出エジプト記30章

出エジプト記30章から学びます。ここには、幕屋の備品の中で最後の二つのもの、香をたくための祭壇と洗いのための洗盤について書かれています。まず、香をたく祭壇についてです。1~10節までをご覧ください。

  1. 香をたくための壇(1-10)

「また、香をたくための祭壇を作れ。 それをアカシヤ材で作る。長さ一キュビト、幅一キュビトの正方形で、その高さは二キュビトとする。祭壇から角が出ているようにする。祭壇の上面と、側面すべて、および角には純金をかぶせ、その周りには金の飾り縁を作る。また、その祭壇のために二つの金の環を作る。その飾り縁の下の両側に、相対するように作る。これは祭壇を担ぐ棒を通すところとする。その棒はアカシヤ材で作り、それに金をかぶせる。それを、あかしの箱をさえぎる垂れ幕の手前、わたしがあなたと会う、あかしの箱の上の『宥めの蓋』の手前に置く。アロンはその上で香りの高い香をたく。朝ごとにともしびを整え、煙を立ち上らせる。アロンは夕暮れにともしびをともすときにも、 煙を立ち上らせる。 これは、 あなたがたの代々にわたる、主の前の常供の香のささげ物である。あなたがたはその上で、異なった香や全焼のささげ物や穀物のささげ物を献げてはならない。 また、 その上に、注ぎのぶどう酒を注いではならない。 アロンは年に一度、その角の上で宥めを行う。その祭壇のために、罪のきよめのささげ物の、宥めのための血によって、彼は代々にわたり、年に一度、宥めを行う。これは主にとって最も聖なるものである。」」

1節から5節までに、その説明があります。まず、それはアカシヤ材で作らなければなりませんでした(1)大きさは、長さ1キュビト(約44.5㎝)、幅1キュビトの正方形で、その高さは2キュビト(89㎝)でした。そして、その祭壇のそれぞれの隅には角が出ているようにしなければなりませんでした(2)。それに純金をかぶせ、その周りには金の飾り縁を作るようにしました(3)。また、その飾り縁の下には、金でかぶせた棒を通す金の環がありました。それで香の祭壇をかついで運ぶことができました(4-5)。

その香をたくための祭壇がどこに置かれたかが6節に書かれてあります。それは、あかしの箱をさえぎる垂れ幕の手前に置かれました。その垂れ幕の向こうには何があったかというと、あかしの箱とそれを塞ぐ宥めの蓋です。「そこでわたしはあなたと会う」と主が言われたその蓋です。

アロンはその上で香りの高い香をたきました。それは朝ごとに、夕ごとにたかれ、一日中煙が立ち上がらせるようにしました。(7-8)。それは「常供の香のささげ物」でした。常供とは、「日ごとの」という意味です。燭台のともし火も日ごとにささげられましたが、この香も日ごとにささげられました。これは祭司の日課であったのです。この香のささげものは、聖徒たちの祈りを表していました。黙示録5:8には、「香は聖徒たちの祈り」とあります。また、黙示録8:3には、天の御座の前の金の香の祭壇の位置について書かれてありますが、それは御座の前にある金の祭壇の前にありました。それは、この地上における幕屋の宥めの蓋が置かれてある場所と同じです。違うのは、天の御座の前には垂れ幕がないことです。天では、もはや垂れ幕は必要がないからです。なぜ香の祭壇が至聖所に向けて、至聖所に一番近くに置かれたのでしょうか。それは、私たちが神と出会い、神と交わりを持ち、生ける神を体験するためです。そのためには祈りが必要だからです。それは、絶えずささげられなければなりませんでした。Ⅰテサロニケ5:16~18には、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」とあります。私たちがいつも喜び、すべてのことについて感謝するためには、絶えず祈らなければきならないのです。

9節をご覧ください。ここには、この香をたく祭壇の上で、異なった香や全焼のいけにえや穀物のささげものをささげてはならない、注ぎのぶどう酒を注いではならない、とあります。なぜでしょうか?なぜなら、それは庭にあった祭壇でささげられたからです。祭壇はキリストの贖いのためのいけにえがささげられました。それは既にほふられたので、もうほふられる必要はないのです。必要なのは神との交わり、つまり、祈りとみことばなのです。

10節をご覧ください。アロンは年に一度、その角の上で宥めを行いました。それはどのように成されましたか?罪のきよめのためのささげ物の血を角に塗ることによってです。同じ聖所にあった備えのパンの机と燭台には、このような規定はありませんでした。これは香のための祭壇にだけ言われていることです。どうしてこのようなことをしなければならなかったのでしょうか。それは、主にとって最も聖なるものであるからです。神の御子キリストを象徴していた臨在のパンも、聖霊を象徴していた燭台もきよめる必要はありませんでしたが、人間が行う最高のことである祈りを象徴する祭壇は、きよめが必要だったのです。詩篇66:18には、「もしも不義を、私たちの心のうちに見出すなら、主は聞き入れてくださらない。」とあります。つまり、私たちの罪は祈りを妨げてしまうのです。ですから、きよめが必要なのです。どうしたらきよめられるのでしょうか。「御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。」(Ⅰヨハネ1:7)それゆえ、「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての不義からきよめてくださいます。」(Ⅰヨハネ1:9)そうすることによって、私たちの罪はきよめられ、祈りは聞かれることになります。義人の祈りは働くと、大きな力があるからです。

この香のための祭壇の角に、宥めのための血が塗られたのはそのためです。祭壇の角は、その祭壇の上に乗っているものがその役割をするのに十分な力を持っていることを示していました。それは、祭壇にささげられたいけにえが、罪を赦す力を持っていたということです。そのように、香の祭壇の四隅の角に塗られた血は、罪を赦す力があることを示していました。そこでささげられる祈りは、どんな祈りでもかなえられるだけの力があるのです。

Ⅱ.人口調査(11-16)

次に、11節から16節までをご覧ください。

「主はモーセに告げられた。「あなたがイスラエルの子らの登録のためにその頭数を調べるとき、各人はその登録にあたり、自分のたましいの償い金を主に納めなければならない。これは、彼らの登録にあたり、彼らにわざわいが起こらないようにするためである。登録される者がそれぞれ納めるのは、これである。 聖所のシェケルで半シェケル。一シェケルは二十ゲラで、半シェケルが主への奉納物である。二十歳またそれ以上の者で、登録される者はみな、主にこの奉納物を納める。あなたがたのたましいのために宥めを行おうと、主に奉納物を納めるときには、 富む人も半シェケルより多く払ってはならず、 貧しい人もそれより少なく払ってはならない。イスラエルの子らから償いのための銀を受け取ったなら、それを会見の天幕の用に充てる。 こうしてそれは、イスラエルの子らにとって、 あなたがたのたましいに宥めがなされたことに対する、主の前での記念となる。 」」

幕屋の備品の中で最後のものは、洗いのための洗盤です。しかし、ちょっとその前に、「贖い金」について語られています。11節には、「あなたがイスラエルの子らの登録のためにその頭数を調べるとき、各人はその登録にあたり、自分のたましいの償い金を主に納めなければならない。これは、彼らの登録にあたり、彼らにわざわいが起こらないようにするためである。」とあります。この贖い金を収めるのは、人口調査がある度でした。各人はその登録にあたり、自分のたましいの贖い金を主に収めなければならなかったのです。その額は、一人半シェケルです。20歳以上の男子は、全員その額を収めました。富んだ者も、貧しい者も皆同じ額です。その目的は、わざわいが起こらないためでした。どういうことでしょうか。為政者は、人口調査をすると傲慢になりやすくなります。自分の力を誇るようになるからです。Ⅱサムエル24章には、ダビデが主のみこころでない人口調査をしたことが記されてあります。その結果、主からの刑罰を受けることになってしまいました。この傲慢の罪を戒めるのが贖い金です。贖い(金)の目的は、幕屋の建設のためでした。幕屋が完成した後は、その維持運営のための資金になりました。

ですから、この贖い金は、神の働きは神の民のささげ物によって支えられているという原則を教えています。Ⅰテモテ5:18には、「聖書に「脱穀をしている牛に口籠をはめてはならない」、また「働く者が報酬を受けるのは当然である」と言われているからです。」とありますが、それは新約聖書でも同じことです。フルタイムの献身者は、信徒たちの献金によって支えられているという原則が教えられています。私たちが霊的な祝福を受けているのなら、物質的なものでその働きを援助し、主の働き人が安心してその働きに専念できるようにしましょう。

Ⅲ.洗盤(17-21)

次に、17節から21節までをご覧ください。ここには、幕屋の備品の最後のもについて記されてあります。それは洗盤です。  「主はまた、モーセに告げられた。「洗いのために洗盤とその台を青銅で作り、それを会見の天幕と祭壇の間に置き、その中に水を入れよ。アロンとその子らは、そこで手と足を洗う。彼らが会見の天幕に入るときには水を浴びる。 彼らが死ぬことのないようにするためである。 また、彼らが、主への食物のささげ物を焼いて煙にする務めのために祭壇に近づくときにも、その手、その足を洗う。彼らが死ぬことのないようにするためである。これは、彼とその子孫にとって代々にわたる永遠の掟である。」」

この備品も、青銅で作られました。どのような天候にも耐え、水がずっと入っていても錆びないためです。それを会見の天幕と祭壇の間に置きました。それは、アロンとその子どもたちが幕屋に入る前に、手と足を洗うためでした。それは彼らが死ぬことがないためです。このことが、20節と21節で繰り返して言われています。それは、それがどれほど重要なことであり、また、真剣に行われなければならないことであるかを示すためでした。これはどういうことでしょうか。

このことが教えていることは明らかです。つまり、手と足は私たちの日ごとの務めの事を表していました。私たちが日々の仕事をしていく時、私たちは肉体的にも霊的にも汚れ、埃をかぶってしまいます。ですから洗盤で手足を洗うのは、そうした内側の清めを表していたのです。祭司たちは、常に主に仕えていて、その働きの中に身を沈めていたので、自分たちは霊的に大丈夫だと思いがちでした。それは現代のクリスチャンたちにとっても同じことで、自分たちはお酒を飲まないし、タバコも吸わない。悪い言葉も使わないし、そういうことをする人たちとも付き合わないので、汚れていないと考えがちですが、しかし、本当にそうなのかどうか吟味するために洗盤で洗わなければなりません。そうすると、自分がいかに汚れた者であるのかに気付かせられることになるでしょう。自分はいつも霊的に十分なのではなく、常にきよめが必要であるということを知る必要があったのです。

この洗盤(水)は、真理のみことばを象徴していました。ヨハネ15:3には、「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、すでにきよいのです。」とあります。またヨハネ17:17には、「真理によって彼らを聖別してください。あなたのみことばは真理です。」とあります。私たちは、真理のみことばによって聖め分かたれるのです。またエペソ5:26には、「みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとする」とあります。神のみことばを聞いて、心が洗われるのです。毎日、毎日、みことばの水を浴びなければなりません。みことばを知れば知るほど自分がいかに汚れた者であるかを知るようになります。日々、真理のみことばによって聖められ、神の御前に出て行かなければなりません。

Ⅲ.聖なる注ぎの油(22-33)

幕屋の中で、礼拝のために必要なもう二つの事が書かれてあります。それは、注ぎの油と香の祭壇で焚かれる香です。まず注ぎの油です。22節から33節までをご覧ください。  「主はモーセにこう告げられた。「あなたは最上の香料を取れ。液体の没薬を五百シェケル、香りの良いシナモンをその半分の二百五十シェケル、香りの良い菖蒲を二百五十シェケル、桂枝を聖所のシェケルで五百シェケル、オリーブ油を一ヒン。あなたは調香の技法を凝らしてこれらを調合し、聖なる注ぎの油を作る。これが聖なる注ぎの油となる。そして、次のものに油注ぎを行う。会見の天幕、あかしの箱、机とそのすべての備品、 燭台とそのすべての器具、 香の祭壇、全焼のささげ物の祭壇とそのすべての用具、 洗盤とその台。こうして、これらを聖別するなら、それは最も聖なるものとなる。これらに触れるものはすべて、聖なるものとなる。あなたはアロンとその子らに油注ぎを行い、彼らを聖別して、祭司としてわたしに仕えさせなければならない。あなたはイスラエルの子らに告げよ。これは、あなたがたの代々にわたり、わたしにとって聖なる注ぎの油となる。これを人のからだに注いではならない。また、この割合で、これと似たものを作ってはならない。これは聖なるものであり、あなたがたにとっても聖なるものでなければならない。すべて、これと似たものを調合する者、または、これをほかの人に付ける者は、だれでも自分の民から断ち切られる。」」

この最上の香料とは、聖なる注ぎの油のことです。その作り方は、23節と24節にある材料を調合して作ります。そして26-28でその油を注がなければならない物は何かを示しています。すなわち、会見の天幕、あかしの箱、机とそのすべての備品、 燭台とそのすべての器具、 香の祭壇、全焼のささげ物の祭壇とそのすべての用具、 洗盤とその台です。  その結果は何でしょうか。29節にはこのように書かれてあります。「こうして、これらを聖別するなら、それは最も聖なるものとなる。これらに触れるものはすべて、聖なるものとなる。」油注ぎを受ける前はただの備品でしたが、この聖なる油注ぎを受けた後は、それらはきよめられ、聖なるものとなったのです。どういうことですか。これらのものは物ですから、元々罪があるわけではありません。ですから、これらのものがきよめられるというのは、神聖な働きのために用いられるということです。これらの幕屋の備品は、油注ぎを受けた後で、100%主のために捧げられ用いられたのです。他の目的のために使われることはありませんでした。これが、聖なるものとなるという意味です。それはこれらのものに触れる者も同じです。聖なるものとなりました。イスラエルの民は、ただの好奇心から祭壇や洗盤に近づいて触れることは許されていませんでした。それは主と主に関わる務めに捧げられた者だけが携わることができたのです。それでアロンとアロンの子どもたちもまた、この油注ぎを受けなければならなかったのです。

32節と33節には、この聖なる油について二つの禁止令が語られています。それは、これに似たものを調合してはならないということ、そして、祭司以外のものにこれを注いではならないということです。もしこの命令に違反した場合は、イスラエルの民の中から断ち切られました。死によってか、追放されることによってかのいずれかの方法で、断ち切られたのです。これはどういうことでしょうか。  この注ぎの油は聖霊を象徴していました。Ⅰヨハネ2:27にこうあります。「しかし、あなたがたのうちには、御子から受けた注ぎの油がとどまっているので、だれかに教えてもらう必要はありません。その注ぎの油が、すべてについてあなたがたに教えてくれます。それは真理であって偽りではありませんから、あなたがたは教えられたとおり、御子のうちにとどまりなさい。」どういうことですか。私たちには御子から受けた注ぎの油があるので、だれにも教えてもらう必要はないということです。この注ぎの油が、すべてのことを教えてくれます。この注ぎの油こそ真理の御霊です。この御霊が、私たちにすべてのことを教えてくれるので、これに何かを調合してはならないのです。つまり偽教師から教えてもらう必要はないということです。私たちには聖霊の油が注がれているので、聖霊の助けと導きを求めて祈らなければならないのです。この油に他のものを混ぜたりしてはなりません。

Ⅳ.香の祭壇で焚かれる香(34-38)

最後に、34節から38節までを見て終わります。ここには、幕屋の中で、礼拝のために必要なもう一つの事が教えられています。それは、香の祭壇で焚かれる香です。  「主はモーセに言われた。「あなたは香料のナタフ香、シェヘレテ香、ヘルベナ香と純粋な乳香を取れ。これらは、それぞれ同じ量でなければならない。これをもって、調香の技法を凝らして調合された、塩気のある、きよい、聖なる香を作れ。また、その一部を打ち砕いて粉にし、その一部を、わたしがあなたと会う会見の天幕の中のあかしの箱の前に供える。これは、あなたがたにとって最も聖なるものである。その割合で作る香を自分たちのために作ってはならない。 それはあなたにとって、主に対して聖なるものである。これと似たものを作って、これを嗅ぐ者は、自分の民の間から断ち切られる。」」

香料は、高価な材料(香料)を調合して作られました。ナタフ香、シェヘレナ香、ヘルベナ香、純粋な乳香の四種類の香料を同じ量だけ取らなければなりませんでした。これらの四種類の香料を調合法にしたがって混ぜ、香ばしい聖なる純粋な香料を作りました。この香は、聖所の中に配置された香の壇の上で、香として焚くためのものです。また、その一部を砕いて粉にし、その一部を、会見の天幕のあかしの箱に供えました。細かく砕いたのは、燃えやすくするためです。この香料に関しても、厳しい禁止事項が記されています。それは、これと似たものを、自分自身のために作ってはならないということです。どういうことでしょうか。

前述したように、この香の壇と香は、生徒たちの祈りを象徴しています。私たちの祈りは、キリストを通してのみ、父なる神の御前に香しい香りとなるのです。また、香はその日に必要なものを取り、よく砕いてから香の上で焚かれましたが、私たちの祈りも、砕かれた心で、日々御前にささげられるべきです。このような祈りを、神は決して蔑まれることはありません。

Ⅰサムエル記25章

今日は、少し長いですが、サムエル記第一25章全体から学びたいと思います。

Ⅰ.愚か者ナバル(1-12)

まず、1~8節までをご覧ください。
「サムエルは死んだ。全イスラエルは集まって、彼のために悼み悲しみ、ラマにある彼の家に葬った。ダビデは立ってパランの荒野に下って行った。マオンに一人の人がいた。カルメルで事業をしていて、非常に裕福で、羊三千匹、やぎ千匹を持っていた。彼はカルメルで羊の毛の刈り取りをしていた。この人の名はナバルといい、妻の名はアビガイルといった。この女は賢明で姿が美しかったが、夫は頑迷で行状が悪かった。彼はカレブ人であった。ダビデは、ナバルがその羊の毛を刈っていることを荒野で聞いた。ダビデは十人の若者を遣わし、その若者たちに言った。「カルメルへ上って行ってナバルのところに着いたら、私の名で彼に安否を尋ね、わが同胞に、こう言いなさい。『あなたに平安がありますように。あなたの家に平安がありますように。また、あなたのすべてのものに平安がありますように。 今、羊の毛を刈る者たちが、あなたのところにいるのを聞きました。あなたの羊飼いたちは、私たちと一緒にいましたが、彼らに恥をかかせたことはありませんでした。彼らがカルメルにいる間中、何かが失われることもありませんでした。あなたの若者たちに尋ねてみてください。彼らはそう報告するでしょう。ですから、私の若者たちに親切にしてやってください。祝いの日に来たのですから。どうか、しもべたちと、あなたの子ダビデに、何かあなたの手もとにある物を与えてください。』」

サムエルが死にました。彼の死は、全イスラエルに深い悲しみをもたらしました。それはダビデにとっても同じで、彼もまたサムエルの死を悼み悲しみました。ダビデにとってサムエルは霊的支えとなっていましたが、そのサムエルが死んだことで、これからは彼の祈りと助言を期待することができなくなってしまいました。それは、600人の部下を率いて荒野を放浪していたダビデにとって、すぐに現れました。彼らを養うという責任がダビデの肩に重くのしかかっていたからです。ちょうどそのようなとき、ダビデの耳にナバルという人の情報が飛び込んできました。

この人は、マオンに家があり、カルメルで事業をしていて、非常に裕福でした。彼は羊三千匹、やぎ千匹を持っていました。当時は、その人がどれだけ家畜を持っているかによって、その人がどれだけ裕福であるかがわかりました。そのことからすると、彼は非常に裕福であったことがわかります。この人の名はナバルで、妻の名はアビガイルと言いました。「ナバル」とは「愚か者」という意味があります。彼がどれほど愚か者であるかは、この後で起こる出来事によって示されますが、ここには、彼は「頑迷で行状が悪かった。」と紹介されています。頑迷とは、彼の心が頑なであったということを表しています。彼はカレブ人であったとあります。カレブと言えば、あのヨシュアとカレブのカレブで、非常に信仰的であった家系から出た者でしたが、実際にはそれとは裏腹に心が頑な人でした。しかし、彼の妻は彼とは対照的に、賢明で、姿が美しかったとあります。彼女は聡明で、美人だったのです。

そのナバルがカルメルで羊の毛の刈り取りをしていたとき、ダビデは彼のもとに若者十人を遣わして、彼と彼の家を祝福し、彼の手もとにある物を与えてくれるようにと頼みました。それはダビデが彼の羊飼いたちを守ってきたという事実に基づいての依頼でした。

それに対して、ナバルはどのように応答したでしょうか。9節から12節までをご覧ください。
「ダビデの若者たちは行って、言われたとおりのことをダビデの名によってナバルに告げ、答えを待った。ナバルはダビデの家来たちに答えて言った。「ダビデとは何者だ。エッサイの子とは何者だ。このごろは、主人のところから脱走する家来が多くなっている。私のパンと水、それに羊の毛を刈り取る者たちのために屠った肉を取って、どこから来たかも分からない者どもに、くれてやらなければならないのか。」ダビデの若者たちは、もと来た道を引き返し、戻って来て、これら一部始終をダビデに報告した。」

ダビデの若者たちは行って、ダビデに言われたとおりのことをナバルに告げると、ナバルはダビデを侮辱して言いました。「ダビデとは何者だ。エッサイの子とは何者だ。」ナバルはダビデについて聞いて知っていたはずです。それなのに彼はダビデを知らないふりをして侮辱したのです。そればかりではありません。「このごろは、主人のところから脱走する家来が多くなっている。」と言って、ダビデを悪者扱いしました。さらに、「私のパンと水、それに羊の毛を刈り取る者たちのために屠った肉を取って、どこから来たかも分からない者どもに、くれてやらなければならないのか。」と大口をたたいて、ダビデの要請をキッパリと断ったのです。

「ナバル」という名前にはどんな意味がありましたか?ここにナバルの愚かさがあります。物質的か霊的かを問わず、祝福された者には貧しい者を助けるという義務があります。これが、神の国の原則なのです。それなのに彼は、この神の国の原則に生きようとしませんでした。なぜでしょうか?神への恐れがなかったからです。詩篇14:1には、「愚か者は心の中で「神はいない」と言う。彼らは腐っていて忌まわしいことを行う。善を行う者はいない。」とあります。つまり、彼は神に対して心が閉ざされていたのです。神への恐れがありませんでした。それゆえに、だれの忠告も受けようとしなかったのです。そのような人を待ち受けているのは、滅びしかありません。私たちはナバルのように神に対して心を閉ざすのではなく、神に対して心を開き、神を恐れて生きるものでありたいと願わされます。

Ⅱ.アビガイルのとりなし(13-31)

それに対してダビデはどのような態度を取ったでしょうか。13節をご覧ください。
「ダビデは部下に「各自、自分の剣を帯びよ」と命じた。それで、みな剣を身に帯びた。ダビデも剣を帯びた。四百人ほどの者がダビデについて上って行き、二百人は荷物のところにとどまった。」

若者たちの報告を受けたダビデは激怒し、「各自、自分の剣を帯よ。」と命じました。そしてダビデ自身も剣を帯び、ただちにナバル討伐に立ち上がりました。四百人ほどがダビデについて上って行き、二百人は本営に留まりました。当然と言えば当然でしょう。人間的に見れば、恩を仇で返すような相手を赦すことはできません。しかし、ここで自分を侮辱するわずかばかりの言葉を聞いて、感情をコントロールすることができなくなるほどに激怒し、ナバル一家を滅ぼそうとしたダビデの姿には、かつてサウルが祭司の町ノブを皆殺しにしたのを思い起こさせます(Ⅰサムエル22:19)。これは、明らかにダビデの罪でした。人間はどんなにすばらしい人であっても、必ずなんらかの欠点があるものです。そうした弱さに学びながら、ダビデの子として来られた神の子イエス様だけが何の罪もない完全な方であることを認め、この方に信頼して歩まなければなりません。

次に、14-22節までをご覧ください。
「ナバルの妻アビガイルに、若者の一人が告げて言った。「ダビデがご主人様に祝福のあいさつをするために、荒野から使者たちを遣わしたのに、ご主人様は彼らをののしりました。あの人たちは私たちにとても良くしてくれたのです。私たちは恥をかかされたこともなく、野で一緒にいて行動をともにしていた間、何も失いませんでした。一緒に羊を飼っている間は、夜も昼も、彼らは私たちのために防壁となってくれました。今、あなたがどうすればよいか、よく考えてください。わざわいがご主人とその一家に及ぶことは、もう、はっきりしています。ご主人はよこしまな方ですから、だれも話しかけることができません。」アビガイルは急いでパン二百個、ぶどう酒の皮袋二つ、料理した羊五匹、炒り麦五セア、干しぶどう百房、干しいちじく二百個を取って、これをろばに載せ、自分の若者たちに言った。「私の先を進みなさい。あなたがたについて行くから。」ただ、彼女は夫ナバルには何も告げなかった。アビガイルがろばに乗って山陰を下って行くと、ちょうど、ダビデとその部下が彼女の方に下って来るのに出会った。ダビデは、こう言ったばかりであった。「荒野で、あの男のものをすべて守ってやったので、その財産は何一つ失われなかったが、それは全く無駄だった。あの男は善に代えて悪を返した。もし私が明日の朝までに、あの男に属する者のうち小童一人でも残しておくなら、神がこのダビデを幾重にも罰せられるように。」」

すると、ナバルの妻アビガイルの下に若者の一人がやって来て、その一部始終を告げました。彼が告げたことは、ダビデがナバルに祝福のあいさつをするために、荒野から使者たちを遣わしたのに、主人ナバルは彼らをののしったということ。そのののしったダビデとその部下たちというのは非常に良い人たちで、自分たちが野で羊を飼っていたときに良くしてくれたばかりか、自分たちのために防壁となってくれたということ。それゆえ、どうすればよいかをよく考えていただきたいということでした。そして、最後にこの若者はこう言いました。「ご主人はよこしまな方ですから、だれも話しかけることができません。」

何とも大胆なことばです。実際、ナバルとはそれほど愚かな男であったのでしょう。また、この若者はアビガイルもそのように思っていて、自分の意見に同意してくれるという確信を持っていたのだと思います。

