Ⅱサムエル記10章

Ⅱサムエル記10章から学びます。

 Ⅰ.ダビデへの侮辱(1-5)

 まず、1~5節をご覧ください。「この後、アンモン人の王が死に、その子ハヌンが代わって王となった。ダビデは、「ナハシュの子ハヌンに真実を尽くそう。彼の父が私に真実を尽くしてくれたように」と言った。そして家来たちを通して彼の父の悔やみを言うために、ダビデは彼らを遣わした。ダビデの家来たちがアンモン人の地に着いたとき、アンモン人の首長たちは、主君ハヌンに言った。「ダビデがあなたのもとにお悔やみの使者を遣わしたからといって、彼が父君を敬っているとお考えですか。この町を調べ、探り、くつがえすために、ダビデはあなたのところに家来を遣わしたのではないでしょうか。」そこでハヌンはダビデの家来たちを捕らえ、ひげを半分剃り落とし、衣を半分に切って尻のあたりまでにして送り返した。ダビデにこのことが告げられたので、ダビデは彼らを迎えに人を遣わした。この人たちが非常に恥じていたからである。王は言った。「ひげが伸びるまでエリコにとどまり、それから帰って来なさい。」」

 9章のところでダビデは、サウルの子ヨナタンの子で、足の不自由なメフィボシェテに神の恵みを施しましたが、今回はアンモン人の王ハヌンに真実を尽くそうと考えます。それは2節にあるように、彼の父ナハシュがダビデに真実を尽くしてくれたからです。そのように真実を尽くそうというのです。アンモンとはヨルダン川のちょうど東に面しているところですが、ダビデとの関わりについてはよくわかりませか。

このナハシュについてはⅠサムエル記11章に記されてあります。彼はイスラエルの町ヤベシュ・ギルアデと戦うために上ってくると、ヤベシュ・ギルアデの人たちは勝てないと思い彼と契約を結ぼうとします。そのナハシュはとんでもない条件を提示しました。それは、彼らの右の目をえぐり取ることでした。その条件で契約と結ぶと言ったのです。とても受け入れられない条件です。それで彼らは七日の猶予をもらい、自分たちを救う者を探します。

 その時ちょうど現れたのがサウルでした。彼は牛を追って畑からかえって来たところでしたが、そのことを聞くと、主が必ず救ってくださると言ってアンモン人たちと戦い、これを打ったのです。以後、サウルはイスラエルの王としての地位を不動のものとしていくわけです。いわば、これはサウルにとってのデビュー戦のようなものでした。しかし、その頃ダビデはまだ若く、羊飼いをしていた少年でした。ダビデが表舞台に登場するのは、この出来事からかなり後のことです。ですから、ダビデとアンモン人ナハシュとの間には接点は見られないのです。

 おそらく、ナハシュがダビデに真実を尽くしたというのは、その後ダビデがサウルの妬みを買い逃亡生活を送っていた時のことかと思われます。その時ダビデはアンモンの南にあるモアブの地にも行っています。その時にアンモンのナハシュのところにも逃れた際に、彼からよくしてもらったのでしょう。ダビデはその時のことを忘れていませんでした。そして今、そのナハシュの子ハヌンに真実を尽くそうと考えたのです。

それに対してアンモン人の首長たちはどのように応答したでしょうか。3節をご覧ください。彼らは主君ハヌンに、ダビデが遣わした使者はスパイだと言いました。それでハヌンはダビデの家来たちを捕らえ、ひげを半分そり落とし、衣を半分に切って尻のあたりまでにして送り返したのです。当時の習慣では、ひげをそり落とすこと自体屈辱的なことでしたが、半分だけそり落とすのは、もっと悪いことでした。また、衣を半分に切ってお尻が見えるようにするというのも受け入れがたい行為です。

いったいなぜ彼らはそのようなことをしたのでしょうか。信じることができなかったのです。彼らは猜疑心に満ちていました。というのは、8章12節を見ていただくとわかりますが、この時ダビデはアンモン人に勝利しており、彼らから分捕り物を奪っていました。つまり、アンモンはダビデに隷属していたのです。そのダビデが真実を尽くすわけがないと考えたのです。これは、神の恵みを拒む人に共通している心理です。持っていない人は持っている物まで取り上げられるようになるのです。

ダビデの真実を拒み、このような酷い仕打ちをするハヌンたちは、まさにキリストにある神の恵みを受け入れないで、それを踏みにじるようなことをする者たちと同じです。ヘブル人への手紙10章29節には「まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものと見なし、恵みの御霊を侮る者は、いかに重い処罰に値するかが分かるでしょう。」とあります。そのように、神の恵みの御霊を侮る者には、重い処罰が下ることを覚えておかなければなりません。神の恵みの御霊を侮ることがないように、神の御子を素直に受け入れ、神の恵みに預かる物となりたいと思います。

そのことを聞いたダビデはどうしましたか。彼は人を遣わし、使者たちのひげが伸びるまでエリコに留まるように命じました。彼らがそのことを非常に恥じていたからです。ダビデの部下に対する思いやりを感じますね。と同時に、私たちもたとえ隣人に誤解され侮辱されるようなことがあっても、主に信頼して歩み続けるなら、使者たちのひげが伸びたように、必ず名誉が回復する時が来ます。失望しないで、主に信頼して歩み続けようではありませんか。

Ⅱ.アンモン人に対する勝利(6-14)

次に6~14節をご覧ください。8節までをお読みします。「アンモン人は、自分たちがダビデに憎まれるようになったのを見てとった。そこでアンモン人は人を遣わして、ベテ・レホブのアラム人とツォバのアラム人の歩兵二万、マアカの王の兵士一千、トブの兵士一万二千を雇った。ダビデはこれを聞き、ヨアブと勇士たちの全軍を送った。アンモン人は出て来て、門の入り口で戦いの備えをした。ツォバとレホブのアラム人、およびトブとマアカの人たちは、彼らだけで野にいた。」

アンモン人は、自分たちがダビデに憎まれるようになったのを見て取って、アラム人(シリヤ)の歩兵二万人、マアカの王の兵士一千、トブの兵士一万二千を雇ました。地図をご覧ください。アラムとはシリヤのことです。アンモン人の地のはるか北方に位置していた民です。また、マアカとトブもアンモンの北方に位置していた民族です。アンモン人はこの戦いのために彼らを雇い入れたのです。この戦いにかける彼らの意気込みを感じます。

このアンモンとシリヤの連合軍に対して、ダビデはヨアブを将軍とした勇士たち全員を送りました。敵は二手に分かれて戦いに備えました。アンモン人は門の入り口に、アラム人とマアカ人たちは別の野に陣を敷きました。つまり、イスラエル軍を前後から挟み撃ちにする作戦に出たのです。

9~12節をご覧ください。「ヨアブは、自分の前とうしろに戦いの前線があるのを見て、イスラエルの精鋭全員からさらに兵を選び、アラム人に立ち向かう陣備えをし、残りの兵を兄弟アビシャイの手に託して、アンモン人に立ち向かう陣備えをした。ヨアブは言った。「もしアラム人が私より強かったら、あなたが私を救ってくれ。もしアンモン人があなたより強かったら、私があなたを救いに行こう。強くあれ。われわれの民のため、われわれの神の町々のために、奮い立とう。主が、御目にかなうことをされるのだ。」」

ヨアブは自分の前とうしろに戦いの前線があるのを見て、イスラエルの精鋭の中から兵を選び、アラム人に立ち向かう備えをし、残りの兵を兄弟アビシャイの手に託して、アンモン人に立ち向かう備えをしました。二手に分かれて敵と対峙したのです。すごいですね。彼がすごかったのは12節にあるように、「強くあれ。われわれの民のため、われわれの神の町々のために、奮い立とう。主が、御目にかなうことをされるのだ。」と言って兵士たちを鼓舞した点です。

ここにヨアブの優れた二つの点が記されてあります。一つは、彼はこの戦いが「神の町々のために」と言っていることです。彼は、この戦いが神の町々を守るためのものであることを知っていました。つまり、信仰に基づく戦いであるという確信をもっていたのです。そしてもう一つのことは、主が、御目にかなうことをされると、結果のすべてを主にゆだねたことです。主はみこころにかなったことをされるということばは、信仰から出たことばです。私たちの信仰の戦いも同じです。大切なのは、結果ではなくプロセスです。それが自分たちの力でできるかどうかということではなく、それが何のためであるかということであり、その結果をすべて主にゆだねることです。それが主のみこころならば、主は必ず御目にかなったことをされると信じて全力で戦うことなのです。

その結果はどうだったでしょうか。ヨアブ率いるイスラエル軍の大勝利でした。13~14節には、「ヨアブと彼とともにいた兵たちがアラム人と戦おうとして近づいたとき、アラム人は彼の前から逃げた。アンモン人はアラム人が逃げるのを見ると、アビシャイの前から逃げて町に入った。そこでヨアブはアンモン人を討つのをやめて、エルサレムに帰った。」とあります。私たちも主の戦いに召されています。この戦いにおいて重要なのは、それが主の戦いであると信じて、結果のすべてを主にゆだね、全力で戦うことです。主は、御目にかなったことをされると信じて、私たちに与えられている信仰の戦いを全力で戦おうではありませんか。

Ⅲ.アラム人への勝利(15-19)

最後に15~19節をご覧ください。「アラム人は、自分たちがイスラエルに打ち負かされたのを見て、集結した。ハダドエゼルは人を遣わして、ユーフラテス川の向こうのアラム人に出て来させた。彼らは、ヘラムにやって来た。ハダドエゼルの軍の長ショバクが彼らを率いていた。このことが報告されると、ダビデはイスラエル全軍を集結させ、ヨルダン川を渡って、ヘラムへ進んだ。アラム人はダビデと対決する備えをし、彼と戦った。アラム人はイスラエルの前から逃げた。ダビデはアラムの戦車兵七百と騎兵四万を殺し、軍の長ショバクも討ったので、彼はそこで死んだ。ハダドエゼルに仕えていた王たちはみな、彼らがイスラエルに打ち負かされたのを見て、イスラエルと和を講じ、イスラエルに仕えるようになった。アラム人は恐れて、再びアンモン人を助けようとはしなかった。」

アラム人(シリヤ)たちは、自分たちがイスラエルに打ち負かされたのを見て、再び集結しました。そのアラム人を率いたのはハダドエゼルです。彼は人を遣わして、ユーフラテス川の向こうにいたアラム人に呼びかけて、出て来させました。彼らがヘラムまでやって来たとき、その軍を率いていたのはハダドエゼルの将軍ショバクでした。

このことがダビデに報告されると、ダビデはイスラエル全軍を集結させ、彼らと戦うためにヨルダン皮を渡り、ヘラムへと進んで行きました。アラム人たちはダビデ軍と対決しましたが、イスラエルの前から逃げることになりました。ダビデ軍の大勝利です。軍の長のショバクも、そこで死にます。ハダドエゼルに仕えていた王たちはみな、彼らがイスラエルに打ち負かされたと聞いて、イスラエルと戦うことをやめ、イスラエルと和を講じ、イスラエルに仕えるようになりました。もちろん、アラム人は恐れて、再びアンモン人を助けようとはしませんでした。イスラエルにとってはもう向かうところ敵なしです。

いったいこのことから、聖書は私たちに何を教えているのでしょうか。二つのことがあります。一つは、主はご自身が約束されたことを実現される真実な方であるということを示されたということです。

この戦いによって、ダビデはその勢力をユーフラテス川のかなたにまで広げました。これは創世記15章18節の約束の成就でした。「その日、主はアブラムと契約を結んで言われた。「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。エジプトの川から、あの大河ユーフラテス川まで」

さらにこれは、ヨシュア記1章3~4節の成就でもありました。主はカナンの地を戦略しようとしていたヨシュアにこう告げました。「わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたが足の裏で踏む場所はことごとく、すでにあなたに与えている。あなたがたの領土は荒野からあのレバノン、そしてあの大河ユーフラテス川まで、ヒッタイト人の全土、日の入る方の大海までとなる。」それはアブラハムを通して約束されたことをモーセが引き継ぎ、モーセによって主が語られたことの実現に向けて、ヨシュアが行動することを意味していました。

結果はどうだったでしょうか。ヨシュアはその生涯を終えるとき、このように告白しました。「あなたがたの神、主があなたがたについて約束されたすべての良いことは、一つもたがわなかったことを。それらはみな、あなたがたのために実現し、一つもたがわなかった。」(ヨシュア23:14)主は、イスラエルに約束されたことを、一つもたがわず、みな実現されました。それは実際にはヨルダン川西岸の地、カナンの地を指していましたが、このダビデの時代になって、アブラハムとモーセを通してイスラエルに約束されたことが完全に実現したのです。

主は約束されたことを実現される良い方です。私たちは平気で約束を破りますが、主はそのようなことはされません。約束されたことを最後まで実現してくださるのです。まことに真実な方なのです。このような方に信頼して歩める人は何と幸いでしょうか。それはパズルの一つ一つのピースのように、それ自体では神のご計画全体のどの部分なのかを知ることは困難かもしれませんが、パズル全体が組み合わされるとき、それがどれほど完璧な計画であったかを知るようになるのです。神のご計画によってすべては益に変えられるからです。

もう一つのことは、このダビデの大勝利は、同時に彼の苦難の始まりでもあったということです。この勝利によって彼は絶頂期を迎えましたが、この後で彼の人生における大きな汚点へとつながっていくからです。11章1節には、ダビデが自分の家来たちとイスラエル全軍を送ったとき、そして、彼らがアンモン人を打ち負かしたとき、ダビデはエルサレムにとどまっていましたが、そこで彼はウリヤの妻バデ・シェバと姦淫を犯してしまう罪を犯すことになるのです。これはダビデだけでなくすべての人に言えることですが、人は苦難の中にある時はひたすら神に信頼しへりくだって歩もうとしますが、このように大きな祝福の中にあるとき、高慢になりがちなのです。こうした勝利の時こそ慢心を生み、それが大きな危機をもたらしいくのです。ですから、そのことをいつも心に刻み、どんな時でも主の御前にへりくだり、謙虚に歩ませていただきたいと思うのです。逆に、逆境の中に置かれるとき、それは確かに受け入れがたいことではありますが、その時こそ神が共にいてくださる祝福の時であることを覚え、神からの助けと力をいただき信仰によって乗り越えさせていただきましょう。

伝道者の書12章1~14節「神を恐れ、神の命令を守れ」

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 伝道者の書12章をお開きください。伝道者の書からの最後のメッセージとなります。伝道者は、最後にこの書の結論を述べます。それは13節にありますが、「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってのすべてである。」ということです。

伝道者はこれまで「生きる」をテーマに人生の意味や目的について語ってきました。そしてわかったことは、「すべては空」であるということです。「空の空。すべては空。」です。日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の役になると言うのでしょうか。なりません。伝道者はそれを知ろうとしてあらゆる知識や知恵を増し加えようとしました。思う存分快楽も味わってみました。事業を拡張して自分のために邸宅を建て、いくつもの庭園を造り、毎晩のようにエンターテーメントショーを催して楽しみました。しかし、そうしたことで彼の心の空白を埋めることができたかというとそうでなく、できませんでした。その時には満たされているように感じても、次の瞬間にはまた空しさが襲ってきたのです。最終的にすべての人は同じ結末を迎えます。みな死んで行くのです。であれば、生きるということにいったい何の意味があるというのでしょうか。

 あります!それは、この天地万物を造られ、私たちを造られた神を信じ、神を喜び、神のために生きることです。すべては神の御手の中にあります。人はどんなに頑張ってもすべてのことを見極めることができません。明日何が起こるかもわからないのです。自分ではどうすることもできないことがあります。ですから、すべてを支配しておられる神を認め、神にゆだねて生きることこそが最善なのです。つまり、神を恐れ、神の命令を守ることです。これが人間にとってすべてなのです。今日はこの伝道者の書の結論から、私たちの人生の幸いについてご一緒に考えたいと思います。

Ⅰ.あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ(1-8)

 まず、1節から8節をご覧ください。1節をお読みします。「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。」

伝道者ソロモンは、11章9節で「若い男よ、若いうちに楽しめ。若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたは、自分の思う道を、また自分の目の見るとおりに歩め。」と言いました。これは「心の赴くままに生きなさい」ということではありません。その逆で、神様のみこころに歩めということです。神のみこころならば思い切ってチャレンジしたらいい、ということですね。ですから、9節の後半部分ではちゃんと釘が刺されていて、「しかし、神がこれらすべてのことにおいて、あなたをさばきに連れて行くことを知っておけ」とあるのです。人は種を蒔けば、それを刈り取るようになります。そのことをしっかりと覚えておきなさいというのです。

ですから、若いからと言って何をしても良いというわけではありません。人生は楽しいものですが、それによって痛みが伴うことがあるのです。そういうことで人生を台無しにしてはいけません。あなたの人生から痛みや悩みを取り除き、真の喜びと自由を満喫しなければなりません。それは、どのような生き方なのでしょうか。それがこの1節にあるように、「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。」ということです。あなたが若い時に、あなたの造り主を心に刻みなさい、ということです。

画家のゴーギャンは地上の楽園を目指して旅立ち、タヒチ島に辿り着きました。しかし、そこも彼にとって楽園とはなりませんでした。彼は自分の最後の作品に、自分の心の内を表すかのようなタイトルを付けました。そのタイトルとは、「われわれはどこから来たのか。われわれは何者か。われわれはどこへ行くのか」というものでした。

私たちがこの問いに対する答えを見出すためには、私たちにいのちを与え、私たちの人生にすばらしい計画を持っておられる創造主なる神を知らなければなりません。

ここでは、「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ」とあります。どういう意味でしょうか。旧約時代の平均寿命は40歳にも満ちませんでした。青春期の若者があとどれくらい生きられるか、時はごく限られていたのです。20歳になった若者の平均寿命が七十年、八十年という現代の日本とは全く意味が違います。終わりまでの時間はごくわずかでした。その終わりを前にして今のこの時を創造主から与えられたかけがえのない賜物として受け止めなさい、という意味が込められているのだと思います。そういう意味では、この聖句は必ずしも若者だけへの呼びかけられているメッセージではありません。むしろ高齢になってあとどれくらい生きられるのかを考える多くの人たちへのメッセージでもあるのです。

ここには、「わざわいの日が来ないうちに」とあります。「また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に」とあります。創造主訳聖書では、これを「老人になって、希望が無いという日が来ないうちに」と訳しています。老人になると希望がないというわけではありませんが、若い時のように心で願うことを元気にやり遂げる力はありません。苦しみの日々が来ないうちに、「年を重ねることに喜びはない」と言う年齢にならないうちに、創造主なる神を心に留めよ、というのです。

伝道者は2節からその年月とはどのようなものであるかを説明しています。2節には、「太陽と光、月と星が暗くなる前に、また雨の後に雨雲が戻って来る前に。」とあります。「太陽と光、月と星が暗くなる」とは、肉体的にも精神的にも言えることです。老年になると、目はかすみ、心は悲観的になりがちです。「また雨の後に雨雲が戻って来る前に」とありますが、この場合の「雨」とは、人生の試練のことを指していると思われます。青年期にも雨がありますが、老年期になるとそれが頻繁に現れるという意味です。

3節をご覧ください。「その日、家を守る者たちは震え、力のある男たちは身をかがめ、粉をひく女たちは少なくなって仕事をやめ、窓から眺めている女たちの目は暗くなる。」

「家を守る者は震え」とは、高齢になって手足が震えることのたとえです。また「力のある男たちは身をかがめ」とは、足腰が弱くなって身をかがめるようになることです。かつてまっすぐに伸びていた足腰が体重を支えることができなくなり、腰が曲がってしまいます。みんなそうです。「粉を引く女たちは少なくなって仕事をやめ」おもしろいですね。これはおそらくこれは歯が抜けてしまうことを表現しているのだと思います。粉が少なくなると女たちの仕事ができなくなるように、歯が少なくなると噛み合わせができなくなるということです。歯本来の仕事ができなくなります。おもしろいことに、この「粉をひく女」は英語では「The grinders」と言いますが、臼歯(きゅうば)も同じ「grinders」という言葉を使うそうです。「grinders」が少なくなると仕事にならないのです。「窓から眺めている女たちの目は暗くなる」とは、高齢によって視力が低下することを表現しています。

そればかりではありません。4節をご覧ください。高齢になるとどうなりますか?「通りの扉は閉ざされ、臼をひく音もかすかになり、人は鳥の声に起き上がり、歌を歌う娘たちはみな、うなだれる。」

「通りの扉は閉ざされ、臼をひく音もかすかになり」とは、耳が遠くなるということです。周りの人の声が聞こえなくなります。騒々しい音も気にならなくなるのです。「鳥の声に起き上がり」とは、朝の目覚めが早くなるということです。鳥の鳴き声でも起きてしまうからです。私の寝室の隣は小さなベランダになっていますが、しばらく前に2羽の鳩がひっきりなしにやって来るようになりました。そして朝から唸っているのです。それで私は目が覚めてしまいます。歳をとったということでしょうか?「歌を歌う娘たちはみな、うなだれる」とは、歌を歌っても低くなったり、弱くなったりするということです。つまり、高齢になると声がかすれ、高い音程が出せなくなり、歌う能力が低下するのです。

さらに5節にはこうあります。「人々はまた高いところを恐れ、道でおびえる。アーモンドの花は咲き、バッタは足取り重く歩き、風鳥木は花を開く。人はその永遠の家に向かって行き、嘆く者たちが通りを歩き回る。」

「高いところを恐れる」とは、高所恐怖症のことです。若い時は何でもなかったのに、年を取ると、はしごを上ったり、高い所に立ったりするのが怖くなります。「道でおびえる」とは、坂道を歩くのが怖くなり、道を歩くことに困難が生じるということです。創造主訳聖書ではそのことをわかりやすく訳しています。「息切れがして、坂道を上るのが大義になり、足の自由がきかず、立ち往生し」と訳しています。

「アーモンドの花は咲き」とは、頭が白くなることです。アーモンドは白い花を咲かせるのですが、それが満開に咲くように、頭が白くなります。私の頭もアーモンドの花のようになりました。

「バッタは足取り重く歩き」とは、老人の歩き方を表現しています。確かに老人になると若い時のようにシャキシャキと歩くことは困難になります。バッタが歩いているのを見るとわかりますが、バッタが歩く時はよろよろ歩きますが、そのように身をかがめてよろよろ歩くようになるということです。

「風鳥木は花を開く」これも難解です。「風鳥木」とはスパイスに用いる「ケッパー」の木のことです。へブル語で「ハパックス」と言います。これが「欲望する」という意味の「アーバー」に由来していることから、これは食欲とか、性欲のことを意味していると考えられています。また、「開く」という語ですが、へブル語で「ターフェール」という語です。これは「しぼむ」を意味する「パラル」という語に由来していることから「開く」ではなく「しぼむ」ではないかと考えられているのです。ですから風鳥木は花を開くとは、食欲や性欲が減退することを意味しているのではないかと考えられます。口語訳ではそのように訳しています。口語訳では、「その欲望は衰え」となっています。また、創造主訳聖書でも「性欲もなくなり」と訳しています。さらに、英語の訳はすべてそのように訳しています。

