エレミヤ42章1~22節「行くべきか、とどまるべきか」

Word PDF

エレミヤ書42章に入ります。今日のタイトルは、「行くべきか、とどまるべきか」です。どこに行くべきなのでしょうか、どこにとどまるべきなのでしょうか。それはエジプトであり、ユダの地です。エジプトに行くべきか、ユダの地にとどまるべきか、ということです。

前回は41章から、カレアハの子ヨハナンと、彼とともにいたすべての高官たちが、ネタンヤの子イシュマエルから取り戻したすべての残りの民を連れて、エジプトに行こうとして、ベツレヘムの傍らにあるゲルテ・キムハムにとどまったことを学びました。なぜでしょうか?なぜなら、ゲダルヤを殺したイシュマエルを取り逃がしたことで、バビロンの王に疑われ、殺されるのではないかと恐れたからです。そこで彼らはエジプトに行こうとしてやって来たわけですが、そこで悩みます。果たしてそれで良かったのか。このままエジプトに行くべきか、それともユダの地にとどまるべきか。

私たちにもこういう時があります。どうしたら良いか、行くべきか、とどまるべきかと。私たちはいつもこうした選択に迫られながら生きています。そしてそのどちらを選択するかはとても重要です。なぜなら、それによって人生が決まるからです。いったいどうしたら正しい判断をすることができるのでしょうか。

 Ⅰ.それが良くても悪くても(1-6)

まず、1~6節をご覧ください。

42:1 軍のすべての高官たち、カレアハの子ヨハナン、ホシャヤの子イザンヤ、および身分の低い者も高い者もみな近づいて来て、42:2 預言者エレミヤに言った。「どうか、私たちの願いを受け入れてください。私たちのため、この残りの者すべてのために、あなたの神、【主】に祈ってください。ご覧のとおり、多くの者の中からわずかに私たちだけが残ったのです。42:3 あなたの神、【主】が、私たちの歩むべき道と、なすべきことを私たちに告げてくださいますように。」42:4 そこで、預言者エレミヤは彼らに言った。「承知しました。見よ。私は、あなたがたのことばのとおり、あなたがたの神、【主】に祈り、【主】があなたがたにお答えになることはみな、あなたがたに告げましょう。あなたがたには何事も隠しません。」42:5 彼らはエレミヤに言った。「【主】が、私たちの間で真実で確かな証人であられますように。私たちは必ず、あなたの神、【主】が私たちのためにあなたを遣わして告げられることばのとおりに、すべて行います。42:6 それが良くても悪くても、私たちは、あなたを遣わされた私たちの神、【主】の御声に聞き従います。私たちの神、【主】の御声に聞き従って幸せを得るためです。」」

総督ゲダルヤが暗殺された後に、バビロンの報復を恐れたヨハナンをはじめとする高官たちは、キムハムの宿場まで行きながら、引き返してエレミヤのところにやって来ると、神のみこころを求めて「あなたの神、主が、私たちの歩むべき道と、なすべきことを私たちに告げてくださいますように。」(3)と言いました。やはりエジプトに行くことに、ある種のプレッシャーを感じていたのでしょう。エジプトに行くべきか、それともユダにとどまるべきか、彼らは真剣に求めたのです。1節には、軍のすべての高官たち、カレアハの子ヨハナン、ホシャヤの子イザンヤ、および身分の高い者も低い者もみな、とあります。それは、日ごろは障壁となっている身分の差を超えて、一つにまとまった瞬間でした。彼らは一つの心で神の御心を知りたいと切に願ったのです。神の御心に耳を傾けることは、絶望を希望に変える始まりです。苦しい時、辛い時、あるいは先が見えなくて不安な時、あなたはどこに助けを求めているでしょうか。彼らのように、神の御心を求めて祈る人は幸いです。祈りとみことばの中で新たな力を得るために礼拝の場に出ることが、あなたが神の御心に従うための第一歩だからです。

それに対してエレミヤは、彼らの真実な求めに応じて、主に祈り、主からの答えがあったら、それを彼らに告げると約束しました。何事も隠さないと。預言者エレミヤにとっても真剣にならざるを得ませんでした。そのような求めに応じて、神のことばを取り次ぐことこそ預言者として召された自分に与えられた使命であると思ったからです。

すると彼らはエレミヤにこう言いました。5節と6節の「」のことばをご一緒に読みましょう。

「【主】が、私たちの間で真実で確かな証人であられますように。私たちは必ず、あなたの神、【主】が私たちのためにあなたを遣わして告げられることばのとおりに、すべて行います。
  それが良くても悪くても、私たちは、あなたを遣わされた私たちの神、【主】の御声に聞き従います。私たちの神、【主】の御声に聞き従って幸せを得るためです。」

すばらしいですね。彼らは、何でも主の御声を聞いたならば、その通り行うと応答しました。それが良いことでも悪いことでもです。これこそ、神のみこころを尋ね求める者にとってふさわしい態度です。たとえ自分の目には悪いように見えても、主の御声を聞いたならば、それに従うことが幸せを得る秘訣です。しかし、これがなかなかできません。人はみな自分の思いがあって、そこから離れることができないからです。いつまでもそれに固執しようとするのです。

私はいろいろな方々から相談のメールや電話をいただきますが、その内容のほとんどはこれです。「どうしたら良いか」。そのような時、この方の問題がどこにあるのか教えてくださいと心の中で祈りながらじっと聞いていると、主は聖書のみことばを示してくださいます。ですから、十分お話を聞いた後でそれを伝えると、「そうですよね、ありがとうございました。」と喜んで電話を切る人と、自分の思いをトクトクト話し続ける人がいます。みことばが示されているのに、です。自分の思いに共感してほしいのです。その方は、結局、主の御心を尋ね求めているというよりも、自分の思いを聞いてほしいだけなのです。そこから離れることができません。あくまでも自分の思いを通そうとするわけです。でも大切なのは、それが自分にとって良くても悪くても、神の御心が示されたなら、それに従うことです。なぜなら、「主のおしえは完全でたましいを生き返らせ、主の証は確かで、浅はかな者を賢くする。」(詩篇19:7)からです。

皆さん、電話を発明した人をご存知ですか。電話を発明したのはアレキサンダー・グラハム・ベルというスコットランド出身の科学者です。彼は1875年に、電話機の実験に成功しました。彼が電話機を発明した時に最初に発したことばは、「ワトソン君、用事がある、ちょっと来てくれたまえ」という秘書に対する呼びかけでした。
  1876年、彼は特許を取り、翌年にベル電話会社を設立しました。そのベルが次のように語っています。
  「一つの扉が閉ざされても、別の扉が開かれます。しかし、私たちは閉ざされた扉ばかりをいつも未練がましく見続けているので、開かれたもう一つの扉が見えずにいるのです。」

皆さん、たとえ一つの扉が閉ざされても、別の扉が開かれます。神がその扉を開いてくださいます。それはあなたの想像を遥かに超えたことかもしれません。それなのにいつまでも自分の思いに固執して閉ざされた扉ばかりを見ているとしたら、開かれているもう一つの扉を見ることはできません。大切なのは自分の思いに固執するのではなく、それを一旦脇に置いておき、すべてを神にゆだねることです。そして神がみことばを通して示してくださることに聞き従うのです。そうすれば、あなたは幸せを得ることができます。神があなたの人生に働いてくださり、最善に導いてくださるからです。あなたに求められていることは、神の最善を信じ、それが良いことでも悪いことでも、神が語られたことに喜んで従うことなのです。

Ⅱ.信仰によって判断する (7-19)

次に、7~19節までをご覧ください。17節までをお読みします。

「7 十日たって、【主】のことばがエレミヤにあった。42:8 エレミヤは、カレアハの子ヨハナンと、彼とともにいる軍のすべての高官たちと、身分の低い者や高い者をみな呼び寄せて、42:9 彼らに言った。「あなたがたは自分たちのために嘆願してもらおうと私を主に遣わしたが、そのイスラエルの神、【主】はこう言われる。42:10 『もし、あなたがたがこの地にとどまるのであれば、わたしはあなたがたを建て直して、壊すことなく、あなたがたを植えて、引き抜くことはない。わたしは、あなたがたに下したあのわざわいを悔やんでいるからだ。42:11 あなたがたが恐れているバビロンの王を恐れるな。彼を恐れるな──【主】のことば──。わたしがあなたがたとともにいて、彼の手からあなたがたを救い、助け出すからだ。42:12 わたしがあなたがたにあわれみを施すので、彼はあなたがたをあわれんで、あなたがたを自分たちの土地に帰らせる。』42:13 しかし、あなたがたが『私たちはこの地にとどまらない』と言って、あなたがたの神、【主】の御声に聞き従わず、42:14 『いや、エジプトの地に行こう。あそこでは戦いにあわず、角笛の音も聞かず、パンに飢えることもない。あそこに私たちは住もう』と言うのであれば、42:15 今、ユダの残りの者よ、【主】のことばを聞け。イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。『もし、あなたがたがエジプトに行こうと決意し、そこに行って寄留するなら、42:16 あなたがたの恐れている剣が、あのエジプトの地であなたがたを襲い、あなたがたの心配している飢饉が、あのエジプトであなたがたに追い迫り、あなたがたはそこで死ぬ。42:17 エジプトに行ってそこに寄留しようと決意した者たちはみな、そこで剣と飢饉と疫病で死ぬ。わたしが彼らに下すわざわいから、生き残る者も逃れる者もいない。』」