それを聞いたアビガイルはどうしたでしょうか。彼女は何が起こったのかをすぐに理解し、ただちに行動に移しました。パン二百個、ぶどう酒の皮袋二つ、料理した羊五匹、炒り麦五セア、干しぶどう百房、干しいちじく二百個を取って、これをろばに乗せ、若者たちを先に進ませて、ダビデのもとへと向かったのです。しかも、このことは夫ナバルには何も告げていませんでした。

アビガイルがろばに乗って山陰を下って行くと、ちょうど、ダビデとその部下が彼女の方に下って来るのに出会いました。彼女はダビデを見ると、急いでろばから降り、ダビデの前で顔を伏せて地面にひれ伏し、ダビデの足もとにひれ伏してこう言いました。24-31節です。
「ご主人様、あの責めは私にあります。どうか、はしためが、じかに申し上げることをお許しください。このはしためのことばをお聞きください。ご主人様、どうか、あのよこしまな者、ナバルのことなど気にかけないでください。あの者は名のとおりの男ですから。彼の名はナバルで、そのとおりの愚か者です。はしための私は、ご主人様がお遣わしになった若者たちに会ってはおりません。ご主人様。今、主は生きておられます。あなたのたましいも生きておられます。主は、あなたが血を流しに行かれるのを止め、ご自分の手で復讐なさることを止められました。あなたの敵、ご主人様に対して害を加えようとする者どもが、ナバルのようになりますように。今、はしためが、ご主人様に持って参りましたこの贈り物を、ご主人様につき従う若者たちにお与えください。どうか、はしための背きをお赦しください。主は必ず、ご主人様のために、確かな家をお建てになるでしょう。ご主人様は主の戦いを戦っておられるのですから。あなたのうちには、一生の間、悪が見出されてはなりません。人があなたを追って、いのちを狙おうとしても、ご主人様のいのちは、あなたの神、主によって、いのちの袋にしまわれています。あなたの敵のいのちは、主が石投げのくぼみに入れて投げつけられるでしょう。主が、ご主人様について約束なさったすべての良いことをあなたに成し遂げ、あなたをイスラエルの君主に任じられたとき、理由もなく血を流したり、ご主人様自身で復讐したりされたことが、つまずきとなり、ご主人様の心の妨げとなりませんように。主がご主人様を栄えさせてくださったら、このはしためを思い出してください。」(24-31)

ここでアビガイルはダビデにどんなことを言ったのでしょうか。彼女はまず、「あの責めは私にあります」と、自分の罪を認めて告白しました。ダビデが遣わした若者たちに気付かなかったのは、自分の罪だというのです。すごいですね。その上で、自分の罪を赦してほしいと願っています。一方、夫については、何と言っていますか。夫ナバルはその名のとおりよこしまな者、愚かな者だから、彼のことに関しては気にかけないでほしいと懇願しています。また、自分がダビデのもとに来たことで、ダビデが自分の手で復讐されることを主が止められたことを告げ、その主が復讐してくださるようにと祈りました。それはダビデが主の戦いをしているからです。主の戦いにおいて重要なことは、悪が見出されてはならないということです。それなのに、もしダビデがナバルと戦うというのであればそれは単なる復讐にすぎず、ダビデの名を汚すことになります。彼女は、ダビデがイスラエルの王になることを確信していました。それゆえ、理由もなく血を流したり、復讐をして、ダビデのつまずきとなったり、心のさまたげとなったりすることがないようにし、主がダビデを栄えさせてくださるようにと祈ったのです。

これは、感情的になっていたダビデにとっては最善のアドバイスでした。もしダビデが感情的になってナバルを攻撃していたとすれば、彼の人生にとって大きな汚点となっていたことでしょう。ですから、アビガイルのことばは、そんなダビデを悪からから救ったといっても過言ではありません。

アビガイルのとりなしは言葉には、深い感動を覚えます。なんと聡明で、行動力と説得力をもった女性でしょうか。彼女はダビデに贈り物をささげて、夫とその家のためにとりなしをしました。私たちのためにとりなしてくださるのはイエス様です。イエス様は自らのいのちをささげて、十字架の上で、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:34)と言ってとりなしてくださいました。そのとりなしによって、私たちの罪は赦され、神の子とされました。そして、イエス様は今も天で大祭司として、私たちのためにとりなしていてくださるのです。

そんなアビガイルのとりなしに対して、ダビデは何と言ったでしょうか。32~35節をご覧ください。
「ダビデはアビガイルに言った。「イスラエルの神、主がほめたたえられますように。主は今日、あなたを送り、私に会わせてくださった。あなたの判断がほめたたえられるように。また、あなたが、ほめたたえられるように。あなたは今日、私が人の血を流しに行き、私自身の手で復讐しようとするのをやめさせた。イスラエルの神、主は生きておられる。主は私を引き止めて、あなたに害を加えさせなかった。もし、あなたが急いで私に会いに来なかったなら、きっと、明け方までにナバルには小童が一人も残らなかっただろう。」ダビデはアビガイルの手から、彼女が持って来た物を受け取り、彼女に言った。「安心して、家へ上って行きなさい。見なさい。私はあなたの言うことを聞き、あなたの願いを受け入れた。」」

ダビデは、イスラエルの神をほめたたえ、アビガイルと合わせてくれた主に、心からの感謝をささげました。それは彼女が、ダビデが血を流すという罪、復讐するという罪から免れるようにしてくれたからです。もしアビガイルが来て引き止めてくれなかったら、きっとナバル一家を皆殺しに、主に罪を犯していたことでしょう。そう思うとダビデは、このアビガイルの判断をほめたたえずにはいられませんでした。ダビデは、アビガイルが持って来た贈り物を受け取り、彼女の願いのすべてを聞き届けました。

忠告してくれる人の言葉に耳を傾ける人は、知恵のある人です。そして、忠告してくれる人に感謝することができるなら、それはさらにすばらしいことです。忠告してくれる人の言葉は、時として痛く感じることがありますが、大切なのは自分がどう感じているかということではなく、その忠告者の言葉に耳を傾け、その言葉を受け入れることなのです。

Ⅲ.神のさばき(36-44)

最後に、36-44節を見て終わります。38節までをご覧ください。
「アビガイルがナバルのところに帰って来ると、ちょうどナバルは、自分の家で王の宴会のような宴会を開いていた。ナバルが上機嫌で、ひどく酔っていたので、アビガイルは明け方まで、何一つ彼に話さなかった。朝になって、ナバルの酔いがさめたとき、妻がこれらの出来事を彼に告げると、彼は気を失って石のようになった。十日ほどたって、主はナバルを打たれ、彼は死んだ。」

アビガイルがナバルのところに帰って来ると、彼はちょうど自分の家で王の宴会のようなものを開いていました。ナバルはかなり酔っていたので、彼女は明け方まで、何一つ話しませんでした。朝になって、ナバルの酔いがさめたとき、彼女が一連の出来事について彼に告げると、彼は気を失って石のようになりました。そして、それから10日後に息絶えたのです。いたいなぜ彼は死んでしまったのでしょうか。ここには、「主はナバルを打たれ」とあります。彼は単に病気で死んだのではなく、主が彼を打たれたので、彼は死んだのです。つまり、主が彼をさばかれたので、彼は死んだのです。ダビデが復讐を思いとどまったとき、主の出番がやって来ました。自分で復讐するのではなく、裁きを主にゆだねる人は幸いです。ローマ12:19にはこうあります。「愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。「復讐はわたしのもの。わたしが報復する。」主はそう言われます。」私たちも自分で復讐したいと思うことがありますが、復讐は神がなさることです。その神の怒りに任せましょう。そして、私たちは神のみこころに従い、悪に悪を返さず、すべての人が良いと思うことを行うように心がけたいと思います。

最後に、39-44節をご覧ください。
「ダビデはナバルが死んだことを聞いて言った。「主がほめたたえられますように。主は、私がナバルの手から受けた恥辱に対する私の訴えを取り上げ、このしもべが悪を行うのを引き止めてくださった。主はナバルの悪の報いをその頭上に返された。」ダビデは人を遣わして、アビガイルに自分の妻になるよう申し入れた。ダビデのしもべたちはカルメルのアビガイルのところに来て、彼女に、「ダビデはあなたを妻として迎えるために私たちを遣わしました」と言った。彼女はすぐに、地にひれ伏して礼をし、そして言った。「さあ。このはしためは、ご主人様のしもべたちの足を洗う女奴隷となりましょう。」アビガイルは急いで用意をして、ろばに乗り、彼女の五人の侍女を後に従え、ダビデの使者たちの後に従って行った。彼女はダビデの妻となった。ダビデはイズレエルの出であるアヒノアムを妻としていたので、二人ともダビデの妻となった。サウルはダビデの妻であった自分の娘ミカルを、ガリム出身のライシュの子パルティに与えていた。」

ナバルが死んだという知らせを聞き、ダビデは主をほめたたえました。自分で復讐せずとも、主が彼をさばいてくださったからです。それからしばらくして、ダビデは人を遣わして、アビガイルに結婚を申し入れました。ダビデの最初の妻はサウルの娘のミルカでしたが、サウルは彼女をガリム出身のライシュの子パルティに与えていたからです。しかし、彼にはもう一人の妻がいました。イズレエルの出身のアヒノアムという女性です。今の間隔からすると、不思議な感覚です。旧約聖書を見ると、確かに申命記17:17には、「多くの妻を持ってはならない。」とありますが、たとえば、アブラハムにしても、ヤコブにしても、このダビデにしても、ソロモンにしても、複数の妻がいました。しかも神は、そのことを明確には糾弾しておられません。なぜでしょうか。

その一つの背景には、当時の婦人たちが、父親、兄弟、夫などに依存して生活していたことがあげられます。未婚の女性や夫に先立たれた婦人は、非常に厳しい状況の中に置かれました。彼女たちに残された道は、娼婦になるか、奴隷になるか、餓死するか、のいずれかだったのです。そう考えると、一夫多妻制には、女性を救済するという側面があったことが分かります。と同時に、一夫多妻制によって数々の問題が生じたことも事実です。たとえば、アブラハムもヤコブも、妻たちの対立関係によって苦しめられました。ダビデもまた、家庭内の不和に苦しみました。ソロモンの場合は、異教の妻たちを通して偶像礼拝をイスラエルに持ち込むことになりました。 それなのに、どうしてこのことが許容されたのでしょうか。

創世記2:24には、「それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである」 とあります。従って、一夫多妻制は神が積極的に認めたものではなく、堕落した人間が始めた習慣だと言えます。新約聖書を見ると、神の計画が、結婚の最初の形態である一夫一婦制を回復する段階に入ったことがわかります。マタイ19:4からのところでイエス様は、「何か理由があれば、妻を離縁することは律法にかなっていることでしょうか。」というパリサイ人の質問に対して、あの創世記2:24のことばを引用し、二人は一体であることを教えられました。つまり、一夫一婦を支持されたのです。そして、もし妻を離縁し、別の女を妻とする者は姦淫を犯すことになると言われました。もし一夫多妻制が神のみこころなら、イエス様はこのようなことを言わなかったでしょう。ですから、聖書が教えていることは、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのであって、複数の女性と結びつくことではありません。それなのに神が一夫多妻制を一時的に黙認されたのは、先に述べた理由があったからです。しかし、近代社会においては、女性が自立して生きる可能性は広がりました。今でも一夫多妻制を必要とする文化圏があるかもしれませんが、それは極めて希なケースです。現在、ほとんどの国で一夫一婦制が法制化されています。クリスチャンは、神の御心に反しない限り、自分の国の法律に従うように命じられています。それゆえ、今は一夫一婦制だけが有効な結婚の在り方であると言えるのです。

アビガイルはすぐに行動を起こします。彼女はすぐに、地にひれ伏して礼をし、「さあ、このはしためは、ご主人さまのしもべたちの足を洗う女奴隷となりましょう。」と言いました。彼女の姿勢は、仕えるしもべそのものでした。しもべたちのしもべになろうというのですから。そして、急いで用意して、彼女の5人の侍女を後に従え、ダビデの使いたちのあとに従って行きました。こうして彼女はダビデの最初の妻ミカル、二番目の妻アヒノアムに続いて3番目の妻となりました。

アビガイルは、先にある栄光のゆえに、ダビデとともに苦しむことを選び取ったのです。私たちもまた、将来の祝福の約束を信じて、キリストとともに苦しむことを選び取った者たちです。かつてロトの妻が後ろを振り返って塩の柱となってしまったように、この世を振り返って塩の柱にならないように、主が与えてくださった栄光を見つめて、前進していきましょう

ヨハネの福音書18章12~27節「イエスを否定したペテロ」

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きょうは、ヨハネ18:12~27から「イエスを否定したペテロ」というタイトルでお話しします。

Ⅰ.ペテロの弱さ (12-18)

まず12節から14節までをご覧ください。
「一隊の兵士と千人隊長、それにユダヤ人の下役たちは、イエスを捕らえて縛り、まずアンナスのところに連れて行った。彼が、その年の大祭司であったカヤパのしゅうとだったからである。カヤパは、一人の人が民に代わって死ぬほうが得策である、とユダヤ人に助言した人である。」

ゲッセマネの園でイエスは、イスカリオテのユダの裏切りにより一隊のローマ兵士と祭司長たちによって送られた下役によって捕えられました。しかし、イエスはご自分に起ころうとしていることをすべて知っておられたので、自ら進み出て、「だれを捜しているのか」と彼らに言われました。ここで著者のヨハネが示そうとしていたのは、自ら進んで十字架に向かおうとしおられた主イエスの姿です。それとは裏腹に、このゲッセマネの園は人間の弱さも示していました。ペテロはイエスを捕らえるためにやって来た人たちの一人、大祭司のしもべに切りかかり、右の耳を切り落としてしまいました。なぜそんなことをしたのでしょうか。そんなことをすれば捕らえられてしまうことになります。剣は真の解決をもたらしません。それでイエスは、ペテロに「剣をさやに収めなさい」と言われ、このしもべの耳を癒されました。イエスの最後の奇跡は、ペテロの失敗をカバーするものだったのです。

一隊の兵士と千人隊長、それにユダヤ人の下役たちは、イエスを捕らえると、どこへ行きましたか。まずアンナスのところに連れて行きました。なぜ?彼がその年の大祭司カヤパのしゅうとだったからです。彼自身も以前大祭司でしたが今は引退しており、代わって娘婿のカヤパが大祭司になっていたこともあって、まだ相当の影響力をもっていたのです。いわば陰の実力者だったわけです。それで、彼らはまずアンナスのところに連れて行き、そこで不当な裁判が持たれたのです。その後、現大祭司のカヤパのもとに連れて行かれますが、ヨハネはここでそのカヤパを紹介するにあたり、彼が以前ユダヤ人に助言した言葉をもう一度引用しています。14節です。「カヤパは、一人の人が民に代わって死ぬ方が得策である、とユダヤ人に助言した人である。」。ヨハネはなぜこの言葉を引用したのでしょうか。それは、カヤパが自分たちの利益のみを考えて語った言葉が、はからずもそれがイエス・キリストの身代わりの死を予告していたからです。ですから、ヨハネは再びそれを引用することによって、イエスの身代わりの死がいよいよ始まろうとしていたことを、示そうとしたのです。

15~18節までをご覧ください。
「シモン・ペテロともう一人の弟子はイエスについて行った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の家の中庭に入ったが、「ペテロは外で門のところに立っていた。それで、大祭司の知り合いだったもう一人の弟子が出て来て、門番の女に話し、ペテロを中に入れた。すると、門番をしていた召使いの女がペテロに、「あなたも、あの人の弟子ではないでしょうね」と言った。ペテロは「違う」と言った。しもべたちや下役たちは、寒かったので炭火を起こし、立って暖まっていた。ペテロも彼らと一緒に立って暖まっていた。」

イエスが捕らえられアンナスのところへ連れて行かれた時、弟子たちはどうしたでしょうか。シモン・ペテロともう一人の弟子はイエスについて行きました。「もう一人の弟子」とは、もちろん、この福音書を書いているヨハネのことです。イエスが捕らえられると、他の弟子たちはイエスを見捨てて一目散に逃げて行きましたが、シモン・ペテロともうひとりの弟子であるヨハネはイエスについて行きました。そしてヨハネは大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の中庭に入りましたが、ペテロはそうでなかったので、門の外から中の様子を眺めていました。この大祭司とはアンナスのことです。先ほども申し上げたように、現役の大祭司はカヤパですが、アンナスも大祭司とみなされていたのです。

ここには、そのアンナスとヨハネが知り合いだったとありますが、どうして彼らが知り合いだったのかはよくわかっていません。ある人は、ヨハネの父ゼベダイはガリラヤ湖で魚を捕っていた漁師でしたが、そのとれた魚を大祭司に届けていたことで、知り合いになったのではないかと考えています。しかし、いくら魚を届けていたとしても、ガリラヤ湖からエルサレムまでは遠すぎます。また、漁師と大祭司とでは身分が違いすぎることから、少し考えにくいことだと思います。

それである人は、ヨハネの母はサロメですが(マタイ27:56)、サロメはイエスの母マリヤの親戚であったことから、そのマリヤの親戚にはだれがいましたか。そうです、バプテスマのヨハネの母エリサベツがいました。そして、エリサベツの夫は祭司ザカリヤでしたから、それでヨハネは大祭司とも知り合いだったのではないかというのです。この考えが有力ではないかと思いますが、いずれにせよ、ヨハネは大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の中庭に入ることができました。

一方、ペテロはというと、16節を見てください。彼は、門のところに立っていました。でもこれは、ただ立っていたというよりも、どこか彼の心の状態を表しているかのようです。彼は以前、「あなたのためならいのちも捨てます」と言いましたが、今は臆病になっていて中に入って行くことができませんでした。入って行こうものなら、自分も捕らえられてしまうのではないかと恐れていたからです。門のところに立って、遠くからその様子を眺めていました。それでヨハネが出て来て、門番の女に話をして、彼を中に入れてもらうようにしました。

すると、門番をしていた召使いの女が、いきなりペテロにこう言いました。「あなたもあの人の弟子ではないでしょうね」ドキッ!ですよね。不意打ちを食らったかのような突然の質問に、ペテロは驚きを隠すことができませんでした。それで冷静さを装いながら、「違う」と言いました。彼女としてはあまり見た顔ではなかったので、軽く聞いただけだったのでしょうが、ペテロとしては息がとまるのではないかと思ったことでしょう。辺りは薄暗かったので互いの顔もはっきり見えない状態だったこともあって、何とかその場を切り抜けることかできました。でも彼はイエス様に「あなたのためなら、いのちも捨てます」と言った人ですよ。また、ゲッセマネの園では、一隊のローマ兵士とユダヤ人の下役たちがイエスを捕らえに来た、勇敢に剣を取って大祭司のしもべの耳を切り落とした人です。そのペテロが、門番をしていた召使いの女が放ったたった一つのことばに、シュ~ンとなってしまいました。びくびくしていたのです。「あなたのためなら、いのちも捨てます」と言ったあの言葉はいったい何だったのでしょうか。人間的な強がりとか意志というものは、ほんとうに弱いなあと思いますね。いざとなると、自分を守ることしか考えられないのですから。それはペテロだけではありません。私たちも同じです。私たちも、主の支えがなければ実は何も出来ない弱い者にすぎません。このことがわかっていないと、この時のペテロのようになってしまいます。自分では信仰があると思っていても、それは信仰とは全く異質の人間的な強がりや意志にすぎないということがあるのです。

それは、18節のペテロの態度にも見られます。しもべたちや下役たちは、寒かったので炭火を起こして立って暖まっていましたが、ペテロも彼らと一緒にいて、立って暖まっていました。これは過越の祭りの期間でした。過越の祭りは3月末から4月中旬までの間に行われますから、まだ肌寒いわけです。しかも真夜中であれば相当寒かったでしょう。それでしもべたちや下役たちが炭火を起こして暖まっていたのですが、ペテロもちゃっかりとそこに混じって暖まっていました。彼自身は気付いていなかったでしょうが、実はこれは大変危険なことでした。敵の火で暖まっていたのですから。これは外の気温だけでなく彼の心も冷えていたということです。ペテロの心も寒かった。それで彼は敵の火で暖めていたのです。私たちにもこういうことがありますね。イエス様は何と言われましたか。イエス様はいつもの場所、ゲッセマネの園に来られると、こう言われました。「誘惑に陥らないように祈っていなさい。」(ルカ22:40)イエス様は十字架を前にして、悲しみのあまり死ぬほどでした。ですから、苦しみもだえながら、いよいよ切に祈られたのです。それは汗が血のしずくのように滴り落ちるほどでした。ところが、弟子たちは何をしていたかというと、彼らは眠りこけていました。「どうして眠っているのですか。誘惑に陥らないように、起きて祈っていなさい。」(ルカ22:46)と言われても、彼らはまた眠りこけてしまいました。起きていることができなかったのです。同じことが三度繰り返されました。確かに彼らは疲れていましたが、ただ疲れていたのではありません。霊的に眠った状態だったのです。祈るべき時に祈らないとこうなってしまいます。私たちは本当に弱い者であり、どんなに信仰があると言っても、祈らないで行動すると簡単に失敗したり、躓いてしまうことになります。敵の火で暖まってしまうようなことになるのです。それはただ気温が寒かったからということではなく、ペテロの心が寒かったから、ペテロの信仰が寒かったからです。ペテロの失敗の本当の原因はここにありました。私たちも誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなければなりません。

Ⅱ.イエスの強さ(19-24)

次に、19節から24節までをご覧ください。
「大祭司はイエスに、弟子たちのことや教えについて尋問した。イエスは彼に答えられた。「わたしは世に対して公然と話しました。いつでも、ユダヤ人がみな集まる会堂や宮で教えました。何も隠れて話してはいません。なぜ、わたしに尋ねるのですか。わたしが人々に何を話したかは、それを聞いた人たちに尋ねなさい。その人たちなら、わたしが話したことを知っています。」イエスがこう言われたとき、そばに立っていた下役の一人が、「大祭司にそのような答え方をするのか」と言って、平手でイエスを打った。イエスは彼に答えられた。「わたしの言ったことが悪いのなら、悪いという証拠を示しなさい。正しいのなら、なぜ、わたしを打つのですか。」アンナスは、イエスを縛ったまま大祭司カヤパのところに送った。」

一方、アンナスのところに連れて行かれたイエス様はとうなったでしょうか。場面がペテロのシーンからイエスの裁判に移っています。場所は同じ大祭司の中庭ですが、映画のシーンのように、ペテロとイエスのシーンを交互に映し出しています。ここに出てくる大祭司もアンナスのことです。これは実際の裁判ではなく、実際の裁判が行われ前の予備尋問のようなものでした。最初からイエスを有罪と決めつけての尋問ですから、訴訟手続きそのものに問題があります。彼はどんなことを尋問しましたか。彼はイエスに弟子たちについて、また、その教えについて尋問しました。弟子たちについて尋問したのは、ローマ帝国に対する反逆罪で弟子たち全員を総督ピラトに告発するためだったのでしょう。また、イエスの教えてについて尋問したのは、その教えが神を冒涜するものであることを暴き、冒涜罪で立証するためでした。

それに対してイエス様は何と答えましたか。20-21節をご覧ください。イエス様は弟子たちに関しては沈黙されましたが、その教えに関しては、それは公然となされたのだから、それを聞いた人たちに尋ねなさい、と言われました。そして、もし何か問題があるなら、その人たちに聞くべきだというのです。というのは、律法には何とありますか。律法には、裁判において証言するのは本人ではなく、二人か三人の証言者によるとあるからです。

すると、そばに立っていた下役の一人が、「大祭司にそのような答え方をするのか」と言って、平手でイエスを打ちました。最初に神の子に手を出したのは、正義を行うはずの下役たち、ユダヤ教の神殿警備隊の者でした。「恐れ多くも先の副将軍・・」という文句がありますが、恐れ多くも先の副将軍どころか全地の主、神の子イエスを平手で打ったのです。しかし、この下役の言葉と行動には注目すべきものがあります。というのは、彼が言っていることは一理あるからです。大祭司にそのような答え方をするのはよくありません。問題は、彼が平手で打った方がどういう方であるかを知らなかったことです。「大祭司にそのような答え方をするのか」と言って彼が平手で打ったお方こそ、実は真の大祭司だったのです。イエス・キリストは永遠の大祭司であり、神と人をとりなすお方です。このとりなしの働きをするために、人間の大祭司が一時的に立てられていたわけですが、その大祭司の権威を認め、その権威を尊重することはとても大切なことです。ですから、この下役が取った態度は間違いではありませんでした。彼の過ちは、自分の目の前にいるお方が真の大祭司であったということを知らなかったことです。もしもこの役人の霊的な目が開かれていて、自分の目の前にいるお方が聖なるお方、全能の神、メシアであることを知っていたなら、彼の行動は全く違ったものになっていたでしょう。彼は即座にキリストの足元にひれ伏して礼拝したに違いありません。

ある国の皇太子が、クルージングを楽しんでいました。やがて霧が出て来て前方を遮りました。すると灯りが見えます。このままでは衝突してしまいます。相手にメッセージを送りました。
「そちらの進路を変更されたし!」
すると相手から返事が返って来ました。
「そちらこそ進路を変えてください」
皇太子は頭に来て、改めてメッセージを送りました。
「そっちが変更しろ!こっちは皇太子である」
すると再び相手から返事がありました。
「進路を変えるのはそちらです。こちらは灯台です」
もし、あなたが皇太子ならどうしますか?

