イザヤ51:1-11 レジュメ

「慰めてくださる主」                   N079

Ⅰ.あなたの切り出された岩を見よ(1-3) 

バビロン捕囚よって絶望的な情況にあったイスラエルに対して、主は「あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ。」と言われた。「切り出された岩」とか「掘り出された穴」とは何だろうか?それは彼らが出たところ、彼らの起源(ルーツ)のことである。それは具体的にはアブラハムとサラのことを指している。いったいなぜ苦しい時に自分のルーツを見なければならないのだろうか。それは、自分たちがどのようにして救われたのかを思い出せば、そのことによって感謝と喜びが与えられるからである。

たとえばアブラハムの場合はどうだったか?彼は元々アブラムという名前で、カルデヤのウルという町の出身であった。つまり、彼は全くの異邦人であったわけである。真の神からは遠く離れ、月の神を拝む偶像礼拝者であった。この世にあっては何の望みもない虚しい人生を歩んでいた。しかし、神はそんなアブラハムを一方的に召し出された。「あなたは、あなたの産まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。」(創世記12:1)つまり、彼が救われたのは、神の一方的な恵みによるものだったのである。

ではサラの場合はどうだろうか。彼女は90歳になった時、もう自分には子を宿す力がないことを知っていたが、約束してくださった方は真実な方だと信じた(ヘブル11:11)。たとえどんなに情況が不利なようでも、たとえ絶望的に見えても、神にとって不可能なことは一つもないと信じたのである。これがイスラエルだ。

このときシオンはバビロンによって滅ぼされ、跡形もなく廃墟と化していた。イスラエルはバビロンの捕囚の民として苦しみの中に置かれていた。しかしそんな彼らでもこのルーツを見れば慰められる。自分たちがただ恵みによって救われ、神の圧倒的な力によって導かれたことを思い出すなら慰められ、希望をもって立ち上がることができるのである。

Ⅱ.わたしに心を留めよ(4-8)

ここで主は、「わたしに心を留めよ」と言われた。いったいなぜ主に心を留めなければならないのだろうか?なぜなら、主に心を留めることによって、慰めを得ることができるからである。ここには、「わたしの義は近い。わたしの救いはすでに出ている。」(5)とある。この「義」とか「救い」とはイエス・キリストのことでもある。つまり、キリストの来臨が近いということを意味している。キリストが来臨されるとき、救いが完成する。確かに今はキリストを信じて救われている。死んでいた霊がよみがえり、不滅の霊をいただいた。しかし、私たちの救いはそれだけではない。やがてキリストが再臨されるとき肉体も救われる。朽ちないからだ、御霊のからだ、栄光のからだに変えられる。これが救いの完成の時である。パウロは、「このことばをもって互いに慰め合いなさい。」(Ⅰテサロニケ4:18)と言っているが、これこそ私たちにとっての真の希望である。

いったいなぜこのことが慰めになるのだろうか?6節には次のようにある。「目を天に上げよ。また下の地を見よ。天は煙のように散り失せ、地も衣のように古びて、その上に住む者は、ぶよのように死ぬ。しかし、わたしの救いはとこしえに続き、わたしの義はくじけないからだ。」

この天地は滅び去るが、神とその言葉はとこしえに絶えることがない。どんなに華やかなものでもそれがふってわいたかのようにすぐに消えてしまうものなら、はかないものである。そんなものによって慰められることは決してない。けれども、神の救いはとこしえに続き、神の義はくじけることはない。そのような確かなものに拠り頼んで歩めることは何と幸いなことだろう。だから主は、「わたしに心を留めよ。」と言われたのである。主に心を留める者は幸いである。その人は主から慰めを受けることができる。

Ⅲ.神の時がある(9-11)

しかし、神の慰めを受けるために、もう一つ考えなければならないことがある。それは、神には神の時があるということだ。「さめよ。さめよ。力をまとえ。主の御腕よ。」(9)「さめよ」とは「目を覚ませ」ということである。目を覚まして、力をまとい、主の力強い御腕を、いかんなく発揮してくたださい、という叫びである。いったいなぜこのように叫んでいるのであろうか?それは、彼らにとってはまるで神が居眠りしているかのように感じていたからである。

人は祈ってもなかなか応えられないとすぐにこのように感じてしまう。けれども、覚えておかなければならないのは、神には神の時があるということだ。私たちはできるだけ早く聞いてほしいと願うものだが、神には神の時がある。そして、本当にギリギリまで動いてくださらないことが多い。あまりにも早く応えてしまうとそれを神がしてくださったというよりも、あたかも自分の力でやったかのように思い込んでしまうことがないためである。だからあえて私たちを無力化して、私たちが自分ではもうどうしようもないという時に働かれるのである。そうすれば、それが神によってなされたことであることがだれの目にも明らかになり、すべての栄光が神に帰せられる。主がギリギリまで動かないのは、何も私たちを困らせるためではなく、また、焦らせるためでもなく、私たちが神の御腕に全幅の信頼を置くためなのである。

