きょうはレビ記23章から学びます。22章ではどのように主へのささげ物をささげなければならないかということを学びました。きょうのところでは、主の例祭について教えが語られています。それではまず1~8節までを見ていきましょう。
1.主の例祭と安息日(1-3)
「ついで主はモーセに告げて仰せられた。「イスラエル人に告げて言え。あなたがたが聖なる会合として召集する主の例祭、すなわちわたしの例祭は次のとおりである。六日間は仕事をしてもよい。しかし七日目は全き休みの安息、聖なる会合の日である。あなたがたは、いっさいの仕事をしてはならない。この日はあなたがたがどこに住んでいても主の安息日である。」
これはイスラエルの民に対して語られたことばです。彼らは毎年、主の聖なる会合として主の例祭を召集しなければなりませんでした。例祭とは、例年決められた時期に行うべき祭りのことです。それは全部で七つあります。過ぎ越しの祭り、種なしのパンの祝い、初穂の祭り、五旬節、ラッパを吹き鳴らす会合、贖罪日、そして仮庵の祭りです。このうち代表的なものは、過越の祭り、五旬節、仮庵の祭りの三つで、この時には、世界中にいるユダヤ人成年男子が、必ず出席しなければなりませんでした。
3節をご覧ください。「六日間は仕事をしてもよい。しかし七日目は全き休みの安息、聖なる会合の日である。あなたがたは、いっさいの仕事をしてはならない。この日はあなたがたがどこに住んでいても主の安息日である。」
主の例祭についての教えなのに、まず、安息日について語られています。安息日とは、主が六日間で天地を創造された後、七日目に休まれた日を記念して、この日を聖なる日とするようにと定められたものです。この日にはいっさいの仕事をしてはなりませんでした。この日にはすべての手のわざを休めて、神を覚えて礼拝しなければなりませんでした。この安息日のことが七つの例祭に先駆けて語られているのです。いったいそれはなぜでしょうか。それは、この安息日がこれから語られる主の例祭が示していることの基本であったからです。
それはどういうことかというと、安息日にはすべての手のわざを休めて神を覚え、神を礼拝しなければならなかったように、主の例祭にもすべての手のわざを休めて神を覚え、神を礼拝しなければならなかったということです。なぜでしょうか。そうすることによって、自分たちの働きが自分たちのものではなく主なる神のものであって、神を中心に生かされていることを表明する必要があったからです。自分の行ないをやめ、主の行ないを認めることです。私たちが、だれかのことを知りたいと思うとき、どうでしょう。自分が動くことをやめ、そこに立ち止まって、その人の姿や行なっていることを、じっくりと見るのではないでしょうか。それと同じことです。私たちが、主にあって聖なる者と認められるには、自分ではなく主ご自身の姿や働きに集中し、それをじっくりと見なければならないのです。イスラエルは毎週土曜日の安息日にそれをしました。それだけでなく、一年を通してその節目、節目にそういうときを持ったのです。それが例祭です。
これらの祭りは、収穫祭です。季節ごとに行われました。初穂の祭りは、春の初めに収穫される大麦の初穂を主におささげする祭りです。五旬節は、春の終わりに収穫する小麦の初物を、主におささげします。そして仮庵の祭りは、秋のいちじくの木の実、オリーブ、ぶどう、なつめやしなどの収穫の後に行なわれます。今、イスラエルが、シナイ山の荒野のふもとにいることを思い出してください。これらは、彼らが約束の地に入ってから、与えられるところの収穫を前提にして、主がお語りになっているのです。私たち人間は、荒野にいるときには、水や食料などの備えのために、主に必要を満たしていただくために、祈り、主に拠り頼みますが、豊かになるときに神を忘れてしまいます。そこで、主は、収穫物をご自分にささげるように命じられることによって、イスラエルがいつまでも、主を信じ、主のうちにとどまることを学ばせようとされたのです