「And desire no longer is stirred.」(NIV)

「And desire fails.」(NKJV)

「and all desire will be gone.」(TEV)

これが、ここで言わんとしていることでしょう。人は老年になると、食欲も性欲も減退し、何の楽しみも見出せなくなります。

そして、「人はその永遠の家に向かって行き、嘆く者たちが通りを歩き回る。」これは、死を迎えるということです。「泣く者たちが通りを歩き回る」とは、葬儀に参列した人たちが死を悼み悲しみ、葬送の列に加わっている様子を語っています。

6節をご覧ください。「こうしてついに銀のひもは切れ、金の器は打ち砕かれ、水がめは泉の傍らで砕かれて、滑車が井戸のそばで壊される。」(6)こうして、ついには死がやって来るということです。歳月が経つと人の肉体は老い、衰え、ついには死に至ります。この地上で、死を免れることができる人はひとりもいません。死はすべての人に平等に訪れるのです。

では、人は死んだらどうなるのでしょうか。7節には、「土のちりは元あったように地に帰り、霊はこれを与えた神に帰る。」とあります。人は死んだら、肉体は土から造られたので土に帰りますが、霊はこれを与えてくださった神のもとに帰ります。もちろん、神が提供された救いを信じた人とそうでない人とでは行き先が異なります。信じた人は神がおられる天国へ、それを拒否した人は神がいない所、ハデスに行くことになります。

であれば、私たちはどうあるべきなのでしょうか。「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。」ということです。「わざわいの日が来ないうちに」。わざわいの日が来ないうちに、神に会う備えをしなければなりません。人は死んだらどうなるのでしょうか。へブル9章27節には、「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように」とあります。人は死んだら神の前に立つようになります。神の御前に立って人生の精算する時がやって来るのです。死んでもまた救われるチャンスがあるというのは間違っています。わざわいの日が来ないうちに、あなたの創造者を覚え、あなたの救い主を信じなければなりません。その日に備えて生きることこそ真に知恵のある生き方なのです。そのような人は、この世の富や栄誉に執着することをしません。そして、自分にいのちを与えてくださったいのちの源であられる神を認め、神を恐れて生きるのです。

あなたはどうですか。神ではないほかのものに全精力を注いではいないでしょうか。もうそうであるなら、あなたの人生においてどんな調整が必要でしょうか。やがて老年期を迎え、肉体は衰えて行きます。ついには銀のひもが切れ、金の器は打ち砕かれることになります。しかし、いつまでも変わらないものがあります。それはあなたを創り、あなたにいのちを与えてくださった創造主なる神です。これこそ、私たちが真に追い求めていくべきものなのです。ですからあなたは、あなたの若い日に、あなたの創造主を覚えなければなりません。

Ⅱ.真理のことば(9-12)

次に9節から12節までをご覧ください。9節と10節をお読みします。「伝道者は知恵ある者であった。そのうえ、知識を民に教えた。彼は思索し、探究し、多くの箴言をまとめた。伝道者は適切なことばを探し求め、真理のことばをまっすぐに書き記した。」

伝道者は知恵ある者でした。そのうえ、その知恵を民に教えました。彼は思索し、探求して、多くの箴言をまとめました。箴言とは人生論のことです。また、真の祝福と喜びを与え、人生を有意義にするための真理のことばです。それは、箴言としてまとめられた聖書のことばのことです。それは神から出たものであり、伝道者の書もまた聖霊によって記された神のことばです。

11節と12節です。「知恵のある者たちのことばは突き棒のようなもの、それらが編纂された書はよく打ち付けられた釘のようなもの。これらは一人の牧者によって与えられた。わが子よ、さらに次のことにも気をつけよ。多くの書物を書くのはきりがない。学びに没頭すると、からだが疲れる。」(11-12)

ここには「知恵のある者たちのことばは突き棒のようなもの」とあります。「突き棒」とは士師記3章31節には「牛を追う棒」とありますが、牛が後ろに下がると当たって痛くなるように付けてある棒のことです。それで土を耕すようにするわけです。そのように、鈍い者を教え、正しい道に導くという意味です。「よく打ち付けられた釘のよう」とは、よく打ち付けられた釘はしっかりしていることから、信頼に値するという意味です。これらは一人の牧者によって与えられました。この牧者とは誰でしょうか。ここでは伝道者ソロモンのことですが、ソロモンを通して語られた神の知恵、イエス・キリストのことです。私たちにはこのような真理のみことばが与えられているのです。ですから、私たちはこの真理のことばに耳を傾け、従わなければなりません。

伝道者は、さらにもう一つのことを注意しています。それは、彼は多くの書物を書くこともできましたが、どんなに多くの本を書いてもきりがないということです。むしろ、そうしたものに没頭すると、かえって疲れ果ててしまうことになります。学びにはきりがありません。あれもこれも学ぼうとするあまり、大切なものを見失ってしまうことになります。本当に大切なのは神によって与えられた聖書です。聖書以外のものをいくら学んでも、結局のところ疲れ果ててしまうことになります。これで十分なのです。

箴言30章5節には、「神のことばは、すべて精錬されている。神は、ご自分に身を避ける者の盾。」とあります。神のことばには力があります。私たちは日々様々なプレッシャーやストレスに押しつぶされそうになることがありますが、そうしたプレッシャーに押しつぶされることなく、耐える力を与えてくれるのは、これが神によって与えられた神のことばだからです。この神のことばが私たちを生かすのです。

以前、ある教会の礼拝で説教をした時、礼拝後に一人の女性が私の所に来て「昨日、聖書を買いました。表紙の裏に私に相応しいことばを何か書いてください」と言いました。その人は教会に初めていらしたという方だったので、どんなことばがいいかなぁと考えながらその方のお顔を見ていると、ある一つのみことばが思い浮かびました。それは、イザヤ書43章4節のみことばです。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」それで、そのみことばを書いて渡すと、その方はしばらくそれをじっと眺めていましたが、それを胸に抱くようにして帰って行かれました。それから数カ月後に、その方からメールが来ました。

「実はあの日、私は先生が書いてくださったことばがどんなことばであろうと神様からのことばとして受け取る覚悟でした。実は私はあの時、売春の仕事をしていました。こんな汚れた自分にふさわしいことばとは、どんなことばだろうと思って待っていました。すると先生は驚くべきことばを書いて下さいました。こんな私が「高価で尊い」なんて信じられませんでした。「神に愛されている」なんてとても思えませんでした。しかしあのことばで私の心は救われました。最近、私はイエス・キリストを信じました。仕事も会社の事務をしています。あの聖書のことばが私の人生を変えてくれました。」

聖書のことばは、私たちに生きる力を与えてくれます。私たちは、この神のことばに生きるものでありたいと思います。私たちの周りにはたくさんの書物がありますが、でも、学びに没頭すると、からだは疲れます。しかし、神のことばは私たちを生かしてくれます。私たちが信頼するのは、一人の牧者、神の子イエス・キリストによってもたらされた神のことばなのです。

Ⅲ.神を恐れ、神の命令を守れ(13-14)

最後に、13節と14節を読んで終わりたいと思います。「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。 神は、善であれ悪であれ、あらゆる隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからである。」

結局のところ、私たちの人生にとって最も重要なことは何なのでしょうか。それは、「神を恐れよ。神の命令を守れ。」ということです。なぜなら、神は、善であれ悪であれ、あらゆる隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからです。最終的なさばき主である神を恐れ、神の命令を守ることこそ、すべての人にとって知恵ある人生であると言えるのです。

ルカの福音書12章16~21節に、イエス様が話された愚かな金持ちのたとえ話があります。「ある金持ちの畑が豊作であった。彼は心の中で考えた。『どうしよう。私の作物をしまっておく場所がない。』そして言った。『こうしよう。私の倉を壊して、もっと大きいのを建て、私の穀物や財産はすべてそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「わがたましいよ、これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ。」』しかし、神は彼に言われた。『愚か者、おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』自分のために蓄えても、神に対して富まない者はこのとおりです。」

この金持ちはどういう点で愚かだったのでしょうか。それは「ピント外れの価値観」を持っていた点です。彼は大豊作の作物を、新しい倉を建ててその中に十分に蓄えました。そして自分のたましいにこう言いました。

「わがたましいよ、これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ。」

これは単なる独り言や心の中のつぶやきではありません。これは彼の人生観そのものでした。物がたくさん貯まったことで、たましいの安全までも保障されたと思ったのです。彼は「物でたましいの安全を買うことはできない」という大原則を忘れていました。ですから神から「愚か者」と叱責されたのです。「愚か者」とは「感覚を失った者」という意味です。彼は人生における正しい感覚を失ってしまっていたのです。

そんな彼に神は言われました。「おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。」と。その「今夜」とは、まさに宴会の真最中のことです。「もう大丈夫、安心だ、楽しもう」と言っていたその時です。「今夜」つまり、人生の終わりは誰にでもやって来ます。しかし、それがいつ来るかは誰にも分かりません。

しかし、神の前に富む者は、この人生の終わりにしっかりと備えています。「肉体の死」ということに出会っても、失わないものをちゃんと持っているのです。それはまことのいのち、永遠のいのちです。死ぬ時に手放さなければならないものをいくらっていても、それは本当の豊かさではありません。死を越えてもなおその手に残るもの、それは永遠の神との関係です。イエス・キリストを救い主として信じる者に与えられる永遠のいのちです。

同じルカの福音書16章19~31節には、「金持ちとラザロ」の話が出て来ますが、「ラザロ」はその永遠のいのちを得た人です。金持ちは毎日贅沢に暮らし、神様を求めようともせず、自分中心の生活をしていました。一方ラザロは惨めな生活で、神様の助けなしには生きられない存在でした。それは「ラザロ」という名前からもわかります。「ラザロ」という名前は「神は助け」という意味があります。彼は神の助けなしには生きていけないと告白していたのです。彼らの死後、金持ちはハデスに、ラザロはアブラハムの懐、つまりパラダイスにいました。私たちの人生は、死んで終わりではありません。生きている間の行いに応じて、神様の裁きがあり、天国と地獄に振り分けられるのです。人は、誰でも心に罪を持っています。神様

信じない自己中心的な人生を送った人は天国には行けません。しかし、イエス様は今から2000年前に十字架にかかられ、私たちを罪の束縛から解放して下さいました。罪を悔い改め、十字架の贖いと復活を信じるなら、その罪は赦され、罪のない者として永遠のいのちを受けることができます。たとえ死んでも天国に行くことが出来るのです。


 このような人こそ、神を恐れ、神の命令に歩む人です。創造者である神を信じ、神と共に歩む時、私たちの霊は満たされます。もはや、むなしい生き方ではなく、天に希望を置き、意味のある生き方が始まるのです。重要なのはスピードよりも方向です。どの方向に向かって生きているのかということです。あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいが来ないうちに。結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。

あなたはどうですか。あなたの人生が後悔や嘆きではなく感謝と賛美に満たされたものとなるように、ここで伝道者ソロモンが見いだした知恵を心に刻んでいただきたいと思います。すべてを支配しておられる神を認め、神を恐れ、この神とともに意味のある人生を送らせていただこうではありませんか。

Ⅱサムエル記9章

 サムエル記第二9章から学びます。

 Ⅰ.ヨナタンとの契約のゆえに(1)

 まず、1節をご覧ください。「ダビデは言った。「サウルの家の者で、まだ生き残っている人はいないか。私はヨナタンのゆえに、その人に真実を尽くしたい。」

 主はダビデとともにおられたので、ダビデが行く先々で、彼に勝利を与えられました。主は周囲のすべての敵から彼を守り、安息を与えてくださいました。ダビデもまた、そのようにして与えられた全イスラエルを、主のさばきと正義によって治めていました。

 そのような時ダビデは、サウルの家の者で、まだ生き残っている人はいないか、と尋ねました。それは、ダビデが親友ヨナタンと結んだ契約のゆえです。彼はヨナタンに真実を尽くしたいと思ったからです。その契約とはⅠサムエル記20章12~17節にある内容ですが、ヨナタンは自分の父サウルがダビデを殺さないというのを聞いていたのに、実際はそうでないのを見て、もしサウルがダビデを殺そうとしているのを知ったなら、そのことを必ずダビデに告げ、ダビデが殺されることがないように無事に逃がしてやる代わりに、自分の家族をあわれんで、恵みを施してほしいということでした。たとえ自分が死ぬようなことがあっても、どうか自分の家族だけは助けてやってほしい、彼の家が断たれることがないようにしてほしいということだったのです。ダビデはこのヨナタンのことばを受け入れ、主の前で契約を結びました。それが今、実行に移されようとしていたのです。ダビデは、そのヨナタンとの契約のゆえに、その真実を尽くそうとしたのです。

日本のことわざに、「喉元過ぎれば熱さ忘れる」ということわざがあります。苦しい時に人を助けてやっても、その苦しみが過ぎ去るとその恩を忘れてしまうということです。ルカの福音書17章には、イエス様にツァラートを癒してもらった10人の人の話があります。しかし、そのうちで感謝するためにイエス様のところに戻って来たのはたった1人だけでした。しかもそれはサマリヤ人だけ、外国人だけでした。それを見られて嘆かれたイエス様はこう言われました。「10人きよめられたのではないか。9人はどこにいるのか。この他国人のほかに、神をあがるために戻って来た者はいなかったのか。」(ルカ17:17-18)

このように、私たちは往々にして人から受けた恵みを忘れ、感謝の心をなくしたり、神に対する感謝や約束を忘れてしまったりすることがあります。しかし、ダビデはそうではありませんでした。彼は、ヨナタンと交わした契約を忘れることなく、その契約のゆえに、彼の家族を助けようとしたのです。ここにダビデの誠実な信仰を見ることができます。私たちもダビデのように、主の前で契約したことを最後まで果たそうとする誠実な信仰者でありたいと思います。

Ⅱ.メフィボシェテへの恵み(2-8)

次に、2~8節をご覧ください。「サウルの家にツィバという名のしもべがいて、ダビデのところに呼び出された。王は彼に言った。「あなたがツィバか。」彼は言った。「はい、あなた様のしもべです。」王は言った。「サウルの家の者で、まだ、だれかいないか。私はその人に神の恵みを施そう。」ツィバは王に言った。「まだ、ヨナタンの息子で足の不自由な方がおられます。」王は彼に言った。「その人は、どこにいるのか。」ツィバは王に言った。「お聞きください。ロ・デバルのアンミエルの子マキルの家におられます。」ダビデ王は人を送って、ロ・デバルのアンミエルの子マキルの家から彼を連れて来させた。サウルの子ヨナタンの子メフィボシェテは、ダビデのところに来て、ひれ伏して礼をした。ダビデは言った。「メフィボシェテか。」彼は言った。「はい、あなた様のしもべです。」ダビデは言った。「恐れることはない。私は、あなたの父ヨナタンのゆえに、あなたに恵みを施そう。あなたの祖父サウルの地所をすべてあなたに返そう。あなたはいつも私の食卓で食事をすることになる。」彼は礼をして言った。「いったい、このしもべは何なのでしょうか。あなた様が、この死んだ犬のような私を顧みてくださるとは。」

サウルの家にツィバという名のしもべがいました。彼はダビデのところに呼び出されると、ダビデは彼に、サウルの家の者で、まだだれかいるかどうかを尋ねました。その者に恵みを施すためです。あのヨナタンのゆえにです。そこでツィバは、ヨナタンの息子で足の不自由なメフィボシェテが残っていることを知らせます。覚えているでしょうか、Ⅱサムエル記4章で、このヨナタンの子について紹介されていました。彼がメフィボシェテです。サウルとヨナタンがペリシテ人との戦いによって死んだとき、メフィボシェテの乳母があまりにも急いで逃げたので、その子を落としてしまいました(Ⅱサムエル4:4)。それで彼は足なえになってしまったのです。彼は今、名も明かさずに、マキルという人の家で世話になっていました。

メフィボシェテは、いのちが奪われるのではないかと恐れながらダビデのもとに来て、ひれ伏して礼をしました。するとダビデは彼に信じられないことを言いました。何でしょうか。7節です。「恐れることはない。私は、あなたの父ヨナタンのゆえに、あなたに恵みを施そう。あなたの祖父サウルの地所をすべてあなたに返そう。あなたはいつも私の食卓で食事をすることになる。」

何とベニヤミンの地にある祖父サウルの土地をすべて自分に返すというのです。そればかりではあふりません。いつもダビデの食卓で食事をすることになるというのです。

これは考えられないことです。当時の世界では、王が他の王によって滅ぼされたとき、新しい王は、自分に反逆して自分の国を乗っ取ることがないように前の王の家族全員を皆殺しにしました。ですから、サウルの家からダビデの家にイスラエルの統治が移ったのであれば、メフィボシェテは殺されて当然でした。その彼のいのちが守られるというだけでなく、先祖の土地まで返してもらうことができ、さらに、王の食卓で食事をすることまで許されたのです。その恵みがどれほど大きいものであったかがわかるかと思います。これが神の恵みです。Amazing Grace! 驚くばかりの恵みです[o1] 。罪過と罪との中に死んでいた私たちは滅ぼされても当然の者でした。にもかかわらず、神は十字架のキリストにその敵意を置いてくださることによって、私たちの罪を赦してくださいました。そればかりか、私たちを神の子として御国を相続する者としてくださったのです。そしてキリストとの食事、親密な交わりを持つ特権に預からせてくださいました。これは大いなる恵みです。それは、アブラハムを通して約束してくださったことであり、またモーセを通して約束してくださったことであり、このダビデを通して約束してくださったことです。神はその約束のゆえに、それを実現してくださったのです。神は約束を実行される真実な方なのです。その契約のゆえに、私たちも神の尊い救いに与る者となったのです。

メフィボシェテは、感謝してダビデの申し出を受け取りました。感謝して受け取るしかなかったのでしょう。足なえの身ですから、かつてイシュボシェテがダビデと戦ったように、戦うことはできません。また、このようなすばらしい恵みが用意されているのに、それを受け取らない理由はないからです。

 彼は自分のことを、「死んだ犬のような者」と言っています。私たちにはあまりこの言葉の持つ重みを理解していません。「犬」というのは聖書の中で非常に恥ずべきもの、卑しいものを呼ぶときの呼称として用いられた言葉です。彼は、自分がいかに卑しい者であるかを知っていました。

 神の恵みを受け入れる人は、それが恵みであることが分からないと、受け入れることができません。自分はすでに豊かであり、満足していると思っていると、罪の赦しや永遠のいのの必要性を感じなくなってしまうからです。ですから、恵みが恵みであることを知るには、本当の自分の姿、心の貧しさを知る必要があります。イエス様は、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」(マタイ5:3)と言われましたが、自分がいかに貧しく、惨めな者であり、さばきと死に値する者であることを認めることが救いの入口です。このメフィボシェテのように、そのことを認めることができなければ、その恵みの大きさを知ることはできないのです。

Ⅲ.王の食卓で食事をしたメフィボシェテ(9-13)

次に、9~13節をご覧ください。「王はサウルのしもべツィバを呼び寄せて言った。「サウルと、その一家の所有になっていた物をみな、私はあなたの主人の息子に与えた。あなたも、あなたの息子たちも、あなたの召使いたちも、彼のために土地を耕し、作物を持って来て、それがあなたの主人の息子のパン、また食物となる。あなたの主人の息子メフィボシェテは、いつも私の食卓で食事をすることになる。」ツィバには息子が十五人と召使いが二十人いた。 ツィバは王に言った。「わが主、王がこのしもべに申しつけられたとおりに、このしもべはいたします。」メフィボシェテは王の息子たちの一人のように、王の食卓で食事をすることになった。メフィボシェテには、ミカという名の小さな子がいた。ツィバの家に住む者はみな、メフィボシェテのしもべとなった。メフィボシェテはエルサレムに住み、いつも王の食卓で食事をした。彼は両足がともに萎えていた。」

メフィボシェテへの約束を実行するために、ダビデはサウル王のしもべであったツィバを呼び寄せて言いました。サウルと、その一家が所有していた物はみな、メフィボシェテに返還されるということ、そして、ツィバも、ツィバの息子たちも、またツィバの召使いたちも、返還されたサウル家の土地を耕して、サウル家の生計を立てなければならないということです。そして、メシュボシェテは、いつもダビデの食卓で食事をするようになるということです。ツィバには15人の息子と20人のしもべがいたので、かなりの広い土地を耕すことができました。

ツィバはダビデの命令を受け入れ、それを実行しました。そして、メフィボシェテは王の息子たちの一人のように、王の食卓で食事をするようになりました。メフィボシェテには、ミカという名の小さな子がいました。この子は成長して多くの子孫をもうけ、彼によってサウルの家系が何世紀にもわたって存続するようになります(Ⅰ歴代誌9:41~44)。

かくしてメフィボシェテは、まるで王の息子たちのように、ダビデの食卓に連なるようになりました。彼はダビデと食事を共にするために、先祖の地ではなく、エルサレムに住みました。このダビデの姿はイエス様の姿を、メフィボシェテは私たちクリスチャンの姿を表しています。ダビデはメフィボシェテを恵みによって取り扱いました。また、常に自らの食卓に連なることを許しました。これは一方的な恵みによるものです。恵みとは、受ける価値のない者が受けるようになることです。メフィボシェテはまさに受ける価値のない者でした。滅ぼされてもしょうがない者でしたが、ダビデ王の恵みによって慈しみとあわれみを受けただけでなく、ダビデと同じ食卓にあずかるという光栄に預かる者となったのです。私たちも同じです。私たちは神に敵対していた者、どうしようもない罪人であったのに、神があわれんでくださり、神との食卓に与るという栄光を受ける者とされました。何という恵みでしょうか。これは人知を超えた祝福です。このような恵みと祝福を与えてくださった主に心から感謝します。そして、その恵みに生きる者でありたいと思います。


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ヨハネ20章19~21節「平安があなたがたにあるように」