まさにイエス様は世の光です。灯台なるお方です。進路を変えなければからないのは、私たちの側なのです。この方こそ真の大祭司、聖なる方、全能の神、メシアであられるのです。それなら、どうしてこの方を打つのでしょうか。私たちはこの方が正しい方、神の子、救い主であると認め、この方の前にひれ伏さなければなりません。

さて、下役が平手でイエスを打つと、イエスは彼にこう言われました。「わたしの言ったことが悪いのなら、悪いという証拠を示しなさい。正しいのなら、なぜ、わたしを打つのですか。」

イエス様は、たとえ彼がご自分のことを知らなかったとは言え、悪に対しては毅然とした態度で立ち向かいました。相手が受け入れないということがわかっていても、正しいことを語られたのです。もしかすると、また平手で打たれるかもしれません。いや、今度はグーパンチが飛んでくるかもしれません。しかし、イエス様はそれに動じませんでした。「わたしの言ったことが悪いのなら、悪いという証拠を示しなさい。正しいのなら、なぜ、わたしを打つのですか。」と、堂々と応じたのです。悪に対して毅然とした態度で立ち向かったとはいえ、目には目を、歯には歯をと、暴力に対して暴力で対抗したのではなく、丁寧に相手の間違いを指摘されたのです。まさにイエスこそまことの神、王の王、主の主なのです。

Ⅲ.鶏の鳴き声を聞いたペテロ(25-27)

最後に、25-27節をご覧ください。
「さて、シモン・ペテロは立ったまま暖まっていた。すると、人々は彼に「あなたもあの人の弟子ではないだろうね」と言った。ペテロは否定して、「弟子ではない」と言った。大祭司のしもべの一人で、ペテロに耳を切り落とされた人の親類が言った。「あなたが園であの人と一緒にいるのを見たと思うが。」ペテロは再び否定した。すると、すぐに鶏が鳴いた。」

場面が再び大祭司の中庭にいたシモン・ペテロに戻ります。そこはイエス様が顔につばきをかけられ、殴りつけられていたところですが、一方ペテロはどうしていたかというと、彼はまだ敵の火に暖まっていました。イエス様が苦しめられている間、彼はずっと敵の火で暖まっていたのです。すると人々が彼にこう言いました。「あなたもあの人の弟子ではないだろうね。」(25)

マタイの福音書を見ると、彼らがそのように言ったのは、彼のことばになまりがあったからだとあります。彼らは「確かに、あなたもあの人たちの仲間だ。ことばのなまりで分かる。」(26:73)と言いました。これはきついですね。ことばのなまりはそう簡単には直せません。その人の言葉を聞くと、その人がどこの出身であるかがわかります。私の両親は福島県の霊山という山奥で生まれ育ったなので、二人ともかなりのズーズー弁なのです。「フクシマ」も「フクシマ」とは言わず、「フグシマ」と言います。なまりが抜けないのです。それで私もズーズー弁が抜けなくて、言葉には相当のコンプレックスがあるのです。私がこんなに内向的なのはそのせいです。ペテロはガリラヤ出身でしたから、そのことばのなまりでわかりました。するとペテロは否定して、「弟子ではない」と言いました。二回目です。今回は以前よりも否定する度合いが強くなっています。一回目は、「違う」だけでしたが、今回は「弟子ではない」とはっきりと否定しました。三回目はどうでしょう。

26節をご覧ください。今度は大祭司のしもべの一人で、ペテロに耳を切り落とされた人の親類が言いました。「あなたが園であの人と一緒にいるのを見たと思うが。」大祭司のしもべの一人で、ペテロに耳を切り落とされた人とはマルコスです。自分の親戚が耳を切り落とされたんです。ですから、その様子をしっかり見ていたのでしょう。相手の顔もよく覚えていました。その人が、「見たんです。あなたが園でマルコスの耳を切り落としたのをこの目で見たのです。」と言ったのですから、もう言い逃れは出来ません。

するとペテロは何と答えましたか。27節、「ペテロは再び否定した。」。もう一度否定しました。マタイの福音書を見ると、ただ否定したのではなく、「嘘ならのろわれてもよいと誓い始め、「そんな人は知らない」と言った。」(26:74)とあります。皆さんもよくあるでしょう。「神に誓ってもいい。嘘じゃない。私じゃない。」嘘なのに、嘘じゃないと、力を込めて否定したことがあるんじゃないですか。嘘なのに・・・。大抵の人は嘘の上に嘘を塗ろうとするとこのような結果になります。「のろわれてもよい」とは、絶対に嘘じゃないということです。ペテロは三度も否定しました。「すると、すぐに鶏が鳴いた。」コケコッコー!

イエス様はこのことを知っていました。ですから、最後の晩餐の時ペテロが「あなたのためなら、いのちも捨てます。」と言ったとき、こう言われたのです。「わたしのために命を捨てるのですか。まことに、まことに、あなたに言います。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」(13:38)

その御言葉の通りになりました。ペテロは鶏が鳴いた時、この言葉を思い出しました。ルカの福音書を見ると、この時イエス様が振り向いてペテロを見つめられたとあります(ルカ22:61)。目と目が合ったのです。そして彼は、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います。」とイエス様が言われたことばを思い出して、外に出て、激しく泣きました(ルカ22:62)。

ペテロは、以前は自分自身にとても自信のある男でした。行動的なタイプの人です。イエス様を愛して、本当にいのちをかけて最後まで従おうと思っていたでしょう。他の弟子たちが躓いても、自分だけは絶対にそんなことはないと思っていました。そのように思っていた彼が今、そうでないということに気付かされ、完全に打ちのめされてしまいました。完全に砕かれたのです。イエス様はそのことをちゃんと知っておられました。人間の強さというものがどれほど弱く、脆いものであるかということを。ですから、ペテロのためにとりなしの祈りをされたのです。ルカ22:31-32です。

「シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

ペテロは失敗しましたが、彼の信仰は無くなりませんでした。なぜでしょうか。イエス様が彼のために祈られたからです。彼はのろいまでかけて誓いイエス様を否定しましたが、それでも信仰が無くなりませんでした。なぜですか。それはイエス様が彼のために祈られたからです。そして復活してから後40日間、彼らの前にご自身を現わされると、ペテロに三度尋ねられました。

「あなたはわたしを愛しますか」

これは、ペテロが三度イエス様を否定したことを赦し、公に彼の信仰を回復させるためでした。ペテロが「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存知です。」と告白すると、主は、「わたしの羊を飼いなさい」と言われました。そして、初代教会の指導者として立ててくださったのです。ペテロの信仰は完全ではありませんでしたが、主が彼のために祈り、赦し、癒し、励まし、立ち上がらせてくださったので彼は神の器として用いられ、神の御言葉を通して多くの人々を救いに導き励ますことができたのです。

それは私たちも同じです。もしかすると、あなたは自分にはできないことはない、自分には何でもできると思っているかもしれません。自分にはそれだけの意志と力があると。しかし、自分自身に自信がある時には神の働きをすることはできません。表面的にはできるかもしれませんが、しかし、それで神の働きをすることはできないのです。神の働きは、自分が簡単に失敗し躓いてしまうような弱い者であることをとことん知り、神の前に砕かれ、自分の人生を主イエス様に明け渡した時に始まるのです。

ベトナムのダナンにあるカトリック教会、ダナン大聖堂は、ダナンの街でひときわ存在感を発揮するピンク色の教会です。屋根の上に鶏の像があることから「鶏教会」とも呼ばれています。なぜ屋根の上に鶏があるのかとある外がその教会の神父に尋ねると、その教会の神父はこう答えました。

「ペテロは残りの生涯の間、鶏の声を聞くたびにあの時のこと(イエス様を三度裏切ったこと)を思い出して泣いて悔い改めました。それ以来、教会に鶏の像をつけるようになったのです。」

私はそれを聞いて笑ってしまいました。そんな考えがどこから来るのでしょうか。聖書は何と言っていますか。ペテロはイエス様の御力を味わってから、完全な赦しを得て新しくされ、もう二度とその罪を思い起こすことはなかったのです。それなのにイエス様が赦してくださった罪を、鶏が鳴いたからと言ってまた思い出して泣くなどということはあり得ません。また人は神様のみことばを聞いて悔い改めるのであって、鶏の声を聞いて悔い改めるわけではないのです。

ペテロは、鶏の鳴き声を聞いて、イエス様が言われたことを思い出して激しく泣きました。彼は自分の弱さ、自分の足りなさに打ちのめされ完全に砕かれたのです。しかし、自分の罪を悔改めた彼は完全な赦しを得て新しくされ、自分の力ではなく、神の力、イエス・キリストの力に完全により頼んだので、神に大きく用いられたのです。

私たちもペテロと同じように弱い者です。多くの失敗をします。でも、安心してください。イエス様があなたのために祈っていてくださいます。あなたの信仰が無くならないようにと祈っていてくださるのです。イエス様はすでにあなたを赦してくださいました。ですから、あなたが立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやるべきです。まずはあなたが自分の弱さを知り、そんな者でさえも愛されていることを深く知って、イエス様にあなたの人生のすべてを明け渡すことです。あなたが神の前に砕かれるとき、神の恵みと神の力があなたに注がれるからです。

サムソンといえば、皆さんは何を思い浮かべるでしょうか。長髪を思い浮かべる人、腕力の強さを思い浮かべる人など、さまざまでしょう。「サムソナイト」というメーカーのスーツケースがありますが、これは丈夫で強いサムソンにちなんで名づけられたものです。彼は長所を生かせず失敗したヒーローです。彼は、神様の偉大なみわざを行うために用意された器でした。ところが、彼は大きな勝利の後に、女性を追いかけては失敗します。そして、最後は自分の力の秘密であった髪の毛を剃り落とされると、ペリシテ人に捕らえられ、両目をえぐり取られ、青銅の足かせをかけられて牢につながれてしまいました。しかし、牢の中で悔い改めた彼は再び神の力を受け、一度に三千人のペリシテ人を打ち殺すことができました。それは、彼が生きている間に殺した数よりも多かったと聖書にあります。確かに彼は失敗の多い人生でした。しかし、最後は神の御力を受けて神の器として働くことができたのです。

あなたもサムソンのように失敗することがあるかもしれません。ペテロのようにイエスを否定することがあるかもしれない。しかし、あなたが悔い改めて主に立ち返るなら、主はあなたを赦してくださいます。そして、あなたを立ち直らせてくださいます。主があなたのために祈られたからです。その時あなたは兄弟たちを力づけてやらなければなりません。それはあなたの力によってではなく、主の恵み、主の御力によってです。主はあなたの信仰がなくならないように祈られました。主の恵みに感謝しましょう。そしてこの恵みによって立ち直り、主の御力によって主に仕えさせていただきましょう。

Ⅰサムエル記24章

今日は、サムエル記第一24章から学びます。

Ⅰ.サウルの上着の裾を切り取ったダビデ(1-7)

まず、1~7節までをご覧ください。
「サウルがペリシテ人を追うのをやめて帰って来たとき、「ダビデが今、エン・ゲディの荒野にいます」と言って、彼に告げる者がいた。サウルは、イスラエル全体から三千人の精鋭を選り抜いて、エエリムの岩の東に、ダビデとその部下を捜しに出かけた。道の傍らにある羊の群れの囲い場に来ると、そこに洞穴があった。サウルは用をたすために中に入った。そのとき、ダビデとその部下は、その洞穴の奥の方に座っていた。ダビデの部下はダビデに言った。「今日こそ、主があなた様に、『見よ、わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。彼をあなたの良いと思うようにせよ』と言われた、その日です。」ダビデは立ち上がり、サウルの上着の裾を、こっそり切り取った。後になってダビデは、サウルの上着の裾を切り取ったことについて心を痛めた。彼は部下に言った。「私が主に逆らって、主に油注がれた方、私の主君に対して、そのようなことをして手を下すなど、絶対にあり得ないことだ。彼は主に油注がれた方なのだから。」ダビデはこのことで部下を説き伏せ、彼らがサウルに襲いかかるのを許さなかった。サウルは、洞穴から出て道を歩いて行った。」

ダビデを追ってマオンの荒野に向かったサウルでしたが、ペリシテ人がイスラエルに襲いかかって来たという知らせを受け、ダビデを追うのを止めて帰り、ペリシテ人との戦いに向かいました。そのペリシテ人との戦いも一段落ついたとき、そのサウルのもとに、ダビデが今度はエン・ゲディの荒野にいると告げる者がいました。エン・ゲディは、死海西岸にあります。滝から流れ落ちる水が豊富にあったため、逃亡者が身を隠して暮らすには最適な環境でした。ダビデはおよそ600人の部下を連れて、そこに身を隠していたのです。それでサウルは、イスラエル全体の中から3,000人の精鋭を選り抜いて、ダビデとその部下を捜しに出かけて行きました。

サウルは、エン・ゲディにやって来るとそこに洞窟があったので、用をたすために中に入りました。この洞窟は、夜間に羊の群れを入れておく所でした。ダビデとその部下たちは、その付近一帯の洞穴に分散して隠れていたのですが、サウルが入った洞穴は、ダビデとその部下数人が隠れていた所だったのです。彼らはその洞窟の一番奥の方にいたので、サウルにはその姿が見えませんでした。

するとダビデの部下たちがダビデに、「今日こそ、主があなた様に、『見よ、わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。彼をあなたの良いと思うようにせよ。』と言われた、その日です。」(4)と言いました。彼らはこの出来事を、主がサウルをダビデの手に渡されたものと解釈したのです。それに対してダビデはどのように行動したでしょうか。彼は立ち上がると、用をたしているサウルに近づき、サウルの上着の裾を、こっそりと切り取りました。それどころか、サウルの上着の裾を切り取ったことについてさえも心を痛めたのです。どうしてダビデはそのことで心を痛めたのでしょうか。どうしてダビデは自分のいのちを狙うために出て来たサウルをその場で殺さなかったのでしょうか。それはその後で彼が自分の部下たちに言った言葉からわかります。彼はこう言いました。「私が主に逆らって、主に油注がれた方、私の主君に対して、そのようなことをして手を下すなど、絶対にあり得ないことだ。彼は主に油注がれた方なのだから。」(6)どういうことでしょうか?主に油注がれた方、自分の主君に対して、そのようなことをして手を下すなど、絶対にあり得ないことだというのです。この時点でサウルは完全に神のみこころから外れて歩んでいましたが、だからといって、それが主に油を注がれて王になっている人を殺してもよいという理由にはなりません。なぜなら、イスラエルの王として彼を立て、彼に油を注がれたのは主ご自身であられるからです。従って、サウルに手を下すことは、サウルを王として立てられた主に背くことになるのです。サウルをさばくのは神ご自身であって、自分がすべきことではありません。たとえ上着の裾を切り取るという行為であっても許されることではありません。ダビデはそのことで心を痛めたのです。

詩篇57篇は、その時のダビデの心境を歌った詩です。表題には、「ダビデがサウルから逃れて洞窟にいたときに。」とあります。ですから、この歌は、まさにこの時にダビデが歌った詩なのです。
「私をあわれんでください。神よ。私をあわれんでください。私のたましいはあなたに身を避けていますから。私は滅びが過ぎ去るまで御翼の陰に身を避けます。私は いと高き方神を呼び求めます。私のためにすべてを成し遂げてくださる神を。神は 天から助けを送って 私を救い 私を踏みつける者どもを辱められます。セラ 神は 恵みとまことを送ってくださいます。私のたましいは 獅子たちの間で人の子らを貪り食う者の間で 横たわっています。彼らの歯は槍と矢 彼らの舌は鋭い剣です。神よ あなたが天で あなたの栄光が 全世界であがめられますように。彼らは私の足を狙って網を仕掛けました。私のたましいはうなだれています。彼らは私の前に穴を掘り自分でその中に落ちました。セラ
神よ 私の心は揺るぎません。私の心は揺るぎません。私は歌いほめ歌います。私のたましいよ 目を覚ませ。琴よ 竪琴よ目を覚ませ。私は暁を呼び覚まそう。主よ 私は国々の民の間であなたに感謝し もろもろの国民の間で あなたをほめ歌います。あなたの恵みは大きく 天にまで及び あなたのまことは雲にまで及ぶからです。神よ あなたが天で あなたの栄光が全地であがめられますように。」

4節には、「私のたましいは 獅子たちの間で 人の子らを食う者の間で 横たわっています。」とあります。まさに彼の置かれた状況はそのようなものでした。少しも安らぎなど感じることができない緊張した状況にありました。しかしそのような中でもダビデは、神に信頼しました。7節で彼は、「神よ 私の心は揺るぎません。私の心は揺るぎません。私は歌いほめ歌います。」と告白しています。そして主がその危険な状況から救い出してくださると確信して、主に感謝し、主にほめ歌を歌ったのです。

私たちの人生においても、同じような状況に置かれることがあります。自分に対して敵対心を持って向かってくる相手がいます。そのような時、ダビデの部下たちのように、自分で復讐しようと思うことがありますが、しかし、ローマ12:19に「愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。」とあるように、神の怒りにゆだねなければなりません。なぜなら、私たちは神のあわれみを受けた者だからです。神が私たちを愛し、私たちのために御子イエスを与えてくださり、その罪を贖ってくださいました。一方的に。私たちは神に敵対するものであって神にさばかれても致し方ないような者でしたが、神はそんな私たちをさばくことをせず、むしろ御子イエスによって赦してくださいました。それゆえ、天の神があわれみ深い方であるように、私たちもあわれみ深い者でなければならないのです。そうすれば、私たちは敵の頭上に燃える炭火を積むことになるからです(ローマ12:20)。これは敵に復讐するという意味ではありません。こちらのそうした態度によって、相手が恥ずかしいと思うほど良心の痛みを感じるということです。

そういう意味でダビデは、真の意味で神のしもべでした。どんな時でも神に信頼し、神のみこころに歩もうとしました。その信頼から生まれたものが神への感謝と賛美だったのです。私たちもどんな時でも神に信頼し、神が自分の状況を解決してくださると信じて、すべてを神にゆだねたいと思います。そして、いつでも、神への感謝と賛美の日々を送らせていただきたいと思うのです。

Ⅱ.ダビデの訴え(8-15)

次に、8-15節までをご覧ください。
「ダビデも洞穴から出て行き、サウルのうしろから呼びかけ、「王よ」と言った。サウルがうしろを振り向くと、ダビデは地にひれ伏して、礼をした。そしてダビデはサウルに言った。「なぜ、『ダビデがあなたに害を加えようとしている』と言う人のことばに、耳を傾けられるのですか。今日、主が洞穴で私の手にあなたをお渡しになったのを、あなたの目はご覧になったのです。ある者はあなたを殺すようにと言ったのですが、私は、あなたのことを思って、『私の主君に手を下すことはしない。あの方は主に油注がれた方だから』と言いました。わが父よ。どうか、私の手にあるあなたの上着の裾をよくご覧ください。あなたの上着の裾を切り取りましたが、あなたを殺しはしませんでした。それによって、私の手に悪も背きもないことを、お分かりください。あなたに罪を犯していないのに、あなたは私のいのちを取ろうと狙っておられるのです。どうか、主が私とあなたの間をさばき、主が私のために、あなたに報いられますように。しかし、私はあなたを手にかけることはいたしません。昔のことわざに『悪は悪者から出る』と言います。私はあなたを手にかけることはいたしません。イスラエルの王はだれを追って出て来られたのですか。だれを追いかけておられるのですか。死んだ犬の後でしょうか。一匹の蚤の後でしょうか。どうか主が、さばき人となって私とあなたの間をさばき、私の訴えを取り上げて擁護し、正しいさばきであなたの手から私を救ってくださいますように。」」

サウルが洞穴から出て行き、道を歩いて行くと、ダビデも洞穴から出て行って、サウルの後ろから「王よ」と呼びかけました。サウルが後ろを振り向くと、ダビデは地にひれ伏し、礼をしました。それは、ダビデが依然としてサウルをイスラエルの王として認めていたということです。そしてダビデは、油注がれた王に対する精一杯の抗議をしました。それは、なぜダビデがサウルに害を加えようとしているという人のことばに耳を傾けているのか、ということです。そんなことは全くのうわざであり、自分はそのような思いを抱いていないということ、そしてその証拠に、自分がいたほら穴にサウルが入って来たとき、部下たちが、主がサウルをお渡しになったと言っても、「自分は主に油注がれた方に手を下すことはしない」と言ってそのことばを退けました。そしてそれが真実であることのしるしに、自分が切り取ったサウルの上着の裾を持っており、それこそサウルに対して何の悪も背きも抱いていない証拠です。それなのになぜ自分のいのちを取ろうと狙っているのかと問うたのです。そして彼は、「どうか、主が私とあなたの間をさばき、主が私のために、あなたに報いられますように。しかし、私はあなたを手にかけることはいたしません。」と言いました(12)。

ここでダビデは昔から知られていた格言を引用しています。それは「悪は悪者から出る」ということばです。その意味は、もしダビデが悪い者ならば、サウルを殺していたはずであるという意味です。しかし、そうでないとしたら、悪者ではないということです。

最後にダビデは、自分ことを「死んだ犬」とか、「一匹の蚤」と言っています。つまり、サウルがいのちを狙うには値しない存在であるという意味です。パウロは、ローマ12:17-19で「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人が良いと思うことを行うように心がけなさい。自分に関することについては、できる限り、すべての人と平和を保ちなさい。愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。「復讐はわたしのもの。わたしが報復する。」主はそう言われます。」と言っていますが、ダビデはこの聖書の原則に立って、すべてのさばきを主にゆだね、自分に関する限り、すべての人と平和を保つようにしたのです。

これは大切な真理です。自分がさばくのではなく主がさばいてくださり、自分ではなく主が弁護してくださり、救ってくださいますように、という祈りです。私たちは悪いことをされたとき、自分で何とかしようと対処するあまり、逆に深い溝に落ちてしまうことがあります。主が弁護してくださいます。そうすれば、後に必ず真実が明らかにされるのです。

Ⅲ.サウルの表面的な謝罪(16-22)

最後に、16-22節をご覧ください。
「ダビデがこれらのことばをサウルに語り終えたとき、サウルは「これはおまえの声なのか。わが子ダビデよ」と言った。サウルは声をあげて泣いた。そしてダビデに言った。「おまえは私より正しい。私に良くしてくれたのに、私はおまえに悪い仕打ちをした。私に良いことをしてくれたことを、今日、おまえは知らせてくれた。主が私をおまえの手に渡されたのに、私を殺さなかったのだから。人が自分の敵を見つけたとき、その敵を無傷で去らせるだろうか。おまえが今日、私にしてくれたことの報いとして、主がおまえに幸いを与えられるように。おまえが必ず王になり、おまえの手によってイスラエル王国が確立することを、私は今、確かに知った。今、主にかけて私に誓ってくれ。私の後の子孫を断たず、私の名を父の家から消し去らないことを。」ダビデはサウルに誓った。サウルは自分の家へ帰り、ダビデとその部下は要害へ上って行った。」

ダビデの弁明を聞いて、サウルは感動のあまり声を上げて泣きました。そして、ダビデに「おまえは私より正しい。私に良くしてくれたのに、私はおまえに悪い仕打ちをした。」と言いました。つまり、彼はダビデが自分よりも正しいということ、そして、そのダビデに自分は悪い仕打ちをしてきたということを認めたのです。さらに彼は、主が彼をダビデの手に渡されたのに殺さなかったことで、ダビデには何の悪意がないことも認めました。そして彼はここで驚くべきことを語っています。20節と21節です。「おまえが必ず王になり、おまえの手によってイスラエル王国が確立することを、私は今、確かに知った。今、主にかけて私に誓ってくれ。私の後の子孫を断たず、私の名を父の家から消し去らないことを。」どういうことですか?サウルは、ダビデが次の王となって、彼の手によってイスラエル王国が確立されるであろうということを確信したと言っているのです。その上で、サウルの子孫を断たず、自分の名が父の家から消し去られることがないようにと懇願したのです。

ダビデはそれを受け入れ、サウルに誓いました。ダビデにとってそれは、かつてヨナタンと結んだ契約の内容そのものでした(20:14-15)。ヨナタンは早くからそのことを知っていましたが、サウルはここにきて、ようやくそのことを悟ったのです。しかし、それは一時的な告白にすぎませんでした。いわゆる真の悔い改めではなかったのです。なぜなら、その後で彼は再びダビデのいのちを執拗に追いまわすようになるからです。サウルの言葉はその時の一時的な感情に基づくものであり、心からのものではなかったのです。どんなに自分の罪を認めて涙しても、真の悔い改めに至らない場合があります。この時のサウルがそのよい例です。感情だけが左右上下に動いても、それが真実な悔い改めであるというわけではありません。

パウロは、「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。」(ガラテヤ6:15)と言っています。私たちが外見でどんなにクリスチャンのようであっても、もしイエス・キリストを信じ、神の聖霊によって新しく生まれ変わっていなければ、それはただの感情的な悔い改めにすぎません。大切なのは「新しい創造」です。イエス・キリストによって神の子として新しく生まれ変わることなのです。新しく生まれ変わった人は自分の肉を十字架に付けるので、神の聖霊がその人を新しく変えてくださいます。サウルのような一時的で表面的な悔い改めではなく、イエス・キリストがご自分の肉を十字架に付けて死んでくださり、三日目によみがえられたように、私たちも自分の肉を十字架に付け、キリストのいのちによって生きる新しい人生を歩ませていただきたいと思います。それが真の悔い改めであり、キリストのいのちに生きる信仰の歩みなのです。

ヨハネの福音書18章1~11節 「わたしがそれだ」

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きょうから、ヨハネの福音書18章に入ります。主は、この地上に残していく弟子たちに最後の長い説教をされ、祈りをもって締めくくられると、いよいよ十字架に向かって進んで行かれます。1節に、「これらのことを話してから、イエスは弟子たちとともに、ギデロンの谷の向こうに出て行かれた。」とあるのは、そのことです。そこでイエスは、ご自身を捕らえにやって来たイスカリオテのユダ率いる一団と対峙するわけですが、その時の主の態度がすごかった。まさに神としての御力がみなぎっていました。それがこの言葉に表れています。「わたしがそれだ」。きょうはこのイエス様の言葉から、私たちのために十字架に向かって進んで行かれるイエス様のご愛をご一緒に学びたいと思います。

Ⅰ.すべて知っておられたイエス (1-4)

まず1節から4節までをご覧ください。1節をお読みします。「これらのことを話してから、イエスは弟子たちとともに、キデロンの谷の向こうに出て行かれた。そこには園があり、イエスと弟子たちは中に入られた。」

これらのことを話してから、イエスは弟子たちとともに、キデロンの谷の向こうに出て行かれました。そこには園があって、イエスは弟子たちとその園の中に入られました。この園とは、言うまでもなくゲッセマネの園です。「ゲッセマネ」とは、「油しぼり」という意味があります。そこはオリーブの木が茂っていて、そのオリーブの実をしぼってオリーブオイルが作られていたので、そのように呼ばれていました。そこは、イエスが弟子たちとたびたび集まっていた場所でした。ルカ22:40には、「いつもの場所に来ると、イエスは彼らに、「誘惑に陥らないように祈っていなさい」と言われた。」とありますが、イエスはいつもここで祈りの時を持っておられたのです。