私たちは、クリスチャンとして聖なる歩みをするためには自分の働きをやめ、キリストに集中しなければなりません。キリストがなされたみわざ、今、行なわれていること、そしてこれから行なわれることの中に休み、とどまり、自分の行ないを取り除いていく必要があるのです。私たちは、自分が何らかの宗教的な行ないをしているから、自分が聖いと思ってしまうことがあります。たとえば、毎日祈っているとか、日曜日はちゃんと礼拝に行っているとか、いつも、いろいろな人に伝道しているとか、奉仕もちゃんとやっているとかです。それ自体はすばらしいのですが、それが実体のともなったものでなければ、すなわち、それがイエス・キリストにしっかりと結びついたものでなければ吐き出されてしまうこともあるのです。神が私たちに願っておられることは、キリストにとどまることです。キリストのみわざをみとめ、神がキリストにあって成されたことを信じて受け入れ、そのみわざにとどまっていることです。自分をキリストに明け渡すことです。そのためには今やっていることを休め、そこに立ち止り、神に集中しなければなりません。あれをして、これもしてと、忙しく動き回っていると肝心な神との関係が希薄となり、やることだけが先行してしまいます。そして、それがいつしか神のためにというよりも自分のために、自分の思いを実現するためにやっているということもあるのです。そうなると信仰もいつしか形骸化して、そこに生きた神との関係が無くなってしまいます。自分の思い付きで話したり、行動したりということになってしまいます。神のみこころからかけ離れた信仰に陥ってしまうのです。だから神は、こうした例祭を定め、自分の手を休めるようにと教えられたのです。その代表が安息日だったのです。
2.過ぎ越しの祭りと種を入れないパンの祭り(4-8)
4節と5節をご覧ください。
「あなたがたが定期に召集しなければならない聖なる会合、すなわち主の例祭は次のとおりである。第一月の十四日には、夕暮れに過越のいけにえを主にささげる。」
主への例祭は、過越の祭りをもって始まります。これが第一の月とあるとおり、この祭りをもってユダヤ人の暦が始まります。なぜ過ぎ越しの祭りから始まるのでしょうか。なぜなら、これが贖いを表しているからです。信仰のスタートは贖いです。
それは、神の小羊であられたキリストを表していました。バプテスマのヨハネはキリストを見たとき、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。(ヨハネ1:29)」と呼びました。そしてイエスさまは、十字架につけられる前夜、弟子たちと過越の食事をされましたが、イエスさまがパンを裂いたときに、「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを与えてこれを行ないなさい。」と言われ、ぶどう酒の杯は、「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。」と言われました(ルカ22:20)。そして、イエスは、この過越の祭りの日に十字架につけられて死なれたのです。そうです、イスラエルが食べ、血を門の鴨居と門柱につけたその小羊は、イエス・キリストご自身を示していたのです。ペテロは、「ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。(1ペテロ1:18-19)」と言いました。
過越の祭りが、この後のすべての祭りの出発点になっており、この祭りによって他の祭りが成り立っています。すべての土台になる祭りです。それは、私たちの主イエス・キリストが十字架で死なれ、血を流してくださったことが、私たちの信仰の土台であるということです。私たちの奉仕は、どのような動機から始まっているでしょうか。「私は罪人であったのに、神はキリストを死に渡されることにより、ご自分の愛を示してくださった。」ということから始まっているでしょうか?それとも、他のだれかに認められたいとか、自分の心理的欲求を満たしてくれるというような動機から始まっているでしょうか。私たちのすべての奉仕は、ただ「キリストの愛」に突き動かされているものでなければなりません
次に、種なしパンの祭りです。種なしパンの祭りは、過越の祭りのすぐあとに行われました。ここでいう種とはパン種のことで、パンをふくまらせるところのイースト菌のことです。イスラエルの民は、この祝いの前に、家の中にあるパン種をくまなく探し、家の中からパン種を取り除きました。そして七日間、種のないパンを食べました。初めの日と最後の日は仕事をしてはなりません。そして、この七日間、火によるささげもの、つまり、牛や羊、やぎなどの家畜を祭壇で焼いたのです。
