きょうは、ヨハネ18:12~27から「イエスを否定したペテロ」というタイトルでお話しします。
Ⅰ.ペテロの弱さ (12-18)
まず12節から14節までをご覧ください。
「一隊の兵士と千人隊長、それにユダヤ人の下役たちは、イエスを捕らえて縛り、まずアンナスのところに連れて行った。彼が、その年の大祭司であったカヤパのしゅうとだったからである。カヤパは、一人の人が民に代わって死ぬほうが得策である、とユダヤ人に助言した人である。」
ゲッセマネの園でイエスは、イスカリオテのユダの裏切りにより一隊のローマ兵士と祭司長たちによって送られた下役によって捕えられました。しかし、イエスはご自分に起ころうとしていることをすべて知っておられたので、自ら進み出て、「だれを捜しているのか」と彼らに言われました。ここで著者のヨハネが示そうとしていたのは、自ら進んで十字架に向かおうとしおられた主イエスの姿です。それとは裏腹に、このゲッセマネの園は人間の弱さも示していました。ペテロはイエスを捕らえるためにやって来た人たちの一人、大祭司のしもべに切りかかり、右の耳を切り落としてしまいました。なぜそんなことをしたのでしょうか。そんなことをすれば捕らえられてしまうことになります。剣は真の解決をもたらしません。それでイエスは、ペテロに「剣をさやに収めなさい」と言われ、このしもべの耳を癒されました。イエスの最後の奇跡は、ペテロの失敗をカバーするものだったのです。
一隊の兵士と千人隊長、それにユダヤ人の下役たちは、イエスを捕らえると、どこへ行きましたか。まずアンナスのところに連れて行きました。なぜ?彼がその年の大祭司カヤパのしゅうとだったからです。彼自身も以前大祭司でしたが今は引退しており、代わって娘婿のカヤパが大祭司になっていたこともあって、まだ相当の影響力をもっていたのです。いわば陰の実力者だったわけです。それで、彼らはまずアンナスのところに連れて行き、そこで不当な裁判が持たれたのです。その後、現大祭司のカヤパのもとに連れて行かれますが、ヨハネはここでそのカヤパを紹介するにあたり、彼が以前ユダヤ人に助言した言葉をもう一度引用しています。14節です。「カヤパは、一人の人が民に代わって死ぬ方が得策である、とユダヤ人に助言した人である。」。ヨハネはなぜこの言葉を引用したのでしょうか。それは、カヤパが自分たちの利益のみを考えて語った言葉が、はからずもそれがイエス・キリストの身代わりの死を予告していたからです。ですから、ヨハネは再びそれを引用することによって、イエスの身代わりの死がいよいよ始まろうとしていたことを、示そうとしたのです。
15~18節までをご覧ください。
「シモン・ペテロともう一人の弟子はイエスについて行った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の家の中庭に入ったが、「ペテロは外で門のところに立っていた。それで、大祭司の知り合いだったもう一人の弟子が出て来て、門番の女に話し、ペテロを中に入れた。すると、門番をしていた召使いの女がペテロに、「あなたも、あの人の弟子ではないでしょうね」と言った。ペテロは「違う」と言った。しもべたちや下役たちは、寒かったので炭火を起こし、立って暖まっていた。ペテロも彼らと一緒に立って暖まっていた。」
イエスが捕らえられアンナスのところへ連れて行かれた時、弟子たちはどうしたでしょうか。シモン・ペテロともう一人の弟子はイエスについて行きました。「もう一人の弟子」とは、もちろん、この福音書を書いているヨハネのことです。イエスが捕らえられると、他の弟子たちはイエスを見捨てて一目散に逃げて行きましたが、シモン・ペテロともうひとりの弟子であるヨハネはイエスについて行きました。そしてヨハネは大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の中庭に入りましたが、ペテロはそうでなかったので、門の外から中の様子を眺めていました。この大祭司とはアンナスのことです。先ほども申し上げたように、現役の大祭司はカヤパですが、アンナスも大祭司とみなされていたのです。
