈りというよりも嘆きです。1節には、「主よ。私があなたと論じても、あなたのほうが正しいのです。それでも、私はさばきについてあなたにお聞きしたいのです。なぜ、悪者の道が栄え、裏切りを働く者がみな安らかなのですか。」とあります。主よ、どうしてですか。納得できません。おかしいじゃないですか、と叫んでいるのです。エレミヤの心情を知れば、そのように叫びたくなるのも理解できます。神様からのことばを真面目に伝えているのにそれを受け入れるどころか、かえってそれを語っている自分を殺そうとしているのですから。エレミヤのような偉大な預言者でも神様にぼやくことがあります。弱さのあまりついつい愚痴ってしまうことがあるのです。

それはエレミヤに限ったことではありません。私たちも同じです。私たちも自分が納得できないことがあると、このように叫ぶのではないでしょうか。「主よ、どうしてですか」。そのような時、私たちはどうしたらよいのでしょうか。どのようにしてそれを解決することができるのでしょうか。きょうは、このことについてお話したいと思います。

Ⅰ.エレミヤの訴え(1-2)

まず、エレミヤの訴えを見ましょう。1~2節です。「主よ。私があなたと論じても、あなたのほうが正しいのです。それでも、私はさばきについてあなたにお聞きしたいのです。なぜ、悪者の道が栄え、裏切りを働く者がみな安らかなのですか。2 あなたが彼らを植え、彼らは根を張り、伸びて実を結びました。あなたは、彼らの口には近いのですが、彼らの心の奥からは遠く離れておられます。」

ここでエレミヤは主に訴えています。彼ははまず、「主よ。私があなたと論じても、あなたのほうが正しいのです。」と言っています。彼は神が正しい方であることを認めています。だれが神の正しさを疑うことができるでしょうか。神様は全く聖なる方であり、義なる方です。ですから、どんなに神様と論じ合ったとしても、神様の方が正しいのは明らかです。それでも、彼はさばきについて神に聞きたかったのです。なぜ悪者の道が栄え、裏切りを働く者がみな安らかでいるのかということを。どこかで聞いたことがあるフレーズですね。「なぜ、悪者が栄えるのか」。

これは、古今東西、すべての人に共通している問いです。旧約の聖徒たちもこの問題と格闘しました。ヨブ記全体が、これらの疑問に答えるために書かれています。また、ダビデは詩篇37篇で、アサフは詩篇73篇で、このテーマと格闘しています。多くの聖徒たちがこの問題にぶち当たったのです。それは現代の私たちも例外ではありません。理不尽だと思うようなことがあると、「主よ、どうしてですか。なぜ、悪者が栄えるのですか」と叫びたくなります。これはすべての人に共通している疑問なのです。神が正しい方であるならば、どうして悪者が栄え、裏切り者が安らかでいるのか。どうして正しくさばいてくださらないのか。おかしいじゃないですか。納得いきません。そう思うのです。ましてそれが自分の身に振りかかる問題であれば黙ってなどいられません。どうして私が仕事を失わなければならないのですか。どうして病気にならなければならないのでしょう。どうしてこんなひどい目に合わなければならないのですか。どうして陰で噂され、除け者にされなければならないのですか。どうして自分ばかりこんな惨めな生活をしなければならないのですか。どうして、どうして、どうして・・・と。

ここでエレミヤが言っていることは、確かに神は正しい方であるというのはわかっています。それは間違いありません。でも現実はどうかというと、その正しさがなされていないのではないかということです。悪者が栄えています。それはおかしいんじゃないですか。神様が義なる方であられるならば、どうしてその義を実現なさらないのか。むしろ悪の方が栄えています。どうしてそういうことが許されるのでしょうか。これは私たちもぶち当たる疑問です。

2節をご覧ください。「あなたが彼らを植え、彼らは根を張り、伸びて実を結びました。あなたは、彼らの口には近いのですが、彼らの心の奥からは遠く離れておられます。」

「彼ら」とは、アナトテの人たちのことです。「あなたは彼らを植え」とは、神が彼らを植えられたということです。神が彼らを植えられたので、彼らは根を張り、育って、実を結ぶことができました。つまり、すべての出来事の背後には神がおられるということです。今この世に存在している悪でさえも神の御手の中にあり、神が支配しておられるということです。どんなにおぞましいことでも神が見ておられないこと、神が知らないことはありません。このように、エレミヤはこうした状況の背後に神の主権があることを認めているのです。

