マタイ2章1~12節「博士たちのクリスマス」

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メリークリスマス!イエス・キリストのお誕生を、心よりお祝い申し上げます。クリスマスは、人類の救いのためにイエス・キリストがこの世に来られたことを記念する日です。新約聖書、ヨハネの福音書1章14節に、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」とあります。「ことば」とは、イエス・キリストのことです。父なる神のひとり子であられる神が、今から二千年前に、人となられたのです。おとぎ話のようですが、本当の話です。神さまは人類にいのちのメッセージを送ってくださいましたが、それは紙に書いた文字による手紙ではなく、神のひとり子自らがこの世界に人間として誕生してくださることによって示してくださったのです。

この歴史的事実を記念するのがクリスマスです。いったいなぜキリストは人となられたのでしょうか。それは、私たち人間を罪から救うためです。聖書の中にキリストの誕生を告げ知らせた御使いのことばが出てきます。「マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」(マタイ1:20)ここに、「この方がご自分の民をその罪からお救いになる」とあります。「救い」といってもいろいろな救いがあります。金魚すくいもあればどじょう救いもある。でも、ここには「罪からお救いになる」とあります。

この世にはいろんな問題が次から次へと出てきます。健康の問題、貧困の問題、人間関係のトラブル、仕事上の問題、家庭が抱える問題、本当に次から次に起こりますね。しかし、こうした問題の最も根本的な原因は、私たち一人一人の内側に居座っている罪なのです。そして、この罪の最終的な結末が死です。その根本原因は、神という命のルーツから離れているこの罪にあると、聖書は言うのです。キリストは私たちをこの罪から救ってくださるために人となってこの世に来てくださいました。罪を取り除く薬は、口から飲む薬ではありません。キリストがあなたの罪をご自分の身に引き受けて、十字架の上で永久に処分することによって取り除いて下さいました。

ですから、この方を受け入れるならあなたの罪も赦され、神の子どもとして新しく生まれ変わり、天国に入れていただくことができるのです。聖書にこのように書かれてあるとおりです。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。」(ヨハネ1:12)

せっかくのクリスマスです。この機会にあなたもあなたのために人となられた救い主、イエス・キリストを、ぜひ信じて受け入れていただきたいと思います。

今日は、キリストが生まれた時、キリストを求めてはるばる東方の国からやって来た博士たちの物語から、クリスマスの意味についてご一緒に考えたいと思います。

 Ⅰ.東方の博士たち(1)

先ほど、新約聖書、マタイの福音書2章を読んでいただきました。まず1節をご覧ください。ここには、「イエスがヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。」とあります。

クリスマスのストーリーにおいて独特の存在感を示しているのが、この東の方からやって来た博士たちです。「東の方」とはペルシャ、あるいはバビロニヤという国を指しているのではないかと考えられています。また「博士」というのはギリシャ語で「マゴス」と言いますが、「マゴス」は「マジック」のもとになった言葉です。直訳すれば‟魔術師”となります。当時の社会においては天文学や星占いなどを通して、人の運命や世界の情勢について占う人々のことを指していました。ですから、新共同訳ではこれを「占星術の学者たち」と訳しているのです。占星術、星占いの学者たちです。彼らは、星の動きを通して世界の行く末を見極める人たちでした。その彼らが救い主の誕生を星の出現を通して知ったとき、はるばる東の国からエルサレムにやって来たのです。

彼らは自分たちの国ではそれなりの立場や地位を持っていた人たちでしたが、クリスマスの舞台から見ると、神の民からは遠く離れていた異邦人たち、あるいは、その周辺の人たちにすぎませんでした。本来ならば、ユダヤの民こそが真っ先に自分たちが待ち望んでいた救い主、自分たちの王としてお生まれになった方の誕生を知るべきなのに、神の民ではなかった異邦人たちによってその大切な知らせを受け取ることになるのです。

新約聖書、ルカの福音書には、救い主キリストの誕生の知らせが真っ先に知らされたのは、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた羊飼いたちのところであったと記されていますが、この羊飼いたちもまた、ユダヤの社会では底辺にいるような人たちでした。そしてここでも、神の民から遠く離れていた異邦人、東方の博士たちが、真っ先に救い主キリスト誕生の知らせを知り、礼拝するためにやって来るという、クリスマスの不思議な出来事が見られるのです。

どれほど遠く離れていても、イエス・キリストは私たちをご自分のもとへ招いてくださる、ということです。救い主イエス・キリストを礼拝する道はだれにでも開かれているのです。それはあなたも例外ではありません。これこそが御子イエス・キリストの訪れのもつ喜びの力です。彼らは偶然のようにして救い主誕生の星を見付けたわけではありません。その星の出現をずっと待ち続けていました。彼らの仕事は人々の行く末や世界の情勢を見定め、そこで起こり得る事態を時には案じ、時には憂い、そしてそれら起こり得る出来事への対処を人々に助言することでした。他の人々よりも一歩前に世界の行く末を見つめていたのです。

それは、他の人々からすれば「博士」と呼ばれ、あるいは「学者」と呼ばれて(うらや)ましがられるような立場であったかもしれませんが、しかしそれは同時に他の人々よりも一歩前に世界の悲惨さや悲しみを知り、他の人々よりも人一倍その憂いや悩みを心に抱くということをも意味していたのです。

だからこそ彼らは、礼拝することを求めたのです。救い主の星を待つ人、それは救いを待つ人です。暗闇が増し、人々から希望を奪い去るような出来事が続く世界の真っただ中にあって、なお希望を捨てずに夜空を見上げ、天を仰いで、救い主到来を告げる星を待つ彼らに、ついにその星は姿を表し、その頭上に照り輝いたのです。あなたももし救い主、キリストを待ち望むなら、あなたの頭上にもクリスマスの星が照り輝くのです。問題は、あなたがこの救いを求めているかどうか、救い主を待ち望んでいるかどうかです。

Ⅱ.礼拝するためにやって来た博士たち(2-11)

次に、2~11節までをご覧ください。2節には、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました。」とあります。

彼らはエルサレムにやって来て、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。」と尋ねました。彼らは、その星が昇るのを見たので、礼拝するためにやって来たのです。ことばにすれば数行のことですが、見ることと旅立つことの間には、相当の距離、時間があったのではないかと思います。しかし、彼らは星を見るだけでは満足しませんでした。彼らにとって決定的に大切だったことは、その星を見て、その星に導かれて旅立つことでした。そして何よりも「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」、救い主イエス・キリストに出会い、礼拝することだったのです。

一方、ヘロデ王はどうだったでしょうか。3節には、「これを聞いてヘロデは動揺した」とあります。エルサレム中の人々も同様でした。いったいなぜ彼らは動揺したのでしょうか。それは彼らの中に不安が生じたからです。ユダヤ人の王として新しい王が生まれたのというであれば、自分たちの立場はどうなってしまうのだろう、それによって世の中が変わってしまうのではないかと思ったのです。

しかし、それだけではありません。実は、彼ら自身も気付いていなかったかも知れませんが、彼らが感じた不安というのは、もっと奥深いところにあるものでした。それは、神の御前にある自分の存在です。人間が最も恐ろしいと感じるのは、神を信じていない自分が、神の実在に触れる時に起こるものです。言い換えると、死んだら自分はどうなるのかということです。

人は死んだらどうなるのでしょうか。そんなこと死んでみないと分からないことなんだから、考えたってしょうがない。しかし、本当に神がおられるのであればこの神の御前に立つことになります。そうしたら自分はどうなってしまうのでしょう。彼らは、そういう不安を抱いたのです。この人たちはこんなにまでして、真剣に救いを探し求めているのに、自分はこのままでいいのだろうか。そういう不安です。事実、聖書には「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように」(へブル9:27)とあります。人は、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているのです。

しかし、どこまでやれば義と認められるのかわかりません。だから人は自分なりに一生懸命にボランティアをしたり、貧しい人を助けたりするわけですが、それで本当に救われているのかというと、そういう保証はどこにもありません。確信がないのです。それに比べて彼らは、その星を礼拝するためにやって来ました。その方を信じることによって、その方を礼拝することによって救わるんだとはっきり告げたのです。不安になるのも当然のことでしょう。

それでヘロデ王は民の祭司長たち、律法学者たちをみな集め、キリストはどこで生まれるのかと問いただしました。すると、ユダヤのベツレヘムであることがわかりました。預言者によってそのように書かれていたからです。

それでヘロデ王は博士たちをひそかに呼んで、彼らから、星が現れた時期について詳しく聞くと、「行って幼子について詳しく調べ、見つけたら知らせてもらいたい。私も行って拝むから」と言って、彼らをベツレヘムに送り出しました。そんな気持ちなんてこれっぽっちもないのに、「見つけたら知らせてもらいたい。私も行って拝むから」と、あたかも自分が敬虔な者であるかのように装ったのです。形だけです。それは13節を見てもわかります。ヘロデは幼子を捜し出して殺そうとしていたのですから。

しかし博士たちは、王の言ったことを聞いて出て行きました。9~11節をご覧ください。「博士たちは、王の言ったことを聞いて出て行った。すると見よ。かつて昇るのを見たあの星が、彼らの先に立って進み、ついに幼子のいるところまで来て、その上にとどまった。その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。それから家に入り、母マリアとともにいる幼子を見、ひれ伏して礼拝した。そして宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」(9-11)

ここに礼拝する人間の姿が表されています。彼らは星を見てこの上もなく喜びました。そしてひれ伏して礼拝し、黄金、乳香、没薬を献げたのです。この「喜び」、「ひれ伏し」、「献げる」という一連の姿に、礼拝する人間の姿が表れています。礼拝とは何でしょうか。それは神の御子イエス・キリストとの出会いの喜びです。その喜びは、この上もない大いなる喜びです。彼らは幼子イエスのお姿を見る前に、その幼子を照らす星の光を見て喜んでいました。そしてついに、その星の光のもとで御子イエス・キリストと出会い、幼子を見て、ひれ伏して礼拝しました。彼らは「なんだ、貧しい赤ん坊じゃないか」と言って落胆しませんでした。「チキンが出ると思ったのに期待はずれだ」とも言いませんでした。彼らはその星を見て、この上もなく喜び、ひれ伏して礼拝すると、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げたのです。黄金は、王なるキリストにふさわしい冠です。乳香とは、神なるキリストへの芳ばしい香りです。そして没薬とは、私たちの贖い主として死なれるキリストを象徴するものでした。いずれの献げものも、まさしく神の御子、まことの王の王、私たちのための救い主イエス・キリストに献げられるもっともふさわしい贈り物でした。

 この博士たちの贈り物は、ある小説のモデルになっています。ご存知の方もおられると思いますが、O.ヘンリーという人が書いた「賢者の贈り物」です。

これは、ニューヨークの片隅の、安アパートに住む、ジムとデラという、若い夫婦の物語です。

彼らは、貧しいながらも、愛し合い、助け合って、暮らしていました。とても貧乏でしたが、二人には、大切な宝物が二つありました。一つは、ジムの家に代々伝わってきた、金の懐中時計です。もう一つは、膝にまで届くほど長い、デラの自慢の髪の毛でした。

クリスマスイブの夜、二人は、愛するパートナーに、密かにプレゼントを贈ろうとしますが、何しろ貧しくて、どうにもなりません。デラは、ジムの懐中時計に付けるプラチナの鎖を、どうしても買いたいと思いました。そのために、自分の自慢の髪の毛を、かつら屋に売って、プラチナの鎖を買いました。

一方ジムは、デラの美しい髪の毛をとかすための、櫛のセットを買いたいと思っていました。それは、デラの髪にぴったりの、宝石をちりばめた、見事な櫛でした。ジムは、その櫛を買うために、自分の懐中時計を売ってしまったのです。

ところが、その日の夜、仕事から帰ってきたジムは、髪の毛を切ってしまったデラを見て呆然とします。無くなってしまったデラの髪の毛をとかすための櫛。そして、売ってしまった懐中時計のための鎖。今や、両方とも、役に立たなくなってしまった物です。

なんとも愚かな贈り物です。バカな二人です。しかしこの小説の著者である、O.ヘンリーは、このジムとデラの夫婦こそが、「賢者」と呼ばれるに相応しい、と言っているのです。なぜなら、彼らこそクリスマスを迎える者として、最も相応しい贈り物をしたからです。

同じようにこの博士たちも、この方に最もふさわしい贈り物を献げました。ここに、私たちは異邦人の礼拝者たちの姿を通して、真実な礼拝者の姿を見ることができるのです。

あなたはどうですか。あなたはキリストの到来を喜んでいますか。なんだ、こんなものか、期待はずれだったと言ってはいませんか。あなたの救い主との出会いを喜び、この方の前にひれ伏し、この方にふさわしいささげものを献げているでしょうか。

そういえば、皆さんは‟Christmas”という言葉の意味をご存知でしたか。クリスマスを英語で表記すると「Christmas」ですが、これはChrist(キリスト)、masは(ミサ、礼拝)という意味です。つまり、クリスマスとは、キリストの到来を祝う礼拝なのです。

ですから、クリスマスが本当の意味でクリスマスになるということは、キリストの誕生の事実が、私たちの生活を動かすということなのです。「キリストのご降誕が、この私のためである」ということを知って、それをこの上もなく喜び、ひれ伏し、礼拝を捧げるということ、自分の生き方に変化が生じることです。それは、生きた礼拝を生み出すのです。

Ⅲ.別の道から帰って行った博士たち(12)

最後に12節をご覧ください。ここには「彼らは夢で、ヘロデのところへ戻らないようにと警告されたので、別の道から自分の国に帰って行った。」とあります。

これが、マタイの福音書が示す博士たちの最後の姿です。彼らは自分たちの国へ帰って行きました。それは自分たちの住む異邦人の地です。あのいつもの日常の中へと帰って行ったのです。それは「悔い改め」を示す象徴的な姿でもありました。というのは、聖書が語る悔い改めとは、新しい歩みへの方向転換だからです。つまり、神から遠く離れたところから神のもとへと立ち返ることなのです。それが悔い改めるというのです。東方の博士たちにとっては、自分の国へ帰って行くことは主なる神から遠く離れることではなく、むしろ神のもとへ立ち返る新しい旅路であったのです。

それは、ここに「別の道から帰って行った」とありますけれども、そのことからもわかります。夢の中で、ヘロデのとこへは戻らないようにと警告されていたからです。それは、もはや同じ道をたどることはしないということを意味していました。救い主イエスに出会い、ひれ伏して礼拝した彼らにとっては、そこから新しい道、主の道を生きる人生の旅路が始まることだったのです。

礼拝とは、私たちが新しくされることです。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)と罪の赦しの宣言を受け取って、主イエスにあって新しくされて、今日、ここから遣わされていくのです。いつもの慣れ親しんだ道も、明日からの仕事場も、学校も、家庭も、いつものあの人々との交わりも、私たちにとっては主イエス・キリストにあって新しく遣われていく場所であって、そこもまた私たちにとっての礼拝の場なのです。その道を今日、ここから歩み出していくのです。そのようにして私たちの礼拝の旅路は続き、ついには天の御国に至ります。それまでは星を見て歩み続けるのです。けれどもその時には、私たちはこの目でイエス・キリストの御顔を仰ぎ、そこで御子イエス・キリストを礼拝することになります。その日に向けての旅路を今日、ここから始めていくのです。

救いの星を探し求める人は多くいます。そしてその星について知ろうとする人、学ぼうとする人、観察し、評価する人も多いかもしれません。しかし、肝心なことはそこから先の事柄です。あそこに救いがある、あそこに希望がある、あそこに人生の意味がある。それで終わってはならないのです。それを自らのものにしなければなりません。それを自らのものとしてこそ、それが私にとっての救いとなり、私にとっての希望となり、そして、私の人生の意味となるのです。

天文学者ヨハネス・ケプラー(1571-1630)は、星が一定の法則に従って動いていることを最初に発見した人でした。彼の星の運動についての3つの法則は、宇宙旅行の基礎となっています。その彼がこう言いました。

「この発見によって、父である神のお名前が少しでもあがめられるなら、私の名前は、永遠に忘れられてもよい。」

彼は、星の運動についての法則だけでなく、その先にある事柄、すなわち、父である神の御名があがめられることを求めたのです。それは彼がその星を造られたイエス・キリストの救いを、自分のものとしていたからです。

主イエス・キリストはこう言われます。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」(ヨハネ14:6)と。イエス・キリストと出会うこと、イエス・キリストを受け入れること、イエス・キリストを礼拝すること。これが私たちの人生の旅路の一番の目的であり、ゴールです。その人生を自らのものとするために、私たちは「見る」から「旅立つ」へまで進まなければなりません。

今はまだ無理です、今はまだ時ではない。あれがすんでから、これに目処がついてから、あの問題を解決してから、この支度が出来てから、自分自身がもう少し落ち着いたらと、あれこれと私たちの旅路を遅らせたり、思いとどまらせたりする事柄があるでしょう。しかし、あの星を見たならば、私たちは今置かれているところから、今抱えているさまざまな重荷を置き、心によぎる思いを置いて、旅立たなければなりません。クリスマスの星、その星の輝きに導かれて、救い主イエス・キリストとの出会いに向かって進んで行こうではありませんか。あなたもイエス・キリストをあなたの罪の救い主として受け入れてください。あなたの心にもクリスマスの星が燦燦と照り輝きますように、そして、その星に導かれて人生を歩んで行かれますようにお祈りします。

Ⅱサムエル記23章

 Ⅱサムエル記23章に入ります。

 Ⅰ.ダビデの最後のことば(1-7)

 まず、1~7節をご覧ください。「1 これはダビデの最後のことばである。エッサイの子ダビデの告げたことば。いと高き方によって上げられた者、ヤコブの神に油注がれた者の告げたことば。イスラエルの歌の歌い手。2 「主の霊は私を通して語り、そのことばは私の舌の上にある。3 イスラエルの神は仰せられた。イスラエルの岩は私に語られた。『義をもって人を治める者、神を恐れて治める者。4 その者は、太陽が昇る朝の光、雲一つない朝の光のようだ。雨の後に、地の若草を照らす光のようだ。』5 まことに私の家は、このように神とともにある。神が永遠の契約を私と立てられたからだ。それは、すべてのことにおいて備えられ、また守られる。神は、私の救いと願いを、すべて育んでくださるではないか。6 よこしまな者たちはみな、根こそぎにされた茨のようだ。それらは手に取ることができない。7 彼らを打つ者はだれも、槍の刃や柄で武装する。彼らはその場で、火で焼き尽くされる。」」

「ダビデの最後のことば」とは、ダビデの遺言という意味ではなく、ダビデの最後の歌、最後の預言という意味です。ここでダビデは自分のことを次のように言っています。まず、「エッサイの子ダビデ」です。これは彼がどこから来たのかを示しています。彼は自分がエッサイという名もない家族から来たことをはっきり認識していました。

私たちも自分がどこから来たのかを知ることはとても大切なことです。それによって神の恵みにとどまることができるからです。エペソ2章1~3節には、「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」とあります。私たちは罪過と罪との中に死んでいた者です。それなのに神に、そんな私たちを罪の中から救ってくださいました。とすれば、それは一方的な神の恵みに他なりません。

パウロは自分のことを、「私はその罪人のかしらです。」(1テモテ1:15)と言いました。ですから「それは私ではなく、私にある神の恵みです。」(1コリント15:10)と言うことができたのです。私たちも罪過と罪との中に死んでいた者であることを認識することによって、神の恵みをほめたたえるようになるのです。

次に、彼は「いと高き方によって上げられた者」です。彼はいと高き方によって大いなる名が与えられました。そして、「ヤコブの神に油注がれた者」です。彼はイスラエルの神によって王として油を注がれた者であるということです。さらにここでは「イスラエルの歌の歌い手」とあります。彼はイスラエルの神、主への賛美の歌を歌いました。詩篇150篇のうちの何と73篇までがダビデの作とされています。実際は、もっと多かったかもしれません。

こうしたダビデの歌は、どのようにして与えられたのでしょうか。2節には「主の霊は私を通して語り、そのことばは私の舌の上にある。」とあります。それは主の霊によって与えられたものでした。主の霊がダビデを通して語られたのです。ですから、そのことばがいつもダビテの舌の上にありました。このことは、聖書が神の霊感によって書かれたことを示しています。1ペテロ1:21に、「預言は、決して人間の意志によってもたらされたものではなく、聖霊に動かされた人たちが神から受けて語ったものです。」とある通りです。聖書は神の霊感によって書かれたものであり、聖霊によって動かされた人たちによって書かれたものであり、神のことばなのです。

その神のことばは、ダビデについて何と語られたでしょうか。3~4節には、「義をもって人を治める者、神を恐れて治める者。そのような者は、太陽が昇る朝の光、雲一つない朝の光のようだ。雨の後に、地の若草を照らす光のようだ。」とあります。これはダビデ自身のことであり、また、ダビデの子孫とお生まれになる主イエスのことを預言していました。

何ゆえにダビデは、このような者になることができたのでしょうか。5節にはその理由が次のようにあります。「神が永遠の契約を私と立てられたからだ。」これはダビデ契約のことです。2サムエル7章11~13節に、主がダビデと永遠の契約を結ばれたことが記されてあります。「主があなたのために一つの家を造る、と。12 あなたの日数が満ち、あなたが先祖とともに眠りにつくとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子をあなたの後に起こし、彼の王国を確立させる。13 彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」

これはダビデから出る世継ぎの子によって、彼の王国を確立させるという約束です。これはその子ソロモンのことだけでなく、ずっと後になって出るキリストによる神の王国についての預言でした。主はこの契約にしたがって彼の救いを成し遂げ、彼の願いをかなえてくださったのです。主は本当に真実な方です。その語られた約束を必ず実現してくださいます。それゆえにダビデは、太陽が昇る朝日、雲一つない朝の光、雨の後に、地の若草を照らす光のような生涯を送ることができたのです。そして、それはダビデのように主に信頼して歩む私たちにも約束されていることです。

しかし、よこしまな者たちはそうではありません。よこしまな者たちは、茨のように投げ捨てられます。彼らは茨のようにとげを持っているので、手に取ることはできないので、主は、鉄や槍の柄で集め、ことごとく火で焼き尽くされるのです。