ここには、そのアンナスとヨハネが知り合いだったとありますが、どうして彼らが知り合いだったのかはよくわかっていません。ある人は、ヨハネの父ゼベダイはガリラヤ湖で魚を捕っていた漁師でしたが、そのとれた魚を大祭司に届けていたことで、知り合いになったのではないかと考えています。しかし、いくら魚を届けていたとしても、ガリラヤ湖からエルサレムまでは遠すぎます。また、漁師と大祭司とでは身分が違いすぎることから、少し考えにくいことだと思います。
それである人は、ヨハネの母はサロメですが(マタイ27:56)、サロメはイエスの母マリヤの親戚であったことから、そのマリヤの親戚にはだれがいましたか。そうです、バプテスマのヨハネの母エリサベツがいました。そして、エリサベツの夫は祭司ザカリヤでしたから、それでヨハネは大祭司とも知り合いだったのではないかというのです。この考えが有力ではないかと思いますが、いずれにせよ、ヨハネは大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の中庭に入ることができました。
一方、ペテロはというと、16節を見てください。彼は、門のところに立っていました。でもこれは、ただ立っていたというよりも、どこか彼の心の状態を表しているかのようです。彼は以前、「あなたのためならいのちも捨てます」と言いましたが、今は臆病になっていて中に入って行くことができませんでした。入って行こうものなら、自分も捕らえられてしまうのではないかと恐れていたからです。門のところに立って、遠くからその様子を眺めていました。それでヨハネが出て来て、門番の女に話をして、彼を中に入れてもらうようにしました。
すると、門番をしていた召使いの女が、いきなりペテロにこう言いました。「あなたもあの人の弟子ではないでしょうね」ドキッ!ですよね。不意打ちを食らったかのような突然の質問に、ペテロは驚きを隠すことができませんでした。それで冷静さを装いながら、「違う」と言いました。彼女としてはあまり見た顔ではなかったので、軽く聞いただけだったのでしょうが、ペテロとしては息がとまるのではないかと思ったことでしょう。辺りは薄暗かったので互いの顔もはっきり見えない状態だったこともあって、何とかその場を切り抜けることかできました。でも彼はイエス様に「あなたのためなら、いのちも捨てます」と言った人ですよ。また、ゲッセマネの園では、一隊のローマ兵士とユダヤ人の下役たちがイエスを捕らえに来た、勇敢に剣を取って大祭司のしもべの耳を切り落とした人です。そのペテロが、門番をしていた召使いの女が放ったたった一つのことばに、シュ~ンとなってしまいました。びくびくしていたのです。「あなたのためなら、いのちも捨てます」と言ったあの言葉はいったい何だったのでしょうか。人間的な強がりとか意志というものは、ほんとうに弱いなあと思いますね。いざとなると、自分を守ることしか考えられないのですから。それはペテロだけではありません。私たちも同じです。私たちも、主の支えがなければ実は何も出来ない弱い者にすぎません。このことがわかっていないと、この時のペテロのようになってしまいます。自分では信仰があると思っていても、それは信仰とは全く異質の人間的な強がりや意志にすぎないということがあるのです。
それは、18節のペテロの態度にも見られます。しもべたちや下役たちは、寒かったので炭火を起こして立って暖まっていましたが、ペテロも彼らと一緒にいて、立って暖まっていました。これは過越の祭りの期間でした。過越の祭りは3月末から4月中旬までの間に行われますから、まだ肌寒いわけです。しかも真夜中であれば相当寒かったでしょう。それでしもべたちや下役たちが炭火を起こして暖まっていたのですが、ペテロもちゃっかりとそこに混じって暖まっていました。彼自身は気付いていなかったでしょうが、実はこれは大変危険なことでした。敵の火で暖まっていたのですから。これは外の気温だけでなく彼の心も冷えていたということです。ペテロの心も寒かった。それで彼は敵の火で暖めていたのです。私たちにもこういうことがありますね。イエス様は何と言われましたか。イエス様はいつもの場所、ゲッセマネの園に来られると、こう言われました。「誘惑に陥らないように祈っていなさい。」(ルカ22:40)イエス様は十字架を前にして、悲しみのあまり死ぬほどでした。