士師記6章

士師記6章を学びます。

Ⅰ.主の声に聞き従わなかったイスラエル(1-10)

まず1~10節までをご覧ください。「1 イスラエルの子らは、主の目に悪であることを行った。そこで、主は七年の間、彼らをミディアン人の手に渡された。2 ミディアン人の勢力がイスラエルに対して強くなったので、イスラエル人はミディアン人を避けて、山々にある洞窟や洞穴や要害を自分たちのものとした。3 イスラエルが種を蒔くと、いつもミディアン人、アマレク人、そして東方の人々が上って来て、彼らを襲った。4 彼らはイスラエル人に向かって陣を敷き、その地の産物をガザに至るまで荒らして、いのちをつなぐ糧も、羊も牛もろばもイスラエルに残さなかった。5 実に、彼らは自分たちの家畜と天幕を持って上り、いなごの大群のように押しかけて来た。彼らとそのらくだは数えきれないほどであった。彼らは国を荒らそうと入って来たのであった。6 こうして、イスラエルはミディアン人の前で非常に弱くなった。すると、イスラエルの子らは主に叫び求めた。

7 イスラエルの子らがミディアン人のゆえに主に叫び求めたとき、8 主は一人の預言者をイスラエルの子らに遣わされた。預言者は彼らに言った。「イスラエルの神、主はこう言われる。わたしはあなたがたをエジプトから上らせ、奴隷の家から導き出し、9 エジプト人の手と、圧迫するすべての者の手から助け出し、あなたがたの前から彼らを追い出して、その地をあなたがたに与えた。10 わたしはあなたがたに言った。『わたしが主、あなたがたの神である。あなたがたが住んでいる地のアモリ人の神々を恐れてはならない』と。ところが、あなたがたはわたしの声に聞き従わなかった。」

デボラとバラクによって四十年の間、穏やかだったイスラエルでしたが、彼らは再び主の目に悪であることを行いました。せっかく主がカナン人の王ヤビンの支配から解放してくださったというのに、再び主の目に悪を行ったのです。これが人間の姿です。どんなに偉大な主の御業を見ても、それをすぐ忘れてしまい、自分勝手な道に歩もうとするのです。

そこで、主は七年間、彼らをミディアン人の手に渡されました。ミディアン人の勢力があまりにも強かったので、イスラエル人はミディアン人を避けて、山々にある洞窟やほら穴や要害に住むことを余儀なくされました。

イスラエル人がどんなに種を蒔いても、いつもミディアン人やアマレク人がやって来て、彼らを襲ったので、イスラエルにはいのちをつなぐ糧も、羊も牛もろばも残っていませんでした。5節にあるように、彼らはすなごの大群のように押しかけて来たので、そんな彼らの前にイスラエルは何の成す術もなかったからです。

こうしてイスラエル人はミディアン人の前に非常に弱くなりました。それでイスラエルはどうしたかというと、「イスラエルの子らは主に叫び求めた。」(6)これが士師記に見られるサイクルです。イスラエルが主の目の前に悪を行うと、神は敵を送り彼らを懲らしめられるので、苦しくなったイスラエルは主に叫び求めます。すると主は彼らにさばきつかさ、士師を遣わしてそこから救い出してくださり平穏をもたらされます。しかし、それでイスラエルの民が気が緩み再び主の目に悪であることを行うと、主はまた彼らに強力な敵を送り彼らを苦しめられます。それでイスラエルは主に叫び求めるのです。その繰り返しです。

この時もそうでした。彼らがミディアン人によって苦しめられ非常に弱くなったので主に叫び求めると、主はどのように答えてくださいましたか?8~10節をご覧ください。「8イスラエルの神、主はこう言われる。わたしはあなたがたをエジプトから上らせ、奴隷の家から導き出し、9 エジプト人の手と、圧迫するすべての者の手から助け出し、あなたがたの前から彼らを追い出して、その地をあなたがたに与えた。10 わたしはあなたがたに言った。『わたしが主、あなたがたの神である。あなたがたが住んでいる地のアモリ人の神々を恐れてはならない』と。ところが、あなたがたはわたしの声に聞き従わなかった。」

どういうことでしょうか?彼らは今、ミディアン人によって圧迫されているので主に叫んでいるのに、主の使いは、かつてイスラエルがエジプトの奴隷の家から解放されたことと、その後約束の地を彼らに与えてくださったことを思い起こさせています。それは彼らがこのようにミディアン人によって圧迫されている原因がどこにあるのかを告げるのです。それは、「あなたがたが住んでいる地のアモン人の神々を恐れてはならない」と言われた主の声に、彼らが聞き従わなかったことです。つまり、主との契約を破り自分勝手に歩んだことが原因だったと言っているのです。「わたしは主、あなたがたの神である。」主がついているならどんな敵も恐れることはありません。主は全能の神であってどんな敵も討ち破られるからです。それなのに彼らは目の前のアモリ人を恐れ、主を忘れてしまいました。それが問題だったのです。彼らはまずこのことをしっかり受け止めなければならなかったのです。

それは私たちにも言えることです。私たちも何か問題が起こったり、置かれている状況が悪くなったりすると、その問題の原因をどこか別のところに持っていこうとしますが、その原因は他でもない自分自身にあることが多いのです。自分が神様に背いているために起こっているのに、そのことになかなか気づきません。イスラエルは主の御声に聞き従っていませんでした。それが問題だったのです。