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イースターおめでとうございます。きょうはイースターをお祝いしての礼拝ですが、私たちがこうしてイースターをお祝いするのは、イエス・キリストの復活の出来事が私たちにとって重要な出来事だからです。私たちは毎年クリスマスを盛大にお祝いますが、このイースターはクリスマス以上に重要な出来事だと言えるかもしれません。確かにクリスマスは神様が私たちを愛し、私たちを罪から救うためにひとり子イエスをこの地上に送って下さった日ですからとても重要な日ですが、イースターは、その御子が十字架でなされ罪の赦しと永遠のいのちを与えてくださったということが真実であることを保証するものですから、そういう意味ではもっと重要な出来事だと言えます。イエス様が死からよみがえらなかったなら、私たちはどうやって罪から救われたと確信することができるでしょうか。どうやって天国に行くことができると確信することができるでしょうか。というのは、ローマ人への手紙6章23節には「罪から来る報酬は死です」とあるからです。もしキリストが死んで復活しなかったら、キリストにも罪があったということになるのです。そうであれば、私たちが救われたというのは単なる思い込みにすぎず、盲信でしかないということになります。しかし、イエス様はよみがえられました。イエス様が復活されたことで、聖書が言っているとおり、この方を信じる者は永遠のいのちを持ち、天の御国で永遠に神とともに生きるようになるという希望を持つことができるのです。もう死を恐れる必要はありません。確かに死は怖いですが、死は永遠の入り口にすぎず、イエス様を信じる人は、やがて栄光の御国に入るのです。それはイエス様が復活してくださったからです。イエス様が復活されたので、私たちは確信をもって死の不安と恐怖から解放され、永遠のいのちの希望に生きることができるのです。きょうは、このすばらしいキリストの復活の出来事から、キリストにあるいのちと希望をいただきたいと思います。

 

Ⅰ.弟子たちの真中に立たれたイエス(19-20)

 

まず、19~20節をご覧ください。「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。」

 

「その日」とは、マグダラのマリヤが復活の主イエスに会った日のことです。それは週の初めの日、すなわち、イエス様が十字架につけられてから三日目の日曜日のことでした。マグダラのマリヤは、その日、朝早くまだ暗いうちに、イエスのお体に香油を塗ろうと墓に行くと、そこに置かれていた石が取り除けられているのを見ました。だれかが墓から主を取って行ったのだと思った彼女は、そのことを弟子のペテロとヨハネに告げます。それを聞いたペテロとヨハネは急いで墓に向かいましたが、墓に着いてみると、そこには亜麻布は置かれてありましたが、主イエスのお体はありませんでした。彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書のことばを理解していなかったので、まさか主がよみがえられたとは思いもしませんでした。

 

一方、マリヤも何が起こったかがわからず、墓の外でたたずんでいましたが、そんな彼女に主が現れてくださり、「マリヤ」と声をかけられました。その声を聴いたときマリヤはすぐにそれがイエス様だということがわかり、イエス様にすがりつこうとしましたが、イエス様は「わたしにすがりついてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないのです。わたしの兄弟たちのもとに行って、「わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のもとに上る」と伝えなさい。」(17)と言われました。それで彼女は行って弟子たちにそのことを告げたのです。「その日」のことです。

 

その日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていました。弟子たちは、イエスに従っていた自分たちも捕らえられ、裁判にかけられるのではないかと恐れていたのです。復活したキリストが、自分たちのところに来て姿を見せてくださるまで、弟子たちは完全に恐れに打ちのめされていました。彼らはいつもイエス様と一緒にしてそのすばらしい御業を見たり、聞いたりしていましたが、いざイエス様が十字架で処刑されると、どうしたらいいのか、何を信じたらいいのかわからなくなってしまったのです。

 

今は亡き毒舌落語家に、立川談志(たてかわだんし)という方がおられました。彼はとにかく、自分の目で見たもの以外は信用しないという人でした。著書の中で、テレビはやらせ、新聞はウソと言い放っています。「ものごとってなぁ、自分が見たものだけが本物だ。あとは全部うわさ話よ。」とよく言っていました。しかし、どうして人の話を、頭から信じないようになったのかというと、それは日本の敗戦にありました。

子供のころ談志さんは、日本軍は連戦連勝を続けているという、この大本営発表を信じ切っていましたが、それなのに、日本の本土は簡単に空襲を受けたのです。まだ小学生だった彼は、東京大空襲を経験し、その目で、その耳で、地獄を経験するのです。母と兄の3人で避難する途中、川の中から聞こえてくる「助けてくれ」という声と、土手からの「助けてやれない」という声が交差する中を必死で走り回ったといいます。信じ切っていた発表が、真っ赤な嘘だとわかったとき、それから彼は疑い深い人間になったというのです。

 

主イエスこそ人となった神であり、全能の救い主だと信じていた弟子たちは、このイエスが死刑にされ、墓にまで埋葬されてしまったとき、もうすべてが終わった、いったい自分たちが信じてきたことは何だったのかと、頭が混乱していたに違いありません。彼らは意気消沈し、また同時に、次に当局は自分たちを捕らえに来るかもしれない、と恐れていたのです。

 

すると、そこにイエスが来られました。イエスが来て彼らの真ん中に立たれると何と言われましたか?「平安があなたがたにあるように。」と言われました。閉まっていた戸を通り抜けることができたのは、イエス様のからだが地上での物理的制約を受けない霊のからだであったことを示しています。復活されたイエス様のお体は物質的な障壁を越えられるものであったということです。しかしそれは単なる霊ではなくちゃんとした肉体をもっていました。ルカの福音書24章には、復活したイエス様を見て幽霊だと思った弟子たちに対して、イエス様が「なぜ取り乱しているのですか。わたしにさわって、よく見なさい。」と言われました(24:38-39)。「幽霊なら肉や骨はありません。でも私にはあります。」そう言って、彼らに手と脇腹を見せられたのです。手と脇腹というのは、イエス様が十字架につけられた時の釘の跡と槍の跡のことです。ですから、復活されたイエスは確かに肉や骨がありましたが、それはこの肉体とは違い、物理的な障壁を越えられるものだったのです。

 

そして、こう言われました。「平安があなたがたにあるように。」イエス様はなぜこのように言われたのでしょうか。この言葉は、ギリシャ語で「シャローム」という言葉です。これは今もユダヤ人があいさつで使っている言葉ですが、「平安があなたがたにあるように」とか「ごきげんよう」といったニュアンスの言葉です。しかし、ここでイエス様が彼らに「シャローム」と言われたのは単なるあいさつではなく、それ以上の意味がありました。それは不信仰に陥り不安と恐れに脅えていた彼らの信仰を回復し、彼らにメシヤの到来を告げ知らせることによって、喜びと平安をもたらすためだったのです。

 

このとき彼らは不信仰に陥っていました。第一に、彼らはイエス様からガリラヤに行くようにと言われていたのにもかかわらず、自分たちも捕らえられるのではないかと恐れ、戸を閉めて家の中に閉じこもっていました。第二に、彼らはイエス様があらかじめ語っておられた復活の預言を信じていませんでした。第三に、イエス様が復活されても、自分たちは幽霊を見ているのではないかと思っていました。

このように彼らはイエス様が言われたことを信じることができなかったため、恐れと不安に脅えていたのです。

 

しかし、イエス様が彼らの真中に立たれ「平安があなたがたにあるように」と言われ、その手と脇腹を示されたとき、彼らは主を見て喜びました。あの恐れと不安が、喜びに変えられたのです。復活した主イエスが現れ「平安があなたがたにあるように」とみことばをかけてくださることによって、その手と脇腹を示されることによって、彼らに再び信仰が与えられたのです。イエス様が十字架で死なれ、三日目によみがえると言われていたことばを思い出したのです。弟子たちはそれを見て喜んだのです。

 

皆さん、信仰の対極にあるのは何でしょうか?信仰の対極にあるのは恐れとか不安です。恐れや不安は霊の眼を閉ざしイエス・キリストを見えなくさせます。反対に信仰は、喜びと希望を与えてくれます。不安と恐れのどん底にいた弟子たちが喜ぶことができたのは、復活したイエス様が現れて「平安があなたがたにあるように」と御声をかけてくださったからです。それはイエス様の恵み以外の何ものでもありません。イエス様は恐れと不安で何も見えなくなっていた彼らに「シャローム」と言われ、彼らの信仰を回復させてくださいました。同じように主は今も、この時の弟子たちのように不安と恐れに苛まれている私たちに現われてくださり、同じように御声をかけておられるのです。「シャローム」「平安があなたがたにあるように。」あなたが不安や悲しみでどんなに落ち込んでいても、主があなたの前に立っておられることを認め、そのみことばを聞くならば、あなたも弟子たちのようにそれを見て喜ぶことができます。いや、あなたが落ち込めば落ち込むほど、その喜びも大きくなるのです。

 

生涯現役の医師として活躍された日野原重明さんが、2017年に天国に召されました。たくさんの本を残されましたが、その一冊に学生時代の思い出について書かれたものがあります。

京都大学の医学部を受験した日野原さんは、合格発表を見に行くため、家を出ようとしていました。するとそこに友人から電話がかかってくるのです。彼は日野原さんの受験番号を知っていました。そして自分の合格を確認するだけではなく、ついでに日野原さんの合否を見に行ってみたというのです。その結果「番号はなかったよ」というのです。内心自信があった日野原さんは、本当にがっかりしました。誰も近づくことができない程に落ち込んだのですが、やがて大学から連絡が入りました。「合格しているのにどうして手続きに来ないのですか?」
どういうことか。実は当時の医学部受験には、二つのコースがあったのです。友人はそれを知らずに、もともと日野原さんが受けていない方のコースの合格掲示板を見て、早合点したのです。もう一つの方にはちゃんと受験番号がありました。それが分かったとき、喜びが爆発したそうです。がっかりした気持ちが深かった分、それをくつがえす事実に向き合ったとき、天にも昇るような気持ちだったと言います。

 

それは私たちも同じです。私たちも辛くて、悲しくて、不安で、落ち込むことがあります。でも落ち込めば落ち込むほど、その喜びも大きくなります。信仰によって復活の主イエスを見るとき、私たちの悲しみは喜びに変えられるからです。あなたはどうでしょうか。あなたの心は不安や悲しみでいっぱいになっていませんか。もしそうであるならば、復活されてあなたの前に立ち、「平安があるように」と言われる主の御声を聞いてください。死から復活して今も生きておられる主を信じ、主のみことばを聞くとき、あなたも喜びに満たされるようになるのです。

 

Ⅱ.わたしもあなたがたを遣わします(21-23)

 

次に、21~23節をご覧ください。「イエスは再び彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」

 

この喜びと平安によって眠っていた弟子たちの使命感が、はっきりと呼び覚まされます。それは、罪の赦しの宣言のために遣わされるということです。イエスは彼らにこう言われました。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」

イエス様はここで再び彼らに「平安があなたがたにあるように。」と言われました。どうしてでしょうか。このときの「平安があなたがたにあるように」ということばは、19節で言われたことと意味が違います。19節で言われた時は弟子たちの信仰を回復させ、恐れと不安の中にあった彼らに喜びをもたらすためでしたが、ここではそうではありません。別の目的で語られているのです。それは、彼らを福音宣教の使命に遣わすためでした。父なる神は、ご自身の権威をもって御子イエスを派遣されましたが、それと同じように、今度は主イエスの権威によって彼らが遣わされるのです。そのために必要だったことは何でしょうか。それは神との平安です。罪責感を負ったままでは、主の使命を果たすことはできません。ですからここで主は再び「平安があなたがたにあるように」と言われたのです。

 

そればかりではありません。イエス様はそのように言われると、彼らに息を吹きかけて言われました。「聖霊を受けなさい。あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」どういうことでしょうか。

これはペンテコステに起こった聖霊降臨のことではありません。この「息を吹きかける」という言葉は、創世記2章7節にもありますが、そこには、「神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。」とあります。ここには、土地のちりで形造られた人間に神が息を吹きかけることで、人は生きるものとなったとあります。この「息」という言葉と「霊」という言葉はヘブル語では同じ言葉(ヘルアッハ)が使われています。つまりイエス様が弟子たちに息を吹きかけたのは、そのことによって彼らが生きるものとなるためだったのです。そのことで弟子たちは、新しく生まれ変わったのです。ですからここで「聖霊を受けなさい」と言われているのです。聖霊を受けるとは、その人の罪が赦され、神のいのちが与えられるということです。つまり、この時キリストは彼らの罪を赦し、ご自身の聖なる霊を彼らに与えられたのです。これはイエスを信じるすべての人にされることです。神はイエスを信じるすべての人の罪を赦し、ご自分の聖なる御霊を与えてくださいます。それが「救われる」ということです。

 

そのことによって、私たちは神から与えられた使命を全うすることができます。その使命とは何でしょうか。罪の赦しの宣言です。23節にこうあります。「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」どういうことでしょうか。

もちろんこれは私たちがだれかの罪を赦したり、残したりする権威があるということではありません。罪を赦すことができるのは神だけです。私たちにはそのような権威はありません。しかし私たちにはその神が決定されたことを宣言する役割が与えられているのです。その権威が与えられているということです。聖霊を受け、主イエスが父なる神から権威が与えられたように、そのイエスの権威によって遣わされる者にも同じ権威、罪の赦す権威が与えられているのです。すごいですね。信じられないことですが、聖霊によって新しく生まれ変わった私たちには、そのような権威が与えられているのです。私たちもこの時の弟子たちのように不信仰な者で、罪深い者にすぎませんが、復活のイエス様を信じることでイエス様に息を吹きかけられ、聖霊によって新しく生まれ変わった者であることを覚え、この神の権威と聖霊の導きによって、きょうも周りの人々に神の愛と罪の赦しの福音を伝えていきたいと思うのです。

 

Ⅲ.キリストの復活がもたらしたもの

 

最後に、このキリストの復活がもたらしたものを考えてみたいと思います。このあと弟子たちはこの罪の赦しの宣言を伝えて行くことになります。その様子は使徒の働きを見るとわかりますが、彼らはいのちがけで伝えていきました。それで初代教会のクリスチャンたちは破竹の勢いで広がっていき、ついにはヨーロッパ大陸全土がキリストの福音に圧倒されていきます。いったいその原動力は何だったのでしょうか。それは、キリストの復活がもたらしたものです。キリストは私たちの罪を背負い十字架で死んで下さった後に、三日目に復活してくださいました。この復活によって死を滅ぼされたという歴史的事実が、彼らにそのような力を与えたのです。それが原動力となったのです。つまり、この復活の事実こそが、キリストが死から復活したということが迷信ではなく、実際にあった事実であったということを物語っているのです。

 

私は最近、「言霊信仰」に関する本を読みました。日本人は昔から起こって欲しくないことを言葉にして出すと、本当にそれが実現すると信じているところがあります。ですから、結婚式では「切れる」とか「別れる」とか「割れる」といったことばは禁句です。受験生がいる家では「すべる」とか「落ちる」がタブーですね。逆に、むかしから「勝つ」と「カツ」をかけて、勝負や試験の前に「豚カツ」を食べる験担ぎになっています。そんなのバカバカしいと思っている人でも、実は知らず知らずの間に使っているのです。たとえば、会合や宴会などを終えるとき「お開きにする」という言い方をしますが、本当は「おしまいにする」とか「会を閉める」なのです。でも、それでは縁起が悪いと考えて、あえて反対の「開く」という言い方をするようになり、それがすっかり定着するようになったのです。

こういう現象は日本社会では随所に見受けられます。しかしこれこそが日本の安全保障の障害になっているのではないか、と指摘する人もいるのです。起こって欲しくないことは考えないようにすることによって、万が一のことに備えることができなくなってしまうからです。

 

これは個人の人生についても言えることで、その代表が、死につながることをいっさい隠すということです。ですから病院では4号室や、4番ベッドはなく、飛行機には4番シートがありません。それは縁起の悪いものがあったら、本当に死んでしまうかもしれない、と恐れるからです。しかし4という数字をどんなに使わないようにしていても、死は必ずやって来るのです。必ずやって来るものについては、考えないようにするのではなく、そのためにしっかりと準備しておくことの方が賢明です。しかし、死に対する準備などできるのでしょうか。できます!

 

キリストは私たちの罪を背負って、十字架で死んで下さった後、三日目に復活することで、死を滅ぼしてくださいました。これは迷信でも何でもなく、この歴史の中で実際に起こった事実です。それは、私たちの罪が赦され、永遠のいのちを与えるために神が成してくださった神のみわざです。この神のみわざを受け入れる者、すなわち、この方を信じる者は罪が赦されて、死んでも生きる永遠のいのちが与えられるのです。

 

キリストはあなたのために死なれました。そして文字通りよみがえられました。あなたの前に立って「平安があなたがたにあるように」と言っておられます。どうぞ、この復活された主イエス・キリストを信じてください。そして、あなたの人生が天国に向かう喜びと平安なものになってほしいと思います。主はよみがえられました。復活の主の力と喜びがあなたにもありますように。「平安があなたがたにあるように。」

Ⅱサムエル記7章

今日は、Ⅱサムエル記7章からお話します。ここはとても重要な箇所です。というのは、ここには「ダビデ契約」について書かれてあるからです。旧約聖書には、罪によって失われた神の国を回復するために、キリスト、メシヤを送るということが予言されていますが、その中でも重要な予言が3つあります。一つはアブラハム契約と呼ばれるもので、これは創世記12章にありますが、アブラハムの子孫からキリストをこの世に送り、地上のすべての人を祝福するというものです。もう一つは、シナイ契約と呼ばれるもので、これはモーセの時代になってイスラエルが民族にまで成長したとき、主は彼らを律法によって聖別し、ご自身の民とすると約束してくださったものです。そしてもう一つがこのダビデ契約です。主はダビデと契約を結び、ダビデの家系から出るキリストによって、とこしえまでも続く神の国を立てると約束されました。7章13節に、「彼はわたしのために一つの家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」とあります。 きょうは、このダビデ契約からご一緒に学びたいと思います。

Ⅰ.預言者ナタン(1-7)

まず、1~7節までをご覧ください。3節までをお読みします。「王が自分の家に住んでいたときのことである。主は、周囲のすべての敵から彼を守り、安息を与えておられた。王は預言者ナタンに言った。「見なさい。この私が杉材の家に住んでいるのに、神の箱は天幕の中に宿っている。」ナタンは王に言った。「さあ、あなたの心にあることをみな行いなさい。主があなたとともにおられるのですから。」

ダビデは30歳で王となり、40年間イスラエルを治めました。ヘブロンで7年6カ月ユダを治め、エルサレムで33年間イスラエルとユダ全体を治めました。ダビデは王となるとエブス人を攻略してそこを攻め取り、それを「ダビデの町」と呼びました。これがエルサレムです。そして、そこを政治的、軍事的拠点としたのです。すると、ツロの王ヒラムがダビデのもとに使者と、杉材、木工、石工を送り、ダビデのために王宮を建てました。5章11節に記されてあります。万軍の主がダビデとともにおられたので、ダビデはますます大いなる者となりました。

そんなある日のことです。主が周囲のすべての敵から彼を守り、安息を与えてくださいましたが、彼は一つのことに気付きました。それは、自分は杉材の立派な家に住んでいるのに、神の箱は天幕に安置されたままになっているということです。確かに、天幕の内側は純金でできていて神の栄光に満ち溢れていましたが、外側はじゅごんの皮でできたみすぼらしいものでした。じゅごんというのは地中海に生息していたアザラシみたいな動物です。自分が住んでいる杉材の王宮と比べると、それはくらべものになりませんでした。

そこで彼は預言者ナタンに相談しました。「見なさい。この私が杉材の家に住んでいるのに、神の箱は天幕の中に宿っている。」(3)ナタンは宮廷に出入りする預言者でした。宮廷に出入りしていた預言者は、王の個人的な助言者でもありました。ナタンはダビデから相談されると、即座に答えて言いました。「さあ、あなたの心にあることをみな行いなさい。主があなたとともにおられるのですから。」

どうですか、何だか力が湧いてくるようなことばじゃないですか。「さあ、あなたの心にあることをみな行いなさい。主があなたとともにおられますから。」しかし、これは主のみこころにかなったものではありませんでした。あくまでもナタンの個人的な見解にすぎなかったのです。確かに、主がダビデとともにおられるというのは真理でしたが、ダビデが主のために家を建てるというのは間違いでした。彼はこれほど重要なことを、全く主に伺いも立てずに、個人的な判断で即答したのです。

それは、4~7節までのことばを見るとわかります。「その夜のことである。次のような種のことばがナタンにあった。『行って、わたしのしもべダビデに言え。『主はこう言われる。あなたがわたしのために、わたしの住む家を建てようというのか。わたしは、エジプトからイスラエルの子らを連れ上った日から今日まで、家に住んだことはなく、天幕、幕屋にいて、歩んできたのだ。わたしがイスラエルの子らのすべてと歩んだところどこででも、わたしが、わたしの民イスラエルを牧せよと命じたイスラエル部族の一つにでも、「なぜ、あなたがたはわたしのために杉材の家を建てなかったのか」と、一度でも言ったことがあっただろうか。』」(4-7)

「その夜」とは、ナタンがダビデに告げた日の夜のことです。主はナタンを通してダビデに言われたことは、主は、エジプトからイスラエルの民を連れ上った日から今日まで、家に住んだことはなく、幕屋にいて民を導いて来られたということ、そして、これまでどのイスラエルの部族にも、ご自身のために杉材の家を建てるように命じたことはなかったということです。つまり、ナタンが告げたことばは間違っていたということです。それは彼の思いにすぎず、主のみこころではなかったのです。

ナタンは預言者であり、とても善良で正しい人物でした。しかし、そのような人物でも自分の判断によってことばを発するなら、間違いを犯してしまうことがあります。善良で正しいだけでは人々を正しく導くことはできません。大切なのは主に祈り、主の導きを求めることです。これはナタンだけでなく、私たちに対する教訓でもあります。

Ⅱ.ダビデ契約(8-17)

次に、8~11節前半までをご覧ください。「今、わたしのしもべダビデにこう言え。『万軍の【主】はこう言われる。わたしはあなたを、羊の群れを追う牧場から取り、わが民イスラエルの君主とした。そして、あなたがどこに行っても、あなたとともにいて、あなたの前であなたのすべての敵を絶ち滅ぼした。わたしは地の大いなる者たちの名に等しい、大いなる名をあなたに与えてきた。わが民イスラエルのために、わたしは一つの場所を定め、民を住まわせてきた。それは、民がそこに住み、もはや恐れおののくことのないように、不正な者たちも、初めのころのように、重ねて民を苦しめることのないようにするためであった。それは、わたしが、わが民イスラエルの上にさばきつかさを任命して以来のことである。こうして、わたしはあなたにすべての敵からの安息を与えたのである。』

主は続いてこう言われました。「万軍の主はこう言われる。わたしはあなたを、羊の群れを追う牧場から取り、わが民イスラエルの君主とした。そして、あなたがどこに行っても、あなたとともにいて、あなたの前であなたのすべての敵を絶ち滅ぼした。」

どういうことでしょうか。主は一介の羊飼いにすぎなかったダビデを選び、イスラエルの王としたということです。そして、ダビデがどこに行っても、彼とともにいて、勝利を与えてくださいました。すべての敵を絶ち滅ぼしてくださったのです。そのようにして主は彼を、地の大いなる者たちの名に等しい名を与えてくださいました。

そればかりではありません。10節と11節前半には「わが民イスラエルのために、わたしは一つの場所を定め、民を住まわせてきた。それは、民がそこに住み、もはや恐れおののくことのないように、不正な者たちも、初めのころのように、重ねて民を苦しめることのないようにするためであった。それは、わたしが、わが民イスラエルの上にさばきつかさを任命して以来のことである。こうして、わたしはあなたにすべての敵からの安息を与えたのである。」とあります。