だから、神には神の時があるということを覚え、一切を支配しておられる神にすべてをゆだね、神の時を待ち望む者でありたい。そういう人は、喜び歌いながらシオンに入り、その顔にはとこしえの喜びをいただく。楽しみと喜びがついて来、悲しみと嘆きは逃げ去る(11)のである。

イザヤ50:1-11 レジュメ

「神である主が私を助ける」                    N078

Ⅰ.イスラエルの錯覚(1-3) 

イスラエルは、自分たちがバビロンの捕囚になったのを神のせいにして恨んでいた。ちょうど夫が離婚を宣言し、妻を追い出したように、また父親が借金のために子どもを借金取りに売り渡したように、神が自分たちを見捨ててしまったと考えていたのである。それに対して主は、「あなたがたの母の離婚状は、どこにあるのか」「その債権者は誰なのか」と言われた。つまり、主が離別したというのなら、その証拠を見せなさい、主が彼らを奴隷の子として売ったというのなら、誰に売ったのかを告げてみよ、というのだ。主はそのようなことは絶対になさらない。なぜなら、主は真実な方だから。主は永遠の愛をもって彼らを愛してくださった。だから、どんなことがあっても彼らを見捨てることはなさらない。

では問題はどこにあったのか。「見よ。あなたがたは、自分の咎のために売られ、あなたがたのそむきの罪のために、あなたがたの母親は追い出されたのだ。」(1)問題は彼らの罪にあった。彼らは、主がいくら預言者を遣わして警告を与えても、それに答えようとしなかった。信仰がなかったからである。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのでもない。イスラエルの咎が神との仕切りとなり、イスラエルの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしていたのだ。

何か難しい問題が起こったとき、それをだれか他の人のせいにしたり、神のせいにして恨んだりしていることはないだろうか。それは神のせいでも、他の人のせいでもない。それは自分の罪のせいである。大切なのはその罪を認め、悔い改めて、神に立ち返ることである。それが解決の第一歩となる。

Ⅱ.神である主が、私を助ける(4-9)

ここに第三のしもべの歌が記されてある。いったい神はどのように救ってくださるのか。それはしもべの苦難を通してである。「神である主は、私の耳を開かれた。私は逆らわず、うしろに退きもせず、打つ者に私の背中をまかせ、ひげを抜く者に私の頬をまかせ、侮辱されても、つばをかけられても、私の顔を隠さなかった。」(5-6)これが主のしもべの姿である。いったい彼はどのようにして苦難の中にも耐えることができのだろうか。それは、「神である主が、私を助ける。」(7,9)という確信があったからである。それゆえに、どんなに激しい苦難にあってもその苦難を正面から受け止め、自分に与えられた使命に向かって進んで行くことが出来たのである。

それは神のしもべである私たちも同じだ。私たちの人生にもさまざまな困難な出来事が起こる。しかし、神である主が私を助けてくださるという確信があれば、いかなる困難も恐れることなく、あらゆる侮辱や恥にも耐えることができる。

Ⅲ.神により頼め(10-11)

だから結論は、神により頼めということ。「あなたがたのうち、だれが主を恐れ、そのしもべの声に聴き従うのか。暗やみの中を歩き、光を持たない者は、主の御名に信頼し、自分の神により頼め。」(10)私たちには、このしもべを遣わされた真の神、主に対してどのような態度を取らなければならないのかという決断が迫られる。道は二つ。一つは、主を恐れ、そのしもべの声に従う道である。それは光のない暗やみの中を歩む時にも主の御名に信頼し、神により頼む道である。もう一つは、それとは反対に、しもべの声に聞き従わないで、自分の考えや自分の力によって歩む道である。主に信頼して歩む道は、たとえその道が真っ暗闇であったとしても、主が助けてくださるので必ず勝利が与えられるが、自分の光はそうではない。やがて苦しみのうちに伏倒れてしまうことになる。

イエスは言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネ8:12)主のしもべイエスが世の光である。彼に信頼する者は、決して失望させられることはない。この方を信じて、この方に聞き従うこと、それが私たちの人生の勝利なのである。たとえ道は険しく、苦しくとも、神である主は、あなたを助ける、との御声を聞いて、神の愛に気づき、神の助けを確信しながら歩んでいきたい。

(自分に適用してみましょう!)

・何か難しい問題が起こる時、あなたはどのような態度を取っていますか。

・困難の中で、「神である主は、私を助ける」という確信を保っていますか。

イザヤ49:7-12 レジュメ

「今は恵みの時、救いの日」                  N077

Ⅰ.あわれみの神(7) 

イザヤは、バビロンに捕虜として連れて行かれ、彼らの奴隷として、何の希望も見い出せずに過ごしていたイスラエルに、神の慰めの言葉を語った。「王たちは見て立ち上がり、首長たちもひれ伏す。主が真実であり、イスラエルの聖なる方があなたを選んだからである。」(7)今、バビロンに捕らえられ奴隷となっているイスラエルをその悲惨な状態から救ってくださるばかりか、後にバビロンは彼らにひれ伏すようになるというのである。