あなたがクリスチャンであれば、あなたにとってもいつもの場所が必要です。私たちは毎日忙しく走り回って疲れ果てていますが、身も心も元気になるためにいつもの場所に来て、神様との静かな時間を持つべきです。それがあなたの生活を潤してくれるからです。イエス様のこの地上での生涯は、これを大切にされました。それは私たちも同じです。私たちも私たちのゲッセマネの園が必要です。そこで定期的に主と交わり、聖書を読み祈ることによって、神の力を受けることができます。単純なことですが、とても重要なことです。

イエス様は、そのゲッセマネの園に来られました。ここで最後の祈りをするためです。夜が明けると十字架に付けられることになります。主はそのことをよくご存知でした。ですから、それは壮絶な祈りの葛藤だったのです。ルカ22:44には、「イエスは苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。」とあります。同様のことが、マタイの福音書とマルコの福音書にも詳しく記されてあります。しかし、ヨハネはそのことについては一切触れずに、別の視点でこのゲッセマネの園での出来事を記しています。それは、イエスが神であるという視点です。その権威あるお姿を、このゲッセマネの園でも見ることができるのです。それがユダの先導によってやって来た一行にイエスが捕らえられるというこの出来事なのです。

2節と3節をご覧ください。「一方、イエスを裏切ろうとしていたユダもその場所を知っていた。イエスが弟子たちと、たびたびそこに集まっておられたからである。それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやパリサイ人たちから送られた下役たちを連れ、明かりとたいまつと武器を持って、そこにやって来た。」

イスカリオテのユダもその場所を知っていました。ですから、最後の晩餐を抜け出した彼は、そこに行けばイエスを敵の手に渡すことができると思い、銀貨30枚を払ってくれた祭司長たちやローマの軍隊を引き連れてやって来たのです。ここに「一隊の兵士」とありますが、これはローマ兵たちのことです。子の兵士たちは、エルサレムで祭りがあるたびに治安維持のため遣わされていた人たちですが、通常は600人で構成されていました。時には200人になることもあったようすが、ですから、この兵士とは200人~600人の兵士であったことがわかります。また、「下役たち」とは、ユダヤ教の神殿警備隊のことです。彼らはたった一人の人を捕まえるために、こんなに大勢でやって来たのです。しかも、彼らは明かりとたいまつと武器を持っていました。この時は過越の祭りの時で満月に当たりますから、しかもほとんど雨が降ったり、曇ったりすることがありませんので、明かりやたいまつなど必要ありませんでした。月の明かりがこうこうと輝いていたからです。それなのに彼らが明かりやたいまつや武器を持ってやって来たのは、彼らがイエスの力を知っていたからです。死人のラザロさえも生き返らせたお方ですから、力には力で対抗しようと完全武装し、武器まで手にしてやって来たのです。

そんな彼らに対して、イエスは何と言われましたか。4節をご覧ください。「イエスはご自分に起ころうとしていることをすべて知っておられたので、進み出て、「だれを捜しているのか」と彼らに言われた。」

そんな彼らに対して、イエスは「だれを捜しているのか」と言われました。普通なら、イスカリオテのユダが自分を裏切るために出て行ったとき、おそらくゲッセマネの園に来るだろうと考えて、できるだけそこには近寄らないようにするでしょうが、イエスはそこへ来たというだけでなく、自ら進み出て、「だれを捜しているのか」と言われたのです。なぜでしょうか?それは、イエスがご自分に起ころうとしていることをすべて知っておられたからです。

ここに、私たち人間との違いがあることがわかります。私たちはすべてのことを知っているわけではありません。しかし、イエス様はご自分に起ころうしていることをすべて知っておられました。それで、自ら進み出て、「だれを捜しているのか」と言われたのです。どういうことでしょうか。イエス様はご自分が十字架につけられることを知っておられたので、そのように言われたということです。えっ、普通なら逆でしょう。ご自分が十字架につけられるということを知っていれば、どこかに隠れようとするんじゃないですか。しかし、イエス様は逃げも隠れもしませんでした。むしろ、自分から進んで、「だれを捜しているのか」と言われたのです。それは、イエスがすべてのことを知っておられたからです。そのすべてとは、ユダに裏切られて十字架につけられて死なれるということだけでなく、三日目に死人の中からよみがえられ、天に昇り、神の右の座に着かれる、というすべてのことです。神の計画のすべてを知っておられました。だから進み出て「だれを捜しているのか」と言われたのです。イエス様はすべてのことを知っておられ、そのご計画に従ってすべてを導いておられるのです。私たちに必要なのは、このすべてをご存知であられる主にゆだね、主のみこころのままに生きることです。時として私たちは、自分が願っていることと違ったことが起こる時それを受け入れることができず、嘆いたり悲しんだりするわけですが、すべてを支配しておられる主が最善に導いてくださると信じて、主に信頼して歩んでいかなければなりません。

アウグスティヌスは、私たちの人生を、神が縫われた刺繍のようなものだ、と言いました。裏側からだけ見ると、ただ糸が絡まり合っているようにしか見えません。いろいろな色の糸が複雑に絡み合っていてよく分らないわけですが、しかし、完成して表側を見たときに、ああなるほど、この色、この形、この表現のためにあそこで糸が切れていたのか。全部このためだったんだということがわかります。それは私たちの人生も同じで、それがあたかも混沌としているようであっても、神様は私たちの人生に刺繍をしておられるのです。時にどうして神様は私にこんな事を許されているのだろうと心を痛めることがありますが、それは、まだその事柄を通しての神様の計画全体を見ていないだけであって、やがて具体的に素晴らしい神様の祝福を見ることになるのです。

リーマンショックの影響である姉妹のご主人が勤務していた会社が、東京地裁に会社更生法の適用を申請しました。負債総額は2兆3千億円となり、事業会社としては戦後最大の経営破綻で政府の管理下になりました。2010年1月19日のことです。ご主人から「1万6千人がリストラされる。覚悟していてくれ。」と言われた時、目の前が真っ暗になりました。それは、3人に1人の割合で、特に50歳以上は大半の人が対象になっていたからです。退職金、企業年金はいったいどうなるのだろう。就職の超氷河期と言われているこの時に、60歳になるご主人の再就職は非常に厳しく望めるような状況ではないと不安でいっぱいになりました。しかし、そのことを聞いた時、この姉妹から出た言葉は、「37年間一生懸命働いてくれてありがとう。本当にありがとう。大丈夫!神様が共におられるから。これから新しい事が始まるのよ。感謝のお祈りをしましょう。」ということでした。「神様、感謝します。あなたが私達を愛しておられ、良き事の働きのためにこの問題が許され、この悪いと思われる事の向こう側に神様の素晴らしい祝福のご計画がありますから感謝します。必ずこの事を通して主の栄光が豊かに現されますからありがとうございます。」と祈ると心に平安と確信が与えられました。ご主人の目は涙で潤んでいました。

退職後すぐに就職を支援する人材紹介の会社に登録し、面接の受け方、履歴書の書き方などのセミナーを受け、今までは採用する側でしたが、される側に一変しました。担当者からは「大卒の就職率が60%と言われている中で、60歳以上の就職は非常に厳しい状況です。お知り合いとか縁故で探されることもお勧めいたします。」と言われました。まさしく就職の超氷河期でした。
枯れ葉が舞う頃、以前仕事上で関わったヨーロッパに本社がある外資系の会社から、これからアジアの働きを強めるために新しいプロジェクトを計画しているので、是非今までのキャリアを生かして働いてほしいという話がありました。今までやっていた仕事の経験を活かす事ができ、職場は国際色豊かで、ヨーロッパ出張もあり、自分たちが願っていたことだったので、「やった。ばんざい!神様感謝します。この就職先が主の導きでしたら、必ず決まりますように。御心に従いたいですから私たちにわかるように教えて下さい。あなたが私たちを導いておられる最善の計画を歩むことができますように助けてください。」と祈りました。しかし、数日後、勤めようとしていた外資系の会社から、新しいプロジェクトの企画内容、予算を再検討することになり、時期を遅らせることになりましたと連絡が来ました。そのときは、本当にがっかりしましたが、後で振り返ってみると、それはまさに神様からのストップでした。というのは、その年の11月1日にご主人の父親が脳梗塞で倒れて入院し、2週間後母親も心臓疾患で意識不明になり、救急車で大学病院に運ばれ入院しました。それはかりか、2011年1月9日には、実家の父親が天に召されたのです。ご主人が家にいて何かと助けてくれたので、ご主人のご両親の看病と介護、母親の死の悲しみを乗り越えることが出来ました。もし最初の話がスムーズに進んでいたら、11月1日からの勤務だったので、とても忙しくなっていたはずです。休めるような状況ではありませんでした。神様はすべてをご存じだったのです。

すると、翌年1月19日に1通のメールが届きました。ロンドンに転勤していたとき、家族ぐるみで親しくさせていただいた方からでした。ある公益法人で民間企業からの優秀な人材を探しているのだが、働いてみませんかという内容でした。外資系の企業よりもさらに良い条件でした。それはちょうど1年前の1月19日に、ご主人が勤務していた会社が、東京地裁に会社更生法の適用を申請し、ご主人と共に感謝の祈りをした日でした。

2月1日からの勤務と正式に決まり、登録していた人材紹介の会社に就職が決まったことを報告に行きました。担当者から「幸運ですね。」と言われた時、ご主人はこう答えました。「妻の祈りです。」

神様は私達一人ひとりを愛しておられ、私達の人生に素晴らしい計画を用意しておられるのです。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、将来と希望を与えるためのものです。

リビングプレイズに「御手の中で」という賛美があります。
1 御手の中で 全ては変わる 賛美に 我が行く道を 導きまたえ あなたの御手の中で
2 御手の中で 全ては変わる 感謝に 我が行く道に 現したまえ あなたの御手の業を

順調な時や何かすばらしい出来事が起きた時は、自然と賛美や感謝をすることができますが、試練の時はなかなかできません。しかし、神はすべてのことを知っておられ、私たちにとって最善に導いておられると信じるなら、自分に訪れた些細な問題と困難に落胆し、絶望しながら生きるのではなく、神様の驚くべき祝福を感謝しながら生きることができるのではないでしょうか。箴言に「あなたの行くところどこにおいても主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」(箴言3:6)とあるとおりです。

Ⅱ.わたしがそれだ(5-9)

次に、5節から9節までをご覧ください。
「彼らは「ナザレ人イエスを」と答えた。イエスは彼らに「わたしがそれだ」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒に立っていた。イエスが彼らに「わたしがそれだ」と言われたとき、彼らは後ずさりし、地に倒れた。イエスがもう一度、「だれを捜しているのか」と問われると、彼らは「ナザレ人イエスを」と言った。イエスは答えられた。「わたしがそれだ、と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人たちは去らせなさい。」これは、「あなたが下さった者たちのうち、わたしは一人も失わなかった」と、イエスが言われたことばが成就するためであった。」

「だれを捜しているのか」というイエスのことばに対して、彼らが「ナザレ人イエスを」と答えると、イエスは彼らに、「わたしがそれだ」と言われました。この「わたしはそれだ」という言葉は、イエス様の神宣言です。ギリシャ語では「エゴー・エイミー」という言葉です。この言葉は、かつてモーセが神様に名前を尋ねた時、「わたしは「わたしはある」という者である」(出エジプト3:14)と言われた、あの名前です。へブル語では「ヤーウェ」と言いますが、それは「あらゆる存在の根源」を意味しています。ですからここでイエスが「わたしがそれだ」と言われたのは、あの出エジプト記の中で神が「わたしは「わたしはある」という者である」と言われた、あの神ご自身であるということだったのです。

それがどういうことなのかを、ヨハネはこの書の中で具体的にこれを7回用いて説明してきました。それが、「わたしがいのちのパンです」(6:35)とか、「わたしは世の光です」(9:5)、「わたしは羊たちの門です」(10:7)、「わたしは良い牧者です」(10:14)、「わたしはよみがえりです。いのちです。」(11:25)、「わたしは道であり、真理であり、いのちなのです」(14:6)、「わたしはまことのぶどうの木です」(15:1)だったのです。ですから、イエス様がここで「わたしがそれだ」と言われたのは、ご自分こそ「わたしはある」というお方であり、すべての存在の根源であられる方、神ご自身であるということだったのです。ですから、イエスは、「わたしと父とは一つです。」(10:31)と言われたのです。また、「わたしを見た人は、父を見たのです。」(14:9)と言われたのです。イエス様を見れば、まことの神がどのような方であるかがわかります。彼らは「ナザレ人イエス」を捜していましたが、そのナザレ人イエスは、まさに神ご自身であられたのです。

そのことばを聞いた時、彼らはどうなりましたか?6節を見ると、「彼らは後ずさりし、地に倒れた」とあります。どういうことですか?その圧倒的な権威あることばに、ドミノ倒しのように後ずさりして、そこに倒れてしまったのです。何百人という完全武装したローマの兵士とユダヤの神殿警備隊が、何の武器も持っていなかった一人の人の声によってバタバタと倒れたのです。それだけイエス様の声には低音の響きがあったということではありません。それほど権威があったということです。それはこの天地を創造された時の権威でした。神が「光よ、あれ」と命じると、光ができました。この神とは、創世記1:26に「われわれのかたちに人を造ろう」とあるように、三位一体の神です。父と子と聖霊の三位一体の神が、天地創造に関与しておられました。ですから、それはイエスのことばでもあったのです。イエス様が「光よ、あれ」と命じると光ができました。「大空よ、水の真っただ中にあれ。」と命じると、そのようになったのです。私がどんなに「・・あれ」と言っても何も出てきませんが、神が「水には生き物が群がれ。鳥は地の上、天の大空を飛べ。」と命じると、そのようになったのです。神のことば、キリストのことばには、それほどの権威があるのです。

それは主イエスの公生涯を見てもわかります。イエスがある安息日にカペナウムの会堂で教えられると、人々はその教えに驚きました。権威があったからです。それは単なる良いお話しだったとか、感動的な話であったというのではありません。権威ある教えだったのです。また、そこに汚れた霊につかれていた人がいましたが、イエスがその悪霊を叱って「この人から出て行け」と言われると、悪霊はたちまちその人から出て行きました。また、そのことばは、病気で死にかかっていた王室の役人の息子を癒しました。まだ家までは遠く離れていましたが、「あなたの息子は治ります」と言われたとき、息子は癒されたのです。また、イエスのことばには自然界も従いました。イエス様が「嵐よ、静まれ」と命じると、風はやみ、すっかり凪になりました。また、死んで四日も経っていたラザロに「出て来なさい」と命じると、死んだラザロが、手と足を長い布で巻かれたまま出て来ました。イエスの言葉は、死人さえも生き返らせることができたのです。なぜこのようなことができたのでしょうか。イエスは神であり、そのことばには絶対的な権威があったからです。

その神の名が、それを聞いた捕縛者たち一行を圧倒したのです。彼らがあとずさりし、地に倒れてしまったのは、そのためでした。この天地万物の創造者であり支配者であられる神の御前に、完全武装したローマの軍隊もユダヤ教の権威を持った人々も、全く無力であったのです。それはまた、この方を信じる者には、その権威が与えられているということを示しています。私たちは本当に無力な者であり、信仰の弱い者ですが、この御名を信じた者として、この権威が与えられているのです。このことを信じましょう。そして、「これこそ、御子が私たちに約束してくださったもの、永遠のいのちです。」(Ⅰヨハネ2:25)とあるように、私たちの中に、この主が働いておられることを感謝しましょう。そして、この事実を信じることによって、神様が約束してくださった永遠のいのちの祝福を受ける者となろうではありませんか。

7節から9節をご覧ください。「イエスがもう一度、「だれを捜しているのか」と問われると、彼らは「ナザレ人イエスを」と言った。イエスは答えられた。「わたしがそれだ、と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人たちは去らせなさい。」これは、「あなたが下さった者たちのうち、わたしは一人も失わなかった」と、イエスが言われたことばが成就するためであった。」

ご自分を捕らえにやって来た者たちにイエスは「だれを捜しているのか」と問われましたが、それはご自分が神であることを宣言し、彼らにその権威を示すためでした。しかし、ここでイエス様はもう一度彼らに同じことを尋ねています。「だれを捜しているのか」。なぜでしょうか。それは、弟子たちを守るためでした。彼らが「ナザレ人イエスを」と答えると、イエス様は、「それはわたしだ」と言ったではないかと言われました。そして、「わたしを捜しているのなら、この人たちを去らせなさい。」と言われました。イエス様は最後までご自分の弟子たちを守ろうとされたのです。この人たちを去らせなさい。私だけで十分でしょう。それは9節にあるように、「あなたがくださったものたちのうち、わたしは一人も失わなかった」と、イエスが言われたことばが成就するためでした。これは、イエス様が17:12で言われたことです。イエス様は弟子たちのために祈られました。「わたしはあなたが下さったあなたの御名によって、彼らを守りました。わたしが彼らを保ったので、彼らのうちだれも滅びた者はなく、ただ滅びの子が滅びました。」この祈りが成就するためです。

この時、弟子たちの信仰はまだ弱いものでした。もしも彼らがこの時イエス様と一緒に捕らえられてしまったらなら、一も二もなく信仰を捨ててしまったことでしょう。そういうことがないように、彼らを守られたのです。Ⅰコリント10:13にはこうあります。
「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。」
イエス様は、弟子たちが耐えられないような試練に会わせられませんでした。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道を用意しておられたのです。

皆さんもよくご存知の競泳の池江璃花子選手は、数々の競泳の日本記録を更新し、2018年にジャカルタで開かれたアジア大会では6種目で優勝。日本人初となるアジア競技大会6冠を達成し、大会MVPに輝きました。しかし、その半年後の2019年2月、私たちは信じられないニュースを知りました。その池江選手が白血病と診断されて入院したというのです。東京オリンピックを翌年に控えてのことでした。本人としてはどれほどショックだったことでしょう。しかし、その時池江選手が語ったことは、神様は、耐えられない試練に会わせることはなさらないという、この聖書のことばでした。どなたかから聞いた励ましの言葉だったのかもしれません。この言葉は、立ちあがることができないほどの絶望の中でどれほど彼女を支えてくれたことかと思います。

その約束の言葉に支えられ、10か月に及ぶ入院生活を経て、去年末に退院すると、競技への復帰を目指して少しずつトレーニングを再開しました。そして、先月2日、退院後初めてプールで練習する様子を報道陣に公開しましたが、そこで池江さんが語ったことは、「心から楽しんで水泳ができています。」という素直な喜びでした。そして、「日に日に力がついている実感があり、自分が中学1年生とか2年生くらいのときの泳力まで戻ってきたと思います。」と話すぐらいにまで回復したのです。そのうえで、闘病生活を踏まえて「元には戻れないかもしれないと思うこともありますが、病気になっても、また強くなれるということを知ってもらいたいです。」ということでした。それが、彼女が競技への復帰を目指す理由だったのです。

先月4日は彼女の20歳の誕生日でしたが、彼女はその抱負を次のように語りました。「大人の第一歩だと思うので自覚を持ちたいです。自分の意思を持った、内面的に強い女性になりたいです。」すばらしいですね。内面的に強い女性になりたい。これこそ神が用意してくださった脱出の道ではないかと思いました。確かにオリンピックに出場することもすばらしいことですが、それ以上に一人の人間として、一人の女性として内面的に強い人になりたいと語ることができるのは、競泳をすること以上に大切なものを見出したからではないでしょうか。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださるのです。

それは私たちも同じで、私たちも振われたり、打ちのめされたりすることがありますが、全く滅ぼされることはありません。ノックダウンすることはあっても、ノックアウトすることはないのです。それは、私たちの主イエスが私たち一人一人をやさしく見守り、優れた医者のように確かな技術をもって、私たちが耐えられる試練の分量というものを正しく量られるからです。そして、ヨハネ10:28に、「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。」とあるように、ご自身の民を永遠に守ってくださるからです。あなたをイエス・キリストの手から奪い去るものは何もありません。ですから、最もひどい暗黒の中にいるようでも、イエス様の目があなたに注がれているということを覚え、どんなことがあっても守られていることを信じて、この方にすべてをゆだねようではありませんか。

Ⅲ.剣をさやに収めなさい(10-11)

最後に、10-11節を見て終わりたいと思います。「シモン・ペテロは剣を持っていたので、それを抜いて、大祭司のしもべに切りかかり、右の耳を切り落とした。そのしもべの名はマルコスであった。イエスはペテロに言われた。「剣をさやに収めなさい。父がわたしに下さった杯を飲まずにいられるだろうか。」」

ところが、シモン・ペテロが持っていた剣を抜いて、大祭司のしもべに切りかかり、右の耳を切り落としてしまいました。せっかくイエス様が彼らを守られたのに、ここでペテロは、またまた早まったことをしてしまいました。彼はどちらかというと衝動的なタイプの人間でした。すぐに反応しちゃう人ですね。そういう人がいます。何でも反応してしまう人です。こういう人はいいとこともありますが、失敗も多いのです。私もペテロのような人間なので、彼の気持ちが手に取るようにわかるような気がします。彼は、最後の晩餐の席上「あなたのためなら、いのちも捨てます。」(13:37)と言いましたが、それは彼の本心だったでしょう。そして、大勢の人たちがイエス様を捕らえに来たときは、それを証明する絶好の機会だと思ったに違いありません。だからこそ、大祭司のしもべマルコスに襲いかかったのです。本当は頭をねらったのでしょうが、外してしまいました。それで右の耳を切り落としたのです。それでも彼がイエス様の一番弟子であったことは、私たちにとって大きな励ましではないでしょうか。というのは、私たちもたくさんの失敗をしますが、イエス様は最後までその失敗をカバーして下さるからです。

すると、イエス様はペテロにこう言われました。「剣をさやに収めなさい。」どういうことでしょうか?剣は本当の解決をもたらさないということです。本当の解決、本当の平和は、イエス・キリストによってもたらされます。ペテロは剣でイエス様を守ろうとしましたが、イエス様はその剣を必要とされませんでした。イエス様が成さろうと思えば、何十万という天の軍勢さえも呼ぶことが出来ましたが、イエス様はそのようにはなさいませんでした。そのようなものは本当の解決にならないということを知っておられたからです。

ヨハネは触れていませんが、ルカの福音書を見ると、その切られた耳がどうなったかが記されてあります。ルカは医者でしたから、その耳がどうなったのか気になったのでしょう。そしてルカによると、「やめなさい。そこまでにしなさい。」と言われると、イエス様はその耳にさわって彼を癒された、とあります(22:51)。イエス様の最後の奇跡は、ペテロの失敗をカバーするものでした。そして、敵の耳を癒されたのです。なぜ?そうでないと、ペテロが捕らえられて殺されてしまうからです。イエス様はペテロを最後まで守られたのです。

そしてこう言われました。「父がわたしに下さった杯を飲まずにいられるだろうか。」どういうことですか?これこそ、真の解決、本当の平和をもたらすものであるということです。「杯」とは祝福を分かち合うものですが、ここでは神の怒り、神のさばき、苦しみを表現しています。つまり、この杯とは十字架の苦難のことを指していたのです。この杯を飲まなければ本当の平和はもたらされないということです。なぜなら、聖書には「義人はいない、一人もいない。」とあるからです。すべての人が罪を犯したので、神のさばきを受けなければなりません。しかし、あわれみ深い神様は、私たちがそのさばきを受けることがないように、ご自身の御子イエス・キリストをこの世に遣わしてくださいました。それは、私たちの罪の身代わりとなって十字架で死んでくださるためです。イエス様は、本来私たちが受けなければならない神の怒りを、代わりに十字架で受けてくださったのです。それはこの御子を信じる者が一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。これが十字架の意味です。御子を信じる者はさばかれません。御子が代わりにさばきを受けてくださったからです。神の怒りと神のさばきの杯を飲み干してくださいました。だから、イエス・キリストにある者は決してさばかれることがないのです。罪に対する神の怒りはもう残っていません。イエス様は十字架の上で「完了した」と宣言されました。私たちの罪の贖いは完全に成し遂げられたのです。ですから、この方を信じる者は、だれでも救われるのです。イエス様が飲み干してくださった杯こそ、私たちのすべての問題に対する解決です。あなたの問題の真の解決はここにあるのです。

それなのに、どうしてあなたは剣を抜いて戦おうとするのですか。イエス様があなたのために十字架という杯を飲み干してくださったのです。あなたがどんな絶望の中にあっても、イエス様の十字架のもとにゆくならば、永遠のいのちと永遠の愛、永遠の希望を受けることができます。それによって、神なき望みなき人間から、神様に愛されている子どもとして、新しく生まれ変わることができるのです。言い換えれば、それは人間性の回復でもあります。神なき望みなき状態が、いかに人間性を損なっていたことでしょうか。そのことによって、私たちは理性も、感情も、常に恐れや不安や絶望に支配され、真の愛を知らず、真の希望を知らず、真の喜びを知らない者でありました。たとえば戦争もそうです。平和を維持するためにはもっともっと強力な武力を装備しなければいけない。こうした矛盾したことを、誰もが信じて疑いません。これが神なき望みなき人間の理性です。

しかし、私たちがイエス・キリストの十字架のもとで、独り子を惜しまず与えてくださった神様の偉大な愛に出会うならば、恐れや不安は消え去ります。そして、愛すること、信じること、生きる喜びを知るのです。そして今までとは何もかも違ってきます。平和のためには赦すこと、武装を解除することであるという、考えてみれば当たり前のことですが、そうした理性が取り戻されるのです。私たちの犯してきた罪が消えてなくなるわけではありませんが、そのことは私たちを絶望に陥れるのではなく、このような者をも愛してくださった神の愛の大きさを讃える源となるのです。  パウロは、このようにまったく生まれ変わった人間の一人でした。キリスト教を憎み、教会を迫害し、クリスチャンを捕らえて牢屋に放り込むことを信仰だと思って生きていたパウロが、逆にイエス・キリストの福音を世界中に伝える人となったのです。パウロはこのように言いました。