主はご自身の民のために一つの場所を定め、そこに住まわせてくださいました。どこですか?エルサレムです。ダビデの町エルサレム。それは彼らが敵の恐怖から守られ、安心して暮らすことができるようになるためです。士師の時代のように、周囲の敵に圧迫されて暮らすことがないようにするためです。

それはせかりではありません。ここで主はとても重要なことを告げられました。それが11節後半から17節までにあることです。「主はあなたに告げる。主があなたのために一つの家を造る、と。あなたの日数が満ち、あなたが先祖とともに眠りにつくとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子をあなたの後に起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。彼が不義を行ったときは、わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる。しかしわたしの恵みは、わたしが、あなたの前から取り除いたサウルからそれを取り去ったように、彼から取り去られることはない。あなたの家とあなたの王国は、あなたの前にとこしえまでも確かなものとなり、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。』」ナタンはこれらすべてのことばを、この幻のすべてを、そのままダビデに告げた。」

主はダビデのために一つの家を造る、と言われました。ダビデは主のために家(神殿)を建てようと考えていましたが、そうではなく、主がダビデのために一つの家を造られる、と言われたのです。それはどのような家でしょうか。それはとこしえまでも堅く立つ王国です。12~13節には、「あなたの日数が満ち、あなたが先祖とともに眠りにつくとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子をあなたの後に起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」

とあります。

それは、ダビデの身から出る世継ぎの子が、ダビデの死後に、彼の王国を確立させるということです。ダビデの世継ぎ子とはだれでしょう。そうです、ソロモンです。ソロモンが主の御名のために一つの家を建て、主は彼の王国をとこしえまでも堅く立てるのです。しかし、それはソロモンだけでなく、ダビデの子孫として生まれ、永遠の神の国を建てられるメシヤ、キリストのことを預言していました。それはここに「彼の王国をとこしえまでも堅く立てる」とあることからもわかります。このことは16節にもあります。そこにはこのことが2回も繰り返して言われています。それは、この約束がダビデの息子ソロモンを超えて、来るべきメシヤのことを指していたからです。

預言者イザヤは、この方について次のように預言しました。「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」(イザヤ9:6-7)イスラエルを治めるひとりの男の子が、ダビデの王座に着いて、その王国を治めますが、それは今より、とこしえまでです。それはやがて来られるメシヤ、救い主キリストのことだったのです。そして、この預言のとおり、主はこのダビデの家系から救い主を送ってくださいました。それが今から2000年前の最初のクリスマスです。主は、この王国を立てるために救いのみわざ、十字架と復活のみわざを成し遂げてくださいました。そして今、神の右に着座しておられます。そして神の家である教会のかしらとなってこの御国を治めておられます。そしてやがて主が再び地上に戻って来られるとき、この約束が完全に成就することになります。この方はダビデの座に着いて、とこしえに神の国を治めてくださるのです。

ところで、14節を見ると不思議なことが記されてあります。それは、「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。彼が不義を行ったときは、わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる。」ということです。これは父なる神と子なる神の麗しい親子関係が描かれています。しかし、もしこれがメシヤのことであるならば、彼が不義を行うなど考えられないことです。ましてや、神がむちをもって彼を懲らしめるなどあり得ません。勿論、これは第一義的にダビデの子ソロモンのことを指しているとすれば、ソロモンが罪を犯すことはあり得るし、その場合、神がソロモンを懲らしめることもあります。

ある人は、この「彼が不義(罪)を行ったとき」を「彼が罪を負うとき」のこと解釈し、これはイザヤ書53書にある、「彼は罪を負った」というメシヤの受難のことを指示していると考え、それで彼はむちを受けることをよしとされた、と言っています。

しかし、ここではそういうことではなく、ダビデの子ソロモンに焦点があてられていたため、ソロモンが罪を犯す可能性があったのでそのことが戒められているのです。ですから、並行箇所のⅠ歴代誌17章にはこのことに関する記述がないのです。ちょっと開いてみましょう。Ⅰ歴代誌17章10~15節です。ここには、Ⅱサムエル記に書いてあることとほとんど同じことが記されてあります。しかし、Ⅱサムエル記にあるこの記述が抜けているのです。どうしてか?Ⅱサムエル記7章ではダビデの直接の子であるソロモンに焦点を絞った内容になっているのに対して、このⅠ歴代誌17章は、メシヤであるイエスに焦点を絞った内容になっているからです。メシヤであるキリストが罪を犯すことなどあり得ないからです。

しかし、たとえソロモンが罪を犯すことがあっても、サウルのように恵みが取り去られることはありません。これはとこしえの契約だからです。そのことが15~16節でこのように言われています。「しかしわたしの恵みは、わたしが、あなたの前から取り除いたサウルからそれを取り去ったように、彼から取り去られることはない。あなたの家とあなたの王国は、あなたの前にとこしえまでも確かなものとなり、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。」(15-16)

すばらしい約束ですね。サウルからは恵みが取り去られましたが、ソロモンからは取り去られることはありません。確かにソロモンも罪を犯しました。サウルのように恵みが取り去られることはないのです。サウルとソロモンの罪を比較すると、サウルよりもソロモンの方がはるかに大きな罪を犯しました。サウルは、預言者サムエルに「待て」と言われたのに、民が自分から離れ去ってしまうのではないかと恐れて、サムエルが到着する前に、サムエルに代わって自分で主に全焼のいけにえをささげてしまいました(Ⅰサムエル13:8-9)。また、アマレクとの戦いにおいてこれを討ち、そのすべてのものを聖絶するようにと明治ら楡田にもかかわらず、肥えた羊とか牛とかのうち最も良いものを惜しんで聖絶しまぜんでした。ただ、つまらない値打ちのものないものだけを聖絶しました(15:7-9)。そのことをサムエルから指摘されると彼は、「いや、自分はちゃんと聖絶しましたよ」と答えるも、その後ろから「モー」と鳴く牛の声が聞こえるというありさまでした。でも、ソロモンの罪と比べたらかわいいものですよ。ソロモンは何をしたんですか?ソロモンは1000人の妻と多くのそばめを持ち、彼女たちが持ち込んだ偶像の神を拝んだのですから。それは赦されないことでしょう。もちろん、罪に大きいも小さいもありませんが、でも、サロモンが犯した罪はサウルのそれに比べたらはるかに大きなものでした。それなのに彼は、サウルのように王座を奪われることはありませんでした。なぜなら、これが永遠の契約に基づいていたからです。これが神の愛です。神の愛は無条件の愛なのです。私たちがどのようなものであるかは全く関係ありません。私たちがどんなに罪深い者であっても、神の御前にへりくだり、自分の罪を悔い改めて、神の救い、イエス・キリストを信じるなら、どんなものでも救われるのです。そして、どんなことがあっても見捨てることはありません。ヨハネ10:29で、イエスはこのように言われました。「だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。」(ヨハネ10:29)

私は、福島で牧会していたとき10年間刑務所の教誨師をしていました。教誨師というのは毎月1回刑務所に行き、聖書からイエス様についてお話するのですが、そこに出席している人はみんな乾いた砂が水を吸収するように話を聞きますか。そこで、あのミッションバラバのビデオを見せたことがありました。ミッションバラバというのは、元ヤクザが悔い改めてイエス様を信じ、親分はイエス様!と証しするようになった人たちです。

それを見た一人のヤクザが、「先生。自分もヤクザだけど、こいつらはちょっと甘いです」というのです。一度信じた親分を裏切るなんて中途半端なヤクザだ。俺はヤクザを続けながらイエス様を信じます。それでもいいですか?」と言われたのです。「ヤクザを続けながらイエス様を信じるというのは難しいんじゃないかと思い、「ちょっと難しいと思いますよ。イエス様を信じたら、ヤクザができなくなると思います。でも、やってみてください」と勧めたら、もう一人のヤクザとイエス様を信じたのです。

そして出所後、一人は神戸に、もう一人は群馬県高崎の家に戻ったのですが、一年前に連絡があり、久しぶりにこられたんですね。25年ぶりの再会でした。それはちょうどこの方の奥さんが癌で闘病していて、余命いくばくかというときでした。あの時のように「いつくしみ深き」を賛美して、聖書からお祈りをしました。もう涙、涙です。隣にティッシュを置いてその時間ずっと鼻をかんでいました。

それからひと月くらいして奥様がなくなるのですが、こんなメールをくれました。 「先生。今日、医師から時間の問題です、と言われました。俺みたいな渡世人が祈ってもイエスは聞く耳持たないと思いますので、先生、自分も妻を愛し、そしてイエスを愛しました。自分の祈りが届きますように、先生、祈ってください。お願いします。わが愛しい妻。そしてわが愛するイエス・キリスト。十字架の愛を心より永遠に。」

あれから1年近くになりますが、先週、また二人で来られたのです。また3人で讃美歌を歌い、聖書からお話をして、お祈りをしました。一緒に讃美歌を歌ったり、お祈りをしながら感じたことは、彼らがどういう人たちであろうとも、イエス様はこういう人たちを愛しておられるだろうなぁということです。というのは、Ⅰテモテ1章15節に「「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」とあるからです。イエス様は罪びとを救うために来られたのです。そして、この方を信じるなら永遠のいのちをいただき、どんなことがあっても最後までイエス様が守ってくださるということです。

私たちもこの無条件の愛を受けたのです。どんなことがあっても、キリストにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。私たちはこの神の愛によって、神の恵みを受けたのです。

Ⅲ.ダビデの感謝の祈り(18-29)

最後に18~29節までをご覧ください。まず21節までをお読みします。「ダビデ王は主の前に出て、座して言った。「神、主よ、私は何者でしょうか。私の家はいったい何なのでしょうか。あなたが私をここまで導いてくださったとは。神、主よ。このことがなお、あなたの御目には小さなことでしたのに、あなたはこのしもべの家にも、はるか先のことまで告げてくださいました。神、主よ、これが人に対するみおしえなのでしょうか。ダビデはこの上、何を加えて、あなたに申し上げることができるでしょうか。神である主よ、あなたはこのしもべをよくご存じです。あなたは、ご自分のみことばのゆえに、そしてみこころのままに、この大いなることのすべてを行い、あなたのしもべに知らせてくださいました。」

ダビデは、主のために神殿を建てたいと願っていましたが、主の答えは、ダビデが主のために家を建てるのではなく、主がダビデのために家を建てるということでした。主の約束を聞いたダビデは、主の御前に座して祈りました。

彼はまず、「神、主よ、私は何者でしょうか。私の家はいったい何なのでしょうか。あなたが私をここまで導いてくださったとは。神、主よ。このことがなお、あなたの御目には小さなことでしたのに、あなたはこのしもべの家にも、はるか先のことまで告げてくださいました。主よ、これが人に対するみおしえなのでしょうか。」と言っています。

ダビデは、取るに足りない小さな者を選び、ここまで導いてくださるとは何ということかと驚きを隠せません。その上、はるか先のことまで告げてくださいました。このはるか先のこととは、とこしえまでの約束、メシヤの約束、神の国の約束のことです。主はそのことまで告げてくださったのです。「主よ、これが人に対するみおしえなのでしょうか。」とは、「自分にはそのような祝福を受ける資格はない」という意味です。そして彼は、「この上、何を加えて、あなたに申し上げることができるでしょうか。」と言っています。非常に言葉巧みな人であったダビデが、今、言葉を失っているのです。人はあまりにもすばらしいことが行なわれたときに言葉を失いますが、そのような状態になっているのです。

これは私たちクリスチャンにも言えることです。エペソ人への手紙2章1~5節にはこう

あります。「さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。」

私たちは、罪過と罪との中に死んでいた者です。自分で自分のことがわからない、自分が何をしているのかさえもよく分かっていませんでした。まさに、マルコの福音書5章に出てくるあのゲラサ人の男のようでした。彼は悪霊につかれ、墓場に住み着いていて、夜も昼も墓場や山で叫び続けていました。石で自分のからだを傷つけていたのです。もはやだれも、鎖をもってしても押さえることができませんでした。

しかし、そんな者を神は愛してくださいました。そして、罪過と罪との中に死んでいた私たちを生かしてくださったのです。それはまさに神の愛によるものです。私たちが救われたのは、ただ神の恵みによるのです。

私たちももう一度、自分がどのようなところから救われたのかを思い起こしましょう。神はこのような者を選び、贖い、神の子としての特権を与えてくださったことを思う時、ダビデのような感謝が溢れてくるのではないでしょうか。

私の恩師の一人に尾山令仁という先生がおられますが、この方は94歳にして現役で牧師をしておられます。神学書など、信仰に関する書物を200冊以上書いておられる方で、日本を代表する神学者のおひとりです。創造主訳聖書も刊行されました。驚くべきことは、90歳近くになってから厚木での開拓伝道に出られたことです。今も現役の牧師として仕えておられるのです。

この尾山先生が昨年ユーチューブ配信を始められました。その名も「93歳るんるんおじいちゃんねる」です。日本最高齢のユーチューバーと言われています。それは、クリスチャンの街を作りたい、クリスチャンの学校もできる、クリスチャンの病院もできる。ありとあらゆるものが備わったそういう愛の共同体を作りたいというお考えからのようです。そういうものを作ることによって日本を変えていきたいと思っているのです。この尾山先生が動画の中でイエス様の十字架について語るとき、涙ぐむシーンがあるんですね。イエス様が十字架で死なれたのは私の罪のためだったんだと。尾山先生のすばらしはいところはここだと思うんですね。日本を代表する神学者であることは間違いないですが、その尾山先生が、イエス様はこんな汚れた者のために死んでくださったという感激がいつも心にあるのです。

奇しくも、今週は受難週です。イエス様が私たちのために十字架で死なれたことを思い、悔い改めと感謝をささげるときです。グッドフライデー。なにゆえ、死ぬことがグッドなのか。もともとは「ゴッズ・フライデー(God’s Friday)」とされていたのが次第に変化したのではないかという説や、グッドにはホーリー(holy=聖なる)の意味が含まれていることから、聖金曜日という意味でグッドフライデーと呼ばれるようになったのではないかともいわれています。しかし、そればかりでなく、イエス・キリストはすべての人々の罪を背負い、人々の身代わりとなって死を迎えたとされ、つまりこの金曜日は、救い主キリストが死によって人類への愛を示し、祝福を捧げた日でもあるとのこと。さらに死から3日目、キリストは『復活』することになりますが、これは、新しい生命の誕生を意味するものです。ですから、キリストが死を迎えた金曜日は、『復活』を導いた良き日と解釈されるとのことから、この日が悲しみの日ではなく『良い金曜日』と呼ばれるようになったのではないかともいわれています。

いずれにせよ、イエス様はこんなに罪深くちっぽけな者のために死んでくださったということを思うと、ここでダビデが言っているように、それは、本当に感謝ではないでしょうか。

それゆえ、ダビデの祈りは賛美に変わります。22~24節をご覧ください。「それゆえ、申し上げます。神、主よ、あなたは大いなる方です。まことに、私たちが耳にするすべてにおいて、あなたのような方はほかになく、あなたのほかに神はいません。また、地上のどの国民があなたの民イスラエルのようでしょうか。御使いたちが行って、その民を御民として贖い、御名を置き、大いなる恐るべきことをあなたの国のために、あなたの民の前で彼らのために行われました。あなたは、彼らをご自分のためにエジプトから、異邦の民とその神々から贖い出されたのです。そして、あなたの民イスラエルを、ご自分のために、とこしえまでもあなたの民として立てられました。主よ、あなたは彼らの神となられました。」

この賛美は圧倒的な力をもって私たちに迫ってきます。22節では、「主よ、あなたは大いなる方です。まことに、私たちが耳にするすべてにおいて、あなたのような方はほかになく、あなたのほかに神はいません。」と告白しています。ダビデは、主がこれまでにイスラエルにしてくださったことを思い起こし、イスラエルの神こそ比類なきお方であると告白し、その神をほめたたえたのです。

次に、ダビデは、神が地上の民族の中から特にイスラエルを選び、その民をエジプトから救い出し、その上にご自身の名を置かれたことを覚えて、その神を賛美しています(23)。そして、神がイスラエルを選ばれたのは、永遠に彼らを立て、彼らの神となるためであった、と言っています(24)。

それは私たちも同じです。私たちもまた、地上の諸民族の中から選ばれ、キリストを信じて神の民とされた者です。私たちはイエス・キリストを通してこのイスラエルの神を「天の父」と呼べるようになりました。このお方は、永遠に私たちの神なのです。何という恵みでしょうか。ダビデがこの神を心から賛美したように、私たちもイエス・キリストを通して、この神に感謝と賛美をささげようではありませんか。

最後に、25~29節をご覧ください。ダビデはこう言っています。「今、神である主よ。あなたが、このしもべとその家についてお語りになったことばを、とこしえまでも保ち、お語りになったとおりに行ってください。こうして、あなたの御名がとこしえまでも大いなるものとなり、『万軍の主はイスラエルを治める神』と言われますように。あなたのしもべダビデの家が御前に堅く立ちますように。イスラエルの神、万軍の主よ。あなたはこのしもべの耳を開き、『わたしがあなたのために一つの家を建てる』と言われました。それゆえ、このしもべは、この祈りをあなたに祈る勇気を得たのです。今、神、主よ、あなたこそ神です。あなたのおことばは、まことです。あなたはこのしもべに、この良いことを約束してくださいました。今、どうか、あなたのしもべの家を祝福して、御前にとこしえに続くようにしてください。神である主よ、あなたがお語りになったからです。あなたの祝福によって、あなたのしもべの家がとこしえに祝福されますように。」

ダビデは、イスラエルの神、万軍の主が、彼のために家を建てると約束されたことを思い起こし、それが成就するようにと祈っています。27節には、「それゆえ、このしもべは、あなたに祈る勇気を得たのです」と言っています。なにゆえ、ダビデは祈る勇気を得たのでしょうか。「それゆえ」です。27節の『』にある主のことばを受けてのことです。「わたしがあなたのために一つの家を建てる」と言われたからです。つまり、ダビデの祈りは、主のみことばと約束に基づくものだったのです。それが主の御前に祈る勇気となったのです。私たちも主のみことばの約束に基づいて祈らなければなりません。主のみことばは真実であり、必ず成就します。そう堅く信じて、神の祝福を大胆に祈り求めましょう。信仰による祈りには力があるのです。

Ⅱサムエル記8章

サムエル記第二8章から学びます。

 

Ⅰ.ペリシテとモアブを討ったダビデ(1-2)

 

まず、1~2節までをご覧ください。「その後のことである。ダビデはペリシテ人を討って、これを屈服させた。ダビデはメテグ・ハ・アンマをペリシテ人の手から奪い取った。

8:2 彼はモアブを討ち、彼らを地面に伏させ、測り縄で彼らを測った。縄二本で測った者を殺し、縄一本で測った者を生かしておいた。モアブはダビデのしもべとなり、貢ぎ物を納める者となった。」

 

「その後」とは、主がナタンを通してダビデに告げられた後のことです。主はダビデに、彼が主のために家を建てるのではなく、主が彼のために一つの家を建てると言われました。それは彼の身から出る世継ぎの子ソロモンを通して立てられる王国のことですが、そればかりではなく、ダビデの子孫から出るメシヤによって立てられる王国のことを指していました。それはイエス・キリストによって立てられる神の国のことです。主はダビデにダビデの子孫から出るメシヤによってその王国を立て、それをとこしえまでも堅く立てると約束されたのです。

 

その後、ダビデはペリシテ人を討って、これを屈服させました。ペリシテ人は長年にわたってイスラエルの脅威となっていましたが、ついにそのペリシテ人を打ち、彼らを屈服させたのです。「メテグ・ハ・アンマ」とは、ペリシテ人の主要都市のガテとそれに属する村落のことです(Ⅰ歴代誌18:1)。ガテはペリシテ人の五大都市の一つでしたが、そのガテを倒したということは、ペリシテ人全体を屈服させたということです。

 

次に、ダビデはモアブを討ちました。モアブはもともとダビデと友好関係にありました。サウルから追われ逃亡生活をしていたダビデは、自分の両親をモアブの王にゆだねたほどです(Ⅰサムエル記22:3~4)。そのモアブに対して、どうしてこのような殺戮を行ったのかはわかりません。もしかすると、彼らが何らかの謀反を起こしたのかもしれません。ユダヤ教の古代誌によると、モアブの王が、ダビデの父母を殺したからとありますが、その真意はわかりません。

 

このモアブを討ったとき、ダビデは彼らを地面に伏させ、測り縄で彼らを測り、縄二本で測った者を殺し、縄一本で測った者を生かしておきました。これはどういうことかというと、大きな体の者は殺し、そうでないものを生かしておいたということです。なぜこのようなことをしたのでしょうか。本来であれば、すべての者にきびしいさばきがあって当然なのに、小さな者に対してあわれみが示されたのでしょう。それは私たちも同じです。私たちも自分の罪のために神にさばかれて当然の者なのに、神はこんな者をあわれみ、慈しんでくださいました。私たちは、神の慈しみを受けた者として、その中にしっかりとどまっている者でありたいと思います。そうでないと、切り取られてしまうことになります。神の恵みを侮ることがないように注意しなければなりません。

 

Ⅱ.シリヤの連合軍を征服したダビデ(3-8)

 

次に、ダビデが討ったのはシリヤの連合軍です。3~8節までをご覧ください。「ツォバの王、レホブの子ハダドエゼルが、ユーフラテス川流域にその勢力を回復しようとして出て行ったとき、ダビデは彼を討った。ダビデは、彼から騎兵千七百、歩兵二万を取った。ダビデは、そのすべての戦車の馬の足の筋を切った。ただし、そのうち戦車百台分の馬は残した。 ダマスコのアラムがツォバの王ハダドエゼルを助けに来たが、ダビデはアラムの二万二千人を討った。ダビデはダマスコのアラムに守備隊を置いた。アラムはダビデのしもべとなり、貢ぎ物を納める者となった。【主】は、ダビデの行く先々で、彼に勝利を与えられた。ダビデは、ハダドエゼルの家来たちが持っていた金の丸い小盾を奪い取り、エルサレムに持ち帰った。またダビデ王は、ハダドエゼルの町ベタフとベロタイから、非常に多くの青銅を奪い取った。」

 

3節には、ツォバの王、レホブの子ハダドエゼルが、ユーフラテス川流域にその勢力を回復しようとして出て行ったとき、ダビデは彼を討った、とあります。巻末の地図5「サウル」、ダビデ、ソロモン治世下のイスラエル」を見ると「ツォバ」がどこにあるかがわかります。何とイスラエルの北にあるシリヤのはるか北に位置しています。実は「ツォバ」はアラム人の王国で、ユーフラテス川流域にまでその勢力を広げていました。そのツォバの王ハダドエゼルが一度失ったユーフラテス川流域にその勢力をもう一度回復しようとして出て行ったのです。そのときダビデは彼を討ちました。そんな遠くの国などどうでもいいのにと思うかもしれませんが、このことにも主の深い意味がありました。創世記15章18~21節までをご覧ください。