いったいどうやってそのようなことが起こるのか。彼らはバビロンに捕虜として連れて来られてから、もう70年が経とうとしていた。そんなことは全く不可能である。これまでだって「解放する、解放する」と言っても、何の兆しも見えなかった。神なんか全くあてにならない、と彼らは思っていた。「主は私を見捨てた。主は私を忘れた」と思っていたのだ。

しかし、そうではない。イスラエルを贖う方、その聖なる方であられる主は、決して彼らを見捨てたり、忘れたりすることはない。「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。」(15)この主が彼らを慰め、その悩める者をあわれんでくださる。主が彼らをその中から解放してくださるのである。

Ⅱ.今は恵みの時、救いの日(8)

いったいそれはいつのことか。「主はこう仰せられる。『恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。』」(8)「恵みの時、救いの日」とは、バビロンから解放される日のことである。パウロはこれをイエス・キリストによって罪から解放される日として引用し、次のように言った。「私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください。神は言われます。『わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。』確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」(Ⅱコリント6:1-2)神はイエス・キリストによって罪を赦してくださり、この世とご自分と和解させてくださった。神の祝福はあなたの目の前に備えられている。それをむだに受けることがないように、今、それをつかみなさい、というのだ。

私たちは誰でも、過去と現在と未来を持っている。過去がない人も、未来がない人もいない。しかし確かなことは、過去は過ぎ去っていて、未来はまだ来ていないということ。あるのは今だけである。私たちは「今」しか生きることができない。今、神が備えておられる救いを受け取らなければ、もう二度とそれをつかむチャンスはやって来ない。神が備えてくださった救いを受け入れること、それが神の恵みを無駄にしないことなのである。

Ⅲ.生ける水の川が流れ出る(9-12)

この神の恵みを受け取るとどうなるのか?「わたしは捕らわれ人には『出よ』と言い、やみの中にいる者には『姿を現せ』と言う。彼らは道すがら羊を飼い、裸の丘の至る所が、彼らの牧場となる。彼らは飢えず、渇かず、熱も太陽も彼らを打たない。彼らをあわれむ者が彼らを導き、水のわく所に連れて行くからだ。」(9-10)

これはバビロンから解放された者たちの姿である。バビロンから出て約束の地カナンに向かって進むことには大きな危険もあるが、主が彼らを完全に守り、水のある所に連れて行ってくださる。

主イエスは、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37-38)と言われた。これは罪から解放された者の姿でもある。罪から解放され、神の恵みに生きる者は、確かに困難はあっても、その人の心の奥底から生きる水の川が流れ出るようになる。神から受けた恵みは川のように流れて、周りの人々を潤す。そんな人生を送れたらどんなに幸いなことか。そんな人生をご一緒に始めていきたい。確かに、今は恵みの時、今は救いの日なのである。

(自分に適用してみましょう!)

・今、あなたを縛っているものは何ですか。神はあなたを解放してくださると信じていますか?

イザヤ49:1-6 レジュメ

「主のしもべの歌」                      N076

Ⅰ.主のしもべは神の栄光を現す(1-3) 

イザヤ書には「主のしもべの歌」と呼ばれている箇所が4箇所あるが、この箇所はその一つである。ここには主のしもべの使命が記されてある。いったい主のしもべは何のために来られたのか。第一にそれは、神の栄光を現すためである。3節に「あなたはわたしのしもべ、イスラエル。わたしはあなたのうちに、わたしの栄光を現す。」とある。イエス・キリストは神の栄光を現すために来られた。これは神のしもべである私たちすべてのクリスチャンにも言えることである。私たちは神の栄光を現すために生きている。パウロは、「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。」(Iコリント10:31)と言った。私たちが食べるのも、飲むのも、仕事をするのも、勉強するのも、あるいは家族で楽しく過ごすのも、神の栄光のためである。私たちはそのために生かされているということを覚えておきたい。

Ⅱ.主のしもべにはむだな骨折りはない(4)

第二に、主のしもべにはむだな骨折りはない。4節に「私はむだな骨折りをして、いたずらに、むなしく、私の力を使い果たした。」とある。いったいこれはどういうことか?イエス・キリストの十字架はむだな骨折りだったというのか?そういうことではない。確かにイエスのこの地上での3年半の生涯をみたら、それはむなしい働きであったかのように見える。イエスの働きの初期の頃に集まっていた大ぜいの群衆は、イエスが十字架につけられた頃には皆イエスから離れて行った。それだけ見たらまさに「骨折り損のくたびれもうけ」である。しかし、聖書には次のように語られている。「それでも、私の正しい訴えは、主とともにあり、私の報酬は、私の神とともにある。」それでも、私の報酬は神とともにある。必ず報われる。この世の基準で成功したかどうかは関係ない。大切なのは神の目でどうであるかだ。それが神のみこころにかなったものであるならばたとえそこに弟子が1人しかいないようであっても、私の報酬は神とともにある。これはどんなに大きな慰めであろう。

私たちも時として、主のために身を粉にして働いても何の報酬もないかのような時がある。いったい何のためにやったのか、すべてはムダだったのではないかと思えることがある。しかし、そうではない。それが神の栄光のためにしたことであるなら、そこに必ず神の報いがある。

