きょうは、「これが私の愛する方」という題でお話します。これは花嫁のことばです。16節にあります。花婿を見失った花嫁は必至になって捜し求めますが見つかりませんでした。そこでエルサレムの娘たちに一緒に捜してくれるようにお願いすると、エルサレムの娘たちが、どうしてそんなに必死に探すのですかと尋ねます。それに対する答えがこれです。「これが私の愛する方、これが私の恋人です。」これはとても大切な告白です。私たちが何を信じ、何を大事にしているのかを明らかにするからです。私たちの愛する方はどのようなお方なのでしょうか。きょうは、このことについてご一緒に学びたいと思います。
Ⅰ.何がまさっているのですか(8-9)
まず、8節と9節をご覧ください。「エルサレムの娘たち。あなたがたにお願いします。私の愛する方を見つけたら、あの方に言ってください。私は愛に病んでいる、と。あなたの愛する方は、ほかの親しい者たちより何がまさっているのですか。女の中で最も美しいひとよ。あなたの愛する方は、ほかの親しい者たちより何がまさっているのですか。あなたがそのように私たちに切に願うとは。」
ここで花嫁はエルサレムの娘たちにお願いしています。「私の愛する方を見つけたら、あの方に言ってください。私は愛に病んでいる、と。」いったい何があったのでしょうか。花婿を見失ってしまったのです。原因は何でしたか。無関心でした。やっとのことで花婿と結ばれたというのにある種の倦怠感に陥り、「戸を開けておくれ」という花婿のことばに応答しませんでした。「ああ、もう面倒かけないでください。私はベッドに入ってしまったんですから。また足を洗うなんて嫌です!」と言って開けようとしなかったのです。これは2回目でした。まだ結婚していない婚約時代にも同じようなことがありました。2章でしたね、11節には「冬は去り、雨も過ぎて行ったから、春がやって来て、地には花が咲き乱れ、刈り入れの季節がやって来て、山場との声が、国中に聞こえるようになったのだから、さあ立って、出ておいで。」と呼びかけたのに、花嫁は出て来ませんでした。もじもじしてベッドから起き上がろうとしなかったのです。その時は花婿のことをあまりよく知りませんでした。すなわち、無知が原因で応答しなかったのですが、今回は違います。今回は花婿と結ばれ共に生活する中で花婿のすばらしさを十分知っていたにもかかわらず、花婿の呼びかけに応答しませんでした。それは花婿のことを知らなかったからではなく、花婿に関心がなかったからです。そうした無関心によって花婿を見失ってしまったのです。
すると、エルサレムの娘たちが尋ねます。9節です。「あなたの愛する方は、ほかの親しい者たちより何がまさっているのですか。女の中で最も美しいひとよ。あなたの愛する方は、ほかの親しい者たちより何がまさっているのですか。あなたがそのように私たちに切に願うとは。」
これはとても大切な質問です。エルサレムの娘たちは、彼女が「愛に病んでいる」とは言うけれども、いったい彼のどこがそんなにすぐれているのですか、ほかの親しい者たちよりも何がそんなに優っているのですかと尋ねているのです。花嫁は、自分の愛する方の愛を取り戻すためにこの質問に答えなければなりませんでした。ただ自分が喪失感の中にいるから助けてほしいというのではなく、花婿こそが自分の愛する方であるということをはっきりさせなければならなかったのです。
これは私たちにも言えることです。いったい私たちはなぜこうして日曜日に教会に来るのでしょうか。なぜ家で聖書を読んだり祈ったりするのでしょうか。なぜ神の家族である教会の交わりを大切にするのでしょうか。なぜ奉仕をしたり、献金したり、伝道したりするのでしょうか。すべての答えがここにあります。つまり、自分が何を信じているのか、何を大事にしているのかをはっきりさせなければならないということです。それを聞かれた時にはっきりさせることができるのは、その愛が本物であることのしるしでもあります。そうでないと私たちの信仰生活は海に浮かぶ舟のように、安定感を欠いたものになってしまいます。
Ⅱ.万人に抜きん出ている方(10)
それに対する彼女の答えを見てみましょう。10節をご覧ください。「私の愛する方は、輝いて赤く、万人に抜きん出ています。」
これは花嫁のことばです。花婿がどれほどすばらしい方なのか、何がそんなに優っているのかを語っています。ここでは、「私の愛する方は、輝いて赤い」とあります。この「輝く」といことばは、目もくらむほどの輝きを表しています。太陽よりも明るく、この世のものとは思えないほどの輝きです。
