今日は、エレミヤ書43章から「エジプトではなく、神に」というタイトルでお話します。42章では、ユダの民がエジプトに行くべきか、それともユダの地にとどまるべきかを、エレミヤを通して主に尋ねました。彼らは「それが良くても悪くても、主の御声に聞き従います」(42:6)と言ったにもかかわらず、いざ神の御心が示されるとそれに従いませんでした。ユダの地にとどまるようにという主の御声を退けて、「いや、エジプトに行こう」(42:14)と言ったのです。彼らは、最初から従うつもりなどありませんでした。ただ自分たちの計画に神が同意してくれた時のみ従おうとしていたのです。
かくして彼らはエジプトに下って行くことになりますが、その結果、どうなったでしょうか。主はバビロンの王ネブカドネツァルを用いてエジプトを打ち、ある者たちを殺し、ある者たちを捕虜とし、ある者たちを剣に渡すと語られました。さらにエジプトの神々の神殿を火で焼かれます。エジプトの力を過信して彼らに頼ったユダの民は、神のさばきを受けることになるのです。
いったい何が問題だったのでしょうか。神よりもエジプトを頼ったことです。彼らは神の御声に聞き従わないで、自分の思いを優先しました。エジプトではなく、神に信頼しなければなりません。神は最後の最後まで、ご自身に立ち返ることを願っておられるのです。
Ⅰ.主の御声に聞き従わなかった民(1-4)
まず、神の御声に聞き従わなかったユダの姿を見ましょう。1~4節をご覧ください。
エレミヤが民全体に、主のことばを語り終えると、彼らは全く受け入れるどころか、それを語ったエレミヤを非難しました。「あなたは偽りを語っている」と。エジプトに行ってそこに寄留してはならないというのは、エレミヤの預言を筆記していたバルクにそそのかされてそう言っているだけで、バルクは自分たちをバビロンに引いて行かせようとしているのだと、「ユダの地にとどまれ」という主の御声に聞き従わなかったのです。
いったい何が問題だったのでしょうか。2節に「高ぶった人たち」とあります。それは彼らが高ぶっていたことです。高ぶっていると神のことばに従うことができません。自分を信頼するからです。謙遜な人は神に信頼しますが、高ぶっている人は自分を信頼します。謙遜な人は神に栄光を帰しますが、高ぶっている人は自分に栄光を帰そうとします。これが問題です。へりくだっているなら神に信頼し、神のことばに従おうとしますが、高ぶっていると神のことばに従うことができないのです。ですから、神の御心に従うためにはへりくだらなければなりません。しかし、このへりくだるということがなかなか難しいのです。
これは寓話ですが、ある若い牧師が、地域のキリスト教団体から、その年の最も謙遜な牧師として表彰されました。教会員もみんな感謝して表彰式に行きました。その式で彼は、最も謙遜な牧師として、謙遜がいかに大切であるかをスピーチしました。ところが次の週、教会員がその表彰状をその団体の本部に返しに来たというのです。その理由は、なんとその牧師はいただいた表彰状を額に入れ、それを教会のロビーに飾ろうとしたからでした。「先生、止めてください。これは返上した方がいいです」と、返しに来たというのです。
この寓話は真理を突いていると思います。へりくだるというのは、それほど難しいことなのです。
18世紀にイギリスのリバイバル運動を指導したジョン・ウェスレー(1703~1791)は、「キリスト者の完全」という本の中でこう言っています。「もしあなたが完全に罪から解放されていると信じるなら、まず高ぶりの罪に警戒しなさい。この罪だけは、あらゆる欲から解放された心の人も捉えることができることを私は知っている。」
なぜ神のことばに従うことができないのでしょうか。なぜ長老たちに従うことができないのでしょう。なぜ互いに従うことができないのでしょうか。高ぶっているからです。これが罪の本質であって、これを克服できるなら、どのような問題も解決することができるでしょう。なぜなら、神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みをお与えになられるからです。ですから、聖書はこのように勧めています。
「ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(Ⅰペテロ5:6-7)