これは何を表していたのかというと、過ぎ越しによって罪が取り除かれたことです。その祝いです。聖書ではパン種は罪を表しています。少しでもパン種が入っているとパン全体を膨らませるように、少しでも罪があると全体に広がってしまいます。そこでパウロは、コリント人たちにこう手紙を書き送りました。
「あなたがたの高慢は、よくないことです。あなたがたは、ほんのわずかのパン種が、粉のかたまり全体をふくらませることを知らないのですか。(Ⅰコリント5:6)」
パウロはコリント人たちに、続けてこう言っています。
「新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。ですから、私たちは、古いパン種を用いたり、悪意と不正のパン種を用いたりしないで、パン種のはいらない、純粋で真実なパンで、祭りをしようではありませんか。(1コリント5:7-8)」
あなたがたはパン種がない者であるというのは、罪が許されたからです。キリストの血によって罪が赦され、罪が取り除かれました。もうパン種がなくなったのです。だから、古いパン種で祭りをしたりしないで、パン種の入らないパンで祭りをしなければなりません。それが種を入れないパンの祭りです。すなわちそれはキリストによって罪が取り除かれたことを祝う祭りなのです。
私たちの罪は取り除かれました。主イエス・キリストの血は、私たちの罪を取り除き、私たちを完全にきよめてくださったのです。ですから、私たちと、神との間に、何ら隔ての壁になるようなものは一つもありません。子供がお父さんやお母さんのところに走りよっていくように、私たちも大胆に、父なる神に大胆に近づくことができるのです!「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(ヘブル4:16)」とヘブル書にある通りです。
3.初穂の祭り(9-14)
次に9-14節をご覧ください。ここには、初穂の祭りについて記されてあります。
「ついで主はモーセに告げて仰せられた。「イスラエル人に告げて言え。わたしがあなたがたに与えようとしている地に、あなたがたが入り、収穫を刈り入れるときは、収穫の初穂の束を祭司のところに持って来る。祭司は、あなたがたが受け入れられるために、その束を主に向かって揺り動かす。祭司は安息日の翌日、それを揺り動かさなければならない。あなたがたは、束を揺り動かすその日に、主への全焼のいけにえとして、一歳の傷のない雄の子羊をささげる。その穀物のささげ物は、油を混ぜた小麦粉十分のニエパであり、主への火によるささげ物、なだめのかおりである。その注ぎのささげ物はぶどう酒で、一ヒンの四分の一である。あなたがたは神へのささげ物を持って来るその日まで、パンも、炒り麦も、新穀も食べてはならない。これはあなたがたがどこに住んでいても、代々守るべき永遠のおきてである。」
ここには、彼らが約束の地に入り、収穫を刈り入れるときには、収穫の初穂の束を祭司のところに持ってくるようにとあります。祭司はそれを主に向って揺り動かします。彼らが受け入れられるように・・・。これは大麦の収穫の初穂を、主におささげする祭りです。祭司がそれを、主の前に前後に揺り動かして、この収穫を主に受け入れられるようにするわけです。これは、安息日の翌日、つまり日曜日であり、過越の祭りの三日目に行なわれます。つまり、これはキリストの復活を表していたのです。
キリストは過越の祭りの日に死なれ、墓に葬られました。安息日が終わり、日曜日に復活されました。日曜日の朝早く女たちが、イエスに香料を塗ろうと墓にやって来くると、墓の石は取り除かれていました。そこに御使いがいて、女たちにこう言いました。「この方はここにはおられません。よみがえられたのです。」そうです、初穂の祭りは、イエス・キリストの復活を表していたのです。使徒パウロはこう言いました。コリント人への手紙第一15章20節です。「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」
キリストは、私たちのために死んでくださり、その血によって罪を赦し、きよめてくださっただけではなく、よみがえってくださいました。よみがえって、今も生きておられます。そして、今、私たちのうちに住んでいてくださるのです。使徒パウロは言いました。