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)

これが神の約束です。確かに、信じてからも罪を犯します。私たちは弱さのゆえにこういうこともありますが、しかし、「御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。」(Ⅰヨハネ1:7) だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。これこそ真の救い、真の平和、真の解決ではないでしょうか。私たちが今まで何をしてきたか、今何ができるか、これから何ができるのか。そういうことに関わらず、神様が私たちを愛してくださっている。その神様の愛を信じて、希望を持つことができるのです。困難がないわけではありません。悩みがないわけではありません。しかし、神様がともにおられることを知り、希望をもって困難に立ち向かうことができるのです。私たちをこのような人間として生まれ変わらせてくださる救いが、われらの主イエス・キリストの十字架にはあるのです。これが、私たちの人生における最大の祝福です。私たちの人生における最大の祝福は、罪が赦されているということなのですから。

イエス様はそのためにこの杯を飲み干してくださいました。あとはそれを受け取るだけでいいのです。信じるだけです。イエス様の救いを信じなければなりません。ここに救いがあるということをどうぞ信じてください。自分の生き方を変えず、自分の好きなことだけをしようという決心は、この世の不幸の大きな原因でしかありません。どうしてあなたの問題を人間の思いや考えで解決しようとするのですか。それは、ペテロが剣で大祭司のしもべの耳を切り落としたことと同じです。そこには何の解決もありません。真の解決は、イエス・キリストの十字架を信じることです。そうすれば、あなたのすべての理解を超えた神の平安が、あなたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

あなたの人生の旅路のあらゆる段階で、「主よ。あなたのみこころのものを私にお与えください。あなたのみこころとするところに行かせてください。みこころのままに私を扱ってください。私の思いではなく、あなたのみこころだけがなりますように。」と祈りましょう。剣ではなく、主の杯を受けましょう。私たちの主イエスは、「わたしはそれだ」と言われる方です。そして、あなたのために十字架の杯を飲み干してくださいました。私たちが真に頼るべきお方は、あなたのために十字架にかかり、あなたの救いを成し遂げてくださったイエス・キリストなのです。

ヨハネの福音書17章20~26節「すべての人を一つにしてください」

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十字架を前にしてイエス様は、目を天に向けて祈られました。まず、ご自身のために祈られました。そして、弟子たちのために祈られました。今日の箇所では、すべての時代の、すべてのクリスチャンのために祈っておられます。20節には、「わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。」とあります。

私たちは、弟子たちが話したことばによってイエス様を信じました。それは単にことばだけでなく彼らが書き記したことば、聖書のことばを通して信じました。イエス様は、そのすべてのクリスチャンたちのために祈られたのです。いや、今も天で祈っておられます。いったいどのようなことを祈られたのでしょうか。

Ⅰ.すべての人を一つにしてください(21-23)

まず、21-23節までをご覧ください。「21 父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。22 またわたしは、あなたが下さった栄光を彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。23 わたしは彼らのうちにいて、あなたはわたしのうちにおられます。彼らが完全に一つになるためです。また、あなたがわたしを遣わされたことと、わたしを愛されたように彼らも愛されたことを、世が知るためです。」

イエス様はまず、すべてのクリスチャンを一つにしてくださいと祈られました。クリスチャンが一つになるというのはどういうことでしょうか。教会にはいろいろな人たちがいます。年齢が違えば、性格も違う、それぞれが育った環境も違います。また、考え方も違いますし、聖書の理解においても違いがあるわけです。そういう人たちが一つになるということは簡単なことではありません。ここで注意しなければならないことは、イエス様が一つになるようにと言われたのは、組織的、外面的に一つになることではなく、霊的に、内面的に一つになるということです。ビジネスにおいても、教育の分野でも、どの組織でも、一つの目標を掲げ、それに向かって協力し合い、熱心に行動すれば、物事は成し遂げられるでしょう。しかし、ここでイエス様が言っていることはそういうことではないのです。ここでイエス様が言っていることは、信仰的に一つになることです。信仰的に一致するとはどういうことでしょうか。

ここに、その良い例が示されています。それは、「父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように」一つになるということです。つまり、父なる神と子なる神の一体性と同じ一致です。私たちが暖かい愛の交わりができるのは、キリストを信じる信仰による一致があるからです。言い換えると、ひとりひとりがイエス・キリストの十字架の贖いの死によって、その罪を赦されたという体験を持っているからなのです。そこから生まれてくる一体性です。それがなかったら一致は生まれません。どんなに人間的に努力しても限界があり、空中分解することになってしまいます。調子が良い時は愛し合うことができても、調子が悪い時には、いざ関係がぎくしゃくしてくるともう耐えられなくなってしまいます。しかし、イエス様がこんな罪深い者を愛し、そのためにご自分のいのちを捨ててくださったことを知り、この方を信じるなら、私たちの内に神の愛が生まれ、その愛で愛し合うことによってたとえ考え方が違っても必ず一つになることができるのです。ですから、教会が一致することにおいて最も重要なことは、考え方が違うとは、性格が違うとか、ジェネーションギャップがあるとかということではなく、このキリストの愛によって罪の赦しを得ているかどうかです。それによって新しく生まれ変わっているかどうかなのです。それがあるなら、そこに完全な一致と調和が生まれるのです。父なる神が子なる神キリストのうちにおられ、子なる神が父なる神のうちにおられるような一致です。

皆さん、私たちが信じている神は、三位一体の神です。三位一体とは、聖書の教えの中でも最も難しいものの一つですが、神は唯一ですが、三つの人格を持っているということです。すなわち、ただ一人の神ですが、父なる神と、子なる神、聖霊なる神の三つの神がおられるということです。ただ一つで三つというのはなかなか理解できないことですが、聖書の神は、そういう神なのです。そして、この三位一体の神は、それぞれ人格を持っていますがその本質と性質、属性において全く一つであられるのです。つまり、父も、子も、聖霊も神であり、また、父も、子も、聖霊も愛であり、聖なる方であり、義なる方であられるのです。この三つの神は、それぞれ人格は別々ですが、そこには完全な調和と一致があります。それと同じように、すべてのクリスチャンの間に、すべての教会の間に完全な一致と完全な調和があるようにと祈られたのです。それは不可能なことではありません。なぜなら、私たちはこの三位一体の神を信じ、この神によって新しく生まれた者だからです。以前はそうではありませんでした。全部自分のためでした。自分が考え、自分が思うことが行動の唯一の基準だったのです。そのような人たちの集まりのが、どうやって一致を保つことができるでしょうか。できません。それは夫婦関係を見てもわかるでしょう。夫婦はまさに自我と自我のぶつかり合いです。生まれも、育ちも、性別も、考え方も全く違う人間が一緒に生活するわけですから、それを調整することは至難の業です。最初のうちはあまり感じなくても、次第に考え方に大きなギャップが生じてくるようになります。もうフーフー言うようになるのです。そんな二人が一緒にやって行くことができるとしたら、そこに神の愛とあわれみがあり、互いが互いを見るのではなく、イエス・キリストを見上げ、イエス・キリストを通して与えられた神の愛に信頼しているからにほかなりません。もし自分を主張し始めたら、そこには一致とか調和は生まれることはないでしょう。それは自分の意見を言ってはいけないということではありません。自分の意見を言うことは全く問題ありませんが、それが叶わなくても神の力強い御手の下にへりくだり、神があなたのことを心配してくださると信じて、あなたの思い煩いを、いっさい神にゆだねることです。そうすれば主が、ちょうど良い時にあなたを引き上げてくださいます。これが信仰です。これが一致することはできません。イエス様が、すべての人が一つになるようにと言われたのは、こういうことだったのです。

いったいそれは何のためでしょうか。ここには、「あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。」とあります。神を知らない人が信じるためです。このような暖かい愛の交わりを見る時、この世の人々はその中に主がおられることを知ることができます。教会に初めて来られる方は、説教の内容はほとんど覚えていなくても、その場の雰囲気はよく覚えていて、そこにこの世にはない何かを感じます。それが何なのかわからなくとも、続いて教会に通ううちに、それがイエス・キリストの愛と信仰によるものであることがわかるようになり、信仰へと導かれていくのです。それが22節で言われていることです。

ここには「またわたしは、あなたが下さった栄光を彼らに与えました。」とあります。この「栄光」こそ、イエスによって与えられた栄光なのです。この世の人々が教会を見る時この世にないものを持っているのを見ますが、それこそが神の栄光にほかなりません。その栄光はこの世にはない輝きです。この世にあるのは憎しみであり、争いであり、対立であり、お互いに傷つけ合うことであり、ののしり合うことです。そこには愛のひとかけらもありません。しかし、キリストの教会はそうではありません。そこにはキリストの愛があります。いのちをかけて私たちを愛してくださった愛といのちが溢れています。たとい、ののしられてもののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、自分の利益を求めず、ほかの人の益になることを求めます。人のした悪を思わず、不正を喜ばずに、真理を喜びます。すべてをがまん、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。もちろん、このように完全にできるわけではありません。それができるのはイエス様だけです。しかし、私たちはそのイエス様に似た者となるように祈り、聖霊の助けと励ましをいただきながら日々歩んでいるので、少しずつですが、そのように変えられているわけです。少なくても、そのような群れとなるように求めて祈っています。いったいこのような愛の共同体がこの世にあるでしょうか。ありません。ですから、この世の人たちがこの愛の共同体である教会が一つになっているのを見るとき、ああ、イエス様はほんとうに神様だと信じるようになるのです。

熊本県の人吉市という所に、松尾鷲嶺(まつおしゅうれい)という仏教の僧侶がおられました。この方は80歳を過ぎてからキリスト信仰に入り、寺を捨てて、クリスチャンになりました。それは大変なことです。1962年のことですから、今から58年も前のことですが、この方の奥さんが駅前で教会の特別伝道集会のビラをもらい、生まれて初めてキリスト教の教会へ行ったのです。その時、奥さんは聴いたメッセージがどんなものであったかは覚えていませんでしたが、どうしても忘れることのできないものがありました。それはその場の雰囲気です。老若男女の様々な人々がいるのに、そこには暖かい愛の一致があったのです。婦人は感動して家に帰りました。それは自分のお寺の現実と余りに違っていました。そのすばらしい雰囲気が忘れられず、夫人はその翌日も教会へ行き、ついに信仰を告白するようになりました。寺の僧侶の奥さんがクリスチャンになったということで、その後が大変でした。夫の松尾鷲嶺師は婦人にキリスト教信仰を捨てるように迫るのですが、そうしているうちに、夫も生きた本当の神を知るようになり、ついに二人ですべてを捨て、寺を出たのです。その後、二人は小さな小屋に住みながら、「私たちの人生で今ほど幸福な時はありません」と告白しつつ、天に召されていったというのです。

これほどまでにお二人の一生を変えたものは何だったのでしょうか。それは暖かい愛を持った教会の交わりでした。教会には、この世界のどこにもないキリストの愛の交わりがあります。栄光の輝きがあるのです。僧侶の婦人は、暖かい愛の一致を持った教会の交わりに出会いました。それによってキリストが神から来られた救い主であると信じることができたのです。私たちが一つになるのはそのためです。私たちがキリストの十字架の死によって罪を赦されたという一体感で互いに愛し合い、赦し合うなら、そこに神の愛と神の栄光が現われ、イエスこそ救い主であるとこの世の人たちが信じるようになるのです。

Ⅱ.わたしがいるところにおらせてください(24-25)

イエス様がすべてのクリスチャンのために祈られた第二のことは、わたしがいるところに、彼らもわたしとともにいるようにしてください、ということでした。24-25節をご覧ください。

「24 父よ。わたしに下さったものについてお願いします。わたしがいるところに、彼らもわたしとともにいるようにしてください。わたしの栄光を、彼らが見るためです。世界の基が据えられる前からわたしを愛されたゆえに、あなたがわたしに下さった栄光を。25 正しい父よ。この世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っています。また、この人々は、あなたがわたしを遣わされたことを知っています。」

「わたしにくださったもの」とは、イエス・キリストを信じたすべてのクリスチャンのことです。イエス様はすべてのクリスチャンが一つになるようにと祈られましたが、続いて、そのすべてのクリスチャンが、イエス様がおられるところにいるようにしてくださいと祈られました。「わたしがいるところ」とは、天国のことです。ピリピ3:20-21には、「しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。」とあります。クリスチャンには、日本とか、アメリカとか、韓国とかの他に、もう一つの国籍があります。それはどこですか。天国です。私たちのふるさとは天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを待ち望んでいるのです。そのときキリストは、私たちの卑しいからだを、ご自身と同じ栄光のからだに変えてくださいます。これが私たちに与えられている約束であり、私たちの希望です。私たちのこの肉体は枯れ、やがて滅んでしまいますが、キリストが再臨されるとき、私たちのこの卑しいからだは、キリストが復活した時と同じからだ、栄光のからだによみがえり、永遠に主とともに生きるようになるのです。なぜなら、イエス・キリストを信じたことで罪が赦され、永遠のいのちが与えられたからです。天に国籍を持つものとされたのです。

それはいったい何のためですか。その後のところにこうあります。「わたしの栄光を、彼らが見るためです」。イエス様の栄光を見るためです。私たちは今、聖書を通して確かにイエス様の栄光を見ていますが、はっきり見ているわけではありません。ぼんやり見ているだけです。Ⅰコリント13:12に「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」とあるように、鏡に映るのをぼんやりと見ているにすぎません。当時の鏡は銅が磨かれたもので作られていましたから、今のようにクリアではありませんでした。おぼろげにしか見ることができませんでした。そのように今は、ぼんやりと見ているのです。しかし、主とお会いする時は顔と顔とを合わせて見るので、はっきりと見るようになります。その時には主が私たちのことをすべて完全に知っておられるように、私たちも完全に主を知るようになります。今はぼんやりと見ているにすぎませんが、やがて天の御国でその栄光の輝きをはっきりと見るようになるのです。イエス様がおられる天国に私たちもいるようになり、そこでイエス様の栄光を見るようになるというのはすばらしい希望です。今、世界中でコロナウイルスの問題だけでなく、バッタが大量発生による農作物に壊滅的な被害や、東シナ海の領有権をめぐって米中の対立が深刻化しています。日本でも豪雨による災害に加え、コロナウイルスの感染拡大によって、非常な恐れと不安が蔓延しています。この地上は見渡す限り、こうした災害が耐えません。いったいどこに希望があるのでしょうか。ここに真の希望があります。イエス様がいるところにいて、イエス様の栄光をこの目で拝することができること、これこそが希望なのです。

25節をご覧ください。ここでイエス様は「正しい父よ」と呼んでおられます。11節では「聖なる父よ」と呼ばれましたが、ここでは「正しい父よ」と呼ばれました。つまり、神が正しい方であり、義なる方であることを強調しているのです。この世は聖なる神、正しい神を知りません。まことの神を知らないのです。それで自分たちでいろいろな神々を作って拝みますが、神は人間の手でこしらえることができるような方ではなく、その人間を造られた方、創造主です。この世はその方を知りませんが、私たちはこの方を知っています。そして、この方が救い主を遣わされたことを知ったのです。それは私たちが、イエス様がいるところにいるようになるためです。永遠のいのちを持つためです。永遠のいのちとは何ですか。それは唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。

日本人の寿命は世界一長く、2年前の統計では、男性が81.25歳、女性が87.32歳です。今、日本では100歳以上の人が7万人以上もいます。では、人生長く生きればそれで幸せなのかと言というとそうでもなく、若くして亡くなったとしても、あの人の人生はすばらしかった、感動的だった、輝いていた。そんなふうに周りの人々に思い出させるとすれば、それは豊かな人生だったと言えるのではないでしょうか。

「寿命」ということばがありますが、「寿」というのは、死んでもなお残るいのちのことだそうです。その人が亡くなってお葬式も済み、そこにはもういないけれども、その人の存在が多くの人の心の中でなお生きていること、それを「寿」という漢字で示したのです。死んだ後も多くの人々の中に美しい思い出を残せたとしたら、それこそが寿命でしょう。それはイエス様がいるところにいること、永遠のいのちによって全うされるのです。

フジテレビのニュースキャスターだった山川千秋さんは、1988年に食道がんのため180日の療養後、お亡くなりになりました。奥さんから助からないと告知された時、山川さんは絶望的な気持ちになりました。クリスチャンである奥さんは、山川さんを信仰に導きます。その時のことを、奥さんは次のように言っておられます。
「夫は、死の恐怖や、不安から逃れ、安心して死ぬにはどうすればよいのかと問うてきました。わたしは、その答えは人間によっては絶対に与えられない。それができる方は神様、すなわちイエス・キリストしかいないと答えました。
すると、夫はどうすればイエス・キリストに救ってもらえるのかと、尋ねてきました。わたしは、神の前に正直になること、これまで神に背いてきた罪を悔い改めて、主イエスを自分の救い主として受け入れると口に出して言うことだ、と答えました。夫はしばらく考え、自分の過去の罪を素直に告白し、やがて表情は穏やかなものになりました。」
その後、山川さんは遺言を残し、すべてを整えて非常に安らかになくなられたそうです。山川さんが亡くなられる前に「死は終わりではない」という著書を記されましたが、それは、彼が天国に行き、そこでイエス様とともに永遠に生きることを確信したいたからです。その著書の中で山川さんは、長男冬樹君に宛てて手紙を書きました。 「冬樹へ。お父さんは病に倒れたが、そのことによって、主イエス・キリストを知った。それは、すばらしいことだと思わないか。父親を亡くした君の人生は、平坦ではないが、主イエス・キリストに頼って

生きれば、すばらしい人生が与えられる。また天国で会おうぜ。」

「また天国で会おうぜ。」すばらしい言葉だと思いませんか。希望があります。イエスを信じる者は死んでも生きるのです。イエス様のいる天国で、イエス様と永遠に生きることができるのです。

あなたは、この永遠のいのちを受けましたか。イエス様はあなたのために祈られました。イエス様がおられところに、あなたもいることができるようにと。そして、イエス様の栄光を見ることができるようにと。どうぞ、あなたもイエス様を信じてください。そして、イエス様がおられるところにいることができますように。

Ⅲ.神の愛が彼らのうちにあるように(26)

最後に、26節を見て終わりたいと思います。「わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。あなたがわたしを愛してくださった愛が彼らのうちにあり、わたしも彼らのうちにいるようにするためです。」

ここで主は弟子たちのためにされたことを要約しています。それは、「あなたの御名を知らせました」ということです。「神の御名」とは、名は体を表すとあるとおり、神の本質とか、神の性質、あるいは神ご自身のことです。ですから、イエス様が御名を知らせたというのは、神がどのような方であられるのかを知らせたということです。ことばで信じられないなら、わたしのわざを見て信じなさい、と言われました。ですからイエス様は力あるわざをなさって、ご自分が神から遣わされた方であることを示されたのです。それで弟子たちはそれを見て信じました。そして、私たちもそれを聞いて信じました。私たちに何か理解力があったからではありません。イエス様がご自身のみことばの中ではっきりと示されたので信じることができたのです。

それはこれまでのことだけではありません。これからも同じです。ここには、「これからも知らせます」とあります。ずっと知らせます。なぜでしょうか?それは、「あなたがわたしを愛してくださった愛が彼らのうちにあり、わたしも彼らのうちにいるようにするためです。」どういうことですか?神の愛が弟子たちの心の中にあり、イエス様が彼らの心のなかに住むようにということです。イエス様の願いは、神がイエスを愛しておられるその愛を、イエスを信じている彼らが感じ、イエスご自身も信仰によって彼らの中に住むということだったのです。あなたは、神がイエスを愛しておられるその愛を、あなたにも向けられていることを感じておられるでしょうか。イエス様が、あなたの心に住んでおられるでしょうか。

使徒パウロは、エペソ人への手紙の中で、次のように祈っています。「どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。どうか、私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に、教会において、またキリスト・イエスにあって、栄光が、世々限りなく、とこしえまでもありますように。アーメン。」(エペソ3:16-21)

この神の愛、キリストの愛こそ、私たちの人生のすべてにおける勝利の秘訣です。私たちの人生には、辛いこと、苦しいこと、悲しいこと、いろいろなことが起こりますが、しかし、このキリストにある神の愛から私たちを引き離すものは何もありません。だから、信仰によってしっかりと神の愛にとどまってくただきたいのです。あなたが落胆するのは、あなたの目がこのキリストの愛にではなく、問題そのものに向けられているからです。キリストをあなたの心に住まわせるなら、そして、神がどれほどあなたを愛しておられるのかということに気付くなら、どのような境遇にあっても、キリストにある愛から、あなたを引き離すことは何もできません。

かつてデンマークに一人の男の子が生まれました。彼が生まれたのは棺桶の中でした。お母さんは他人の汚れものを洗って生計を立てていました。おばあさんは庭掃除をしてお金をもらい、おじいさんは精神病院に入っていました。本当に貧しい家に生まれ、極貧の生活の中で彼は育ちました。彼は大人になって恋をしましたが、恋をした相手にことごとくふられ、失恋ばかりでした。ついに彼は生涯独身で過ごしました。彼は70歳まで生きて、最後に言ったことばが、これでした。

「私の人生は童話のように幸せでした」

この人こそアンデルセンです。彼はなぜこのような環境や状況の中にあっても「幸せでした」と言えたのでしょうか。その秘訣を彼はこう言っています。

「私を愛し、私を助けて下さるイエス・キリストがいつも共にいて下さったからです。」

イエス・キリストがともにいてくださることが、彼をそのように言わしめたのです。イエス・キリストがともにおられることで、神がどれほど自分を愛しておられるのかをしることが、「幸せでした」と言える秘訣だったのです。

あなたはどうですか。あなたのうちにキリストがおられますか。どうぞ、信仰によって、あなたの心のうちにキリストを住まわせてください。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたが、すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つことができるようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。イエス様は、今もあなたのために祈っておられるのです。

出エジプト記29章

28章では、祭司の装束(祭服)について学びました。それはイエス・キリストの型であり、キリストの姿そのものでした。そこにはキリストの栄光と美が表れていました。この29章には祭司として神に仕えるための規定、任職式の規定、手順が記されています。

Ⅰ.祭司として神に仕えるために(1-9)

まず、1~9節をご覧ください。
「1 彼らを聖別し祭司としてわたしに仕えさせるために、彼らになすべきことは次のことである。若い雄牛一頭、傷のない雄羊二匹を取れ。
2 また、種なしパン、油を混ぜた種なしの輪形パン、油を塗った種なしの薄焼きパンを取れ。これらは最良の小麦粉で作る。
3 これらを一つのかごに入れ、そのかごと一緒に、先の一頭の雄牛と二匹の雄羊を連れて来る。
4 アロンとその子らを会見の天幕の入り口に近づかせ、水で彼らを洗う。
5 装束を取り、長服と、エポデの下に着る青服と、エポデと胸当てをアロンに着せ、エポデのあや織りの帯を締める。6 彼の頭にかぶり物をかぶらせ、そのかぶり物の上に聖なる記章を付ける。
7 注ぎの油を取って彼の頭に注ぎ、彼に油注ぎをする。
8 それから彼の子らを連れて来て、彼らに長服を着せる。
9 アロンとその子らに飾り帯を締め、ターバンを巻く。永遠の掟によって、祭司の職は彼らのものとなる。あなたはアロンとその子らを祭司職に任命せよ。」

「彼ら」とは、アロンとその子らのことです。彼らを聖別し祭司として主に仕えさせるために、どんなことが必要だったのでしょうか。まず、そのために次のものを準備しました。すなわち、若い雄牛1頭、傷のない雄羊2頭、「傷のない」というのは、罪や汚れのないということを示しています。また、種を入れないパン。油を混ぜた種なしの輪形パン(ケーキ)を用意しました。種を入れないパンというのも、罪の混ざっていないということを示しています。また、油を塗った種なしの薄焼きパンとは、せんべいやワッフルのようなものです。

以上のものを準備したら、アロンとその子らを会見の天幕の入口に近づかせ、水で彼らを洗いました。これは衛生的な理由ではなく、儀式的な意味がありました。前回のところで、大祭司が装束を身につけるのは、キリストを自分の身にまとうことを表していましたが、水で洗うのは、私たちがキリストを身につけるときに、御霊による洗いと聖めが行なわれたことを象徴していました。テトス3:5には、「神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみによって、聖霊による再生と刷新の洗いをもって、私たちを救ってくださいました。」とあります。神は、私たちが行った義のわざによってではなく、神のあわれみによって、この聖霊による再生と刷新の洗いをもって、私たちを救ってくださったのです。

次に、大祭司アロンに装束を着せます。キリストを来たのです。そして、注ぎの油を頭に注ぎました。これは、聖霊の油を意味していました。つまり、大祭司は、聖霊の力によってその働きをしたということです。それは、キリストとはどのような者であるかを示していました。キリスト(メシヤ)とは、「油注がれた者」という意味です。キリストは、聖霊の油を無限に注がれた大祭司として、民に代わって神にとりなしをされるのです。また、アロンの子らも連れて来て、彼らに長服を着せました。このようにして、アロンとその子らを祭司職に任命したのです。

Ⅰペテロ2:9には、「しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。」とあります。神の民であるクリスチャンは、この祭司としての使命を帯びています。その使命を果たすためには、聖霊の油注ぎを受けなければなりません。自分の力に頼るのではなく、聖霊の導きに信頼し、聖霊に満たされて歩むことを求めていかなければなりません。

Ⅱ.動物のいけにえ(10-34)

次に、10~34節をご覧ください。まず、14節までをお読みします。
「10 あなたは雄牛を会見の天幕の前に近づかせ、アロンとその子らはその雄牛の頭に手を置く。
11 あなたは会見の天幕の入り口で、主の前で、その雄牛を屠り、
12 その雄牛の血を取り、あなたの指でこれを祭壇の四隅の角に塗る。その血はみな祭壇の土台に注ぐ。
13 その内臓をおおうすべての脂肪、肝臓の小葉、二つの腎臓とその上の脂肪を取り出し、これらを祭壇の上で焼いて煙にする。
14 その雄牛の肉と皮と汚物は宿営の外で火で焼く。 これは罪のきよめのささげ物である。」