十日たって、主のことばがエレミヤにありました。エレミヤが主に祈ってからすぐに主の答えがあったわけではありません。そのためには10日間待たなければなりませんでした。それは、彼らが主から祈りの答えをいただくために心を準備する時間でした。祈りには、時間をかけて、主を待ち望むことが必要な時があります。彼らにはエジプトに下っていってバビロンから逃れようという焦りしかありませんでした。それでも、待たなければならない時には、待たなければなりません。

ある牧師がこう言いました。「祈りの95%は、主が示される祈りの答えを行うことができるようにするための準備である」と。私たちは気軽に、「主が言われることは何でも行います」と言いますが、本当にそうでしょうか。確かにそれは言うにやすしですが、実行することは難しいことです。私たちはもう一度本当にそうなのかどうか、自分の心を吟味しなければなりません。

さて十日たって、エレミヤに主のことばがありました。それは次の二つのことでした。一つは10~12節にあるように、もし彼らがこの地、すなわちユダの地にとどまるなら、主は彼らを建て直し、壊すことなく、彼らを植えて、引き抜くことはしないということでした。またバビロンの王を恐れなくてもよいということでした。なぜなら、主が彼らとともにいて、彼の手から彼らを救い、助け出してくださるからです。そればかりではありません。主が彼らにあわれみを施されるので、自分たちの土地に帰ることができるということでした。

一方、それに反して、「私たちはこの地にとどまらない」と言って、彼らの神、主の御声に聞き従わず、エジプトに下っていこうと言うのであれば、彼らが恐れている剣がエジプトの地で彼らに襲い、彼らが心配している飢饉が、彼らに追い迫り、そこで死ぬことになります。それは主が下すわざわいで、そこから逃れる者はだれもいません。だから、主はこう言われました。19節です。「ユダの残りの者よ、主はあなたがたに「エジプトへ行ってはならない」

これが主の御心でした。主はご自身のみこころを明白に示されました。それは、彼らにとって歓迎できることではありませんでした。むしろ、エジプトに行った方がどれほど明るい未来があると思ったことでしょう。なぜなら、14節にあるように、そこでは戦いもなく、パンに飢えることもなく、疫病で死ぬこともないかのように見えたからです。しかし、人の目には魅力的に見える場所が、必ずしも祝福される地であるとは限りません。そこが戦いと飢饉、疫病が満ちたわざわいの地となることもあるのです。つまり、神のことばに従わなければ、そこにはわざわいがもたらされるということです。しかし、神がともにおられるなら、そこは祝福に変えられます。最も安全で良い地は、神がともにおられる地です。神がともにおられるなら、砂漠も肥沃な地に変えられ、死の谷も天国に変わるのです。いのちと祝福の源は、神がともにおられるかどうかにかかっているのです。

このことからどういうことが言えるでしょうか。目に見えるところによって歩んではならないということです。たとえそこが魅力的に見えるところであっても、そうしたことによって判断するのではなく、神のみこころは何か、何が良いことで、神に喜ばれることなのかを基準として判断しなければなりません。つまり、信仰によって歩まなければならないということです。

皆さんは、ファニー・クロスビー(1820年~1915年)という賛美歌の作詞者をご存知だと思います。彼女は、その生涯に「十字架のかげに」、「罪、咎を赦され」、「恐れなく近寄れと」等、5000以上の賛美歌を作ったと言われています。
  実は、彼女は生涯のほとんどを、盲目の中で過ごしました。生後6週間で眼科医のミスにより失明してしまったのです。その後、すぐに彼女のお父さんが亡くなったので、彼女のお母さんは生計をたてるために、毎日朝早くから、夜遅くまで仕事に出かけなければなりませんでした。ですから、彼女の世話はおばあちゃんがしました。
  おばあちゃんはとても信仰に篤い人でした。毎日、自分の手元に彼女を置いて、一生懸命神様の話を聞かせました。そして、聖書の言葉を暗記するように指導しました。だから彼女は小さい時から、たくさんの聖書の言葉を暗記したのです。それが後に、彼女が美しい詩を作っていくための材料になりました。
  彼女が8歳の時に作った、こんな詩が残っています。
 「他の人なら見過ごしてしまう神の恵みを、私はどれほど多く感じ喜んでいるでしょう。盲目だからと言って泣いたり、ため息をついたりということはできないし、するつもりもありません。」

8歳の子供ですよ。すごいですね。彼女は、肉体の目が見えるということよりも心の目が見えることの方がはるかにすばらしい、という価値観を小さい時から身に付けていたのです。
  彼女は、95年の生涯を送っていますが、数え切れないほどの美しい賛美歌を作りました。大人になった彼女は、ある日こう言っています。
  「失明したことは、私の人生の中で起こった最高の出来事でした。もし、この目が見えていたならば、私はこんなにもたくさんの詩を作ることができなかったと思います。」
  彼女は38歳の時、同じ音楽家と結婚しますが、生まれてきた子供が、すぐになくなってしまいました。そういう悲しみの中でも、彼女はすばらしい詩を作り続けていきました。

彼女を気の毒に思った人もいました。ある宣教師がなぐさめるつもりで彼女に、「神があなたにこれほど多くの賜物を与えながら、視力をお与えにならなかったのは、とても残念です」と言うと、彼女はこれに、信じられないような返答をしました。

「もし生まれるときに願いごとができたなら、私は盲目で生まれさせてくださいと願うでしょう。なぜなら、天国に行って私が最初に目にするのは、私の救い主のお顔だからです。」

彼女が亡くなって100年以上経ちますが、今も世界中で彼女の詩は、歌い続けられています。彼女の詩はいつも、天国の希望に満ち溢れています。 「どんな苦難の中にあっても、神は私と共にあり、私を慰めてくださる。」
 これが彼女の信仰でした。彼女はいつも永遠の視点で人生を見ていたのです。私たちが抱える問題は、永遠の光の中では違って見えるのです。ですからパウロはこう言いました。

「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。 私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです」(Ⅱコリ4:17-18)。

イエスとお会いする栄光の日が来ることを思うと、この世の試練はかすんで見えます。永遠をいかに見るかが、私たちの生き様に影響を与えるからです。だから、見えるものによってではなく、見えないものに目を留めましょう。どんな苦難の中にあっても、神は私と共におられるという信仰によって歩みたいと思うのです。

Ⅲ.私の願いではなく、主のみこころがなりますように(20-22)

ですから第三のことは、自分の思いではなく、主のこころを優先しましょうということです。20~22節をご覧ください。

「42:20 あなたがたは、自分たちのいのちの危険を冒して迷い出てしまったからだ。あなたがたは私をあなたがたの神、【主】のもとに遣わして、『私たちのために、私たちの神、【主】に祈り、すべて私たちの神、【主】の言われるとおりに、私たちに告げてください。私たちはそれを行います』と言ったのだ。42:21 私は今日、あなたがたに告げたが、あなたがたは、自分たちの神、【主】の御声を、すなわち、主がそのために私をあなたがたに遣わされたすべてのことを聞こうとしなかった。42:22 だから今、確かに知らなければならない。あなたがたが、行って寄留したいと思っているその場所で、剣や飢饉や疫病で死ぬことを。」」