私たちも茨のようなとげある者です。しかし、主はそんなものを愛してくださり、キリストが与えてくださった永遠の契約によって、主が私たちのうちに救いの御業を完成してくださいます。パウロはピリピ1章6節で「あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています。」と言っていますが、それは私たちの告白でもあります。私たちのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスが来られる日までに、それを完成してくださると確信し、信仰をもって主をほめたたえたいと思います。

 Ⅱ.ダビデの勇士たち(8-17)

次に8~17節までをご覧ください。まず12節までをお読みします。「8 ダビデの勇士たちの名は次のとおりである。補佐官のかしら、タハクモニ人ヨシェブ・バシェベテ。彼は槍を振るって一度に八百人を刺し殺した。9 彼の次は、アホアハ人ドドの子エルアザル。ダビデにつく三勇士の一人であった。彼らがペリシテ人をそしったとき、ペリシテ人は戦うためにそこに集まった。イスラエル人は退いたが、10 彼は立ち上がり、自分の手が疲れて、手が剣にくっつくまでにペリシテ人を討った。主はその日、大勝利をもたらされた。兵たちが彼のところに引き返して来たのは、ただ、はぎ取るためであった。11 彼の次はアラル人アゲの子シャンマ。ペリシテ人が隊をなして集まったとき、そこにはレンズ豆が豊かに実った一つの畑があった。兵はペリシテ人の前から逃げたが、12 彼はその畑の真ん中に踏みとどまってこれを守り、ペリシテ人を討った。主は大勝利をもたらされた。」

ダビデの王国が確立される背後には、ダビデを支えた勇士たち存在がありました。その筆頭に来るのが三勇士たちです。まず、ハタクモニ人ヨシェブ・バシェベテです。彼は槍を振るって一度に八百人を刺し殺しました。

次に、アホアハ人ドドの子エルアザルです。彼はペリシテ人と戦った時、手が疲れて、手が剣にくっつくまでペリシテ人を討ちました。つまり、剣を握った手がそのまま剣にくっついてしまい、離れなくなるほど戦ったということです。彼はイスラエルに大勝利をもたらしました。残りの兵士たちは、分捕り物を取るだけで良かったのです。

彼の次はアラル人アゲの子シャンマです。彼は、ペリシテ人が隊をなして集まった時、味方の兵がペリシテ人の前から逃げても、ひとりレンズ豆の畑に踏みとどまってペリシテ人と戦い、彼らを打ち殺しました。彼もまた、主の勝利をもたらすために用いられたのです。この「踏みとどまって」というのがすごいですね。他の兵がペリシテ人の前から逃げても、彼は一人レンズ豆の畑に踏みとどまってそれを守り、ペリシテ人を打ち倒しました。自分の味方が敵の前から逃げて行ってたった一人になっても、逃げないでそこに踏みとどまる勇気が必要です。私たちはそんな主の勇士になりたいと思います。

次に、13~17節までをご覧ください。「13 三十人のかしらのうちのこの三人は、刈り入れのころ、アドラムの洞穴にいるダビデのところに下って来た。ペリシテ人の一隊は、レファイムの谷間に陣を敷いていた。14 そのときダビデは要害にいて、ペリシテ人の先陣はそのときベツレヘムにいた。15 ダビデは切に望んで、「だれかが私に、ベツレヘムの門にある井戸の水を飲ませてくれたらよいのだが」と言った。16 三人の勇士はペリシテ人の陣営を突き破って、ベツレヘムの門にある井戸から水を汲み、それを携えてダビデのところに持って来た。しかしダビデはそれを飲もうとはせず、それを主の前に注いで、17 こう言った。「主よ。そんなことをするなど、私には絶対にできません。これは、いのちをかけて行って来た人たちの血ではありませんか。」彼はそれを飲もうとはしなかった。三勇士は、そのようなことまでしたのである。」

この三人に関する興味深いエピソードが記録されてあります。それは、ダビデがサウル王から逃れて、アドラムの洞穴にいた時のことです。ダビデが「だれかが私に、ベツレヘムの門にある井戸の水を飲ませてくれたらよいのだが。」と言うと、この三勇士はペリシテ人の陣営を突き破って、ベツレヘムの門にある井戸から水を汲み、それを携えてダビデのところに持ってきたのです。それはいのちがけの行為でした。

するとダビデはそれを飲もうとせず、主の前に注いで、こう言いました。「主よ。そんなことをするなど、私には絶対にできません。これは、いのちをかけて行って来た人たちの血ではありませんか。」この三勇士は、ダビデのためにそのようなことまでしたのです。

彼らがしたことは、イエス・キリストの贖いのわざを思い起こさせます。彼らはダビデのためにいのちをかけて水を汲んできましたが、イエス・キリストは私たちのために文字通りいのちを捨てられました。主イエスは私たちに永遠のいのちの水を提供するために、十字架の上でご自分のいのちを投げ出してくださったのです。そのいのちの犠牲を無駄にしない唯一の方法は、主イエスを信じてこの方から永遠のいのちに至る水を飲むことです。日曜日の礼拝でもお話しましたが、私たちは祝福を求めるが、祝福の源泉を求めません。しかし、私たちに必要なのは、祝福の源泉である主イエスのもとに来て、そこから飲むことです。それこそ、私たちのためにいのちがけで成し遂げてくださった救いの御業に対する最もふさわしい応答なのです。

 Ⅲ.その他の勇士たち(18-39)

 最後に、18~39節までを見て終わります。まず18~23節までをご覧ください。「18 さて、ツェルヤの子ヨアブの兄弟アビシャイは三十人のかしらであった。彼は槍を振るって三百人を刺し殺し、あの三人とともに名をあげた。23:19 彼は三十人の中で最も誉れが高かったので、彼らの長になったが、あの三人には及ばなかった。20 エホヤダの子ベナヤは、カブツェエル出身で、多くの手柄を立てた力ある人であった。彼はモアブの英雄二人を打ち殺した。また、ある雪の日に、洞穴の中に降りて行って雄獅子を打ち殺した。21 彼はまた、例の堂々としたエジプト人を打ち殺した。このエジプト人は、手に槍を持っていた。ベナヤは杖を持ってその男のところに下って行き、エジプト人の手から槍をもぎ取って、その槍で彼を殺した。22 エホヤダの子ベナヤはこれらのことをして、三勇士とともに名をあげた。23 彼はあの三十人の中でも最も誉れが高かったが、あの三人には及ばなかった。ダビデは彼を自分の護衛長にした。

ここにはあの三勇士とは別の二人について記されてあります。一人はツェルヤの子ヨアブの兄アビシャイと、エホヤダの子ベナヤです。彼は、ダビデの側近として指揮を取っていました(20:6)。彼はダビデを助け、ペリシテ人との戦いで彼のいのちを救った勇士でした(21:17)。彼は槍を振るって三百人を刺し殺し、あの三勇士とともに名をあげましたが、あの三人の勇士には及びませんでした。

もう一人は、エホヤダの子ベナヤです。彼も多くの手柄を立てました。彼はモアブの英雄二人を打ち殺し、また、ある雪の日には、洞穴の中に降りて行って雄のライオンを打ち殺したりしました。いったい何のためにライオンと戦ったのかわかりませんが、それほどの怪力の持ち主であったということなのでしょう。

彼はまた、杖1本で、槍を持った大男のエジプト人に立ち向かい、相手から槍をもぎ取り、その槍で相手を殺しました。エホヤダもこのようなことをして、三勇士とともに名を挙げましたが、あの三人の勇士には及びませんでした。彼は後にソロモン王になったときに、軍団長に任じられています(Ⅰ列王2:35)

24節以下には、三十人の勇士たちの名前がリストアップされています。「24 ヨアブの兄弟アサエルは、例の三十人とともにいた。ベツレヘム出身のドドの子エルハナン。25 ハロデ人シャンマ。ハロデ人エリカ。26 ペレテ人ヘレツ。テコア人イケシュの子イラ。27 アナトテ人アビエゼル。フシャ人メブナイ。28 アホアハ人ツァルモン。ネトファ人マフライ。29 ネトファ人バアナの子ヘレブ。ベニヤミンのギブア出身のリバイの子イタイ。30 ピルアトン人ベナヤ。ガアシュの谷の出であるヒダイ。31 アルバト人アビ・アルボン。バルフム人アズマウェテ。32 シャアルビム人エルヤフバとヨナタン、ヤシェンの子たち。33 ハラル人シャンマ。アラル人シャラルの子アヒアム。34 マアカ人アハスバイの子エリフェレテ。ギロ人アヒトフェルの子エリアム。35 カルメル人ヘツライ。アラブ人パアライ。36 ツォバ出身のナタンの子イグアル。ガド人バニ。37 アンモン人ツェレク。ツェルヤの子ヨアブの道具持ち、ベエロテ人ナフライ。38 エテル人イラ。エテル人ガレブ。39 ヒッタイト人ウリヤ。合計三十七人。」

39節には、「三十人」ではなく「合計三十七人」とあります。でも実際にここに出てくる名前は三十二人です。ということは、合計三十七人というのは、先ほど出てきた3勇士と二人を加えた数ではないかと考えられます。しかし、24節には「三十人」とあるので、三十二人というのも多すぎます。もしかしたらこれは戦いの途中で死んだ勇士がいるので、その代わりに新たに二人が加えられたからかもしれません。ここには、すでに死んでしまった勇士が少なくとも二名、見つけることができます。一人は24節にあるヨアブの兄弟アサエルです。サウルの将軍アブネルをアサエルは追いかけているときに、アブネルは彼を突いて殺しました。そしてもう一人は、最後39節に出てくるウリヤです。ダビデ自身が、自分の罪を隠すために彼を殺しました。それで24節には「三十人」とありますが、これに新たに二人加えられて三十二人となったのではないかと思います。しかし、これが三十人であろうと、三十七人であろうと、大切なのは、ダビデの王国は、こうした勇士たちの貢献によって確立され、維持されていたということです。

これはイエスの王国、神の御国の建設においても言えることです。イエス様の回りにはペテロとヤコブとヨハネという三人の弟子たちを中核に、十二人の弟子たちがいました。そしてその周りには、さらに七十人の弟子たちがいました。こうした弟子たちの働きによって、神の国が築き上げられ、次の時代へと受け継がれて行ったのです。

それは私たちにも言えることです。御国の建設と拡大のためには、こうした勇士たちの働きが必要なのです。パウロはこう言っています。「一つのからだには多くの器官があり、しかも、すべての器官が同じ働きをしてはいないように、大勢いる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、一人ひとりは互いに器官なのです。」(ローマ12:4-5)

私たちにもそれぞれ、神から特別の使命と賜物が与えられています。それは御国の建設と拡大のためであって、自分の満足のためではありません。自分に与えられている賜物は何かを知り、御国の建設のために用いていただこうではありませんか。

エレミヤ2章1~13節「いのちの水の泉」

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 今日はエレミヤ書2章1~13節からお話します。タイトルは、「いのちの水の泉」です。いよいよエレミヤの預言者としての活動が始まります。最初の預言が、ここから3章5節まで続きます。そこには神から遠く離れ、空しいものに従って行くイスラエルの姿がいつかの比喩をもって示されています。その一つが壊れた水溜めです。13節に「わたしの民は二つの悪を行った。いのちの水であるわたしを捨て、多くの水溜を自分たちのために掘ったのだ。水を溜めることのできない、壊れた水溜を。」とあります。彼らはいのち水の泉である神を捨て、自分のために壊れた水溜めを掘りました。神はそんなイスラエルの姿を見て嘆かれ、いのちの泉であるご自身のもとに帰るようにと語られるのです。

 Ⅰ.覚えておられる神(1-3)

 まず1節から3節までをご覧ください。「次のような主のことばが私にあった。「さあ、行ってエルサレムの人々に宣言せよ。『主はこう言われる。わたしは、あなたの若いころの真実の愛、婚約時代の愛、種も蒔かれていなかった地、荒野でのわたしへの従順を覚えている。イスラエルは主の聖なるもの、その収穫の初穂であった。これを食らう者はだれでも罰を受け、わざわいを被った。-主のことば-」

 預言者エレミヤに次のような主のことばがありました。「さあ、行ってエルサレムの人々に宣言せよ。」彼はエルサレムから北東に4キロほど離れたアナトテという村に住んでいましたが、そのエレミヤにエルサレムへ行って、彼らに主のことばを宣言するようにというのです。その内容は、「わたしは、あなたの若いころの真実な愛、婚約時代の愛、種もまかれていなかった地、荒野でのわたしへの従順を覚えている」ということでした。

「若いころの真実な愛」とは、イスラエルが神と契約を交わした、まさにその頃の愛のことです。具体的には出エジプト記20章にあるシナイ契約のことです。モーセの十戒ですね。それはエジプトを脱出後に、シナイ山で神様とイスラエルとの間に交わされた愛の契約でした。その頃のことを思い起こしているのです。皆さんは、結婚式で誓ったあの時のことを覚えていますか。来週もジョセフ兄とダフニ姉の結婚式が行われますが、そこでは誓約が交わされます。

「あなたはこの人と結婚し、神の定めに従って、夫婦になろうとしています。あなたは常にこの人を愛し、敬い、慰め、助けて変わることなく、その健やかなる時も、病める時も、富める時も、乏しき時も、いのちの日の限り堅く節操を守ることを誓いますか。」「はい、誓います。」

そんなこと言ったっけ?なんて言わないでください。確かに、皆さんもそう誓ったはずです。それなのに、そぐに忘れてしまいます。中には、自分の結婚記念日でさえ覚えていないという人もいます。しかし、神様は決して忘れることはありません。全部覚えていらっしゃるんです。あの時は何と麗しい関係だったでしょうか。あなたが若いころの愛は、どんなことがあっても守るという誠実さがありました。真実な愛があったのです。それは、約束に対して誠実であるということです。あのシナイ山で約束した契約に対する忠実さのことであります。約束は破るためにあるということばがありますが、そうではありません。約束は守るためにあるのです。イスラエルは若かったころ、神と結んだ愛の契約を忠実に守ろうとする真実な愛がありました。神はそれを覚えているのです。

またここには「婚約時代の愛」とあります。これは、イスラエルがエジプトを出てからシナイ山で契約を結ぶまでの期間と考えられます。出エジプト記で言うと、12章~19章に該当します。彼らはエジプトに430年もの間奴隷として生活していましたが、その苦しみの中で主に叫び求めると、主は彼らをそこから救い出してくださいました。しかし、彼らが導かれたのは荒野でした。そこには食べ物も飲み物もなかったので、指導者であったモーセとアロン向かって不平を言いました。すると主は、彼らのために天からパンを降らせ、岩から水を出させてくださいました。さらに、アマレクという敵が攻めて来ると、何の防備もなかったイスラエルにとって戦いは困難を極めましたが、主が戦ってくださったので、勝利することができました。これが婚約時代にあったことです。婚約時代には辛いこと、苦しいこともありましたが、一番楽しい時でもありました。なんだかんだ言っても、愛によって乗り越えようとする必死さがありました。主はそんな彼らの婚約時代の愛も覚えておられました。

そればかりではありません。「種もまかれていなかった地、荒野でのわたしへの従順」も覚えていました。「種もまかれていなかった地」とは、荒野のことを指しています。彼らはカデシュ・バルネアまで来たとき、約束の地まであとわずかという時に、主の命令に背いて上って行かなかったので、結局40年間荒野を彷徨うことになりました。しかし主は、そのような中でも、昼は雲の柱夜は火の柱をもって彼らを導いてくださいました。約束の地を目の前にしてモーセは、その40年間を振り返りこのように言いました。「この40年間、あなたの衣服はすり切れず、あなたの足は腫れなかった。」(申命記8:4)

主が彼らを守ってくださいました。それは主がイスラエルに対して忠実であられたからです。それはイスラエルが主に対して従順であったということの表れでもあります。確かに彼らは荒野で何度となく不平を鳴らしましたが、その根底には主がイスラエルをエジプトから救い出し、ご自分のものとされたという愛の関係がありました。神はそのようなイスラエルの姿を覚えておられるのです。それなのに彼らは、神から離れてしまいました。初めの愛から離れてしまったのです。

これは、イエス様を信じて神の民とされた私たちも同じです。黙示録2章4節には、「けれども、あなたには責めるべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。」とあります。これはイエス様がエペソの教会に書き送った手紙です。エペソの教会はよく忍耐して、主のために耐え忍び、疲れませんでした。しかし、彼らには責めるべきことがありました。何ですか?初めの愛から離れてしまったことです。初めの愛、結婚当初の愛、婚約時代の愛から離れてしまいました。エペソという地名は「最愛の人」という意味がありますが、それが色あせてしまったのです。だから、どこから落ちたのかを思い起こし、悔い改めて、初めの行いをしなさい、というのです。

皆さんはどうでしょうか。それは私たちで言えばまさにイエス様と出会い、洗礼を受け、クリスチャン生活を始めたばかりのあの頃のことです。何もかもが新鮮でした。何もかもが感動的でした。溢れるばかりの喜びと感謝がありました。とにかく教会に来るのが楽しかった、信仰に熱心だったあの頃です。「だった」と言っているのは、初めの愛から離れてしまったということを念頭に語っています。そんなことはありません。あの時よりももっと燃えています。もっとイエス様を愛しています、もっと主を求めていますというのならすばらしいですが、もし「だった」というのであれば、このエペソの教会と同じであると言えます。信仰生活が重荷なんです。日曜日だから教会に行かなければならない。何となく面倒くさい。家にいてひっくり返っていた方がいい、ゴロゴロしていた方がいいと思っているなら、初めの愛から離れているのです。主があなたにとってすべてであったあの頃の愛から離れているのです。本来ならばあの時よりももっと今の方が主を愛していますとなるはずなのに、あの頃もすばらしかったけど、今の方がもっとすばらしいとなるはずなのに、あの頃の方が燃えていたというのであれば、それは信仰がバックスライドしているということです。初めの愛から離れているのです。もしそうであるならば、どこから落ちたのかを思い起こし、悔い改めて、初めの行いをしなければなりません。

私たちは本当に忘れっぽいですね。昨日何をしたか、何を食べたかさえも忘れています。しかし、私たちは初めの愛を思い起こさなければなりません。それが聖餐式の意味です。聖餐式では、「わたしを覚えてこれを行いなさい」とありますが、これとはパンとぶどう酒のことです。それはイエス様の血と肉を表しています。イエス様が私たちを愛してくださり、十字架で私たちの罪の身代わりとなって死んでくださいました。それほどまでに愛してくださったのです。そのことを覚えるために、パンとぶどう酒をいただくのです。あなたはどうでしょうか。この神の愛、イエス様の愛を覚えていますか。もし忘れているなら、悔い改めて、初めの愛に立ち返りましょう。これが私たちの信仰の原点だからです。

 Ⅱ.イスラエルの背信(4-8)

 次に、4~8節をご覧ください。6節までをお読みします。「ヤコブの家よ、イスラエルの家の全部族よ、主のことばを聞け。主はこう言われる。あなたがたの先祖は、わたしにどんな不正を見つけたというのか。わたしから遠く離れ、空しいものに従って行き、空しいものになってしまうとは。彼らはこう尋ねることさえしなかった。「主はどこにおられるのか。われわれをエジプトの地から上らせた方、われわれに、あの荒野、穴だらけの荒れた地を、乾いた、死の陰の地、人も通らず、だれも住まない地を行かせた方は。」」

 1~3節では、イスラエルの若いころの真実な愛が語られましたが、この箇所では主に背いたイスラエルが糾弾されています。神ご自身の失恋の叫び、と言ってもよいかもしれません。「ヤコブの家よ、イスラエルの家の全部族よ、主のことばを聞け。」ということばには、イスラエルに対する神の切実な思いが込められています。なぜ自分から離れて、空しいものに従って行ったのか。空しいものとは、偶像のことです。このとき、イスラエルは一応、神殿礼拝の形は保っていましたが、敷地にはさまざまな偶像やその祭壇がありました。まあ、クリスマスとお正月をごちゃまぜにしているような感じですね。クリスマスに教会に来たかと思ったら、お正月には神社に初詣に行くような感じです。いったいわたしがあなたに何をしたというのか、何か悪いことでもしたというのかと、主は問うているのです。

 日本の代表的なクリスチャンの一人に内村鑑三という人がいますが、彼はこう言っています。「神に拠り頼んで恥辱を受けたことはない。」あなたが神に拠り頼んで裏切られたことがあるでしょうか。辱めを受けたことがありますか。聖書にも「この方に信頼する者は決して失望させられることがない。」(Ⅰペテロ2:6)とあります。神はあなたにどんな悪いことをしたでしょうか。あなたをがっかりさせたことがありますか。あなたを傷つけたことがあるでしょうか。ないでしょ。それなのに、なぜあなたは離れていくのですか。こんなにあなたを愛しているのに、こんなにあなたのことを思っているのに、どうして離れていくのですかと、訴えているのです。この悲痛な神の叫びにしっかりと耳を傾けていただきたいと思います。

 6節には、「彼らはこう尋ねることさえしなかった。「主はどこにおられるのか。われわれをエジプトの地から上らせた方、われわれに、あの荒野、穴だらけの荒れた地を、乾いた、死の陰の地、人も通らず、だれも住まない地を行かせた方は。」とあります。

 偶像を求めて空しくなった民は、契約の神をもはや心に留めず、求めることもせず、無関心になってしまいました。もうどうでもいいのです。出エジプトと荒野の旅における神の特別な導きは、イスラエルの民が常に覚えて、主なる神への信仰の告白としなければならなかったことなのに、もうどうでもよくなってしまったのです。その神を求めることさえしなくなりました。

7節と8節をご覧ください。「わたしはあなたがたを、実り豊かな地に伴い、その良い実を食べさせた。ところが、あなたがたは入って来て、わたしの地を汚し、わたしのゆずりの地を忌み嫌うべきものにした。祭司たちは、「主はどこにおられるのか」と言うことがなく、律法を扱う者たちも、わたしを知らず、牧者たちもわたしに背き、預言者たちはバアルによって預言し、役立たずのものに従って行った。」

 約束の地に入った後の状態です。荒野で反抗した民は滅ぼされましたが、新しい世代の人々は、約束の地に導き入れられました。そこは乳と蜜の流れる、実り豊かな地で、その地で彼らは良い実を食べることができました。ところが彼らは、その地を忌み嫌うべきものにしました。偶像で汚してしまったのです。

さらに、国の指導者たちは、自らの責任を果たそうとしませんでした。祭司たちは、「主はどこにおられるのか」と言うことがなく、律法を扱う者たちも、主を知らず、牧者たちも主に背き、預言者たちはバアルによって預言し、役立たずのものに従って行きました。