「その日、【主】はアブラムと契約を結んで言われた。「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。エジプトの川から、あの大河ユーフラテス川まで。ケニ人、ケナズ人、カデモニ人、ヒッタイト人、ペリジ人、レファイム人、アモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人の地を。」

つまり、これは、神がアブラハムに与えると約束された地であったのです。それがこの時に実現したのです。神が約束されたことは必ず実現します。神はこのように真実なお方なのです。

 

ダビデはハダドエゼルを討つと、彼から騎兵千七百、歩兵二万を捕虜として取りました。また、そのすべての戦車の馬の足の筋を切りました。ただし、そのうちの戦車百台分の馬は残しました。どうしてこのようなことをしたのでしょうか。馬に拠り頼むのではなく、主に拠り頼むためです。そのことが、次のところに記されてあります。

 

次に、ダビデが討ったのはダマスコのアラムでした。ダマスコのアラムとはシリヤのことです。彼はツォバの王ハダドエゼルがダビデによって打たれたと聞くと、彼を助けるために出て来たわけですが、ダビデはそのアラムの軍勢二万二千人を討ったのです。ダビデはダマスコのアラムを打つと、北方の守りを固めるために、そこに守備隊を置きました。かくして、ペリシテと並ぶ仇敵であったシリヤはダビデのしもべとなり、貢ぎ物を納める者となったのです。

 

いったいダビデはどうしてこんなに勝利を収めることができたのでしょうか。聖書はその理由を次のように述べています。6節後半です。「主は、ダビデの行く先々で、彼に勝利を与えられた。」主がダビデに勝利を与えられたのです。ダビデはそのことをよく知っていました。そのことのゆえに、ツォバの王ハダデエゼルを討ったときも、そのすべての戦車の馬の足の筋を切ったのです。ダビデは詩篇33篇16~18節でこう言っています。「王は軍勢の大きさでは救われない。勇者は力の大きさでは救い出されない。軍馬も勝利の頼みにはならず軍勢の大きさも救いにはならない。見よ【主】の目は主を恐れる者に注がれる。主の恵みを待ち望む者に。」

私たちはもう一度、私たちに勝利を与えてくださる方がだれであるかを覚えましょう。そして、私たちが計画している主のみわざも、すべてこの主の力によって成し遂げられることを覚え、主に信頼して祈る者でありたいと思います。

 

Ⅲ.行く先々で勝利したダビデ(9-18)

 

最後に、9~18節までをご覧ください。まず12節までをお読みします。「ハマテの王トイは、ダビデがハダドエゼルの全軍勢を打ち破ったことを聞いた。トイは、息子ヨラムをダビデ王のもとに遣わし、安否を尋ね、ダビデがハダドエゼルと戦ってこれを打ち破ったことについて、祝福のことばを述べた。ハダドエゼルがトイにしばしば戦いを挑んでいたからである。ヨラムは銀の器、金の器、青銅の器を携えていた。ダビデ王は、それらもまた、【主】のために聖別した。彼が征服したすべての国々から取って聖別した銀や金、すなわち、アラム、モアブ、アンモン人、ペリシテ人、アマレクから取った物、およびツォバの王、レホブの子ハダドエゼルからの分捕り物と同様にした。」

 

ハマテの王トイは、ダビデがハダドエゼルの全軍勢を打ち破ったことを聞くと、息子ヨラムをダビデ王のもとに遣わして、祝福のことばを述べました。ハマテはダマスコから北に約150㎞のところにある都市国家ですがハダドエゼルと敵対関係にあり、これまでしばしば戦いを挑まれていたからです。そのハダドエゼルが打ち破られたことを聞いたトイは喜び、ダビデに祝福のことばを述べただけでなく、銀の器、金の器、青銅の器を贈りました。ダビデは、それらの物を主のために聖別しました。「聖別」とは、主のものとすることです。最近、この聖別することについて考えさせられています。時間でも、お金でも、奉仕でも、すべては聖別することから始まります。主のために取っておくのです。礼拝が大切なのはどうしてかというと、自分を主のためにささげる時だからです。だからその時間はこの世との一切の関わりを断ち、主に向かうのです。これが聖別です。ダビデは、他の分捕り物と同様に、ハマテの王トイから贈られた物を、主のために聖別してささげました。かつてダビデは敵が残していった偶像を破壊したことがありましたが(5:21)、ここでは、それらを聖別して主にささげたのです。どういうことでしょうか。この世のものでも主のために用いられると言うことです。但し、偶像礼拝的な要素は退けなければなりません。それ以外のものは、たとえこの世の物であっても、主のために聖別して用いることができます。

 

さくらチャーチでは今度の日曜日に教会総会が行われます。今度の日曜日が、開所式をしてさくらでの働きを始めてちょうど5年になる記念日になります。そのとき、F兄御夫妻が娘のために買ったピアノが残っているので主にささげたいと献品してくれました。しかし、あれから5年間奏楽者がいなかったのでずっとヒムプレーヤーで賛美をささげていたのですが、音大でピアノ科を専攻されたクリスチャンの方が加えられ、そのピアノを礼拝で弾いてくださることになりました。最初は家にあるピアノですがという動機からでしたが、それが信仰によって聖別されたとき、主のために用いられることになったのです。

 

あなたはどうですか。キリストのからだを建て上げるために何をささげておられますか。まず自分自身を聖別し、自分に与えられた賜物を主にささげ、主の栄光のために用いていただこうではありませんか。

 

最後に13~18節までを見て終わります。「ダビデが塩の谷でアラム人一万八千人を討って帰って来たとき、彼は名をあげた。彼はエドムに守備隊を、エドム全土に守備隊を置いた。こうして、全エドムはダビデのしもべとなった。【主】は、ダビデの行く先々で、彼に勝利を与えられた。ダビデは全イスラエルを治めた。ダビデはその民のすべてにさばきと正義を行った。ツェルヤの子ヨアブは軍団長、アヒルデの子ヨシャファテは史官、アヒトブの子ツァドクとエブヤタルの子アヒメレクは祭司、セラヤは書記、 エホヤダの子ベナヤはクレタ人とペレテ人の上に立つ者、ダビデの息子たちは祭司であった。」

 

さらにダビデはエドム人一万八千人を討ち、エドム全土に守備隊を置きました。エドムは死海の南東、モアブの領地の下にある地です。ダビデは初め、南西のペリシテ人と戦って勝利すると、次に東方のモアブと戦い、一気に北上してシリヤの連合軍と戦い、そして今度は南下してエドム人と戦って勝利しました。彼は、このように、行く先々で勝利を収めました。彼がこのように勝利することができたのは、主がそのようにしてくださったからです。14節にはこうあります。「主は、ダビデの行く先々で、彼に勝利を与えられた。」ダビデは自分の背後には主がおられ、行く先々で勝利を与えてくださったことを認めていました。詩篇44篇3節には、「自分の剣によって彼らは地を得たのではなく自分の腕が彼らを救ったのでもありません。ただあなたの右の手あなたの御腕あなたの御顔の光がそうしたのです。あなたが彼らを愛されたからです。」とあります。彼は自分の剣によって地を得たのではなく、自分の腕で勝利したのでもない、ただ主の右の手が彼に勝利をもたらしてくれたと確信していました。

 

あなたは今どのような生活が与えられていますか。もし安定した生活、祝福された生活が与えられているのなら、それは主が与えてくださったものでることを認め、主に感謝し、主の御名をほめたたえるべきです。

 

また、ダビデが行く先々で勝利を収めることができたもう一つの理由は、彼がその民のすべてにさばきと正義を行っていたことにあります。15節には、「ダビデは全イスラエルを治めた。ダビデはその民のすべてにさばきと正義を行った。」とあります。国にとってもっとも大切なことは、正義です。経済力でも軍事力でもありません。「正義は国を高め、罪は国民をはずかしめる。」(箴言14:34)と箴言に書かれています。ダビデは、正義によって国を治めました。それは後に来られるメシヤのひな型でもありました。ダビデの子孫から出られるキリストは、正義によって国を治められるのです。  そして、ダビデが行く先々で勝利することができたもう一つの理由は、彼には有能な補佐官たちがいたことです。16節をご覧ください。「ツェルヤの子ヨアブは軍団長、アヒルデの子ヨシャパテは参議、アヒトブの子ツァドクとエブヤタルの子アヒメレクは祭司、セラヤは書記、エホヤダの子ベナヤはケレテ人とペレテ人の上に立つ者、ダビデの子らは祭司であった。」

私たちにもこのような補佐官、戦友、協力者が与えられていることを感謝します。それゆえ、共に主に信頼して、この世の敵である悪魔との戦いに出て行き、キリストに仕える者とさせていただきたいと思います。

伝道者の書11章1~10節「あなたのパンを水の上に投げよ」

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伝道者の書11章に入ります。今日のメッセージのタイトルは、「あなたのパンを水の上に投げよ」です。伝道者はこれまで繰り返し、私たちの人生はこれから後に起こるはわからないし、だれもそのことを告げることはできない、ということを語ってきました。それでは、その不確かな将来において私たちはどのようにあるべきなのでしょうか。今日のところで、伝道者はこのように勧めています。「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見出す。」(1)

 

Ⅰ.あなたのパンを水の上に投げよ(1-2)

 

まず、1節と2節をご覧ください。「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見出す。あなたの受ける分を七、八人に分けておけ。地上でどんなわざわいが起こるかをあなたは知らないのだから。」

 

「あなたのパンを水の上に投げよ」とても有名なことばです。皆さんも何回か耳にしたことがあるみことばではないでしょうか。でもこれがどういうことなのかを知っている方は少ないのではないかと思います。この「パンを水の上に投げる」とは、次の3つの解釈があります。その一つは、これを穀物の海上貿易のことだと理解し、海上貿易には多くのリスクが伴うが、そのリスクを恐れず投資するなら多くの利益をもって報われる、というものです。この場合パンは穀物のこと、あるいは自分の財のことであり、「投げる」とは貿易のことを指しているということになります。それを「水の上に投げよ」とあるので、海上での取引に投資することと解したのです。

英語訳聖書(TEV)では「あなたのお金を海上貿易に当てよ。そうすればいつの日か、多くの報いが与えられるであろう」と訳しています。この伝道者ソロモン自身、海上貿易で巨万の富を築いています(列王記上10:22-24)。船を危険な海に送り出して海上貿易を行うことは難破や海賊等の危険がありますが、成功すれば巨額の利益を得ることになります。

 

もう一つの解釈は、この「水」を洪水で氾濫した肥沃な土地とのことだと解釈し、そうした土地にパン、すなわち、穀物の種を蒔くなら、多くの収穫を期待できる、というものです。

 

そして、もう一つの解釈は、「パン」を比喩的に解釈し、物惜しみしないで多くの人々に情けを施すなら、必ずその報いを思いがけないところから受けるだろう、というものです。伝統的なユダヤ教のラビ(宗教指導者)たちはこのように受け止めています。彼らはこれを「不確かな将来の中で今できる善を為せ、そして報いを楽しみに待て」と意味だと理解しています。

 

日本を代表するクリスチャンの一人に内村鑑三という人がいますが、彼もこの考え方を支持しています。彼はその注解書の中で次のように言っています。「世に無益なることとて、パンを水の上に投げるが如きはない。水はただちにパンに沁み込みて、ひたされるパンの塊は直ちに水底に沈むのである。パンを人に与うるは良し、これを犬に投げるのも悪しからず、されどもこれを水の上に投げるに至っては無用の頂上である。しかるにコヘレトはこの無益のことを為せと人に告げ、己に諭したのである。汝のパンを水の上に投げよ、無効と知りつつ愛を行え、人に善を為してその結果を望むなかれ。物を施して感謝をさえ望むなかれ。ただ愛せよ、ただ施せよ、ただ善なれ、これ人生の至上善なり。最大幸福はここにありとコヘレトは言うたのである」(内村鑑三注解全集第五巻、p253)。

 

これらいずれの解釈においても言えることは、自分の手の中にある善いものを惜しみなく蒔くなら、必ずその報いを受けるようになる、ということです。その背景にあるのは、申命記15章10節のみことばです。ここには、「必ず彼に与えなさい。また、与えるとき物惜しみをしてはならない。このことのゆえに、あなたの神、主は、あなたのすべての働きと手のわざを祝福してくださるからである。」とあります。「彼」とは、「あなたの同胞」のことです。あなたの同胞の一人が貧しい者であるとき、その貧しい同胞に対して心を頑なにしてはならないのです。手を閉ざしてはなりません。必ずあなたの手を開き、その必要としているものを十分に貸し与えなければならない。なぜなら、このことのゆえに、主は、あなたのすべての働きと手のわざを祝福してくださるからです。

 

同じことが、ガラテヤ6章9~10節にもあります。「善を行うのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行いましょう。」

ですから、パンを水の上に投げるとはビジネスにとどまらず、貧しい人たちに分け与えたり、支援したりといった慈善事業においても言えることなのです。善を行うことに飽きず、失望しないで取り組むならば、やがて時が来て、その刈り取りをすることになるでしょう。これが神の国の原則です。

 

イエス様はルカの福音書6章31~35節で、このように言われました。「人からしてもらいたいと望むとおりに、人にしなさい。自分を愛してくれる者たちを愛したとしても、あなたがたにどんな恵みがあるでしょうか。罪人たちでも、自分を愛してくれる者たちを愛しています。自分に良いことをしてくれる者たちに良いことをしたとしても、あなたがたにどんな恵みがあるでしょうか。罪人たちでも同じことをしています。返してもらうつもりで人に貸したとしても、あなたがたにどんな恵みがあるでしょうか。罪人たちでも、同じだけ返してもらうつもりで、罪人たちに貸しています。しかし、あなたがたは自分の敵を愛しなさい。彼らに良くしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いは多く、あなたがたは、いと高き方の子どもになります。」

報酬や賞賛を求めずに善を行え、ということです。だれでも自分を愛してくれる人を愛することはできます。自分に善くしてくれる人に善いことをすることもできます。返してもらうことを当てにして貸すことはできます。しかしイエス様はそれでは不十分だと言われました。そういうことは、罪人でさえできます。自分の敵を愛すること、彼らに良くしてやり、返してもらうことを当てにしないで貸すこと、それがいと高き神の子とされた者にふさわしい態度であると言われたのです。「あなたのパンを思い切って水の上に流したらどうか」と。

 

これを文字通りに実行したのがマザーテレサです。彼女はこう言いました。「人はしばしば、不合理で、非論理的で、自己中心的です。それでも許しなさい。人にやさしくすると、人はあなたに何か隠された動機があるはずだ、と非難するかもしれません。それでも人にやさしくしなさい・・・正直で誠実であれば、人はあなたをだますかもしれません。それでも正直に誠実でいなさい・・・心を穏やかにし、幸福を見つけると、妬まれるかもしれません。それでも心穏やかでいなさい。今日善い行いをしても、次の日には忘れられるでしょう。それでも善を行い続けなさい。持っている一番いいものを分け与えても、決して十分ではないでしょう。それでも一番いいものを分け与えなさい」。私たちも今日、このような神の国の原則に生きるようにと招かれているのです。

 

このような神の国の原則は、福音宣教においても言えることです。神様はこう言われます。「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見出す。」と。すべてのクリスチャンはいのちのパンを持っています。それは、イエス・キリストです。イエス様は「わたしは、いのちのパンです。」と言われました。そのパンを水の上に投げなければなりません。それを人に分け与えなければならないのです。イエス様を信じればだれでも救われます。なぜなら、イエス様が私たちの罪の刑罰を身代わりに受けてくださったからです。ですから、イエス様を信じたらどんな人でも罪赦されて天国に行くことができるのです。イエス様はその鍵を私たちクリスチャンにゆだねてくださいました。それがいのちのパンです。ですから、このパンを持っている私たちは、これを持っていない人たちに分け与えなければなりません。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒16:31)

すばらしい知らせではありませんか。イエス様を信じればどんな人でも救われます。信じなければ地獄です。どんなに自分は道徳的に立派な人生を送っていると言う人でも、イエス様を信じなければ地獄なんです。どんなに頑張っても、その人は自分で自分の罪を清算することはできません。イエス様を信じなければ、どんなに立派な人でも地獄なのです。しかし、イエス様信じたらだれでも天国に行きます。どんなに悪い人でも救われるのです。ローマ人への手紙4章4~5節には、「働く者にとっては、報酬は恵みによるものではなく、当然支払われるべきものと見なされます。しかし、働きがない人であっても、不敬虔な者を義と認める方を信じる人には、その信仰が義と認められます。」とあります。敬虔な者を義と認めるというのではありません。不敬虔な者、何の働きもない者を義と認めてくださるのです。これが恵みです。敬虔な者を義と認めるのは当たり前でしょう。でもそうではなく、不敬虔な者を義としてくださるのです。不敬虔な者でもイエス様を信じるなら義と認められるのです。これが恵みなんです。恵みによる救いです。イエス様の贖いというのはそれほどすごいものなのです。そのいのちのパンを、イエス様を信じた私たちはみな持っています。このパンを投げなければなりません。

 

問題は、それを水の上に投げよと言われていることです。水の上に投げたらどうなりますか?そんなことをしたら、内村鑑三が言っているように、水はただちにパンに沁み込んで、水底に沈んでしまうか、水に流されてしまうことになります。しかし、これが伝道なんです。伝道というのは、水の上にパンを投げるようなものです。投げても、投げてもなかなか実が見えません。でも大切なことは、それを投げ続けることです。そうすれば、ずっと後の日になって、あなたはそれを見出すようになるからです。私たちは、これから後に何が起こるかわかりません。でもわかることは、もし水の上にパンを投げるなら、ずっと後の日になって、それを見出すようになるということです。

 

一年ほど前、MTCの奥山実先生が来会してメッセージをされました。それを聞いた時、神様がなさることって本当にすごいなぁと思わされました。その時、インドネシアのカリマンタン島で伝道された時のお話しをしてくださいました。そこは首狩り族で有名な地でしたが、福音を待っているという知らせを聞いた奥山先生は、もう一人の現地の牧師と一緒に島に入り、1カ月間一つ一つの村を訪問して伝道したところ、多くの人々がイエス様を信じました。しかし、それはある日突然にして起こったわけではありません。実はアメリカの改革派教会が100年も前から種を蒔き続けてきたのです。この島での伝道は困難を極めました。かつてこの島はボルネオ島と言いましたが、ここに遣わされた宣教師は本当に多くの犠牲を強いられました。ある宣教師の家族はご主人が天に召され、また別の家庭では奥さんが天に召され、ある家庭では子どもが3人同時に天に召されるということもありました。それでアメリカ改革派教会はこれ以上犠牲を出すわけにはいかないと、すべての宣教師とその家族をボルネオ島から引き揚げさせたのです。帰国した宣教師たちはアメリカの教会でそのことを証しすると、アメリカの若者たちが立ち上がりました。それでアメリカ改革派教会は、一度はボルネオでの伝道をあきらめたのですがもう一度始めることにしたのです。それが100年続いていたのです。ところがびくともしなかった。なぜなら、カリマンタンでは村長が信じないとだれも信じないからです。そのカリマンタンが総崩れしました。村長が信じ、村人皆信じました。

当時、インドネンアでは共産党員とイスラム教徒との間に激しい戦いが繰り広げられていましたが、イスラム教徒に追い詰められた共産党員がこのカリマンタンに逃げ込んだのです。すると、共産党員が首狩り族と同じ格好をしていたので、だれが首狩り族でだれが共産党員なのかわからなくなってしまったのです。それでイスラム教徒は首狩り族の村長に、何かしらの宗教を持たないと皆殺しにすると宣告したのです。当時、インドネシアの公認の宗教は5つあって、仏教、ヒンズー教、イスラム教、それにカトリックとプロテスタントでした。それで村長たちはどの宗教を選んだのかというとプロテスタントを選びました。なぜなら、彼らは100年もアメリカの宣教師を見てきたからです。そこに奥山先生ともう一人の牧師が入って福音を語ったので、多くの人たちが信じることができたのです。

ですから、その背景にはアメリカの改革派教会の宣教師たちの種まきがあったのです。彼らが犠牲を払いながらみことばの種を蒔き続けてくれました。それが実を結んだのです。

 

伝道は、まさにパンを水の上に投げるようなものです。徒労に感じてしまう事があります。しかし、それは決して空しく返ってくることはありません。なぜなら、福音の種にはいのちがあるからです。ずっと後の日になって、あなたはそれを見出すことになるでしょう。ですから、皆さん、みことばを宣べ伝えましょう。時が良くても悪くても、しっかりやりましょう。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また、勧めたいと思います。そうすれば、必ず、刈り取りをすることになります。これが神の国の原則です。

 

2節には、「あなたの受ける分を七、八人に分けておけ。地上でどんなわざわいが起こるかをあなたは知らないのだから。」とあります。どういうことでしょうか。これは1節と同じことですが、良いことではなく悪いことが起こったときのために備えておくことの大切さを教えています。

ルカによる福音書16章1~13節には、不正な管理人のたとえ話がありますが、彼はこのことを行いました。彼は主人の財産を無駄遣いしていました。そのことが主人にばれた時、解雇されることを悟り、果たしてどうしようかと考えた末、主人から債務のある人の額を半分にしてやったりしたのです。いわゆる恩を売ったんですね。どうしてそんなことをしたのかというと、たとえ管理人としての仕事がクビになっても、恩を売った人たちの中からだれかが自分を助けてくれるのではないかと思ったからです。

 

イエス様は、この不正な管理人をほめました。それは彼が抜け目なくやったからです。確かにやったことは悪いことでしたが、自分の状況を考え、自分の困難な将来を見据えて、何とか助かりたいと、知恵の限りを尽くし、必死に次々と手を打って備えをした、その賢さがほめられたのです。  それは霊的にも言えることです。私たちも、未来に備える必要があります。肉体が滅んだ後、永遠の天国に入るための用意が必要なのです。勿論、それは救い主を信じるということですけれども、そればかりでなく、神から与えられている様々なもの、たとえばそれがお金であったり、財産であったり、時間であったり、賜物、能力、人脈、所有物、そして福音を、預けてくださった神の良い管理者として、それらを抜け目なく、賢く用いなければならないのです。

 

Ⅱ.朝に種を蒔き、夕方にも手を休めてはならない(3-6)

 

次に、3節~6節をご覧ください。まず、3節と4節をお読みします。「濃い雲が雨で満ちると、それは地上に降り注ぐ。木が南風や北風で倒れると、その木は倒れた場所にそのまま横たわる。風を警戒している人は種を蒔かない。雨雲を見ている人は刈り入れをしない。」

 