エレミヤを通して語られた主のことばに対して、彼らはどのように応答したでしょうか。彼らは「主が私たちのためにあなたを遣わして告げられることばのとおりに、すべて行います。」(5)と言っていたにもかかわらず、エレミヤから告げられた主のことばを聞こうとしませんでした(21)。自分たちの判断を、主のことばよりも優先したのです。彼らは最初から聞く気などありませんでした。彼らはすでにエジプトに下って行くことを決めていて、その思いに神が同意してくれたときのみ、神のことばに従おうと思っていたのです。結局のところ、彼らの従順は中途半端なものであり、ただエレミヤを利用しようとしたにすぎなかったのです。その結果はあまりにも明白です。その結果は何ですか。戦いと飢饉と疫病による死でした。「罪から来る報酬は死です。」(ローマ3:23)とある通りです。エレミヤは、そのような彼らの姿を見ていて、どれほど歯がゆかったことでしょうか。どれほど悔しかったでしょう。どれほど悲しかったでしょう。

ヘンリー・ブラッカビーが書いた「神の御声にこたえる人生」という本に、こんな話があります。
  「私が初めて執り行った葬式は3歳の女の子のものでした。その子が生まれた時のことを覚えています。その子は、あまり聞き分けの良い子ではありませんでした。その家庭を訪問した時、その子は親の言うことを当たり前に無視していました。来いと言えば去って行き、座れと言えば立ちました。親はそんな行動をただかわいらしいと考えていました。そんなある日、子どもが庭から道路へと走って行くのが見えました。そして同時に、向こうから自動車が猛スピードで近づいてきました。子どもは駐車していた2台の車の間をすり抜けて、道路へ向かって行きました。あわてた両親は「だめだよ、帰っておいで!」と叫びましたが、子どもはちょっと立ち止まって親の方をちらっと振り返ると、にこって笑って走ってくる自動車のほうへと走り出しました。そして、車はすごい勢いでその子とぶつかりました。すぐに病院に運ばれましたが、子どもは結局亡くなってしまいました。夫婦が一人娘の死を確認したその時、私も病室に一緒にいました。葬式で響き渡った嘆きの声は、断腸の悲しみでした。その葬式を、私は今でも忘れることができません。」

なぜこんな悲劇が起こってしまったのでしょうか。その子には親の声が聞こえなかったのでしょうか。そうではありません。聞こえていましたが、それに従う訓練がなされていなかったのです。神の御声に聞き従うことが、私たちが生きる道です。私たちに必要なものは、神の御心であるならそのとおりに行うという単純な心、忠実な心、一貫した心です。状況が困難だからと言い訳をしてそこから逃げないことが肝心です。イエス様がゲッセマネの園で祈られたように、「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」(ルカ22:42)と祈らなければなりません。

あなたはどうでしょうか。あなたの心は神のことばを受けて良い実を結ぶ良い地ですか。神のことばが根を下ろさないように妨げているものがあるとしたら、それは何ですか。私たちが求めるものと主が望まれるものが違うときき、あなたはどうなさいますか。私たちの人生の主権者は誰なのかを思い起こし、その方のみこころ、ご計画に従う決断ができるように祈りましょう。

エレミヤ41章1~18節「みこころを知り、みこころに従う」

Word PDF

きょうは、エレミヤ書41章からお話します。タイトルは、「みこころを知り、みこころに従う」です。この41章は、前回お話した40章からの続きとなっています。

前回は、エレミヤがバビロンの王の親衛隊長ネブザルアダンから、あなたが行ってよいと思う、気に入ったところへ行きなさいと言われまたが、エルサレムの貧しい民の間に住むことを選択したことを見ました。なぜなら、それが神から彼に与えられた使命、神のみこころだったからです。また、総督ゲダルヤは、ユダに残された民に「カルデア人に仕えることを恐れてはならない。この地に住んで、バビロンの王に仕えなさい。そうすれば、あなたがたは幸せになる。」と言いました。なぜなでしたか?それが神のみこころだったからです。

しかし、そんなゲダルヤでしたが、アンモン人の王によって遣わされたイシュマエルによる暗殺計画を見破ることができませんでした。彼は霊的、信仰的に優れていましたが実際的な面で弱いところがあったのです。ですから、神のみこころに従うためには、それを妨げようとする悪魔の策略に対してしっかりと対処するために、御霊の武具を身にまとい備えていなければなりません。

今回は、その続きです。神のみこころを知り、みこころに従うためにはどうしたら良いのでしょうか。

 Ⅰ.高慢は破滅に先立つ(1-10)

まず、1~10節をご覧ください。3節までをお読みします。

41:1 ところが第七の月に、王族の一人、エリシャマの子ネタンヤの子イシュマエルは、王の高官と十人の部下とともに、ミツパにいるアヒカムの子ゲダルヤのもとに来て、ミツパで食事をともにした。41:2 ネタンヤの子イシュマエルと、彼とともにいた十人の部下は立ち上がって、シャファンの子アヒカムの子ゲダルヤを剣で打ち殺した。イシュマエルは、バビロンの王がこの地の総督にした者を殺した。41:3 ミツパでゲダルヤと一緒にいたすべてのユダの人たちと、そこに居合わせたカルデア人の戦士たちを、イシュマエルは打ち殺した。」

1節の「ところが」とは、イシュマエルが総督ゲダルヤを暗殺しようとしているという知らせをカレアハの子がヨハナンがゲダルヤに伝えたにもかかわらず、ゲタルヤはそれを本気にするどころかヨハナンこそ偽りを語っていると言って受け入れなかったことを受けてのことです。ところが、第七の月に、王族の一人、エリシャマの子ネタンヤの子イシュマエルが、王の高官と10人の部下とともに、ミツパにいたゲダルヤのもとにやって来ると、彼を剣で打ち殺してしまいました。これは、あらゆる面で忌むべきことでした。
  第一に、ここに「第七の月」とありますが、これは今の暦で言うと10月に当たります。この第七の月には、ユダヤでは仮庵の祭りをはじめ、さまざまな祭りが行われる月です。そういう最も聖なる月に暗殺が行われたのです。
  それだけではありません。ここには「ミツパで食事をともにした」とあります。それは食事の席で行われました。イシュマエルの一行はゲダルヤのもてなしを受けていたのです。中東では食事をともにするというのは、親しい交わりを持つことを意味していました。ですから、ゲダルヤはまさかイシュマエルがアンモン人の王に雇われて反乱を起こすなんて想像もできなかったでしょう。しかし、イシュマエルはその食事の席でゲダルヤを打ち殺したのです。これは本当に卑劣な行為です。
  殺されたのはゲダルヤだけでなく、彼とそこに一緒にいたすべてのユダの人たちと、そこに居合わせたカルデアの戦士たちも含まれていました。いったいなぜイシュマエルはこのような反乱を起こしたのでしょうか。

1節には、このイシュマエルについて「王族の一人」と紹介していますが、これは、彼がダビデの家系であったことを表しています。ダビデ王の家系ある自分こそユダを統治するにふさわしい人物であるのに、ゲダルヤがその立場に立っていることを受け入れられなかったのです。また、2節には「バビロンの王がこの地の総督にした者」とありますが、ゲダルヤのことをわざわざこのように紹介しているのは、彼がバビロンの王によって立てられた総督であることを強調するためです。すなわち、イシュマエルの中にバビロンに対する敵対心があったことを表しているのです。そうです、イシュマエルが総督ゲダルヤを殺したのは、バビロンの支配下で営まれる政治を正当なものとして受け入れることができなかったからです。彼はそれらを不当な統治であるとみなし、これを排除しようとしたのです。それは、その後に起こる第二の事件を見てもわかります。4~10節をご覧ください。

「41:4 ゲダルヤが殺された次の日、まだ、だれもそれを知らなかったとき、41:5 シェケム、シロ、サマリアから八十人の者がやって来た。彼らはみな、ひげを剃り、衣を引き裂き、身に傷をつけ、穀物のささげ物や乳香を手にして、【主】の宮に持って行こうとしていた。41:6 ネタンヤの子イシュマエルは、彼らを迎えにミツパを出て、泣きながら歩いて行った。そして、彼らに出会ったとき、「アヒカムの子ゲダルヤのところにおいでください」と言った。41:7 彼らが町の中に入ったとき、ネタンヤの子イシュマエルと、彼とともにいた部下たちは、彼らを殺して穴の中に投げ入れた。41:8 彼らのうちの十人がイシュマエルに、「私たちを殺さないでください。私たちには、小麦、大麦、油、蜜など、畑に隠されたものがありますから」と言ったので、彼は、彼らをその仲間とともに殺すのをやめた。41:9 イシュマエルが、ゲダルヤの指揮下にあった人々を打ち殺し、その死体すべてを投げ入れた穴は、アサ王がイスラエルの王バアシャに備えて作ったものであった。ネタンヤの子イシュマエルはそれを、殺された者で満たした。41:10 イシュマエルは、ミツパにいた民の残りの者たち、すなわち王の娘たち、および親衛隊の長ネブザルアダンがアヒカムの子ゲダルヤに委ねた、ミツパに残っていたすべての民を捕らわれの身とした。ネタンヤの子イシュマエルは彼らを捕囚にして、アンモン人のところに渡ろうとして出発した。」