Ⅲ.地の果てにまで神の救いをもたらす主のしもべ(5-6)

第三に、主のしもべは神の救いを地の果てにまでもたらす。ここに主のしもべのもう一つの使命が記されてある。それはヤコブをご自分のもとに帰らせ、イスラエルをご自分のもとに集めることである。そればかりではない。主のしもべは諸国の光となって、地の果てまで神の救いをもたらす者となる。それは、神のしもべである私たちクリスチャンに与えられている使命でもある。私たちはキリストのように神との和解の務めを負っている。失われた人を神のもとに集めるという使命を帯びているのである。私たちは地の果てまで、神の救いをもたらす者でなければならない。神は、私たちにそのようなしもべとなることを期待しているのである。

(自分に適用してみましょう!)

・あなたは何のために生きていると思っていましたか?あなたはどのようにして神の栄光を現すことができますか?

・あなたは主のために働いても何の報いもないと思っていませんでしたか?目先の報いではなく、主が与えてくださる報いに期待しましょう。

・あなたのエルサレムはどこですか。またあなたのユダヤ、サマリヤはどこですか。そのような人たちにどのように神の救いをもたらすことができるでしょうか?

イザヤ48:12-22 レジュメ  

「しあわせは川のように」                      N075

Ⅰ.わたしに聞け(12-16) 

主はイスラエルに「わたしに聞け」(12)と命じている。これからイスラエルに起こる新しい事について注意深く聞くようにというのだ。その内容とは何か?「わたしがそれだ。」ということである。「それ」とは主こそ初めであり、終わりであるということ、つまり、この天地を創造され、その造られた世界を支配しておられる方であるということだ。その証拠は、クロス王によってバビロンを滅ぼすということをあらかじめ告げられたことである。そのような方は他にはいない。偶像にはそのようなことはできない。ただ主だけができることである。神は実にそのことを150年も前にイザヤを通して告げられた。それは偶然に起こったことではなく、神が成された御業だったのである。それゆえに、イスラエルは近づいて、これを聞かなければならない。集中して耳を傾けなければならない。それが単にイスラエルの歴史に起こった出来事としてではなく、自分の人生の中で実際に生きて働くものとして期待して聞かなければならないのである。

Ⅱ.あなたのしあわせは川のように(17-19)

そのようにして主のことばを聞く時、どのようなことが起こるだろうか?「あなたがわたしの命令に耳を傾けさえすれば、あなたのしあわせは川のように、あなたの正義は海の波のようにあるであろうに。あなたの子孫は砂のように、あなたの身から出る者は、真砂のようになるであろうに。その名はわたしの前から断たれることも、滅ぼされることもないであろうに。」(18-19)「しあわせ」という言葉は、ヘブル語の「シャローム」である。あなたが神の命令に耳を傾けさえすれば、平和が川のように押し寄せてくる。この箇所から「Ive got a peace like a liver」という英語の賛美が生まれた。ヨハネは主イエスのことを、「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。」(ヨハネ1:16)と表現したが、まさに神の恵みが、神の祝福が、次から次に押し寄せてくるようになる。

Ⅲ.バビロンからのがれよ(20-22)

それゆえに、主はイスラエルにこう仰せられる。「バビロンから出よ。カルデヤからのがれよ。」(20)不思議なことに、せっかく主がクロス王によってバビロンを滅ぼしイスラエルをその束縛から解放したというのに、まだその中にとどまろうとする人たちがいた。信じられないことかもしれないが、これが現実である。せっかく神がイエス・キリストによって罪の贖いをしてくださったのに、まだ罪の中にとどまっていようとする人たちがいるのである。イエス・キリストがあなたのために十字架にかかって死んでくださり、あなたの罪の重荷を全部引き受けてくださったのに、それを信じないで、まだサタンの支配の下、罪の奴隷として生きることを望んでいる人たちが結構いるのだ。そのような人には平安はない。信じるか信じないかはその人の自由であるが、信じない人には平安はない。なぜなら、平安は自分の力によって勝ち取ることはできないからである。平安を得るためにはただ神に聞かなければならない。神に聞くなら、神は必ずあなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導いてくださる。

その道こそイエス・キリストである。イエスはこう言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)イエスが道である。イエスを通してでなければ本当の平安はない。それがほしいと願うなら、もう虚しい努力は止めてイエスを信じていただきたい。そして、喜びの歌声をあげて、それを地の果てまで響き渡らせよう。イエスはあなたが信じるに値する方なのである。

(自分に適用してみましょう!)

・あなたは神のみことばを聞くことにどれだけ集中していますか?神のみことばがあなたの人生に実際に生きて働くことを、あなたはどれだけ期待していますか?

・あなたの心に神の平安が川のように押し寄せていますか?もしそうでないとしたら、その原因はどこにあると思いますか?あなたは神の命令に耳を傾けているでしょうか。

・あなたはまだこの世にとどまっていたいという思いはありませんか。あなたが出なければならないバビロンとは何ですか?