でも、その彼らは神に対してどうだったでしょうか。「あなたは、彼らの口には近いのですが、彼らの心の奥からは遠く離れておられます。」どういうことでしょうか。彼らは口先では神を敬っているようでも、その心は神から遠く離れていたということです。口先では神に祈り、賛美し、礼拝しているようでも、その心は神から遠く離れていました。彼らの信仰は見せかけだったのです。そんな彼らが栄えていいんですか。それはおかしいじゃないですか。どうしてあなたはそれを許されるのですか。これが、エレミヤが抱いていた疑問だったのです。

Ⅱ.エレミヤを試された主(3-4) 

それに対して主はどのようにお答えになられたでしょうか。3~4節をご覧ください。「主よ。あなたは私を知り、私を見て、あなたに対する私の心を試されます。どうか彼らを、屠られる羊のように引きずり出し、殺戮の日のために取り分けてください。4 いつまで、この地は喪に服し、すべての畑の青草は枯れているのでしょうか。そこに住む者たちの悪のために、家畜も鳥も取り去られています。人々は『神はわれわれの最期を見ない』と言っています。」

これはエレミヤの祈りです。まだ神は何も答えていません。しかし、エレミヤは自分の祈りの中で一つのヒントを得ました。それは、主がエレミヤの心を試しておられるのではないかということです。ここには、「主よ。あなたは私を知り、私を見て、あなたに対する私の心を試されます。」とあります。神様がこのようなことを許される一つの理由は、エレミヤ自身の心を試すためであったということです。事実、エレミヤの質問に対して神様は一言も答えていません。なぜ、悪者の道が栄え、裏切りを働く者がみな安らかなのかというエレミヤの疑問に対して、「それはね、これ、これ、こういう理由だからだよ」という答えは一切ありません。それはエレミヤだけでなく他の聖徒たちの問いに対しても同じです。たとえば、ヨブ記を見ても、ヨブの訴えに対して神様は何も答えていません。答えたところで、私たちのようなちっぽけな者には理解できないからです。

でも、神様がもっと関心をもっておられることがあります。何でしょうか。それは私たち自身です。あなた自身です。神様の関心は私たちの質問に対して答えることではなく、私たち自身にあるのです。神様は私たち自身に、私たちの心に、私たちの信仰に関心を持っておられるのです。このことを通して私たちはどうなって行くのか、この出来事、あの出来事をあなたがどのように受け止め、どのように応答し、どのように成長していくのかということに関心を持っておられるのです。神は私たちが疑問に思うことに全く関心がないとはいいませんが、それよりもむしろ、私たち自身に関心を持っておられるのです。これは大事なポイントです。神様の焦点はあなたがどのような状況にあるかとか、どのような問題に置かれているかということではなく、あなた自身にあるということです。あなたがそれをどのように受け止め、どのように変えられようとしているかということにあるのです。未熟な私たちにはそれがわからないので、自分が嫌なことや苦しいこと、理解できないことがあると、すぐに「主よ、これはどういうことですか」と説明を求めるのですが、しかし、それはこのことに気付いていないからです。

私には3人の娘がいますが、まだ2~3歳の頃、よく「お父さん、どうして?」と聞いてきました。

「遊んだら片付けるように」 「どうして?」

「食べる前には手を洗うこと」 「どうして」

「お友達には親切にすること」 「どうして?」

何かつけ「どうして?」と聞いてくるのです。最初のうちは「これはね、これこれこういうことだからだよ」と丁寧に答えていましたが、今度はその説明に対して「どうして」と聞いてくるのです。「なぜ」とか「どうして」という問いに答えることは、ある面で子供に何かを教えていくチャンスでもあり、その子の成長につながることですが、どんなに答えても完全に納得できるかというとそうではありません。どんなに答えても親が考えているすべてのことを理解することはできないのです。