Ⅱ.ギデオンの召命(11-16)

それで主はどうされたでしょうか。そこで主はイスラエルに五人目の勇士を送ります。だれですか?そうです、ギデオンです。11~16節までをご覧ください。ここには、主がギデオンを士師として召されたときの様子が描かれています。「11 さて主の使いが来て、アビエゼル人ヨアシュに属するオフラにある樫の木の下に座った。このとき、ヨアシュの子ギデオンは、ぶどうの踏み場で小麦を打っていた。ミディアン人から隠れるためであった。12主の使いが彼に現れて言った。「力ある勇士よ、主があなたとともにおられる。」13 ギデオンは御使いに言った。「ああ、主よ。もし主が私たちとともにおられるなら、なぜこれらすべてのことが、私たちに起こったのですか。『主は私たちをエジプトから上らせたではないか』と言って、先祖が伝えたあの驚くべきみわざはみな、どこにあるのですか。今、主は私たちを捨てて、ミディアン人の手に渡されたのです。」14 すると、主は彼の方を向いて言われた。「行け、あなたのその力で。あなたはイスラエルをミディアン人の手から救うのだ。わたしがあなたを遣わすのではないか。」15 ギデオンは言った。「ああ、主よ。どうすれば私はイスラエルを救えるでしょうか。ご存じのように、私の氏族はマナセの中で最も弱く、そして私は父の家で一番若いのです。」16主はギデオンに言われた。「わたしはあなたとともにいる。あなたは一人を討つようにミディアン人を討つ。」

11節にある「ぶどうの踏み場」とは、酒ぶねのことです。ぶどうの実を足で踏みつぶして、ぶどうの汁を出しました。ギデオンはそこで小麦の脱穀を行なっていました。ミディアン人に見つかるとみな荒らされてしまうので、彼らに見つからないようにこっそりと、静かに小麦を脱穀していたのです。彼もまた他のイスラエル人同様、ミディアン人を恐れていました。ギデオンという名前を聞くと、学校やホテルなどで聖書を配布している「ギデオン協会」のことを思い浮かべる人も多いのではないかと思いますが、実は、彼は臆病で、敵に対してびくびくしているような小さな存在でした。

そんな彼を主はご自身の働きへと召されました。12節をご覧ください。主の使いが彼のところに現れて「力ある勇士よ、主があなたとともにおられる。」と告げました。ギデオンは、これはいったい何のことかと思ったでしょうね。全く考えられないことです。敵を恐れて隠れているような者ですよ。そんな臆病な者が大それたことができるわけがありません。

それでギデオンは御使いに言いました。13節です。「ああ、主よ。もし主が私たちとともにおられるなら、なぜこれらすべてのことが、私たちに起こったのですか。『主は私たちをエジプトから上らせたではないか』と言って、先祖が伝えたあの驚くべきみわざはみな、どこにあるのですか。今、主は私たちを捨てて、ミディアン人の手に渡されたのです。」

これはどういうことかというと、主がともにおられるのであれば、なぜこのようなことが起こったのかということです。確かに過去においてエジプトで主が行なってくださった偉大な御業のことは聞いています。ではなぜそのような御業を私たちには行なってくださらないのですか。主がともにおられるのなら、こんなはずがありません。これは主がともにおられないということの確たる証拠ではありませんか。

このような疑問はだれでも抱きます。神がともにおられるのなら、どうして主はこのようなことを許されるのかと。しかしそれは主がイスラエルを捨てたからではなく、イスラエルが主を捨て自分勝手に歩んだからです。だから、主は敵の手の中に彼らを引き渡さざるを得なかったのです。

すると主は何と仰せになられたでしょうか。14節です。「行け、あなたのその力で。あなたはイスラエルをミディアン人の手から救うのだ。わたしがあなたを遣わすのではないか。」

すると主は、ギデオンの疑問に一切答えることをせず、「行け。あなたのその力で。」と言われました。どういうことでしょうか。それは、彼の力が強かろうが弱かろうが、そんなことは全く関係ないのであって、彼に求められていたことは、主の命令に従って出て行くということでした。なぜなら、主が彼を遣わされるからです。主が遣わされるのであれば、主が最後まで責任を取ってくださいます。むしろ、「私が、私が」という人はあまり用いられません。神様の力が働きにくくなるからです。大切なのは自分にどれだけ力や能力があるかということではなく、自分を遣わしてくださる方がどのような方であり、その方が自分とともにいてくださるという確信です。

それに対してギデオンはどのように応答したでしょうか?15節をご覧ください。「ギデオンは言った。「ああ、主よ。どうすれば私はイスラエルを救えるでしょうか。ご存じのように、私の氏族はマナセの中で最も弱く、そして私は父の家で一番若いのです。」自分にはできないという言い訳です。

モーセもそうでした。モーセは、イスラエルの子らをエジプトから救い出せ、との命令を神から受けたとき、「私は、いったい何者なのでしょう。ファラオのもとに生き、イスラエルの子らをエジプトから導き出さなければならないとは。」(出エジプト3:11)と言いました。とても無理です。だれか別の人を遣わしてくださいと言いました。その時主は彼に「あなたの手に持っているものは何か。」と言って、その杖を地に投げるように命じられました。するとそれは蛇になりました。続いて主は、「手を伸ばして、その尾をつかめ。」と命じると、それは手の中で杖になりました。それは、彼らの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が彼に現れたことを、彼らが信じるためでした。