ですから、苦しみもだえながら、いよいよ切に祈られたのです。それは汗が血のしずくのように滴り落ちるほどでした。ところが、弟子たちは何をしていたかというと、彼らは眠りこけていました。「どうして眠っているのですか。誘惑に陥らないように、起きて祈っていなさい。」(ルカ22:46)と言われても、彼らはまた眠りこけてしまいました。起きていることができなかったのです。同じことが三度繰り返されました。確かに彼らは疲れていましたが、ただ疲れていたのではありません。霊的に眠った状態だったのです。祈るべき時に祈らないとこうなってしまいます。私たちは本当に弱い者であり、どんなに信仰があると言っても、祈らないで行動すると簡単に失敗したり、躓いてしまうことになります。敵の火で暖まってしまうようなことになるのです。それはただ気温が寒かったからということではなく、ペテロの心が寒かったから、ペテロの信仰が寒かったからです。ペテロの失敗の本当の原因はここにありました。私たちも誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなければなりません。
Ⅱ.イエスの強さ(19-24)
次に、19節から24節までをご覧ください。
「大祭司はイエスに、弟子たちのことや教えについて尋問した。イエスは彼に答えられた。「わたしは世に対して公然と話しました。いつでも、ユダヤ人がみな集まる会堂や宮で教えました。何も隠れて話してはいません。なぜ、わたしに尋ねるのですか。わたしが人々に何を話したかは、それを聞いた人たちに尋ねなさい。その人たちなら、わたしが話したことを知っています。」イエスがこう言われたとき、そばに立っていた下役の一人が、「大祭司にそのような答え方をするのか」と言って、平手でイエスを打った。イエスは彼に答えられた。「わたしの言ったことが悪いのなら、悪いという証拠を示しなさい。正しいのなら、なぜ、わたしを打つのですか。」アンナスは、イエスを縛ったまま大祭司カヤパのところに送った。」
一方、アンナスのところに連れて行かれたイエス様はとうなったでしょうか。場面がペテロのシーンからイエスの裁判に移っています。場所は同じ大祭司の中庭ですが、映画のシーンのように、ペテロとイエスのシーンを交互に映し出しています。ここに出てくる大祭司もアンナスのことです。これは実際の裁判ではなく、実際の裁判が行われ前の予備尋問のようなものでした。最初からイエスを有罪と決めつけての尋問ですから、訴訟手続きそのものに問題があります。彼はどんなことを尋問しましたか。彼はイエスに弟子たちについて、また、その教えについて尋問しました。弟子たちについて尋問したのは、ローマ帝国に対する反逆罪で弟子たち全員を総督ピラトに告発するためだったのでしょう。また、イエスの教えてについて尋問したのは、その教えが神を冒涜するものであることを暴き、冒涜罪で立証するためでした。
それに対してイエス様は何と答えましたか。20-21節をご覧ください。イエス様は弟子たちに関しては沈黙されましたが、その教えに関しては、それは公然となされたのだから、それを聞いた人たちに尋ねなさい、と言われました。そして、もし何か問題があるなら、その人たちに聞くべきだというのです。というのは、律法には何とありますか。律法には、裁判において証言するのは本人ではなく、二人か三人の証言者によるとあるからです。
すると、そばに立っていた下役の一人が、「大祭司にそのような答え方をするのか」と言って、平手でイエスを打ちました。最初に神の子に手を出したのは、正義を行うはずの下役たち、ユダヤ教の神殿警備隊の者でした。「恐れ多くも先の副将軍・・」という文句がありますが、恐れ多くも先の副将軍どころか全地の主、神の子イエスを平手で打ったのです。しかし、この下役の言葉と行動には注目すべきものがあります。というのは、彼が言っていることは一理あるからです。大祭司にそのような答え方をするのはよくありません。問題は、彼が平手で打った方がどういう方であるかを知らなかったことです。「大祭司にそのような答え方をするのか」と言って彼が平手で打ったお方こそ、実は真の大祭司だったのです。イエス・キリストは永遠の大祭司であり、神と人をとりなすお方です。