 いったい何が問題だったのでしょうか。イスラエルの神、主を忘れてしまったことです。彼らは、過酷な荒野の旅を終えたときに、それが神の一方的な恵みであったことを認めず、感謝もしませんでした。その結果、カナンの地に入ってからは、真実の神、主を忘れ、自分たちにご利益をもたらすような偶像に走って行ったのです。聖書はこのようなものを「無益なもの」と呼んでいます。それは何の役にもたたないのです。偶像は本当に空しいものですが、不思議なことに、それに従って行けば幸せになれるのではないかと思い込ませます。たとえば、8節にはバアルという偶像が出てきますが、これは無病息災や商売繁盛の神です。この神を拝めばご利益があります。人生が繁栄し、成功を収めることができます。どうですか、拝みたくなったでしょう。こうしたものに人間は本当に弱いですね。ご利益があると聞くと、すぐに飛びつきたくなります。でもそれは空しいもの、無益なもの、何の役にも立たないものです。私たちを真に満たすのは、私たちを造り、私たちのために御子イエス・キリストを与えてくださるほど愛してくださったまことの神です。この方は私たちの根本的な問題である罪から救い、真の幸福をもたらしてくださいます。

 皆さんは、「世界一幸せな国」をご存知でしょうか?知っています、ブーダンでしょう?という方は、ちょっと古い人です。南アジアにあるブータンは、発展途上国ながら2013年には北欧諸国に続いて世界8位となり、“世界一幸せな国”として知られるようになりましたが、2019年度版では156か国中95位にとどまって以来、このランキングには登場しなくなりました。幸せな国ではなくなったのです。どうしてだと思いますか?それは、スマホが普及したせいです。これまで入って来なかった情報が入って来るようになったおかげで、他国と比較するようになったからです。つまり、隣の芝生が青く見えるようになったからなのです。

ちなみに日本はというと、例年、順位が振るいませんで、2021年の最新ランキングでも56位と、G7(先進7か国)の中でも最下位になっています。それはブータン同様、幸せを他の人と比較しているからです。いつの時代もどの国でも他人の持っている物や言動が気になってしょうがないのです。それは決して幸せには繋がらないと分かっていても、隣の芝生の青さやまたその欠点に目を注いでしまうのです。それが日本人の国民性なのです。私たちが幸せになるために必要なことは、私たちが何を見るか、ということです。他の人がどうかではなく、神があなたにどんなによくしてくださったのかを見て、それを感謝することなのです。

砂山(いさやま)節子という方がおられます。この方は戦前、夫の砂山貞夫という牧師と結婚し満州に赴いて福音宣教に従事していましたが、戦後、夫と次女を失い、ご自分も両目の視力を失うという状況の中で、ある日、暗澹たる思いで手探りしながら壁伝いに部屋の中を移動している時、思いもかけずこの賛美歌の一節が、心に浮かび、口をついて出てきたと言います。「数えてみよ、主の恵み、数えてみよ、主の恵み、・・」。彼女は指を折って数えました。私には二人の子供がいるではないか、教会の信徒さんたちもいる、イエス様がずっと一緒にいて下さったではないか・・と。そして、心の平安を得たといいます(「熱河宣教の記録」より)。

砂山さんはどのような状況でも、私たちは神の恵みを数える事ができると教えています。私たちもまた、自分の置かれている状況ではなく、その中で働いておられる主の恵みを数えて歩んでいきたいものです。

 Ⅲ.いのちの水の泉(9-13)

第三に、9~13節をご覧ください。「それゆえ、わたしはなお、あなたがたと争う。-主のことば-また、あなたがたの子孫と争う。キティムの島々に渡って、よく見よ。ケダルに人を遣わして見極めよ。このようなことがあったかどうか、確かめよ。かつて、自分の神々を、神々でないものと取り替えた国民があっただろうか。ところが、わたしの民は自分たちの栄光を役に立たないものと取り替えた。天よ、このことに呆れ果てよ。おぞ気立て。涸れ果てよ。-主のことば-わたしの民は二つの悪を行った。いのちの水の泉であるわたしを捨て、多くの水溜めを自分たちのために掘ったのだ。水を溜めることのできない、壊れた水溜めを。」

「それゆえ」とは、イスラエルが神との契約を破り、空しい偶像に走って行ったのでということです。それゆえ、主はなお、イスラエルと争われるのです。この「争う」という語は、法廷用語で、神がイスラエルを法廷に訴えている様子を表しています。訴えられているのはイスラエルです。これほどの愛と恵みを受けながら、その神から離れていくという例は、世界中どこにも見出せません。

10節にある「キティム」とは地中海に浮かぶキプロス島のことです。「ケダル」とはアラビヤ半島の北部に住む人々のことです。彼らはそれぞれ、自分たちの偶像を持っていました。しかし、それを他の神々に取り変えたりはしません。それはキティムやケダルだけでなく、どの国でもそうでしょ。いいか悪いかは別として、そう簡単に自分たちの神々を他のもの取り替えるようなことはしないのです。日本でもそうでしょ。日本は昔から八百万の神といって何でも神にしちゃいますが、その神々でさえ簡単に取り替えたりするようなことはしません。それなのに、イスラエルの民はなぜ簡単に変えてしまうのか?と、主はとてつもない皮肉を語っておられるのです。

彼らの罪は何だったのでしょうか。ここで主は非常に重要なことを語られます。それは13節にあるように、彼らが二つの悪を行ったということです。一つはいのちの泉である主を捨てたということです。そしてもう一つは、多くの水溜めを自分のために掘ったということです。それは水を溜めることができない、壊れた水溜です。それは、自分たちを救うことができない偶像のことを指しています。

彼らはいのちの水の泉であるイスラエルの神、主を捨てて、水を溜めることができない壊れた水溜を掘ったのです。この「いのちの水の泉」は、第三版では「湧き水の泉」と訳しています。私たちの主は「湧き水の泉」、「いのちの水の泉」です。あらゆるいのちの源泉であられます。主イエスは言われました。「しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(ヨハネ4:14)

他の偶像はすべて「水溜め」です。確かに水はあるでしょうが、いつか尽きてしまう水溜めです。しかもここでエレミヤは、その溜まっている水でさえ、岩の裂け目から水がもれてしまって、少しずつなくなる、と言っています。自分の生きがいとしていたものがまことの神でなかったら、それが宗教であれ、他のどんな活動であっても、尽きて無くなるしかない溜め水を飲んでいるのと同じことなのです。それは本当に空しいことではないでしょうか。

 水溜めは、一枚岩になっているところを切り削して造ります。とても長い期間をかけて造った、非常に大きな水溜めも見つかっています。けれども、もしその岩に裂け目があったらどうでしょう。水溜めの役目を果たさなくなります。これまで削り取ってきた労苦は無駄になってしまいます。

 ここでは「いのちの水の泉」と「壊れた水溜め」が対比されています。私たちは、あからさまに偶像礼拝をしないかもしれませんが、あからさまに偶像礼拝をしなくても、神以外のものを拝むことはあります。いや神に関する、その周囲にあるものを大事にして、神ご自身をあがめることをしないということがしばしばあります。

あなたはどうでしょうか。あなたは、「いのちの水」を下さる主イエス・キリストから飲んでいますか。それとも、壊れた水溜めを自分のために掘っていないでしょうか。ある人は、「私たちは祝福を求めるが、祝福の源を忘れる。」と言いましたが、まさにその通りです。祝福を求めますが、祝福の源を忘れるのです。私たちに必要なのは、「主はどこにおられるのか」という心からの叫びです。

「わがたましいよ 主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。主はあなたのすべての咎を赦しあなたのすべての病を癒やし あなたのいのちを穴から贖われる。主はあなたに恵みとあわれみの冠をかぶらせ あなたの一生を良いもので満ち足らせる。あなたの若さは鷲のように新しくなる。」(詩篇103:2~5)

 来週はクリスマス、そして、もうすぐこの1年も終わります。私たちは、私たちの一生を良いもので満ち足らせる主を認め、主に感謝し、主に拠り頼んで、日々歩んでまいりましょう。

エレミヤ1章11~19節「あなたは何を見ているのか」

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 今日は、エレミヤ書1章11~19節の御言葉から、「あなたは何を見ているのか」というタイトルでお話します。エレミヤが預言者として召命を受けた後、最初の預言を発するまでの間に、主はエレミヤに対する召しを確かなものとするために、二つの幻を見せられました。それがアーモンドの枝と煮え立った釜の幻です。

 Ⅰ.アーモンドの枝(11-12)

 まず、11節と12節をご覧ください。「主のことばが私にあった。「エレミヤ、あなたは何を見ているのか。」私は言った。「アーモンドの枝を見ています。」すると主は私に言われた。「あなたの見たとおりだ。わたしは、わたしのことばを実現しようと見張っている。」」

 エレミヤの預言者としての働きは、アーモンドの枝を見ることから始まります。「アーモンド」は、ヘブル語で「シャケデ」と言います。意味は「目覚める」とか「見張る」です。イスラエルでは、アーモンドの木は春になると一番先に花をつけました。日本で言えば梅の木でしょうか。とてもよく似ています。梅の花のように白い花をつけるのです。

春が来るとカラカラに乾いた冬の終わりを告げます。そのときアーモンドの木に一斉に花が咲き始めるのです。エレミヤはそれを見ていました。先ほども申し上げたように「アーモンド」はヘブル語で「シャケデ」、意味は「目覚める者」とか「見張る者」です。彼は預言者として神が語ることばが実現するかどうか見張る者として、神から召されました。この「見張る」というヘブル語は「ショケデ」と言いますが、ここに語呂合わせが見られます。「シャケデ」と「ショケデ」です。「アーモンド」と「見張る」です。私はよくおやじギャグを言って顰蹙(ひんしゅく)をかうことがありますが、神の語呂合わせは見事ですね。ショケデがシャケデを見ているのです。エレミヤは、自分が預言者として召されたことを感慨深く思っていたに違いありません。それはまさに自分のことではないか。私はアーモンドだ!と思っていたかもしれません。

その時彼に、主のことばがありました。「エレミヤ、あなたは何を見ているのか」。口語訳では「何を見るか」です。つまり、あなたは何を見ようとしているのかということです。何を見ているのかって、アーモンドの枝です。しかし、本当に彼が見なければならなかったものは何だったのでしょうか。私たちの目にはいろんなものが映りますが、その中で何を見ているのか、何を見ようとしているのかは重要なことです。目で見ているからといっても、必ずしも見ているわけではないからです。耳で聞いているからといっても、必ずしも聞いているわけではないのです。

マルコの福音書8章14~19節には、弟子たちがパンを持ってくるのを忘れて舟に乗り込んだ時の出来事が記されてあります。そのとき、イエス様が彼らに「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種には、くれぐれも気をつけなさい。」(マルコ8:15)と言われたのです。それを聞いた弟子たちは焦りました。自分たちがパンを持ってくるのを忘れたことについて、イエス様から非難されたと思ったからです。それで彼らは互いに議論し始めました。

するとイエス様はそのことに気がついてこう言われました。「なぜ、パンをもっていないことについて議論しているのですか。まだ分からないのですか。悟らないのですか。心をかたくなにしているのですか。目があっても見ないのですか。耳があっても聞かないのですか。あなたがたは覚えていないのですか。」(マルコ8:17-18)

「あなたがたは覚えていないのですか」とは、その前にイエス様が行った七つのパンの奇跡のことです。イエス様は、七つのパンで四千人の男の人たちの腹を満腹にさせました。パンの問題はもうその奇跡で解決済みでした。そのパンの奇跡によってイエス様が示そうとしたことは、人はパンだけで生きるのではなく、神のことばによって生きるのだということです。つまり、人は神の恵みによって生きるのだということです。それなのに、パンを持って来るのを忘れたからといって、パンパカパーンと叱責されるはずがありません。でも弟子たちにはそれがわかりませんでした。彼らは本気でパンのことで叱られていると思ったのです。問題は何でしょうか。よく見ていなかったということです。よく聞いていなかった。目があっても見ない、耳があっても聞かない、悟らない。心をかたくなにしていたのです。

私たちもそういうことがあるのではないでしょうか。いろんな経験をしても、ただぼんやりとしていたら、その経験、つまり見たもの、聞いたものは、何も見たことにはなりません。聞いたことにはならないのです。どんなにイエスの奇跡を体験しても、それを体験すればするほど、私たちの心は鈍くなり、御利益的信仰しか養われないで、心が鈍くなっていくということがあるのです。神様を信じていれば、必ずいいことばかりくるのだという程度のことしか期待できなくなっているのです。

ですから、私たちが何を見るか、何を見ようとしているかは大事なことなのです。私たちが日常生活において、いつも心を研ぎ澄まして、本質的なものは何か、一番大事なものは何なのか、今、しなければならないことは何か、なくてならないものは何かと、注意深く見ようとしていないと、見えるものも見えてこなくなります。

エレミヤは今、預言者とし召されたばかりでした。その時にアーモンドという花を見ていたのか、見せられたのかわかりませんが、じっと見ていました。それはただ見ていたというよりも、そこから悟りを得るかのように見ていたのです。アーモンドの枝は他の花に先駆けて芽を出し、花を咲かせます。それゆえ目覚めの花ともいわれています。エレミヤは思ったかもしれません。自分は他のだれにも先駆けてこの時代の先駆者にならなければならない。この時代を見張らなくてはならないと。特に彼は神に召された時に、神から「引き抜き、引き倒し、滅ぼし、壊し、建て、また植えるために」と言われました。厳しいさばきを民に伝えなければならないという意気込みがあったでしょう。普通ならばなんでもないアーモンドの枝でも、いつもとは違ったものとして見ていたのかもしれません。

すると主が彼に言われました。「あなたの見たとおりだ。」新共同訳では「よくぞ見たものだ」と訳しています。つまり、主はエレミヤが見ているものをほめているのです。喜んでいるんです。「よくぞ見たものだ」と。預言者として召されたエレミヤが見るべきもの、それはアーモンドの枝を通して見る神の御思いだったのですが、彼はそれをしっかりと見ることができたのです。それは目覚め、見張るという彼に与えられていた使命でした。

しかしそのあとで主は、思いがけないことを言われました。それは「わたしは、わたしのことばを実現しようと見張っている」ということです。つまり、見張っているのは、エレミヤではなく、神ご自身であるということです。確かにエレミヤは預言者として召されたからには、この世に先駆けて目を覚まし、この世を見張らなくてはならないと思っていたでしょうが、しかし、それ以前に、神ご自身が見張っているというのです。何を見張っているかと言うと、「わたしはわたしのことばを実現しようと見張っている」というのです。ここで言われている「わたしのことば」というのは、神がエレミヤを通して語られる神のことばです。エレミヤに託された主のことばが、どのように実現するのかをご自身が見張っているというのです。これを聞いた時エレミヤはどんなに肩の力がぬけたことかと思います。ヨッシャー!と思って立ち上がったら、「いや、それはあなたがするんじゃなくてこのわたしだ」と言うのですから。ガクッと来ますよね。ではそのことばとはいったいどのようなことばなのでしょうか。

 Ⅱ.煮え立った釜(13-16)

 それが次に出てくる煮え立った釜の幻です。13~16節をご覧ください。「再び主のことばが私にあった。「あなたは何を見ているのか。」私は言った。「煮え立った釜を見ています。それは北からこちらに傾いています。」すると主は私に言われた。「わざわいが北から、この地の全住民の上に降りかかる。 今わたしは、北のすべての王国の民に呼びかけている-主のことば-彼らはやって来て、エルサレムの門の入り口で、周囲のすべての城壁とユダのすべての町に向かいそれぞれ王座を設ける。わたしは、この地の全住民の悪に対してことごとくさばきを下す。彼らがわたしを捨てて、ほかの神々に犠牲を供え、自分の手で造った物を拝んだからだ。」

 これがエレミヤを通して語られた主のことばです。先のアーモンドの枝の幻を見てから幾日か経ってからのことでしょう。再びエレミヤに主のことばがありました。「あなたは何を見ているのか。」エレミヤは答えました。「煮え立った釜を見ています。それは北からこちらに傾いています」と。

 「煮え立つ釜」とは、神の煮え立つような怒りのことです。それが「北から傾いている」とは、バビロン軍が北の方からやって来るということです。彼らはやって来て、エルサレムの門の入り口で、周囲のすべての城壁とユダの城壁のすべての町に向かってそれぞれ王座を設けるのです。いったいなぜそのようなことが起こるのでしょうか。それは16節にあるように、彼らがイスラエルの神、主を捨てて、ほかの神々にいけにえをささげたり、自分たちの手で作った物を拝んだからです。その悪に対して主がさばかれるからです。これが主のことばです。主は、このことばを実現しようと見張っているのです。

 でもどうやってこれが起こるのでしょうか。というのは、エレミヤが預言者として召されたのはB.C.627年のことでした。当時、周辺諸国を支配していたのはアッシリヤ帝国です。アッシリヤ帝国によってオリエント世界は完全に支配されていたのです。バビロンなんていう国は聞いたこともありませんでした。事実、バビロンはアッシリヤの支配下にありました。ですから、世界最強のアッシリヤ帝国が消滅して、名もないバビロン帝国が世界の覇者になると聞いても、ピンときませんでした。だれも信じることができなかったのです。今で言えば超大国のアメリカが消えて無くなり、どこの名もないような国が急に世界の覇者になるようなものです。考えられません。そのバビロンがやって来てどうやってエルサレムを滅ぼすというのでしょうか。そんな時に、エレミヤはこの預言のことばを語れと言われたのです。語れと言われても、それは突然天から聞こえてきたというよりもエレミヤの思いの中に、そのような思いが与えられたということでしょう。

 彼は夕飯を待ちながら、グツグツと煮え立つ釜を見ていると、その釜が突然北の方から傾いてきてこぼれそうになりました。そのとき、「わざわいが北から、この地の全住民の上に降りかかる。」という主の御声を聞いて、神のことばを悟ったのです。つまりエレミヤは夕飯の用意をしながら、グツグツと煮え立つ釜を身ながら、偶像礼拝をしているイスラエルのあり方を身ながら、こんなことをしていたら、きっと神のさばきがくると考えたのです。それが北からやって来るバビロン帝国でした。

 まだ人々はバビロンという国さえ知らない時代です。まだ北からの驚異を少しも感じていないとき、そんな時に人々にこんな罪の生活をしていたから、必ず北から攻められる、それは神のさばきだと人々に語らなければならないのです。だれが信じるでしょうか。だれも信じられなかったでしょう。バカじゃないか、そんなことあるはずがないじゃないか、もっとマシな話をしろと、鼻で笑われたに違いありません。これが神のことばだと告げれば告げるほど人々から笑われ、そんなことを言って脅かすなと非難されていたのです。17章の15節からのところをみると、エレミヤの嘆きの言葉が記されています。「ご覧ください。彼らは私に言っています。『主のことばはどこへ行ったのか。さあ、それを来させよ。』しかし私は、あなたに従う牧者になることを避けたことはありません。癒やされない日を望んだこともありません。あなたは、私の唇から出るものが御前にあることをよくご存じです。私を恐れさせないでください。あなたは、わざわいの日の、私の身の避け所です。私を迫害する者たちが恥を見て、私が恥を見ることのないようにしてください。」(17:15-18)

エレミヤが「北から攻められて、自分たちの国は滅びる」、これは主のことばだと語れば語るほど、お前の言った言葉はちっとも実現しないではないかとからかわれていたのです。

 そのエレミヤに対して主は、「わたしはわたしのことばを実現しようと見張っている」と言われました。お前がこれは主のことばだといって語ったことは、わたしが責任をもって実現させる、そのために見張っているのだと、神はエレミヤに語られたのです。だからお前は安心して主のことばを語れというのです。わたしがお前が語ったことばを実現させるからと。これはエレミヤにとってどんなに心強い言葉であったかと思います。

 そして、事実、このことばが実現します。主がこれをエレミヤに語られた翌年のB.C.626年に、バビロンの王ナボポラッサルがアッシリヤに反乱を企て独立を果たすのです。これが新バビロニア帝国です。そしてそのまま破竹の勢いで勢力を伸ばすと、B.C.612年には、ついにアッシリヤ帝国の首都ニネベを陥落させるのです。つまり、バビロンがアッシリヤに代わって世界の覇者となるのです。それは、主がエレミヤに語られたてら15年後のことでした。

そして、それからさらに7年後の605年に、このバビロン軍が南ユダに侵攻します。エレミヤがこれを預言したのがB.C.627年ですから、それから実に22年後のことです。その年にバビロンが南ユダに侵略し、ダニエルを始めとした優秀な人材をバビロンに連行するのです。これが第一次バビロン捕囚です。それはユダの王エホヤキムの治世の第三年のことでした(ダニエル1:1)。

それから19年後のB.C.586年には、これが最も有名なものですが、バビロンの王ネブカデネザルがエルサレムを包囲し、陥落させるのです。その中心にあったエルサレム神殿は破壊され、エルサレムは瓦礫の山となり、エルサレムの住民はバビロンへと連行されます。これが究極のバビロン捕囚です。ここで主がエレミヤに語られたとおりになるのです。ユダの人々がそんなこと考えられないと鼻で笑ったことを、主は実現されるのです。これが主のなさることです。主はご自分が語られたことを実現しようと見張っておられるのです。

聖書にはたくさんのことが書かれていますが、実にその3分の1は預言です。ですから聖書は預言の書と言われているわけですが、その預言は、これまでの歴史においてことごとく実現してきました。その中には1,900年もの間失われていたイスラエルが、世の終わりに再建されるというのもあります。考えられません。しかし、1948年5月にこれが実現します。イスラエルという国が建国されたのです。これは20世紀最大の奇跡と言われていますが、現実に起こったのです。

ですから、未来のことについて信じ難いことでも、私たちはこの神のことばを信じなければなりません。世間が何と言おうとも、変わることがない神のことばを信じなければならないのです。勿論、それは預言ばかりでなく聖書に書かれてあるありとあらゆることです。たとえそれが常識では考えられないことでも、理性的に受け入れられないことでも、この世の価値観からあまりにもかけ離れていることであっても、聖書は神によって語られた神のことばであり、神は必ずそれを実現してくださるのです。