するとモーセは何と言ったでしょう。「ああ、わが主よ。私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が思いのです。」(出4:10)と言いました。言い訳です。最初からそんなに流暢に語れる人なんていません。また、語れるからといって、必ずしも神のことばを語れるとは限りません。問題は、だれが語るのかということです。語るのはモーセではなく神です。そのことを示すために主はモーセにこう言いました。「人に口をつけたのはだれか。だれが口をきけなくし、耳をふさぎ、目を開け、また閉ざすのか。それは、わたし、主ではないか。」(4:11)

それでもぐずくずしているモーセに対して主は、彼の兄アロンを備えてくださいました。アロンは雄弁なので、彼に語り、彼の口にことばを置け、というのです。そこまでして神はモーセを励まし、ご自身の働きに遣わしてくださいました。

ギデオンも同じです。彼は、自分がマナセの中で最も弱く、彼の父の家で一番若いということを理由に、とても自分にはイスラエルを救うことなんてできないと言ったのです。

すると主は何と言われたでしょうか。16節をご覧ください。「主はギデオンに言われた。「わたしはあなたとともにいる。あなたは一人を討つようにミディアン人を討つ。」

主は彼とともにいるので、彼はあたかも一人の人を倒すようにミディアン人を打つ、というのです。主がともにおられるなら、一人を打つように敵を打つことができます。大切なのは、あなたがどのような者であるかということはではなく、あなたはだれとともにいるのかということです。主がともにおられるなら、あなたは敵を打つことができます。あなたがどれほど小さいく、弱い者であっても、あなたは敵に勝利することができるのです。

Ⅲ.しるしを求めたギデオン(17-40)

それに対してギデオンはどのように応答したでしょうか。彼はそれでも安心できず、自分と話しておられる方が主であるというしるしを求めます。17~24節までをご覧ください。「17 すると、ギデオンは言った。「もし私がみこころにかなうのでしたら、私と話しておられるのがあなたであるというしるしを、私に見せてください。18 どうか、私が戻って来るまでここを離れないでください。贈り物を持って来て、御前に供えますので。」主は、「あなたが戻って来るまで、ここにいよう」と言われた。

19 ギデオンは行って、子やぎ一匹を調理し、粉一エパで種なしパンを作った。そして、その肉をかごに入れ、また肉汁を壺に入れ、樫の木の下にいる方のところに持って来て差し出した。20 神の使いは彼に言った。「肉と種なしパンを取って、この岩の上に置き、その肉汁を注げ。」そこで、ギデオンはそのようにした。21 主の使いは、手にしていた杖の先を伸ばして、肉と種なしパンに触れた。すると、火が岩から燃え上がって、肉と種なしパンを焼き尽くしてしまった。主の使いは去って見えなくなった。22 ギデオンには、この方が主の使いであったことが分かった。ギデオンは言った。「ああ、神、主よ。私は顔と顔を合わせて主の使いを見てしまいました。」23 主は彼に言われた。「安心せよ。恐れるな。あなたは死なない。」24 ギデオンはそこに主のために祭壇を築いて、これをアドナイ・シャロムと名づけた。これは今日まで、アビエゼル人のオフラに残っている。」

ギデオンは、自分と話しておられる方が主であることを確認するために、また、主が彼とともにおられるということの確信を得るためにしるしを求めました。すると主の使いは、子やぎ一匹を調理し、粉一エパで種なしパンを作り、また肉汁を壺に入れ、樫の木の下にいる方のところに持って来るように命じました。そしてその肉と種なしパンを取って岩の上に置き、その肉汁を注ぐようにと言ったのでそのとおりにすると、主の使いは、手にしていた杖の先を伸ばし肉とパンに触れました。すると火が岩から燃え上がり肉と種なしパンを焼き尽くしたので、この方が主の使いであることがわかりました。

彼はそのことがわかったとき、こう言いました。「ああ、神、主よ。私は顔と顔を合わせて主の使いを見てしまいました。」

ギデオンは、主を見たことを恐れました。なぜなら、主を見る者は殺されなければならなかったからです。(出19:21,33:20)けれども、主は「安心しなさい」と言われました。それでギデオンは、そこに主のための祭壇を築き、「アドナイ・シャロム」と名付けました。意味は「主は平安」です。主は、ギデオンが平安を求めたとき、平安を与えてくださいました。主は平安を与えてくださる方なのです。

するとその夜、主はギデオンに言われました。25節、26節です。「25 その夜主はギデオンに言われた。「あなたの父の若い雄牛で、七歳の第二の雄牛を取り、あなたの父が持っているバアルの祭壇を壊し、そのそばにあるアシェラ像を切り倒せ。26 あなたの神、主のために、その砦の頂に石を積んで祭壇を築け。あの第二の雄牛を取り、切り倒したアシェラ像の木で全焼のささげ物を献げよ。」