マタイの福音書17章には、イエス様がペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に登られた時のことが記されてあります。すると、弟子たちの目の前でその御姿が変わりました。顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなりました。マルコの福音書には、その白さはこの世の職人にはとてもなし得ないほどの白さであったとあります。この世の職人とはクリーニング屋さんのことです。その衣はこの世のクリーニング屋さんがどんなに頑張ってもなし得ないほどの白さで、輝いていたのです。イエス様は目もくらむほどの輝きをもっておられる方なのです。これがイエス様の本当の姿です。普段気軽に話しかけ、教えを聞き、寝食を共にしている方は、本当は自分たちなど近づくことができないほど栄光に満ちたお方であり、天より遣わされた神のひとり子であられたのです。
その姿に圧倒されたペテロは、何を言ったらいいのかわからず、だったら黙っていればいいのに、思わず口走ってしまいました。「主よ、私たちがここにいるのはすばらしいことです。よろしければ、私がここに幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、エリヤのために一つ、モーセのために一つ。」(マタイ17:4)実際には、彼は何を言ったらいいのかわかりませんでした。あまりにも恐ろしくて、気が動転していたからです。それほど白く、それほどきよく輝いていたのです。
また、ここには「赤く」とありますが、この「赤く」と訳されたことばは「血色が良い」ということです。Ⅰサムエル記16章12節にダビデのことについてこうあります。「エッサイは人を遣わして、彼を連れて来させた。彼は血色が良く、目が美しく、姿も立派だった。」この「血色が良く」ということばが「赤く」です。この時ダビデはまだ少年でしたが、彼の顔は血色が良く、健康的で、立派でした。ですから、この花婿はどのような方かというと、非常に血色が良く、パワフルな方、力強い方であるということです。
これが私たちの愛する方、主イエスです。イエス様は非常に輝いていて、力強いお方です。確かに心優しくへりくだっていますが、同時に、輝いて赤く神としての権威をもっておられる方なのです。イエス様は天地万物の創造主であられ、神としての栄光を身にまとっておられる方なのです。
ですから、万人に抜きんでているのです。この「抜きんでている」ということばは、へブル語で「ダガール」という語です。意味は「旗を持つ者」です。6章4節に「だが、旗を掲げた軍勢のように恐れられる」とありますが、この「旗を掲げる」です。同じことばが6章10節にも使われています。「抜きんでている」と「旗を掲げる者」にどんな関係があるのかというと、どちらも目立っていて際立っており、他と比べようがないほど優れているという点です。それで、ここに「抜きん出ている」と訳されているのです。イエス様は万人に抜きん出ているお方なのです。
イエス様と万人とを比べてみてください。この歴史上には偉大な人物が何人も登場しましたが、イエス様に優る人は一人もいませんでした。日本百科事典を見ると、アレキサンダー大王については4分の1ページが割かれてありますが、イエス・キリストについてはまるまる1ページが割かれています。本来であれば1ページでも収められないほどですが、何とか1ページでまとめたという感じです。ちなみにナポレオンについては2分の1ページです。明治天皇に至っては8分の1ページしか割かれていません。イエス様についてはまるまる1ページです。イエス様がどれほど偉大なお方であるかがお分かりいただけると思います。
また、イエス様は釈迦、孔子、ソクラテスと並んで4大聖人に数えられていますが、他の3人と比べてみてください。全く比べようがありません。イエス・キリストの方がはるかに優れています。ある人がこのように言いました。「もしソクラテスが部屋に入ってきたら、私たちは立ち上がって彼に敬意を表すでしょう。でも、もしイエス・キリストが部屋に入ってきたら、私たちはひれ伏して彼を礼拝するでしょう。」これはもっともなことです。イエス様はソクラテスとは比べものにならないほど偉大なお方だからです。
それはこの歴史を見てもわかります。イエス様は文字通り、歴史を二分されました。この方の誕生を境に、歴史は二つに分かれたのです。B.C(紀元前)とA.D(紀元)ですね。B.C.とは主が来られる前という意味のBefore Christの頭文字を取って表記されますが、A.D.は、主が来られてからという意味のAnno Dominiの頭文字です。これはラテン語で、「主が来られてから」を意味しています。だったらAfter ChristでA.C.でも良かったのではないかと思いますが、なぜか主が来られてからはラテン語のA.D.から取られました。