このとりなしの働きをするために、人間の大祭司が一時的に立てられていたわけですが、その大祭司の権威を認め、その権威を尊重することはとても大切なことです。ですから、この下役が取った態度は間違いではありませんでした。彼の過ちは、自分の目の前にいるお方が真の大祭司であったということを知らなかったことです。もしもこの役人の霊的な目が開かれていて、自分の目の前にいるお方が聖なるお方、全能の神、メシアであることを知っていたなら、彼の行動は全く違ったものになっていたでしょう。彼は即座にキリストの足元にひれ伏して礼拝したに違いありません。
ある国の皇太子が、クルージングを楽しんでいました。やがて霧が出て来て前方を遮りました。すると灯りが見えます。このままでは衝突してしまいます。相手にメッセージを送りました。
「そちらの進路を変更されたし!」
すると相手から返事が返って来ました。
「そちらこそ進路を変えてください」
皇太子は頭に来て、改めてメッセージを送りました。
「そっちが変更しろ!こっちは皇太子である」
すると再び相手から返事がありました。
「進路を変えるのはそちらです。こちらは灯台です」
もし、あなたが皇太子ならどうしますか?
まさにイエス様は世の光です。灯台なるお方です。進路を変えなければからないのは、私たちの側なのです。この方こそ真の大祭司、聖なる方、全能の神、メシアであられるのです。それなら、どうしてこの方を打つのでしょうか。私たちはこの方が正しい方、神の子、救い主であると認め、この方の前にひれ伏さなければなりません。
さて、下役が平手でイエスを打つと、イエスは彼にこう言われました。「わたしの言ったことが悪いのなら、悪いという証拠を示しなさい。正しいのなら、なぜ、わたしを打つのですか。」
イエス様は、たとえ彼がご自分のことを知らなかったとは言え、悪に対しては毅然とした態度で立ち向かいました。相手が受け入れないということがわかっていても、正しいことを語られたのです。もしかすると、また平手で打たれるかもしれません。いや、今度はグーパンチが飛んでくるかもしれません。しかし、イエス様はそれに動じませんでした。「わたしの言ったことが悪いのなら、悪いという証拠を示しなさい。正しいのなら、なぜ、わたしを打つのですか。」と、堂々と応じたのです。悪に対して毅然とした態度で立ち向かったとはいえ、目には目を、歯には歯をと、暴力に対して暴力で対抗したのではなく、丁寧に相手の間違いを指摘されたのです。まさにイエスこそまことの神、王の王、主の主なのです。
Ⅲ.鶏の鳴き声を聞いたペテロ(25-27)
最後に、25-27節をご覧ください。
「さて、シモン・ペテロは立ったまま暖まっていた。すると、人々は彼に「あなたもあの人の弟子ではないだろうね」と言った。ペテロは否定して、「弟子ではない」と言った。大祭司のしもべの一人で、ペテロに耳を切り落とされた人の親類が言った。「あなたが園であの人と一緒にいるのを見たと思うが。」ペテロは再び否定した。すると、すぐに鶏が鳴いた。」
場面が再び大祭司の中庭にいたシモン・ペテロに戻ります。そこはイエス様が顔につばきをかけられ、殴りつけられていたところですが、一方ペテロはどうしていたかというと、彼はまだ敵の火に暖まっていました。イエス様が苦しめられている間、彼はずっと敵の火で暖まっていたのです。すると人々が彼にこう言いました。「あなたもあの人の弟子ではないだろうね。」(25)
マタイの福音書を見ると、彼らがそのように言ったのは、彼のことばになまりがあったからだとあります。彼らは「確かに、あなたもあの人たちの仲間だ。ことばのなまりで分かる。」(26:73)と言いました。これはきついですね。ことばのなまりはそう簡単には直せません。その人の言葉を聞くと、その人がどこの出身であるかがわかります。私の両親は福島県の霊山という山奥で生まれ育ったなので、二人ともかなりのズーズー弁なのです。「フクシマ」も「フクシマ」とは言わず、「フグシマ」と言います。なまりが抜けないのです。それで私もズーズー弁が抜けなくて、言葉には相当のコンプレックスがあるのです。私がこんなに内向的なのはそのせいです。ペテロはガリラヤ出身でしたから、そのことばのなまりでわかりました。するとペテロは否定して、「弟子ではない」と言いました。二回目です。今回は以前よりも否定する度合いが強くなっています。一回目は、「違う」だけでしたが、今回は「弟子ではない」とはっきりと否定しました。三回目はどうでしょう。