次の日のことです。まだ、だれもそれを知らなかったとき、 シェケム、シロ、サマリアから80人の者が主の宮にささげ物をささげるために、やって来ました。「それ」とは、イシュマエルがゲダルヤを殺害したことです。シェケム、シロ、サマリアといった町々は、北王国イスラエルにある町です。そこはかつて偶像礼拝の中心地でしたが、B.C.722年にアッシリアによって滅ぼされると、そこにユダヤ人とアッシリア人の混血の民サマリア人が生まれ、独自の宗教が始まりました。それにもかかわらず、中には真の神、ヤハウェを信じるユダヤ人たちが残されていて、エルサレムの神殿に上って礼拝をささげていたのです。彼らはエルサレムが破壊されたことを知りながら、なおもそこで礼拝をささげようとしてやって来たのです。5節に、ひげを剃り、衣を引き裂き、身に傷をつけとあるのは、深い悲しみを表しています。神殿が焼失してからしばらく経っていましたが、彼らは秋に行われる祭りを、神に対する悔い改めの日にしようとしたのです。動物のいけにえを持っていなかったのは、それをささげる場所がなかったからです。北王国イスラエルに、このような真の神、ヤハウェを信じる神の民が残されていたことは驚きですね。おそらく南ユダ王国のヒゼキヤ王やヨシヤ王によって行われた宗教改革の影響が残っていたのでしょう。神を求める人はだれもいないと思えるような今日にあっても、私たちの知らないところで、神はこうした残りの民を備えておられるということを知ることは大きな励ましです。

さて、彼らが主の宮にやって来たということを聞いたイシュマエルはどうしたでしょうか。6節を見てください。彼は彼らを迎えにミツパを出て、泣きながら歩いて行ったとあります。それは彼らを騙すための演技でした。そして彼らに出会ったとき彼はゲダルヤの家に誘い込み、彼らを殺してしまいました。何と残虐な行為でしょうか。しかし、彼らのうちの10人が「殺さないでください」と懇願し、小麦、大麦、油、蜜などの提供を約束すると、彼らを殺しませんでした。それでイシュマエルはミツパに残っていたすべての民を捕虜にして、アンモン人のところに渡そうとして出発したのです。彼はゲダルヤを殺害しただけでなく、主を礼拝するために北からやって来た人たちを虐殺したのです。いったいなぜ彼はこんな酷いことをしたのでしょうか。また、なぜ聖書はこの出来事を事細かにここに書き記しているのでしょうか。

多くの学者は、それはこのイシュマエルの残虐な人間性を示すためであったと考えていますが、そのことを示すためにわざわざこの出来事を記録したのでしょうか。それで他の学者は、これは彼の貪欲さを示すためであった考えています。それは8節に、彼らのうちの10人がイシュマエルに小麦とか、大麦、油、蜜などの提供を約束すると、彼は殺すのを止めたとあるからです。確かにそのような理由もあったでしょうが、もっと深い理由があったのではないかと思います。というのは、ただやみくもに通りがかりの人を虐殺したとは考えにくいからです。であれば、その理由とは何でしょうか。

それは、政治的、宗教的な理由です。なぜゲダルヤがエルサレムを治めなければならないのか。エルサレム神殿が破壊されたのに、なぜエルサレムで礼拝をささげなければならないのかということです。エルサレムを治めるのはダビデの家系である自分ではないのか。それなのにバビロンの王はゲダルヤを総督として立てた。そんなの断じて許せないし、認めることなどできない。だからイシュマエルはアンモン人の王と結託してゲダルヤを暗殺したのです。だからイシュマエルはサマリアからやって来た巡礼者一行を虐殺したのです。彼は、自分の先祖ソロモンが建てた神殿以外で行われる礼拝を受け入れることができなかったのです。彼はただやみくもに通りがかりの人を殺したわけではありません。バビロンの支配下で営まれる政治や宗教はすべて偽りであるとみなし、これを排除しようとしたのです。

強いて言うならば、彼は神のみこころを受け入れることができなかったのです。これらのことは、それを拒絶しようという思いから出た行為だったのです。というのは、神のみこころは何でしたか?神のみこころは、彼らがこの地に住んでバビロンの王に仕えることだったからです。40章9節を振り返ってみましょう。ここには、「ガルデア人に仕えることを恐れてはならない。この地に住んで、バビロンの王に仕えなさい。そうすれば、あなたがたは幸せになる。」とあります。どうすれば、幸せになりますか?この地に住んで、バビロンの王に仕えるなら、幸せになります。それが神のみこころだったのに、彼はそれを受け入れることができませんでした。「なぜ、バビロンに仕えなければならないのか」、「なぜ異邦人の言いなりにならなければならないのか」、「神は勝利を与えてくださるはずじゃないか。だから最後まで戦うべきではないか。それをしないのは不信仰だ。」と。ですからこれは彼が単に残虐な人間だからとか、貪欲な者であったということを示しているのではなく、神のみこころに従おうとしなかった頑なさが、このような事件を引き起こしたということを示しているのです。このように、イシュマエルの行動の動機というものを、神との関係、宗教的な点に求めてこそ、これらの出来事の本当の原因が見えてくるのです。

それはイシュマエルに限ったことではなく、私たちにも言えることではないでしょうか。私たちも自分の中で受け入れられないことがあると、イシュマエルのような気持ちになることがあります。

先日、ある牧師から電話がありました。その牧師は臨床心理の専門家と協力して心が病んでいる方を助けてあげたいといろいろな情報を発信しているのですがなかなか思うように広がらないので、どうしたら良いかアドバイスしてほしい、ということでした。そんなに親しい方ではないのになぜ私に電話をしてきたのか不思議に思いましたが、ずっと話を聞いていると電波の関係であまりよく聞き取れないこともありましたが鉄砲のように話し続けて止まらないので、聞いていてホトホト疲れ果ててしまいました。一生懸命に説明しようとしているのはわかりますが、そもそも私は人の心を癒すのは神ご自身と神のことばによるのであって、人間の科学や哲学は癒すことはできないと考えているので、「ごめんない。私はすこし体調を崩していることもあって休養しているので、お手伝いしていることはできません。」と丁重にお断りすると、今度はそのことについて突いてくるのです。「先生、信仰はどうしたんですか。そういう時だからこそ信仰が問われているんですよ。信仰は頭だけでなくその実践が大切なんですから」と。
  私はそのことばを聞きながらこう思いました。「この牧師は一生懸命なのはわかるけれど一生懸命になりすぎて回りが見えなくなっているんだなぁ」と。だから、そうでない状況を受け入れることができないのです。

これがこの世に対してですと、顕著にみられます。どうして自己中心の塊みたいな夫に仕えなければならないのか、どうして未信者の上司の言うことを聞かなければならないのか、どうして不信者の政治家が作ったこの世の制度に従わなければならないのかと。皆さん、どうしてですか。どうして神を信じていないこの世の言うことを聞かなければならないのですか。それは、聖書にそう書かれてあるからです。ローマ13章1~2節にはこうあります。

「13:1 人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです。13:2 したがって、権威に反抗する者は、神の定めに逆らうのです。逆らう者は自分の身にさばきを招きます。」

これが、聖書が教えていることです。たとえそれが未信者であっても、人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです。したがって、権威に反抗する者は、神の定めに逆らっているのであって、そのような者は自分の身にさばきを招くことになるのです。

これがイシュマエルの問題でした。これが私たちの問題でもあります。その結果、イシュマエルのように人を殺すようなことはしなくとも、自分の考えに固執するあまり、いつまでも神のみこころに立つことができないでいることがあるわけです。神のみこころに従うというよりも、あくまでも自分の思いを通したいのです。あたかも自分が神になったかのような錯覚をしてしまうのです。これは本当に危険なことです。箴言16章18節に、「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。」とある通りです。

この世は、上へ、上へと、人を追い越していくようにと駆り立てますが、聖書は、キリストが十字架にかかった後によみに下られたように、低いところに下ることの祝福を教えています。つまずき倒れたその先に、自分が知らなかった世界を見出すこともあるのです。水が高い所から低い所に注がれるように、神の恵みも高い所から低い所に注がれるのです。大切なことは神を認め、神のみこころに従うことです。それが謙遜であるということです。神の前になぜと問う前に、みこころが天で行われるように地でも行われますように、私の人生にも行われますようにと祈らなければなりません。