どういうことでしょうか?イスラエル人たちは、主とともにバアルやアシェラ像を拝んでいました。あるときは主を礼拝し、そしてまたある時はバアルを拝んでいたのです。その祭壇を壊しなさい、というのです。そして、あの第二の雄牛を取り、その壊した偶像の木で全焼のいけにえとして献げるように、と言われたのです。それは主なる神がバアルやアシェラといった偶像とは違い、はるかに力ある方であることを示すためでした。

ギデオンはどうしたでしょうか?27節をご覧ください。ギデオンは自分のしもべの中から10人を引き連れて、主が言われたとおりにしました。しかし、彼は父の家の者や町の人々を恐れたので、それを昼間ではなく夜に行いました。どんなに主がともにおられるということがわかっていても、そんなことをしたら殺されるのではないかと思うと、恐れが生じたのでしょう。しかし、主はそんな弱いギデオンさえも用いてくださいました。

それがどれほどの怒りであったかは28節から30節までを見るとわかります。町の人々は、「だれがこのようなことをしたのか」と調べて回り、それがギデオンであるということがわかったとき、父親のヨアシュにこう言いました。「おまえの息子を引っ張り出して殺せ。あれはバアルの祭壇を打ちこわし、そばにあったアシェラ像も切り倒したのだ。」

すると、ギデオンの父ヨアシュは自分に向かって来たすべての者に言いました。「あなたがたは、バアルのために争おうというのか。あなたがたは、それを救おうとするのか。バアルのために争う者は、朝までに殺される。もしバアルが神であるなら、自分の祭壇が打ち壊されたのだから、自分で争えばよいのだ。」

これはどういうことかというと、なぜあなたがたはバアルのために争おうとするのか、バアルが神であるなら、どうして我々がバアルを救ってあげなければならないのか、おかしいではないか、そんなの神ではない。もしバアルが神であるなら、自分の祭壇が壊されたんだから、自分で争えばいいのであって、そのために我々が争うというのはおかしい、ということです。

よく考えてみると本当におかしな話です。神は我々を助ける存在なのに、我々に助けてもらわなければならないというのは。でも、このような変なことを比較的多くの人々が何の矛盾も感じることなく信じています。偶像の神々は、我々が守らなければ壊されてしまうようなはかないものなのであって、そのようなものが神であるはずがありません。神はわれわれが守ってあげなければならないような方はなく、我々をはじめ、この世界のすべてを創造され、我々をいつも守ってくださる方なのです。こうして、その日、ギデオンの父ヨアシュは、「バアルは自分で彼と争えばよい。なぜなら彼はバアルの祭壇を打ち壊したのだから」と言って、ギデオンをエルバアルと呼びました。

33~35節をご覧ください。一方、ミディアン人やアマレク人、また東方の人々が連合してヨルダン川を渡り、イズレエルの平野に陣を敷いたとき、主の霊がギデオンをおおったので、彼が角笛を吹き鳴らすと、アビエゼル人が集まって来て、彼に従いました。またギデオンはマナセの全域にも使者を遣わしたので、彼らもまた、ギデオンに従いました。その他、アシェル、ゼブルン、ナフタリも上って来て合流しました。

なぜこんなに大勢の人々が集まってきたのでしようか。それはギデオンに力があったからではありません。34節にはこうあります。「主の霊がギデオンをおおったので」。主の霊がギデオンをおおったので、多くの人々が彼に従ったのです。つまり、主の霊によってギデオンが戦うと決断したので、多くの人々がつき従ったのです。私たちも時としてなかなか決断できない時がありますが、そうした決断さえも主が与えてくれるものです。ギデオンのように主がともにおられるなら、主の霊が彼をおおったように私たちをもおおい、そうした決断も与えてくれるのです。

36~40節までをご覧ください。「36 ギデオンは神に言った。「もしあなたが言われたとおり、私の手によってイスラエルを救おうとされるのなら、37 ご覧ください。私は刈り取った一匹分の羊の毛を打ち場に置きます。もしその羊の毛だけに露が降りていて、土全体が乾いていたら、あなたが言われたとおり、私の手によって、あなたがイスラエルをお救いになると私に分かります。」38 すると、そのようになった。ギデオンが翌日朝早く、羊の毛を押しつけて、その羊の毛から露を絞り出すと、鉢は水でいっぱいになった。39 ギデオンは神に言った。「私に向かって御怒りを燃やさないでください。私にもう一度だけ言わせてください。どうか、この羊の毛でもう一度だけ試みさせてください。今度はこの羊の毛だけが乾いていて、土全体には露が降りるようにしてください。」40 神はその夜、そのようにされた。羊の毛だけが乾いていて、土全体には露が降りていたのであった。」

ここにきてギデオンは、主にもう一つのしるしを求めました。それは、本当に主が言われたとおり、主は自分の手によってイスラエルを救おうとしておられるのかを知るためでした。そこで彼は、羊一頭分の毛を打ち場に置き、もしその羊の毛だけに露が降りていて、土全体が乾いていたら、主が言われたとおり、自分の手によってイスラエルをお救いになるということです。

すると、そのようになりました。それはちょっとの露ではありませんでした。鉢がいっぱいになるほどの水でした。

するとギデオンは、再び主に言いました。その羊の毛でもう一度だけ試させてください、と。今度はこの羊の毛だけが乾いていて、土全体に露が降りるようにしてくださいと言ったのです。するとそのようになりました。神はその夜、そのようにされたのです。