最近、面白い話を聞きました。有限な人間と無限の神の例話です。人間は有限であり、無限の神様を理解できない事も多くあります。例えば象の爪しか見えない蟻が、象全体を理解するのは困難です。その象が住んでいる、ジャングル全体を理解しようとしても不可能です。

子どもが親の考えのすべてを知ることができないのも同じです。有限な人間が無限の神を理解することはできないのです。

ですから神は最低限必要なことは答えても、何でもかんでも答えることはしないのです。大切なのは私たち人間が納得できるかどうかということではなく、誰がそのように言っておられるのかということです。それが神様であるなら、私たちが納得できてもでなくても従うことが求められるのです。なぜなら、神様が主権者だからです。主権者であられる神に従うかどうかが重要であって、神様はそれを試しておられるのです。

3年前に召されましたが、アメリカにウォーレン・W・ワーズビー(Warren Wendel Wiersbe)という牧師がおられました。「喜びにあふれて」とか、「試練を勝利に」という本を書いて日本語にも翻訳されています。ワーズビー牧師は、アメリカの教会成長論で幅をきかせていた統計による数量的増加というものが一般的風潮の中にあって、教会の霊的働きは統計だけでは量れないということを指摘し、量は質を保証するものではない、とまで言い切った人です。簡単に言うと、教会が大きいから質がいいというわけではない、ということです。それは、ワーズビー牧師がそれだけ聖書の真理に忠実であり、その真理に正しく生かされてきた証拠ではないかと思いますが、そのワーズビー牧師が次のように言いました。「神のしもべは説明によって生きるのではない。約束によって生きるのだ。」

含蓄のある言葉ではないでしょうか。神のしもべ(クリスチャン)は説明によって生きるのではありません。約束によって生きるのです。「主よ、どうしてですか」といろいろ神様に尋ね、答えをいただいてから「あっ、そういうことだったら私は従います。」とか、「こういう理由だったら従いません。」というのは違うというのです。それは神のしもべの態度ではありません。神のしもべは、主人である神から言われたことに対して有無を言わさず、文句もつけず、疑問も抱かず、そのとおりにします。それがどういう意味であろうと、自分が納得できてもできなくても従うのです。それが神のしもべであるということです。神のしもべは説明によって生きるのではなく、約束によって生きるとはそういうことです。

いろいろな疑問があります。納得いかないこともあるでしょう。説明を求めてなかなか前に進めなくなってしまうこともあります。状況が呑み込めないこともある。どうしてこんなことになってしまったのか、なぜうまくいなかいのか、なぜこの人たちはこんなに私に敵対してくるのか、なぜこんなに悪が栄え、裏切りを働く者たちがみな安らかなのか、それがわからなくて、ついつい立ち止まってしまうこともあります。でも、前に進むことを止めてはなりません。

神のしもべは、成熟すればするほど次のように受け止めることができるようになります。すなわち、私のような者にはすべてを理解することはできないが、でも私は全知全能の神様に信頼している。そして神様の約束を信じて、そこに希望を置いている。だから納得できてもできなくても、好むと好まざると、神様が言われることは間違いないので、信じて従います。これが、神のしもべである私たちクリスチャンのあるべき態度なのです。

エレミヤは、自分の心が試されていることを知っていました。神に逆らっている人たち、自分を迫害しようとしている人たちが栄えているのを見て、どうして悪者が栄え、裏切る者が安らかなのか納得できませんでした。しかし彼は、これは主が与えておられる試験であることを知り、何とかそれに合格したいと、彼らに対するさばきを主にゆだねました。それが3節後半~4節にあることです。「どうか彼らを、屠られる羊のように引きずり出し、殺戮の日のために取り分けてください。4 いつまで、この地は喪に服し、すべての畑の青草は枯れているのでしょうか。そこに住む者たちの悪のために、家畜も鳥も取り去られています。人々は『神はわれわれの最期を見ない』と言っています。」

これは、彼らの不正を神が正してくださるようにといことです。それは4節にあるように、彼らの罪によって、約束の地が荒れ果てているからです。彼らの罪のために、そこに住むすべての畑が枯れています。そこに住む者たちの悪のために、家畜も取り去られています。このままでは土地は呪われて荒れ果ててしまうことになります。だから主よ、すみやかにさばきを下してください、主が復讐してください、と祈っているのです。自分の置かれた状況を見て、「主よ、どうしてですか」とぼやいていたエレミヤでしたが、問題はそうでなく自分自身にあるということに気付かされて、そのすべてをゆだねて祈ることができたのです。