Ⅱ.主のはかりごとだけが成る(11-15)

次に、11~15節までをご覧ください。

「41:11 しかし、カレアハの子ヨハナンと、彼とともにいた軍のすべての高官たちは、ネタンヤの子イシュマエルが行ったすべての悪を聞くと、41:12 部下をみな連れて、ネタンヤの子イシュマエルと戦うために出て行き、ギブオンにある大池のほとりで彼を見つけた。41:13 イシュマエルとともにいたすべての民は、カレアハの子ヨハナンと、彼とともにいるすべての高官を見て喜んだ。41:14 こうして、イシュマエルがミツパから捕らえて来た民のすべては身を翻し、カレアハの子ヨハナンの側についた。41:15 ネタンヤの子イシュマエルは、八人の者とともにヨハナンの前から逃れ、アンモン人のところへ行った。」

イシュマエルの行為に対して、カレアハの子ヨハナンは黙っていませんでした。ヨハナンは、40章でイシュマエルによる暗殺計画を総督ゲダルヤに伝えた人物です。ゲダルヤの死後、ユダに残された将校たちのリーダーになっていた彼は、部下を連れてイシュマエルのあとを追い、ギブオンで彼に追いつくと、捕らわれていた人々は、この時とばかりにヨハナンの側についたので、イシュマエルは生き残っていた自分の部下8人とともにヨハナンの前から逃げ、アンモン人のところへ行きました。

イシュマエルは、ミツパにいたすべての民をとりこにしてアンモンに向かいながら、すべてがうまくいっていると感じたことでしょう。しかし、神は彼の悪い行いをカレアハの子ヨハナンと将校たちを用いて、討ち破られたのです。箴言19章21節に、「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る。」とあります。どんなに人が計画を立てても、主のはかりごとだけが成ります。神のみこころにかなわない計画は絶対に成功しません。表面的には順調に進んでいるかのように見えても、神がともにおられないならば、成功することはないのです。しかし、それがどんなに苦しくても自分に対する神の計画ならば、こんなはずではなかったと思うような出来事や試練に遭遇することがあっても、それは必ず成し遂げられます。むしろ、そのような経験さえも神に出会ったり、大きな祝福に導かれるために用いてくださるのです。

私は18歳の時、ある宣教師と出会い、教会に導かれ、神様に出会いました。ある日曜日の朝、私が自転車で教会へ行こうとしたら、母が私に言いました。
「とみちゃん、どこに行くの?」
 どこに行くのって教会に行くので、「ん、教会だよ。」と言うと、
「あんまり深入りしらんなよ」
と言いました。でも、いつしか深入りしてしまいました。
  その4年後に、その宣教師と結婚すると教会開拓に導かれました。あれから40年余、いろいろなことがありましたが、振り返ってみると、これが神様の計画だったんだなぁと、つくづく感じます。確かに辛いことや苦しいこともありました。その方が多かったかもしれない。時には辞めたいなあと思うこともありました。でもそのような経験を通して、もっと深く神を知ることができました。「あんまり深入りしらんなよ」と言った母も救われ、65歳の時に洗礼を受けました。どれだけの方々が救われたでしょうか。こんな小さな者を用いて、神様はいくつかの教会も生み出してくださいました。多くの奇跡も体験させていただきました。何よりも神の子としての特権が与えられ、永遠に神とともに生きるいのちが与えられました。これほどすばらしい人生を歩めるのは本当に幸いだと思います。マルチン・ブーマーは、「人生は出会いで決まる」と言いましたが、そのような出会いが与えられたことを感謝しています。それが、神の計画だったんです。もしそれに従わなかったら、今頃どうなっていたか想像することもできません。

私たちには多くの計画がありますが、しかし、主のはかりごとだけが成ります。ならば、私たちに求められていることは、主のはかりごと、主の計画に歩ませていただくことです。あなたに対する神様のご計画は何ですか。それがあなたの思いと違っても、こんなはずじゃなかったと思うようなこともあっても、神はすべてのことを働かせて益としてくださると信じて、あなたに対する神の計画を祈り求め、その道を歩ませていただこうではありませんか。それは人それぞれ違いますが、たとえそれが自分の思いと違っても、「これが道だ。これに歩め」と言われる主の御声を聞き従いたいと思うのです。

Ⅲ.恐れないで主に拠り頼む(16-18)

ですから第三のことは、何も思い煩わないで、神にすべてをゆだねましょうということです。16~18節をご覧ください。

「41:16 ネタンヤの子イシュマエルがアヒカムの子ゲダルヤを打ち殺した後、カレアハの子ヨハナンと、彼とともにいたすべての高官たちは、ネタンヤの子イシュマエルから取り返したすべての残りの民、すなわちギブオンから連れ帰った勇士たち、戦士たち、女たち、子どもたち、および宦官たちを連れて、ミツパから41:17 エジプトに行こうとして、ベツレヘムの傍らにあるゲルテ・キムハムへ行き、そこにとどまった。41:18 バビロンの王がこの地の総督としたアヒカムの子ゲダルヤを、ネタンヤの子イシュマエルが打ち殺したため、カルデア人を恐れたからである。」

カレアハの子ヨハナンを中心に、残されたわずかな数の民は思案します。このままでは自分たちはバビロンに疑われ、再び攻撃を受けるのではないかと。なぜなら、バビロンによって総督として立てられたゲダルヤを殺したイシュマエルを取り逃してしまったのですから。そこで彼らが考えたことは、エジプトに一時避難することでした。そこで彼らはミツパからベツレヘムの傍らにあるゲルテ・キムハムへ行き、そこにとどまりました。「ゲルテ」とは「宿場」という意味です。ですから、新共同訳では「ベツレヘムに近いキムハムの宿場にとどまった。」と訳しているのです。

でも、それは主のみこころではありませんでした。なぜなら、昔からイスラエルの民には、エジプトに下ることが禁じられていたからです。たとえば、出エジプト14章13節には、「モーセは民に言った。「恐れてはならない。しっかり立って、今日あなたがたのために行われる【主】の救いを見なさい。あなたがたは、今日見ているエジプト人をもはや永久に見ることはない。」とありますし、申命記17章16節には、「ただし王は、決して自分のために馬を増やしてはならない。馬を増やすために民をエジプトに戻らせてはならない。【主】は「二度とこの道を戻ってはならない」とあなたがたに言われた。」とあります。かつて奴隷として捕えられていたエジプトに帰ることは、出エジプトという神の恵みにあずかりながら、古いエジプトの生活に戻ることであり、神のみこころに反することだったのです。それなのになぜ、彼らはエジプトに行こうとしたのでしょうか。それは18節にあるように、カルデア人を恐れたからです。ゲダルヤを殺したイシュマエルを取り逃がしてしまったことで自分たちが疑われ、再び攻撃されることを心配したのです。

皆さん、恐れや不安があると正しい判断や決定を下すことができません。不安は前をさえぎる黒い雲のようなものです。不安な心は神から与えられるものではなく、自分の思いから出てきます。神とともに歩む人は神が与えてくださる平安の中で、神のみこころに歩むことができるのです。

カレアハの子ヨハナンは有能な将校でした。政治的な判断に優れ、物事の動きを洞察する力がありました。しかし、そんな彼にも欠けているものがありました。それは信仰です。神のみこころはエレミヤが預言したように、この地に住んで、バビロンの王に仕えなさいということでしたが、彼はそれを受け止めることができませんでした。自分たちが疑われるのではないかと心配し、その仕打ちを受けることを恐れて、そこから逃れる道を考えたのです。

私たちにもそういうことがあるのではないでしょうか。困難に直面した時、まだ起こっていなことをあれこれと想像して不安になることがあります。そんな時私たちに求められていることは、自分たちの知恵でそれを解決しようとするのではなく、まず神の御前にひれ伏し、自分自身を点検し、悔い改めて、主のみこころを求めて祈ることです。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたかたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

19世紀のアメリカの伝道者W・D・コールは、「平安、天から臨む平安、その愛の波が、とこしえにわがたましいを覆いますように。」と言いました。神から与えられる平安こそ、恐れや困難の中にあっても神のみこころを正しく知り、みこころに従うことができる原動力なのです。

あなたが恐れていることは何ですか。何を心配していますか。それを永遠の避け所である神のもとに持って行き、神に知っていただきましょう。神に拠り頼みましょう。そうすれば、神があなたのことを心配してくださいます。そして、あなたの理解をはるかに超えた神の平安で、あなたの心と思いを守ってくれます。そして主のみこころを悟り、みこころに従うことができるようになるのです。ですから、最後にまとめとして、ピリピ人への手紙4章6~7節を読んで終わりたいと思います。