いったいなぜギデオンは何度もしるしを求めたのでしょうか。これはギデオンが不信仰だったからではありません。34節には、彼は主の霊におおわれていたとあります。主が彼とともにおられることはわかっていました。しかし、その戦いが本当に主から出たものなのかどうかを確かめるためでした。私たちも主の働きを行なうとき、はたしてこれは自分の思いから出たことなのか、それとも神のみこころなのかがわからなくなることがあります。そのようなときに、それが神のみこころであると確信することは大切です。ギデオンが主のみこころを求めて祈ったように、私たちも主のみこころを求めて慎重に祈り求めていくことが認められているのです。

主イエスは言われました。「7 求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。8 だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。」(マタイ7:7-8)

これは私たちにも求められていることです。私たちは、主のみこころを求めてもっと祈るべきです。求めるなら与えられます。ギデオンは主に確信を祈り求めた結果、その確信を得ることができました。だからこそ彼は、大胆に出て行くことができたのです。私たちも主のみこころを求めて求めましょう。探しましょう。たたきましょう。そうすれば、主は与えてくださいます。それによってもっと大胆に主の御業を行うことができるのです。

士師記5章

 士師記5章を学びます。ここにはデボラの賛美の歌が記されてあります。デボラはバラクを励まし、カナンの王ヤビンを滅ぼし、イスラエルに40年間、平和をもたらしました。そのデボラが敵に勝利した時、主に向かってほめ歌を歌いました。

 Ⅰ.主をほめたたえるデボラ(1-11)

 まず1~5節までをご覧ください。「1 その日、デボラとアビノアムの子バラクは、こう歌った。2 「イスラエルでかしらたちが先頭に立ち、民が進んで身を献げるとき、【主】をほめたたえよ。3 聞け、王たち。耳を傾けよ、君主たち。私、この私は【主】に向かって歌う。イスラエルの神、【主】にほめ歌を歌う。4 【主】よ。あなたがセイルから出て、エドムの野から進んで行かれたとき、大地は揺れ、天も滴り、密雲も水を滴らせました。5 山々は【主】の前に流れ去りました。シナイさえもイスラエルの神である【主】の前に。」

デボラは、なぜ主を賛美しているのでしょうか。2節には「イスラエルでかしらたちが先頭に立ち、民が進んで身をささげるとき」とありますが、これは下の欄外にもあるように、「髪の毛を伸びるままにするとき」という意味の言葉です。これはどういうことかというと、イスラエルのかしらたちがなり振り構わず自ら進んで身をささげて戦ったということです。デボラを通して語られた主の御声に、イスラエルの民は指導者たちが先頭に立つと、自ら進んで戦いに出て行きました。いやいやながらではなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりに。デボラは、そのような信仰を与えてくださった主をほめたたえているのです。なぜなら、そのようなところに、主の偉大な御業が現されるからです。

4節をご覧ください。イスラエルがキション川で勝利したとき、天候がそれを左右しました。その天候をも治めておられたのは主ご自身に他なりません。主は密雲も水も滴らせ、イスラエルに勝利を与えてくださいました。

6~11節までをご覧ください。「6 アナトの子シャムガルの時代、またヤエルの時代に、隊商は絶え、旅人は脇道を通った。7 農夫は絶えた。イスラエルに絶えた。私デボラが立ち、イスラエルに母として立ったときまで。8 新しい神々が選ばれたとき、そのとき、戦いは門まで及んでいたが、イスラエルの四万人のうちに、盾と槍が見られただろうか。9 私の心はイスラエルの指導者たちに、民のうちの進んで身を献げる者たちに向かう。【主】をほめたたえよ。10 茶色の雌ろばに乗る者たち、敷き物の上に座す者たち、道を歩く者たちよ、語り伝えよ。11 水飲み場で水を分ける者たちの声を聞いて。そこで彼らは【主】の義と、イスラエルにいる主の村人たちの義をたたえる。そのとき、【主】の民は城門に下って行った。」

デボラはイスラエルに母として立ちました。その時までイスラエルはカナンの国々にひどく圧迫されていました。アナトの子シャムガルは3章に出て来る士師です。ヤエルは4章に出て来る女性ですが、有名だったのでしょう。彼女は、カナンの王ヤビンの軍の将軍シセラのこめかみに杭を打ち込んで殺しました。その時代はハツォルの王の勢力が強く、安心して商業や農業ができない状態でした。恐ろしくて、主要な道路を歩くことができませんでした。彼らの心はしなえ、盾と槍を取る者もいませんでした。

しかし、デボラが立ち、イスラエルに主のことばを語ったとき、イスラエルは立ち上がりました。10節の「茶色の雌ろばに乗る者たち、敷き物の上に座す者たち、道を歩く者たちよ」とは、イスラエルのすべての人たちのことを指しています。「茶色の雌ろばに乗る者たち」とはいわゆる金持ちのことです。また「敷き物の上に座す者たち」とは裁判官たちのことです。第三版では、「さばきの座に座する者」と訳しています。そして「道を歩く物たち」とは、道を歩く一般の人たちのことです。ですからこれは、すべてのイスラエルの人たちのことが語られているのです。