ここには、へりくだるとはどういうことなのかが教えられています。それは、あなたの思い煩いのいったい神にゆだねることです。つまり、へりくだるとは、何か特別な思いや取り組みではなく、私たちのありのままの姿を神の前で見つめ、その弱さ、足らなさ、いや罪深い姿を神の御前にさらけ出して、「神さま、どうかよろしくお願いします」と、神様にゆだねる心の営みなのです。
星野富広さんの詩の中に、「あけび」という詩があります。
「あけびを 見ろよ。
木の枝にぶら下がり、体を二つに割って
鳥がつつきにくるのを動きもしないで待っている
誰に教えられたのか あんなにも気持ちよく自分を投げ出せる
あけびを 見ろよ。」
そうです、「あけび」のようになることです。どのような困難が押し寄せようとも、私には全能の神様が付いているから大丈夫だと信じて、その力強い神の御手の下に自分を投げ出すのです。それがゆだねるということです。真に謙遜であるとはそういうことです。それが神のことばに従うために求められるのです。
Ⅱ.エジプトに下って行った民 (5-7)
次に、5~7節までをご覧ください。
「43:5 そして、カレアハの子ヨハナンと、軍のすべての高官たちは、散らされていた国々からユダの地に住むために帰っていたユダの残りの者すべて、43:6 すなわち、親衛隊の長ネブザルアダンが、シャファンの子アヒカムの子ゲダルヤに託したすべての者、男、女、子ども、王の娘たち、さらに、預言者エレミヤと、ネリヤの子バルクを連れて、43:7 エジプトの地に行った。【主】の御声に聞き従わなかったのである。こうして、彼らはタフパンヘスまで来た。」
こうして彼らは、エジプトの地に下って行きました。彼らは最初から神に従うつもなどなかったのです。ただ自分たちの計画に神が同意してくれる時のみ従おうと思っていただけでした。これは、申命記28章68節でモーセが預言していた通りでした。主はエジプトに下ることを禁じていたのに(出エジプト14:13, 申命記17:16)、彼らは主の御心に背いて下って行きました。
それは私たちにも警告されていることです。彼らが出エジプトという神の恵みにあずかりながら古いエジプトの生活に戻って行ったように、私たちも神の恵みによって罪から救われたにもかかわらず、再びこの世に戻って行ってしまうことがあります。私たちはかつて罪の奴隷として捕えられていましたが、イエス様が十字架でその罪の身代わりとして死んでくださったことによって、神はその罪から救ってくださいました。罪の奴隷から解放してくださったのです。罪の奴隷から神のしもべに、悪魔の支配から神の支配に、暗やみから光の世界へと移してくださったのです。にもかかわらず、かつての古い生活に戻ろうとすることがあるのです。それは、以前の主人であった悪魔が、クリスチャンが新しい主人である神に従うことを憎み、神に従わないようにと、あの手この手を尽くして誘惑し、以前の状態に引き戻そうとしているからです。
たとえば、悪魔は私たちの欲に働きかけて誘惑することがあります。目の欲、肉の欲、暮らし向きの自慢などです。「もっといい生活がしたい。」「あれもほしい、これもほしい」。そうした欲に働きかけるのです。ユダの民がエジプトに行こうとしたのもそうでした。そこは戦いもなく、パンに飢えることもなく、疫病もないかのように見えました。本当に魅力的な場所に見えたのです。しかし、必ずしも人の目に魅力的に見える場所が祝福される場所であるとは限りません。そこが戦いと飢饉、疫病に満ちたわざわいの地になることもあるのです。大切なのは、神がともにおられるかどうかということです。神がともにおられるなら、そこは祝福に変えられるからです。
あるいは、私たちの人生に起こるさまざまな試練を用いて誘惑することもあります。たとえば、病気とか事故、家庭の問題や人間関係の問題、経済的な問題などです。そうした問題を通して不安を与え、神から遠ざけようとするのです。「なぜ私ばかりこんなに苦しまなければならないのか」、「神がおられるならどうしてこのようなことが起こるのか・・・」と、神の愛に疑問を抱かせて、信仰を捨てるようにと誘惑するのです。
あるいは、試練や苦難ばかりでなく、逆に良いことを通しても誘惑することがあります。たとえば、一生懸命働くこともすばらしいことです。家族を愛することは大切です。休日に余暇を楽しむことも良いことです。しかしそれがどんなに良いことでも神より愛するなら、それが罠となって神から離れてしまうことがあります。イスラエルの民が神から離れたのは、これが一番大きな要因でした。彼らはパンがないとか水がないことによっても神を疑うことがありましたが、それよりも、豊かになった時の方が問題でした。高ぶって神を忘れてしまい、神から離れてしまったからです。