「4:6 何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。4:7 そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」

混乱と恐れが襲ってくる時には、永遠の避け所である主のもとへ行き、神に拠り頼むことができますように。それがみこころを知り、みこころを行うために私たちにも求められていることなのです。

エレミヤ40章1~16節「そうすれば、幸せになる」

Word PDF

エレミヤ書40章に入ります。今日のタイトルは、「そうすれば、幸せになる」です。どうすれば幸せになるのでしょうか。主のみこころに従うなら、です。9節に「カルデア人に仕えることを恐れてはならない。この地に住んで、バビロンの王に仕えなさい。そうすれば、あなたがたは幸せになる。」とあります。なぜなら、それが神様のみこころだからです。神のみこころに従うなら、あなたは幸せになるのです。

今日は、このことについて三つのことをお話します。第一のことは、エレミヤの選択です。彼はバビロンに行くこともできましたが、エルサレムに留まり、貧しいユダの民の中に住むことを選びました。なぜでしょうか。それが神のみこころであると確信したからです。第二のことは、ユダの総督に任じられた総督ゲダルヤの誓いです。彼はエルサレムに住むユダの民に、バビロンの王に仕えるようにと勧めました。なぜなら、それが神のみこころだからです。そうすれば、幸せになると、彼は確信していたのです。第三のことは、主のみこころに従うためには状況をよく見極める必要があるということです。それを誤ると、とんでもない結果になってしまうことがあります。ですから、神のみこころに従うためにはそれを妨げる悪魔の策略に対処し、状況をしっかりと見極めなければなりません。

 Ⅰ.エレミヤの選択(1-6)

まず、1~6節をご覧ください。1節をお読みします。

「40:1 【主】からエレミヤにあったことば。バビロンへ引いて行かれるエルサレムとユダの捕囚の民の間で鎖につながれていたエレミヤを、親衛隊の長ネブザルアダンがラマから釈放した後のことである。

ここに、「主からエレミヤにあったことば」とありますが、本文を見るとどこにも主のことばは見当たりません。この後で主がエレミヤに語られるのは42章7節です。ですから、このエレミヤにあった主のことばとは、ここから始まるエレミヤ書にとって一つのまとまりとなる45章の終わりまでの表題と考えられます。この一つのまとまりには、エルサレムが陥落した後どのようなことが起こったのかが記録されてあります。それ全体の表題なのです。では、その時どんなことがあったのでしょうか。

この1節の残りの部分には、「バビロンへ引いて行かれるエルサレムとユダの捕囚の民の間で鎖につながれていたエレミヤを、親衛隊の長ネブザルアダンがラマから釈放した後のことである。」とあります。
  ここには、捕囚の民として鎖につながれていたエレミヤを、バビロンの親衛隊の長ネブザルアダンが釈放した時のことが記されてあります。「ラマ」とは、エルサレムの北方8キロのところにあるベニヤミン領内にある町ですが、エレミヤはそこで釈放されました。エルサレムが陥落した後、バビロンに捕え移されるユダの人々はこのラマに集められたのですが、その中にエレミヤもいたのです。それを見たバビロンの親衛隊の長ネブザルアダンは、即座に彼を釈放しました。なぜでしょうか?その理由が2節から4節までにあります。

「40:2 親衛隊の長はエレミヤを連れ出して、彼に言った。「あなたの神、【主】は、この場所にこのわざわいを下すと語られた。40:3 そして【主】はこれを下し、語ったとおりに行われた。あなたがたが【主】の前に罪ある者となり、その御声に聞き従わなかったので、このことがあなたがたに下ったのだ。40:4 そこで今、見よ、私は今日、あなたの手にある鎖を解いて、あなたを釈放する。もし私とともにバビロンへ行くのがよいと思うなら、行きなさい。私があなたの世話をしよう。しかし、もし私と一緒にバビロンへ行くのが気に入らないなら、やめなさい。見なさい。全地はあなたの前に広がっている。あなたが行ってよいと思う、気に入ったところへ行きなさい。」

彼はバビロンの親衛隊の長でしたが、エルサレムが陥落した時バビロンの王ネブカドネツァルからこのように命じられていました。39章12節です。

「彼を連れ出し、目をかけてやれ。何も悪いことをするな。ただ彼があなたに語るとおりに、彼を扱え。」

バビロンの王がなぜこのように言ったのかはわかりません。おそらく彼は、エレミヤが語っていたことを聞いていたのでしょう。つまり、バビロンに降伏することが主のみこころであり、ユダの民が生き残る道であるということを、です。そのように預言していたエレミヤを、ネブカドネツァルはよくしてあげようと思ったのです。それは親衛隊の長のネブザルアダンも同じでした。2節と3節にあるように、彼がエレミヤを連れ出して、彼に、「あなたの神、主は、この場所にこのわざわいを下すと語られた。そして主はこれを下し、語ったとおりに行われた」と言っているように、彼は幾度となくエレミヤの語っていた預言を聞いていたのです。それがそのとおりになったのを見て、それはイスラエルの神、主がなされたことであると認め、その偉大な神の御業のゆえに、エレミヤを釈放しようと思ったのです。

本当に皮肉なことですが、契約の民であるイスラエル人が認めなかったことを、何と異邦人であったネブカドネツァルやネブザルアダンは認めていたのです。彼らの目には、それがイスラエルの神、主の御業であることが明らかだったのです。信者である人たちには見えていないことが、未信者の人たちに見えていることがあるわけです。それで親衛隊の長ネブザルアダンはエレミヤの手にある鎖を解いて釈放し、彼に二つの選択肢を与えました。一つは、彼と一緒にバビロンへ行くか、もう一つは、もし行きたくなければ、どこでも自分の好きなところへ行っても良いということでした。もし彼と一緒にバビロンに行くなら、エレミヤが生活するのに困ることが無いように彼の世話をするとまで約束しました。さあ、このネブザルアダンの提案を聞いて、エレミヤはどのように反応したでしょうか。5節と6節をご覧ください。

「40:5 しかしエレミヤがまだ帰ろうとしないので、「では、バビロンの王がユダの町々を委ねた、シャファンの子アヒカムの子ゲダルヤのところへ帰り、彼とともに民のうちに住みなさい。でなければ、あなたが行くのによいと思うところへ、どこへでも行きなさい。」こうして親衛隊の長は、食糧と品物を与えて、彼を去らせた。40:6 そこでエレミヤは、ミツパにいるアヒカムの子ゲダルヤのところに行って、彼とともに、その地に残された民の間に住んだ。」

エレミヤは、なかなか動こうとしませんでした。それはネブザルアダンに対する敬意のゆえでしょう。彼と一緒にバビロンへ行くなら私があなたの世話をしようとまで言ってくれたのに、それをむげに断るのは申し訳ないと思ったに違いありません。そんなエレミヤに対してネブザルアダンは、シャファンの子アヒカムの子ゲダルヤのところへ帰り、彼とともに民のうちに住むようにと勧めました。エレミヤがずっと動かないでいるのを見たネブザルアダンは、それはエレミヤがバビロンに行きたくないという意志表示だと受け止めたのです。それでエレミヤは、ミツパにいるアヒカムの子ゲダルヤのところに行き、彼とともに、その地に残された民の間に住みました。エレミヤにとっては貧しいユダの民と一緒にエルサレムに残るよりは、安定した生活が保障されていたバビロンへ行った方がはるかに良かったはずです。それなのに彼は、ユダにいる残りの民と一緒にいることを選んだのです。なぜでしょうか。2つの理由が考えられます。

一つは、その地の総督に任じられたゲダルヤの存在です。5節には「シャファンの子アヒカムの子ゲダルヤ」とありますが、彼の父親のアヒカムは、かつてエレミヤのいのちを救った人でした。26章24節には、「しかし、シャファンの子アヒカムはエレミヤをかばい、エレミヤが民の手に渡されて殺されることのないようにした。」とあります。これはどういう背景で語られたかというと、当時のユダの王エホヤキムは、エレミヤのように預言していたシェマヤの子ウリヤをエジプトから連れて来させて剣で打ち殺しましたが、エレミヤはその難を逃れることができました。それはこのゲダルヤの父アヒカムの助けがあったからです。アヒカムはエレミヤをかばい、彼が民の手に渡されて殺されることがないように手配したのです。エレミヤはそのことを感謝して、若くして総督となった彼の息子のゲダルヤを支援するために、エルサレムにとどまろうと思ったのかもしれません。