そのすべてのイスラエルの民について、どんなことが語られているのでしょうか。11節には、「水飲み場で水を分ける者たちの声を聞いて。そこで彼らは【主】の義と、イスラエルにいる主の村人たちの義をたたえる。そのとき、【主】の民は城門に下って行った。」とあります。平穏な暮らしが戻ってきたということです。そこで彼らは主の義と、イスラエルにいる主の村人たちの義をたたえているのです。

Ⅱ.共に戦った者たち(12-23)

その戦いに出て行った人たちはどのような人たちだったでしょうか。12~23節までをご覧ください。「12 目覚めよ、目覚めよ、デボラ。目覚めよ、目覚めよ、歌声をあげよ。起きよ、バラク。捕虜を引いて行け、アビノアムの子よ。13 そのとき、生き残った者は貴人のように下りて来た。【主】の民は私のところに勇士のように下りて来た。14 エフライムからはその根がアマレクにある者が下りて来た。ベニヤミンはあなたの後に続いてあなたの民のうちにいる。マキルからは指導者たちがゼブルンからは指揮を執る者たちが下りて来た。15 イッサカルの長たちはデボラとともにいた。イッサカルはバラクと同じく歩兵たちとともに平地に送られた。ルベンの諸支族の決意は固かった。16 なぜ、あなたは二つの鞍袋の間に座って、羊の群れに笛吹くのを聞いていたのか。ルベンの諸支族の間には、深い反省があった。17 ギルアデはヨルダンの川向こうにとどまった。ダンはなぜ船に残ったのか。アシェルは海辺に座り、その波止場のそばにとどまっていた。18 ゼブルンは、いのちを賭して死をいとわぬ民。野の高い所にいるナフタリも。19 王たちはやって来て戦った。そのとき、カナンの王たちは戦った。メギドの流れのそばのタアナクで。彼らが銀の分捕り品を取ることはなかった。20 天から、もろもろの星が下って来て戦った。その軌道から離れて、シセラと戦った。21 キション川は彼らを押し流した。昔からの川、キション川が。わがたましいよ、力強く進め。22 そのとき、馬のひづめは地を踏み鳴らし、その荒馬は全力で疾走する。23 【主】の使いは言った。『メロズをのろえ、その住民を激しくのろえ。彼らは【主】の手助けに来ず、勇士たちとともに、【主】の手助けに来なかったからだ。』」

12節では、デボラとバラクが自分たち自身に目をさませと呼びかけています。そして13節以降には、自分たちとともに戦ったイスラエル部族が列挙されています。それはエフライム、ベニヤミン、マキル、マキルというのはマナセの総称です。そしてゼブルンも参戦しました。イッサカルも同じく戦いました。

しかし、ルベンは参戦しませんでした。どうしてでしょうか?彼らは鞍袋の間に座って、羊の群れに笛吹くのを聞いていたからです。この二つの鞍袋とは何を指しているのかは不明です。創世記49章14節には、イッサカルについて「イッサカルはたくましいろばで、彼は二つの鞍袋の間に伏す」とありますが、おそらくそれはマナセの二つの領土に挟まれる形で住むことを表していたのではないかと思われます。そうであれば、このルベンの鞍袋とは、家畜に適した場所のことを意味しているのではないかと思われます。ヨルダン川の東側は家畜に適した場所でした。それゆえ、イスラエルがカナンを占領するために出かけて行こうとした時、マナセの半部族とガド族は行こうとしませんでした。彼らは多くの家畜を有していたので、ぜひともその地を相続したかったからです。ルベン族も同じく、彼らの割り当て地がヨルダン川の東側にありそこが家畜に適した場所だったので、彼らは戦いに行くことを嫌ったのでしょう。

しかし、イスラエルが大勝利を収めたという知らせを聞いて、彼らはひどい良心のとがめを感じました。深く後悔したのです。

それはギルアデも同じでした。17節をご覧ください。ギルアデはヨルダン川東岸のガドやマナセの一部ですが、彼らも参戦しませんでした。どうしでしょうか?同じ理由からでしょう。ダン族については「なぜ船に残ったのか」と言われていますが、彼らは漁の仕事をしていたので戦いに行くのが煩わしいと思ったのでしょう。それはアシェルも同じです。アシュルも「浜辺に座り、その波止場のそばにとどまっていた」と言われています。しかし、ゼブルンとナフタリは、いのちを賭して戦いました。いのちを賭してとは、いのちをかけてという意味です。彼らはいのちをかけて戦いました。この違いは何でしょうか。

パウロは、テモテに対してこのように書き送りました。「みな自分自身のことを求めていて、イエス・キリストのことを求めてはいません。」(ピリピ2:21)」同じ思いは、自分自身のことばかりではなく、キリストを求めるところから生まれます。主に用いられる人は自分の利益よりも他者のことを、神のことを考えるのです。

彼らはどのように戦ったでしょうか。19節からをご覧ください。カナンの王たちは、メギドの泉の近くのタナアクで戦いましたが、勝つこつができませんでした。なぜなら、「天から、もろもろの星が下って来て戦った」からです。この天から下って来たもろもろの星とは天使のことではないかと思われます。聖書には、天使のことを「星」と表現しているところが多くあるからです。ですからこれは、主が何千、何万という天使の軍勢を遣わして、シセラと戦ったということを意味です。また、キション川の逆巻く流れが、彼らを押し流しました。