イザヤ48:1-11 レジュメ

「練られる神」                                   N074

Ⅰ.わたしに聞け(1-5) 

主はイスラエルに「わたしに聞け」と命じている。これからイスラエルに起こる新しい事について注意深く聞くようにというのだ。その内容とは何か?「わたしがそれだ。」ということである。イスラエルは、主の御名によって誓い、イスラエルの神を呼び求めるが、誠実をもってせず、また正義をもってしない。彼らは自分たちこそ神に選ばれた民であり、主の御名によって祈っていたつもりだったが、肝心なところが抜けていた。そこに誠実と正義がなかった。「誠実」とは、変わりなく神に信頼する心であり、「正義」とは、神の道にかなった正しい歩みのことである。彼らはイスラエルの神を呼び求めていたのに、その信仰は口先だけの、形だけのものであった。

それはイスラエルだけのことではない。クリスチャンに対する警告でもある。クリスチャンはこの世の人たちのように偶像礼拝をしていないかもしれないが、その心が神から離れていることがある。救われたということに甘んじて、いつの間にか形だけの信仰生活に陥ってしまうことがある。世の楽しみという偶像に、自分の肉欲という偶像に、自分で造った神に引かれていく危険がある。しかし神が求めておられるのは、ただ公義を行い、神の前に誠実に歩むことである。神の前に誠実に歩むとは、何一つ過ちのない完璧な人生を歩むということではない。たとえ人生に過ちがあったとしても、神の恵みの中で悔い改め、神の恵みに支えられながら、神に従って生きることである。だから、神に示されることがあればそのたびに悔い改め、へりくだって神とともに歩むことが大切なのである。

Ⅱ.新しい創造(6-8)

主はイスラエルに「新しい事」を聞かせると言われた。それは彼らがこれまで聞いたことのないことだ。もしずっと前から聞いて、知っていたとしたら、「ああ、私は知っていた」と言うだろう。彼らは強情で、かたくなな民なので、そうやっていつも主に反逆してきた。だから主は、これまで彼らが聞いたことのない新しい事を告げよう、と言われたのである。その新しい事とは何だろうか。直接的には、神が異教徒のクロス王を立ててバビロンを滅ぼし、そこからイスラエルを解放するということだ。しかし、これは究極的には全人類を罪から救われる神の御業のことである。神は私たちを罪から救うために私たちが全く考えられない方法を用いられた。何と全く罪のない神のひとり子が私たちと同じ人間の姿で生まれ、私たちの罪の身代わりとなって十字架で死なれ、三日目によみがえられるということである。いったいだれがこのようなことを考えることができたであろう。このような方法は神にしか考えられない方法である。まさに「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」とある通りだ。パウロはこの十字架のことを「新しい創造」(ガラテヤ6:15)と言った。これこそ私たちにとって大事なことである。割礼を受けているかいないかといったことはどうでもいいことなのである。私たちはこの基準に従って歩むべきであって、それ以外のものを誇りとしてはいけない。

Ⅲ.練られる神(9-11)

このように神は、イスラエルがどんなにかたくなで、強情であっても、彼らを滅ぼさなかった。本来であればすぐにでも滅ぼされても致し方ないのに、神はそうされなかった。神は恵みの契約に従って、いつまでも変わることなく、彼らに恵みを与えてくださった。イスラエルがどんなに神にそむいても彼らを滅ぼすことをせず、そのそむきに耐え、さばきを遅らせ、軽い懲らしめを与えて、彼らに気付かせようとされた。それが「悩みの炉」である。悩みの炉とは彼らが悩むことによって、彼らのかたくなな思いを砕く炉のことである。ここではバビロン捕囚のことを指している。申命記4:20には「鉄の炉」という言葉がある。エジプトに捕らえられていたことを「鉄の炉」と表現した。このように神は、悩みの炉とか鉄の炉によって彼らを砕き、従順な心を持つようにされた。

私たちもイスラエルのようにすぐに高ぶっては神に背いてしまうようなうなじのこわい民である。そんな私たちを清めるために、時として神はこのような悩みの炉の中に送られることがある。しかし、それは私たちを滅ぼすためではなく、私たちを練りきよめるための神の手段にすぎない。神は私たちを愛しておられるので、この悩みの炉を用いて、私たちを練ってくださる。詩篇の作者は、「苦しみに会ったことは、私にとって幸せでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」(詩篇119:71)と告白した。私たちもそのように告白しよう。苦しみに会ったことは私にとって幸せです。それで私たちはあなたのおきてを学びました・・・と。あなたにとっての悩みの炉とは何だろうか。その悩みの中で悔い改め、神のみこころに歩ませていただこうではないか。

(自分に適用してみましょう!)