ここには、罪のためのいけにえ、神へのささげものについて記されてあります。アロンとその子らは、雄牛の頭に手を置きます。これは、罪を転嫁することを象徴していました。自分の身代わりに雄牛が死ぬことを表していたのです。つまり、大祭司アロンとその子らの罪が雄牛の上に転嫁されたのです。これは、罪の赦しを与える際に重要な行為でした。

次にこの雄牛を屠ります。そしてその雄牛の血を取り、指で祭壇の角につけました。祭壇の角とは、27:2で見たように、祭壇の四隅に出ている突起物のことです。それは神のさばきを象徴していました。その祭壇の四隅の角に雄牛の血が塗られたことによって、雄牛が自分たちの身代わりとなって死んだことを示していました。

そして雄牛の内臓をおおう脂肪は、すべて祭壇の上で焼いて煙にしました。煙にするとは、芳ばしい香りとして神にささげたということです。というのは、脂肪は最良の部位とされていたからです。最高のものは神にささげられたのです。

雄牛の肉と皮と汚物は宿営の外で火で焼きました。ここでのポイントは、宿営の外でということです。なぜなら、それらは汚れたものを象徴していたからです。へブル13:11~14には、「動物の血は、罪のきよめのささげ物として、大祭司によって聖所の中に持って行かれますが、からだは宿営の外で焼かれるのです。それでイエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。ですから私たちは、イエスの辱めを身に負い、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。」とあります。

イエス様がエルサレムの城壁の外にあったゴルゴタの丘で、十字架刑に処せられたのはそのためです。それはご自分の血によって民を聖なるものとするためでした。そのキリストの十字架の死によって私たちは救われたのです。ですから、キリストの弟子である私たちも、この世に受け入れられることではなく、宿営の外に出てキリストとともに歩む道を選ばなければなりません。私たちが求めているのは、この地上のものではなく天にあるものです。

パウロはこのキリストの犠牲についてこのように言っています。「神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。」(Ⅱコリント5:21)これは私たちの罪が、罪を知らない方(キリスト)に転嫁されたということを示していました。その結果、私たちの罪が取り除かれ、神との和解が成立したのです。この罪の赦し、神との和解を受けるには、キリストを救い主として認め、受け入れなければなりません。その時、大祭司の罪が雄牛に転嫁されすべての汚れからきよめられたように、すべての罪が赦され神と和解することができるのです。

次に、15~18節までをご覧ください。
「15 また、一匹の雄羊を取り、アロンとその子らはその雄羊の頭に手を置く。
16 その雄羊を屠り、その血を取り、これを祭壇の側面に振りかける。
17 また、その雄羊を各部に切り分け、その内臓とその足を洗い、これらをほかの部位や頭と一緒にし、
18 その雄羊を全部、祭壇の上で焼いて煙にする。これは主への全焼のささげ物で、主への芳ばしい香り、食物のささげ物である。」

ここには、主への全焼のささげ物について記されてあります。全焼のささげ物は、神への感謝と主への献身を象徴していました。ローマ12:1には、「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。」とあります。キリストによって救われた者の具体的な生活は、自分自身を主にささげることから始まるということです。

その全焼のささげ物は、一匹の雄羊を取り、アロンとその子らはその雄羊の上に手を置かなければなりませんでした。手を置くというのは、すでに見てきたように、罪の転嫁を意味していました。これは、罪は命(血)によって贖われるということを示していました。

次に、その雄羊を屠ります。そしてその血を取り、それを祭壇の側面に振りかけました。また、その雄羊を各部位に切り分け、その内臓と足を洗い、これを他の部位や頭と一緒にして、その全部を祭壇の上で焼いて煙にしました。煙にするとは、すでに述べたように、神への芳ばしい香りとするということです。「全焼のささげ物」という呼び方は、このようにその全部を祭壇の上で焼いて煙にしたことから来ています。

次に、19~21節をご覧ください。
「19 もう一匹の雄羊を取り、アロンとその子らはその雄羊の頭に手を置く。
20 その雄羊を屠り、その血を取って、アロンの右の耳たぶと、その子らの右の耳たぶ、また彼らの右手の親指と右足の親指に塗り、その血を祭壇の側面に振りかける。
21 祭壇の上の血と、注ぎの油を取って、それをアロンとその装束、彼とともにいるその子らとその装束にかける。こうして、彼とその装束、彼とともにいるその子らとその装束は聖なるものとなる。」

初めの二つのささげ物は、祭司の任職のための前段階にすぎません。すなわち、「罪のためのいけにえ」をささげることによって祭司に任職される者の罪が贖われ、次いで、その献身が「全焼のいけにえ」によって象徴されていたのです。そして、いよいよ本来の任職のためのいけにえがささげられていきます。神と祭司との交わりを意味する「交わりのささげ物」(和解のいけにえ)です。ここには、「こうして、アロンとその装束、また、彼とともにいるその子らとその装束は聖なるものとなる。」(21)とあります。どのようにして彼らの装束が聖なるものとなったのでしょうか。

ここでも、アロンとその子らは雄羊の頭の上に手を置きました。そしてその雄羊をほふり、その血をアロンとその子らにつけました。血は右の耳たぶ、右手の親指、そして右足の親指につけられました。これは、全身に血を塗ったことを象徴していました。つまり、全身が血によってきよめられ、聖別されることを示していたのです。すなわち、耳が血で聖別されるのは主のみことばに常に従うためであり、手がきよめられたのは常に主のみわざを行う用意をしているためであり、足がきよめられたのはその働きを成し続けるためです。そしてその血を祭壇の側面に振りかけられました。

また、祭壇の上の血と注ぎの油を取ってそれをアロンとその装束、彼とともにいるその子らとその装束にかけました。これも祭司の任職式だけにある特異な儀式でした。これはどんなことを象徴していたのかというと、祭壇の上の血はキリストの血を、注ぎの油は聖霊のきよめを象徴していました。これがアロンとその装束、また、彼とともにいたその子らとその装束に振りかけられるとは、キリストと聖霊という相互に不可分に結合しているものが振りかけられたことによって、彼らが祭司職に関する神との契約関係に入れられたことを示していました。こうして彼とその装束、彼とともにいるその子らとその装束は聖なるものとなったのです。

次に、22~28節までをご覧ください。
「22 次に、その雄羊の脂肪、あぶら尾、内臓をおおう脂肪、肝臓の小葉、二つの腎臓とその上の脂肪、また右のももを取る。これは任職の雄羊である。
23 また、主の前にある種なしパンのかごから、円形パン一つと、油を混ぜた輪形パン一つと、薄焼きパン一つを取る。
24 そして、そのすべてをアロンの手のひらとその子らの手のひらに載せ、奉献物として主の前で揺り動かす。
25 それらを彼らの手から取り、全焼のささげ物とともに、主の前の芳ばしい香りとして祭壇の上で焼いて煙にする。これは主への食物のささげ物である。
26 アロンの任職のための雄羊の胸肉を取り、これを奉献物として主に向かって揺り動かす。これは、あなたの受ける分となる。
27 アロンとその子らの任職のための雄羊の、奉献物として揺り動かされた胸肉と、奉納物として献げられたもも肉とを聖別する。
28 それは、 アロンとその子らがイスラエルの子らから受け取る永遠の割り当てとなる。それは奉納物である。それはイスラエルの子らからの交わりのいけにえの奉納物、主への奉納物であるから。」

この供え物のもう一つの特異な点は、アロンとその子らの奉納物でした。それは、脂肪と共にもも、それに穀物のささげ物を大祭司と祭司の手のひらに載せて、主に向かって揺り動かすことです。ラビの伝承によると、祭壇に向かって前後に、あちらこちらと揺り動かしました。これはどんなことを表していたのかというと、ささげものをまず神にささげ、それからそれが神から祭司に与えられることを表していました。そして、まずその脂肪と右のもも、また穀物のささげ物を、全焼のささげ物とともに、主の前の芳ばしい香りとして祭壇で焼いて煙にしました。これは主へのささげ物です。次に、雄羊の胸肉を取り、これも祭壇に向かって前後に揺り動かして後、アロンの受ける分となりました。レビ族には土地の分割がなかったのでこれが彼らの生活費となりました。それはイスラエルの子らからの交わりのささげ物(和解のいけにえ)の奉納物だったのです。

29~30節をご覧ください。
「29 アロンの聖なる装束は彼の跡を継ぐ子らのものとなり、彼らはこれを着けて油注がれ、これを着けて祭司職に任命される。
30 彼の子らのうちで、彼に代わって聖所で務めを行うために会見の天幕に入る祭司は、 七日間、これを着る。」

大祭司の装束はアロン一代で終わりにせず、その後継者も代々用いられるようにしました。その儀式は七日間続き、彼の子らのうちで、彼に代わって聖所で務めを行うために会見の天幕に入る祭司は、これを着なければなりませんでした。

次に、31-34節をご覧ください。
「31 あなたは任職のための雄羊を取り、聖なる所でその肉を煮なければならない。
32 アロンとその子らは会見の天幕の入り口で、その雄羊の肉と、かごの中のパンを食べる。
33 彼らは、自分たちを任職し聖別するため、宥めに用いられたものを食べる。一般の者は食べてはならない。これらは聖なるものである。
34 もし任職のための肉またはパンが朝まで残ったなら、その残りは火で燃やす。食べてはならない。これは聖なるものである。」

水によるきよめ、着衣、油注ぎ、罪のためのいけにえ、全焼のいけにえ、任職のためのいけにえ(交わりのささげ物、和解のいけにえ)といった任職のための一連の儀式が終わると、次にいけにえの食事へと続きました。

まず、任職のための雄羊を取り、それを聖なる所で煮なければなりませんでした。「聖なる所」とは、会見の天幕の入口のことでしょう。レビ8:31には、「会見の天幕の入口の所で、その肉を煮なさい。」とあります。アロンとその子らは会見の天幕の入口で、その雄羊の肉と、かごの中のパンを食べました。この交わりの食事は、祭司の任職式を終わらせるものとして最もふさわしいものでした。というのは、これまでの儀式によって、彼らは今、主の奉仕者として、主との特別に親しい交わりの中に入れられ、また、彼らが主の祭壇で養われるようになったことを示しているからです。それは神の祭司である私たちクリスチャンの姿でもあります。キリストの十字架の贖いによって罪を赦され、自分のすべてを神にささげることによって、神との親しい交わりの中に入れられるからです。

もし任職のための肉またはパンが朝まで残ったなら、その残りは火で燃やさなければなりませんでした。ほかの者は、食べてはならないということです。それは、ただ神との親しい交わりの中に入れられた者だけが食べることができるものだったのです。これは聖餐式を表しています。聖餐式は、神との親しい交わりを象徴しています。それはキリストの十字架の贖いを信じて罪赦され、自分のすべてを神にささげることによってもたらされる神との親しい交わりです。それゆえ、この罪の赦しと神への献身がなければ、この神との交わりに入ることはできないのです。この神との親しい交わりの中に入れられたことを感謝しましょう。

Ⅲ.任職式(35-46)

最後に、35~46節までを見て終わります。まず42節までをご覧ください。
「35 わたしがあなたに命じたすべてにしたがって、このようにアロンとその子らに行え。七日間、 任職式を行わなければならない。
36 毎日、宥めのために、 罪のきよめのささげ物として雄牛一頭を献げる。あなたはその上で宥めを行い、その祭壇から罪を除く。聖別するためにそれに油注ぎをする。
37 七日間、祭壇のために宥めを行い、それを聖別する。祭壇は最も聖なるものとなる。 祭壇に触れるものはすべて、聖なるものとなる。
38 祭壇の上に献げるべき物は次のとおりである。毎日絶やすことなく、一歳の雄の子羊二匹。
39 朝、一匹の雄の子羊を献げ、 夕暮れに、もう一匹の雄の子羊を献げる。
40 一匹の雄の子羊には、 上質のオリーブ油四分の一ヒンを混ぜた最良の小麦粉十分の一エパと、 また注ぎのささげ物としてぶどう酒四分の一ヒンが添えられる。
41 もう一匹の雄の子羊は夕暮れに献げなければならない。これには、朝の穀物のささげ物や注ぎのささげ物を同じく添えて、献げなければならない。それは芳ばしい香りのためであり、主への食物のささげ物である。
42 これは、主の前、会見の天幕の入り口での、あなたがたの代々にわたる常供の全焼のささげ物である。その場所でわたしはあなたがたに会い、その場所であなたと語る。」

この箇所は、任職式と関連しているのか、関連していないのかは、はっきりわかっていません。任職式は七日間行われました。それは七が完全数であるからです。神によって完全に罪が赦されることを表していたのです。私たちも、自分の罪が完全にきよめられていることを確信しなければなりません。

また、常供の全焼のささげ物として、毎日絶やすことなく1歳の雄の子羊2匹を、朝と夕方にそれぞれ1匹ずつ献げなければなりませんでした。一匹の雄の子羊には、上質のオリーブ油四分の一ヒンを混ぜた最良の小麦粉十分の一エパと、注ぎのささげものとして、ぶどう酒四分の一ヒンが添えられました。もう1匹の若い雄羊は、夕暮れに献げなければなりませんでした。これにも朝の穀物の献げ物や注ぎのささげ物を同じく添えて、献げなければなりませんでした。それは芳ばしい香りのためであり、主への食物のささげ物だったのです。

42節には「その場所でわたしはあなたがたに会い、その場所であなたと語る。」とあります。「その場所」とは祭壇のことです。「あなたがた」とはイスラエルの民のこと、「あなた」とはモーセのことです。主はそこでイスラエルの民と会い、そこでモーセに語られました。だから、祭壇が贖われなければならなかったのです。あなたの祭壇は贖われているでしょうか。主がそこで会ってくださいます。そこで語ってくださいます。いつでも主とお会いし、主のことばを聞くために、祈りの祭壇を築きましょう。

43~46節をご覧ください。
「43 その場所でわたしはイスラエルの子らと会う。そこは、わたしの栄光によって聖なるものとされる。
44 わたしは会見の天幕と祭壇を聖別する。またアロンとその子らを聖別して、彼らを祭司としてわたしに仕えさせる。
45 わたしはイスラエルの子らのただ中に住み、彼らの神となる。
46 彼らは、わたしが彼らの神、主であり、彼らのただ中に住むために、彼らをエジプトの地から導き出したことを知るようになる。わたしは彼らの神、主である。」

この箇所は幕屋の建設と祭司職に関する規定の結びとなっています。ここにその目的が記されてあります。「その場所」とは「幕屋」のことです。神が示された方法(幕屋)を通して神に近づくなら、イスラエル人は神に近づくことができました。幕屋は、神が民と出会う恵みの場所です。また、幕屋で仕え、神との交わりのために用いられるのがアロンとその子らでした。それゆえ、幕屋も祭司も聖別される必要があったのです。そのようにして神に近づくなら、神はイスラエル人の間に住み、彼らの神となると約束されました。これが、主がイスラエルの民をエジプトから解放してくださった目的でした。イスラエル人は主が彼らの神であり、彼らのただ中に住むために、彼らをエジプトの地から導き出してことを知るようになります。つまり、出エジプトの目的は、イスラエルが自分たちをエジプトから導き出したのは主という御名を持った神であるということを体験的に知るようになるためだったのです。

あなたはあなたとともにおられる方、あなたの中に住んでおられる方がどういう方であるかを知っているでしょうか。この方は、イスラエルをエジプトから救い出してくださった方、主であり、あなたを救うためにあなたのために十字架で死んでくださったイエス・キリストなのです。あなたはそこで神と出会います。イエス・キリストを通して神と会い、神の栄光を受けるのです。この方があなたのただ中に住み、あなたの神であることを感謝しましょう。

Ⅰサムエル記23章

今日は、サムエル記第一23章から学びます。

Ⅰ.ケイラを救ったダビデ(1-6)

まず、1~6節までをご覧ください。

「1 「今、ペリシテ人がケイラを攻めて、打ち場を略奪しています」と言って、ダビデに告げる者がいた。2 ダビデは主に伺って言った。「行って、このペリシテ人たちを討つべきでしょうか。」主はダビデに言われた。「行け。ペリシテ人を討ち、ケイラを救え。」3 ダビデの部下は彼に言った。「ご覧のとおり、私たちは、ここユダにいてさえ恐れているのに、ケイラのペリシテ人の陣地に向かって行けるでしょうか。」4 ダビデはもう一度、主に伺った。すると主は答えられた。「さあ、ケイラに下って行け。わたしがペリシテ人をあなたの手に渡すから。」5 ダビデとその部下はケイラに行き、ペリシテ人と戦い、彼らの家畜を奪い返し、ペリシテ人を討って大損害を与えた。こうしてダビデはケイラの住民を救った。6 アヒメレクの子エブヤタルは、ケイラのダビデのもとに逃げて来たとき、エポデを携えていた。

サウルの嫉妬によってダビデはサウルの手を逃れ、まずノブの祭司アヒメレクのところへ逃れました。その後、敵地ペリシテの町ガテに潜伏しました。イスラエルにいればサウルに見つけられてしまうのではないかと思いそうしたのではないかと思いますが、そこですぐに捕らえられ絶体絶命のピンチを迎えました。その時、主はダビデに知恵を与え、ガテの王アキシュの前できちがいを装ったので、そこから追い出され、アドラムの洞穴に避難しました。そこへ彼の家族や困窮している者、負債のある者、サウルに不満のある者たちが集まったので、約400人がダビデとともにいるようになりました。

その後ダビデはモアブの地ミツパに逃れましたが、預言者ガドを通して「ユダの地に帰りなさい」との神のことばを告げられたので、ユダの地に戻っていました。ところが、そこではサウルを通して残虐な行為が繰り広げられていました。ダビデをかくまったということでノブの祭司85人と、ノブの町の男も女も、幼子も乳飲み子も、みな殺されてしまったのです。ただ一人祭司アヒメレクの子エブヤタルだけが難を逃れてダビデのところに逃げて来ました。

そのような時ダビデのもとに、ペリシテ人がケイラを攻めて、打ち場を略奪しているという知らせが入りました。ケイラはユダ族の領地にある町で穀物の産地として知られていましたが、ペリシテ人たちは、その収穫物を略奪するために攻撃していたのです。ケイラは、ダビデがいたアドラムからは10㎞しか離れていなかったので、数時間で駆け付けることができる距離にありました。問題は、彼は戦えるような状態ではなかったことです。彼は今逃亡中の身でした。また、自分が抱えていた兵士の数にも限界がありました。そのような状況でペリシテ人と戦うということには無理がありました。

そこでダビデはどうしたかというと、主に伺って言いました。伺ったとは、祈ったということです。「行って、このペリシテ人たちを討つべきでしょうか。」彼は自分の思いや考えではなく、神様の導きを求めて祈ったのです。すると、すぐに主からの応答がありました。それは、「行け。ペリシテ人を討ち、ケイラを救え。」ということでした。しかし、ダビデの部下たちは彼に言いました。「ご覧のとおり、私たちは、ここユダにいてさえ恐れているのに、ケイラのペリシテ人の陣地に向かって行けるでしょうか。」彼らの気持ちもわからないでもありません。この時ダビデは逃亡の身であり、人を助けるような状況にはなかったからです。たとえそれが神のみこころだとしても、いったいどうやって助けることができるでしょうか。無理です。それが部下たちの反応でした。

それでダビデはどうしましたか?彼はもう一度主に伺いました。本当に主は、行って、ペリシテ人を討ち、ケイラを救うようにと願っておられるのかどうかを確認し、確信を得てから出て行こうとしたのです。すると主は、「さあ、ケイラに下って行け。わたしがペリシテ人をあなたの手に渡すから。」と言われました。主がペリシテ人をダビデの手に渡されると言われたのです。それでダビデとその部下はケイラに下って行き、ペリシテ人と戦ってこれに勝利し、彼らの家畜を奪い返し、ペリシテ人を討って大損害を与えました。こうしてダビデはケイラの住民をペリシテ人の手から救いました。大切なことは、私たちの状況がどうであるかということではなく、神のみこころは何かということです。たとえ現実の状況が苦しくても、それが神のみこころなら、神は必ず答えてくださいます。ですから、私たちは神が願われることを知り、それを行わなければなりません。

私たちは4年前さくら市で開拓を始めるために、その場所が与えられるように祈っていました。当初はどこかを借りて始めようとしましたがふさわしい物件がなかったので、どのようにすべきかを祈っていたところ、さくら市総合運動公園の駐車場の前の土地(教会の建物がある土地)が示されました。しかし、資金が全くありませんでしたので、無理だと思っていたときに、このみことばが与えられました。

「この民はいつまでわたしを侮るのか。わたしがこの民の間で行ったすべてのしるしにもかかわらず、いつまでわたしを信じようとしないのか。」(民数記14:11)

これは、かつてイスラエルがエジプトを出てカデシュ・バルネヤに着いた時、モーセはカナンの地を偵察するために12人のスパイを遣わしたところ、その中の10人がその地の住人を恐れ、イスラエルの民に悪く言いふらしたことに対して、主が怒って言われたことばです。彼らはモーセにこう報告しました。「私たちは、あなたがお遣わしになった地に行きました。そこには確かに乳と蜜が流れています。そして、これがそこの果物です。ただ、その地に住む民は力が強く、その町々は城壁があって非常に大きく、そのうえ、そこでアナクの子孫を見ました。アマレク人がネゲブの地方に住んでいて、ヒッタイト人、エブス人、アモリ人が山地に、カナン人が海岸とヨルダンの川岸に住んでいます。・・あの民のところには攻め上れない。あの民は私たちより強い。」

しかし、その地を偵察して来た者のうち、ヌンの子ヨシュアとエフネの子カレブは違いました。彼らは他の偵察隊のことばを聞き、自分たちの衣を引き裂き、イスラエルの全会衆に向かって次のように言いました。「私たちが巡り歩いて偵察した地は、すばらしく、良い地だった。もし主が私たちを喜んでおられるなら、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さる。あの地は乳と蜜が流れる地だ。ただ、主に背いてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちの餌食となる。彼らの守りは、すでに彼らから取り去られている。主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」(民数記14:6-9)

彼らは、主が私たちとともにおられるので大丈夫だ。「私たちはぜひとも上って行って、そこを占領しましょう。必ず打ち勝つことができます。」と言ったのです。ヨシュアとカレブは、自分たちの力や置かれた状況ではなく主を見上げていたのです。

その結果、どうなりましたか。他の12人の偵察隊の声が大きかったので、イスラエルの民は上って行きませんでした。そして、40年間も荒野をさまようことになり、約束の地に入ることができませんでした。彼らの中ではただヨシュアとカレブだけが入ることができました。彼らが神のことばを信じなかったからです。彼らは自分たちの状況を見て、神の約束を信じなかったのです。

それで、私たちはいつまでも信じようとしない罪を悔い改めて祈りました。そして、主のみこころならば、主が必ず与えてくださると信じて祈ったとき、主が必要を満たしてくださいました。問題は、私たちが主の約束を見ないで、自分の置かれている状況を見てしまうことです。

ところで、6節に「アヒメレクの子エブヤタルは、ケイラのダビデのもとに逃げて来たとき、エポデを携えていた。」とあります。エポデとは、大祭司が身に着けていた装束ですが、そのエポデの胸には、さばきの胸当てが付いていました。そこにはイスラエル12部族を表す12の宝石が埋め込められていましたが、その中に神のみこころを求めるウリムとトンミムというくじみたいなものがありました。ウリムが出たら「行け」、トンミムが出てら「行くな」というように、それで神のみこころがわかるようになっていました。エブヤタルはこのエポデを携えていたので、エポデの中にあったウリムとトンミムを使って、神のみこころを求めたのです。9節でダビデがエブヤタルに「エポデを持って来なさい。」と命じているのはそのためです。

しかし、私たちにはウリムとトンミムに代わる確かな神の導きがあります。それは神のみことばです。神のみことばを読みながら、神にみこころを求めるなら、主は必ずその道を示してくださいます。あとはそれを行うだけです。たとえ状況がどうであれ、神のみことばを通してみこころを求め、そのみこころに従いましょう。主は必ずあなたに勝利をもたらしてくださいますから。

Ⅱ.ケイラの裏切り(7-14)

次に、7-14節までをご覧ください。

「7 一方、ダビデがケイラに来たことがサウルに知らされると、サウルは、「神は彼を私の手に渡された。彼は扉とかんぬきのある町に入って、自分自身を閉じ込めてしまったのだから」と言った。8 サウルは、ケイラへ下ってダビデとその部下を攻めて封じ込めるため、兵をみな召集した。9 ダビデは、サウルが自分に害を加えようとしているのを知り、祭司エブヤタルに言った。「エポデを持って来なさい。」10 そしてダビデは言った。「イスラエルの神、主よ。しもべは、サウルがケイラに来て、私のことで、この町を破壊しようとしていることを確かに聞きました。11 ケイラの者たちは私を彼の手に引き渡すでしょうか。サウルは、しもべが聞いたとおり下って来るでしょうか。イスラエルの神、主よ。どうか、しもべにお告げください。」主は言われた。「彼は下って来る。」12 ダビデは言った。「ケイラの者たちは、私と私の部下をサウルの手に引き渡すでしょうか。」主は言われた。「彼らは引き渡す。」13 ダビデとその部下およそ六百人は立って、ケイラから出て行き、そこここと、さまよった。ダビデがケイラから逃れたことがサウルに告げられると、サウルは討伐をやめた。14 ダビデは、荒野にある要害に宿ったり、ジフの荒野の山地に宿ったりした。サウルは、毎日ダビデを追い続けたが、神はダビデをサウルの手に渡されなかった。」

一方、ダビデがケイラに来たことがサウルに知らされると、サウルは、「神は彼を私の手に渡された」と言って喜びました。これは単なる彼の誤解です。彼は霊的に盲目となっており、何でも自分に都合のよいように解釈する癖がありました。サウルの戦略は、ダビデをケイラの町に閉じ込めて捕らえるということだったのです。