エレミヤの時代の人々は信じることができませんでした。まさか22年後にバビロンがやって来て人々を連れて行くなんて考えられませんでした。しかし、主はご自身が語られたことばを実現しようと見張っておられます。大切なのは、見ないで信じることです。イエスはトマスに言われました。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」(ヨハネ20:29)見ないで信じる者は幸いです。見ないで信じましょう。主が語られたことばは、必ず実現するからです。

 Ⅲ.腰に帯を締めて立ち上がれ(17-19)

ですから、第三のことは、腰に帯を締めて立ち上がれということです。17~19節をご覧ください。「さあ、あなたは腰に帯を締めて立ち上がり、わたしがあなたに命じるすべてのことを語れ。彼らの顔におびえるな。さもないと、わたしがあなたを彼らの顔の前でおびえさせる。見よ。わたしは今日、あなたを全地に対して、ユダの王たち、首長たち、祭司たち、民衆に対して要塞の町、鉄の柱、青銅の城壁とする。彼らはあなたと戦っても、あなたに勝てない。わたしがあなたとともにいて、-主のことば-あなたを救い出すからだ。」」

主はエレミヤに二つの幻の意味を説明すると、腰に帯を締めて立ち上がり、主が命じるすべてのことを語れ、と言われました。帯を締めて立ち上がるとは、働きやすいように着物の裾をまくり上げて腰の帯で締めることです。主が語るように命じられたことをすべて語ることができるように用意しておきなさいということです。あなたはその用意が出来ているでしょうか。監督から声が掛かったらいつでもベンチから飛び出していく野球の選手のようにウォーミングアップが出来ているでしょうか。監督の考えや戦略を熟知していて、すぐにそれに対応できるように準備しているでしょうか。

Ⅰペテロ1章13節に、「腰に帯を締める」と同じことばが使われています。「ですから、あなたがたは心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。」

この「心を引き締め」ということばです。あなたの心は緩んでいないでしょうか。考えがあっちに行ったりこっちに行ったりしていないですか。あのことを考えたりこのことを考えたりして集中できないということはないでしょうか。聖書のことばに集中して生きるのか、この世の価値観に流されて生きるのかということです。人の言うことに振り回されていないでしょうか。そうではなく、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストが現れるときに与えられている恵みを、ひたすら待ち望まなければなりません。

彼らの顔を恐れてはなりません。さもないと、主があなたを彼らの顔の前でおびえさせることになります。「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。」(箴言29:25)とあるとおりです。エレミヤが語ることばは、彼らにとって歓迎されるようなことばではありませんでした。むしろ(いぶか)られたり、拒絶されたりするようなことばでした。しかしそれでも彼は、人々の顔を恐れず主が語れと命じられたことを語らなければなりませんでした。人の顔色を見て神のことばを薄めたり、ゆがめたり、へつらったり、オブラートに包んだりしないで、ストレートに語らなければならなかったのです。

そうすれば、主は彼を「要塞の町、鉄の柱、青銅の城壁とする」と約束されました。「要塞の町」とか「鉄の柱」、「青銅の城壁」とは、揺るぐことがない堅固な町という意味です。主はそれをエレミヤに重ねて言っているのです。恐れてはならない、おののいてはならない。主が語られたすべてを大胆に語るように。なぜなら、主があなたとともにいて、あなたを救い出されますから。主が救ってくださいます。自分で自分を救うのではありません。自分で弁護するのでもないのです。人に取り入られようとへつらう必要もありません。全部主が成し遂げてくださいます。あなたは絶対に潰されることはありません。倒れることはないのです。主があなたを要塞の町、鉄の柱、青銅の城壁としてくださるからです。

エレミヤの預言者としての活動は実に40年間にわたるものでしたが、たとえ40年間だれ一人あなたの語ることばに見向きもしなくても、だれ一人あなたのことばに耳を傾けなくても、それでもあなたは語り続けなさい。わたしがともにいるから。そう語られたのです。これを信じたエレミヤは、40年以上も神の働きを続けることができました。それはこの世の人々の目には不毛のように見えたかもしれません。しかし、神の目ではそうではありませんでした。アーモンドの枝のように、死んでいるように見えても花を咲かせていたのです。ですからエレミヤは、どんなに反対されても、忍耐して、忠実に語り続けることができたのです。

あなたはどうでしょうか。人にどう思われるが気になりますか。そんなこと言ったら変に思われるんじゃないかとか、バカにされるんじゃないか、仲間外れにされるんじゃないかと心配になってはいないでしょうか。ストレートに言ったら反って相手の気分を損なわせてしまうことになるのではないか。それでは逆効果だと思うかもしれない。でも恐れないでください。主はきょうあなたにこう言われます。「さあ、あなたは腰に帯を締めて立ち上がり、わたしがあなたに命じるすべてのことを語れ。」と。

なかなかわかってもらえないかもしれません。拒まれるかもしれない。逆ギレされるかもしれません。それによって人間関係を失うかもしれません。でも彼らの顔を見ておびえないでください。主があなたともにいて、あなたを救い出してくださいますから。これが主の約束です。主のことばはとこしえに堅く立ちます。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばはとこしえに立つ。主のことばに信頼して、あなたも腰に帯を締めて立ち上がり、主があなたに命じるすべてのことを語ってください。

エレミヤはアーモンドの枝をみながら、「わたしはわたしのことばを実現しようと見張っている」という主のことばを聞いて力づけられ、また肩の力を抜くことができましたが、それはエレミヤばかりでなく、あなたに対しても語られている主のことばなのです。

Ⅱサムエル記22章

 Ⅱサムエル記22章に入ります。これは、ダビデの賛歌です。彼が晩年になり、自分の生涯をふりかえり、そこに主がおられたことを知り、主を讃美している歌です。この歌は、詩篇18篇とほとんど同じです。ここに書かれたものが原型で、それが礼拝用に一部修正されて詩篇18篇になったものと思われます。

 Ⅰ.祈りに答えてくださる主(1-7)

 まず、1~7節をご覧ください。「1 主がダビデを、すべての敵の手、特にサウルの手から救い出された日に、彼はこの歌のことばを主に歌った。2 彼は言った。「主よ、わが巌、わが砦、わが救い主よ、3 身を避ける、わが岩なる神よ。わが盾、わが救いの角、わがやぐら、わが逃れ場、わが救い主、あなたは私を暴虐から救われます。4 ほめたたえられる方、この主を呼び求めると、私は敵から救われる。5 死の波は私を取り巻き、滅びの激流は私をおびえさせた。6 よみの綱は私を取り囲み、死の罠は私に立ち向かった。7 私は苦しみの中で主を呼び求め、わが神に叫んだ。主はその宮で私の声を聞かれ、私の叫びは御耳に届いた。」

これは、主がダビデを、すべての敵の手、特にサウルの手から救い出された日に、彼が主に歌った賛歌です。

2~4節の中でダビデは、九つの神の性質を挙げ、それゆえに神を称えています。それは主は巌であり、砦、救い主、巌なる神、砦、救いの角、やぐら、逃れ場、そして救い主であるということです。特に注目していただきたいことは、これらの神の性質を挙げる前に、「わが巌」とか「わが砦」とあるように、必ず「わが」という語が付けられていることです。つまり彼は単に神がそのような方であると知っていたというだけでなく、自分の体験として知っていたということです。それほど身近な存在として感じていたのです。使徒パウロは2コリント1章10節でこのように語っています。「神は、それほど大きな死の危険から私たちを救い出してくださいました。これからも救い出してくださいます。私たちはこの神に希望を置いています。」パウロも、自分の経験として、神は救い主であると知っていました。だから、これからも救い出してくださると信じることができ、この神に希望を置くことができたのです。私たちに必要なのは、私たちの神がどのような方であるかを体験として知ることです。そして、この方に身を避けることです。そのことによって神をもっと身近な存在として感じ、この神に望みを置くことができるようになります。

次にダビデは、答えられた祈りを思い起こして、神をたたえています。5~7節です。「5 死の波は私を取り巻き、滅びの激流は私をおびえさせた。6 よみの綱は私を取り囲み、死の罠は私に立ち向かった。7 私は苦しみの中で主を呼び求め、わが神に叫んだ。主はその宮で私の声を聞かれ、私の叫びは御耳に届いた。」

ダビデは何度も絶望を経験してきました。ここにはそれを4つの言葉で表現しています。それは「死の波」、「滅びの激流」、「よみの綱」、「死の罠」です。つまり、死の恐怖におののくこともが何度もあったということです。しかし、その苦しみの中で彼が主を呼び求めると、主はその宮で彼の祈りを聞かれ、助け出してくださいました。

どんな信仰の偉人であっても、例外なしに信仰の試みに会います。皆さんはハドソン・テーラーという信仰の偉人を知っていますか?ハドソン・テーラーは、チャイナ・インランド・ミッション(中国奥地宣教教会)の創設者として知られています。また、自らも宣教師として中国に出かけ、そこで大きな働きをしました。そんなテーラーも、宣教活動のきびしさの中で挫折し、落ち込むことがありました。

毎日、罪と失敗におののきながら力不足を感じていました。「強い信仰を持つにはどうすればいいのだろうか」と考えていたとき、英国にいる友人のマッカーシーから手紙が届きました。彼は、テーラーが悲嘆に暮れていることも知らずに、こう書いて来ました。

「ハドソン、信仰を強めるためには、どうしたらよいのかと考えたことはないか。この間、祈っていて示されたことを分かち合おうと思う。我々は、信仰を強めようとして、つい頑張って努力しようとするが、そうではない。努力するのではなく、真実なお方に寄りかかること。これが信仰を強くする秘訣なんだ。」

神が友人の手紙を通して語ってくださったようでした。この手紙によって信仰の神髄に触れたテーラーは、「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。」(2テモテ2:13)というみことばを思い出し、再び信仰の高嶺に向かって登り始めることができたのです。

私たちも、今までに主が私たちの祈りに答えってくださったことを思い起こし、主に感謝し、主の御名をたたえましょう。それが将来を力強く生きる秘訣です。これまであなたを支えてくださった神は、これからもあなたを支え続けてくださいます。「ほめたたえられる方、この主を呼び求めると、私は敵から救われる。」のです。

 Ⅱ.ケルビムに乗って来られる主(8-16)

次に、8~16節までをご覧ください。「8 地は揺るぎ、動いた。天の基も震え、揺れた。主が怒られたからだ。9 煙は鼻から立ち上り、その口から出る火は貪り食い、炭火は主から燃え上がった。10 主は、天を押し曲げて降りて来られた。黒雲をその足の下にして。11 主は、ケルビムに乗って飛び、風の翼の上に自らを現された。12 主は、闇をご自分の周りで仮庵とされた。水の集まり、濃い雲を。13 御前の輝きから、炭火が燃え上がった。14 主は天から雷鳴を響かせ、いと高き方は御声を発せられた。15 主は矢を放って、彼らを散らし、稲妻を放って、かき乱された。16 こうして、海の底が現れ、地の基があらわにされた。主のとがめにより、その鼻の荒い息吹によって。」

ここには、主がダビデの祈りに答えて自然界に介入され、敵を打ち破られた様子が記されてあります。8節には、「地がゆるぎ、動いた。天の基も震え、揺れた。」とあります。主が怒られたからです。その主の怒りがどのようなものであったのかが、16節までずっと説明されています。

しかし、これは単に主が自然界に介入されダビデを救い出したというだけでなく、将来主が再臨される時に起こることを預言しているのです。たとえば、10節には「主は、天を押し曲げて降りて来られた。黒雲をその足の下にして。」とあります。また、11節には「主は、ケルビムに乗って飛び、風の翼の上に自らを現された。」とあります。これも主が再臨される時のことです。というのは、黙示録19:11にもその時のことが預言されていますが、それと同じ内容となっているからです。黙示録19:11には「また私は、天が開かれているのを見た。すると見よ、白い馬がいた。それに乗っている方は「確かで真実な方」と呼ばれ、義をもってさばき、戦いをされる。」とあります。この記述からキリストは白い馬に乗って来られると一般的に考えられていますが、これは文字通りの白い馬のことではなく、実はこのケルビムのことです。このケルビムについてはエゼキエル書1章にその姿が描写されていますが、その姿は人間のような姿をしていた、とあります。しかし、四つの顔と四つ翼を持っていたとあります(エゼキエル:5-6)。何とも言えない姿ですが、これがケルビムです。そういえば、イスラエルが幕屋を作るようにと神から示されたとき、契約の箱を覆う「宥めの蓋」の両端に、このケルビムを作るようにとありました。その二つのケルビムは両翼を上の方に広げ、向かい合うようにし、宥めの蓋の方を向くようにしました(出エジプト記25:17-22)。そこに神のことばであられるキリストがおられるからです。主はそのケルビムの間からご自身のことばを語られたのです。ですから、これらのケルビムはキリストに仕える天使なのです。そして、キリストはやがてこのケルビムの翼の上に自らを現わされるのです。

そしてキリストがケルビムに乗って再び来られるとき、神に敵対する者たちを厳しくさばかれるのです。それが13~16節にある描写です。「御前の輝きから、炭火が燃え上がった。主は天から雷鳴を響かせ、いと高き方は御声を発せられた。主は矢を放って、彼らを散らし、稲妻を放って、かき乱された。こうして、海の底が現れ、地の基があらわにされた。主のとがめにより、その鼻の荒い息吹によって。」

つまり、神が今までダビデのためになされた解放のみわざは、将来神がキリストを信じる者たちのためにしてくださる解放のわざの「型」となっているのです。神はダビデが死の苦しみにあった時そこに介入して彼を救い出されたように、この歴史に介入され、ご自身の民であるクリスチャンを完全に解放してくださるのです。新約の時代に生きている私たちは、過去から学び将来を確信するという特権が与えられています。キリストに信頼する者たちの勝利は保証されていることを覚え、キリストの再臨を確信して、信仰をもって今の時を生きていこうではありませんか。

 Ⅲ.義に報いてくださる方(17-25)

 次に、17~25節をご覧ください。「17 主は、高い所から御手を伸ばして私を捕らえ、大水から、私を引き上げられました。18 主は、力ある敵から私を救い出されました。私を憎む者どもからも。彼らは私より強かったのです。19 私のわざわいの日に彼らは立ちはだかりました。けれども、主は私の支えとなられました。20 主は私を広いところに連れ出し、私を助け出されました。主が私を喜びとされたからです。21 主は、私の義にしたがって私に報い、手のきよさにしたがって顧みてくださいました。22 私は主の道を守り、私の神に対して悪を行いませんでした。23 主のすべてのさばきは私の前にあり、主の掟から、私は遠ざかりませんでした。24 私は主に対して全き者。自分の咎から身を守ります。25 主は私の義にしたがって顧みてくださいました。御目の前の、私のきよさにしたがって。」

ここでダビデは、再び自分の時代に戻り、主がどのようにして自分を救ってくださったのかを語っています。まず主は、高い所から、御手を伸ばして捕らえ、大水から、彼を引き上げてくださいました。高い所とは、主がおられる天のことを指しています。そこから彼のいるところに下ってくださり、御手を差し伸べて彼を捕らえてくださったのです。

「大水」とは比喩的な表現で、数々の苦難を指しています。そのようにして主は、力ある敵から彼を救い出してくださったのです。そして、広いところへ連れ出し、彼を助け出されました。「広いところ」とは、安全な場所、安心できる場所のことです。そこへ連れ出してくださったのです。

これが、私たちの主イエスがなしてくださることです。ローマ8章31節で、「では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」とあります。神が私たちの味方であるなら、だれも私たちをキリストにある神の愛から引き離すことはできません。主があなたのためにしてくださった数々の守りと救いのみわざを思い出し、ダビデの賛歌に合わせて主にほめ歌を歌いましょう。

21節~のところをご覧ください。ダビデは、「主は、私の義にしたがって私に報い、手のきよさにしたがって顧みてくださいました。」と言っています。また22節では「私は主の道を守り、私の神に対して悪を行いませんでした。」と言っています。23節では「私は主の道を守り、私の神に対して悪を行いませんでした。」と言っています。24節では「私は主に対して全き者」とまで言っています。それゆえに主は、彼を顧みてくださったというのです。

どういうことでしょうか。ご存知のように、彼は数々の罪を犯しました。バテ・シェバとの姦淫やウリヤの殺害などはその最たるものです。それはダビデだけではなく、すべての人に言えることです。すべての人は罪を犯したので神からの栄誉を受けることができず・・・(ローマ:23)とあるように、イエス様以外だれも自分が全き者であると言える人はいません。それなのに彼はここで自分は主の道を守り、神に対して悪を行わなかったと言っているのです。そして、その義に従って、主は自分に報いてくださったというのです。

これは彼が全く罪を犯さなかった完全な人であったということではありません。ダビデはもちろん、その生涯の中で数々の罪を犯しました。失敗も多くしました。けれどもそうした個々の罪や失敗ではなく、全生涯を通じて彼はいつも主に喜ばれる歩みを目指し、義と聖を追い求め、罪と悪から身を守ろうとしました。主を愛していたからです。そのことが、「私の義」という言葉に現われているのです。ですから、罪を犯したとき彼は熱心に悔い改めたのです。

これは私たちにも言えることです。ダビデのように生涯主を愛し、主に喜ばれる生活を求めて生きる人には、その義にしたがって顧みてくださいます。確かに私たちは不完全な者で、日々罪を犯す者ですが、その罪を悔い改め、その全生涯の中で主に喜ばれる歩を目指し、義と聖を追い求め、罪と悪から遠ざかるなら、主はその義に報いて顧みてくださるのです。

Ⅳ.すべて主に身を避ける者の盾(26-31)

次に、26~31節までをご覧ください。「26 あなたは、恵み深い者には恵み深く、全き者には全き方。27 清い者には清く、曲がった者にはねじ曲げる方。28 苦しむ民を、あなたは救われますが、御目を高ぶる者に向け、これを低くされます。29 主よ、まことにあなたは私のともしび。主は私の闇を照らされます。30 あなたによって、私は防塞を突き破り、私の神によって、城壁を跳び越えます。31 神、その道は完全。主のことばは純粋。主は、すべて主に身を避ける者の盾。」

神が人間にどのような報いを与えてくださるかは、人間が神に対してどのような態度を取るかによって決まります。それが、恵み深い者には恵み深く、全き者には全き、清い者には清く、曲がった者にはねじ曲げる方」という聖句の意味です。

ダビテは神をさまざまなものにたとえて御名をほめたたえています。29節には「主よ、まことにあなたは私のともしびで、主は私の闇を照らされます。」とあります。主は「ともしび」であられます。私たちに方向性を示し、歩むべき道を示してくださる方なのです。

また、30節には「あなたによって、私は防塞を突き破り、私の神によって、城壁を跳び越えます。」とあります。「防塞」とか「城壁」とは戦いをイメージしていることばですが、さまざまな苦難や困難と解釈することができます。つまり、主は私たちに防塞を突き破り、城壁を跳び越える力を与えてくださるということです。私たちは神の力によってさまざまな困難に勝利することができるのです。

また、主は、すべて主に身を避ける者の盾です。31節に「神、その道は完全。主のことばは純粋。主は、すべて主に身を避ける者の盾。」とあります。どのようにして主に身を避けるのでしょうか。完全で、純粋な主のことばに信頼して、です。それは主ご自身が完全で、純粋であることを表しています。

私たちの人生には、自分の力だけではどうすることもできないような試練がやってきます。そのような時に必要なのは信仰によって超自然的な力を受け、それを武器として戦うことです。その武器とは、エペソ6章にある神が備えておられる武具のことですが、中でも御霊の剣である神のことばを取らなければなりません。神のことばは純粋であり、すべて主に身を避ける者の盾なのです。日々、主のことばである聖書を読み、祈りと信仰によって主からの語りかけに従順に歩むなら、自分の思いをはるかに超えた主の力に満たされることができます。

Ⅴ.神は力強い砦(32-46)

次に32~46節までをご覧ください。「32主のほかに、だれが神でしょうか。私たちの神のほかに、だれが岩でしょうか。33 神は私の力強い砦。私の道を全きものとされます。34 主は、私の足を雌鹿のようにし、高い所に立たせてくださいます。35 戦いのために私の手を鍛え、腕が青銅の弓も引けるようにされます。36 あなたは御救いの盾を私に下さいます。あなたの謙遜は私を大きくします。37 あなたは私の歩みを広げられ、私のくるぶしはゆるみません。38 私は、敵を追ってこれを根絶やしにし、絶ち滅ぼすまでは引き返しませんでした。39 私が彼らを絶ち滅ぼし、打ち砕いたので、彼らは立てず、私の足もとに倒れました。40 あなたは、戦いのために私に力を帯びさせ、向かい立つ者を、私のもとにひれ伏させました。41 あなたは、敵が、私を憎む者どもが私に背を見せるようにされました。私は彼らを滅ぼしました。42 彼らが主に目を留めても、救う者はなく、答えもありませんでした。43 地のちりのように、私は彼らを打ち砕き、道の泥のように、粉々に砕いて踏みつけました。44 あなたは、民の争いから私を助け出し、国々のかしらとして保たれました。私の知らなかった民が私に仕えます。45 異国の人々は私にへつらい、耳で聞くとすぐ、私に聞き従います。46 異国の人々は打ちしおれ、砦から震えて出て来ます。」

このような神がほかにいるでしょうか。私たちの神のほかに、だれが岩でしょうか。主は力強い砦です。私たちの道を全きものに、まっすぐにしてくださいます。主は、私たちの足を雌鹿のようにし、高いところに立たせてくださいます。「雌鹿のように」とは、崖をぴょんぴょん飛び跳ねて、高い所に登っていく様を表しています。それは戦いに勝利するための資質でもあります。35節の「戦いのために私の手を鍛え」とありますが、それも同じです。それによって青銅の弓も引けるようになります。

ダビデが御救いの盾をいただいたのは、主の恵みによるものでした。36節にある「あなたの謙遜は私を大きくします」と言っているのはそのことです。主は人の姿を取ってこの地に下ってくださるほど謙遜であられたので、ダビデは救いを受けることができました。

37節には「あなたは私の歩を広げられ」とありますが、これは大またで歩けるようになったという意味です。つまり、自由に行動できるようになったということです。

私たちも主イエスの謙遜を思い起こしましょう。キリストは神であられる方なのに神としてのあり方を捨てることはできないとは考えないで、自分を卑しくし、しもべの姿をとられ、自らを低くして、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。その謙遜のゆえに、私たちは救いを受けることができたのです。何という恵みでしょうか。