雲が垂れこめると、雨が降ります。風が吹いて木が倒れると、そのままそこに横たわります。これはどういうことかというと、嵐が来るのではないかと思うとついつい躊躇したり、風が吹いて木が倒れそうになると、それがどの方向に倒れるのかと心配になって、結局、何もしないということです。風を警戒する人は種を蒔くことができません。雨雲を見ている人は刈り入れをすることができないのです。つまり、完璧な条件でなければ動かないという人は、結局何もしないで終わってしまうのです。その結果、作物を腐らせてしまうことになります。「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見出す。」と言われも、今はそういう余裕がないからもう少し余裕ができたらやりますとか、もう少し条件が整ったらやりますと言って、いつまでたってもできないのです。皆さんもこのような敬虔があるんじゃないですか。もっと良い時にと思っているうちに、何もできなかったということが。一番良い時、ベストな時はいつですか。「今」でしょ。たとえいろいろな心配事があっても、たとえある程度のリスクがあっても、この先何が起こるのかわからないし、私たちは先のことを予測すらできないのですから、何もしないで手をこまねいているのではなく、今それをしなければならない、というのです。

 

日本の教会開拓も同じですね。確かに日本の伝道は厳しいものがあるかもしれません。人はいない、建物はない、資金もありません。でもだからできないと考えるのではなく、確かに状況を見れば厳しいかもしれませんが、自分たちにできることは何かを考え、それを少しずつ行っていけばいいのです。なぜなら、神様のみこころは何ですか。神のみこころは一人も滅びることを願わず、すべての人が救われて真理を知るようになることだからです。そのために神様は教会を与えてくださったのです。そのことはエペソ人への手紙3章に書かれてあります。パウロはそれをキリストの奥義と言っていますが、「それは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人も共同の相続人となり、ともに同じからだに連なって、ともに約束にあずかる者になるということです。」(3:6)これが神の家族である教会のことです。このキリストにあって、建物全体が組み合わされて成長し、主にある聖なる宮となります。それは、このキリストの奥義がどのようなものなのかを、すべての人に明らかにするためでした。つまり、キリストのご計画とは、神の家族である教会を通して、この奥義、キリストの福音を宣べ伝えることだったのです。教会はそのために存在しているのです。であれば、私たちはこのキリストのご計画の実現のために何ができるのかを祈らなければなりません。「条件が整ったらやりましょう」というのでは、結局、何もできません。あるものまでも失うことになってしまいます。パウロは2テモテ4章2節で、「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。」と言っていますが、そうです、時が良くても悪くても、です。時が良くても、悪くても、みことばを宣べ伝えなければならないのです。

 

そのことが、5節と6節で説明されています。「あなたは妊婦の胎内の骨々のことと同様に、風の道がどのようなものかを知らない。そのように、あなたは一切を行われる神のみわざを知らない。朝にあなたの種を蒔け。夕方にも手を休めてはいけない。あなたは、あれかこれかどちらが成功するのか、あるいは両方とも同じようにうまくいくのかを知らないのだから。」

 

「あなたは妊婦の胎内の骨々のことと同様に、風の道がどのようなものかを知らない。」新共同訳聖書は、「骨々のことと同様」を、「骨の中に」と訳し、「風」を「霊」と解釈し、「あなたは、身ごもった女の胎の中で、どうして霊が骨の中に入るかを知らない」と訳していますが、言わんとしていることは同じです。つまり、私たち人間はすべてのことを知っているわけではない、ということです。妊婦の胎内で赤子の骨々がどのように組み合わされるか、その骨の中にどのように霊が入るのか知らないのです。そのように、私たちは神が行われる一切のみわざを知ることはできません。

 

であれば、どうすればよいのでしょうか。「朝にあなたの種を蒔け。夕方にも手を休めてはいけない。」将来どうなるかわからないのだから、最善の策は、自分にできるだけの努力をすることです。朝にあなたの種を蒔き、夕方にも手を休めてはいけないのです。なぜでしょうか?「あなたは、あれかこれか、どちらが成功するか、あるいは両方とも同じようにうまくいくかを知らないのだから。」どの仕事がうまくいくかわからないからです。あるいは、両方ともうまくいくかもしれません。伝道もこれと同じです。どの種から芽が出るのか、どの種が実を結ぶかなんてだれにもわかりません。人を見たり、状況を見て、自分で勝手に判断して、今はみことばの種を蒔くのをやめておこうとか、この人には親切にして、あの人には語ろうというのではなく、相手がだれであれ、状況がどうであれ、自分のベストを尽くしてみことばの種を蒔き続けなければなりません。だれが救われるのか、だれが実を結ぶようになるかなんてだれにもわからないからです。善を行うことも同じです。

 

Ⅲ.今の時を大切に(7-10)

 

最後に、7~10節を見て終わりたいと思います。「光は心地よく、日を見ることは目に快い。人は長い年月を生きるなら、ずっと楽しむがよい。だが、闇の日も多くあることを忘れてはならない。すべて、起こることは空しい。若い男よ、若いうちに楽しめ。若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたは、自分の思う道を、また自分の目の見るとおりに歩め。しかし、神がこれらすべてのことにおいて、あなたをさばきに連れて行くことを知っておけ。あなたの心から苛立ちを除け。あなたのからだから痛みを取り去れ。若さも青春も空しいからだ。」

 

1~6節で人生がいかに不確かなものであるか、だから、ただ手をこまねいているのではなく、朝にあなたの種を蒔き、夕方にも手を休めてはならないと、どんな時でも自分のベストを尽くすこと、最善を尽くすことが賢明であると説いた伝道者は、それゆえに今の時を大切にするようにと勧めています。

 

「光は心地よく、日を見ることは目に心地よい。人は長い年月を生きるなら、ずっと楽しむがよい。」光は喜びの象徴です(詩篇97:11)。その光の中を生きることができるのは何と幸いなことでしょうか。人生は楽しい!人生は喜びで満ちています。しかし、人生には闇の日も多くあることを忘れてはなりません。すべて、日の下で起こることは空しいのです。この「すべて、起こること」とは何でしょうか。一般にこれは死後のことを指すと考えられていますが、尾山令仁先生は、これをこの地上で起こるすべてのことと解釈し、「しかし、永遠の世界と比べたら、この地上のことは全くむなしいことを覚えておきなさい。」と訳しています(創造主訳聖書)。

 

ある人たちは、この「闇の日」と「すべて起こること」を、「老年の日々」を指すとして、老年には「闇の日」が待っているとして、これを病気、肉体の痛み、失望などの老人の運命だと考えています。そのように考える人たちは、「光」を青年期の象徴と解釈し、若いときは夢があり、活力があり、行動力がありますが、老年には闇の日が待っていて、病気や肉体の痛み、失望などがあって実に空しいと考えます。しかし、そうでしょうか。私はそう思いません。

ヨエル書2:28~29節にこうあるからです。「その後、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、老人は夢を見、青年は幻を見る。その日わたしは、男奴隷にも女奴隷にも、わたしの霊を注ぐ。」ここに「老人は夢を見る」とあります。これは、ペンテコステに聖霊が注がれることを預言したものですが、その日どんなことが起こるんですか。「あなたがたの息子や娘は預言し、老人は夢を見、青年は幻を見る。」神の聖霊が注がれるとき、老人は夢を見るのです。いつでも夢を、いつでも夢を♪♪です。

 

だから老年期は闇だと考えるのは間違っています。確かに若い時のように体は思うように動かないかもしれませんが、しかし、これまでの人生の中で培ってきたことを生かして最高の今を生きることができるのです。逆に、若いからいいというわけでもありません。昨年はコロナのこともあって若者の自殺者が急増しました。しかもそれらの多くは10代だと言われています。若ければ光かというとそうではなく、年を取れば闇かというとそうでもありません。主イエスを信じて永遠のいのちが与えられるなら、いつも光の中を生きることができます。人生は楽しい!のです。ここで伝道者が言わんとしていることは、この世に生かされている「今」を喜び楽しむようにということです。しかし、闇の日があることを忘れてはなりません。私たちの人生には痛みや悲しみ、苦しみの日があるということも覚えておかなければならないのです。

 

そのことを教えているのが9節と10節です。ここには、「若い男よ、若いうちに楽しめ。若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたは、自分の思う道を、また自分の目の見るとおりに歩め。しかし、神がこれらすべてのことにおいて、あなたをさばきに連れて行くことを知っておけ。あなたの心から苛立ちを除け。あなたのからだから痛みを取り去れ。若さも青春も空しいからだ。」とあります。

人生は、若いうちが花です。なんだ、やっぱり年を取ったら枯れるということじゃないですかと思うかもしれませんが、そういうことではありません。年をとっても大丈夫!いつでも夢を見ることができます。しかし、若くないと出来ないこともたくさんあります。年をとってからではできないこともある。だから若いうちに楽しむこと、若い日にあなたの心を喜ばせることが大切です。それは心の赴くままにということではありません。神様に祈り、神様の栄光のために、自分はこれがしたい、これをやってみたいというとこがあるならば、思い切ってチャレンジしてみるのがいい、思う存分やりなさいということです。多少羽目を外すようなことがあっても、行き過ぎるようなことがあっても、自分が思うようにやってみたらいいのです。親はそれを否定しない方がいい。あれもだめ、これもだめ、たぶんだめ、きっとだめ、というイメージを与えてしまうと、こどもは、人生はつまらないもの、窮屈で重苦しいものだという印象を持ってしまいます。でもこども時代は二度とやってきません。若い時も二度とやってこないのです。であれば、たとえ失敗することがあっても、人生を楽しむことが大切です。イエス様を信じて、イエス様のために生きることがどんなに楽しいことなのかを、親は見せてあげなければならないのです。

 

しかし、伝道者は釘をさすことを忘れていません。9節の終わりのところでこのように言っています。「しかし、神がこれらすべてのことにおいて、あなたをさばきに連れて行くことを知っておけ。」怖いですね。これじゃ、やりたくてもできません。若い男よ、若いうちに楽しめと言っておきながら、しかし、神がこれらすべてにおいて、あなたをさばきに連れて行くことを知っておけ。若気の至りということばがありますね。若いから何をやってもいいということでありません。人は種を蒔けば、それを刈り取るようになります。罪の結果、悲劇を招くようになるということをしっかり覚えておきなさい、というのです。そうですよね、その時は良いと思っても、後でそれが心の傷、体の傷になってしまうことがあります。年をとっても尾を引いてしまうことがあるのです。ここではそれを、神がこれらすべてのことにおいて、あなたをさばきに連れて行くことを知っておけ、ということばで警告しています。

 

それゆえ、結論は何かというと、10節です。「あなたの心から苛立ちを除け。あなたのからだから痛みを取り去れ。若さも青春も空しいからだ。」

どういうことでしょうか。あなたの心から心配事や悩みを取り除きなさい、ということです。若さも青春も空しいからです。若いから何をしても良いということではありません。人生は楽しいものですが、それによって痛みが伴ってしまうことがあります。そういうことで人生を台無しにしてはならないのです。あなたの人生から痛みや悩みを取り除き、真の喜びと自由を満喫しなければなりません。そのことをパウロは若き伝道者テモテに次のように書き送っています。「あなたは若いときの情欲を避け、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。」(2テモテ2:22)

また、同じ牧会書簡と呼ばれているテトスへの手紙の中で、若い人たちに向けてこのように勧めています。「同じように、若い人には、あらゆる点で思慮深くあるように勧めなさい。」(テトス2:6)若い人に求められていることはこの一つです。それは、「思慮深くあるように」。何をしても自由です。若いうちは思う存分楽しめばいい。あなたの心を喜ばせよ。しかし、神がこれらすべてのことにおいて、あなたをさばきに連れて行くことを忘れないように。だから、「思慮深くあるように」と。いったい思慮深くあるとはどのようなことなのでしょうか。伝道者は次の12章でそのことを述べますが、ここでちょっとだけ先取りして読んでみると、12章1節にこうあります。「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。」

 

「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。」これが私たちのすべてです。人生は誠に不確かなものです。一寸先は闇です。この先何が起こるのか誰にもわかりません。だからといって何もしないで手をこまねいているのではなく、あなたのパンを水の上に投げなければなりません。ずっと後の日になって、あなたはそれを見出すようになります。どんな時でも自分のベストを尽くさなければなりません。朝にあなたの種を蒔き、夕方にも手を休めてはならないのです。今、今という間に今は過ぎ去って行きます。それゆえ、今を大切に生きなければなりません。それは、あなたの創造者を覚えるということです。あなたが創造者であられる神を覚え、神に信頼し、へりくだって神の救いをいただき、神のみこころに歩むなら、人生は実に楽しいものです!特に、若いというのはすばらしいですね。未来があります。希望があります。でも年をとっても大丈夫です。イエス・キリストを信じるなら、義の太陽であられるキリストがあなたを照らしてくださいますから。その光に照らされて、輝いて生きることができます。そのような人からは闇も消え去ります。永遠のいのちをいただき、永遠に楽しむことができる。そのような人生を与えてくださった主に感謝します。そして、その主に信頼しつつ、私たちに与えられたいのちのパンを水の上に投げ続けたいと思います。

伝道者の書10章12~20節「わざわいな国と幸いな国」

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今日は、伝道者の書10章後半から学びます。この箇所も、前回に続いて、知恵を正しく用いることの大切さを教えています。

 

Ⅰ.愚か者の唇はその身を滅ぼす(12-15)

 

まず、12~15節をご覧ください。「知恵のある者が口にすることばは恵み深く、愚かな者の唇は自分自身を呑み込む。彼が口にすることばの始まりは、愚かなこと、彼の口の終わりは、悪しき狂気。愚か者はよくしゃべる。人はこれから起こることを知らない。これから後に起こることを、だれが彼に告げることができるだろうか。愚かな者の労苦は、自分自身を疲れさせる。彼は町に行く道さえ知らない。」

 

愚か者の定義は、10章前半でも見ました。たとえば、3節には「愚か者は、道を行くときにも思慮に欠け、自分が愚かであることを、皆に言いふらす。」とありました。「あの人は黙っていれば賢く見えるのに」と言うことがありますが、言わなくてもいいようなことを言ってみたり、やらなくてもいいようなことをやったりして、自分がいかに愚かな者であるかを、周り人に露呈するわけです。また、4節には「支配者があなたに向かって立腹しても、あなたはその場を離れてはならない。冷静でいれば、大きな罪は離れて行くから。」とありました。すぐにカッとなって怒りをぶちまけ、その場を立ち去ってしまいます。我慢することができません。

 

ここでも、そのことばについて言及されています。「知恵のある者が口にすることばは恵み深く、愚かな者の唇は自分自身を?み込む。彼が口にすることばの始まりは、愚かなこと、彼の口の終わりは、悪しき狂気。愚か者はよくしゃべる。人はこれから起こることを知らない。これから後に起こることを、だれが彼に告げることができるだろうか。」

その人が発することばを聞いていると、その人が知恵ある人なのか、愚かな人なのかがよくわかります。というのは、知恵ある者が語ることばは優しく人を生かしますが、愚かな者が語ることばは相手に不快感を与え、結局、自分自身を滅ぼしてしまうことになるからです。最初は単なる冗談のつもりで言ったことが、最後には悪い結果をもたらすのです。

 

その特徴は何かというと、よくしゃべるということです。永遠にしゃべり続けます。彼は黙っていることができません。黙るタイミングを知らないのです。その結果、しゃべらなくてもいいようなことをしゃべっては、墓穴を掘るようなことをしてしまいます。たとえば、自分の将来のことや、これから後に起こることを知ったかぶりしてしゃべるのです。これから後に起こること、これから先、自分の身にどんなことが起こるかなんてだれも知りません。それなのに、それを得意になってしゃべっているとしたら、それこそ自分がどれほど愚かな者であるのかを露呈しているようなものです。賢い人は、自分が無知であること、人間の知識には限界があることをよく心得て慎重に言葉を選んでしゃべりますが、愚かな人は自分の限界をわきまえずに多くのことを言って誇るのです。しかし、ことば数が多ければ失敗も多くなり、罪が露わになります。

 

このように言葉に関する言及は、箴言の中にもたくさん出てきます。たとえば、箴言15章4節には、「穏やかな舌はいのちの木。偽りの舌はたましいの破滅。」とあります。また、箴言16章24節にも、「親切なことばは蜂蜜、たましいに甘く、骨を健やかにする。」、27節には「よこしまな者は悪をたくらむ。その言うことは焼き尽くす火のようだ。」とあります。ヤコブの手紙にも、私たちの舌はわざわいであり、小さな火でも大きな森を燃やすように、人生の車輪を焼き尽くす、と言われています(ヤコブ3:5-6)。では何もしゃべらなければ良いのかというとそうでもありません。人間関係は心のキャッチボールですから、ことばのやり取りを通して良いコミュニケーションを図ることが求められます。問題は、どんな時に、どんな言葉を語るのかということです。ここには、知恵のある者が口にすることばは恵み深くとありますから、恵み深いことば、優しいことばをかけて、人の成長に役立つ言葉を語り、聴く人に恵みを与えなければなりません。

 

元医師で、「子どもの家福音寮」の寮長をしていた井上哲雄牧師は、あるとき男の子が廊下で立ち小便をしているのを見つけました。子どもはすぐにでも怒鳴られるのではないかとおどおどしていると、井上牧師は、「君はがまんできなかったんだね」と優しく言っただけで、何もとがめませんでした。

何年か過ぎ、成人したその少年は、「このときの寮長先生の思いやりの言葉が、今も忘れられない」と、しきりに感謝していました。

このことを聞いたカウンセラーの伊藤重平氏は、こう言っています。「がまんできなかったんだね」という言葉は、その行動を裁かず、ゆるす愛となる。

小さい親切、小さい愛の言葉が、地上を天国のように幸福にするのを手助けにする反面、偽りの舌、愚かなことばが、自分の人生ばかりか他人の人生さえも滅ぼしてしまうことになるのです。

 

15節には「愚かな者の労苦は、自分自身を疲れさせる。彼は町に行く道さえ知らない。」とあります。それはことばだけのことではありません。労苦にも言えることです。愚かな者の労苦は、自分自身を疲れさせます。彼は町に行く道さえ知らないのです。「町に行く」というのはもっとも単純な行為ですが、それさえも知らないため道に迷ってしまうのです。そのような者がこれから後に起こることを論じるなど論外でしょう。私たちはキリストを信じ、神にかたどり造られた新しい人を着た者として、悪いことばではなく、必要なときに、人の成長に役立つことばを語り、聞く人に恵みを与える者になりたいと思います。

 

Ⅱ.わざわいの国と幸いな国(16-17)

 

次に、16節と17節をご覧ください。「わざわいなことよ、あなたのような国は。王が若輩で、高官たちが朝から贅沢な食事をする国は。幸いなことよ、あなたのような国は。王が貴族の出であり、高官たちが、酔うためではなく力をつけるために、定まった時に食事をする国は。」

 

ここには「わざわいな国」と「幸いな国」が比較されています。どのような国がわざわいな国で、どのような国が幸いな国なのかということです。愚かさと幸いのレベルが個人から国家レベルで語られています。ここには「王」ということばがありますが、これは支配者に置き換えることができます。夫婦であれば夫であり、家庭であれば親ですし、会社であれば社長、教会であれば牧師、役員、国であれば為政者となります。それを治めている人たちのことです。その王が若輩で、高官たちが朝から贅沢な食事をしているような国は、わざわいです。この「若輩で」ということばは「子どもじみて」という意味です。リーダーが子どものように幼い国は、わざわいであるということです。なぜなら、そのような王は国を治め、導く力がないからです。高級官僚たちが仕事に就かず、朝から晩までパーティー三昧です。どんちゃん騒ぎをしています。本当は仕事の準備をしなければならないのに、仕事はそっちのけで快楽にふけっているのです。こういう人が国家元首だったらどうなるでしょうか?その国は混乱することになります。そういう人が会社の社長だったら、会社は潰れてしまうでしょう。そういう親だったら家庭は崩壊してしまうことになります。そういう牧師だったら、教会は混乱するでしょう。

 

それに対して、王がしっかりしている国は幸いです。その王は人格者であり、高貴な家の出であります。彼には知恵があり、高級官僚たちが食事をするのも遊びにふけったり酔っぱらったりするためではなく、しっかり仕事をするためです。力をつけるとはそういうことです。国を治める人が怠惰であれば、国家は傾き、わざわいを招くことになります。国家の栄子盛衰は、その国の指導者がどれほど神の前にへりくだり誠実であるか、つまり、知恵があるかにかかっているのです。

 

幸いにも、私たちの国、神の国を治めておられる王は完全な方です。その方は主イエス・キリストです。キリストはこの世界に王として来られました。この方が王となって治めておられる国に住むことができるのは本当に幸いなことです。使徒ヨハネは次のように証言しています。

「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。」(ヨハネ1:10-12)

ですから、私たちがイエス・キリストを、自分の人生の王として迎え入れる時、イエス・キリストは私たちの王となって働いてくださり、祝福に導いて下さるのです。イエス・キリストが治めてくださる国は幸いな国です。この国が傾いたり、わざわいを招くことは決してありません。王であられるキリストが完全に治め、導いてくださるからです。

第一に、キリストはご自身の民を正しい道に導いて下さいます。イザヤ30:21に「あなたが右に行くにも左に行くにも、うしろから「これが道だ。これに歩め」と言うことばを、あなたの耳は聞く。」とあります。キリストは王として私たちの人生の決断の時や、岐路に立つ時、必ず正しい道に導いてくださいます。

 

第二に、キリストはご自身の民を安全に守ってくださいます。2テサロニケ3:3には「しかし、主は真実な方です。あなたがたを強くし、悪い者から守ってくださいます。」とあります。私たちの人生は「一寸先は闇」と言われるように、何が起こるかわからない不確かさに満ちています。しかし、主はすべてを支配し守って下さいます。この王なるキリストに導かれる人は「一寸先は光」となるのです。

 

そして第三に、ご自身の民の必要をすべて満たしてくださいます。ピリピ4:19に「また、私の神は、キリスト・イエスの栄光のうちにあるご自分の豊かさにしたがって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」とあります。王の責任は、自分の民が豊かな生活をすることができるように心を配ることです。ですから、私たちがイエス・キリストを、自分の人生の主として迎え入れる時、イエス・キリストは私たちの人生で王として働いてくださり、祝福してくださるのです。

 

あなたはこの方を王として迎えておられますか。そして、恵みとまことに満ちた人生を送っておられるでしょうか。神の国の王であられるキリストによって支配された国、その民であることは、何と幸いなことでしょうか。

 

Ⅲ.自分の口に見張りを置く(18-20)

 

最後に、18~20節までを見て終わりたいと思います。「怠けていると天井が落ち、手をこ

まねいていると雨漏りがする。パンを作るのは笑うため。ぶどう酒は人生を楽しませる。金銭はすべての必要に応じる。心の中でさえ、王を呪ってはならない。寝室でも、富む者を呪ってはならない。なぜなら、空の鳥がその声を運び、翼のあるものがそのことを告げるからだ。」

