伝道者の書7章に入ります。伝道者ソロモンは、6章の終わりで、何が人のために良いことなのかを、誰も告げることはできない、と言いました。しかし、この7章では、何が人にとって良いことなのかについて、よいものと、よりよいもの、知恵ある者と愚かな者の対比を用いて語っています。
Ⅰ.死ぬ日は生まれる日にまさる(1-4)
まず、1~4節までをご覧ください。1節には、「名声は良い香油にまさり、死ぬ日は生まれる日にまさる。」とあります。名声とは、その人の性質であり、評判のことです。また、良い香油とは、高価な香油のことです。つまり、よい評判を得ることは、高価な香油を持つよりもまさっているということです。リビングバイブルでは、「良い評判は、最高級の香水より値打があります。」と訳しています。では良い評判とはどのような評判なのでしょうか。
1節の後半を見てください。ここには、「死ぬ日は生まれた日にまさる。」とあります。ギョッとするような言葉です。私たちは普通命が誕生した時ほど喜ばしい日はないと思っています。ですから、その人の誕生日を記念してHappy Birthday!と祝福するわけですが、ここでは、その生まれた日よりも死ぬ日のほうがまさっているというのです。どういうことでしょうか。「死ぬ日は生まれる日にまさる」とは、生きるよりも死ぬ方が良いという意味ではありません。むしろ、私たちの人生は死によって終わるということをきちんと受け止めることが重要であるということです。ですから、良い評判を得る人とは、人生には終わりがあるということをきちんと認識し、死について真剣に考える人のことなのです。私たちはどちらかというと名声よりも良い香油を求めてしまいます。すなわち、裕福で何不自由のない生活、社会的な地位を得ること、あるいは、教会の奉仕に勤しむことなどです。それらのことが悪いと言っているのではありません。それよりももっと良いものがあると言っているのです。それは何か、それは名声です。良い評判です。あなたの中身の方が大切なのです。あなたが死について真剣に考え、それに備えた生き方をすることの方がずっとまさっているのです。
それは、2節を見てもわかります。2節には、「祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。」とあります。祝宴に行くよりも、葬式に行くほうがよい、というのです。なぜでしょうか?「そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるから」です。これは、決して結婚披露宴などどうでも良いということではありません。結婚披露宴も良いものです。イエス様もカナの婚礼で水をぶどう酒に変えるという最初の奇跡を行い、その結婚式を祝福されました。しかし、それよりもよいのは、喪中の家に行くことです。なぜなら、死について深く考えさせられるからです。人生の終わりが死であることを意識する人は、日々の生活を律し、有意義な地上生涯を送るようになるからです。
私は、いろいろな式に関わることがありますが、正直、お葬式の時が一番考えさせられます。実際、多くの人が聖書の話に真剣に耳を傾け、人生観とか、死生観について考えるのではないでしょうか。その一方で祝宴となると、どんなに聖書の話をしても、ほとんどの人が耳を貸そうとしません。もう冗談を言ったり、茶化したり、受け流したりするわけです。しかし、お葬式になると他人事のように話を聞くということがほとんどありません。死という現実が目の前に突きつけられて、真剣に考えざるを得ないのです。だから、祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよいのです。
3節をご覧ください。「悲しみは笑いにまさる。顔が曇ると心は良くなる。」どういうことでしょうか。尾山令仁先生が訳された創造主訳聖書では、「悲しみは笑いに勝る。悲しみによって、心は良くなる。」と訳されています。つまり、人は悲しみを体験することによって人生の意味について深く考えるようになるということです。そして、生きていることのありがたさを思うようになるということです。
イエス様は山上の説教の中でこのように言われました。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。」(マタイ5:3-4)