そればかりではありません。37~43節には、ダビデは敵を追ってこれを根絶やしにし、彼らを打ち砕いたので、彼らは立てず、ダビデの足もとに倒れました。これは主が戦いのためにダビテを強くし、ダビデに立ち向かう者たちを、彼の足もとにひれ伏させてくださったからです。その結果、敵は道の泥のように踏みつけられるだけでした。

また44~46節には、ダビデが異国の国々をも治める権威を得たことが記されてあります。これらのことはすべて主の恵みによってなされたことでした。

Ⅵ.ほむべきかな、わが岩(47-51)

最後に47~51節を見て終わります。「47主は生きておられる。ほむべきかな、わが岩。あがむべきかな、わが救いの岩なる神。48 この神は私のために、復讐する方。諸国の民を私のもとに下らせる方。49 神は、敵から私を携え出される方。あなたは、向かい立つ者から私を引き上げ、不法を行う者から私を救い出してくださいます。50 それゆえ、主よ、私は国々の間であなたをほめたたえます。あなたの御名をほめ歌います。51 主は、ご自分の王に救いを増し加え、主に油注がれた者ダビデとその裔に、とこしえに恵みを施されます。」」

最後にダビデは、「主は生きておられる。ほむべきかな、わが岩。あがむべきかな、わが救いの岩なる神」と力一杯主をほめたたえています。私たちの主は死んだ神ではありません。生きておられる神です。生きていて、私たちを敵の手から救い出してくださる方なのです。

それゆえ、ダビデは国々の間で主をほめたたえています。主の御名をほめ歌うのです。私たちも同じです。私たちの主は生きておられます。生きていて、私たちを不法を行う者から救い出してくださいます。主こそ、わが神、わが岩、わが救いの岩です。それゆえ、私たちも国々の間で主をほめたたえるのです。

主は、預言者ナタンを通してダビデに与えた契約を守り、とこしえに恵みを施される方です。ダビデは、「主は、ご自分の王に救いを増し加え、主に油注がれた者ダビデとそのすえに、とこしえに恵みを施されます。」と言っています。そのダビデのすえとして誕生するのが、主イエスです。

私たちの信じる神は、契約を守ってくださる方です。なんと素晴らしいことでしょうか。それゆえ、ダビデのように、私たちも主にほめ歌を歌おうではありませんか。

エレミヤ1章1~10節「エレミヤの召命」

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 今日からエレミヤ書に入ります。エレミヤは、1節にあるように、「ベニヤミンの地、アナトテにいた祭司の一人、ヒルキヤの子」でした。アナトテは、エルサレムの北東約4キロに位置する寒村です。昔から祭司たちが住み、祭司の村として知られていました。エレミヤは、その祭司の一人ヒルキヤの子として生まれました。すなわち、彼は子供のときから神に対する敬虔な態度を培われ、神の律法をよく学んでいたということです。

 このエレミヤに主のことばがありました。それはユダの王、アモンの子ヨシヤの時代のことで、その治世の第十三年のことでした。ヨシヤは8歳で王として即位したので、その治世の13年というのは、ヨシヤが21歳の時であったことがわかります。それはB.C.627年のことでした。その年にエレミヤに主のことばがあったわけです。

それはさらに、ユダの王、ヨシヤの子ゼデキヤの第十一年の終わりまで、すなわち、その年の第五の月にエルサレムの民が捕囚としてバビロンに連行される時まで続いたとあります。いわゆるバビロン捕囚です。捕囚の民としてバビロンに連れて行かれたという出来事です。それはB.C.586年のことですから、エレミヤの預言者としての活動は、B.C.627年からB.C.586年までの、実に41年間であったということになります。長いですね。

 彼が預言者として活動していた時期はどのような時であったかというと、イスラエルの歴史において最も暗黒な時代であった言えるでしょう。霊的にも、道徳的にも、社会的にも堕落しており、その結果、バビロンという国に捕囚の民として連れて行かれることになったのですから。エレミヤが預言者として活動を始めた時はヨシヤ王の時代でした。彼は非常に善い王様で、父アモンによってもたらされた偶像を神殿から廃棄し、祭司ヒルキヤによって発見されたモーセの書を民の前で朗読するなどして宗教改革に取り組み、イスラエルの民を神に立ち返らようとしました。

しかしそれは長くは続かず、イスラエルは再び主に背き、元の状態に戻ってしまったのです。3節にヨシヤの子エホヤキムとありますが、彼は神のことばをストレートに語るエレミヤを鬱陶(うっとう)しく思い、激しく弾圧しました。その結果、エルサレムはバビロンの王ネブカデネザルによって陥落し、ついにはエルサレムの民がバビロンに連行されて行かれることになってしまったのです。これがバビロン捕囚という出来事です。

聖書には年代として覚えておきたいいくつかの出来事がありますが、その一つがこのB.C.586年のことです。ちなみに、他に覚えておきたい出来事、年代としては、たとえばアブラハムが神に示された地に出て行けということばを受けて、告げられたとおりに出て行ったという出来事があります。創世記12章にありますが、それはB.C.2,000年頃のことです。それから、モーセがイスラエルの民をエジプトから解放した出来事、出エジプトですね、これはB.C.1,400年頃のことです。さらに今祈祷会でちょうどやっているところですが、ダビデがイスラエルとユダを統一して王国を築いた出来事、これはB.C.1,000年頃のことです。また、その子ソロモンによってイスラエルが分裂した出来事、これはB.C.931年のことです。そしてイスラエルの分裂後、北イスラエル王国がアッシリヤによって滅ぼされた出来事、B.C.722年です。そしてこの南ユダ王国がバビロンによって捕囚の民となった出来事です。これを以ってエルサレムの民はバビロンに連れて行かれ、そこで70年の時を過ごすことになるのです。

その時の最後の王がゼデキヤでした。彼は両目をえぐられて、バビロンに連行されました。この出来事は、イスラエルの歴史において一大転機となります。かつてイスラエルがエジプトの奴隷として430年間囚われていたように、70年間他国に支配され、奴隷の民として過ごすことになったからです。最終的にそれは、罪の奴隷として罪の支配の中にあった私たちを救ってくださるイエス・キリストの救いにつながっていくのです。エレミヤはまさにこのバビロン捕囚を預言し目撃する人物として神から遣わされたのです。

それは本当に嘆かわしい出来事でした。その中でエレミヤは涙をもって、神のことばを語り続けました。エレミヤが「涙の預言者」と呼ばれる所以はここにあります。それは、ユダヤ人の宗教指導者と対峙し、激しい言葉を使いながら涙を流されたイエス様の姿でもあります。「エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者よ。わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。それなのに、おまえたちはそれを望まなかった。」(マタイ23:37-38)

そしてそれは、神に背を向けて自分勝手に生きている現代の私たちに対する神の叫び、神の心でもあります。私たちは、このエレミヤを通して語られる神のことばを私たちに対する神からの涙のメッセージとして受け止め、神のみこころは何かを学び、神のみこころに歩む者でありたいと願わされます。

 Ⅰ.エレミヤの召命(4-5)

 では、エレミヤが預言者として召された出来事を見ていきましょう。4節と5節をご覧ください。「次のような主のことばが私にあった。「わたしは、あなたを胎内に形造る前からあなたを知り、あなたが母の胎を出る前からあなたを聖別し、国々への預言者と定めていた。」」

 すごいことばですね。エレミヤは、生まれる前から預言者として定められていました。彼は祭司の子どもとして生まれたので祭司として召されていたというのならわかりますが、祭司としてではなく預言者として定められていました。預言者とは、言葉を預かると書きますが、文字通り神の言葉を預かり、それを語る人のことです。

 それは彼が母の胎内に形造られる前からのことでした。神は彼を、胎内に形造られる前から知っておられました。この「知る」ということばは、へブル語で「ヤーダー」と言います。皆さんは「ヤーダー」と言わないでください。神に知られているということはすばらしいことなのですから。あなたも生まれる前から神に知られていました。この「知る」ということばは、夫が妻を知るという時に使われることばで、夫婦の性的関係を持つ時に用いられることばです。それほど親密なレベルで知っているということです。ただ情報として知っているというだけでなく、本当に親密なレベルで人格的に、経験的に知っているのです。そのように神はあなたのすべて知っておられるのです。あなたが胎内に形造られる前から。

そして母の胎を出る前から、国々への預言者として定めておられました。この時点で彼はそのことを知りませんでした。しかし、時至って彼はそのことを知ることになります。10章23節で彼はこう告白しています。「主よ、私は知っています。人間の道はその人によるのではなく、歩むことも、その歩みを確かにすることも、人によるのではないことを。」

人間の道とは人の一生のことですが、人の一生はその人によって決まるのではなく、神の御手の中にあり、神によって定められているのです。皆さんもまさか自分がクリスチャンになってここにいるようになるなんて考えたこともなかったでしょう。だれも知りません。でも神はすべてのことを知っておられます。そして、その歩みを確かなものにしてくださるのです。

 それは私たちも同じです。私たちがクリスチャンになることは、私たちが生まれる前から、神によって定められていたことなのです。エペソ1章4節には、「すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。」(エペソ1:4)とあります。私たちは、生まれる前から、いや、世界の基が据えられる前から、クリスチャンになるように選ばれていたのです。このようになるようにと定められていたのです。

このようなことを申し上げると、中には私はロボットではない。一人の人格を持った人間であり、何をするかといった選択の自由が与えられているのであって、定められていたというのはおかしいと言う方がおられます。しかし、そうした選択さえも予め定められているのであって、私たちがどこにあってもキリストを信じるように導かれていたのです。ですから今皆さんがここにいるのも決して偶然ではないのです。

私は18歳の時に今の妻と出会い、クリスチャンになりました。どうして妻に出会ったのかを考えても本当に不思議だなぁと思います。全く考えられないことでした。しかし、今になって思うことは、エレミヤが、「主よ、私は知っています。人間の道はその人によるのではなく、歩むことも、その歩みを確かにすることも、人によるのではないことを。」と告白したように、すべてが主の導きによるものであったということです。綾小路きみまろの「あれから40年!」というフレーズが有名ですが、私のあれから40年も、まさに主の導きによるものであったと実感するのです。決して「偶然」ではなかった。そうです、人の一生は生まれる前からすでに神のみ手にあり、その使命は定められているのです。

ある夕方、ひとりの大学教授が机に向かって翌日の講義の準備をしていました。家政婦が置いていった書類や手紙に目を通しながら、不要なものをくずかごに捨て始めたとき、ある雑誌が目に留まりました。それは、彼の事務所に誤って配達された雑誌でした。それが床に落ちたとき、たまたまその雑誌の中の「コンゴ伝道の必要性」という記事が載ったページが開いたのです。教授は何とはなしにその記事を読み始めると、そのとき、このことばが彼の心をとらえました。

「コンゴでの必要性は大きい。中央コンゴの北部、ガボン州を担当する人がいない。この記事を書きながら、わたしはこう祈っている。主イエスは、このために召された人物の上に、すでにその目を注いでおられる。今こそ神がその人物の上に手を置き、私たちを助けるために彼をこの地に派遣してくださるように。」

雑誌を閉じた教授は、その日の日記に書き記しました。「私の探求は終わった。」

彼はコンゴに身をささげることにしました。この教授の名前はアルバート・シュバイツァーです。この小さな記事は、他人宛ての雑誌の中に潜んでいたものでした。その雑誌が、誤ってシュバイツァーの郵便受けに入れられていたのです。さらに、家政婦が偶然にもそれを教授の机の上に置きました。そして偶然にも教授がその記事のタイトルに気付きました。まるでタイトルの方が彼の目に飛び込んで来たかのようでした。

シュバイツァー博士は、人道主義的な分野で、20世紀を代表する偉大なひとりとなりました。彼の功績は、人類の歴史上、ほとんど他に類を見ないほどのものです。これは偶然に起こったのでしょうか。いや、これは神の摂理によるのです。(Dan Betzer 「Preaching Today.com」)

エレミヤは、自分は神から召されたのだという強い確信がありました。これが、いかなる困難に遭遇しても、それを乗り越えることができた理由です。神は、エレミヤが誕生する前から彼を預言者として選んでおられました。これは私たちにも言えることです。あなたは、自分が神から選ばれた者であることを知っていましたか。神が選んでくださったのであれば、最後まで必ず責任をもってくださいます。あなたは何も心配いりません。何も思い悩む必要はないのです。あなたに必要なのは、永遠の昔から神によって知られ、生まれる前から聖別され、神の栄光のために定められていると信じることなのです。

 Ⅱ.エレミヤの応答(6-8)

 次に、この神の召しに対するエレミヤの応答を見たいと思います。6~8節をご覧ください。「私は言った。「ああ、神、主よ、ご覧ください。私はまだ若くて、どう語ってよいか分かりません。」主は私に言われた。「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすすべてのところへ行き、わたしがあなたに命じるすべてのことを語れ。彼らの顔を恐れるな。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。主のことば。」私は言った。「ああ、神、主よ、ご覧ください。私はまだ若くて、どう語ってよいか分かりません。」」

 神の召命に対するエレミヤの応答は、「私はまだ若くて、どう語ってよいかわかりません」というものでした。この時エレミヤが何歳だったのかははっきりわかりませんが、預言者として立つにはまだ若いと言っていることから、恐らく20代前半位だったのではないかと思われます。そんな若者がどうやって語れというんですか。そんなの無理です、できるわけがありませんと、答えたのです。もしかすると彼は、祭司の子として生まれたこともあって、預言者として召されることにためらいがあったのかもしれません。あるいは、彼の時代からさかのぼること100年前に現れて神のことばを大胆に語った預言者イザヤと比較して、自分にはとてもそんな力はないと思ったのかもしれません。いずれにせよ、自分にはできませんと答えました。

それに対して、主は何と言われたでしょうか。7節をご覧ください。「主は私に言われた。「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすすべてのところへ行き、わたしがあなたに命じるすべてのことを語れ。」

「まだ若い、と言うな」、これは言い訳するな!ということです。できない理由をあげたらきりがありません。自分は若くて未熟な者です。まだ訓練が十分ではありません。自分は預言者としては不適格です。しかし、そのような言い訳は一切必要ありません。というのは、神がエレミヤを預言者として召されたのは、彼に能力があったからではなく、また、知識や経験があったからでもなく、神がそのように選ばれたのだからです。従って、彼に求められていたことは何かというと、能力や知識や経験があるということではなく、ただ神に従うことでした。神が遣わされるところであればどんなところでも行き、神が命じられたことであればそれをその通りに語ることです。すなわち、神のことばに忠実であることです。この預言者の資格について元東大総長の矢内原忠雄は、聖書講義の中で次のように言っています。

「預言者の資格は年令や人生の経験によるのではなく、素直に神の示されたものを見、語られることを聞き、命じられた言葉を告げる真実な心と純粋な信仰にあります。・・預言者は神の言葉を聞いて、これに加えることなく、また減らすことなく、そのまま純粋に伝えることを任務とするため、素直で真実な性格を要求され、人の顔を恐れない勇気を必要とします。」(矢内原忠雄、「聖書講義」8:580)

まさにその通りです。たとえ若かろうと老いていようと、才能があろうとなかろうと、口が重いとか軽いとかということとは全く関係なく、神の預言者に求められているのは、神の言葉を聞き、それをそのまま伝えることです。ですから、預言者に求められることは素直で真実であることなのです。また、人の顔を恐れない勇気です。ですから、8節に次のように勧められているのです。「彼らの顔を恐れるな。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。──主のことば。」」

 エレミヤの問題は、人の顔を恐れていたことでした。しかし神はいつもエレミヤとともにあって救い出してくれるから、人の顔を恐れるなと言われたのです。箴言29章25節には、「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。」とあります。人を恐れるとわなにかかります。しかし、主に信頼する者は守られます。どんなに強い確信をもっていても、失望する時は必ずやって来ます。そんな時エレミヤは、神との絶えざる交わりを通して、新しい力を得ていかなければならなかったのです。

あなたはどうですか。人の顔を恐れていませんか。恐れは、私たちの行動を束縛します。しかし、「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。」(Ⅰヨハネ4:18)とあるように、神の完璧な愛の前に、恐れは一瞬にして締め出されます。大切なのは、神様とともに歩むことです。

「リビングライフ」というディボーションガイドの古いものを見ていたら、数年前に天に召された韓国のオンヌリ教会のハ・ヨンシュ先生の「愛する人を慕うように」というタイトルの詩を見付けました。
「苦しみ自体は問題ではありません。神様がともにおられないことが問題です。苦痛がのろいではありません。神様がともにおられないことがのろいです。神様は神の人と毎日、毎時間、ともにおられる方です。
神様がともにおられると、恐れはありません。失敗しても、病気になっても問題ではありません。死さえも恐れなくなります。主とともにいると、すべてがうまくいきます。すべてがうまくいくとは、すべてのことがともに働いて益となるということです。苦しみが去っていくのではなく、苦しみを打ち破って、勝ち抜く力を持つことです。
「神様が私たちとともにおられる」と思うだけで、すべての責任を神様が取ってくださるような気がします。
それをまた別の視点で見て、「私たちが神様とともにいる」と考えると、私たちは神様を忘れてはならないということになります。たとえ苦痛や悩みがあっても、私たちの中には神様がおられます。一日を神様ともに始めてください。そして、一日中ともに行動してください。いつも神様のことを考えてください。神様のことを考えることが、神様とともに行動することです。それは私たちの特権です。
(ハ・ヨンジュ、「愛する人を慕うように」リビングライフ2010年4月号)

すばらしいですね。神とともにいるなら、恐れは全くありません。死さえも恐れなくなるというのはすごいことです。私たちにとって最も重要なのは、この神とともにいることです。神とのつながりを通して、日々新しい力を受けようではありませんか。人の顔を恐れないで、神に信頼しましょう。

Ⅲ.エレミヤの使命(9-10)

第三に、エレミヤに与えられた使命です。9~10節をご覧ください。「そのとき主は御手を伸ばし、私の口に触れられた。主は私に言われた。「見よ、わたしは、わたしのことばをあなたの口に与えた。見なさい。わたしは今日、あなたを諸国の民と王国の上に任命する。引き抜き、引き倒し、滅ぼし、壊し、建て、また植えるために。」」

そのとき主は御手を伸ばし、エレミヤの口に触れられました。これは、イザヤが召命を受けたときの状況に似ています(イザヤ6:7)。それは彼の口がきよめられたことを表しています。それは、神のことばを語るのにふさわしい者となったということです。そんなエレミヤに対して主が言われたことは、「見よ、わたしは、わたしのことばをあなたの口に与えた。」ということでした。それは、何を話そうかと自分で考えたり、自分で編み出す必要はないということです。神が与えてくださったことばを語るだけでいいのです。預言者とは「言葉」を「預かる」と書きますが、文字通り神の言葉を預かって語る人のことです。自分がどう思うか、どう考えるかということではなく、神が語れと言われることを語ればいいのです。それは聖書に書いてありますから、聖書のことばを語るだけでいいのです。神は、その語るべきことばさえも与えてくだいます。

忘れもしません。私は1983年5月29日の日曜日の礼拝から、ほとんど毎週休みなしで語り続けてきました。それは私たちが結婚した翌日のことでよく覚えています。その前日の土曜日に結婚式を挙げて新婚旅行に行きましたが、翌日は家に戻って来て礼拝をスタートしました。あれから38年。まあよく喋ること、お父さんは口から生まれて来たんじゃないかとよく娘に言われますが、そんなことはありません。私は生まれた時から口が重く、口べたなんです。できれば、貝のように口を閉ざし、ずっと黙っていたいと思っているくらいなんで。誰も信じないかもしれませんが本当です。ただⅡテモテ4章2節の「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」のみことばを読んだとき、「ああ、時が良くても悪くても」語らなければならないと思いました。その使命感だけでずっと語り続けています。できれば、もっと流暢に、もっとおもしろく、もっと感動的な話ができたらなぁと思うこともありますが、そんなの関係ありません。預言者である牧師にとって必要なことはいかに上手に話をするかではなく、主が語れと言われたことを忠実に語ることだからです。何を話すのか、どのように話すのかは全く関係ないのです。語るべきことばは、主が与えてくださいますから、そのことばをストレートに語るだけでいいのです。それが私たちにゆだねられている使命なのです。

では、主がエレミヤに語られたのはどんなことだったでしょうか。10節をご覧ください。ここには、「見なさい。わたしは今日、あなたを諸国の民と王国の上に任命する。引き抜き、引き倒し、滅ぼし、壊し、建て、また植えるために。」とあります。

これはどういうことかというと「破壊」と「建設」です。「さばき」と「回復」です。エレミヤが神のことばとしてイスラエルの民に語ったことは、イスラエルの滅亡の預言と、悔い改めのメッセージでした。罪の悔い改めがなければ、神の赦しと回復はありません。まず引き抜き、引き倒し、滅ぼし、壊します。しかし、それで終わりではありません。主はそこからまた建て、植えられるのです。引き抜かれることがありますが、また植えられます。壊すことがありますが、また建て直してくださいます。言い換えるなら、もしあなたが今、引き抜かれ、引き倒されているような状況に置かれているなら、それはやがて植えられるために必要な過程を通されているということです。その中でこそあなたは悔い改め、やがて植えられることになるからです。ここに真の回復と希望があります。真の回復と希望は、こうした罪の悔い改めの結果もたらされるものであって、それを避けてはならないのです。

ある有名な映画女優が、仕事と遊びに忙しくて、家をあけてばかりいました。家には十代後半の娘がひとり、お手伝いさんといっしょに暮していました。それでも自分が母親だということは自覚していた母親は、その娘の誕生日に、旅先のローマからすばらしい花びんを送ったのです。ところがその花びんが届くと、娘はそれを床の上に投げつけて言いました。「私がほしいのは花びんじゃない。ママなのよ!」母親から離れてしまった子供は、たとえどんなにすばらしいものをたくさん持っていたとしても不幸です。ちょうど同じように、私たちは自分を創ってくださった神から離れては、どんなに財産があっても、地位が高くても、また名誉を与えられていても、本当に幸福にはなれないのです。(羽鳥順二著、「初めて聖書を開く人のための12のステップ」P48)