ある歴史学の教授が何人かの大学生たちに「今年は2021年ですが、この数字は何を表していますか」「人類の歴史を意味するHistoryとはどういう意味ですか」と聞くと、誰も答える学生がいなかったそうです。この2021年とは、主イエスが生まれてから2021年が経ったということです。すなわち、歴史を表すHistoryという言葉は、もちろんギリシャ語のヒストリアという言葉から来ていますが、またこういうこともできるのです。His Story、彼の物語です。彼とは誰でしょうか。イエス・キリストです。この歴史はイエス・キリストの物語なのです。イエス様は文字通り歴史を分けたお方、歴史を支配しておられるお方なのです。聖書では、イエス様は王の王、主の主と言われていますが、アレキサンダー大王や、ナポレオン、釈迦や孔子などが全く足元にも及ばないお方、万人に抜きん出ておられる方なのです。
私の愛する方は、どのような方なのでしょうか。次に11~16節までをご覧ください。ここではもっと具体的に語られています。まず11節にはこうあります。「その頭は純金。髪はなつめ椰子の枝で、烏のように黒く、」
まずその頭です。その頭は純金、髪はなつめ椰子の枝で、烏のように黒いのです。想像してみてください。その頭は純金です。聖書では「純金」は神性の象徴として描かれています。すなわち、花婿なる主イエスは神であるということです。ただの聖人とか教祖とかということではなく神ご自身なのです。それはイエス様が「わたしと父とは一つです。」(ヨハネ10:31)と宣言されたことからもわかります。これは明らかな神宣言でした。ですからそれを聞いたユダヤ人たちは、イエスを石打ちにしようとしたのです。神を冒涜していると思ったからです。しかし実際は、イエス様は神を冒涜したのではなく神ご自身であられました。だから、「わたしと父とは一つです」と言われたのです。
髪の毛はどうでしょうか。髪はなつめ椰子の枝で、烏のように黒く、とあります。なつめ椰子の枝とは、なつめ椰子の枝についた実のことです。それはデーツで有名ですが、それはバナナのように大きな房になっています。すなわち、フサフサしているということです。また「烏のように黒く」とは、黒々としているということです。それはギルアデの山を下って来るやぎの群れのように美しく、勇ましくもあります。聖書では髪の毛は力の象徴でもありますので、花婿なるキリストは決して朽ちることがない永遠のいのちに溢れておられる方であると言えます。
12節をご覧子ください。「目は乳で洗われ、池のほとりに住む、水の流れのそばの鳩のよう。」
今度は目です。「目は乳で洗われ」とは、充血しないで潤っているということです。つまり、美しい、澄んだ目をしているということです。それは池のほとりに住む、水の流れのそばの鳩のようです。また出てきました。鳩です。ソロモンは鳩が好きなんですね。何回も出てきます。これは何度もお話してきたように美しさと聖さの象徴です。また、平和の象徴でもあります。イエス様があなたを見る目は鳩のようにきよらかで美しく、平和で優しい目なのです。
ルカの福音書22章61節に、「主は振り向いてペテロを見つめられた」とあります。鶏が鳴く前に三度も主を否定したペテロを見つめられた主の目は、彼の失敗を裁いたり咎めたりするような目ではなく、愛情とあわれみに溢れた目でした。というのは、そのことを前もって知っておられたからです。イエス様は彼にこう言われました。「しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:32)
イエス様は初めから知っておられました。ペテロがご自身を裏切るということを。それでもなお彼のために祈られました。立ち直ったら兄弟たちを力づけてやるためです。そのためにはペテロ自身が力づけてもらわなければなりませんでした。そして、イエス様はそのようにされました。そのような目で彼を見つめられたのです。その目は鳩のように優しく、平和に満ちていました。
13節をご覧ください。次は頬です。「頬は香料の花壇のようで、良い香りを放つ。唇はゆりの花。没薬の液を滴らせる。」
頬は香料の花壇のようです。何ですか、香料の花壇のようとは。イエス様と一緒に過ごせば過ごすほど良い香りに包まれるということです。イエス様と一緒にいると、花畑にいるようです。そんな香りが漂ってきます。アロマセラピーのように心をリラックスさせていただくことができます。
唇はゆりの花です。ゆりの花というと白いゆりを思い浮かべるかもしれませんが、これは赤い花です。野のゆりというとイスラエルではアネモネとかチューリップ、ひなげしなどの赤い花のことを指していました。そのように赤く美しいということです。ただ美しいだけでありません。ここには「没薬の液を滴らせる」とありますね。「没薬」は防腐剤としても使われました。ですから、イエス様の唇は防腐剤としての役割も果たしたのです。