・あなたの信仰は形式的になっていませんか。主のみこころを行うことを求め、誠実を愛し、へりくだって神とともに歩んでいますか。

・あなたが今、受けている悩みや苦しみは何ですか。あなたはそこから何を学んでいますか。

イザヤ47:8-15 レジュメ

「高ぶる者は退けられる」                               N073

Ⅰ.私だけは特別だ(8-9) 

バビロンは高ぶったがゆえに滅ぼされた。神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになられる。バビロンは高ぶったので退けられた。いったい彼らはどのように高ぶったのか。第一に、彼らは「私だけは特別だ」と言って誇った。これは直訳すると「私だけで、ほかにはいない」である。これは神のセリフでもあった。神は「わたしが神である。ほかにはいない。」(46:9)と宣言されたが、ここでバビロンは同じセリフを使っている。つまり、彼らは自分こそ神だと宣言したのである。しかし、このように言えるのは神以外にはいない。神だけが自存の神である。神は他の何にも依存することなく、自分だけで存在することができる。だから神は神中心でいいが、私たちはそうではない。私たちは太陽や水、食料など、自分以外のものに頼らなければ生きていけない存在である。だから私たちはそのようなことは言えないし、言ってはならない。なのに、バビロンは高慢にも「私だけは特別だ」、「私だけで、ほかにはいない」と豪語した。それが問題だった。そのような者には突然、災難が見舞うことになることを覚えておかなければならない。

Ⅱ.私を見る者はない(10-11)

バビロンのもう一つの問題は、「私を見る者はない」と言って自分の悪に拠り頼んだことである。彼らがそんなにも高慢になったのはなぜか。それは神への恐れがなかったからである。神への恐れがないのに知恵と知識だけは増えていった。それが彼らを惑わしたのである。人はだれも見ていないと思うので悪を行う。だれも見ていないと思うのでごまかしたり、盗んだり、さまざまな悪行をしたりするのである。もしだれかが見ていると思ったらそのようなことはしないだろう。バビロンは神への恐れが全くなかったのでやりたい放題であった。

Ⅲ.あなたを救う者はひとりもいない(12-15)

バビロンは神を恐れず自分たちの知恵や知識によって自分たちを救おうとした。「若い時からの使い古しの呪文」や「多くの呪術」、「助言」、「天を観測する者」、「星を見る者」、「新月ごとにあなたに起こる事を告げる者」等である。そのようなものはあるいは役立つかもしれないが、彼らを救い出すことはできない。「見よ。彼らは刈り株のようになり、火が彼らを焼き尽くす。彼らは自分のいのちを炎の手から救い出すこともできない。」(14)

ではどうすればいいのか。「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」(伝道者の書12:13-14)神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになられる。私たちが神の恵みを受ける唯一の道は、ただへりくだることなのである。

(自分に適用してみましょう!)

・あなたは「自分だけは特別だ」という思いはないでしょうか。あなたには若い時からの使い古しの呪文や多くの呪術、人からの助言に頼り、神を恐れていないということはないでしょうか。あなたが頼っているものは何ですか。

イザヤ47:1-7 レジュメ

「バビロンの滅亡」                                            N072

Ⅰ.わたしは復讐する(1-4) 

主はバビロンに、「おとめバビロンの娘よ。下って、ちりの上にすわれ。」(1a)と言われた。なぜなら、「もうあなたは、優しい上品な女と呼ばれないからだ。」(1b)彼らはひき臼を取って粉をひく女奴隷になる。難攻不落と言われバビロンが滅びるという預言である。いったい何が問題だったのか。主はこう言われる。「わたしは復讐する。だれひとり容赦しない。」(3)神は復讐する神である。神はその人の行いに応じて正しくさばかれる。神がバビロンをこのようにされるのは、彼らの悪のゆえである。神の民であるイスラエルを苦しめ、自らが神であるかのように高ぶった。それが問題であった。それはバビロンだけの問題ではない。もし私たちが神に対して罪を犯すなら、そのことも神は正しくさばかれる。神はえこひいきすることはないからである。

しかし、クリスチャンは何も恐れる必要はない。なぜなら、私たちが御子イエス・キリストを信じた瞬間に、神のさばきの対象ではなくなったからである。キリストが十字架にかかってくださり、私たちの罪、咎のすべてを受けてくださったので、私たちの罪は完全に赦され、罪がない者とみなされたのだ。だから、神は復讐すると言っても、だれひとり容赦しないと言っても、びくともする必要はない。あなたの罪はもう赦されたのである。

Ⅱ.あくまでも道具にすぎない(5-6)

ここでもバビロンに、「黙ってすわり、やみに入れ」と言われる。バビロンはもう、「王国の女王と呼ばれることはないからだ。」(5)いったい何が問題だったのか。「わたしは、わたしの民を怒って、わたしのゆずりの民を汚し、彼らをあなたの手に渡したが、あなたは彼らをあわれまず、老人にも、ひどい重いくびきを負わせた。」(6)つまり、イスラエルは神に背いたので、そんな彼らを懲らしめるために彼らをバビロンの手に渡したのに、バビロンは彼らをあわれむことをせず、イスラエルに重いくびきを負わせた。彼らは神に背いたイスラエルを懲らしめるための単なる道具にすぎなかったのに、その立場を逸脱して、傲慢にも、行きすぎたことをしてしまった。それが問題だったのである。

それはバビロンだけの問題ではない。私たちの中にもバビロンのような傾向がある。自分の感情にまかせてついつい言い過ぎてしまったり、度が過ぎたりすることがある。あわれみに欠けることがある。私たちは自分が単なる道具にすぎない者であることをわきまえ、その道具としての役割に徹する者でなければならない。