26節をご覧ください。今度は大祭司のしもべの一人で、ペテロに耳を切り落とされた人の親類が言いました。「あなたが園であの人と一緒にいるのを見たと思うが。」大祭司のしもべの一人で、ペテロに耳を切り落とされた人とはマルコスです。自分の親戚が耳を切り落とされたんです。ですから、その様子をしっかり見ていたのでしょう。相手の顔もよく覚えていました。その人が、「見たんです。あなたが園でマルコスの耳を切り落としたのをこの目で見たのです。」と言ったのですから、もう言い逃れは出来ません。
するとペテロは何と答えましたか。27節、「ペテロは再び否定した。」。もう一度否定しました。マタイの福音書を見ると、ただ否定したのではなく、「嘘ならのろわれてもよいと誓い始め、「そんな人は知らない」と言った。」(26:74)とあります。皆さんもよくあるでしょう。「神に誓ってもいい。嘘じゃない。私じゃない。」嘘なのに、嘘じゃないと、力を込めて否定したことがあるんじゃないですか。嘘なのに・・・。大抵の人は嘘の上に嘘を塗ろうとするとこのような結果になります。「のろわれてもよい」とは、絶対に嘘じゃないということです。ペテロは三度も否定しました。「すると、すぐに鶏が鳴いた。」コケコッコー!
イエス様はこのことを知っていました。ですから、最後の晩餐の時ペテロが「あなたのためなら、いのちも捨てます。」と言ったとき、こう言われたのです。「わたしのために命を捨てるのですか。まことに、まことに、あなたに言います。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」(13:38)
その御言葉の通りになりました。ペテロは鶏が鳴いた時、この言葉を思い出しました。ルカの福音書を見ると、この時イエス様が振り向いてペテロを見つめられたとあります(ルカ22:61)。目と目が合ったのです。そして彼は、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います。」とイエス様が言われたことばを思い出して、外に出て、激しく泣きました(ルカ22:62)。
ペテロは、以前は自分自身にとても自信のある男でした。行動的なタイプの人です。イエス様を愛して、本当にいのちをかけて最後まで従おうと思っていたでしょう。他の弟子たちが躓いても、自分だけは絶対にそんなことはないと思っていました。そのように思っていた彼が今、そうでないということに気付かされ、完全に打ちのめされてしまいました。完全に砕かれたのです。イエス様はそのことをちゃんと知っておられました。人間の強さというものがどれほど弱く、脆いものであるかということを。ですから、ペテロのためにとりなしの祈りをされたのです。ルカ22:31-32です。
「シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
ペテロは失敗しましたが、彼の信仰は無くなりませんでした。なぜでしょうか。イエス様が彼のために祈られたからです。彼はのろいまでかけて誓いイエス様を否定しましたが、それでも信仰が無くなりませんでした。なぜですか。それはイエス様が彼のために祈られたからです。そして復活してから後40日間、彼らの前にご自身を現わされると、ペテロに三度尋ねられました。
「あなたはわたしを愛しますか」
これは、ペテロが三度イエス様を否定したことを赦し、公に彼の信仰を回復させるためでした。ペテロが「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存知です。」と告白すると、主は、「わたしの羊を飼いなさい」と言われました。そして、初代教会の指導者として立ててくださったのです。ペテロの信仰は完全ではありませんでしたが、主が彼のために祈り、赦し、癒し、励まし、立ち上がらせてくださったので彼は神の器として用いられ、神の御言葉を通して多くの人々を救いに導き励ますことができたのです。