詩篇119篇9節には、「どのようにして若い人は、自分の道を清く保つことができるでしょうか。あなたのみことばのとおりに、道を守ることです。」とあります。どのようにして若い人は、自分の道を清く保つことができるのでしょうか。それは別に若い人だけということではなくすべての人に言えることですが、それは主のみことばのとおりに、道を守ることによってです。主イエスの唇には没薬の液が滴り落ちているからです。
14節です。14節には「腕は金の棒でタルシシュの宝石がはめ込まれ、からだは象牙の細工でサファイアでおおわれている。」とあります。
「金の棒」とは「金の輪」のことです。腕には金の輪があり、そこにタルシシュの宝石がはめ込まれていたということです。それは王の権威を象徴していました。イエス様は王としての権威を持っておられるということです。
その金の輪には、タルシシュの宝石がはめ込まれています。「タルシシュの宝石」とはエメラルドのことです。それは大祭司が付けていた胸当て、エポデと言いますが、それにも付けられていました。それはイスラエルの12部族のことを象徴しています。それはまた私たちクリスチャンのことでもあります。つまり、あなたは神であるイエス・キリストの腕でしっかり守られているということです。
さらに、からだはサファイアでおおわれた象牙の細工のようでした。サファイアも大祭司の胸当て、エポデに刻まれていました。天国を描写する新しいエルサレムを飾る宝石としても使われています。イエス様のからだはそのサファイアで包まれているのです。
足はどうでしょうか。15節をご覧ください。「足は大理石の柱で、純金の台座に据えられている。その姿はレバノンのよう。その杉の木のようにすばらしい。」
足は大理石の柱です。それはがっちりしていて力強いということです。しかも、その柱は純金の台座に据えられていました。純金も神の性質を表しています。決して崩れることがないという意味です。その姿はレバノンの杉の木のようです。レバノンの杉といったら最高の杉材です。花婿はレバノンの杉の木のようにすばらしいお方であるということです。
では口はどうですか。16節には、「その口は甘美そのもの。」とあります。英語の聖書の多くは、イエス様のことばを赤字にしています。そのことばを見ると、まさに甘いぶどう酒のようです。ルカの福音書4章22節には、「人々はみなイエスをほめ、その口から出てくる恵みのことばに驚いて」とあります。イエス様の口から出てくることばは、聞いている人に恵みを与えることばでした。
つまり花嫁は、花婿の頭のてっぺんから足のつま先まですべてが優れており、万人に抜きん出ている方であると言っているのです。すべてがいとしいと。この「いとしい」ということばは、英語のNKJV(欽定訳)では「lovely」と訳しています。好ましい、望ましい、慕わしい、麗しい、快いということです。すなわち、花婿はパーフェクトであり、完璧な方であるということです。どこか一部だけがすばらしいというのではなく、全部がすばらしいのです。すべてがいとしい。この花婿以外に完璧な方は、この世界広しといえども他にはいません。この方だけです。この方が私の愛する方、私たちの主イエス・キリストなのです。使徒4章12節にはこうあります。「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」
私たちを救うことができるのは、私たちの主イエス・キリストだけなのです。この方以外にはだれによっても救いはありません。これが私の愛する方、これが私の恋人です。
新聖歌206番に「いつくしみふかき」という有名な賛美歌がありますが、この賛美歌のもともとのタイトルは「What A Friend We Have In Jesus 」となっています。訳すと「何とすばらしい友でしょう」となります。イエス様は何とすばらしい友でしょう。この歌は、アイルランドの大学教師ジョセフ・スクライヴェン(Joseph M. Scriven)によって書かれました。スクライヴェンは、自らの婚約者を事故と病気で2度とも失いました。愛する者を失い深い悲しみに暮れていた彼でしたが、闘病生活をしていた母親を慰めるために、どんな絶望の中でも主イエスに信頼する気持ちを詩に込めて送ったのです。これが原作です。
What a Friend we have in Jesus, all our sins and griefs to bear!
What a privilege to carry everything to God in prayer!
イエスは何という友でしょう 私たちのすべての罪と悲しみを負ってくださるとは
何という恵みでしょう すべてを神にゆだねて祈ることができるのは
O what peace we often forfeit, O what needless pain we bear,
All because we do not carry everything to God in prayer.