Ⅲ.高慢は滅びに先立つ(7)

バビロンのもう一つの問題は、自分たちがいつまでも続くと考えたことである。これは完全な高慢である。もし終わりことを思うことがあったとしたら、少しは思いとどまることができたかもしれない。しかし、彼らはそんなことは微塵も考えず、高慢になってやりたい放題だった。あわれみに欠け、行きすぎても、やりすぎても全くお構いなしで、快楽にふけり、安逸をむさぼった。そのような高慢を神はさばかれたのである。聖書に、「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ。」(箴言18:2)また、「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」(ヤコブ4:6)とある。高ぶると祝福を失う。私たちの人生の中で、身を低くすることは大切なことである。身を低くして、へりくだったら必ず祝福される。そのような信仰の歩みを共にしていこう。

(自分に適用してみましょう!)

・あなたは神の怒りの対象ですか。それとも罪ゆるされて、神の愛の対象となっていますか。

・あなたは、自分の立場を忘れて行きすぎていること、やりすぎていること、度が過ぎたことはしていませんか。どのような時にそのような傾向がありますか。

・あなたの中に高慢な思いはないですか。自分の終わりのことを思い、自分のなすべきことをただ淡々と、へりくだってしていますか。

イザヤ46:1-13 レジュメ  

「運んでくださる神」                                            N071

Ⅰ.わたしは背負う(1-8) 

1節に、「ベルはひざまずき、ネボはかがむ。彼らの偶像は獣と家畜に載せられ、あなたがたの運ぶものは荷物となり、疲れた獣の重荷となる。」とある。ベルとはバビロンの偶像の神の名前、ネボは、その息子である。やがてバビロンは滅ぼされ、彼らが信じていた偶像はお荷物となる。古代中近東世界では、戦争は、それぞれの国の神々の戦いであると考えられていた。そして、戦いに敗れた時には、その偶像を担いで逃げなければならなかった。つまり、バビロンの神、偶像の神はお荷物になる神であり、重荷となる神である。

しかし、イスラエルの神、主はそうではない。3節と4節には、「胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救いだそう。」とある。人を救うことができず、獣の背中に運ばれていく偶像とは対照的に、イスラエルの神、主は、人を胎内にいる時からになってこられ、生まれる前から運んでこられた。この「になう」という言葉は、1節の「荷物となり」という言葉と全く同じ言葉である。真の神はお荷物のような私たちをにない、運んでくださる。そして、私たちがにないきれない重荷を代わりに背負ってくださった。これは究極的にはイエスが十字架にかかって死んでくださったことを表している。イエスがあなたの代わりに死んでくださったので、イエスがあなたの重荷のすべてを負ってくださったので、あなたはもう罪に悩むことはない。あなたは赦され、いやされた。

そればかりではない。主はこれからも同じようする、と言われた。あなたが年をとっても、あなたがしらがになっても、主はあなたともにいて守ってくださる。まさに偶像の神は運ばれる神だが、イスラエルの神はあなたを運んでくださる神なのである。

Ⅱ.わたしははかり事を行う(9-11)

9節に、「遠い大昔のことを思い出せ。」とある。遠い大昔の事とは何か?それはイスラエルの一連の過去の歴史のことであるが、特にイスラエルがエジプトから救い出された時の出来事を指している。なぜその時のことを思い出す必要があるのか?なぜなら、その時のことを思い出すなら、希望を持つことができるからだ。彼らはバビロンに捕らえられていたが、たとえバビロンに捕らえられていても、エジプトから救い出された主は同じようにバビロンからも救い出してくださる。そういう希望が与えられる。

主は、ご自分のはかりごとを必ず成就し、ご自分が望まれることをすべて成し遂げられる。そのはかりごととは何か?それはイスラエルをバビロンから救い出すということであり、また、全人類を罪から救い出すということである。いったいどのようにしてそれを成し遂げられるのであろうか?主は東から猛禽を、遠い地から、主の計画を実行する者を呼ぶ。それがペルシャのクロス王である。主はこのことが起こる150年も前に預言してくださった。主は、ご自分が計画したことをことごとく行われる。

そして神はあなたの人生にも計画をもっておられる。その計画がどのようなものであるかはわからないが、大切なことは、私たちの未来をも握っておられる方に私たちの人生をゆだねることが最も幸いなことであるということだ。

Ⅲ.わたしは勝利を近づける(12-13)

ここで主は、強情な者、正義から遠ざかっている者たちに、勝利を近づけると言われた。これは驚くべきことである。イスラエルは神にそむく者、反逆する者、強情な者であるにもかかわらず、神は勝利を近づけられる。それが遠くなることはない。たとえ彼らがどんなに神に反逆していようとも、神の救いが遅れることはない。考えてみたら、私たちは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であった。死んでいたのだから、自分から何かをすることはできない。そんな死人同然のような私たちのところに近づいてくださったのは主の方からである。イニシアチブは常に神にある。私たちは罪深い者で、自分で自分を救うことができない無力な存在にすぎないが、そのような者のところに神の方から近づいてくださった。そしてバビロンから救ってくださったように、私たちを罪のバビロンから救ってくださった。わたしの救いは遅れることはない。神の救いはいつもあなたの前に差し出されている。あなたがその救いを受け取るなら、あなたも罪のバビロンから救われ、勝利ある人生を歩むことができる。

(自分に適用してみましょう!)