22節の「馬のひづめは地を踏み鳴らし、その荒馬は全力で疾走する」とは、戦車が使い物にならないということです。敵の戦車が全く使いものにならず、敗走したのです。つまり、イスラエルはこの勝利に精鋭部隊も最新装備もなかったのに勝利したということです。どうやって?神のご介入によってです。神のご介入によってキション川が敵を押し流し、一人の女の手によって敵将シセラが殺されたのです。

23節では、「メロズをのろえ」とあります。メロズの町の位置は不明です。「メロズをのろえ」とあるのは、この町の住民が主の手助けに来なかったからです。ヨーロッパには、この記事についての有名な絵があります。ある安全な山上近くに、メロズの町があり、谷底では神の戦いが行われています。その間、神がイスラエルを助けられますが、メロズの人々はその城壁を頼みに、これをはるかに見下ろしているのです。それはまるで劇場にいるかのように、神の戦いを遊び半分に眺めているようです。彼らはその戦いぶりを愉快そうに語り合い、主のためには指一本動かそうとはしないのです。ですから主の使いは怒り、呪って言われたのです。「メロズを呪え、その住民を激しく呪え」と。

これは何を意味しているのかというと、この世で人々のたましいを救うための戦いに参与するようにということです。傍観者であってはいけないのです。神は、かつてイスラエルの民にそうされたように、私たちがたましいの救いのために戦うように導いておられます。イエスは、「神の国は近づいた」と宣言されたとき、それはまさに神による公の宣戦布告であったのです。その戦いに私たちも招かれているのです。それをただ傍観していてはならないのです。

Ⅲ.ケニ人ヘベルの妻ヤエル(24-31)

その中でも主から大いに祝福されたのはケニ人ヘベルの妻ヤエルです。24~31節までに、彼女に対する祝福が語られています。「24 女の中で最も祝福されるのはヤエル、ケニ人ヘベルの妻。天幕に住む女の中で最も祝福されている。25 シセラが水を求めると、彼女は乳を与え、高価な鉢で凝乳を差し出した。26 ヤエルは杭を手にし、右手に職人の槌をかざしシセラを打って、その頭に打ち込み、こめかみを砕いて刺し貫いた。27 彼女の足もとに彼は膝をつき、倒れ、横たわった。彼女の足もとに彼は膝をつき、倒れた。膝をついた場所で、倒れて滅びた。28 窓から見下ろして、シセラの母は格子窓から見下ろして嘆いた。『なぜ、あれの車が来るのは遅れているのか。なぜ、あれの戦車の動きは鈍いのか。』29 知恵のある女官たちは彼女に答え、彼女も同じことばを繰り返した。30 『彼らは分捕り物を見つけ出し、それを分けているのではありませんか。勇士それぞれには一人か二人の娘を、シセラには染め織物を分捕り物として。分捕り物として、刺?した染め織物を、刺?した染め織物二枚を首に、分捕り物として。』31 このように、【主】よ、あなたの敵がみな滅び、主を愛する者が、力強く昇る太陽のようになりますように。」こうして、国は四十年の間、穏やかであった。」

天幕を作るのは、当時、女性の仕事でした。それで彼女は槌をかざし、シセラのこめかみに杭を打ちつけてヤビンの軍の長であったシセラを殺しました。とはいえ、失敗したら自分のいのちが危ないことは重々知っていたはずです。だから相当恐れがありました。それなのに彼女の行動からはそのような恐れは微塵も感じられません。彼女は主のみこころを確信していたので、信仰によって行動したからです。それで彼女は、主から誉れを受けました。

28~30節までは、シセラの母親の嘆きです。シセラがなかなか戻らないのをどうしているかと心配しているシセラの母を、女たちが励ましているのです。

31節は、デボラの告白の祈りです。「このように、主よ、あなたの敵がみな滅び、主を愛する者が、力強く昇る太陽のようになりますように。」すばらしい励ましです。主を愛する者は、力強く昇太陽のように輝くようにと祈らなければなりません。

このように、イスラエルの民は常に外敵と外圧にさらされていましたが、その中でいつも信仰を持って主の民として戦うように召し出されていました。その召しに信仰を持って応える者もあれば、そうでない者もいたのです。それは今日も同じです。主の招きがあり、それに応じることなくして、主の与えられる勝利を味わうことはできません。主の招きに応じることがなければ主の御業を見ることも信仰それ自体も強くされることもないのです。主を愛し、召しに応答して初めて闇が過ぎ去り、光が力強く輝くことを体験することができます。そのようにしてこそ、イスラエルは四十年間、穏やかであったように、私たちも主の勝利のゆえに、穏やかであることができるのです。

Ⅰヨハネ5章6~13節 「その証しとは」

きょうは、「その証しとは」というタイトルでお話しします。その証とは何でしょうか。11節、その証しとは、神が私たちに永遠のいのちを与えてくださったということ、そして、そのいのちが御子のうちにあるということです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。つまり、イエスが神の子、救い主であるという証しです。いったいそれをどうやって証明することができるでしょうか。それが、今日のテーマです。今日の箇所には「証し」という言葉が何回も出てきます。「証し」というのは法廷用語で、「証言」のことです。つまり、神の御子イエス・キリストについて、いろいろな証言がある、ということです。