これは、イエス様が教えられた「至福の教え」です。「至福の教え」といっても、自分の腹を肥やす「私服の教え」ではありません。どのような人が幸いな人なのかという意味の至福の教えです。イエス様はこの中で8つの事を教えておられますが、その一部がこれです。それは、心の貧しい者であり、悲しむ者です。この貧しさとか、悲しみというのは単に物質的な貧しさとか、感情的な悲しみのことではなく霊的な貧しさ、霊的な悲しみのことです。一般に人はこうし貧しさや悲しみを避けようとする傾向がありますが、こうした貧しさや悲しみを体験することによって、人生の意味を考えるようになり、たましいの救いを求めるようになります。また、神を信じる者にとっては、そうした悲しみや苦難の中に神の目的と意味を見出すきっかけとなります。ですから、詩篇の作者は、このように言っています。「苦しみにあったことは、私にとって幸せでした。それにより、私はあなたのみおしえを喜んでいます。」(詩篇119:71)
アメリカの主婦の方で、メアリー・ネメック・ドーレマスという方がおられますが、彼女はウイルスに冒されてからだが麻痺し、全身が機能不全に陥りました。
彼女は、車いすの生活をしながら、日中は30分おきに薬を飲み、夜間も数回飲むことによって、かろうじて全身麻痺から守られています。しかし、私はいったいどうしてこんな目にあうのかを、神さまに尋ねることはしませんでした。むしろ私は、いつもこういうふうに祈りました。
「神様、私に何をお望みなのでしょうか。私はどこへ行くことになっているのでしょうか。」と。
人生には目的があり、しかるべき時にそれが示されることを知りました。私は理由を知りたいという気持ちを放棄しましたが、この態度は自分にとってとても健康的なことでした。
彼女は、こうした苦しみの中で、その神との関係が深められ、信仰が強められていったのです。まさに、苦しみにあったことはわたしにとって幸せでした。それにより、神のみおしえを学ぶからです。
それに対して、笑いは一時的なものであり、単に時間を浪費するだけの結果で終わってしまいます。 6節には「愚かな者の笑いは、鍋の下の茨がはじける音のよう。」とあります。
皆さん、茨を燃やしたことがありますか。茨を燃やすとすぐによく燃えますが、残念なことにすぐに燃え尽きてしまいます。ですから、たとえ鍋の下に置いてもパチパチとはじけるだけで、大した火力とはならないのです。愚か者の笑いも同じです。その時だけです。その時は一時的に元気になったかのように感じてもすぐに元に戻ってしまいます。それは空しいことです。すべての笑いがそうだと言うわけではありませんが、愚か者の笑いはそうなのです。そんな笑いを求めてあくせくするよりも、人生で経験する様々な悲しみ、苦しみから学ぶことのほうがどれほどよいでしょう。
4節をご覧ください。「知恵のある者の心は喪中の家にあり、愚かな者の心は楽しみの家にある。」
これは2節でも言われてきたことと同じことです。知恵ある者の心は喪中に向きます。なぜなら、彼の人生観は、死を前提として築き上げられているからです。しかし、愚か者の心はそうではありません。死の現実を直視することができないので、楽しい家にしか心が向きません。人生の空しさや虚無感に浸っているよりも、おもしろおかしく生きたほうがましだと思っているからです。そんなことを考えても暗くなるばかりだし、どうせ考えても答えなんか出ないのだから、だったらおもしろおかしくい生きればいいんじゃないかというのです。でも聖書は、こういう人は愚かな人だと言っています。
あなたの心はどこに向いていますか。神の人モーセはこう祈りました。「どうか教えてください。自分の日を正しく数えることを。そうして私たちに、知恵の心を得させてください。」(詩篇90:12)
喪中の家に行くとは、人生には限りがあるということを悟り、その限られている時間の中で、神様から知恵をいただき、また導いていただいて、与えられている一日一日を、一瞬一瞬を大切に生きていくことにほかなりません。祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。このことを心に留めて、自分の日を正しく数え、知恵の心を得させていただきたいものです。
Ⅱ.忍耐は、うぬぼれにまさる(5-12)
次に、5~12節までをご覧ください。5節をお読みします。「知恵のある者の叱責を聞くのは、愚かな者の歌を聞くのにまさる。」