ダビデは、サウルが自分に害を加えようとしているのを知り、祭司エブヤタルに「エポデを持って来るように」と言いました。ここでもダビデは主のみこころを求めたのです。ここでダビデが主に尋ねたことはどんなことだったでしょうか。ここで彼は二つのことを主に尋ねています。一つは、サウルがダビデのことでケイラに下ってくるかどうかということ、そしてもう一つのことは、ケイラの住民はダビデとその部下たちをサウルの手に引き渡すかどうかということでした。主の答えは何でしたか。「サウルは下ってくる」ということであり、ケイラの住民は、ダビデとその部下をサウルに引き渡すということでした。何ということでしょう。ケイラの住民はダビデに救ってもらったにもかかわらず、ダビデに対して真実ではありませんでした。それは恩を仇で返すような行為です。おそらく、彼らはあの祭司の町ノブの二の舞にだけはなのたくなかったのでしょう。自分たちを救ってくれたダビデではありましたが、何をするかわからないサウルの前に屈する形になったのです。

長い間荒野で逃亡生活をしていたダビデにとっては、ケイラの人々に頼って定着したいという思いがあったでしょうが、その願いは叶いませんでした。ダビデとその部下およそ600人は立って、ケイラから出て行き、そこここと、さまようことになりました。もう一度神だけに頼って、荒野に出て行かなければならなかったのです。しかし、それこそ完全な守りです。荒野には鉄の要塞はありませんが、神の要塞があります。神の完全な守りがあるのです。神に信頼するなら、たとえ死の陰の谷を歩くようなことがあっても恐れることはありません。神が守ってくださいますから。結局、神はダビデを捕らえようとするサウルの努力をすべてむなしいものとされました。ダビデがケイラから逃れたことを聞いたサウルは、討伐をやめました。彼は毎日ダビデを追い続けましたが、神はダビデをサウルの手には渡されなかったのです。

Ⅲ.仕切りの岩山(15-29)

次に、15-18節をご覧ください。

「15 ダビデは、サウルが自分のいのちを狙って、戦いに出て来たのを見た。そのとき、ダビデはジフの荒野のホレシュにいた。16 サウルの息子ヨナタンは、ホレシュのダビデのところに行って、神によってダビデを力づけた。17 彼はダビデに言った。「恐れることはありません。父サウルの手が、あなたの身に及ぶことはないからです。あなたこそ、イスラエルの王となり、私はあなたの次に立つ者となるでしょう。父サウルも、そうなることを確かに知っているのです。」18 二人主の前で契約を結んだ。ダビデはホレシュにとどまり、ヨナタンは自分の家に帰った。」

サウルがダビデのいのちを狙って、戦いに出て来たとき、ダビデはジフの荒野のホレシュという所にいました。するとそこにサウルの息子ヨナタンが来て、神によってダビデを力づけました。彼はダビデに、父サウルの手が彼に及ぶことはないので、恐れることはないと言って励まし、ダビデこそイスラエルの王となり、自分は彼の次に立つ者となると告げています。つまり、ヨナタンは神の計画を完全に受け入れていたのです。サウルも、そうなることを確かに知っていましたが、サウルはその神の計画に反抗していました。ヨナタンの訪問は、ダビデにとってどれほどの励ましとなったことでしょう。挫折の中で経験するこのような励ましは格別なものです。ケイラからジフに戻ったダビデは、つらい時間を過ごしていました。そこは何も頼るところもない落胆するような寂しい所でした。神はそのようなダビデのところにヨナタンを遣わしてくださったのです。ヨナタンは神の特別な約束を伝え、ダビデを力づけました。ヨナタンの励ましよりダビデは、神に頼ってもう一度立ちあがることができたのです。

19-29節をご覧ください。

「19 ジフ人たちは、ギブアのサウルのところに上って行って、言った。「ダビデは私たちのところに隠れているのではありませんか。エシモンの南、ハキラの丘のホレシュにある要害に。20 王よ。今、下って行こうとお思いでしたら、下って来てください。私たちが彼を王の手に引き渡します。」21 サウルは言った。「主の祝福があなたがたにあるように。あなたがたが私のことを思ってくれたからだ。22 さあ行って、さらに確かめてくれ。彼が足を運ぶ場所と、だれがそこで彼を見たかを、よく調べてくれ。彼は非常に悪賢いとの評判だから。23 彼が潜んでいる隠れ場所をみな、よく調べて、確かな知らせを持って、ここに戻って来てくれ。そのとき、私はあなたがたと一緒に行く。彼がこの地にいるなら、ユダのすべての分団のうちから彼を捜し出す。」24 彼らはサウルに先立ってジフへ行った。一方、ダビデとその部下は、エシモンの南のアラバにあるマオンの荒野にいた。25 サウルとその部下はダビデを捜しに出て行った。このことがダビデに知らされたので、彼は岩場に下り、マオンの荒野にとどまった。サウルはこれを聞き、マオンの荒野でダビデを追った。26 サウルは山の一方の側を進み、ダビデとその部下は山のもう一方の側を進んだ。ダビデは急いでサウルから逃れようとした。サウルとその部下が、ダビデとその部下を捕らえようと迫って来たとき、27 一人の使者がサウルのもとに来て、「急いで来てください。ペリシテ人がこの国に襲いかかって来ました」と言った。28 サウルはダビデを追うのをやめて帰り、ペリシテ人の方に向かった。こういうわけで、この場所は「仕切りの岩山」と呼ばれた。29 ダビデはそこから上って行って、エン・ゲディの要害に住んだ。」

ヨナタンの訪問によりダビデは再び勇気を得ますが、彼の置かれていた状況はさらに緊迫さを増していきます。ダビデが隠れていたジフの人々がギブアのサウルのところに上って行って、ダビデの様子を密告したからです。

「ダビデは私たちのところに隠れているのではありませんか。エシモンの南、ハキラの丘のホレシュにある要害に。 王よ。今、下って行こうとお思いでしたら、下って来てください。私たちが彼を王の手に引き渡します。」(19-20)

ジフの人々もケイラの町の人々同様、祭司の町ノブの二の舞になるのを恐れたのでしょう。しかし、この裏切りはケイラの場合よりも悪いものでした。なぜなら、ジフ人たちは積極的にサウルのもとに上って行ったからです。サウルはその情報を聞いて非常に喜びました。そして、さらに正確な情報を得るために、よく調べてくれるようにと頼みました。

その頃、ダビデとその部下は、エシモンの南のアラバにあるマオンの荒野にいました。サウルとその部下はダビデを捜しに出て行き、マオンの荒野でダビデを追いました。サウルとその部下は山の一方の側を進み、ダビデとその部下は山のもう一方の側を進みました。両軍が出くわすのは、もはや時間の問題です。状況はとても緊迫していました。

そのとき、サウルのもとに一人の使者がやって来て、ペリシテ人がイスラエルに襲いかかって来たので、急いで来てくださいと告げました。そのため、サウルはやむなく引き返さなければならなくなりました。何とも言えないタイミングです。でもこれは決して偶然ではなく、神がなされた救いの御業でした。

詩篇54篇は、ダビデがこの時に歌った詩です。表題には、指揮者のために。弦楽器に合わせて。ダビデのマスキール。ジフの人たちが来て、サウルに「ダビデは私たちのところに隠れているのではありませんか」と言ったときに、とあります。                                                                                                                                                                                                                   1 神よ あなたの御名によって私をお救いください。あなたの力強いみわざによって私を弁護してください。                2 神よ 私の祈りを聞いてください。私の口のことばに耳を傾けてください。                                                                         3 見知らぬ者たちが私に立ち向かい横暴な者たちが私のいのちを求めています。彼らは神を前にしていないのです。セラ                                                                                                                                                                                                                     4 見よ 神は私を助ける方。主は私のいのちを支える方。                                                                                                               5 神は私を待ち伏せる者たちにわざわいをもって報いられます。あなたの真実によって彼らを滅ぼしてください。       6 私は心からのささげ物をもってあなたにいけにえを献げます。主よ あなたの御名に感謝します。すばらしい御名に。                                                                                                                                                                                                                  7 神がすべての苦難から私を救い出し私の目が敵を平然と眺めるようになったからです。

この時ダビデは主の御名によって救いを求めました。「セラ」を区切りとして、前半が神への嘆願、後半が神への感謝となっています。ダビデは、祈りの中で、自らの祈りが答えられたという確信を得たのです。ダビデの祈りは、私たちの祈りでもあります。「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われます。」(ローマ10:13)神の民であるクリスチャンは、最も絶望的な状況で、起死回生の奇跡を経験することができるのです。

この山は、「仕切りの岩山」と呼ばれました。その山が神のみわざの象徴となったからです。ダビデは神の保護を受け、そこを無事に脱出し、死海の西岸にあるエン・ゲディの要害に住みました。主はあなたの祈りにも答えてくださり、あなたをあらゆる危機から救い出してくださいます。どんな状況でも、この主に救いを求めて祈りましょう。

 

ヨハネの福音書17章6~19節「弟子たちのための祈り」

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きょうは、ヨハネの福音書17章から、イエス様が弟子たちのために祈られた祈りから学びたいと思います。最後の晩餐の席から立ち上がり、ゲッセマネの園に向かわれたイエスは、「しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見る」と言われました。それはご自身が十字架で死なれるが、三日目によみがえられること、そして、天に昇り神の右の座に着かれると、約束の聖霊をお遣わしになることを意味していました。その方が来ると、彼らをすべての真理に導いてくださいます。その方を通して、主はいつまでも彼らとともにいてくださると約束してくださったのです。今は悲しみますが、その悲しみは喜びに変わります。だから、勇気を出してください。あなたがたは世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。

これらのことを話されると、イエス様は目を天に向けて祈られました。それがこの17章の内容です。この後でイエス様はゲッセマネの園で祈られるとその場で捕らえられ、翌日十字架につけられます。そうした緊張した場面で、主は祈られたのです。この祈りは大きく三つに分けられます。まずご自身のための祈りです。それは前回見た1節から5節までの内容です。それから、今日学ぼうとしている弟子たちのための祈りです。6節から19節までです。そして、全世界のすべてのクリスチャンのための祈りです。20節から26節までの内容です。

きょうは、イエス様が弟子たちのために祈られた祈りから三つのことをお話ししたいと思います。第一に、イエス様が弟子たちのために祈られた理由です。イエス様はなぜ弟子たちのために祈られたのでしょうか。それは、彼らがイエスを信じ、イエスのものとされたからです。第二に、祈りの内容です。イエス様は彼らのためにどんなことを祈られたでしょうか。その一つは、彼らを悪い者から守ってくださいということでした。第三に、イエス様が彼らのために祈られたもう一つの祈りです。それは、真理によって彼らを聖別してくださいということでした。

Ⅰ.あなたのものはわたしのもの(6-10)

まず、イエス様が弟子たちのために祈られた理由です。それは、彼らがイエスを信じ、イエスのものとされたからです。まず6節から8節までをご覧ください。

「あなたが世から選び出して与えてくださった人たちに、わたしはあなたの御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに委ねてくださいました。そして彼らはあなたのみことばを守りました。あなたがわたしに下さったものはすべて、あなたから出ていることを、今彼らは知っています。あなたがわたしに下さったみことばを、わたしが彼らに与えたからです。彼らはそれを受け入れ、わたしがあなたのもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしを遣わされたことを信じました。」

彼らは、神によってこの世から選び出された者たちです。イエス様は言われました。「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」(15:6)その彼らに、イエス様は神の御名を現わしました。現わしましたというのは、明らかにしたということです。どのように明らかにされたのでしょうか。神のわざを行うことによってです。ヨハネの福音書にはイエス様が神から遣わされた方、メシヤであるというしるし、これは証拠としての奇跡のことですが、7つ記録されています。それでイエスは、ご自分があの出エジプト記3:14で言われていた主ご自身であると宣言されたのです。するとどうでしょう、多くのユダヤ人たちは信じませんでしたが、弟子たちはイエスのことばを受け入れ、イエスが神から遣わされた方であることを信じました。

しかし、その後彼らはどうなりますか。その後イエス様が捕らえられると、彼らは一目散に逃げて行くことになります。その中の一人ペテロは、他の者があなたにつまずいても、私は決してつまずきませんと言いましたが、結局、三度も否認することになります。にもかかわらず、イエスはこうした弱い弟子たちに対して、「彼らはあなたのみことばを守りました」とか、「あなたがわたしを遣わされたことを信じました」と言われました。

ここに主の慰めを感じます。イエス様は、自分たちが見るよりもはるかに多くのことを、彼らの中に見ておられたということです。たとえ弱い信仰であっても、たとえからし種のように小さな信仰であったとしても、そこに信仰があることを見て取って、神のものとして受け入れてくださったのです。それは信じない人たちとは雲泥の差です。イエス様はマタイ10:42で、「まことに、あなたがたに言います。わたしの弟子だからということで、この小さい者たちの一人に一杯の冷たい水でも飲ませる人は、決して報いを失うことがありません。」と言われましたが、そうした弟子たちの誠実さというか、小さな信仰が忘れられていないことをはっきりと示されたのです。

主は、そんな弟子たちのために祈られました。9節と10節をご覧ください。「わたしは彼らのためにお願いします。世のためにではなく、あなたがわたしに下さった人たちのためにお願いします。彼らはあなたのものですから。わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました。」

ここには、イエス様が弟子たちのために祈られた理由が書かれてあります。イエスはなぜ弟子たちのために祈られたのでしょうか。それは、彼らが父なる神のものであり、その父が子にくださったものたちだからです。すなわち、彼らはイエス様のものであるからです。ここに、この世のものと神のものとの違いをはっきりと知ることができます。主の弟子というのは、この世とは区別された者たちです。この世とは神に反逆し、神なしで成り立っている世界のことです。ですから、ヤコブが、「世を愛することは神に敵対することだと分からないのですか。世の友となりたいと思う者はだれでも、自分を神の敵としているのです。」(ヤコブ4:4)と言っているのです。でもクリスチャンは、この世のものではありません。この世から救い出された者たちです。神のもの、イエス様のものとされました。だから祈るのです。

9節に「世のためではなく、あなたがわたしにくださった人たちのために」と言っているのはそのことです。イエス様は、信じない者たちにされないことを、信じる者たちのためになさるということです。ここに神を信じる人たちとそうでない人たちの間に明確な区別があることがわかります。そして、信じる人たちを特別に愛しておられるということがわかります。このようなことを言うと、それはおかしいんじゃないかと言う人たちもいるでしょう。神はすべての人が救われて真理を知るようになることを願っておられるのであって、そのために御子イエス・キリストを十字架にお掛けになったのではないですか。それは、御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。それなのに、ある人たちを特別に愛するというのは不公平です!そうです。イエス様は全人類を愛し、すべての人のために死なれ、すべての人に十分な救いを備えられ、すべての人を召し、すべての人を招き、すべての人に悔い改めるようにと命じられました。しかし、それをすべての人が受け入れるかというとそういうわけではありません。神はすべての人に対しては惜しみなく、十分に、無条件にその愛を与えてくださいましたが、それを受け入れるのは一部の人たちです。確かに神の恵みはすべての人に注がれていますが、その恵みは、それを信じる人たちだけに有効であるということも事実なのです。イエス様にとって、ご自身を信じる人たちは特別なのです。だから、イエス様はご自身によって神のもとに来る人たちだけのために、とりなしておられるのです。それが、この「世のためではなく、あなたがわたしに下さった人たちのために」という意味です。

これはすばらしい約束です。全能の主が、ご自身を信じる者ために祈っていてくださるのですから。へブル7:25 には、「したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。」とあります。キリストを信じる者は、決して滅びることがありません。なぜなら、イエス様がその人たちのために祈っていてくださるからです。その祈りをやめることはありません。そして、その祈りが勝利をもたらしてくれるからです。彼らは信仰に堅く立ち、終わりの日まで守られるのは、彼ら自身の意志や能力によるのではなく、主が彼らのためにとりなしておられるからなのです。たとえば、イスカリオテのユダはイエスが死刑に定められたのを知って後悔し、銀貨30枚を祭司長たちに返して、「私は無実の人の地を打って罪を犯しました。」と言いましたが、最終的に彼は、銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死にました。再び立ち上がることはなかったのです。一方、ペテロはそうではありませんでした。ペテロもイエス様を知らないと三度も否定しましたが、彼はその後悔い改めて、神との関係を回復しました。この両者の間にどうしてこのような違いがあったのでしょうか。それは、主イエスがペテロのために祈っておられたということです。イエス様はペテロにこう言われました。

「しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:32)

皆さん、だれかに祈られているということほど心強いことはありません。祈りは神の御手を動かすからです。あなたのために祈っていてくださるのは、あなたの救い主イエス・キリストです。主はまどろむこともなく、眠ることもありません。その主があなたのために祈っていてくださるのですから、どんなことがあっても大丈夫。あなたは最後まで守られるのです。私たちは本当に信仰の弱い者ですが、主はそんな者のために祈っていてくださいます。なぜ?イエス様を信じたからです。イエス様を信じて神のものとなりました。神のものはイエスのものです。それでイエス様に特別に愛される者となったのです。特別にです。イエス様にとって、あなたは特別なのです。You are special.だからイエス様はあなたのために祈っておられるのです。これこそ、イエス様を信じている者たち、クリスチャンの特権です。しかも、10節の終わりのところには「わたしは彼らによって栄光を受けました」とあります。すぐにつまずいたり、すぐに主の御心を傷つけてしまうような者であっても、主は私たちを誇り栄光と思っていてくださるということです。イエスを信じたからです。そのことを思うと、もう感激で胸がつまってしまうのではないでしょうか。

Ⅱ.悪い者から守ってください(11-16)

第二に、その祈りの内容です。11節から16節までをご覧ください。11節には、「わたしはもう世にいなくなります。彼らは世にいますが、わたしはあなたのもとに参ります。聖なる父よ、わたしに下さったあなたの御名によって、彼らをお守りください。わたしたちと同じように、彼らが一つになるためです。」あります。

イエス様は、そんな弟子たちのために二つのことを祈られました。一つは、11節にあるように「あなたの御名によって、彼らをお守りください」ということで、もう一つは、16節にあるように「真理によって彼らを聖別してください」ということです。

まず、「あなたの御名によって、彼らをお守りください」ということですが、11節には、「わたしはもう世にいなくなります。彼らは世にいますが、わたしはあなたのもとに参ります。聖なる父よ、わたしに下さったあなたの御名によって、彼らをお守りください。」とあります。どういうことでしょうか。イエス様はもうすぐいなくなります。十字架で死なれ、三日目によみがえられますが、その後、父のもとに行かれるからです。しかし、弟子たちは主とともにこの世からいなくなるわけではりあません。彼らはこの世に残されます。彼らには大切な使命が与えられていたからです。それは何かというと、キリストの証人となって、全世界に御国の福音を宣べ伝えることです。ですから主は、彼らを守ってくださるようにと祈られたのです。つまり、イエス様はご自分の民がこの世から取り去られることではなく、この世の中で悪から守られることを願われたのです。

すべてをご存知であられた主は、弟子たちがどのような思いを抱くであろうかということをよく知っておられました。その数は非常に少なく、力は弱く、敵や迫害に取り囲まれたら、だれでもこの悩み多い世から解放されて御国に行きたいと願うことでしょう。あのダビデでさえ、敵の手に取り囲まれたときこう言いました。「ああ私に鳩のように翼があったなら。飛び去って休むことができたなら。」(詩篇55:6)この言葉には、敵の手から解放されて主のもとに行きそこで休むことができたらどんなに良いことかという、彼の思いがよく表われています。

しかし、主は、ご自分の民がこの世から取り去られ、悪い者から逃れることよりも、この世に残って悪から守られることの方が重要であると思われました。戦いや誘惑から取り去られることは心地よいことのように思われるかもしれませんが、必ずしもそれが益になるというわけではありません。なぜなら、もしクリスチャンがこの世から取り去られたとしたら、どうやって神の恵みを証しすることができるでしょうか。イエス様は、山上の説教の中で、「あなたがたは地の塩です。もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。 あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。」(マタイ5:13-14)と言われました。もしクリスチャンがすぐにこの世から取り去られたとしたら、どうやってこの地の塩としての役割を果たすことができるでしょう。どうやって暗闇を照らす光となることができるでしょうか。私たちは地の塩、世の光として、自分自身をこの世に示していかなければなりません。

いったいどうやって示すことができるのでしょうか。私たちが主から与えられた使命を果たすためにはこの世に埋没していてはだめなのであって、神を必要としないこの世の原理に立ち向かい,苦闘しながらも、主から与えられた使命を果たしていかなければならないのです。そのためには、主の助けが必要です。この世を支配しているのは悪魔ですから、私たちのような弱いクリスチャンが素手で立ち向かえるような相手ではありません。14節から16節までのところで主はこう言っておられます。「わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではないからです。わたしがお願いすることは、あなたが彼らをこの世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。」

イエス様はここで言っている「悪い者」とは悪魔のことです。イエス様が願っておられたことは、私たちクリスチャンがこの世から取り去られることではなく、この悪魔から守られることでした。いったいどうやって守られるのでしょうか。

11節に戻ってください。ここには、「わたしに下さったあなたの御名によって、彼らをお守りください。」とあります。また、12節にも、「わたしはあなたが下さったあなたの御名によって、彼らを守りました。」とあります。これはどういう意味でしょうか。これは、「神ご自身の御力によって」という意味です。この方は天地を創造された全能者です。また、私たちを罪から救ってくださった救い主です。そして死からよみがえられた勝利者であられます。この神の御名によって守ってくださるというのです。イエス様はこう言われました。「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」(16:33)イエス様は、この世にあっては何の苦難もないとは言われませんでした。苦難はあるんです。しかし、勇気を出すことができます。なぜなら、主はこの世に勝利されたからです。この方の御名によって、この方の力によって、私たちは守られるのです。私たちの力によるのではありません。

パウロは、ローマ8:35-39でこの真理を次のように言っています。

「だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。こう書かれています。「あなたのために、私たちは休みなく殺され、屠られる羊と見なされています。」しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(ローマ8:35-39)

キリストの愛から引き離すのはだれですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者となることができるのです。私たちがキリストを信じたことによって、神の子とされたからです。私たちには、ご自身の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が共におられます。この神が、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださるのです。

ですから皆さん、安心してください。あなたは悪魔から守られています。キリストを信じた時、神の御霊、聖霊があなたの内に住んでくださいました。主がいつも、またいつまでも、あなたとともにいてくださいます。神の愛と神の恵みが、あなたを取り囲んでいます。悪魔にやられるんじゃないかなぁと心配する必要は全くありません。なぜなら、イエスは、「わたしはすでに世に勝ちました。」と宣言されたからです。十字架に掛かる前に勝利の宣言をされました。そして、十字架の上で「テテレスタイ」「完了した」と言われました。私たちの罪の支払いは完了したのです。そして、イエス様は死からよみがえられました。死から復活されたことによって、死の力を持っている悪魔を完全に滅ぼされたのです。あなたは、この神の力で守られているのです。もしあなたがキリストを信じるなら、あなたは神の子とされ、あなたの内に、この世にいるあのもの(悪魔)よりもはるかに力のある方が住んでくださいます。あなたもキリストを信じてください。そうすれば、神の力によってあなたも守られます。ここでイエス様はそのように祈っておられるのです。このキリストの守りの中にあることを感謝しましょう。キリストの中にいるのであれば、そして、キリストがあなたの中におられるのであれば、あなたはこのキリストの力、神の力で完全に守られるのです。

それは何のためでしょうか。11節、「私たちと同じように、彼らが一つとなるためです。」彼らが一つの心、一つの思いになって、共通の敵に立ち向かい、共通の目標を目指して戦えるように、そして内輪もめや分裂によって分けられたり、弱められたり、麻痺したりすることがないように、彼らを保つためです。このことについては、次回の箇所でもう少し詳しくお話ししたいと思います。

Ⅲ.真理によって聖別してください(17-19)

イエス様の弟子たちに対するもう一つの祈りは、真理によって彼らを聖別してくださいということでした。17節をご覧ください。「真理によって彼らを聖別してください。あなたのみことばは真理です。」真理によって彼らを聖別するとはどういうことでしょうか。

聖別するとは、もともと神のために区別するという意味があります。この世のものから離れて、ただ神だけのものになるということです。旧約聖書では、イスラエルの民の初子は、人であれ、家畜であれ、神のものとして聖別されました。同じように、私たちもこの世にあって、神のものとして聖別されなければなりません。イエス様が言われたように、この世は悪に満ちているので、私たちがこの世に生きているかぎり、悪に汚れる機会がたくさんあります。家にいれば夫婦喧嘩をして汚れることもあるでしょう。テレビを観ていればいろいろな情報で汚れることもあります。家を一歩出れば、ママ友とのうわさ話や妬みで汚れます。ビジネスでは不正によって汚れることがあるかもしれません。しかし、神のものであるならば、それらのものから離れて、きよめられなければなりません。すなわち、この「聖別してください」というイエス様の祈りは、生活と品性において罪の汚れからもっと分離して、きよくしてくださいということだったのです。その思いとことばと行いと生活と品性において、もっときよく、もっと霊的に、そしてもっとキリストに似るものとしてくださいという祈りだったのです。神の恵みは、すでに彼らを召し、回心させてくださることによって示されましたが、その恵みがさらに高く、またさらに深められるために、彼らのたましいと、霊、からだのすべてにおいてきよめられ、イエス様ご自身に似る者とされるようにという祈りだったのです。イエス様を信じて救われることを新しく生まれる(新生)とか、義と認められる(義認)と言いますが、この新生や義認は完全で完成されたわざであり、イエス様を信じた瞬間に完成されますが、きよめられること、これを聖化と言いますが、これは、私たちの心にもたらされる聖霊による内的なわざであって、私たちがこの地上に生きている間は継続してなされるものです。ですから、イエス様は弟子たちのために救われるようにとは祈りませんでした。彼らは、イエス様が話されたことばによってすでに救われていたからです。彼らにとって必要だったのはきよめられること、聖別されることでした。