このように、悪魔は私たちが神に従わないようにと、あの手この手を使って誘惑してきますから、私たちはこの悪魔に立ち向かわなければなりません。どのようにして立ち向かったらいいのでしょうか。ヤコブ4章7節にはこうあります。
「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」
ですから、神に従わなければなりません。私たちの力では、悪魔に立ち向かうことができないからです。神に従い、神の力をいただいて、悪魔に立ち向かうのです。
あなたをキリストの愛から引き離すものは何ですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、剣ですか。しかし私たちは、これらすべての中にあっても、私たちを愛してくださった方によって、圧倒的な勝利者となります。エジプトに行ってはいけません。どんなことがあってもキリストの愛と神の恵みにしっかりとどまっていなければなりません。自分の思いを明け渡して、神の御心をたずね求め、神に従いましょう。そうすれば、悪魔はあなたから逃げ去ります。
Ⅲ.最後の最後まで(8-13)
最後に、8~13節をご覧ください。エジプトに行った民に対する預言のことばです。
「43:8 タフパンヘスで、エレミヤに次のような【主】のことばがあった。43:9 「あなたは手に大きな石を取り、それらを、ユダヤ人たちの目の前で、タフパンヘスにあるファラオの宮殿の入り口にある敷石の漆喰の中に隠して、43:10 彼らに言え。『イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。見よ。わたしは人を遣わし、わたしのしもべ、バビロンの王ネブカドネツァルを連れて来て、彼の王座を、わたしが隠したこれらの石の上に据える。彼はその石の上に本営を張る。43:11 彼は来てエジプトの地を討ち、死に定められた者を死に渡し、捕囚に定められた者を捕囚にし、剣に定められた者を剣に渡す。43:12 わたしがエジプトの神々の神殿に火をつけるので、彼はそれらを焼き、神々を奪い去る。彼は、羊飼いが自分の衣をまとうようにエジプトの地をまとい、ここから安らかに去って行く。43:13 また、エジプトの地にある太陽の神殿の石柱を砕き、エジプトの神々の神殿を火で焼く。』」」
ユダの残りの民は、タフパンヘスに到着します。そこはナイル川の東にあるエジプト国境にある町です。そこに来たとき、エレミヤに主のことばがありました。それは、大きな石を取り、それをファラオの宮殿の入り口にある敷石の漆喰の中に隠して、彼にこう言えということでした。すなわち、主はバビロンの王ネブカドネツァルを連れて来て、彼の王座をその敷石の上に据え、その石の上に彼が本営を張るというものです。すなわち、主はそこでネブカドネツァルを王座に据え、エジプトを打たれるというのです。これは一つのデモンストレーションでした。神はこの象徴的な行為によって、ご自分が行おうとしていることを預言者エレミヤに啓示し、その意味をタフペンヘスにいるユダの民に告げようとされたのです。
その結果、彼らはどうなりますか。死に定められた者たちを死に渡し、捕囚に定められた者を捕虜とし、剣に定められた者を剣に渡されます。また、エジプトの神々の神殿は火で焼かれるようになります。
これを行うのはバビロンの王ネブカドネツァルですが、主は彼のことを「わたしのしもべ」と呼んでいます。これはネブカドネツァルが神の信者であるということではなく、主の御業を実行する駒として用いられるという意味です。主が人を遣わして、ネブカドネツァルを連れて来させ、ご自身のご計画を成し遂げられるのです。どうして主はこのようなことをされるのでしょうか。それは彼らが真に拠り頼まなければならないのは主ご自身であることを示すためです。彼らは主よりもエジプトを頼りとしました。でも彼らが真に頼りとしなければならないのはエジプトではなく、主ご自身だったのです。
皆さん、どうでしょうか。私たちにもそういうことがあるのではないでしょうか。確かに神は力ある方、全能者、偉大な方であるということはわかっていてもいざ現実の生活の中で問題が起こると、目に見えるものに、エジプトに頼ろうとする傾向があるのではないでしょうか。しかし、そうしたものはあなたを救うことはできません。