Ⅲ.神の答え(5-6)

第三に、5~6節をご覧ください。「5 「あなたは徒歩の者と競走して疲れるのに、どうして馬と走り競うことができるだろうか。平穏な地で安心して過ごしているのに、どうしてヨルダンの密林で過ごせるだろうか。6 あなたの兄弟や、父の家の者さえ、彼らさえ、あなたを裏切り、彼らでさえ、あなたのうしろから大声で叫ぶ。だから彼らがあなたに親切そうに語りかけても、彼らを信じてはならない。」

これは、エレミヤの疑問に対する神の答えです。しかしよく見ると、全然答えになっていません。エレミヤは「主よ、どうしてですか」と尋ねているのに、主は、「あなたは徒歩の者と競走して疲れるのに、どうして馬と走り競うことができるだろうか。平穏な地で安心して過ごしているのに、どうしてヨルダンの密林で過ごせるだろうか。」と答えているからです。どういうことでしょうか。主はエレミヤの疑問に対して、別の形で答えているのです。

この「あなたは徒歩の者と競走して疲れるのに」とは、エレミヤが今直面している困難のことを指しています。エレミヤは今、故郷アナトテという町にいました。彼らに憎まれ、(うと)まれ、まさに殺されそうになっていました。彼はただ神のことばを忠実に語っただけなのに、嫌われて、命までも狙われていたのです。しかも6節には、「あなたの兄弟や、父の家の者さえ、彼らさえ、あなたを裏切り、彼らさえ、あなたのうしろから大声で叫ぶ」とあるように、自分の家族や親族からも裏切られていたのです。自分の愛する者たちのためにいのちを賭けて仕えているのに、その愛する者からも裏切られ、殺されそうになっていましました。それは本当に辛いことでした。それはまさに徒歩の者と競争して疲れていた者の姿でした。

しかし神は、そんなエレミヤにこう言われました。「どうして馬と走り競うことができるだろうか」。これはどういうことかというと、徒歩の人と競争して疲れているのに、どうやって馬と走って競争することができるのかということです。できません。徒歩の人と競争して疲れているのに、馬と競争できるはずがありません。この馬と競争するというのは、これから先に起こる困難のことを指しています。来るべきさらなる試練のことです。具体的にはバビロン捕囚という出来事のことです。エレミヤは今、試練の真只中にいました。故郷のアナトテの人たちから裏切られ、殺されそうになっていました。なぜこんなことが起こるのかどうしても納得いかないと、神に食ってかかっていたわけです。そんなエレミヤに対して主は、あなたは今、徒歩の者と競争して疲れているのに、どうやって馬と競争することができるのか、と言われたのです。つまり、確かに今辛いかもしれけれども、これから先もっと辛いこと起こるわけで、であったらどうやってそれに耐えられるのかというのです。神に向かって「どうしてですか」と愚痴る暇があったら、将来の苦難に備えて信仰を増し加えるべきではないかというのです。

5節のその後のことばも同じです。「平穏な地で安心して過ごしているのに」とは、今の状態のことです。確かにアナトテの人たちはエレミヤを裏切るようなひどい人たちかもしれないが、それはまだ序の口です。平安の地で安心に過ごしているにすぎません。しかし、これからヨルダンの密林で過ごすようになります。ヨルダンの密林とは、まさに人が住めないような危険なところを意味しています。アナトテよりよっぽどひどいところです。バビロンに連れて行かれることになります。こんな平穏な地で安心して過ごしているのに、どうやってヨルダンの密林で過ごすことができるか。できません。だったらそれに備えて、信仰を増してくださいと祈るべきではないかというのです。