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。 (ガラテヤ2:20)」
ここで、パウロは、私はキリストとともに十字架につけられており、死んでいる、と言っています。私たちはすでに死んでいるのです。このことに気づかないと、いつまでも、自分を改善しよう、良くしようと思ってしまうのです。そして、改善しようと思っても、むしろ罪を行なっている自分を発見して、パウロのように、「ああ、私はなんとみじめな人間なのでしょう。」と嘆いてしまいます。しかし、すでに私たちは死んでいるので、自分ではどうしようもありません。けれども、キリストはよみがえってくださいました。そして、そのよみがえりの主が私のうちに生きておられる。だから私たちは、このキリストにあって、キリストのいのちにある新しい歩みをすることができるのです。
12節には、「あなたがたは、束を揺り動かすその日に、主への全焼のいけにえとして、一歳の傷のない雄の子羊をささげる。その穀物のささげ物は、油を混ぜた小麦粉十分の二エパであり、主への火によるささげ物、なだめのかおりである。その注ぎのささげ物はぶどう酒で、一ヒンの四分の一である。あなたがたは神へのささげ物を持って来るその日まで、パンも、炒り麦も、新穀も食べてはならない。これはあなたがたがどこに住んでいても、代々守るべき永遠のおきてである。」とあります。
この初穂の祭りのときに、全焼のいけにえ、穀物のささげものを、初穂の祭りのときにもささげます。そして注ぎのささげものというのもあり、これはぶどう酒をささげます。それはなぜでしょうか。祭壇の上の火によって、これらが燃やし尽くされるとき、主がそのいけにえをお受け取りになったことを示しているからです。私たちの罪は完全に赦され、キリストの新しいいのちにあって生きることができるようになったのです。
4.五旬節(七週の祭り:ペンテコステ)(15-22)
十字架と復活と続いたら、次は何でしょうか。そうです、ペンテコステです。次に五旬節の祭りについて教えられています。15-22節までをご覧ください。
「あなたがたは、安息日の翌日から、すなわち奉献物の束を持って来た日から、満七週間が終わるまでを数える。七回目の安息日の翌日まで五十日を数え、あなたがたは新しい穀物のささげ物を主にささげなければならない。」(15-16)
五旬というのは50日のことですが、それは初穂の祭りから七週を数え、さらに一日を加えた日数で。初穂の祭りとは主の復活のことを表していますので、主が復活してから50日目がペンテコステということになります。先ほどから「7」という数字がたくさん出てきているのに、ここでは50日目というのはおもしろいですね。七日目の安息日、七日間の種なしパンの祝い、そして、七週間後の五旬節です。7は、主ご自身のことを表しています。主のみわざが完全であり、完成されていることを示します。ですから、本来なら49日目に行われるはずなのに50日目というのは不思議です。このことについていろいろ調べてみましたが、納得のいく回答が見られなかったので、自分なりにカレンダーをずっと眺めていて気付いたことがありました。この七週の祭りは初穂の祭りから五十日目です。復活の日から五十日です。それは日曜日の出来事でした。それから49日後は土曜日になります。土曜日は主の安息の日ですが、この日ではだめなのです。なぜなら、主は復活をもってすべてを新しくされるからです。それが初穂の祭りの意味でした。そういう意味ではこのペンテコステは新しいスタートのときです。聖霊が降臨されることによってすべてが新しくなります。その新しいスタートは日曜日でなければならなかったのです。初穂の祭りから七週を数えた49日の次の日のことです。それはちょうど五十日後になります。それが五旬節です。だからここにはキリストの復活と聖霊降臨の出来事が完全に予言されていたのです。ユダヤ人はわからなかったと思いますが・・・。
この日には、小麦の収穫の初穂を、主の前におささげします。
「あなたがたの住まいから、奉献物としてパン・・主への初穂として、十分の二エパの小麦粉にパン種を入れて焼かれるもの・・二個を持って来なければならない。」(17)
パンを二つ、主の前にささげます。不思議なことに、このパンにはパン種が入っています。ふわふわとした、私たちが普通に見るパンです。これはなぜでしょうか?また、なぜ二つのパンなのでしょうか?