私たちもこの映画女優のような仕方で、幸福を得ようしてはいないでしょうか。神から離れたままでは真の幸福を得ることはできません。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄光を受けることができず・・・」(ローマ3:23)とあります。神から離れているという事実がわからないで、どうやって神のもとに帰ることができるでしょうか。言い換えるなら、自分が罪人であるという自覚がなければ、きよい神を知ることができないということです。先ほどの矢内原忠雄氏はこう言っています。「望遠鏡を用いないで天文学の研究をすることが愚かであるように、自分自身の罪を通さずに神を見ようとする者はおろかなことである。」

また、宗教改革者のカルヴァンも「人間の罪深さを知らないで、どうしてきよい神を知ることができようか」と言っています。そうです、私たちが自分は罪人だと気づいた時、次の聖書のことばの意味がよくわかるようになるのです。

「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(ローマ3:23-24)

真の回復は、破壊から始まります。真に植えられることは引き抜くことから始まるのです。罪の自覚と悔い改めなしには、真の赦しはありません。救いと希望はないのです。ですから主はエレミヤに、破壊と建設、さばきと回復のメッセージを語るようにと言われたのです。これが、私たちが語るべき福音のメッセージです。破壊的な働きは人からは好まれません。だれも聞きたくないからです。それで涙することもあるでしょう。でも、真の救いは罪の悔い改めから始まるということを覚えて、この福音のメッセージを語り続けましょう。「まだ若い」と言わないでください。主があなたを遣わすどんなところへでも行き、主があなたに命じるすべてのことを語ってください。彼らの顔色を恐れるな。主があなたとともにいて、あなたを救い出してくださるからです。

Ⅱサムエル記21章

 Ⅱサムエル記21章に入ります。

 Ⅰ.3年間続いた飢饉(1-6)

 まず、1~6節をご覧ください。「1 ダビデの時代に、三年間引き続いて飢饉が起こった。それで、ダビデは主の御顔を求めた。主は言われた。「サウルとその一族に、血の責任がある。彼がギブオン人たちを殺戮したからだ。」2 王はギブオン人たちを呼び出し、彼らに話した。このギブオンの人たちは、イスラエル人ではなくアモリ人の生き残りで、イスラエル人は彼らと盟約を結んでいた。だが、サウルはイスラエルとユダの人々への熱心のあまり、彼らを討とうとしたのである。3 ダビデはギブオン人たちに言った。「あなたがたのために、私は何をすべきであろうか。私が何をもって宥めを行ったら、主のゆずりの地が祝福されるだろうか。」4 ギブオン人たちは彼に言った。「私たちと、サウルおよびその一族との間の問題は、銀や金のことではありません。また、私たちがイスラエルのうちで人を殺すことでもありません。」ダビデは言った。「私があなたがたに何をしたらよいと思うのか。」5 彼らは王に言った。「私たちを絶ち滅ぼそうとした者、私たちを根絶やしにしてイスラエルの領土のどこにも、いさせないように企んだ者、6 その者の息子の七人を私たちに引き渡してください。私たちは主が選ばれたサウルのギブアで、主のために彼らをさらし者にします。」王は言った。「引き渡そう。」」

この21~24章までは、ダビデの晩年について記されてあります。1節には、ダビデの時代に、3年間引き続いて飢饉が起こった、とあります。カナンの地では雨は神の祝福を、飢饉は神のさばきを表していました。それで何かおかしいと、ダビデは主の御顔を求め、主に伺いを立てました。すると主の答えがありました。それは、「サウルとその一族に、血の責任がある。彼がギブオン人たちを殺戮したからだ。」ということでした。このことについてはここに触れられているだけでサムエル記には記録されていないので、実際にどの出来事を指して言われているのかわかりませんが、おそらく、サウルが周囲の敵と戦っているときにギブオン人らをも次々と殺戮したのではないかと思われます。しかしヨシュア記9章3節以下には、ヨシュアはこのギブオン人たちと契約を結んだことが記されてあります。ギブオン人たちはイスラエルがエリコとアイに対して行ったことを聞くと、遠い国からやって来たかのように装い、盟約を結ぶことを求めたのです。それは彼らがイスラエルの属国となってイスラエルに仕える代わりに、彼らを生かしておくというものでした。それでヨシュアは彼らと和を講じ、彼らを生かしておく盟約を結んだのです(ヨシュア9:15)。後で彼らは近くの者たちで、自分たちのたた中に住んでいるということがわかっても、主にかけて誓ったことなので、彼らを殺すことはしませんでした。それなのにサウルはこの契約を破り、ギブオン人を殺戮し、その地を汚してしまったのです。

それは許されることではありません。それでダビデはギブオン人たちを呼び出し、問題の解決に乗り出します。「あなたがたのために、私は何をすべきだろうか。何をもって宥めを行ったら、主のゆずりの地が祝福されるか」と。

すると彼らは、この問題は金銭で解決できるようなことではないこと、また、そのことで復讐して、イスラエル人を殺すことでもない、と答えました。ではどうすれば良いのか。彼らは言いました。5、6節です。「私たちを絶ち滅ぼそうとした者、私たちを根絶やしにしてイスラエルの領土のどこにも、いさせないように企んだ者、その者の息子の七人を私たちに引き渡してください。私たちは主が選ばれたサウルのギブアで、主のために彼らをさらし者にします。」

何だ、イスラエル人を殺すことではないと言いながら、殺そうとしているんじゃないですか。「さらし者にする」と言っているのですから。でもここで注目していただきたいのは、彼らは決して復讐心からこれを要求しているのではないということです。問題は、神の前でその契約が破られ、その結果約束の地が汚されてしまったことです。

民数記35章33節にこうあります。「あなたがたは、自分たちのいる土地を汚してはならない。血は土地を汚すからである。土地にとって、そこで流された血は、その血を流した者の血以外によって宥められることはない。」

「あなたがた」とは、イスラエル人たちのことです。主は彼らに、自分たちのいる地を汚してはならないと命じられていたのに、サウルはこの戒め破り汚してしまいました。それゆえに、彼らの土地は汚れたものとなってしまったのです。そこで流された血は、その血を流した者以外によって宥められることはなかったのです。それでダビデはそれに同意し、彼らをギブオン人に引き渡すことにしたのです。

この箇所を見ると、ある人は主エジプト記20章5節にある「父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、」と関連させ、先祖の罪の報いが子孫に及ぶと考える人がいますがそう意味ではありません。エゼキエル書18章20節に、エゼキエル書18章20節に「罪を犯した者は、その者が死に、子は父の咎について負い目がなく、父も子の咎について負い目がない。正しい者の義はその者に帰し、悪者の悪はその者に帰する」とある通りです。確かに先祖が犯した罪の悪影響をその子孫が受けることはありますが、その子孫が罪の負い目を受けることはないのです。

では、ここでサウルの罪のためにその子孫の血が宥めるとはどういうことなのでしょうか。それはイエス・キリストの十字架の犠牲です。この血に対して血をもって贖うという方法は、イエス・キリストの十字架を指し示していたのです。私たちの罪に対する神の呪いも、イエス様の血の犠牲がなければ宥められることはありません。私たちの罪の解決は、ただイエス様の血によってもたらされるのです。そのことを示していたのです。

 Ⅱ.天からの雨(7-14)

次に、7~14節までをご覧ください。「7 王は、サウルの子ヨナタンの子メフィボシェテを惜しんだ。それは、ダビデとサウルの子ヨナタンの間で主に誓った誓いのためであった。

8 王は、アヤの娘リツパがサウルに産んだ二人の息子アルモニとメフィボシェテ、それに、サウルの娘メラブがメホラ人バルジライの息子アデリエルに産んだ五人の息子を取って、9 彼らをギブオン人の手に渡した。彼らは、この者たちを山の上で主の前に、さらし者にした。これら七人は一緒に倒れた。彼らは、刈り入れ時の初め、大麦の刈り入れの始まったころ殺された。10 アヤの娘リツパは、粗布を手に取って、それを岩の上に敷いて座り、刈り入れの始まりから雨が天から彼らの上に降るときまで、昼には空の鳥が、夜には野の獣が死体に近寄らないようにした。11 サウルの側女アヤの娘リツパのしたことはダビデに知らされた。12 ダビデは行って、サウルの骨とその息子ヨナタンの骨を、ヤベシュ・ギルアデの者たちのところから持って来た。これは、ペリシテ人がサウルをギルボアで討った日に、二人をさらし者にしたベテ・シャンの広場から、ヤベシュ・ギルアデの者たちが盗んで行ったものであった。13 ダビデはサウルの骨とその息子ヨナタンの骨をそこから携えて上った。人々は、さらし者にされた者たちの骨を集めた。14 彼らはサウルとその息子ヨナタンの骨を、ベニヤミンの地のツェラにあるサウルの父キシュの墓に葬り、すべて王が命じたとおりにした。その後、神はこの国の祈りに心を動かされた。」

ダビデは、サウルの子ヨナタンの子メフィボシェテを引き渡すことを惜しみました。それは、ダビデとヨナタンの間で主に誓った誓いのためです(Ⅰサムエル20:14~16)。ダビデはそのヨナタンとの契約において、ヨナタンの子らを生かすことを約束していました。ダビテは、そのヨナタンとの誓いを重んじていたのです。

それで彼は、サウルのそばめでアヤの娘リツパがサウルに産んだ二人の息子アルモニとメフィボシェテと、サウルの娘メラブがメホラ人バルジライの息子アデリエルに産んだ5人の息子を、ギブオン人の手に渡しました。アヤの娘リツパは、サウルの死後将軍アブネルと通じたという過去がありました(3:7~8)。また、サウルの娘メラブはダビデの妻になる予定でしたが、アデリエルの妻になってしまったという経緯がありました(Ⅰサムエル18:17-19)。

これら7人は、大麦の刈り入れが始まったころに殺されました。アヤの娘リツパは、荒布を手に取って、それを岩の上に敷いて座り、昼は空の鳥が、夜は野の獣が死体に近寄らないように守りました。猛禽と野獣の被害から遺体を守ったのです。刈り入れの始まりは4月、雨季は10月です。その約半年間、彼女はずっと遺体を守ったのです。神の怒りをなだめるために差し出した自分の愛する二人の息子の死は、彼女にとってどれほど悲しく辛いことだったでしょう。それは私たちの神も同じです。ここに神の痛み、悲しみが表されています。「神は、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛さそれた。それは、御子を信じる者が一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16) 神は私たちの罪のために、そのひとり子イエスを与えてくださいました。その神の悲しみはいかばかりかと思うのです。しかし、そのひとり子によって神の怒りは完全に宥められたのです。それは、御子を信じる者が一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためだったのです。

そのことがダビデに知らされると、ダビデはヤベシュ・ギルアデに行って、そこに葬られていたサウルとヨナタンの骨を持って来て、さらし者にされた者たちの骨と一緒に、ベニヤミンの地のツェラにあるサウルの父キシュの墓に葬りました。これらのことはすべて、神を喜ばせました。ここに「その後、神はこの国の祈りに心を動かされた。」とある通りです。ダビデは、神との関係がしっかりしていました。自分が罪を犯しているのに、祈りを聞いてくださるわけがないことを、知っていたのです。それで罪を悔い改め、問題の解決のためにギブオン人の敵意を取り除き、和解したことで、主が祈りに答えてくださったのです。

あなたは神との平和がありますか。イエス・キリストが宥めとなってくださいました。その犠牲によって神との平和を得ることができます。ローマ5章1節に、「こうして、私たちの信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」とあります。私たちのちもイエス・キリストによって神との平和を持つことができます。その時神様は私たちの祈りに答えて心を動かされ、天から雨を降らせてくださるのです。

 Ⅲ.ダビデを助けた家来たち(15-22)

 最後に15~22節をご覧ください。「15 ペリシテ人が再びイスラエルに戦いを仕掛けたことがあった。ダビデは自分の家来たちを連れて下り、ペリシテ人と戦ったが、ダビデは疲れていた。16 ラファの子孫の一人であったイシュビ・ベノブは、「ダビデを討つ」と言った。彼の槍の重さは青銅で三百シェケル。そして彼は新しい剣を帯びていた。17 ツェルヤの子アビシャイはダビデを助け、このペリシテ人を打ち殺した。そのとき、ダビデの部下たちは彼に誓って言った。「あなたは、もうこれから、われわれと一緒に戦いに出ないでください。あなたがイスラエルのともしびを消さないために。」18 その後のこと、ゴブで再びペリシテ人との戦いがあった。そのとき、フシャ人シベカイは、ラファの子孫のサフを打ち殺した。19 ゴブでペリシテ人との戦いが再びあったとき、ベツレヘム人ヤイルの子エルハナンは、ガテ人ゴリヤテを打ち殺した。ゴリヤテの槍の柄は、機織りの巻き棒のようであった。20 再びガテで戦いがあったとき、手の指、足の指が六本ずつで、合計二十四本指の闘士がいた。彼もラファの子孫であった。21 彼はイスラエルをそしったが、ダビデの兄弟シムアの子ヨナタンが彼を打ち殺した。22 これら四人はガテのラファの子孫で、ダビデとその家来たちの手にかかって倒れた。」

ギブオン人との和解が果たせた後、ペリシテ人がイスラエルを攻めてきました。ペリシテ人は、イスラエルとの戦いに敗れイスラエルに従属する形になっていましたが、反逆の機会を伺う度に戦いを仕掛けてきたのです。ダビデは自分の家来たちを連れて、ペリシテ人と戦いに行きましたが、かなり疲れていました。武器を持って戦うには歳を取りすぎていたのです。

この戦いで、ラファの子孫の一人イシュビ・ベノブは、「ダビデを打つ」と言いました。彼の子孫は巨人で有名な人たちで、あのゴリヤテもそうでした。つまり、彼はゴリヤテの親族だったのです。そのとき、ダビデを救ったのが甥のアビシャイです。アビシャイはダビデを助け、このペリシテ人を打ち殺しました。そのとき、ダビデの部下たちはダビデに、もうこれからは戦いの前線に出ないようにと懇願しました。ここで彼らは「あなたがイスラエルのともしびを消さないために」と言っています。まさに、ダビデの存在こそ、イスラエルのともしびそのものだったのです。

このところは教えられますね。「何をなすべきか」は重要なことですが、それ以上に重要なことは「いかにあるべきか」ということです。人々はダビデが戦果を挙げるよりも、そこにいてくれることをより望んでいたのです。私も「いつでも夢を」と、いつまでも最前線に立って主のために奮闘していきたいと願っていますが、それが必ずしも良いことかどうかは別です。もっと重要なのは、自分の存在そのものです。自分の存在が周りの人たちのともしびを燃やし続けているかどうかということです。あなたの存在はどうでしょうか。周りにどのような影響を与えているでしょうか。考えてほしいとい思います。存在していることに価値があると評価されるような人生を目指したいものです。

その後もペリシテ人との戦いが続きます。その後ゴブでペリシテ人と戦ったときは、フシァイ人シベカイが、ラファの子孫のサフを打ち殺しました。また、再びゴブで戦いがあったときには、ベツレヘム人ヤイルの子エルハナンが、ガテ人ゴリヤテを打ち殺しました。実際にはゴリヤテではなく、ゴリヤテの兄弟ラフミのことです。彼はゴリヤテのように巨人で、槍の柄は、機織りの巻き棒のようでしたが、その巨人を打倒したのです。

また、再びガテで戦いがあったときには、何と手の指と足の指がそれぞれ6本ずつ、合計24本の闘士がいました。彼もラファの子孫でした。彼はイスラエルをそしったりしましたが、ダビデの兄弟シムアの子のヨナタンが彼を打ち殺しました。

これら4人のラファの子孫は、イスラエルに攻めて来ましたが、ダビデの家来たちの手にかかって倒れました。このようにして、ダビデは弱まっていましたが、その家来たちが見事にペリシテ人の巨人らを倒すことができたのです。ダビデは自分の下で仕えている家来たちに助けられ、敵に勝利することができたのです。

パウロは若き伝道者テモテに、教える能力がある忠実な人たちにゆだねなさい、と言いましたが、私たちも自分にできることには限界があります。やがて働くことができない日がやって来ます。しかし、ダビデの家来たちのように、彼を助ける存在がいれば大丈夫です。私たちが最前線で戦うことも重要ですが、その働きを担うことができるように後継者を育てることも重要なのです。私たちはなかなか自分の働きをゆだねることができない弱さを持っていますが、むしろそのような人たちにゆだねることでさらに主の働きが力強く前進していくことを覚え、後継者の育成に力を注いでいくことに力を注いでいきたいと思います。

雅歌8章1~14節「主イエスよ、来てください」

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 雅歌からの最後のメッセージです。雅歌の最後の最後は、「私の愛する方よ、急いで来てください。」という花嫁のことばで終わっています。聖書の一番最後はヨハネの黙示録ですが、その最後も同じです。花婿であるキリストに対する花嫁のことば、キリストの花嫁であるである教会のこのことばで終わっています。「主イエスよ、来てください。」(黙示録22:20)

ここに、私たちの見るべき目標があります。私たちはどこに向かって走るのか、何のために走るのかを知ることはとても重要なことです。聖書はそれを、主イエス・キリストを待ち望むことであると言っているのです。使徒パウロもこのように言っています。

「しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。」(ピリピ3:20-21)

彼の生きる目標は何だったのでしょうか。それは天の御国でした。そこから主イエスが救い主として再び来られるのを待ち望んでいたのです。なぜなら、そのとき主イエスは私たちの卑しいからだを、栄光に輝くキリストのからだと同じ姿に変えてくださるからです。これが花嫁である教会、私たちクリスチャンの究極の目標です。

この地上にあっては艱難があります。様々な災害があれば病気もあります。私たちはその度に悩み、苦しみ、最後にはその生涯を終えるのです。であれば、いったいどこに生きる意味があるというのでしょうか。私たちは何のために生きるのでしょうか。それはこの地上を越えた天の御国、キリストの再臨を待ち望むことにあるのです。私たちも「主イエスよ、来てください。」という再臨の信仰をもって主を待ち望まなければなりません。

 Ⅰ.私は城壁、その乳房はやぐらのよう(8-10)

今日の御言葉を見ていきましょう。まず8~10節をご覧ください。「私たちの妹は若く、乳房もない。私たちの妹に縁談のある日には、彼女のために何をしてあげようか。もし彼女が城壁だったら、その上に銀の胸壁を建ててあげよう。彼女が戸だったら、杉の板でおおってあげよう。私は城壁、私の乳房はやぐらのよう。そのために、私はあの方の目には平安をもたらす者のようになりました。」

ちょっと読んだだけでは何のことを言っているのかわかりにくい文章です。ここに「私たちの妹」とありますが、これまで妹のことについては全く触れられていませんでした。この妹とはだれのことなのか。花嫁の妹のことです。花嫁が妹のことを心配して、自分の兄たちと一緒に、妹が結婚するまでどうやって妹の純潔を守って上げることができるかと心配しているのです。これは霊的には未熟なクリスチャンのことを指しています。外からの攻撃に何の防備もできていないのです。

そんな花嫁の問いに対して、兄たちはこう答えます。9節です。「もし彼女が城壁だったら、その上に銀の胸壁を建ててあげよう。彼女が戸だったら、杉の板でおおってあげよう。」どういうことでしょうか。

「城壁」とは、自分たちの城を守る防壁のことです。また「胸壁」とは、その城壁に付いている砦のことです。その砦が付くことによって、より一層防備を固めることができます。すなわち、妹がどんな男も寄せ付けない強い意志を持っているなら、城壁の上にさらに胸壁を建てて、守りをしっかりと固めようと言っているのです。

一方、「彼女が戸だったら」どうでしょうか。「戸」というのは、家の中に何でも取り入れてしまう弱い心を表しています。すなわち、自分で心と体のドアを簡単に開けてしまう(もろ)さを持っている状態のことです。もし彼女が戸だったら、杉の板でおおってあげよう、つまり彼女を囲んで守ってあげよう、というのです。

あなたは城壁ですか、それとも戸ですか。私たちは城壁なのか戸なのかによって、その結果が決まります。主イエスとの関係を城壁のようにしっかりと守るなら、私たちは安心して過ごすことができます。それは10節に「私はあの方の目には平安をもたらす者のようになりました。」とあるように、主の目に平安をもたらすような存在となるからです。

しかし、逆にあなたが戸であるならば、すなわち、霊的貞潔を守らずに、来るものは拒まずで、何でも簡単に取り入れてしまうようであるなら、主イエスとの関係が損なわれ、主から離れてしまうことになります。ですから、私たちは城壁になるように心がけたいと思います。そうすれば主は必ずあなたを盤石にし、ますます強固にしてくださいます。

10節をご覧ください。「私は城壁、私の乳房はやぐらのよう。そのために、私はあの方の目には平安をもたらす者のようになりました。」

これは花嫁のことばです。彼女はここで、「私は城壁、私の乳房はやぐらのよう。」と言っています。つまり、私は強い意志で貞潔を守ってきたと言っているのです。キリストの花嫁である教会もそうでありたいですね。

イエス様はそのような教会は、「ハデスの門もそれには勝つことができません。」(マタイ16:17)と言われました。「それには」とは、岩の上にしっかりと建てられた教会のことです。「あなたは生ける神の子キリストです」と告白して止まない教会は、岩の上に建てられた家のように、どんな強敵が襲ってきてもビクともすることがありません。もしかするとあなたはそのように感じていないかもしれません。私はすぐに誘惑に負けてしまうような者で情けないなぁとか、ふがいないなぁと思っているかもしれませんが、しかし城壁があるなら大丈夫です。イエス・キリストという岩の上にしっかりと建てられているなら、主が必ず守ってくださるからです。

また、ここには「私の乳房はやぐらのよう。」とあります。この「乳房」とは、成熟を表しています。9節には妹の乳房についての言及がありましたが、妹の乳房はどうだったかというと、「乳房はない」とありました。すなわち、成熟していなかった、未熟だったというのです。それに対して、姉である花嫁の乳房はどうであるかというと、あるというだけでなく「やぐらのよう」と言われています。やぐらのように堅固であるということです。そのために花婿に、平安をもたらす者のようになったのです。

私たちもクリスチャンとして成長すればするほど、やぐらのように強い信仰を持つことができるようになります。そうなれば、花婿キリストに平安をもたらす者になることができるのです。どうしたらそのような者になることができるのでしょうか。

第一に、みことばを慕い求めることです。Ⅰペテロ2章1~2節にこうあります。「ですからあなたがたは、すべての悪意、すべての偽り、偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」