いったいどうやったらきよめられるのでしょうか。ここには、「真理によって彼らを聖別してください」とあります。「真理」とは何ですか。真理とは神のみことばのことです。みことばは、私たちが聖霊によってきよめられるために用いられるすばらしい手段です。人が救われるのもみことばによります。聖別されること、きよめられることもそうです。みことばが、人の心、精神、良心、そして感情に蒔かれ、強力に結び付けられることによって、聖霊はその人の品性をもっときよいものへと成長させてくださいます。人はよく座禅とか滝に打たれるといった修行を積むことによって、あるいは、欲を捨てることによって、また、宗教的な儀式を行うことによってきよめられると思っていますが、そうした外側からの働きかけは、残念ながら人をきよめることはできないのです。あなたがどんなに頑張っても、無理なんです。よく求道者の方とお話しをしていると、「どうですか、イエス様を信じてください」と言うと、多くの方がこのように言われます。「いや、もうちょっといい人間になったら信じます。」ならないです。もうちょっと良い人間になろうとすることはいいことですが、なりません。そうじゃないですか。いい人間になりましたか。なりません。悪くはならないかもしれませんが、欲もならない。どちらかというと、悪くなっています。生きていると考えなくてもいいことを考えたり、言わなくてもいいこと、やらなくてもいいことを言ったりやったりするからです。だから、どんなに頑張ってもいい人にはならないのです。じゃ、どうしたらいいんですか。イエス様を信じればいいのです。イエス様を信じるとその人には神の御霊が与えられ、全く新しく生まれ変わり、良い人へと変えられて行くからです。Ⅱコリント3:17-18にこうあります。「主は御霊です。そして、主の御霊がおられるところには自由があります。私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」それは、御霊なる主の働きによるのです。ただ表面的に優しくなったとか、親切になったとかということではなく、根こそぎ変えられるのです。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)

すべてが新しくなります。イエスを信じることで喜びと平安、希望が与えられます。それはどんな状況にも奪われることのない希望です。神の愛がその人に注がれているからです。神様がいかに偉大で真実な方であるかを知るようになり、その神のみこころに従って生きていきたいという思いで心が満たされていきます。その結果、主の御霊が私たちを変えられていくのです。あなたの努力とか、頑張りとかによるのではなく、真理によってとあるように、あなたが神を信じ、神のことばに従うことによって、変えられていくのです。

ですから、聖書のみことばを規則正しく読むことと、説き明かされたみことばを聞き続け、それに従うことがどんなに重要であることがわかります。みことばは、気づかずして、私たちをきよめるために働いてくださるからです。詩篇119:9には、「どのようにして若い人は自分の道を、清く保つことができるでしょうか。あなたのみことばのとおりに、道を守ることです。」とあります。それは若い人だけではありません。すべての人に言えることです。どのようにして、人は自分の道を清く保つことができるのでしょうか。神のみことばのとおりに、道を守ることです。そうすれば、私たちは自分の道を清く保つことができるばかりか、神のみこころにかなった者に変えられるのです。

なぜきよめられる必要があるのでしょうか。聖別されなければならないのでしょうか。18節にはこうあります。「あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを遣わしました。」これがその目的です。神がキリストをこの世に遣わされたように、キリストもまた彼らをこの世へと遣わされます。つまり、クリスチャンはキリストの証人であり、その使命をしっかりと果たすためです。クリスチャンがこの世に遣わされたとき、その人と接した人が「この人は普通の人と違うなあ」「すごく暖かい感じがする」「本当に優しく親切だ」「私もあの人のようになりたい」と思うようであれば、その人は福音に耳を傾けたくなるでしょう。反対に、この人のようにはなりたくない、なんだか冷たいんだよね、というのではあれば、だれも聞きたいとは思わないでしょう。ですから、私たちがキリストの大使として、キリストの香りをこの世に放つために、きよめられる必要があるのです。

バンク・オブ・アメリカのロサンゼルス支店で起こったことです。銀行の駐車場は利用客に限って無料でしたが、乱用する人が続出したので、全場所有料としました。ある日「有料になったことを知らなかったから今日は無料にしてくれ」と、ヨレヨレのシャツとジーンズ姿の60過ぎの男性が、窓口の係の人に頼みました。彼の後ろには順番待ちの人の列が出来ています。少しイライラした窓口係は、その男性に冷たく言い放ちました。「これはもう決まったことです。文句があるなら支店長に言ってください。ハイ、次の方!」

仕方なくその男性は再び列の最後尾に並び、そして自分の番が来たとき、自分の口座から全額を下ろし、向かいの銀行に移し変えてしまいました。その額何と420万ドル、日本円で約4億5千万円でした。窓口係のチョットしたイラッとした態度が、この銀行に大きな損出をもたらしたのです。これはキリストの証人にも言えることです。私たちの態度が、その人に与える影響は大きいものがあります。イエス様の目と、イエス様の心と、イエス様の態度で接するなら、キリストの証人としてその使命を立派に果たすことができます。

ちなみに、神奈川県の秦野市に愛鶴(あいず)タクシーという会社があります。この会社は不況のタクシー業界で業績を伸ばしている会社です。以前あるホテルと契約して仕事をしていた時、そのホテルの支配人から、「キミのところの会社はサービスというものが分かっていない、もう使わない」と言われてしまいました。社長の篠原さんは、その時へりくだってホテルの支配人を訪ね、「サービスについてゼロから教えてください」と頼みました。すると支配人は「その答えは聖書の中にある」と言ったのです。

それは、「自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい」(ルカ6:31)という言葉でした。それから社長の篠原さんは、一生懸命お客様のニーズはどこにあるのかを考えたそうです。その中の一つのアイデアは、「福祉タクシー」というものでした。身体障害者やお年寄りの人たちの立場に立ったタクシーです。タクシーを改造し、運転手にはホームヘルパー2級の資格を取らせました。また、手話を習わせたりしました。するとどうでしょう。同業他社の人々は「昼間だけのタクシーで儲かる筈がない」と言って、篠原さんの試みを冷たい視線で眺めていました。しかしこの試みは世間の人々に受け入れられたのです。社会的弱者に優しいタクシー会社というイメージが拡がり、普通のタクシーの需要も伸びたのです。

このような会社が伸びないはずがありません。キリストの言葉に生きるなら、そこには神のいのちと力が働きますから、必ず良い方向へと導かれるはずだからです。

福音の宣教も同じです。大切なのはどのように伝えるかということではありません。だれが伝えるかということです。だれがとは、どのような立場の人がということではなく、また、どのような性格の人がということでもなく、どのような性質の人が伝えるのかということです。キリストの性質にある人が、キリストに似た人がキリストの証人として伝えるなら、神の栄光が現されることでしょう。イエス様はそのために彼らを聖別してくださいと祈られたのです。

最後に19節をご覧ください。イエス様は、「わたしは彼らのため、わたし自身を聖別します。彼ら自身も真理によって聖別されるためです。」と言っておられます。どういうことでしょうか。イエス様は完全にきよく、罪がないお方だったので、きよめられる必要はありませんでした。そのイエス様が、「わたしは彼らのために、わたし自身を聖別します」と言われたのです。この意味は、「わたしは自分自身を聖別して、祭司として、自分を犠牲としてささげます。」という意味です。それは、わたしの弟子たちが真理によって聖別され、きよい民となるためにです。それは、イエス様が間もなく十字架で贖いの死を遂げられることを意味していました。イエス様はまさにご自身を神のものとして聖別されたのです。それは、弟子たちが彼らに与えられた使命を果たすためでした。その使命とは何ですか。その使命とはキリストの証人として、この世に遣わされるということでした。

弟子たちはその初穂として遣わされたのです。彼らを通して福音が宣べ伝えられ、多くの人がキリストを信じて救われ、神の栄光が現されるようにと。同じように、神はあなたをこの世から選び、ご自身のもとして聖めてくださいました。救ってくださいました。それはあなたを通して神の栄光が現されるためです。私たちはキリストによって罪の赦しと永遠のいのちを受けました。しかし、それは完全になったということではありません。まだ弱さがあります。しかし、私たちには、そうした弱さを知ってとりなしてくださる方がおられます。イエス様です。イエス様があなたのために祈っておられます。あなたの弱さに同情してくださるだけでなく、あなたをそこから助け出して、力を与えてくださいます。そして、あなたを通してご自身の栄光を現してくださいます。私たちも内側からきよめられて、キリストの栄光、神の栄光を現す者となりましょう。そのために、イエス様はご自分のいのちをささげてくださったのです。

出エジプト記28章

今日は、出エジプト記28章から学びます。これまで幕屋の建築について見てきましたが、28章と29章には祭司について書かれています。その幕屋で人がどのように奉仕するのか、その奉仕者である祭司について学びます。今日は前半部分28章です。

Ⅰ.祭司として仕えさせよ(1-3)

まず1~3節までをご覧ください。

「1 あなたは、イスラエルの子らの中から、あなたの兄弟アロンと、彼とともにいる彼の息子たちのナダブとアビフ、エルアザルとイタマルをあなたの近くに来させ、祭司としてわたしに仕えさせよ。2 また、あなたの兄弟アロンのために、栄光と美を表す聖なる装束を作れ。3 あなたは、わたしが知恵の霊を満たした、心に知恵ある者たちに告げて、彼らにアロンの装束を作らせなさい。 彼を聖別し、祭司としてわたしに仕えさせるためである。」

ここにはアロンとその子たちを祭司として仕えさせるようにとあります。祭司とは、簡単に言えば、神と人との仲介者のことで、神の幕屋に仕える人たちのことです。神に対して、祭司は人を代表します。とりなしの祈りをしたりすることは、祭司の務めです。そして人に対しては、神の祝福や恵みやいやしを分け与える神の代表者でもあります。祭司の働きによって、イスラエル人は神に近づくことができました。この祭司もイエス・キリストの型であり、イエス・キリストのことを表していました。イエス・キリストこそまことの大祭司です。ですから、この祭司について学ぶとキリストがどのような方であるのかがわかるのです。

モーセの兄アロンと彼の子どもたちが祭司として任じられました。何のためでしょうか。主に仕えるためです。ここには、「祭司としてわたしに仕えさせよ。」とあります。主に仕えるということは何か主のために特別のことをすることではなく、主が命じられたことを行うことです。

2節をご覧ください。ここには「あなたの兄弟アロンのために、栄光と美を表す聖なる装束を作れ」とあります。大祭司は、栄光と美を表す聖なる装束を着なければいけませんでした。普通の服装では聖所に入ることができなかったのです。なぜでしょうか。それは、イエス・キリストを表していたからです。イエス・キリストによらなければ、だれも神に近づくことはできません。ヘブル1:3には、「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり」とありますが、栄光と美を表す聖なる装束は、この栄光のキリストを表していたのです。そのために、主が知恵の霊を満たした、心に知恵ある人たちが用いられました。

Ⅱ.大祭司の装束(4-39)

4-39節までに、栄光と美を表す聖なる装束がどのようなものであったかが記されてあります。まず、4-5節をご覧ください。

「4 彼らが作る装束は次のとおりである。胸当て、エポデ、青服、市松模様の長服、かぶり物、飾り帯。彼らは、あなたの兄弟アロンとその子らが、祭司としてわたしに仕えるために、 聖なる装束を作る。5 彼らは、金色、青、紫、緋色の撚り糸、それに亜麻布を受け取る。6 彼らに、金色、青、紫、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を用いて、意匠を凝らしてエポデを作らせる。」

彼らは大祭司のために、胸当て、エポデ、青服、市松模様の長服、かぶり物、飾り帯を作らなければなりませんでした。なぜなら、それはイエス・キリストを指し示していたからです。大祭司はそのままの姿で、神のみもとに近づくことはできませんでした。また、自分を良くすることによっても、神に近づくことはできませんでした。イザヤ書に、「私たちはみな、汚れた者のようになり、その義はみな、不潔な衣のようです。私たちはみな、木の葉のように枯れ、その咎は風のように私たちを吹き上げます。」(64:6)とあるように、罪に汚れた者だからです。そのような者が神の幕屋に入って行き、神に近づくことができるのは、イエス・キリストの義を身に着けていなければならないのです。パウロは、「キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです。」(ガラテヤ3:27)と言いました。ですから、イエス・キリストが、私たちにとって聖なる栄光と美の装束です。私たちは、自分の正しさではなく、キリストの完全な義を身にまとうことによって神に近づくことができるのです。

最初はエポデを作りました。これはエプロンのような形をしており、大祭司の胸と腹の部分を覆っていました。その材質は、金色、青、紫、緋色の撚り糸と、亜麻布が用いられていました。金色は何を表していましたか。キリストの神性です。キリストが神であることを表していました。青色は天、神の国ですね。それは、キリストが天から来られた方であることを示していました。紫色は王としてのキリストです。緋色は赤ですが、これはキリストの十字架の血による贖いを表していました。そして亜麻布は白ですが、これはキリストの聖さ、キリストの義を表していました。このエポデはキリストの権威を象徴していたのです。

7-14節をご覧ください。これに二つの肩当てが付けられました。この肩当てはイスラエル12部族を表していました。その肩当てにはそれぞれしまめのうがはめ込まれていて、片方にはイスラエル12部族のうちの6つの部族の名前が、またもう一方には6つの部族の名が記されてありました。つまり、キリストはご自身の民であるイスラエルの12の部族(クリスチャン)を背負ってくださるということです。イザヤ46:3-4には、「胎内にいたときから担がれ、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。背負って救い出す。」とあります。私たちは、大祭司であられる主イエスに担われているのです。ずっと・・。何と感謝なことでしょうか。

8節をご覧ください。ここには「エポデの上に来るあや織りの帯」を作るようにとあります。材料と色はエポデを作る時と同じ色、同じ材料です。すなわち、これもイエス・キリストのことを表していました。この帯は何を象徴していたのでしょうか。出エジプト12:11には、帯を引き締めて、足にくつをはき、急いで行くようにとありますが、それは、着物がはだけないためでした。要するに、働きやすくするために帯を締めるのです。それは、しもべとしてのキリストの姿を象徴していたのです。キリストは仕えるしもべとしてこの世に来てくださいました。そして、この帯がエポデと同じ材質と色で作られなければならなかったのは、権威者であられるキリストとしもべとしてのキリストというこの二つの性質がキリストの中にあるということです。神としての権威をもっておられた方が、しもべとなって仕えてくださいました。栄光の神であられるキリストは仕えるしもべでした。これが真のリーダーです。真のリーダーとは、サーバント・リーダーなのです。

次に15-21節までをご覧ください。

「15 あなたはさばきの胸当てを意匠を凝らして作る。それをエポデの細工と同じように作る。すなわち、金色、青、紫、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を用いて作る。16 それは正方形で二重にする。 長さ一ゼレト、幅一ゼレト。17 その中に宝石をはめ込み四列にする。第一列は赤めのう、トパーズ、エメラルド。18 第二列はトルコ石、サファイア、ダイヤモンド。19 第三列はヒヤシンス石、めのう、紫水晶。20 第四列は緑柱石、縞めのう、碧玉。これらが金縁の細工の中にはめ込まれる。21 これらの宝石はイスラエルの息子たちの名にちなむもので、彼らの名にしたがい十二個でなければならない。それらは印章のように、それぞれに名が彫られ、十二部族を表す。」

ここには、「さばきの胸当て」を作るようにと命じられています。この「さばき」というのは神のさばきというよりも、神のみこころは何かということを判断するさばきのことです。イスラエルが何かのさばき、判断、知恵を求めたとき、彼らは大祭司の所にやって来て、神のみこころを伺ったのです。それがさばきの胸当てです。このさばきの胸当てにはウリムとトンミムが入っていました(30)。ウリムとトンミムとはどのようなものであったかは明確ではありませんが、Iサムエル14:41には、これがくじとして用いられていたことが記されてあります。くじとして用いられていたことから、神のみこころを求めるくじのようなものであったのではないかと考えられているのです。ウリムが出たらイエス,トンミムがノーというように判断していたのでしょうす。判断がくじによって与えられるというのは、このくじは単なる偶然にではなく、神がその判断と決定をそれによって与えられるという信仰が基調にあったのです。

このさばきの胸当てもエポデと同じ色、同じ材質で作られました。ということは、これもまたイエス・キリストのことを表していたということです。違うのは何かというと、この胸当てには高価な宝石がちりばめられていたということです。宝石は3個ずつ4列にしてはめ込められていました。この12の宝石は、イスラエルの12部族を表していました(21)。それがこの胸当てにはめ込まれていたのは、大祭司の心にイスラエル12部族の名前が刻まれていたということです。イエス・キリストの心にクリスチャンの名前がしっかりと刻まれているのです。彼らはそれぞれ違う石で表されていましたが、どれも皆、宝石です。どの部族も価値があります。皆、それぞれ光を持っています。光り方は違いますが、どれもみな大祭司のハートにしっかりと刻み込まれていたのです。

イザヤ49:15-16には、「女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとえ女たちが忘れても、このわたしは、あなたを忘れない。」とあります。私たちはキリストから忘れられるということは決してありません。その心にしっかりと刻まれているからです。それぞれ輝き方はみな違いますが、宝石のように価値ある者として見られているのです。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4)

どの教団、どの教派、どの教会の人であっても、あなたがキリストを信じて神のものになっているのなら、神の目にあなたは高価で尊い存在なのです。宝石のように輝いていめのです。まだ輝いていないという人がいますか?そういう人がいたら、その人は宝石の原石なのです。そのうちに輝いてきますから、心配堂しないでください。

それは私たちだけでなく、あなたの隣人も同じです。あなたの隣人もキリストを信じて神のものとなったのであれば、キリストの目には同じように高価で尊いのです。私たちは、そのような目で隣人を見ていく必要があります。

22-29節をご覧ください。

「22また、胸当てのために、撚ったひものような鎖を純金で作る。23 胸当てのために金の環を二個作り、その二個の環を胸当ての両端に付ける。24その胸当ての両端の二個の環に、二本の金のひもを付ける。25その二本のひものもう一方の端を、先の二つの金縁の細工と結び、エポデの肩当ての前側に付ける。26さらに二個の金の環を作り、それらを胸当ての両端に、エポデに接する胸当ての内側の縁に付ける。27 また、さらに二個の金の環を作り、これをエポデの二つの肩当ての下端の前に、エポデのあや織りの帯の上部の継ぎ目に、向かい合うように付ける。28 胸当ては、その環からエポデの環に青ひもで結び付け、エポデのあや織りの帯の上にあるようにし、胸当てがエポデから外れないようにしなければならない。29 このようにして、アロンが聖所に入るときには、さばきの胸当てにあるイスラエルの息子たちの名をその胸に担う。それらの名が、絶えず主の前で覚えられるようにするためである。」

ここには、胸当てを身に着けるための鎖と環について述べられています。この鎖は、純金で作られました。胸当てを体に固定するために、胸当ての四隅に金の環がつけられます。そして上の環は金の鎖で肩当ての環につなぎあわせ、下の環はエポデにつけられた環に青ひもでつなぎます。それは何のためでしょうか。胸当てがエポデからずり落ちないようにするためです。大祭司の胸当てはイエス・キリストの心です。私たちはあの宝石のように主のみ胸に抱かれて大切に守られているのです。それは決してずり落ちることはありません。

29節には、「このようにして、アロンが聖所に入るときには、さばきの胸当てにあるイスラエルの息子たちの名をその胸に担う。それらの名が、絶えず主の前で覚えられるようにするためである。」とあります。これはキリストの愛情のしるしです。こうして大祭司はイスラエルの民族を代表して聖所で奉仕し、神と人との間のとりなしをするのです。ヘブル7:24-25には、「イエスは永遠に存在されるので、変わることがない祭司職を持っておられます。したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。」とありますが、キリストはこの大祭司として、私たちのために神にとりなしていてくださるのです。

次に31-35節までをご覧ください。

「31 エポデの下に着る青服を青の撚り糸だけで作る。32 その真ん中に、首を通す口を作る。その口の周りには、ほころびないように織物の技法を凝らして縁を付け、よろいの襟のようにする。33 その裾周りには、青、紫、緋色の撚り糸でざくろを作る。その裾周りのざくろの間には金の鈴を付ける。34 すなわち、青服の裾周りに、金の鈴、ざくろ、金の鈴、ざくろ、となるようにする。35 アロンはこれを、務めを行うために着る。 彼が聖所に入って主の前に出るとき、 またそこを去るとき、 その音が聞こえるようにする。彼が死ぬことのないようにするためである。」

ここには、エポデの下に着る青服の作り方が記されてあります。これは青色の撚り糸で作られました。これにはそでがなく、ひざが隠れるほどの長さのものでしたが、あるものは足首にまで達する長いものでした。というのは、33節に裾のことが記されてありますが、それによると足首まである長い服であったのがわかるからです。その真ん中には頭を通す穴を開け、ほころびないように織物の技法を凝らして縁を付けました。その裾周りには青色、紫色、緋色の撚り糸で作ったざくろを作り、その裾の周りに付けました。また、その周りのざくろの間に金の鈴をつけました。ざくろは、多数の実を付けていることから肥沃、豊かさ、生命の象徴でした。それはキリストの生命の豊かさを表わしていました。また、金の鈴は、大祭司キリストの働きを示していました。それはとりなしの祈りです。35節を見ると、アロンが聖所での務めをするときにはこれを着なければなりませんでした。そして、彼が聖所にはいり、主の前に出るとき、またそこを去るとき、その音が聞こえるようにしなければならなかったのです。それは、彼が神と人とに覚えられているというしるしでした。そうしないと、彼は打たれて死んだのです。鈴の音が止まると死んだということが、神と人の両方にわかりました。

36-38節をご覧ください。

「36 また、純金の札を作り、その上に印章を彫るように主の聖なるもの』と彫り、37 これを青ひもに付け、それをかぶり物に付ける。それがかぶり物の前面にくるようにする。38 これがアロンの額の上にあって、アロンは、イスラエルの子らが聖別する聖なるもの、彼らのすべての聖なる献上物に関わる咎を負う。これは、彼らが主の前に受け入れられるように、絶えずアロンの額の上になければならない。」

ここには、「純金の札」について記されてあります。純金の札を作り、その上に印を彫るように、「主への聖なるもの」と彫り、これを青ひもにつけ、それをかぶり物の前面にくるように付けばなりませんでした。その大きさについてはいろいろな節があります。ある伝承では幅4センチ、長さは耳から耳に届くほどの大きさであったとされています。

しかし、最も重要なのは、そこに「主への聖なるもの」と彫られた純金の札を付けなければならなかったということです。これが、38節に「彼らのすべての聖なる献上物に関わる咎を負う。」とあるように、。イスラエルの咎を負うためであったからです。イスラエル人が持ってきた物はいろいろな清めと洗いがなされていますが、完全に聖い神の御前には汚れています。そこで、民を代表するアロンは、それを額の上に置きその汚れたささげ物がすべて聖められるようにしたのです。これでイスラエル人のささげ物が、絶えず神の御前に受け入れられるようになりました。エペソ書1:7には、「この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。」とありますが、私たちはこの大祭司であられるキリストの贖いによって罪が赦され、聖められているのです。この方にあって私たちは神に受け入れられた物、聖い者とされたのです。大祭司であられるキリストが私たちの咎を負ってくださったからです。そのことによって、私たちは大胆に神の御前に出ることができるようにされたのです。

39節をご覧ください。

「さらに亜麻布で市松模様の長服を作り、亜麻布でかぶり物を作る。飾り帯は刺を施して作る。」

長服は亜麻布で市松模様に作られました。市松模様というのは白と黒の正方形を、互い違いに並べた基盤目模様のことです。「石畳」「あられ」などとも言われます。かぶりものは亜麻布で作られました。これは恐らく主への敬意のしるしだったのでしょう。飾り帯は刺繍で作る。大祭司の装束の中に履物についての言及がないのは、おそらく彼らがはだしで務めをしていたからと考えられます。

Ⅲ. アロンの子らの装束 (40-43)

最後に、40-43をご覧ください。                             「40 あなたはアロンの子らのために長服を作り、また彼らのために飾り帯を作り、彼らのために、栄光と美を表すターバンを作らなければならない。41 これらをあなたの兄弟アロン、および彼とともにいるその子らに着せ、彼らに油注ぎをし、彼らを祭司職に任命し、彼らを聖別し、祭司としてわたしに仕えさせよ。42 彼らのために、裸をおおう亜麻布のももひきを作れ。それは腰からももまで届くようにする。43 アロンとその子らは、会見の天幕に入るとき、あるいは聖所で務めを行うために祭壇に近づくとき、これを着る。彼らが咎を負って死ぬことのないようにするためである。これは彼と彼の後の子孫のための永遠の掟である。」  大祭司アロンの働きを補佐するアロンの子らたちのためには、長服と飾り帯とターバンが作られました。ターバンは栄光と美を表していました。彼らは聖別された油を注がれて祭司に任命されました

彼らのために、裸をおおう亜麻布のももひきを作りました。それは腰からももに届くようにしました。これはアロンと彼の子らが聖所で務めを行うために祭壇に近づく時に着ました。これは彼らの裸が祭壇の上にあらわにならないようにするためのものでした(20:26)。もしも彼らの裸があらわにされてしまうなら、神に打たれて死ななければならなかったからです。どういうことでしょうか。これはキリストの贖いを象徴していました。アダムとエバが罪を犯した時、彼らはいちじくの葉をつづり合せたもので腰の覆いを作りましたが、そんなものは2,3日で枯れてしまい全く役に立ちませんでした。自分の力や働きによって裸をおおうことはできません。自分の裸をおおうことができるのは、神が用意してくださった動物の皮で作られた着物でした。まさにその動物こそキリストの血を象徴していたのです。神は、そのようにして彼らの裸をおおってくださいました。同じように、私たちの裸をおおうのは亜麻布のももひきです。それはイエス・キリストを指し示していました。それを着なければならないのです。アロンとその子らは、会見の天幕に入るとき、あるいは聖所で務めを行うために祭壇に近づくとき、これを着ました。彼らが咎を負って死ぬことのないようにするためです。これは彼と彼の後の子孫のための永遠の掟です。

今日、完全なる大祭司であるイエス・キリスト(ヘブル3:1)が私たちのために神の前にとりなしをしていて下さいます(ヘブル7:24-27)。大祭司アロンはイエスキリストのひな型であり、イエス・キリストこそが永遠の大祭司として神の御前に私たちのためにいつもとりなしておられます。今もキリストは大祭司として真の幕屋である聖所で仕えていることを覚え(ヘブル8:1,2)、キリストによって罪を贖っていただいたことを感謝しましょう。