それは私たちも同じです。もしかすると、あなたは自分にはできないことはない、自分には何でもできると思っているかもしれません。自分にはそれだけの意志と力があると。しかし、自分自身に自信がある時には神の働きをすることはできません。表面的にはできるかもしれませんが、しかし、それで神の働きをすることはできないのです。神の働きは、自分が簡単に失敗し躓いてしまうような弱い者であることをとことん知り、神の前に砕かれ、自分の人生を主イエス様に明け渡した時に始まるのです。
ベトナムのダナンにあるカトリック教会、ダナン大聖堂は、ダナンの街でひときわ存在感を発揮するピンク色の教会です。屋根の上に鶏の像があることから「鶏教会」とも呼ばれています。なぜ屋根の上に鶏があるのかとある外がその教会の神父に尋ねると、その教会の神父はこう答えました。
「ペテロは残りの生涯の間、鶏の声を聞くたびにあの時のこと(イエス様を三度裏切ったこと)を思い出して泣いて悔い改めました。それ以来、教会に鶏の像をつけるようになったのです。」
私はそれを聞いて笑ってしまいました。そんな考えがどこから来るのでしょうか。聖書は何と言っていますか。ペテロはイエス様の御力を味わってから、完全な赦しを得て新しくされ、もう二度とその罪を思い起こすことはなかったのです。それなのにイエス様が赦してくださった罪を、鶏が鳴いたからと言ってまた思い出して泣くなどということはあり得ません。また人は神様のみことばを聞いて悔い改めるのであって、鶏の声を聞いて悔い改めるわけではないのです。
ペテロは、鶏の鳴き声を聞いて、イエス様が言われたことを思い出して激しく泣きました。彼は自分の弱さ、自分の足りなさに打ちのめされ完全に砕かれたのです。しかし、自分の罪を悔改めた彼は完全な赦しを得て新しくされ、自分の力ではなく、神の力、イエス・キリストの力に完全により頼んだので、神に大きく用いられたのです。
私たちもペテロと同じように弱い者です。多くの失敗をします。でも、安心してください。イエス様があなたのために祈っていてくださいます。あなたの信仰が無くならないようにと祈っていてくださるのです。イエス様はすでにあなたを赦してくださいました。ですから、あなたが立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやるべきです。まずはあなたが自分の弱さを知り、そんな者でさえも愛されていることを深く知って、イエス様にあなたの人生のすべてを明け渡すことです。あなたが神の前に砕かれるとき、神の恵みと神の力があなたに注がれるからです。
サムソンといえば、皆さんは何を思い浮かべるでしょうか。長髪を思い浮かべる人、腕力の強さを思い浮かべる人など、さまざまでしょう。「サムソナイト」というメーカーのスーツケースがありますが、これは丈夫で強いサムソンにちなんで名づけられたものです。彼は長所を生かせず失敗したヒーローです。彼は、神様の偉大なみわざを行うために用意された器でした。ところが、彼は大きな勝利の後に、女性を追いかけては失敗します。そして、最後は自分の力の秘密であった髪の毛を剃り落とされると、ペリシテ人に捕らえられ、両目をえぐり取られ、青銅の足かせをかけられて牢につながれてしまいました。しかし、牢の中で悔い改めた彼は再び神の力を受け、一度に三千人のペリシテ人を打ち殺すことができました。それは、彼が生きている間に殺した数よりも多かったと聖書にあります。確かに彼は失敗の多い人生でした。しかし、最後は神の御力を受けて神の器として働くことができたのです。
あなたもサムソンのように失敗することがあるかもしれません。ペテロのようにイエスを否定することがあるかもしれない。しかし、あなたが悔い改めて主に立ち返るなら、主はあなたを赦してくださいます。そして、あなたを立ち直らせてくださいます。主があなたのために祈られたからです。その時あなたは兄弟たちを力づけてやらなければなりません。それはあなたの力によってではなく、主の恵み、主の御力によってです。主はあなたの信仰がなくならないように祈られました。主の恵みに感謝しましょう。そしてこの恵みによって立ち直り、主の御力によって主に仕えさせていただきましょう。