しかし、私たちは何としばしば平安を失うことでしょう 何と不要な痛みを抱くことか
すべてのことを神にゆだねて祈らないからです
Have we trials and temptations? Is there trouble anywhere?
We should never be discouraged; take it to the Lord in prayer.
試練や誘惑がありますか 困難がありますか
落胆してはいけません すべてを主にゆだねて祈ってください
Can we find a friend so faithful who will all our sorrows share?
Jesus knows our every weakness; take it to the Lord in prayer
こんなに真実な友があるでしょうか?私たちのすべての悲しみを共に担ってくださいます
主イエスは私たちの弱さのすべてを知っておられます すべてをゆだねて祈ってください。
何とすばらしい友でしょう。これがあなたの愛する方、あなたの主イエスです。この方がどんなにすばらしい方なのかを知れば知るほど、あなたは確信をもって「あなたは生ける神の子キリストです」と告白することができるようになります。そしてこの告白があなたの信仰に直結していくのです。
マタイの福音書16章のところで、イエス様は弟子たちに二つの質問をされました。一つは「人々はわたしのことを誰だと言っていますか」ということであり、もう一つは「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」という質問です。
最初の質問に弟子たちはこう答えます。「バプテスマのヨハネだと言う人たちも、エリヤだと言う人たちもいます。またほかの人たちはエレミヤだとか、預言者の一人だとか言っています。」(マタイ16:14)つまり、群衆はイエス様に対して様々な見解を持っていましたが、突き詰めると、イエス様はキリスト、メシヤ、救い主という理解はなかったということです。
そのような中でイエス様は「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」(マタイ6:15)と言われました。するとペテロがこう答えました。「あなたは生ける神の子キリストです。」(マタイ16:16)
するとイエスは彼に言われました。「わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。ハデスの門もそれに打ち勝つことはできません。」(マタイ16:18)
何と、このペテロの信仰の告白の上に、神の教会を建て上げると言われたのです。この岩とは、ペテロのことではありません。ペテロが語った信仰の告白のことです。「あなたこそ生ける神の子キリストです」と言ったその告白の上に、キリストの教会が立っているのです。ですから、私たちがイエスをだれだと言うかはとても重要なことなのです。それによって私たちの信仰のあり方が決まるからです。あなたにとって、イエス様はどのような方でしょうか。
今月は保守バプテスト同盟の月です。同盟の諸教会の旗席を覚えてお祈りしたいと思いますが、同盟の新しい議長は米沢の恵泉キリスト教会の牧師、金野正義先生です。先日、教会から送られて来た週報を見ておりましたら、そこに先生のこんな証が載っていました。
「私は大学に入って、初めて親元を離れました。山形に来て、親戚の家に下宿させていただきました。親戚はクリスチャンではなかったので、「教会に行け」とは言いませんでした。大学で新しく出来た友人たちも「日曜日に遊ぼう」と誘ってくれました。私は、クリスチャンホームで育ちました。親が熱心で、「日曜礼拝を死ぬ気で守りなさい」と小さい時から教えられました。実家にいる時は、半ば強制的に「日曜日は教会」という生活を送りました。しかし、環境が変わり、私は「教会に行かない」という選択肢を気兼ねなく選べる環境になりました。ある日曜日、私は礼拝を休むという選択をしました。自分の意志で休みました。しかし、思い描いていたような一日にならず、なんとも言えない苦い思いを抱きました。次の週、今度は自分の意志で「教会に行く」という決意をしました。それまで、なんとなく教会に行っていましたが、そのときから自分の意志で「教会に行く」と決意したのです。この決断をもって「イエス様を、自分の主として生きる」と決めたその日から私の人生は変えられ続けています。あの日から神様とより親密になったと思います。」(2021.7.18.週報)
「あなたはわたしをだれだと言いますか」この質問はあなたにとっても大切な質問です。あなたの周りの人にとって、この方は「キリスト」ではないかもしれません。その周りの意見は周りの意見として、あなたは、イエス様をどのようなお方として告白するのか、この質問にどう答えるのかが、イエス様とより親密になるか、ならないかの分岐点となるのです。私たちも「あなたこそ生ける神の子キリストです」と告白したいものです。この花嫁のように「これが私の愛する方。これが私の恋人です。」と告白して生きたいと思うのです。