全く答えになっていません。何の慰めにもなりません。それはエレミヤが期待していた答えではありませんでした。彼が期待していたのは「これこれ、こういうわけだから、今はこうだけど、やがてこうなるよ」といったちゃんとした答えというか、納得できるような答えでした。あるいは、「そうだよね。本当に辛いと思うよ。頑張ってね。」というような慰めのことばだったと思います。それなのに神から示された答えは全く意外なものでした。それは、エレミヤを叱咤激励するような厳しいものだったのです。「あなたは徒歩の者と競走して疲れるのに、どうして馬と走り競うことができるだろうか。平穏な地で安心して過ごしているのに、どうしてヨルダンの密林で過ごせるだろうか。」

皆さん、どう思いますか。私はハッとさせられました。というのは、まさに今の自分はエレミヤのようだと思ったからです。以前のような体力がなくなりました。5年前にできたことができません。人の名前も思い出せなくなりました。自分に自信を無くしたというか、この先どうやってやっていけばいいんですかと、つぶやくようになりました。そんな時に与えられたのがこの御言葉でした。「あなたは徒歩の者と競争して疲れるのに、どうして馬と走り競うことができるだろうか。平穏な地で安心して過ごしているのに、どうしてヨルダンの密林で過ごせるだろうか。」

こんなことで音を上げていてどうするんですか。これから先もっと大変なことが起こるんだよ。今はまだ平安な地で過ごしているようなものじゃないですか。これからヨルダンの密林で過ごすようになります。だから今を感謝し、ますます主に信頼して、将来に備えていかなければなりません。まさに目から鱗でした。これからもっと大変な時代がやって来るのであれば、今は恵みの時であって、多少の衰えで悲観している場合ではないと思ったのです。そう思ったら俄然力が満ち溢れるようになりました。これが主の答えだったのです。

本当に主はすばらしい答えをもっておられます。それは、私たちの想像をはるかに超えた答えです。私たちはこの方のことばを聞かなければなりません。納得できるまで従わないのではなく、納得できてもできなくても、すべてを支配し治めておられる主の主権を認め、そのことばに従わなければならないのです。まさにウォーレン・W・ワーズビーが言ったように、「神のしもべは説明によって生きるのではない。約束によって生きるのだ。」。説明によってではなく、神のことば、神の約束によって生きなければなりません。

その究極の約束こそ、主が再臨されるということです。その時、主イエスを信じる者は墓からよみがえり、朽ちることのない栄光のからだをもって、主のみもとに引き上げられることになります。このようにして、私たちはいつまでも主とともにいるようになるのです。これが神の僕である私たちクリスチャンにとっての究極の希望です。世の終わりが近づくと、戦争や戦争のうわさを聞くことになります。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、あちらこちらで飢饉と地震が起こります。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えると、イエス様は言われましたが、今まさにそのような時代を迎えてこいます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。イエス様が再臨されるその時、栄光のからだによみがえらされ、いつまでも主とともにいるようになります。これがクリスチャンの究極の希望なのです。ですから、Ⅰテサロニケ4:18にはこのように勧められているのです。

「ですから、これらのことばをもって互いに励まし合いなさい。」(Ⅰテサロニケ4:18)

それゆえ私たちは、この困難な時代を耐え抜いて、生き抜いて、希望をもって生きることができるのです

ですから、もう疲れたとか、もうだめだと言わないでください。もう終わりだと言わないでください。失業することもあるかもしれません。失恋することもあるかもしれない。病気になることもあるでしょう。愛する人を失うこともあるかもしれない。自分自身が死ぬこともあるかもしれません。でも、あきらめないでください。イエス様はこう言われました。

「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」(ヨハネ16:33)

人生に苦難はつきものです。「しかし、勇気を出しなさい。」と主は言われました。なぜなら、「わたしはすでに世に勝ったからです。」イエス様はすでに世に勝利されました。

もしあなたが神のしもべとして説明によって生きることを止め、約束によって生きることを始めるなら、すでに世に勝利された主イエスの恵みと力によって、この世の苦難を必ず乗り越えることができます。

「あなたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはありません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。」(Ⅰコリント10:13)

あなたは今、どのような試練の中にありますか。それがどのような試練であれ、神はあなたを耐えられない試練にあわせるようなことはなさいません。耐えることができるように試練とともに脱出の道も備えてくださいます。

どうぞ、神の約束を信じてください。主よ、どうしてですかと、説明を求めることを止めて、神の約束によって生きることを始めるなら、神はあなたに必ずご自身を現わしてくださるのです。