「霊の乳」とはみことばのことです。生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋なみことばの乳を慕い求めることです。そうすれば成長し、救いを得ることができます。

第二に、キリストのからだである教会に身を置くことです。使徒20章32節にはこうあります。「今私は、あなたがたを神とその恵みのみことばにゆだねます。みことばは、あなたがたを成長させ、聖なるものとされたすべての人々とともに、あなたがたに御国を受け継がせることができるのです。」

これはパウロのことばです。パウロはミレトの港にエペソの長老たちを集めて言いました。何が彼らを成長させ、御国を継がせることができるのか。「みことば」です。みことばが、あなたがたを成長させてくださいます。しかしその後にとても重要なことを語っています。それは、「聖なるものとされたすべての人々ともに」ということです。「聖なるものとされた人々」とは、クリスチャンのこと、すなわち、クリスチャンたちの群れである教会のことを指しています。そのようなすべての人々とともに、御国を受け継がせることができるのです。「いや、私は家で一人で聖書を読んでいるので大丈夫です」とか、「私は聖書のメッセージをインターネットで聞いています」という方もおられますが、それでは御国を継がせていただくことはできません。勿論、一人で聖書を読んだり祈ったりすることは大切なことです。でもそれで十分かというとそうではなく、私たちは常に「聖なるものとされたすべての人々」とともにあることが必要なのです。そうすれば、御国を継がせていただくことができます。やぐらのような乳房になることができるのです。これが、聖書が教えていることです。

第三に、神の与えてくださるすべての武具を身につけることです。エペソ6章10~11節にはこうあります。「終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。」

使徒パウロはここで、悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身につけなさいと勧めています。それはどんな武具なのかというと、腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはき、これらすべての上に信仰の盾を取らなければなりません。それによって、悪い者が放つ火矢を消すことができるからです。また救いのかぶとをかぶり、御霊の剣である神のことばを取らなければなりません。そしてどんなときにも御霊によって祈らなければなりません。そうすれば、悪い者が放つ火矢を消すことができるのです。

あなたはどうですか。神のすべての武具を身につけていますか。それは高いお金を払って勝ち取らなければならないというようなものではありません。イエス様を信じる者にはだれにでも備えられているものです。ただで受け取ることができます。問題は、あなたがそれに関心をもっているかどうかです。キリストの花嫁は城壁、乳房はやぐらのようです。私たちも神が備えてくださるすべての武具を身に着け、どんなに敵が攻撃して来てもビクともしない堅固なやぐらのように、成熟したクリスチャンになることを求めていきたいと思います。

Ⅱ.花婿の愛に応えて(11-13)

次に、11~13節をご覧ください。「ソロモンにはバアル・ハモンにぶどう畑があって、そのぶどう畑を、守る者たちに任せていた。それぞれは、そのぶどうの実に代えて銀千枚を納めることになっていた。私が持っているぶどう畑が私の前にある。ソロモンよ。あなたには銀千枚、その実を守る者には銀二百枚。庭の中に住む仲間たちは、あなたの声に耳を傾けている。私にそれを聞かせておくれ。」

これは花嫁のことばです。花婿ソロモンは、バアル・ハモンという所にぶどう畑を持っていました。それを農夫に貸して、ぶどうの収穫に代えて、それぞれに銀千枚を納めさせていたのです。いわゆる小作料ですね。

そして、花嫁自身もぶどう畑をもっていました。12節の「私」とは花嫁のことです。彼女はかつてぶどう畑で働く労働者でしたが、ソロモン王と結婚したことで、ソロモンの妻、妃となりました。しかし、なぜかここで彼女はソロモンに銀千枚を納め、そこで働く労働者たちには銀二百枚を支払うと言っています。でも彼女は小作人ではありません。彼女はソロモン王の妻です。王妃です。であれば、ソロモン王のものはすべて自分のもとでもあります。夫に支払う義務などないのです。私は妻の財布からは取りませんが、妻が支払ったものを支払うようなことはしません。妻のものは私のもの、私のものは私のもの・・・。しかも夫のソロモンは広大なぶどう畑をもっていましたから、妻からお金をもらうなんて必要もなかったのです。にもかかわらず、彼女は夫に銀千枚を支払うと言っているのです。また、その実を守る者には銀二百枚与えるというのです。どういうことでしょうか。

これは彼女がそうしなければならないという義務があったからではなく、彼女が自分からそうしたいと願っているのです。またその実を守る者とは、そのぶどう園で働く労働者のことですが、それは彼女の兄たちのことです。兄たちは自分をちゃんと育ててくれたのでその報奨金として、銀二百枚を与えたいと言っているのです。それは義務ではなく、彼女の心からの願いから出たことだったのです。

このことは、私たちの信仰生活においてもとても大切なことです。私たちもイエス様を信じてイエス様の花嫁となりました。それで今はこうしなければならないという律法から解放されて自由となりました。イエス様が律法から解放してくださったからです。私たちは今律法の下にではなく、恵みの下にいるのです。すべての律法や義務から解放されたのです。しかしそれは私たちが何をしてもいいということではなく、そこには責任が利根なうことを意味しています。その責任とは何でしょうか。それは、そのように解放してくださった主に感謝して生きるということです。そこには当然感謝と喜びが溢れ、それに応答したいという思いが生まれてくるからです。つまり律法はささげることを要求しますが、一方で、愛は自発的にささげることで応答するということです。この違いがわかるでしょうか。要求と応答は全く違うのです。

こうして私たちが主を礼拝しているのは、要求ではなく応答です。主が私たちを愛してくださったので、私たちはその愛に応答して主を礼拝したいのです。心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの主を愛しなさいという主の戒めを、愛の応答として実践したいのです。出エジプト記20章に、有名なモーセの十戒があります。その十戒の前提がこれなのです。「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した神、主である。」(出エジプト記20:2)

だから、それはもう律法ではないのです。主は「わたしの他に、ほかの神々があってはならない」とか「自分のために偶像を造ってはならない」「それらを拝んではならない」「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。」と仰せられましたが、それは主が彼らをエジプトの地、奴隷の家から導き出してくださったから、罪の奴隷の中から救い出し解放してくださったからです。つまり、この主の愛に対する応答としてなされる行為であるということです。だから、喜んで礼拝をささげたい、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして主を愛するのです。

聖書にはマグダラのマリヤという一人の女性のことについて記されてあります。彼女は最後まで主に従った女性たちの中の一人です。彼女はイエス様が十字架につけられた時もそこにいました。また埋葬の様子も見届け、そして、週の初めの日の明け方早く主イエスの亡骸がおさめられてあった墓に向かいました。そんなことをしたら捕まるかもしれないのに、そんなことをしたら処刑されるかもしれないのに、だれよりも先にイエスに会いたいという一心で墓に向かったのです。なぜでしょうか。

それは、主に愛されたからです。ルカの福音書を見ると、彼女は七つの悪霊に憑かれていたとあります(ルカ8:2)。七つの悪霊ですよ、一つの悪霊でも大変なのに、彼女は七つの悪霊に取り憑かれていました。それは完全にという意味です。聖書で「7」という数字は完全を表していますから。彼女は完全に悪霊に取り憑かれていたのです。その結果、ありとあらゆる罪に陥ってしまいました。自分でも何をしているのかわかりませんでした。誰も彼女を救うことができませんでした。しかし彼女はそこから解放されました。主が彼女から悪霊を追い出してくださったからです。主が彼女を救ってくださいました。それで彼女はそのイエスの愛に応えたかったのです。その結果彼女は、最後まで主に従って行ったのです。喜んで・・。

私たちも同じです。私たちもかつては神に背き、自分勝手に生きていた者でした。かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として不従順の子らの中に今も働いている悪霊に従って歩んでいました。その結果、何が何だかわからず、自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、神の御怒りを受けるような者でした。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの罪の中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。私たちが救われたのは恵みによるのです。アメージング・グレースです。それゆえに私たちは、このアメージング・グレースに応答して、心から主を愛する者でありたいと思うのです。

Ⅲ.私の愛する方よ、急いでください(14)

最後に14節をご覧ください。「私の愛する方よ、急いでください。かもしかのように、若い鹿のようになって、香料の山々へと。」

これも花嫁のことばです。ここで花嫁は花婿に言っています。「私の愛する方よ、急いでください。かもしかのように、若い鹿のようになって、香料の山々へと」。「かもしかのように」とか「若い鹿のように」とは、軽快に山を跳び越え、丘の上を跳ねて来る様を表しています。そのように来てくださいと言うのです。

これは、キリストの花嫁である私たち教会の祈りでもあります。Ⅰコリント16章22~24節をご覧ください。ここには、「主よ、来てください。主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。私の愛が、キリスト・イエスにあって、あなたがたすべてとともにありますように。」とあります。「主よ、来てください。」は、アラム語で「マラナ・タ」と言います。これは初代教会において生まれた祈りの言葉です。ペンテコステの出来事によって誕生した、アラム語を話すユダヤ人たちの群れである最初の教会で祈られていた祈りの言葉が、そのまま新約聖書の言葉となったのです。そういう意味でこの言葉は、初代の教会の信仰をよく表わしたものであると言えます。

「主よ、来てください」という意味のこの「マラナ・タ」が初代の教会においてしばしば祈られた大切な祈りであったということは何を意味するのでしょうか。それは、主イエス・キリストに「来てください」と祈ることが、初代教会の信仰の中心であったということです。それは主イエスご自身の約束に基づくことでした。マルコ13章24~27節に、主イエスが、この世の終わりについて語られたこのような言葉があります。

「しかしその日、これらの苦難に続いて、太陽は暗くなり、月は光を放たなくなり、星は天から落ち、天にあるもろもろの力は揺り動かされます。そのとき人々は、人の子が雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見ます。そのとき、人の子は御使いたちを遣わし、地の果てから天の果てまで、選ばれた者たちを四方から集めます。」

「人の子」とは主イエスご自身のことですが、世の終わりに、人の子であられるイエスが大いなる力と栄光を帯びてもう一度この世に来られ、選ばれた人たち、救いにあずかった者たちを呼び集め、神の国を完成して下さると約束して下さいました。

また使徒1章11節には、復活された主イエスが天に昇られた時、それを見ていた弟子たちに天使がこう言いました。「ガリラヤの人たち、どうして天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。」

主イエスがもう一度この世においでになることがこのように約束されているのです。これらの約束の言葉に支えられて、教会は、主イエスがもう一度来て下さること、即ち主イエスの再臨を待ち望んでいたのです。

したがって「マラナ・タ」ということばは、キリストの再臨によるこの世の終わりを待ち望む祈りなのです。「主よ、来てください」と言うと、「イエス様ちょっとここへ来て私を助けて下さい。今困っているこの問題を解決して下さい」という意味にとられがちですが、そういうことではありません。勿論私たちは日々の生活の中で、主イエスが聖霊の働きによって、目には見えなくても共にいて下さることを信じています。様々な具体的な問題、悩み苦しみにおいて私たちは、「主よ、私を助けて下さい、歩むべき道を示し、歩む力を与えて下さい」と祈ることができるし、主イエスはそこで人間の力を超えた恵みをもって導いて下さると信じています。しかしこの「マラナ・タ」という祈りは、主イエスの再臨によってもたらされる究極的な救いを待ち望む祈りだったのです。

そして、この祈りは新約聖書の一番最後のヨハネの黙示録22章20節にも出てきます。「これらのことを証しする方が言われる。「しかり、わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。」主イエスの恵みが、すべての者とともにありますように。」(黙示録22:20-21)

ここには「マラナ・タ」という言葉ではありませんが、同じ意味の祈りです。「主イエスよ、来てください」これが聖書の一番最後に書かれてあるのです。新約聖書はこの祈りをもって閉じられています。新約聖書の全体が、この祈りに向けて書かれていると言ってもよいでしょう。つまりこれが聖書の締めくくりとして、神様が一番強調したかったことなのです。「私の愛する方よ、急いでください。」「主イエスよ、来てください。」「マラナ・タ」

なぜこれが最も重要な祈りなのでしょうか。それは主イエスが再び来られるとき、罪によって壊滅状態になってしまったこの世を刷新してくださるからです。今の世の中を見てください。昨年からのコロナ感染によって全世界が悲鳴を上げています。いつまで続くのか、どこまで続くのか、みんな不安になっています。アメリカと中国の緊張関係はどうでしょう。いつ戦争に発展するかわかりません。今度世界戦争が起こったら核戦争となり、取り返しがつかないことになってしまいます。世界の環境はどうでしょうか。今イギリスでCOP26が行われていますが、世界がひとつとなって取り組むべき課題として、この気候変動対策があげられています。このような問題は永遠に続きます。私たちの生活はどうでしょうか。悩みや苦しみは絶えることはありません。一難去ってまた一難です。いったいどこに希望があるのでしょうか。罪によって汚されたこの世には、どこにも希望はありません。

しかし、ここに希望があります。それはイエス・キリストです。主イエスが来られるとき、主はすべてを新しくしてくださいます。私たちをご自身と同じ栄光のからだに変えてくださいます。これが私たちの究極的な希望なのです。私たちに必要なのは、コロナ感染や自然災害、戦争の不安に脅えることではなく、またそれを人間の力によって解決しようとすることではなく、そうした努力をしつつも、この世界を創造された方、万物の支配者であられる神に立ち返ることです。神の救いを待ち望むことなのです。それが「マラナ・タ」「主よ、来てください。」という祈りなのです。

「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」(伝道者の書12:13)

その上で、主の再臨を待ち望むのです。そうすれば、主がこの世界を刷新し、完全な御国をもたらしてくださいます。真の平和を与えてくださるのです。

明日、教会でインド人のルイバ・ラムチャンという方の葬儀が行われます。かつてアジア学院で働いておられた奥様とテモテ先生がお知り合いであったことから、そして、ルイバさんご自身がインドで熱心なバプテスト教会の信者さんであったことから、ここでやってほしいとの依頼があったのです。私は生前のルイバさんとお会いしたことがありませんが、インドで農業をしながら人々に貢献したいと、アジア学院で農業を学び、また南那須にある養豚場で研修を受けて帰国後、インドで十数年間村の開発に尽力しました。しかし、数年前に咽頭がんを発病しインドのニューデリーの病院で治療していましたが、日本で治療した方がいいのではないかと4年前に再入国して治療を続けていました。

召天される数時間前に奥様とのビデオ通話でルイバさんのことをお聴きしました。それによると、ルイバさんは神がともにいてくださるので大丈夫と言っているとのことでした。毎日聖書を読み、神に祈り、すべてを神にゆだねているとのことでした。ご主人は熱心なクリスチャンでインドのバプテスト教会に通っていたので、神がともにおられることを感謝しているとおっしゃっておられました。もう大きくなられた3人のお子様を残して天国に行かれるのは残念なことだったでしょう。結婚されるまで生きていたかったに違いありません。しかしルイバさんにとっての何よりの希望、それは主がともにいてくださるということだったのです。

皆さんの希望は何ですか。どこに希望があるのでしょうか。私たちにはいろいろな希望がありますが、これこそ究極的な希望です。主イエスよ、来てください。マラナ・タ。キリストの花嫁である私たちクリスチャン、教会にふさわしい祈り、それは「マラナ・タ」、主よ、来てくださいという祈りなのです。これが、雅歌を通して神が私たちに伝えたかったことなのです。

雅歌8章5~7節「愛は死のように強く」

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 いよいよ雅歌からのメッセージも、今回を含めてあと2回となりました。きょうのところからまた場面が変わります。最後の場面です。きょうは、「愛は死のように強く」というタイトルでお話します。

 Ⅰ.そこは産みの苦しみをした所(5)

まず、5節の前半の部分をご覧ください。「自分の愛する方に寄りかかって、荒野から上って来る女の人はだれでしょう。」

これは、エルサレムの娘たちのことばです。3章6節にも「煙の柱のように荒野から上って来るのは何だろう」とありましたが、それは花嫁ことを指していました。花嫁は荒野から上って来る者です。それはキリストの花嫁であるクリスチャンのことを指しています。クリスチャンは罪の荒野から上って来た者なのです。キリストが私たちを罪の荒野から救い出してくださいました。その特徴は何かというと、「自分の愛する方に寄りかかって」いることです。キリストの花嫁であるクリスチャンは、愛する主に寄りかかって荒野から上って来るのです。感謝ですね。

そして、5節の後半をご覧ください。ここには「私はりんごの木の下であなたの目を覚まさせた。そこは、あなたの母があなたのために産みの苦しみをした所。そこは、あなたを産んだ人が産みの苦しみをした所。」とあります。これは花婿のことばです。花婿が花嫁に、私はりんごの木の下であなたの目を覚まさせた、と言っているのです。どういうことでしょうか。

このりんごの木の下とは、花婿と花嫁が出会った場所です。そのりんごの木の下で花婿は彼女の目を覚まさせました。そこはどういう所ですか。「そこは、あなたの母があなたのために、産みの苦しみをした所。そこは、あなたを産んだ人が産みの苦しみをした所。」です。つまり、そこは彼女が生まれた所です。それは、クリスチャンにとっては十字架のことであると言えます。私たちはそこで新しく生まれ、目を覚まさせていただきました。それまでは、自分は何一つ悪いことなどしたことがないまともな人間だと思っていたのに、十字架の下でキリストに出会ったとき、「ああ、私は本当に罪深い人間だ。そのためにイエスが身代わりとなって死んでくださったんだ」ということがわかったのです。それまではわかりませんでした。自分ほど良い人間はいないと思っていたのです。私たちはみなイエス様に出会うまではそのように思っています。しかしイエス様に出会い、イエス様が産みの苦しみをしてくださった所で、私たちの目が覚ましていただき、はっきりわかるようになりました。そして私たちは、新しく生まれ変わることができたのです。そこがあなたの生まれた所。そこがあなたの信仰の原点なのです。

私たちはイエス様と出会った木の下で自分の罪に向き合うとき、そして私たちを産んでくださった十字架の下に近づくとき、そこで信仰の原点を見出すことができるのです。もうこの方から離れません。本当の意味での花婿イエス様との人生のスタートを切ることができるのです。あなたはどうでしょうか。

Ⅱ.愛は死のように強く(6)

次に、6節をご覧ください。「封印のように、私をあなたの胸に、封印のように、あなたの腕に押印してください。愛は死のように強く、ねたみはよみのように激しいからです。その炎は火の炎、すさまじい炎です。」

これは花嫁のことばです。花嫁はここで、「封印のように、私をあなたの胸に、封印のように、あなたの腕に押印してください。」と言っています。「封印」とは、手紙などの封じ目に印を押すことです。実際には、封じ目に「(しめ)」とか「(ふう)」、「(かん)」などと書いたり印を押したりしますが、あれです。その封印には二つの意味がありました。

一つは決して解かれることがないということです。ですからここで花嫁が「封印のように、私をあなたの胸に、封印のように、あなたの腕に押印してください」と言っているのは、互いの愛が決して解かれることがないようにしてくださいということです。私はあなたのものです。そしてあなたは私のものです。私たちは互いのものなのです。それはもう解かれることはありません。たとえ死んでも、です。花嫁はここで「愛は死のように強く」と言っているのはそのことです。彼女の愛は死んでも解かれることがありません。それほど強いのです。すごいですね、夫婦は生きている間だけでもフーフーしているのに、死んでも解かれたくないと強く願うほどの愛を持っているのですから。決して離れることがないように、決して解かれることがないように、あなたの胸にしっかり刻み付けてください。あなたの腕にしっかり押印してくださいと切望しているのです。

「封印」のもう一つの意味は、契約の確かな保証です。封印とは「証印」と訳すこともできます。はんこですね。それは、契約の確かな保証を表しています。私たちも何らかの契約をするとき互いに押印しますが、それはその契約の確かさを保証しているわけです。ですから「封印のように、私をあなたの胸に、封印のように、あなたの腕に押印してください」とは、自分をはんこのように花婿の胸に、花婿の腕に押してくださいということです。どんなことがあっても決して離れることがないと保証してくださいと願っているのです。

私たちにもそのようなはんこが押されているのを知っていますか。エペソ1章13~14節にこうあります。「このキリストにあって、あなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞いてそれを信じたことにより、約束の聖霊によって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。このことは、私たちが贖われて神のものとされ、神の栄光がほめたたえられるためです。」

ここには、「約束の聖霊によって証印が押されました」とあります。私たちは真理のことば、救いの福音のことばを聞いて信じたとき、約束の聖霊が与えられました。その聖霊によって証印を押されたのです。それは、私たちがどんなことがあっても天の御国を受け継ぐことができるという保証です。人間の約束ならば、状況が変われば契約も破棄されるということもあるかもしれませんが、神であられる聖霊様が保証しておられるのであれば、どんなことがあっても大丈夫です。救いを失うことは絶対にありません。イエス様を信じる者はだれでも救われ、天国に行くことができるのです。聖霊によってその証印が押されています。私たちはいい加減なもので、イエス様を信じてからも罪を犯すような弱い者ですが、それでも救いを失うということは決してありません。罪を悔い改めて神に立ち返るなら、神はどんな罪でも赦してくださるのです。

アメリカ人女性が作った詩で「あしあと」という詩があります。

「ある夜、私は夢を見た。私は、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでの私の人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上に二人のあしあとが残されていた。
一つは私のあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
私は砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
私の人生でいちばんつらく、悲しいときだった。
このことがいつも私の心を乱していたので、私はその悩みについて主にお尋ね
した。「主よ。私があなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道にお
いて私とともに歩み、私と語り合ってくださると約束されました。
それなのに、私の人生の一番辛いとき、一人のあしあとしかなかったのです。
一番あなたを必要としたときに、
あなたがなぜ私を捨てられたのか、私にはわかりません」
主はささやかれた。
「私の大切な子よ。私はあなたを愛している。
あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みのときに。
あしあとが一つだったとき、私はあなたを背負って歩いていた。」

(「あしあと」マーガレット・F・パワーズ)

何度か紹介したことがある詩です。何度読んでも励まされます。なぜなら、ここには変わらない神の真実が描かれているからです。私たちは感情的なもので、状況によって主が共にいてくださると喜んでみたり、どこかへ行ってしまったと悲しんだりすることがありますが、主は決して約束を反故にすることはされません。すべての道においてともに歩まれると約束された方は、どんなことがあっても離れることはないのです。なぜなら、聖霊によって証印を押してくださったからです。聖霊による愛の関係は、決して絶えることがないのです。愛は死のように強いからです。