この五旬節のときに、ある大きな出来事が起こったことを思い出してください。イエスさまがよみがえられ、弟子たちの前に40日間現われて、彼らは祈り始めました。10日後、五旬節のときに、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こりました。そして、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまりました。そして彼らは聖霊に満たされて、外国の言葉で話し出したのです。この日に、ペテロの説教を聞いて、3千人が弟子となり、バプテスマを受けました。そうです、教会が誕生したのです。したがって、五旬節は、聖霊が降って、教会が誕生することを予め示していたのです。
ここでは、その教会とはどのようなものなのかが表されているのです。それはパンにパン種が入っているようなものです。もちろん、キリストによって罪が赦され、罪は取り除かれました。私たちは新しいパン種で祭りをしなければなりません。しかし、それは私たちは罪の完全な者であるということを示しているのではありません。罪は赦されてはいますが、まだ罪の性質を宿した弱い存在であるということです。そうした罪深い弱い私たちの中にキリストが宿ってくださり、キリストのからだが形成されているのです。それが教会なのです。私たちは不完な者ですが、その不完全な中にキリストがおられるのです。この事実を忘れてはなりません。それを表しているのがこの種を入れたパンなのです。
ですから、教会は互いにキリストにあって赦し合い、仕え合い、励まし合い、教え合っていかなければならないのです。そのようにして、成長し、キリストの身たけにまで成長することができるのです。もし自分が立派でもあるかのように考えて人をさばくようなことがあるとしたら、それは間違っています。
そして「二つのパン」ですが、これは、ユダヤ人と異邦人という二者が、キリストの十字架によって一つにされたことを表しています。パウロは、エペソ書2章で、「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。(エペソ2:14-15)」と言いました。キリストにあって、ユダヤ人も異邦人も、隔てなく交わりをすることができます。男も女も、自由人も奴隷も、すべての人がキリストにあって一つとなりました。私たちは、クリスチャンの間に、互いにぎくしゃくしたものがあり、なかなか交わることができない隔ての壁を感じているのであれば、それは、キリストではなく、自分自身が前面に出てしまっているからです。自分ではなく、キリストが第一になって、キリストのことが語られ、キリストが中心になっているとき、両者の違いは妨げとならなくなります。キリストが私たちの平和であり、二つのものを一つにしてくださいました。それが教会なのです。
「そのパンといっしょに、主への全焼のいけにえとして、一歳の傷のない雄の子羊七頭、若い雄牛一頭、雄羊二頭、また、主へのなだめのかおりの、火によるささげ物として、彼らの穀物のささげ物と注ぎのささげ物とをささげる。また、雄やぎ一頭を、罪のためのいけにえとし、一歳の雄の子羊二頭を、和解のいけにえとする。祭司は、これら二頭の雄の子羊を、初穂のパンといっしょに、奉献物として主に向かって揺り動かす。これらは主の聖なるものであり、祭司のものとなる。」(18-20)
そのパンといっしょに全焼のいけにえをささげます。また、穀物のささげ物と注ぎのささげ物をささげます。全焼のいけにえとは、私たちのすべてを主におささげすること、献身を表しています。一方、穀物のささげ物とか注ぎのささげ物とは、感謝を表しています。すなわち、感謝をもって献身を表していたのです。また、和解のいけにえは、主と和解するためのいけにえではなく、和解した者としてのいけにえ、すなわち、喜びを表していました。五旬節にはこうしたパンといっしょに、神への感謝と喜び、そして神への献身が求められたのです。
「その日、あなたがたは聖なる会合を召集する。それはあなたがたのためである。どんな労働の仕事もしてはならない。これはあなたがたがどこに住んでいても、代々守るべき永遠のおきてである。あなたがたの土地の収穫を刈り入れるとき、あなたは刈るときに、畑の隅まで刈ってはならない。あなたの収穫の落ち穂も集めてはならない。貧しい者と在留異国人のために、それらを残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。」(21-22)
収穫のときに、イスラエル人は、貧しい人、在留寄留者の人たちを顧みなければいけないことを教えられています。畑の隅々まで刈り取ることなく、それは残しておき、貧しい人たちが食べることができるように残しておきます。それは自分たちをエジプトから救い出し、約束の地へと導いてくださった主への感謝の表れでもあります。私たちも、キリストの十字架と復活、そして、聖霊の降臨をもって新しい生活へと導いてくださった主に、心からの感謝と賛美をささげる者でありたいと思います。