知恵のある者の叱責とは、建設的な批判や助言のことです。そのような声に耳を傾けるなら、その人はより成長し栄誉を得ることになります。しかし、それとは逆に、愚かな者の歌をいくら聞いても何も残るものありません。この愚か者の歌とは何を指しているのかわかりません。ある人は、これは酔っ払いの歌ではないかという人がいますが、それが酔っ払いの歌とようよりも、「知恵の初め」である神様抜きの、人間中心の歌と理解するのが良いと思います。そのような歌は何の益ももたらしません。
7節をご覧ください。「虐げは知恵のある者を狂わせ、賄賂は心を滅ぼす。」どういうことでしょうか。虐げとは、虐待とか辛い出来事のことです。こういうものがあると知恵のある者を狂わせてしまいます。つまり、判断力を失い、愚かにふるまうようになってしまうということです。知恵のある者を狂わせてしまうもう一つのものは、賄賂です。賄賂は人の心を狂わせます。リビングバイブルでは、「わいろは人の判断力を麻痺させる」と訳しています。正しい判断ができなくなってしまうのです。ではどうしたらいいのでしょうか。最初から賄賂を受け取らないことです。政治の世界では贈賄事件があとを断ちません。それは必ず明るみに出ます。ですから、一番良いのは最初からそれを拒否することです。それがまことの知恵なのです。
8節をご覧ください。「事の終わりは、その始まりにまさり、忍耐は、うぬぼれにまさる。」「事の終わりは、その始まりにまさり」とは、1節から4節で語られてきたことに通じるところがあります。つまり、事の結果を見るまでは軽はずみに物事の判断をすべきではないということです。人生の終わりとは何ですか。それは死です。その死の結果を見るまでは、その人の人生がどうであったのかを判断することはできません。たとえ生きている間にどれほど裕福であったとしても、真のいのちを損じたら何の意味もありません。イエス様はこのことを、畑が豊作であったあの金持ちのたとえで教えられました。彼は作物が豊作だったとき、自分のたましいにこう言いました。「どうしよう。作物をしまっておく場所がない。そうだ!倉を壊してもっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をすべてしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「わがたましいよ、これから先何年分もためられた。さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ。」(ルカ12:17-19)
しかし、神は彼にこう言われました。「愚か者、おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか」(ルカ12:20)
彼の問題はどこにあったのでしょうか。人のいのちが財産にあると思ったことです。けれども、そのいのちが取り去られるとしたら、いったいそこにどんな意味があるというのでしょうか。そのいのちの良し悪しは、事が終わってみないとわからないのです。この地上での生涯は苦労が絶えないものであっても、その生涯の中で救い主イエス・キリストと出会い、天の御国に引き上げられる終わりであるなら、その人の終わりは、その始まりにまさるのです。私は、そのような人を何人も見てきました。たとえその人の生涯がどんなに悲惨なものであったとしても、それが天につながる生き方であるなら、それこそ幸いな一生であったと言えるのではないでしょうか。
ですから、事の結果を見るまでは忍耐すべきで、軽々しく心を苛立たせてはなりません。あなたは心をイラってしていませんか。私たちはちょっとしたことですぐにイライラしてしまいます。それは愚か者の心に宿るものです。でも知恵のある者は違います。知恵のある者の心に宿るのは、忍耐です。「忍耐はうぬぼれにまさる。」とあります。忍耐して後悔することはありませんが、うぬぼれると、高ぶると破滅の一途をたどることになります。箴言16:18には、「高慢は破滅に先立ち、高ぶった霊は挫折に先立つ。」とあります。それは、罪の性質の一つなのです。私たちはうぬぼれではなく、忍耐を身につけましょう。軽々しく心を苛立たせるのではなく、イエス・キリストによって神との平和が与えられていることを感謝し、この平和が心を支配するように祈ろうではありませんか。