しかし、エレミヤがエルサレムの住むことを選んだ最大の理由は、それが彼に与えられていた使命だったからです。42章2~3節をご覧ください。

「42:2 預言者エレミヤに言った。「どうか、私たちの願いを受け入れてください。私たちのため、この残りの者すべてのために、あなたの神、【主】に祈ってください。ご覧のとおり、多くの者の中からわずかに私たちだけが残ったのです。42:3 あなたの神、【主】が、私たちの歩むべき道と、なすべきことを私たちに告げてくださいますように。」」

ここにはユダに残っていた人々がエレミヤのところに来て、神のみこころを求め、彼らのために祈ってくれるようにと懇願したとあります。バビロンに捕え移された人たちはそこである程度の生活が保障されていましたが、バビロンに連れて行かれずエルサレムに残された民はみな貧民で、日々の生活もままならず、大変混乱していました。エレミヤはそうした状況を見て、そこに残った貧しいユダの民に仕えることこそ神のみこころであり、自分に与えられている使命だと確信したのです。確かにバビロンへ行ってネブザルアダンの保護の下、平和に暮らすことも考えたでしょう。でも彼は自分にとって何が良いかということよりも、神に喜ばれることは何か、何が良い事で神に受け入れられ、完全であるのかを求めたのです。

へブル11章24~25には、「24 信仰によって、モーセは成人したときに、ファラオの娘の息子と呼ばれることを拒み、25 はかない罪の楽しみにふけるよりも、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。」とあります。聖書ではエジプトとかバビロンはこの世の象徴として描かれていますが、信仰によって、モーセがエジプト王のファラオの娘の息子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみにふけるよりも、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取ったように、エレミヤも信仰によって、この世の楽しみにふけるよりも、神の民とともに苦しむことを選び取りました。それが神のみこころであると受け止めたからです。

皆さんがエレミヤの立場だったらどうしたでしょうか。あなたの好きなようにしても良いと言われたら、「ヤッター!」とこぶしを突き上げて喜びますか。こんな所にいるよりも、ネブザルアダンの保護の下、バビロンで平和に暮した方がよっぽどいい」と決断したでしょうか。それでも良かったんです。それは神が許されていたことでしたから。それでも彼がエルサレムにとどまったのは、自分に与えられている神様からの使命を確信していたからです。

このような時私たちは、自分の愛がどこにあるかが試されます。でもそれを判断する決め手というか、目安は何かというと、このエレミヤのように自分に与えられている使命は何なのか、役割は何かを考えて祈ることです。あなたに与えられている使命は何ですか。神があなたにしてほしいと願っておられることは何でしょうか。それを知ることは、あなたがより良く神のみこころを知り、みこころに従うために有益なことです。

私の友人の牧師に、仙台で牧会しておられる鈴木茂という牧師がおられますが、この年末年始にかけて何度かメッセンジャーでのやり取りをしました。その中で鈴木先生がこのようなことを言われました。

「私たちはここで31年目に入ります。本当に時の流れは速いです。ここでこんなにも長く留まるとは思いませんでした。100%はわかりませんが、でも気持ちの中ではここでよかった、と思っています。我武者羅の期間は、もう過去のことで、今は体が「No」と教えてくれます。これも恵みですね。今思うと、40代前半までは、朝から晩まで、とは言わないですが、水曜日の朝の祈り会の学びの後、個人的な学びや相談を聴いたり、そして夜の祈り会で再び学びを導いたり・・・。今思うと、不思議なことです。今はできません。よかったのかどうか???これも100%わかりません。今は、自分の心、人の心のケアーや形成を中心に歩んでいます。昔のようにはいきませんが、今の方がいいように感じます。ある意味これから、と思える部分もあります。妻も私も今は心のケアーを働きの中心としています。これが私たちの役割なのかな???と思います。と、言っても大したことはできていませんが。」

謙遜な先生らしいことばだなぁと思いますが、このメールを読ませていただいて私の心に留まったのは、「これで良かったのかどうか100%わかりません」という言葉と、「今は心のケアーを働きの中心としています。これが私たちの役割なのかな???と思います。」という言葉です。そうなんですよね、これで良かったのかどうか100%わかる人などいないと思うんです。でもその中で先生ご夫妻は心のケアー、情緒的なケアーを中心に働きをされておられる。それが自分たちに与えられた役割であると受け止めておられるからです。

そうなんです、私たちもこれで100%良かったと言える人なんていないと思うんです。またこれから先、これが道だ、これに歩めというご聖霊様の声を聞いても、100%確信できるかというとそうではないと思います。それが大きければ大きいことであるほど、私たちは悩みます。でもそのような中でもエレミヤのように、あるいは鈴木先生のように、神様から与えられている使命は何か、自分が果たすように神からゆだねられている役割は何かを知るなら、確信をもってその道を選択することができるのではないでしょうか。

いずれにせよ、大切なことは、エレミヤが自分の思いのままに選択したのではなく、神のみこころを求めて祈った結果そのようにしたということです。注意しなければならないことは、それが神のみこころではないのに、ただ自分の思い、自分の心が欲していることなのに、あたかもそれが神のみこころであるかのように思い込んでしまうことです。そういうのを勘違いと言います。そういうことがないように、私たちはいつも本物である神のことばを聞き、それを見分けることができるように祈らなければなりません。

Ⅱ.ゲダルヤの誓い(7-12)

次に、7~12節までをご覧ください。7節と8節をお読みします。

「40:7 野にいた軍の高官たちとその部下たちはみな、バビロンの王がアヒカムの子ゲダルヤをその地の総督にして、バビロンに捕らえ移されなかった男、女、子どもたち、その地の貧しい民たちを彼に委ねたことを聞いた。40:8 そして彼らはミツパにいるゲダルヤのもとに来た。ネタンヤの子イシュマエル、カレアハの子ヨハナンとヨナタン、タンフメテの子セラヤ、ネトファ人エファイの子ら、マアカ人の子エザンヤ、そして彼らの部下たちであった。」

エルサレムに残った貧しいユダの民の統治のため、バビロンの王ネブカドネツァルは、アヒカムの子ゲダルヤをその地の総督として任命しました。それで野にいた軍の高官たちやその部下たちはみな、ミツパにいたゲダルヤのもとにやって来ました。「ミツパ」はエルサレムの北方10キロにあるベニヤミンの領内にある町ですが、ゲダルヤがミツパにいたのは、エルサレムが焼き払われていたのでそこに行政機関を置くことができなかったからです。それで彼らはみなミツパにいたゲダルヤの下にやって来たのです。

そのときゲダルヤは、彼らとその部下たちに誓って言いました。9節10節です。

「40:9 シャファンの子アヒカムの子ゲダルヤは、彼らとその部下たちに誓った。「カルデア人に仕えることを恐れてはならない。この地に住んで、バビロンの王に仕えなさい。そうすれば、あなたがたは幸せになる。40:10 この私は、見よ、ミツパに住んで、私たちのところに来るカルデア人の前に立とう。あなたがたは、ぶどう酒、夏の果物、油を収穫して器に納め、自分たちが手に入れた町々に住むがよい。」」

ゲダルヤは、エレミヤの預言をきちんと聞いていました。エレミヤは彼らに、バビロンに服しその中で生きるなら、あなたがたは幸せになると言っていましたが、その通りに伝えたのです。さすがアヒカムの子どもですね。アヒカムについては先ほど見たようにエホヤキム王の時代にエレミヤを救った人物ですが、彼にはそうした霊的な目と、神を恐れる思いがありました。そうした父親の後ろ姿を見て育った彼にも、そうした思いがあったのでしょう。それだけではありません。ゲダルヤの父親の父親、すなわち祖父のシャファンという人物はヨシヤ王の時代に書記を務めていた人です。エレミヤが預言者として召されたのはそのヨシヤ王の第13年でしたが(1:13)、ゲダルヤはこの祖父のシャファンを通してもエレミヤの預言をずっと聞いていて、神のみこころが何であるかをわきまえることができたのです。ですから彼はエレミヤが預言していたとおり、バビロンに服し、バビロンの王に仕えるなら、あなたがたは幸せになると明言することができたのです。

それだけではありません。彼はこのミツパに住んで、自分たちのところに来るカルデア人の前に立とうと言っています(10)。どういうことですか?自分が責任をもってカルデア人と交渉するという意味です。だからあなたがたはぶどう酒、夏の果物、油を収穫して器に納め、自分たちが手に入れた町々に住むようにと勧めたのです。そこには相当の覚悟があったことがわかります。イエス様は、「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。」(ヨハネ10:11)と言われましたが、エレミヤ同様彼も、自分のいのちを削っても、他の人にささげる覚悟がありました。なぜ?彼も神のみこころを求め、みこころに従いたいと願っていたからです。