・あなたは年をとって、心細くなっていませんか?主はこれからもあなたを運んでくださると信じていますか?

・あなたは、自分が救われた時のことを思い出していますか?主はこれからも同じようにあなたを救ってくださると信じていますか?

イザヤ45:14-25 レジュメ  

「わたしを仰ぎ見て救われよ」                              N070

Ⅰ.ご自身を隠す神(14-17) 

15節に、「イスラエルの神、救い主よ。まことに、あなたはご自身を隠す神。」とある。これは、イスラエルの神は人知をはるかに越えた計り知れないことをされる方であるということ。異教徒のクロス王を用いてバビロンからイスラエルを救うといったことをだれが考えることができであろうか。そのようにだれも考えられないことを神はされる。それゆえ、偶像を作って拝む者は恥を見、はずかしめを受けるが、イスラエルの神に信頼する者は救われる。複雑に絡み合った目先の状況だけを見たら時に挫折することもあるかもしれないが、私たちの背後でいつも神が働いておられることを知り、この方に信頼しよう。

Ⅱ.正義の神、救い主(18-21)

隠れたところで働かれる神は天地を創造された方である。神は、そこに人が住めるようにしてくださった。神はこの地を何の形もない、むなしいものとして造られたのではなく、そこにちゃんと人が住めるように造ってくださった。

それだけではない。19節には、「わたしは隠れた所、よみの場所で語らなかった。」とある。ご自身を隠す神は、その計画を隠したりせずに、明確なことばをもって語ってくださる。

しかも、神はそれを預言として語ってくださった。これから先に起こることを、いったいだれが告げることができるだろう。だれもできない。これから先に起こることを予め、具体的に、正確に語ることができるのは主だけである。それはこの主こそ真の神であるからだ。

Ⅲ.わたしを仰ぎ見て救われよ(22-25)

それゆえに、結論はこうだ。「地の果てのすべの者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。」これは19世紀にイギリスで活躍したチャールズ・ハッドン・スポルジョンが回心に導かれたみことばである。彼は救いを熱望して教会を行き巡っていた時、小さなメゾジスト教会に導かれた。大雪で牧師が礼拝に来れなかったのか、その日は靴屋の仕立て屋のような風貌の男が、講壇に上って説教した。その時に開かれたみことばがこれであった。「地の果てのすべての人よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。」彼はこう言った。

「愛する友よ。これは本当に短い聖句です。「見よ」と書いてあります。それは努力のいることではありません。足をあげることでも、手をあげることでもありません。ただ見るだけです。たた見ることを学ぶために大学に行く人はいません。また、そのために千年も費やす必要はないのです。だれでも見ることができます。小さな子どもでもできます。これが、この聖句が言わんとしていることです。そしてこのみことばは、「わたしを仰ぎ見よ」と言っています。ああ、多くの人は自分自身を見ています。自分自身を見ても無益なことです。あなたは決してあなた自身の中に平安を見いだすことはできません。イエス・キリストは「わたしを見よ」と言われました。ある人々は聖霊が働かれるまで待つべきだと言います。しかし、今、あなたがなすべきことはそれではありません。今、あなたが成すべきことはこのキリストを見ることです。ここに「わたしを仰ぎ見て」とあります。このキリストを見てください。」

そのときスポルジョンはキリストを見た。するとその時、雲は消え、暗黒は消え去った。その時彼は太陽を見た。彼は立ち上がり、その熱狂的な人々たちと共にキリストのすばらしい血潮と、彼のみを見上げた。彼は、どうしたらみじめな罪人が救われるのかがはっきりとわかった。それはイエス・キリストを見ることである。イエスを見るとは、イエスを信じることである。このイエスを見る者は救われる。十字架につけられたイエスを信じる者は、みな救われるのである。救われるために必要なことは、ただイエスを見ること、信じることであって、それ以外の何も必要ない。それだけで救われる。これが福音だ。

スポルジョンは、ずっとみじめに生きていた。むなしく生きていた。どんなに人生がんばっても、どんなにおもしろ、おかしく生きたとしても、いつか死んで終わるだけなら、その人生はむなしい。しかし、死んでも終わらないいのちがあるなら、もはや死は恐怖ではない。そこにあるのは永遠のいのちだ。スポルジョンはこのいのちを得たのである。

(自分に適用してみましょう!)

・あなたは背後で働いておられる神が見えなくて嘆いていることはありませんか?神はあなたの考えを越えたところで働いておられることを覚え、あなたの状況のすべてゆだねましょう。

・あなたはキリストを見ています?それとも他のものを見ていませんか?あなたがキリストを見ないのはなぜでしょうか?考えてみましょう。