イザヤ28章20節には、エジプトのことを指して「寝床は、身を伸ばすには短すぎ、毛布も、身をくるむには狭すぎるようになる。」と言われています。エジプトの寝床は短すぎます。身を伸ばして寝ようとすると、足がベッドからはみ出てしまうのです。また、エジプトという毛布は小さすぎます。どんなに包まろうとしても小さすぎて背中が丸見えになります。そのようなベッドや毛布のように、エジプトはあなたを守ることはできないのです。あなたが拠り所としていたもの、ゆっくりと体を休め、体を温めることができると思っていたものが、いざというときに何の役にも立たないのです。私は生命保険に入っているから大丈夫です。銀行にこれだけ貯金があるから、こういう不動産があるから安心です。株があるから何とかなります。私には健康があるから大丈夫です。健康だけが取り柄です。私にはこの資格、あの資格があるから何とか食べていけますと、この世の毛布に身を包もうとしても、そうしたものは狭すぎるのです。寒いときには暖めてくれるだろうと思っていても、いざという時には何の役にも立たないのです。その究極が「死」です。あなたに死が襲い掛かる時、あなたが拠り所としているこれらのものが、あなたを本当に守ってくれるでしょうか。そうしたものはあなた助けにはなりますが、本当の意味で助けることはできません。あなたを守るには短すぎるのです。狭すぎます。人間的な計画はすべて、神のすぐれた御手の中で水の泡となるのです。ただ神だけが、私たちに真の安全をもたらすことができるのです。
かつて南ユダにヒゼキヤという王様がいましたが、このヒゼキヤの時代、アッシリヤの王セナケリブがエルサレムを包囲したことがありました。その強大な敵の前に彼らは何のなす術もありませんでしたが、そのような中で彼らどうしたかというと主に祈りました。主に信頼して祈ったとき、主は彼らを助けてくださいました。何とその晩、主の使いがアッシリヤの陣営に出て行き18万5千人を打ち破られたのです。彼らが何かをしたからではありません。ただ彼らが神に拠りすがり、神に祈り求めた結果、神が働いてくださったのです。その結果、アッシリヤの王セナケリブは立ち去りました。主に信頼するなら、主が守ってくださいます。それは短かい寝床のようなものではありません。あるいは、狭くて暖められないような毛布のようなものではありません。あなたを完全に守り、包むことができます。
ですからエジプトではなく、神に頼まなければなりません。神に信頼する者は、決して失望させられることはありません。あなたにとってのエジプトは何ですか。あなたが拠り頼んでいるものは何でしょうか。
ところで主は、ご自身のみことばに従わないでエジプトに行ったユダに対して、なおも語られました。考えてみると、彼らはこれまでもずっと主のみことばに背いてきました。その結果、バビロン捕囚という憂き目に会ったわけですが、普通ならこれで終わりです。にもかかわらず神は、その後も何度も彼らに語られました。主は最後の最後まで語られたのです。一方、ユダの民はというと、最後の最後まで神のことばを拒みました。ここに民をこよなく愛しておられる神と、それを拒むユダの民の悲しい姿が対比されています。私たちはどこで立ち止まり、どこで神に立ち返るのでしょうか。神はあなたを愛しておられます。最後の最後まであなたに語られ、あなたが神に立ち返ることを願っておられるのです。立ち返れ。立ち返れ。立ち返って生きよ。それが神の心からの叫びなのです。
しばらくの間ずっと家内とエゼキエル書を読んで祈りましたが、18章に出てくる「立ち返って、生きよ」ということばが心にとまりました。18章にはこのことばが何度も繰り返して出てきます。最低でも6回出てきます。
「わたしは悪しき者の死を喜ぶだろうか─神である主のことば──。彼がその生き方から立ち返って生きることを喜ばないだろうか。」(エゼキエル18:23)
主が喜ばれるのは、私たちが立ち返って生きることです。神はあなたを救うことができます。完全に守ることがおできになるのです。この神に立ち返り、神に拠り頼みましょう。エジプトではなく神に、です。そして、神のことばに聞き従う者でありたいと思います。神に信頼する者は決して失望させられることはありません。このみことばを日々の生活の中で体験させていただきましょう。