そんな彼のもとに、さらに多くの人たちが集まって来ました。11節、12節には、「11 モアブや、アンモン人のところや、エドムや、あらゆる地方にいたユダヤ人もみな、バビロンの王がユダに人を残したこと、シャファンの子アヒカムの子ゲダルヤを彼らの総督に任命したことを聞いた。12 そこで、ユダヤ人はみな、散らされていたすべての場所からユダの地に帰って来て、ミツパのゲダルヤのもとに行き、非常に多くのぶどう酒と夏の果物を収穫した。」とあります。
  これらの人たちは、バビロンが攻めて来たことを知って周辺の諸国に逃亡していた人たちです。そんな彼らもゲダルヤが総督になったといううわさを聞いて、ミツパの彼のもとに集まって来たのです。彼らもまた夏の収穫を採り集め、安定した生活をすることができました。それはみこころに従ったゲダルヤのことばに従ったからです。もちろん、その背後にはエレミヤの助言があったのは間違いありません。主のみこころに従うなら、必ず祝福されるのです。

Ⅲ.ゲダルヤの失敗(13-16)

しかし残念ながら、その安定は長続きしませんでした。その理由は、ゲダルヤが神のみこころを見極めるのを失敗したからです。13~16節をご覧ください。

「40:13 さて、野にいたカレアハの子ヨハナンと、軍のすべての高官たちは、ミツパのゲダルヤのもとに来て、40:14 彼に言った。「あなたは、アンモン人の王バアリスがネタンヤの子イシュマエルを送って、あなたを打ち殺そうとしているのをご存じですか。」しかし、アヒカムの子ゲダルヤは、彼らの言うことを信じなかった。40:15 カレアハの子ヨハナンは、ミツパでひそかにゲダルヤに話して言った。「では、私が行って、ネタンヤの子イシュマエルを、だれにも分からないように打ち殺しましょう。どうして、彼があなたを打ち殺し、あなたのもとに集められた全ユダヤ人が散らされ、ユダの残りの者が滅びてよいでしょうか。」40:16 しかし、アヒカムの子ゲダルヤは、カレアハの子ヨハナンに言った。「そんなことをしてはならない。あなたこそ、イシュマエルについて偽りを語っているからだ。」」

野にいたカレアハの子ヨハナンと、軍のすべての高官たちは、ミツパにいたゲダルヤのもとに来て、アンモン人の王バリアスがネタンヤの子イシュマエルを送って、ゲダルヤを打ち殺そうとしていることを密告します。なぜアンモン人の王がゲダルヤを打ち殺そうとしたのかはわかりません。おそらくゲダルヤがユダの総督になったとき、アンモンに逃れたユダの民がゲダルヤのところに帰って行くのを見て、快く思わなかったのでしょう。それで彼はネタンヤの子のイシュマエルを送って、ゲダルヤを打ち殺そうとしたのです。しかし、ゲダルヤは彼らの言うことを信じませんでした。むしろイシュマエルの暗殺を逆に申し出たカレアハの子ヨハンナに対して、「そんなことをしてはいけない。あなたこそ、イシュャマエルについて偽りを語っているからだ。」と叱責しました。

カレアハの子ヨハンナは将校として有能で、物事に対処するのに長けた人物でした。ユダの人たちのために総督ゲダルヤを守らなければならない。そしてそのためにだれにもわからないように先制攻撃をした方がよいという助言は、政治的判断としては優れていました。けれども、ゲダルヤ本人はというと、こうした現実的な危機に対しては全く無頓着、極端なお人好しでした。こうした動きに対して先に打ち殺すまではしなくても、自分の周りにたとえば警備兵を置くとか、イシュマエルの動きをしっかり監視するなど、何らかの対策を取るべきだったのに、ヨハンナの助言を聞くどころか、逆に彼がイシュマエルを妬んで彼について悪く言いふらしていると思って叱責したのです。

確かに、このような時、リーダーはどのように対処したらよいか悩むところです。ある面でゲダルヤの対応は神を恐れる者として、陰口とか悪口とか、密告といったことを鵜呑みにせず、真実を確かめるまでは慎重に取り扱おうとしたという点では評価できます。しかし、総督として、また群れのリーダーとして、目の前に起こっている動きを見極めるという点では失敗しました。特に、このネタンヤの子イシュマエルですが、41章1節には「王族の一人」と紹介されていますが、彼の祖父エリシャマは、ダビデの息子の一人でした(Ⅱサムエル5:16)。あのソロモンの兄弟にあたります。ということは、イシュマエルはダビデのひ孫にあたる人物だったのです。ゲダルヤとしては、まさかダビデの家系に属する者が主のみこころに反して自分を暗殺するなどあり得ないと思ったのでしょうが、脇が甘かった。ダビデの家系に属する者だからこそ、そのような危険性があったのです。つまり、イシュマエルは自分がダビデの家系であることから、自分こそユダを統治する人物としてふさわしい者であるという思いから、ゲダルヤに敵対する恐れがあったのです。それを見極めることができませんでした。

リーダーシップの本を開くと、リーダーには未来を見通す目が必要だと異口同音に語られています。ではどうやって未来を見通すことができるのでしょうか。人間には明日のことさえわからないのですから、そのような人間がどうやって未来を見通すことができるのでしょうか。

私の尊敬する牧師の一人に、兵庫県で牧会しておられる大橋秀夫という先生がおられます。私の名前と一字しか違わないので、以前アメリカからロバート・ローガンという教会成長学者が来日した時、先生をBig Ohashiと呼び、私をLittle Ohashiと呼びました。私の方が背が高いのにLittle Ohashiとは失礼じゃないかと思いましたが、私などはこの先生の足元にも及ばないので、やはりLittle Ohashiだと納得したわけですが、このBig Ohashiが「聖書を読むとリーダーシップがわかる!」という本をお書きになり、昨年のクリスマスにわざわざ送ってくださいました。その本の最後のところに、ユダヤ人の時間に対する見方を紹介しておられます。
  「彼らは、「時間」すなわち人生を現在から過去を見て前に進むと考えている。ちょうどボートに乗って向こう岸に漕ぎ出すのと同じなのだ。未来は見えない。見えるのは過去だけ。まっすぐに進むために目印となるのは進んできた航跡(こうせき)だ。それによって起動を修正しながら進むと考えている。日記は、そんな自分の人生を進むうえでの航跡と言えるだろう。それをもって人生を紡ぎ、心の闇を克服することができると考える。」

未来を見通すために過去を見る。過去を見て起動を修正しながら進んで行くというユダヤ人の時間に対する見方は見事だなぁと思いました。その過去を見る上で勿論日記をつけるのも良いでしょう。それを見て過去を振り返ることは有益なことです。しかし、その中でも聖書を見て振り返ることはもっと有益なことです。なぜなら、そこには自分の過去だけでなく、この歴史を動かされた神の軌跡を見ることができるからです。
  残念ながら、ゲダルヤはそういう目を持っていませんでした。彼には霊的な目と神を恐れる思いがありましたが、過去の歴史から学ぶという実践的な面に欠けていたのです。

かくしてゲダルヤによる統治は、わずか2か月で終わってしまいました。これは、ユダヤ人にとっては衝撃的なことでした。ですから彼らはそれ以来、エルサレムの陥落を記念する断食と並行して、ゲダルヤの死を哀悼するための断食を行うようになりました。それが、第七の月の断食(ゼカリヤ7:5,8:19)です。

私たちは、このゲダルヤの暗殺から何を教訓として学ぶことができるでしょうか。神のみこころに従うためにはそれを妨げる様々な悪魔の策略があるということ、そしてその策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身につけなければならないということです。エペソ6章14~18節には、その武具とはどのようなものかが記されてあります。すなわち、「6:14腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、6:15 足には平和の福音の備えをはきなさい。6:16 これらすべての上に、信仰の盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢をすべて消すことができます。6:17 救いのかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさい。6:18 あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのために、目を覚ましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい。」ということです。それがみこころに生きるために求められているのです。

そうすれば、あなたはしっかりと神のみこころを見極めることができます。そうすれば、あなたは幸せになるのです。たとえそれがこの世の考えと違うことであっても、みことばと祈り、信仰によってみこころに堅く立ち続けるなら、あなたは幸せになるのです。そのような生涯を共に送らせていただきましょう。そのために神のみこころを知り、みこころに従うことを求めていきたいと思います。