ところで、ここには「ねたみはよみのように激しいからです」ともあります。愛は死のように強いというのはわかりますが、ねたみはよみのように激しいとはどういうことでしょうか。愛とねたみは相いれないものように感じます。それは愛の裏側には常にねたみがあるということです。愛とねたみは表裏一体なのです。愛が強ければ強いほど、ねたみも激しくなります。神は愛ですが、同時にねたむ方でもあります。出エジプト記20章5節には、「あなたの神、主であるわたしは、ねたみの神。」とあります。ここで主ははっきりと「主であるわたしはねたむ神」と言っています。また、出エジプト記34章14節でも、「あなたは、ほかの神を拝んではならない。主は、その名がねたみであり、ねたみの神であるから。」とあります。神はねたみの神なのです。

しかしそれは私たちが抱くようなねたみとは違います。一般に「ねたむ」とは、他人が自分よりも優れた状態である時、それを羨ましく思ったり、憎らしく思うことで、罪の中の一つに数えられているものです。事実、愛の賛歌として有名なⅠコリント13章4節には、「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。」とあります。愛はねたまないのです。それなのにここには、ねたみはよみのように激しいとあります。それは神のねたみは私たち人間が抱くねたみと違って、ご自分にのみ帰せられる愛とか栄光を、だれかほかのものに与えられる時に抱く思いのことです。ですから新共同訳ではここを「熱情は陰府のように酷い。」と訳しているのです。

私の二番目の娘が3歳の頃、屋内プールに連れて行ったことがありました。私は紺の水泳パンツと黒いキャップ、それに黒いゴーグルを着けていました。しかし、ちょっと疲れたのでプールサイドに腰かけて休憩していたら、何を血迷ったのか、娘が急に「お父さん!」と叫んでプールに向かって走り出し、そのまま勢いよくジャンプしたのです。もちろん、そのまま沈んでいきました。遠くから見ていた私は「なんだ!」と思いながら娘を救出しようと近寄ると、そこに私と全く同じ格好をしていた男性がいたのです。娘はそれを私と勘違いして思いっきり飛び込んだのです。焦ったのはその男性の方でした。いったい何が起こったのかを理解できず、しかしこのままでは小さな女の子が溺れるのではないかと思って、必死で救出してくれました。

「すいません。なんだか私と間違えたみたいです」と言ってその場を後にしましたが、私の中には少し複雑な気持ちがありました。「おいおい、お父さんはボクだよ。知らない人に行っちゃだめだよ!」と。

そのときですが、神様の気持ちをちょっと理解できたような気がしました。私たちは神によって造られた者です。それなのに、神ではない他の神々に走っていくことがあるとしたら、神はねたまれるのではないかと。そうなんです、愛とねたみは表裏一体であって、本当の愛にはねたみが伴うのです。

そのねたみはよみのように激しいのです。「よみ」とはヘブル語で「シェオル」と言います。死んだ人が行くところです。ですから、これも死のように激しいと同じことなのです。愛は死のように強く、ねたみはよみのように激しいからです。それほど花嫁の花婿に対する愛が燃えているということです。その炎は火の炎、すさまじい炎です。それはひとえに花婿の愛がそれほどまでに強く、激しいからです。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)これが愛です。神は、それほどに、あなたを愛されたのです。

それは私たちに対する神の熱情の表れです。その炎は火の炎であり、すさまじい炎です。あなたはそれほどまでに愛されているのです。神はあなたのことを片時も忘れたことはありません。私たちは平気で神様を裏切り、神様そっちのけで自分のことばかり気になって、とにかく我力で、自分勝手に生きているような者ですが、神は違います。神の愛は死のように強く、よみのように激しいのです。私たちは、そんな愛で愛されているのです。ですから私たちは、この花嫁のように、たとえ死んでも解かれることのないような強い愛であなたの胸に刻んでくださいと応答したいです。封印のように、あなたの腕に押印してください、と強く願う者でありたいと思うのです。

Ⅲ.大水もその愛を消すことができません(7)

最後に、7節をご覧ください。「大水もその愛を消すことができません。奔流もそれを押し流すことができません。もし、人が愛を得ようとして自分の財産をことごとく与えたなら、その人はただの蔑みを受けるだけです。」

その愛は炎のように燃える、すさまじい愛でした。そのような愛は大水でも消すことができません。この「大水」という言葉は、創世記6章17節では「大洪水」と訳されています。それはノアの箱舟の大洪水のことです。地球がすべて覆われるような大水でも消すことはできないということです。あの東日本大震災では、測り知れないほどのパワーがある津波が東北の太平洋沿岸部を襲いました。それは町々村々をまるごと吞み込むほどのパワーでした。しかしそれほどの大水をもってしても、神の愛を消すことはできないのです。

「奔流もそれを押し流すことはできません。」「奔流」とは、第三版では「洪水」と訳していますが、これは支流に対する奔流のことです。ちょろちょろと流れるような川ではありません。ゴーゴーと音を立てて勢いよく流れる川、それが奔流です。その奔流さえも押し流すことができません。つまり神の愛は最強であるということです。

Ⅰコリント13章13節には、「こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。」とあります。

いつまでも残るものは、信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。愛はいつまでも残ります。何があっても愛だけは残るのです。私たちはこのことを覚えておきましょう。愛は何をもってしても押し流すことはできません。すべてを失ったとしても残るのです。愛する家族を失い、自分の家を失い、仕事を失い、何もかも失ったとしても、神の愛を失うことは決してありません。いつまでも残るのは信仰と希望と愛です。その中で最もすぐれているのは愛なのです。

あなたが人生に行き詰ったとき、どうしたらいいかわからなくなったとき、この聖書の箇所を読んでください。この箇所を読むだけで神から愛の力が与えられ、すべての迷いが吹っ飛んでいきますから。それはローマ8章28~39節のみことばです。

「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。神は、あらかじめ定めた人たちをさらに召し、召した人たちをさらに義と認め、義と認めた人たちにはさらに栄光をお与えになりました。では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。こう書かれています。「あなたのために、私たちは休みなく殺され、屠られる羊と見なされています。」しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」

神が私たちの味方であるなら、だれも私たちに敵対することはできません。私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。大水もその愛を消すことはできません。奔流もそれを押し流すことはできないのです。神の愛はそれほどパワフルなものです。あなたはこの愛を受けているのです。

ただ一つだけ注意が必要です。それはこの愛をどのようにして得るのかということです。7節の後半をご覧ください。ここには、「もし、人が愛を得ようとして自分の財産をことごとく与えたなら、その人はただの蔑みを受けるだけです。」とあります。どういうことでしょうか。

神の愛はお金で買えるようなものではないということです。また、私たちの行いによって得られるものでもありません。私はこれだけ献金したのだから神は愛してくれるに違いないと思ったら大間違いです。私はこれだけ奉仕したんだから愛されて当然だと思っているとしたら蔑みを受けることになります。もし人が愛を得ようとして自分の財産をことごとく与えるなら、その人はただの蔑みを受けるだけです。必ず期待はずれに終わってしまいます。

では、どうしたらいいのでしょうか。神の一方的な恵み受け入れるということです。私たちが何かをしたからではありません。何もしなくても、神はあなたを愛しておられます。その愛をただ感謝して受け取るだけでいいのです。そうすれば、神の愛があなたを覆ってくださいます。

じゃ、何もしなくてもいいんですか。聖書を読まなくても、祈らなくても、教会に行かなくても、献金しなくても・・。いいのです。あなたが神の愛を受けるのは、神の一方的な恵みによるのですから、あなたが何をしたかなんて関係ないのです。ただ誤解しないでいただきたいのは、本当の意味であなたが神の愛を受けたのであれば、当然、教会に行くたくなりますし、神からのラブレターである聖書を読んだり、祈ったりしたくなるはずです。喜んで神様のために自分をささげたいと思うはずなのです。もしそうでないとしたら、本当にあなたが神の愛を受けているのかどうかを点検しなければなりません。私たちが良い行いをするのは神の愛を受けるためではなく、神に愛されたから、神の愛を受けたからであるということを覚えておかなければならないのです。

但し、あなたがもっと積極的に神の愛を受けたいと思うなら、どうぞ御言葉を読んでみてください。祈ってみてください。礼拝や祈祷会に足しげく通ってみてください。礼拝を絶やさないでください。そうすれば、神の愛はもっとあなたに迫ってくるでしょう。神の愛がどのようなものであるかがわかるようになります。花婿イエスは、あなたのためにすべてを投げ捨ててあなたを獲得してくださったのですから。

大水もその愛を消すことができません。奔流も押し流すことができません。その愛を与えてくださった主に感謝しましょう。そして、いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことについて感謝しましょう。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに臨んでおられることです。

最後に、エペソ3章16~19節のみことばを読んで祈りたいと思います。「どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。アーメン。」

あなたがその愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つことができるようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができるお祈りします。

Ⅱサムエル記20章

 

 きょうは、Ⅱサムエル記20章から学びます。

 Ⅰ.よこしまな者シェバ(1-2)

 まず、1~2節をご覧ください。「1 たまたまそこに、よこしまな者で、名をシェバという者がいた。彼はベニヤミン人ビクリの息子であった。彼は角笛を吹き鳴らして言った。「ダビデのうちには、われわれのための割り当て地はない。エッサイの子のうちには、われわれのためのゆずりの地はない。イスラエルよ、それぞれ自分の天幕に帰れ。」2 すべてのイスラエルの人々は、ダビデから離れ、ビクリの子シェバに従って行った。しかし、ユダの人々はヨルダン川からエルサレムまで、自分たちの王につき従って行った。」

そこに、よこしまな者で、シェバという者がいました。そこにとは、ダビデをエルサレムに連れて行くのに、ユダの人々とイスラエルの人々が争っていたときです。そのとき、ベニヤミン人のシェバが人々を自分の方に引き寄せようとして角笛を吹き鳴らしたのです。イスラエルの最初の王サウルの出身がベニヤミン人でした。同じ民族のサウル王の死後、ユダ部族のダビデが王となったことにシェバは不満をもっていたのかもしれません。彼はユダとイスラエルの分裂を利用して、すべてのイスラエルの人々に、自主独立を呼び掛けたのです。

この出来事が、やがてはイスラエルを北と南に分断するきっかけになります。
イスラエルの分裂が決定的になる時に、このシェバと同じ言葉が叫ばれています(Ⅰ列王記12:16)19章では必死にダビデを自分たちの王として迎えようとしていたイスラエルの人々も、ここではシェバの呼びかけにあっさりとダビデから離れてシェバについていきました。
  結局、ヨルダン川からエルサレムまでダビデ王に従ったのは、ユダの人々だけでした。まさに人の称賛は陽が上ると消え去る朝露のようなものです。新約聖書にも「ホサナ、ダビデの子に。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。ホサナ、いと高き方に。」(マタイ21:9)とイエスを歓迎した群衆が、次の瞬間にはイエスを十字架につけよと叫びました(マタイ27:22-23)。人の評価の上に自分の人生を立てるのは愚かなことです。神を恐れ、神とともに歩む人こそ真の勝利者です。

 Ⅱ.アマサの死(3-13)

次に、3~13節までをご覧ください。「3ダビデはエルサレムの自分の王宮に入った。王は、王宮の留守番に残しておいた十人の側女をとり、監視つきの家を与えて養ったが、彼女たちのところには通わなかった。彼女たちは、一生、やもめとなって、死ぬ日まで閉じ込められていた。4 王はアマサに言った。「私のために、ユダの人々を三日のうちに召集し、あなたも、ここに帰って来なさい。」5 アマサは、ユダの人々を召集するために出て行ったが、指定された期限に間に合わなかった。6 ダビデはアビシャイに言った。「今や、ビクリの子シェバは、アブサロムよりも、もっとひどいわざわいを、われわれに仕掛けるに違いない。あなたは、主君の家来を引き連れて彼を追いなさい。さもないと、彼は城壁のある町に入って、逃れてしまうだろう。」7 ヨアブの部下、クレタ人、ペレテ人、そしてすべての勇士たちは、アビシャイの後に続いて出て行った。彼らはエルサレムを出て、ビクリの子シェバの後を追った。8 彼らがギブオンにある大きな石のそばに来たとき、アマサが彼らの前にやって来た。ヨアブは自分のよろいを身に着け、さやに収めた剣を腰の上に帯で結び付けていた。彼が進み出ると、剣が落ちた。9 ヨアブはアマサに「兄弟、おまえは無事か」と言って、アマサに口づけしようとして、右手でアマサのひげをつかんだ。10 アマサはヨアブの手にある剣に気をつけていなかった。ヨアブは彼の下腹を突いた。それで、はらわたが地面に流れ出た。この一突きでアマサは死んだ。ヨアブとその兄弟アビシャイは、ビクリの子シェバの後を追った。11 ヨアブに仕える若者の一人がアマサのそばに立って言った。「ヨアブにつく者、ダビデに味方する者は、ヨアブに従え。」12 アマサは大路の真ん中で、血まみれになって転がっていた。この若者は、兵がみな立ち止まるのを見て、アマサを大路から野原に運んだ。そして、その傍らを通る者がみな立ち止まるのを見ると、彼の上に衣を掛けた。13 アマサが大路から移されると、みなヨアブの後について進み、ビクリの子シェバを追った。」

アブサロムが謀反を起こしダビデがエルサレムを追われた時、ダビデは王宮に10人のそばめを残していきました(15:16)が、アブサロムはアヒトフェルの進言に従いこのそばめたちのところに入りました(16:21)。ダビデがエルサレムに戻って来た時に最初にしたことは、そのそばめたちの回復でした。しかしダビデは、アブサロムと寝た彼女たちを受け入れることができませんでした。それで彼は、彼女たちに監視付きの家を与えて養いましたが、彼女たちのところに通おうとはしませんでした。それで彼女たちはやもめとしてその余生を送らなければならなかったのです。ある意味では彼女らはダビデ家の被害者でもありました。しかし元はといえばすべてダビデの罪のゆえです。彼女たちはダビデの罪による犠牲者だったのです(Ⅱサムエル12:11)。罪を犯すと、必ずこのような結果が伴います。

4節と5節をご覧ください。ダビデ王はヨアブに代わり新しく指揮官にしたアマサに対して、シェバの反逆を鎮圧すべくユダの人々を三日のうちに召集するように命じました。しかし、彼は指定された期限に間に合いませんでした。それまでアブサロムの将軍として仕えていた人物でしたから、ユダの人々の信頼を勝ち取れなかったのでしょう。ダビデ王からは信頼されていましたが、民衆から信頼されていなかったため、結局のところ、肝心なときに協力を得ることができなかったのです。そこでダビデはアビシャイを一時的に指揮官にし、反逆者シェバの討伐に取りかかるように命じました。アビシャイとは、それまでユダの軍団長であったヨアブの弟です。ダビデはこの時もヨアブを指揮官には選ばず、彼の兄弟アビシャイを選びました。それは彼が自分の命令に背きアブサロムを殺してしまったことや、その後もダビデに対して横柄な態度を取り続けていたからです。

彼らがシェバを追ってギブオンにある大きな石のそばに来たとき、アマサが彼らの前にやって来ました。合流するためです。すると軍団長を降ろされ、アブサロムに加担していたアマサが自分の代わりに起用されたことを快く思っていなかったヨアブは、アマサにあいさつすると見せかけて、剣でアマサの下腹部を突き刺して殺してしまいました。すると、ヨアブに仕える若者の一人が「ヨアブにつく者、ダビデに味方する者は、ヨアブに従え。」と言いました。これは、自分たちの軍団長はやっぱりヨアブだ、ヨアブにつけ、ということです。そしてみなヨアブの後について進み、シェバを追いました。

このようにしてヨアブは、邪魔者だったアマサを殺し自力で軍団長としての地位を取り戻しました。ヨアブはダビデの甥にあたる人物で非常に有能な戦士でしたが、その性質は極めて残虐でした。それなのにダビデは、ヨアブを戒めることができませんでした。なぜでしょうか。ヨアブに弱みを握られていたからです。弱みとはダビデの命令に従って、バテ・シェバの夫であったウリヤを殺害したことです。罪を犯すと、人に弱みを握られてしまうことになります。それがサタンの常套手段です。サタンも私たちが罪を犯すとその弱みを握り、それを神の前に訴えるのです。しかし、私たちには、父なる神の御前でとりなしてくださる方がおられます。それは、義なるイエス・キリストです。イエス・キリストの血は、すべての罪から私たちをきよめてくださいます。ですから、大切なのはイエス・キリストを信じてキリストの衣を着せていただくことです。そうすれば、どんなにサタンが罪を告発しても、神の御前に大胆でいることができるのです。この方にあって歩めることは何と幸いなことでしょうか。

 Ⅲ.一人の知恵ある女(15-26)

 最後に、15~26節をご覧ください。22節までをお読みします。「15 人々はアベル・ベテ・マアカに来て、彼を包囲し、この町に向かって塁を築いた。それは外壁に向かって立てられた。ヨアブにつく兵はみな、城壁を破壊して倒そうとしていた。

16 この町から、一人の知恵のある女が叫んだ。「聞いてください。聞いてください。ヨアブにこう言ってください。『ここまで近づいてください。あなたにお話ししたいのです。』」

17 ヨアブが彼女の方に近づくと、この女は言った。「あなたがヨアブですか。」彼は言った。「そうだ。」女は言った。「このはしためのことばを聞いてください。」彼は言った。「よし、聞こう。」18 女は言った。「昔、人々は『アベルで尋ねよ』と言って、事を決めました。19 私は、イスラエルのうちで平和な、忠実な者の一人です。あなたは、イスラエルの母である町を滅ぼそうとしておられます。あなたはなぜ、主のゆずりの地を、呑み尽くそうとされるのですか。」20 ヨアブは答えて言った。「とんでもない。呑み尽くしたり滅ぼしたりするなど、とんでもないことだ。21 そうではない。実はビクリの息子で、その名をシェバというエフライムの山地の出である男が、ダビデ王に手向かったのだ。この男だけを引き渡してくれたら、私はこの町から引き揚げよう。」女はヨアブに言った。「では、その男の首を城壁の上からあなたのところに投げ落としてごらんにいれます。」22 この女は知恵を用いて、民全員のところに行った。それで彼らはビクリの子シェバの首をはね、それをヨアブのもとに投げた。ヨアブは角笛を吹き鳴らし、人々は町から散って行き、それぞれ自分の天幕に帰った。ヨアブはエルサレムの王のところに戻った。」

シェバはイスラエルの全部族のうちを通って、アベル・ベテ・マアカへ行きました。アベル・ベテ・マアカとは、ガリラヤ湖の北、イスラエルの最北端にある町です。シェバはそこまで逃亡し、そこに立てこもりました。すると、ヨアブ率いるダビデ軍は、その町まで追って来て、この町を責めるために塁を築き、城壁を破壊して倒そうとしました。そのときです。一人の知恵ある女が町の中からヨアブに向かって言いました。18~19節です。「昔、人々は『アベルで尋ねよ』と言って、事を決めました。私は、イスラエルのうちで平和な、忠実な者の一人です。あなたは、イスラエルの母である町を滅ぼそうとしておられます。あなたはなぜ、主のゆずりの地を、呑み尽くそうとされるのですか。」

これはどういうことかというと、昔、人々は争いが起ころうとしても、この町で協議すれば平和裏に解決できた、ということです。それにも関わらず、そのイスラエルの母である町を、あなたは滅ぼされるのですか、ということです。

するとヨアブは、それはとんでもないことだと答えます。そうではなく、ビクリの息子でシェバという男を引き渡してくれたら、それでいい。自分たちはこの町から引き揚げようと約束します。

するとこの女はどうしたでしょうか。「では、その男の首を城壁からあなたのところに投げ落としてごらんにいれます。」と言うと、知恵を尽くして町中の人々を説得し、シェバの首をはねさせて、これをヨアブのもとに投げ落としたのです。こうして反乱は収まり、ヨアブは角笛を吹き鳴らし、人々は町から散って行き、それぞれ自分の天幕に帰って行きました。ヨアブはエルサレムの王のところに戻りました。

この女の知恵に注目しましょう。彼女には確かに知恵がありました。すぐに判断して、人々を説得して、シェバの首をはねさせることによって平和を保つことができました。彼女はどうすることが平和な道なのか、どうすることが自分たちの社会を守ることにつながるのか、すぐに判断することができました。

知恵と知識とは別ものです。知恵とは具体的な問題に直面したときに発揮される判断力のことです。知恵があるかどうかは、年齢や性別、学歴とは全く関係ありません。彼女は問題点を取り除くことによって、町全体の平和を保つことができました。私たちも自分の人生の中でこのような知恵を発揮しなければなりません。あなたの問題点は何ですか。それをどのように取り除きますか。

箴言9章10節には、「主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟ることである。」とあります。また詩篇111篇10節にも、「知恵の初めそれは主を恐れること。これを行う人はみな賢明さを得る。主の誉れは永遠に立つ。」とあります。主を恐れることが知恵の初めです。

「主を恐れる」とは、箴言9章10節にあるように「聖なる方を知ること」です。それはキリストを知ることです。キリストを知る者(信じる者)は、平和をつくることができます(マタイ5:9)。そのような人は、どうすることが平和につながる道なのかを常に考えます。しかし平和を求める時にまず自分自身の中に平和がないと、平和を生み出していくことはできません。キリストを通して神との平和(和解)が与えられる時、私たちは本当の平安を得ることができます(Ⅱコリント5:17~21)。キリストを通して、自分が平和な、忠実な者であることを求めていきましょう。そして具体的にどうしていくことが、この社会において平和を生み出す道であるか、祈り求めていきたいと思うのです。

23~26節をご覧ください。「23 さて、ヨアブはイスラエルの全軍の長であった。エホヤダの子ベナヤはクレタ人とペレテ人の長、24 アドラムは役務長官、アヒルデの子ヨシャファテは史官、25 シェワは書記、ツァドクとエブヤタルは祭司、26 ヤイル人イラもダビデの祭司であった。」

さて、ヨアブがエルサレムに戻ると、彼はそこで再びダビデ軍の長に復帰しました。ダビデはヨアブを退けたいと思っていましたが、生涯ヨアブに対して厳しい措置を断行することができませんでした。それを実行するのはその子ソロモンです。ダビデがヨアブに対して厳しい態度を取ることかできなかったのは、バテ・シェバ事件での弱みを握られていたからです。罪の支払う代価は、あまりにも大きいです。