心が平和であるために必要なもう一つのことは何かというと、今に感謝し、今を大切に生きることです。10節をご覧ください。ここには、「「どうして、昔のほうが今より良かったのか」と言ってはならない。このような問いは、知恵によるのではない。」とあります。
「昔のほうがよかった」というのは、過去に生きている人の口癖です。昭和の古き良い時代を知っている人は、ついつい言ってしまいます。「昔のほうがよかった」と。しかし、それは過去に生き続けていることです。確かに、昭和の時代の方が良かったなあと思います。私は別に昭和の初期から生きているわけではありませんが、そのように感じることがよくあります。でも、それは知恵によるのではありません。愚問にすぎません。なぜなら、どんなに過去が良くても、私たちは今を生きなければならないからです。であれば、今がいかに困難な状況であっても、この今をどのように生きるかを考えることのほうがもっと重要なのです。もしこのように言うことがあるとしたら、何が問題なのでしょうか。どこに原因があるのでしょうか。それは終わりまで待つことができずイライラしてしまう心と、すぐにそのように判断してしまう思いです。だから伝道者は8節で、「事の終わりは、その始まりにまさり、忍耐は、うぬぼれにまさる」と言ったのです。私たちは「待てない」のです。すぐに結果を求めてしまいます。すぐに判断してしまうのです。そんな私たちに聖書は、「あわてない、あわてない。一休み、一休み」と問いかけているようです。事の終わりは、その始まりにまさり、忍耐は、うぬぼれにまるのですから。私たちはすぐに結果を求めるのではなく、事の終わりがどうなのかを見て判断しなければなりません。終わり良ければすべて良し、です。それまでは神の平安の中でじっと忍耐し、神に示されることをコツコツと行っていけばいいのです。大切なのは自分がどう思うのか、どう感じるのかではなく、永遠に変わらない神のことばである聖書が何と言っているのかであり、そのみことばに堅く立ち続けることです。
11節と12節をご覧ください。「資産を伴う知恵は良い。日を見る人に益となる。知恵の陰にいるのは、金銭の陰にいるようだ。知識の益は、知恵がその持ち主を生かすことにある。」
「資産を伴う知恵は良い」とはどういう意味でしょうか。新共同訳では、「知恵は遺産に劣らず良いもの。日の光を見る者の役に立つ。」と訳しています。創造主訳聖書では、「知恵は、相続財産のように価値がある。いやそれ以上に、人々に有益だ。」と訳しています。ここでは10節の「知恵によるのではない」にかけて、知恵をたたえているのです。それは遺産に劣らず価値があり、いや、それ以上に人々にとって有益であるということです。
なぜでしょうか。その理由が12節にあります。それは、金銭と同様に人を守ってくれるからです。「陰」というのはそういうことですね。金銭は、たとえば病気をしたり、災害にあったりした時にとても役に立ちます。そういう意味で守ってくれるわけです。「金銭の陰にいるようだ」というそういう意味です。それと同じように、知恵はその人を道徳的堕落から守ってくれます。いや、知恵はその持ち主を生かすという点でもってすぐれています。考えてみるとそうですよね。どんなに資産があっても、どんなに金銭があっても、それが人を生かすことにはなりません。むしろ、その人をダメにしてしまうことさえあります。しかし、そこに知恵が伴うことによってそうした資産や金銭が生かされるだけでなく、ひいてはその人自身を生かすことになります。そういう点で、知恵は金銭よりもさらにまさっていると言えるのです。
皆さん、私たちにはこの知恵が与えられています。コロサイ2:3には「このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されています。」とあります。どこに知恵と知識の宝が隠されているのですか。「このキリストのうちに」です。神の恵みによってキリストを信じ、キリストのうちにある者とされた私たちは、この知恵と知識が与えられているのです。それは金よりも、純金よりも慕わしいものです。それなのにどうしてあなたは金がないと嘆くのでしょうか。私たちには金よりももっとすぐれた知恵と知識が与えられていることを覚え、日々感謝と喜びをもってキリストに聞き従う者でありたいと思うのです。