 

怠けていると天上が落ち、手をこまねいていると雨漏れがするとは、16節で語られたことのたとえです。国のリーダーなり、組織のリーダーが、自らなすべきことをなさずにいると、その屋台骨まで揺らいでしまうことになるということです。怠けていると、天井が落ち、雨漏りすることになります。私たちが最初に購入した家は築30年の古い家でしたが、少しでも教会らしくしようと瓦の屋根でしたが塔を取り付けました。するとその塔と瓦屋根の隙間から雨が入り込み雨漏りしました。結局、開拓15年目の年に新会堂を建設しましたが、その際に撤去して雨漏りしないようにしました。それで新会堂を建築する際に業者の肩に一つだけお願いしたことは雨漏りだけはしない会堂を作ってください、ということでした。「大丈夫だから、雨漏りなんてしないから」と言ってくださったので安心していたら、半年も経たないうちに雨漏りがしたのです。どうも2階のベランダのシートの隙間から雨が浸みこんだようですが、それが会堂全体に回りいろいろな所から雨漏れしたのです。ここに怠けていると天井が落ちるとありますね。そのままにしておけばやがて天井が落ちてしまうことになりますから早急に業者にお願いして修理してもらいましたが、何度点検しても雨漏りが続いて大変だった苦い思い出があります。

 

しかし、これは建物が壊れるというだけでなく家庭や教会、社会、国が崩壊してしまうということです。自分の家、自分の国も、怠けているといつの間にか雨漏りすることになります。問題が起きてから手をこまねいていると、いつまでも手をつけないでその問題を棚上げにしていると、結局、すべてが崩壊していくことになります。

 

19節には、「パンを作るのは笑うため。ぶどう酒は人生を楽しませる。金銭はすべての必要に応じる。」とあります。パンを作るとは、料理教室のことではありません。和気あいあいとパン作りを楽しむということではないのです。食事を作ることです。食事は楽しいですよね。食事の場は笑いのためであり、ぶどう酒は人生に楽しみをもたらしてくれます。どちらかというと私は食事を楽しむというよりも、とにかく食べることしか考えられないため妻からいつも言われます。「もう少しゆっくり食べなさい。食事は楽しみながら食べるものよ」。

 

また、伝道者は「金銭はすべての必要に応じる」と言っています。これはどういうことかというと、「お金さえあれば何でも買える」ということです。これは正しいでしょうか?これは間違っています。確かにお金があれば食物やぶどう酒を買うことができます。また、私たちに必要なものも買えるでしょう。でも、金銭で買えないものもあります。たとえば、愛とか、喜びとか、平安とか、希望といったもの、何と言っても天国への切符を買うことはできません。お金では、真の幸福を買うことはできないのです。ですから、ここで伝道者が言いたかったことは、金銭によってほとんどのものを手に入れることができる、お金は必要のために用いられるということです。お金がすべてではありません。

 

20節をご覧ください。ここには、「心の中でさえ、王を呪ってはならない。寝室でも、富む者を呪ってはならない。なぜなら、空の鳥がその声を運び、翼のあるものがそのことを告げるからだ。」とあります。日本語のことわざにも、「壁に耳あり、障子に目あり」ということばがあります。まさに、そのような人の悪口とか噂話は、巡り巡って必ずその人に知られることになるのです。なぜ?なぜなら、空の鳥がその声を運び、翼のあるものがそのことを告げるからだ。おもしろいですね、鳥が運ぶのです。つまり、予期せぬ方法で、予期せぬ人物によって、そのことが伝えられることになるということです。ですから、たとえ王が未熟であっても、あるいは悪い者であっても、それを呪ってはいけません。「寝室でも」とは、家族や親友の前でさえ、という意味になります。まさか夫婦や家族のごく親しい人にだけ言ったことが外部に漏れることはないだろうと思いますが、空の鳥がその声を運び、翼のある者がそのことを告げるのです。つまり、自分の口に見張りを置く人こそ知恵のある人だというのです。

 

あなたはどうですか。自分の口に見張りを置き、神の御言葉でいのちを生かし、神の共同体のために知恵のある者となることを求めているでしょうか。人々にこぼしていた不平不満が神にささげる祈りと変えられるように求めていきたいと思います。

 

星野富弘さんの詩の中に、「花が上を向いて咲いている。私は上を向いてねている。あたりまえのことだけど、神様の深い愛を感じる」という詩があります(「風の旅」立風書房、p30)。

どんな草花も暗闇に向かって咲くことはありません。みな、光の方、天に向かって咲きます。冬がくれば枯れますが、春になるとまたいのちが芽吹きます。私たちにはさまざまな人生の冬がありますが、それは春になって芽吹くためです。光に向かって咲くためです。突然の出来事に、一時は火山が噴火したかのような驚きを感じることがありますが、そこにも神様の守りの御手があるのです。この神様としっかりつながっていること、祈りによって神に向かうこと、それこそが、人々にこぼしていた不平不満が、神にささげられる祈りへと変えられる秘訣です。

 

聖書には全部で31,173節ありますが、その真中の節は詩篇118篇8節です。そこにはこうあります。「主に身を避けることは、人に信頼するよりも良い。」人に信頼するよりも最初から神様のもとに行けということです。ちなみに、ギリシャ語の聖書の中で一番短い節はⅠテサロニケ5章17節です。そこにはこうあります。「絶えず祈りなさい。」人に信頼するのではなく神に信頼すること、その神に絶えず祈ること、それこそ自分の口に見張りを置き、神の御言葉でいのちを生かし、神の共同体のために知恵のある者となるための秘訣なのです。愚かな者にならないで、知恵のある者となるために神に向かい、神に祈りましょう。人に信頼するよりも神に信頼しましょう。それが、聖書が求めている知恵のある人なのです。

ヤコブの手紙1章19~25節「みことばを実行する人に」

きょうは、「みことばを実行する人に」というタイトルでお話します。22節には、「また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。」とあります。聖書のことばを聞くとき、そこには二種類の人がいます。すなわち、みことばを聞くだけの人と、みことばを実行する人です。ただ聞くだけの人は、自分の生まれつきの顔を鏡で見るような人です。自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。みことばもそれと同じで、みことばを聞いても、「ああいい話だった」とか、「為になった」で終わってしまうと、いつまでたってもみことばが身に着かず、従って、生活が変わることがありません。しかし、「みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます」とあるように、聖書のみことばは私たちの内側にある本質を明るみにし、それを本当に変えることができるのです。ですから、ただみことばを聞くだけでなく、それを実行することが大切です。きょうは、みことばを実行することについて三つのことをお話ししたいと思います。

 

Ⅰ.みことばを聞く(19-20)

 

まず19節と20節をご覧ください。ここには、「愛する兄弟たち。あなたがたはそのことを知っているのです。しかし、だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。人の怒りは、神の義を実現するものではありません。」とあります。

 

ヤコブはここで、「あなたがたはそのことを知っています。」と言っています。「そのこと」とは何のことでしょうか。ヤコブは前の箇所で、「父はみこころのままに、真理のみことばをもって私たちをお生みになりました。」と言っています。ですから、それは真理のことばによって新しく生まれたことを知っているということです。この手紙の受取人であったユダヤ人クリスチャンたちはそのことを知っていました。しかし、知っているだけではだめです。そのことを知っているならば、それを実際の生活の中に生かさなければ意味がありません。それが実際の行為となって具体的に現われることを求めなければならないのです。そのために必要なことは何でしょうか。

ヤコブは、そのためには、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい、と言っています。どうして聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなければならないのでしょうか。

 

当時ユダヤ教の教師は、学者の気質には四つの型があると考えていました。一つは、聞くには早く、忘れるに早い型です。この型は長所と短所が五分五分で、互いに打ち消し合うので結局何も残りません。もう一つの型は、聞くに遅く、忘れるのに遅い型です。この型は、短所が長所によってちょうど補うことができます。三つ目の型は、聞くに早く、忘れるのに遅い型です。この型の気質を持つ人は知者です。そして四つ目の型は、聞くに遅く、忘れるに早い型です。このタイプの人は、手に負えない型です。このことからもわかるように、知者とはどのような人かというと、聞くに早く、語るに遅い人です。

 

ラビ・シメオンは、こう言いました。「私は生まれてからこのかた知者たちに取り囲まれて育てられたが、人間にとって沈黙以上の良いものは見出されなかった。ことばを多くする者は誰でも罪を引き起こす者である。」

 

ですから、箴言には性急すぎることばへの警告に満ちているのです。

「ことば数が多い所には、そむきの罪がつきもの。自分のくちびるを制する者は思慮がある。」(箴言10:19)

「自分の口を見張る者は自分のいのちを守り、くちびるを大きく開く者には滅びが来る。」(箴言13:3)

「愚か者でも、黙っていれば、知恵のある者と思われ、そのくちびるを閉じていれば、悟りのある者と思われる。」(箴言17:28)

「軽率に話をする人を見ただろう。彼よりも愚かな者のほうが、まだ望みがある。」(箴言29:20)

 

E・B・ホルトは、「本当によい人間は、自分自身の意見を傲慢にくどくどとかん高くわめき散らすよりは、神のことばに耳を傾けることに熱心な人である。」と言っています。

 

私たちは真理のことばをもって新しく生まれさせていただいた者です。であれば、その真理のみことばを聞くことが必要なのです。なぜなら、信仰は聞くことから始まるからです。そして、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。そのみことばをよく聞かなければなりません。みことばを聞かない人は、語ることにおいて、また、怒ることにおいても必ず失敗することになります。知性と感情が神のみことばによって支配されていなければ、すぐに思いついたことを口走ってみたり、感情を露わにして、神の御名と主にある兄弟姉妹を傷つけてしまうことになってしまうからです。

 

ヤコブはここで聞くには早く、語るにはおそくというだけでなく、怒るにはおそいようにしなさいと言っているのはそのためです。なぜここで怒るにはおそくあるべきだと忠告しているのかというと、人の怒りは、神の義を実現するものではないからです。怒りそのものは神が与えてくださったもので悪いものではありませんが、それが神のことばによってしっかりと統制(支配)されていないと、短気で自己中心的ないらだちの弁解でしかなくなり、逆に害を与えてしまうことにもなりかねません。ですから、神のことばをよく聞いて、語るのにおそく、怒るのにおそいようにしなければならないのです。

 

アテネの哲学者デモナクス(80頃ー180頃)は、人間はいかにして最善の支配ができるかと尋ねられた時、「怒ることなく、語ること少なく、聞くこと多く」と答えました。自分のことを語ることを少なくし、神のことばを聞くことを多くすることが、自分を最善に保つ秘訣であるというのです。ある人は人間には二つの耳と一つの口が与えられているのには意味があると言いました。それはしゃべることを抑えて、より多くのことを聞くためだ・・・と。私たちは、時にはストップウオッチを使って自分のおしゃべりの長さを計る必要があるのかもしれません。それよりももっと神のみことばを聞き、人の話に耳を傾けなければなりません。

 

Ⅱ.みことばを受け入れる(21)

 

第二のことは、みことばを受け入れることです。21節をご覧ください。

「ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。」

 

私たちのたましいを救い、私たちを変える真理のことばをどんなに聞いても聞くだけでは意味がありません。その聞いたみことばを実行しなければならないからです。そのためには、心に植え付けられたみことばを、素直に受け入れなければなりません。

 

イエス様は、種まきのたとえの中でみことばを受け入れる四種類の人の心を話されました。まず、道ばたです。道ばたに落ちた種はどうなったかというと、鳥が来て食べてしまいました。このタイプの人はみことばを聞いても全く無関心なので、せっかくみことばを聞いてもすぐに奪われてしまいます。

次に、岩地です。岩地に蒔かれた種はどうなったでしょうか。岩地に蒔かれた種は、土が深くなかったので、すぐに芽を出しましたが、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまいました。このタイプの人は、みことばを聞くとすぐに喜んで受け入れるので芽を出しますが、しばらの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。

次は、いばらです。いばらの中に落ちた種は、いばらが伸びて、ふさいでしまったので、伸びることができませんでした。このタイプの人は、みことばを聞きますが、この世の心づかいと富の惑わしがみことばをふさぐため、実を結ぶことができません。

しかし、良い地に落ちた種は違います。良い地に落ちた種は、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍の実を結びます。このタイプの人は、みことばを聞いて悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのです。

 

つまり、どのように聞くかが重要であるということです。ですから、イエスさまは、「耳のある者は聞きなさい。」(マタイ13:9)と言われたのです。耳のある者は聞きなさいって、みんな耳を持っているんじゃないですか。それなのに、耳のある者は聞きなさいとはどういうことですか。それは、聞き方に注意しなさいということです。というのは、確かに聞いてはいても悟らず、見てはいてもわからず、触れてはいても感じない人がいるからです。その心は鈍く、その耳は遠く、その目はつぶっているということがあるからです。だから、どのように聞くかはとても重要なことなのです。

 

ここでヤコブは、「すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植え付けられたみことばを、すなおに受け入れなさい。」と言っています。どのようにみことばを聞かなければならないのでしょうか。どのようにみことばを受け入れなければならないのでしょうか。まず、すべての汚れやあふれる悪を捨てには「脱ぎ捨てる」と訳されているように、古い汚れた衣服を脱ぎ捨てる様を表しています。つまり、ヤコブはここで汚れた服を脱ぐように、また蛇が脱皮するようにすべての汚れを脱ぎ捨てるようにと命じているのです。

 

ところで、この「汚れ」ということば(ギルパリア)ですが、これはギルポスということばが語源になっていて、これが医学的な意味で用いられる時には、耳垢を意味していました。つまりヤコブは、真理のことばに耳を傾けさせることの妨げになっている一切のものを取り去れ、といっているのです。耳の中に耳垢がたまると人の耳が聞こえなくなるように、人間の罪も神に対してその耳を閉ざすことになります。

 

また「悪」については、「あふれる悪」と言われています。それは伐採しなければならないほど無闇に茂ったやぶのことを指しています。そのように悪が心にあふれていると神のことばが届かなくなります。ですから、そのようなあふれた悪を伐採しなければなりません。そのようにして、神のことばが心に植え付けられるのです。

 

そのようにしてすべての汚れを脱ぎ捨て、あふれる悪を切り取ったならば、次にしなければならないことは、心に植え付けられたみことばを、すなおに受け入れるということです。すなおに受け入れるとはどういうことでしょうか。「すなお」と訳されたことばは「プラウテス」ということばですが、これは憤慨しないでとか、怒ることをせずに、謙遜に、穏やかに聞く姿勢のことです。たとえば、私たちが主から「~こうしなさい」と示された時、どのように反応するでしょうか。「なるほど、やっぱり聖書は神のことばだな。知恵に満ちている。そのようにしてください」と反応するときもありますが、時には、「いや、そんなことをしたら、周囲との関係がうまくいかなくなるし、変に思われる」「そのようなことになったら自分の立場が不利になるし、都合悪い」「それはあまりにも犠牲が大き過ぎる。そんなに時間と労力がとられるのは困る」といった思いを持つことがあるのではないでしょうか。中には、「冗談じゃない。そんなことできるはずがないじゃないか・・」と怒りを覚えることもあるかもしれません。しかし、そのように怒ったり、憤慨するのではなく、示されてことに対して淡々と従うこと、それがこのことばが意味している姿勢です。

 

Ⅰペテロ2章2節には、「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」とあります。ですから、それは生まれたばかりの乳飲み子が乳を慕い求めるように、純粋なみことばの乳を慕い求めることなのです。なぜなら、神のみことばは大いなる力をもって私たちを新しく生まれさせ、神のみこころにかなった者へと成長させることができるからです。

 

Ⅲ.みことばを実行する(22-25)

 

第三のことは、みことばを実行することです。22節から27節までをご覧ください。まず22節から24節までをお読みします。

「また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。みことばを聞いても行なわない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。」

 

神のみことばを聞き、それを心に受け入れることは大切なことです。しかし、もっと大切なことは、その聞いたみことばを実行することです。イエス様もこのように言われました。

「わたしに向かって、『主よ、主よ』という者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」(マタイ7:21)

 

ですから、これはヤコブの教えというよりもイエス様ご自身の教えでもあるのです。教会の礼拝で語られる聖書のことばを聞くだけでは十分ではありません。また聖書のことばを勤勉に学ぶだけでも十分ではありません。その聞いたことや学んだことを実際の生活の中で実行しなければ何の意味もないのです。そのような信仰についてヤコブは、具体的な例として2章で取り上げていますが、それは自分を欺くことになるのです。というのは、神様から「・・しなさい」と聞いても、いろいろな理屈をこねて、従わないで自分を正当化するからです。たとえば、「私は年をとっていますから、できなくてもしかたがないのです」とか、「私はまだ子どもだから、それは無理です」とか、「私は献身者ではないので、そこまでしなくてもいいでしょう」等々、言い訳をします。そのように、自分に思い込ませるわけです。それは自分を欺くことです。ですから、真理のみことばに対して、上手に理屈をこねて言い訳せずに、みことばを実行しなければなりません。

 

ヤコブはここで、みことばを聞いても実行しない人を、生まれつきの顔を鏡で見る人のようだと言っています。しばらく間自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのような顔であったのかを忘れてしまうので、身だしなみを整えることをしないのです。当時の鏡はガラスではなく、高度に磨き上げた金属でできていました。その人は自分の顔を見苦しくしている汚れや髪の毛がもつれているのを見ますが、鏡の前を立ち去ると、「あれっ、自分の顔がどんなふうだったかな」と忘れてしまい、身だしなみを整えるのを省いてしまうのです。せっかく鏡を見ても、身だしなみを整えるのでなければ全く意味がありません。

 

この場合の生まれつきの顔とは、自分の心のことを表わしています。また、鏡は聖書のみことばのことです。聖書は、私たちの心をありのままに照らす鏡なのです。真実のことばを聞くことによって、私たちは現在の自分とあるべき自分の姿を明確に知ることができます。しかし、どんなにそれを知ったとしても、それを直さなければ何の意味もありません。それと同じように、どんなにみことばによって心が照らされて、あるべき真の姿が示されても、それを実行しなければ全く意味がないのです。

 

現代の医学で言えば、それはCTスキャンとかレントゲンにたとえることができるかと思います。それによって病状がわかったら、手術をするなり、何らかの処置をしてもらわなければなりませんが、ただ病状を聞いて、「そうですか、ありがとうございました。」と言って、立ち去ってしまうとしたら、何の意味もありません。それを撮るのは自分の病状を映し出してもらうことで、どこに問題があるのかを知り、正しく処置をしてもらうためなのです。しかし、そのように映し出してもらうだけで、鏡を見るだけでイエス様のもとを立ち去る人が多いことでしょう。

 

私は高校時代、半年の間寿司屋でアルバイトをしたことがあります。お金を貯めてアメリカへ行こうとしたのですが、結局お金がたまらず行けませんでした。寿司屋でアルバイトといっても、初めは何をしたらよいか、全くわかりませんでした。それでその店のマスターがいろいろ教えてくれました。どんなに教えてもらっても、最初のうちは、それを頭の中で思い出してやっていたので、時々忘れることがありましたが、毎日やっているうちに、いつの間にか身についていきました。からだで覚えたのです。そして、もう忘れるということはありませんでした。

みことばも同じです。日々実行しているなら、身についていきます。聖書のどの箇所に書かれていたかは覚えていないかもしれませんが、からだで覚えているのです。そして、この場合、忘れることはありません。みことばを覚えているというのは、記憶だけの問題ではないのです。みことばを実行するなら、身についていきます。そして、その生活が変えられていくのです。それで、忘れることはありません。逆に、実行しなければ、決して身につくことがなく、生活も変わりません。それで、忘れていくのです。その結果、神様からの祝福も失ってしまうのです。ですから、聖書は、みことばを実行する人になりなさい、と言っているのです。

 

では、どうしたらみことばを実行することができるのでしょうか。25節をご覧ください。ここには、「ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行ないによって祝福されます。」とあります。

 

聞いたみことばを「よし、それじゃ実行するぞ!」と、自分の力や意志で行おうとしても、それは無理なことです。私たちのたましいは罪の力に縛られているので、自分の力ではどうすることもできないからです。しかしここには、「完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。」とあります。「完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめる人は、事を、みことばを、実行する人になれるのです。では、完全な律法とか、自由の律法とは、何でしょうか。

 

神は、イスラエルを神の民として選び、一方的な恵みの契約を結び、イスラエルの民に救いの恵みに対する応答として律法を与えられました。その律法は、神を愛し、隣人を愛することを命じるものでしたが、イスラエルの民は、その神の律法を守ることができず、契約の民として失格したのでした。律法は完全なものですが、不完全な人間はどうしてもそれを行うことなどできなかったからです。律法というのは、ヤコブ2章10節にあるように、律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となるからです。律法のすべてを完全に行うことができる者などだれもいないのです。よって、すべての人が罪びとであり、だれもこの律法を守り行うことができる者などいません。それなのに、その律法が自由を与えるものであるというのは、それが文字による規則や決まりではなく、エレミヤが言っているように、主が人の中に置き、その人の心に書き記されたものだからです。エレミヤ31章33節にはこう書かれてあります。

「彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。主の御告げ。わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれをかきしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」

 

この新しい契約は、旧約の律法のように外側から守るように呼びかけられるようなものではなく、その人の心に書き記されるものです。それは神がひとり子イエス・キリストをこの世にお遣わしになり、このお方の十字架と復活を通して罪の贖いを通して、この方を信じるすべての人に罪の赦しと永遠のいのちを与えてくださるというものでした。この方によって私たちは罪の支配から解放され、御霊の力によって神と人とを愛することができるようにされたのです。つまり、この「完全な律法、すなわち自由の律法」とは、イエス・キリストとイエス・キリストの福音のことなのです。

 

それはイエス様のことばからもわかります。イエス様は、ヨハネの福音書8章31節でこう言われました。

「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」

何があなたを自由にするのでしょうか。真理です。真理はあなたがたを自由にします。その真理こそイエス・キリストご自身なのです。イエスは、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(ヨハネ14:6)とも言われました。

 

ですから、イエス様が私たちを自由にしてくださいます。私たちは自分のちからで罪に打ち勝とうとしてもできません。みことばを実行しようとしても、私たちにある罪の力や肉の力が強力で、実行できないのです。しかし、真理はあなたがたを自由にします。イエス様はそんな弱い私たちを助け、自由にしてくださるのです。

 

ですから、私たちに必要なのは、このイエス様と一つになることです。歯を食いしばって、自分で何とかやってやろう、と言うことではなく、イエス様に信頼することなのです。このイエスに信頼して、その交わりの中にとどまることなのです。

 

イエス様はそのことを、ぶどうの木のたとえを通して教えられました。

「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」

(ヨハネ15:5)

 