Ⅲ.順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ(13-14)
最後に、13節と14節を見て終わりたいと思います。「神のみわざに目を留めよ。神が曲げたものをだれがまっすぐにできるだろうか。順境の日には幸いを味わい、逆境の日にはよく考えよ。これもあれも、神のなさること。後のことを人に分からせないためである。」
それゆえ、伝道者はこのように勧めるのです。「神のみわざに目を留めよ。神が曲げたものをだれがまっすぐにできるだろうか。」神のみわざを、だれも変更することはできません。起こったことは受け入れ、それが神の最善と信じて前進するのです。それが知恵のある人です。
でも、私たちの人生には順境の日ばかりではなく、逆境の日もありますね。そういう時にはどうしたらよいのでしょうか。ここには、「順境の日には幸いを味わい、逆境の日には良く考えよ。」とあります。新改訳聖書第三版では、「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。」となっています。私はこちらの訳のほうが好きですね。順境の日には喜び、逆境の時には反省すればいいのです。なぜなら、「順境」も「逆境」も共に神がお与えになるからです。どうせなら「順境の日」ばかりだといいのですが、そういうわけにはいきません。私たちの人生には「順境の日」も、「逆境の日」もあります。どうして神様は順境の日ばかり与えてくれないのでしょうか。それは、もし順境の日ばかりなら、人は反省することを忘れて高慢になり、神をないがしろにするからです。逆に、逆境の日ばかりならば、人は喜びと希望を失い失意に沈み込んで、神を忘れてしまうでしょう。ですから神は、私たちの人生に順境の時と逆境の時をバランスよく与えてくださり、すべての主権が神にあることを教え、神に信頼することを求めておられるのです。
順境の日と逆境の日、あなたは今、どちらの日を迎えていますか。順境の日には喜び、逆境の日なら反省しましょう。それがどちらであっても、それも神のみわざであることを思い、神の主権を認め、神に信頼したいと思うのです。
過去の偉人たちも挫折を乗り越えて成功に導かれています。エイブラハム・リンカーンは小学校を中退し、若いときには、ピジネスのトラブルにより無職になります。恋人が病気で亡くなると鬱になり、州議会、上院、下院選挙に立候補するも計8回落選しました。しかし、最後に彼は大統領になりました。51歳の時です。
彼は、このような言葉を残しています。「転んでしまったことなど気にする必要はない。そこからどうやって立ち上がるかが大事なのだ。」まさに、逆境の日には反省せよ、ですね。彼がそのようにして立ち上がることができたのは、彼が神に信頼し、聖書を通して神の知恵に生きていたからです。
発明王として有名なトーマス・エジソンは、若いころ「生産性がなさすぎる」という理由で解雇されました。電球の発明のために失敗を繰り返しますが、「千回の失敗をしたのではなく、千回のステップを経て電球の発明ができた」と語ったそうです。
ウォルト・ディズニーといえば、今では知らない人はいません。しかし、彼は若いころ、新聞社を解雇されましたが、「彼は想像力に欠け、良い発想は全くなかった」と言われていました。彼は、ディズニーランドを建てる前に何度も倒産を経験しています。
偉人たちの生涯をみると、大きな働きをする人ほど、周りに理解されず辛い日々を過ごしていたように思います。しかし、周囲の評価に左右されない信念を持っていたことが分かります。
イスラエルには砂漠の花園と呼ばれる地域があります。普段は砂漠で全く何もないような所ですが、いったん雨が降ると、一週間後には一面の花園が出現します。雨が降らなければ、2年でも3年でも花を咲かせるために待機するのです。私たちの人生にも砂漠の時、逆境の時があります。けれども、時がくれば、必ずや神様が花を咲かせてくださいます。大切なのは、その逆境の時をどのように過ごすのかということです。順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。どんな日でも共にいてくださる神様に目を留め、神のみわざに期待しながら、神のみことばに学び、根を深く張っていきたいと思います。それが聖書の言う、知恵のある者の生き方なのです。