皆さんは多くの実を結びたいですか。そうであるなら、イエス様にとどまってください。枝が木についていなければ、枝だけで実を結ぶことはできません。だけど、木についている枝は実を結びます。つまり、イエス様にとどまっていることが、多くの実を結ぶ秘訣なのです。キリストが私たちに、みことばを実行したいという願いを持たせて、それを実行させてくださると信じて歩むなら、キリストが実行させてくださり、私たちは多くの実を結ぶことができるのです。

 

ですから、みことばを実行する秘訣は、いつもイエス様と一体であることを覚えて、イエス様を信頼して歩むことです。それが自由の律法を一心に見つめて離さないということです。そういう人は、みことばを実行する人になります。そして、その行いによって祝福されるのです。

 

あなたはどうですか。みことばを聞いていますか。みことばを聞いて、それを心に留めておられますか。また、みことばを実行しているでしょうか。そのためにもどうぞイエス様から目を離さないでください。イエス様を信じて、このイエスのうちにしっかりと留まってください。そうすれば、あなたもみことばを実行する人になり、その行いによって祝福される人になるのです。

伝道者の書10章1~11節「知恵は人を成功させる」

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伝道者の書10章に入ります。8章1節に「知恵のある者とされるにふさわしいのはだれか。物事の解釈を知っているのはだれか。」とありますが、伝道者ソロモンは、どのような人が知恵のある人なのかを、そうでない者、すなわち愚かな者との対比によって語ってきました。日の下で行われる一切のわざを見る限り、そこに見られる様々な不条理に、食べて飲んで楽しむよりほかに人にとって何の幸いもないのではないかと思える中で、彼は、すべてが神のみわざであることに気付かされます(8:17)。それがどういうことなのか、人がどんなに労苦して探し求めても、見極めることはできません。けれども、すべてが神のみわざなのです。そのことに気付くのです。

 

しかし、すべての人に同じ結末が起こるのを見ると、同じ結末というのは死ぬということですが、やはり生きていることにどんな意味があるのだろうかと疑問を抱きます(9:2)。けれども、生きていること自体に意味があります。生きている犬は死んだ獅子にまさる(9:4)。生きているからこそ悔い改めて、神に立ち返ることができます。イエス・キリストを救い主として信じることができます。そして、神の恵みの中で、神が与えてくださる一つ一つの恵みに感謝して生きることができるわけです。死んでしまったらそれも叶いません。

 

ですから、確かにこの地上の営みを見ると、そこにある様々な不条理に空しさを感じることもありますが、神の知恵は力にまさるのです。知恵のある者の静かなことばは、愚かな者の間での支配者の叫びよりもよく聞かれます。一方、知恵がないとすべてをぶち壊してしまうことになります。今日は、その続きです。知恵は人を成功させるということです。

 

Ⅰ.少しの愚かさはすべてを台無しにする(1-4)

 

まず、1~4節をご覧ください。「死んだハエは、調香師の香油を臭くし、腐らせる。少しの愚かさは、知恵や栄誉よりも重い。知恵のある者の心は右を向き、愚かな者の心は左を向く。愚か者は、道を行くときにも思慮に欠け、自分が愚かであることを、皆に言いふらす。支配者があなたに向かって立腹しても、あなたはその場を離れてはならない。冷静でいれば、大きな罪は離れて行くから。」

 

「死んだハエは、調香師の香油を臭くし、腐らせる。」伝道者は9章18節で語った「一人の罪人は多くの良いことを打ち壊す」ということを、たとえで説明しています。良き物全体が、少しの愚かさによって台無しにしてしまうということです。たとえばここに調香師が調合した高価な香油があるとして、そこに一匹のハエが飛び込んで、死んでしまったとしたらどうでしょう。香油は悪臭を放ち、発酵し始めます。そんな香油をだれが使いたいでしょうか。たった一匹のハエが香油全体をダメにするのです。そのように、人間の評判も少しの愚かさで取り返しがつかないほど失墜してしまいます。それまでの業績や名声は、少しの失言や過ちによって台無しになってしまうのです。今巷を騒がせている女性蔑視発言もその一つでしょう。女性の話は長いと言っただけで、東京オリンピック・パラリンピックの組織の長が辞任することになりました。それに輪をかけるように、新たに就任した組織委員長を擁護しようとして発した「男勝り」ということばが破門を起こしました。一匹の死んだハエが、高価な香油全体をくさせてしまうのです。

 

2節には、「知恵のある者の心は右を向く。愚か者は左を向く」とあります。「右」とは正しい方向を指し、「左」とは悪の方向を指しています。創造訳聖書は「知恵のある人の心は、正しい道に行き、愚かな者の心は、悪の道に行く」と訳しています。知恵のある者の心は、自然に正しい方向に向かいますが、愚かな者の心は、悪い方に向かうのです。

 

3節には、「愚か者は、道を行くときにも思慮に欠け、自分が愚かであることを、皆に言いふらす。」とあります。これは恐ろしいですね。愚か者はただ道を行く時でさえ、自分が愚かであることを皆に言いふらすというのです。「この人は黙っていれば賢く見えるのに」と言うことがありますが、言わなくてもいいようなことを言ったり、やらなくてもいいようなことをやったりして、自分がいかに愚かな者であるかを、周り人に露呈するのです。

 

4節をご覧ください。ここには「支配者があなたに向かって立腹しても、あなたはその場を離れてはならない。冷静でいれば、大きな罪は離れて行くから。」とあります。これは、あなたの上に立つ人があなたに対して腹を立てるようなことがあっても、あなたはそこから離れてはならないということです。ではどうすれば良いのでしょうか?

 

そのためにはまず冷静になることです。冷静であれば、大きな罪は離れて行くことになります。つまり冷静になり、支配者の前で低くなり、ひたすら謝るなら、支配者からそれ以上の怒りを買うことはなくなるということです。これは結婚関係にも言えることですし、どのような関係にも言えることです。私たちはだれか支配者のような立場にある人から怒られるとすぐにカッとなってその場を離れようとする傾向がありますが、それはよくないことです。そのような時にはまず冷静になることが求められます。まあ、冷静になれるようであれば最初から問題も大きくならないと思いますが、問題はなかなか冷静になれないことです。すぐにカッとなってその場を離れようとします。些細なことでイライラし、怒りをぶちまけようとします。たとえば、車を運転している時に、前の車が遅かったりすると我慢できなくなって、カッとなってしまいます。「何だろう、40キロかよ。ここは50キロでしょ。何とかしてほしい・・」近年、あおり運転が問題になっていますが、そうしたニュースをみるとドキッとすることがあります。いつ自分がそうなってもおかしくないんじゃないか・・・と。だから自分はできるだけ車のハンドルを握らないようにしているというか、用がない限り運転しないようにしています。でも一番いいのは冷静でいることです。

 

箴言29章11節には「愚かな者は怒りをぶちまける。しかし知恵のある者はそれを内におさめる」(箴言29:11)とあります。この御言葉は、怒りやすい人は愚かな人であると教えています。箴言というのは、「安全に生きるためのマニュアル」です。聖書の時代の人たちは、隣人と争えば、命がけの戦争に巻き込まれてしまう可能性がありました。ですから、「どのようにすれば平和に生きることができるか」を、箴言から学んでいたわけです。箴言は、人間関係のマニュアルです。その箴言で言っていることは、「愚か者は怒りをぶちまける。しかし知恵のある者はそれをおさめる」ということです。知恵のある者になりたいてだすね。

 

その箴言の別の個所には、こうあります。「自分の心を制することができない人は、城壁のない、打ちこわされた町のようだ」(箴言25:28)

この聖句は、頭に血が上った時に思い出すべきものです。「ああ、今の私は城壁の壊れた、防御不能の町のようだ」と思えば、ちょっとは冷静になれるでしょう。現代人にも、平安な生活のためのマニュアルが必要です。怒りやすい人は、例外なしに人間関係の問題を抱えています。「怒りやすい人は愚かな人だ」ということを、思い出す必要があります。

 

では、どうすれば良いのでしょうか。アンガーマネージメントという怒りの感情をコントロールするノウハウが日本でも紹介されていますが、その中に「6秒ルール」と呼ばれるものがあります。この「6秒ルール」というのは、人間が怒りを覚えるとき、脳内では興奮物質のアドレナリンが激しく分泌されています。そのことによってより興奮してしまい、冷静ではいられなくなってしまうらしいのです。しかしこのアドレナリン分泌のピークは、怒りを発してから6秒後と言われていて、つまりその最初の6秒間を我慢してやり過ごすことができれば、その後は徐々に冷静さを取り戻すことができるというのです。だれかがあなたに腹を立てても、それにすぐに反応するのではなく6秒間待つのです。一番簡単な方法は、心の中で6秒数えるというものです。数を数えるといった単純な作業を行うことで、意識を自然とそちらに向けることができます。他にも「朝からの行動を順番に思い出してみる」とか、目に見えているものの名前、例えば、時計とか、本棚とか、パソコンとかを一つずつ心の中で読み上げる、などといったことも有効です。自分なりに「カッとなったらまずはこうする」というルールを作っておくことで、突発的な怒りに任せた行動を未然に防ぐことができるというのです。これは冷静であるためにはどうしたら良いのかを教える一つの助けになるでしょう。でも、怒りをおさめることは簡単なことではありません。どうすれば良いのでしょうか。自分はすぐに怒ってしまう愚かな者であると認め、それを悔い改めて、神に立ち返ることです。

 

そこが聖書のすばらしいところだと思います。私たち人間は本当に愚かな者で、すぐに左の方に行ってしまいます。冷静でいなければならないと分かっていても瞬間湯沸し器のようにすぐにカッとなってしまい、つまずいてしまいます。少しの愚かさどころか多くの愚かさによって、人生を台無しにしてしまうような者なのです。このような者に救いはあるのでしょうか。あります。それがイエス・キリストが来られた目的です。もしあなたがそのことを認め、悔い改めてイエス・キリストを信じるなら、あなたは何度でもやり直すことができます。それが、聖書が語っている主要なモチーフです。

 

ヨシュア記20章2節には、次のような御言葉があります。「イスラエルの子らに告げよ。「わたしがモーセを通してあなたがたに告げておいた、逃れの町を定めよ。」

ここに「逃れの町」が出てきます。これはイスラエルがカナンを制圧した直後に、主がヨシュアに語られたことです。この「逃れの町」とは、誤って人を殺してしまった者がそこに逃げ込むためなら、その人は仇討ちから免れ、罰を受けずに済むようになるためのものでした。イスラエル全体に6箇所定められていましたが、それは、だれでも、どこにいても逃げ込むことができるためでした。

 

なぜ神はこの逃れの町を制定されたのでしょうか。それはこの町の存在そのものが、神の本質を表していたからです。つまり神は私たちを裁くことを良しとし、その目を常に裁きに向けておられる方ではなく、私たちを愛し、赦すお方であられるということです。そういう愛のお方なのです。よく「神は愛なり」と言いますが、その「愛」とはどういうものなのでしょうか。神はこの逃れの町の制定によって具体的に愛するとはどういうことなのかを教えようとされたのです。それは私たち人間がいかに間違いやすく、失敗しやすい存在であるかということを神は知り尽くし、深く理解しておられるということです。逃れの町を作られた第一の理由は、ここにありました。

 

アメリカ第十六代大統領アブラハム・リンカーは、南北戦争の最中、自分の家族や側近者たちがこぞって南部の人たちを非難し、悪しざまに言うのを聞いて、「あまり悪く言うのはよしなさい。われわれだって立場を変えれば、きっと南部の人たちのようになるのだから。」と言いました。

リンカーンは、常に、盗人にも五部の理があるのを認め、断罪しない人物でした。相手の立場を見ることができました。その人にはその人なりの理由があるということを常に理解しようと努めたのです。彼の深い人間理解の故に、リンカーンは多くの人々に慕われ、今もなお尊敬され続けているのです。

 

へブル4章15~16節に、次のような御言葉があります。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」

キリストは私たち人間の弱さをすべて思いやることがおできになります。なぜなら、キリストご自身が罪は犯されませんでしたが、あらゆる試練に直面され、そこを通られたからです。キリストは私たちの弱さ、罪、醜さ、愚かさのすべてを知られ、理解しておられるのです。だから、私たちは安心して、折にかなった助けを受けるために、恵みの御座に近づくことができるのです。

 

ですから、この逃れの町が制定された目的は、愛の神が、誤った人々をもう一度立ち直らせるためであったということです。それが、聖書全体が語っている主要なモチーフなのです。すなわち、あなたはやり直すことができるということです。そのような実例を聖書から上げようと思えばきりがありません。モーセにしても、ダビデにしても、ペテロにしても、パウロにしても、皆神の赦しを体験し、信仰によって立ちあがった人たちです。それは神の愛に由来しています。パウロのように、ペテロのように、キリストは人々が立ち直り、やり直すことを願っておられるのです。神が用いられる人とは、何の過ちや欠点のない完璧な人ではなく、とりもなおさず失敗や過ちを悔い改めてやり直った人々であり、その人の失敗が大きければ大きいほど、神はそれに比例してその人を大きく用いられるのです。

 

イエス様の宣教の第一声は、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」(マタイ4:17)でしたが、これを現在の私たちの言葉で言い直すならば、「あなたはもう一度やり直すことができる。もう一度やりなおしなさい。」というメッセージなのです。そのためにキリストは十字架に掛かって死んでくださいました。私たちを失敗させ間違いを犯させる罪を打ち砕き、その罪から解放してくださるためです。この十字架の贖いこそ、私たちがもう一度やり直すことができる道筋です。ところが、多くの人はそれを知りません。環境を変え、場所を変えればやり直すことができるのではないかと考えるのです。しかし、それは錯覚であり無駄なことです。なぜなら、あなたの人生をやり直すことができる唯一の道は、十字架の前に立ち、その御前にへりくだって悔い改め、贖いの恵みを受け入れることだからです。キリストにあってすべての罪が洗い清められ、悪魔の力が粉砕されることによってのみ、私たちはもう一度新しくやり直すことかできるのです。

 

ですから、私たちは本当に愚かな者で、すぐにカッとなってその場を離れとしまう者ですが、そんな者でも神に深く愛されていることを覚え、悔い改めて、神に立ち返っていただきたいのです。そして、キリストとともに聖霊の力によって再スタートをきっていただきたいと思うのです。

 

Ⅱ.権力者から出る過失(5-7)

 

次に、5~7節までをご覧ください。「私は、日の下に一つの悪があるのを見た。それは、権力者から出る過失のようなもの。愚か者が非常に高い位につけられ、富む者が低い席に座しているのを、また、奴隷たちが馬に乗り、君主たちが奴隷のように地を歩くのを、私は見た。」

 

伝道者が日の下で見たもう一つの悪は、権力者から出る過失のようなものでした。権力者に部下を見る目がないということです。その結果、資格も能力のない者が高い地位につけられたり、逆に、能力のある者が、雑務をこなすだけに時間を費やすということが起こるのです。また、奴隷たちが馬に乗り、君主たちが奴隷のように地を歩くということが起こります。馬に乗るとは高い地位に着くということです。また、地を歩くとは、低い地位に下ろされるということです。権力者たちが見方を誤ると、このような結果となります。少しの愚かさが、大きな結果をもたらすことになります。人をどのように見るのか、その小さな知恵が、全く逆の結果をもたらすことになるのです。

 

ドイツを代表する文豪、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(1749~1832)は、こう言いました。「彼らが当然そうあるべきように、人々を扱いなさい。そうすればあなたは、彼らがそうあるべきものになるのを助けることになるだろう」これは、人を育てる時の大原則です。彼らが当然そうあるべきものになるように助けるのです。

この原則を、教育の現場で実践した人がいます。物理学者の大学教授フロイド・ベーカー博士です。彼は、学期初めにいつも学生たちに言いました。私は勉強しない学生は好きではない。だからキミたちは全力を尽くして頑張らなければならない。念のために言っておくが、キミたちのうち50%はパスしないだろう。それが、自分にならないように気をつけたまえ!」

不思議なことに、彼の予想は常に実現しました。つまり50%の学生が、いつも落第したのです。そして仲間の大学教授とは、最も落第生を多く出した者が最も優秀な教授なのだ、と言い合っていました。

そんな時彼は、妻と一緒に教会に通い始めました。聖書を読むうちに自分の学生たちをみる目が、いかに間違ったものであったかを知るようになります。そして、コリント人への手紙第一13章を読んでいる時、自分は愛のない教授であることを悟ります。

それから、彼の学生たちに対する態度が変わりました。彼は、学生たちに向かってこう言いました。「私は、キミたち全ての者がパスすることを望んでいる。君たちがパスするのを見ることが私の職務なのだ。課題は難しい。しかし、キミたちなら必ずパスできるはずだ。」

するどうでしょう。この後、クラスの雰囲気が以前のものとは違ったものになりました。そして学生たちは、全員がパスしたのです。Cを取った学生もいましたが、多くの者はBかAの成績を取ったのです。

どのように人を見るかです。その見方を誤ると、とんでもないような結果となってしまいます。教育の目的は、生徒を傷つけることではなく、生徒を信じて期待し、その可能性を掘り起こしてやることなのです。「愛は、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」(Ⅰコリント13:7)

少しの愚かさが残念な結果をもたらすことがないように、知恵と知識の宝がすべて隠されているキリストに信頼し、神から知恵をいただいて、神のみこころに歩みたいと思います

 

Ⅲ.知恵は人を成功させる(8-11)

 

第三のことは、知恵は人を成功させるということです。8~11節までをご覧ください。「穴を掘る者

は自らそこに落ち、石垣を崩す者は蛇にかまれる。石を切り出す者は石で傷つき、木を割る者は木で危険にさらされる。斧が鈍くなったときは、刃を研がないならば、もっと力がいる。しかし、知恵は人を成功させるのに益になる。もし蛇がまじないにかからず、かみつくならば、それは蛇使いに何の益にもならない。」

 

ここにも、少しの愚かさが、どんなに大きな危険をもたらすかが語られています。8節と9節には、「穴を掘る者は自らそこに落ち、石垣を崩す者は蛇にかまれる。石を切り出す者は石で傷つき、木を割る者は木で危険にさらされる。」とあります。穴を掘る者がそこに落ち込み、石垣を崩す者が、そこにいる蛇にかまれ、石を切り出す者が、その石に押しつぶされ、材木を切り出す者が、その木で危険にさらされるということがあるということです。しかし、知恵はこのような危険から守ってくれます。

 

10節には「斧が鈍くなったときは、刃を研がないならば、もっと力がいる。しかし、知恵は人を成功させるのに益になる。」とあります。斧がよく切れなければ、刃を研がないと、もっと多くの力を要することになります。余分な労力が必要になるということです。しかし、刃を研ぐなら、その時間が無駄であるかのように思われますが、必ず報われることになります。道具を整えないのは愚かなことです。知恵は人を成功させるのに益になるのです。

 

皆さんはどうでしょうか。斧を研いでいますか。よりよく神に仕えるために、自分の能力のどの部分を高めたらよいかを考え、それを高めるための努力をしているでしょうか。それとも、鈍くなった斧で切ってはいないでしょうか。「Oh, No!」なんて。鈍い斧のままでは、時間とエネルギーが無駄になるだけです。まずは自分という道具を磨かなければなりません。それが知恵です。どうやったら自分を磨くことができるのでしょうか。

 

ローマ人への手紙5章3~5節に、次のようにあります。「それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。」

何が希望を生み出すのでしょうか。練られた品性です。では練られた品性は、どのようにしてもたらされるのでしょうか。忍耐です。その忍耐は苦難によって生み出されます。そうです、自分という斧が磨かれるためには、神が与えてくださる苦難とか試練を忍耐することが求められます。試練こそその人が成長するための最も大きな糧なのです。

 

あるご婦人が、スイスを旅行した時のことです。散歩の途中に山腹にある羊の囲いの所に来たとき、中を覗いて見ると羊飼いがいて、彼の周りに沢山の羊がいました。ところが一匹の羊が、群れから離れて横に倒れて苦しんでいました。彼女は、羊飼いに声をかけました。

「あの羊はどうして倒れているのですか」

「あの羊は、足が折れているんです」

「どうして足が折れたのですか」と聞くと、

「私がわざと折ったのです」と、答えました。

彼女はびっくりして、「どうしてそんな可哀想なことをしたのですか」と尋ねると、羊飼いはその理由を説明してくれました。

「ミセス、私の羊の中で、こいつが一番言うことを聞かないんです。私の声に、絶対に従いません。そして危ない崖の上や、深い藪の中に勝手にどんどん入って行くのです。そして自分が行くだけでなく、他の羊も惑わして道連れにしてしまうんです。だから私は、この羊の性質を直すために、この羊の命を救うためにこの羊の足を折ったのです。今では、すっかり従順な羊になりました。私の手から餌を食べ、私の手を舐め、私に寄り添ってくるんです。まもなく足も回復するでしょう。そうしたらこの羊は、今度は他の羊の模範となるでしょう。仲間を惑わす代わりに、迷った仲間を連れ戻すでしょう。その時、私がこの羊の足を折った目的が達成されるのです」

私たちは迷える子羊です。そんな者が研がれるために、神は試練を与えられるのです。その試練を通し

て私たちは、謙遜や忍耐や従順といった練られた品性を身に着けるのです。

 

詩篇の記者は、こう言いました。「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」(詩篇119:71)私たちは、試練を通して神のおきてを学びます。それによって成長いくのです。ですから、試練に出会って、そこから出てくるたびに、私たちの心の中に人生の真実を求める心が大きくなっていきます。そして、以前の自分よりも今の自分の方が、よりイエス様を愛するようになります。よりイエス様を愛しているなら、私たちは確実に成長しているのです。これが神の知恵です。あなたはこの知恵を働かせていますか。知恵を働かせることが、成功に至る鍵です。

 

しかし、もう一つのことがあります。それが11節の御言葉です。「もし蛇がまじないにかからず、かみつくならば、それは蛇使いに何の益にもならない。」どういうことでしょうか。口語訳には「蛇がもし呪文をかけられる前に、かみつけば、蛇使いは益がない。」と訳されています。ここでは物事を行うタイミングの重要性を教えています。蛇に呪文をかける前に蛇がかみつけば、蛇使いの存在価値はなくなってしまいます。そのように、成すべきこととその方法を知っていても、タイミングを逃すなら、その人は何の役にも立ちません。これが知恵です。

 

知恵は、人を成功させるのに益になります。少しの愚かさがすべてを台無しにします。どのように人を見るかによって、その結果も違ってきます。私たちの日常生活でも常に危険が潜んでいます。そのような人生の中で成功に導くのは神の知恵です。斧が鈍くなったら、刃を研がなければなりません。もし蛇がまじないをかけられる前に、かみつけば、蛇使いに何の益にもならないのです。自分に与えられた賜物を磨き、開発する知恵も求められます。またそのタイミングを見極める知恵も必要です。知恵は人を成功させるのに益になります。私たちは矛盾したこの世に生きていますが、この神の知恵によって、最後まで信仰を貫き、忠実に主にお従いしたいと思います。