 

普通、証言の数が多ければ多いほど、それが真実であるということが確かになります。ですから、旧約聖書の申命記19章15節には、こうあるのです。「いかなる咎でも、いかなる罪でも、すべて人が犯した罪過は、一人の証人によって立証されてはならない。二人の証人の証言、または三人の証人の証言によって、そのことは立証されなければならない。どんな咎でも、どんな罪でも、すべて人が犯した罪は、ひとりの証人によっては立証されない。ふたりの証言、または三人の証言によって、そのことは立証されなければならない。」つまり、何かを立証するためには、一つの証言だけではなく、複数の証言が必要だ、ということです。

そこで、ヨハネは、今日の箇所で、イエス様がまことの救い主であるということを立証するために、複数の証言をもって立証しています。それは何でしょうか。8節には、それは御霊と水と血です、とあります。この三つは一致しています。つまり、三つの証言は、完全に調和のとれた証言であり、また、そのうちの一つでも欠けてはならないということです。いったいこれはどういうことでしょうか。今日は、この神の証言についてご一緒に見ていきたいと思います。

 

Ⅰ.神の証言(6-8)

 

まず6節をご覧ください。ここには、「この方は、水と血によって来られた方、イエス・キリストです。水によるだけではなく、水と血によって来られました。御霊はこのことを証しする方です。御霊は真理だからです。」とあります。ここには、イエスが水と血によって来られた方である、とあります。この水と血は、いったい何を指しているのでしょうか。

 

そこで、まず「水」ですが、イエスが水によって来られたということを理解するために、イエスが公生涯の初めに何をされたのかを思い出していただきたいと思います。イエスは公生涯の初めにヨルダン川に行かれ、バプテスマのヨハネからバプテスマを受けられました。30歳になられた時のことです。

 

いったい、イエス様はなぜバプテスマを受けられたのでしょうか。バプテスマのヨハネが授けていたバプテスマとは罪を悔い改めるためのバプテスマであって、神の御子であられたキリストには全く罪がなかったわけですから、本来ならば、受ける必要などなかったはずです。

 

そのことは、バプテスマのヨハネ自身がよくわかっていました。彼は、以前、ユダヤの宗教指導者たちから「あなたはキリストですか」という質問をされたとき、このように答えていました。

「私は水でバプテスマを授けていますが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。その方は私の後に来られる方で、私にはその方の履物のひもを解く値打ちもありません。」(ヨハネ1:26-27)

そして、その後、実際にイエス様が彼のもとに来られた時、「『私の後に来られる方は、私にまさる方です。私より先におられたからです』と私が言ったのは、この方のことです。」(ヨハネ1:15)と言いました。  ですから、イエス様がバプテスマを受けたいと申し出た時、彼はびっくりしたのです。そして、「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか」と言ったのです。

イエスはバプテスマを受けなければならなかった理由など全くありません。しかし、イエス様は、「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです」と言って、バプテスマを受けられました。

すると、天が開け、神の御霊が鳩のようにイエス様の上に下られました。そして、天から「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」という父なる神の声が聞こえたのです。これは何を表していたのかというと、イエスが神の御子救い主であり、そのイエス様がバプテスマを受けることは神の計画でり、父なる神と聖霊が承認なさったということです。

今日の箇所でイエスが水によって来られたとか、水があかしするとあるのは、この

バプテスマのことを指していたのです。本来ならば、イエスはバプテスマを受ける必要などありませんでしたが、それでもあえて受けられたのはイエスに罪があったからではなく、ご自分が人として来られたことを示すためであり、それが神のみこころであったことを示すためだったのです。

 

それは血についても同じです。この方は水だけでなく、水と血によって来られました。血によって来られたとはどういうことでしょうか?

聖書で「血」が象徴するものといえば、それはもちろん十字架です。イエスは十字架の上で血を流してくださいました。それによって私たちの罪が赦されました。それは、私たちの罪のための、いや、私たちの罪だけでなく、この世全体の罪のためでした。ですから、血によって来られたとか、血があかしするというのは、イエス様が血を流されたあの十字架の出来事を指していたのです。イエス様が十字架で死なれたという事実こそ、彼がキリスト、救い主であるということを証言している、というのです。

 

というのは、ヘブル人の手紙9章22節には、「律法によれば、ほとんどすべてのものは血によってきよめられます。血を流すことがなければ、罪の赦しはありません。」とあるからです。律法によれば、私たちの罪が赦されるためには血が流されなければなりませんでした。旧約聖書の時代には、そのために毎年多くの動物が犠牲となりました。けれども、動物の血は人の罪を完全に贖うことができませんでした。そのためには全く罪のない完全ないけにえが求められました。それがイエス・キリストの十字架での贖いでした。キリストが、ただ一度十字架に架かり、私たちの罪のためのいけにえとして血を流してくださったことによって、私たちのすべての罪が赦されました。私たちは神様の目にきよい者とされたのです。ヘブル9章26節に「しかし今、キリストはただ一度だけ、世々の終わりに、ご自分をいけにえとして罪を取り除くために現れてくださいました。」と書かれているとおりです。

ですから、バプテスマのヨハネは、イエス様を見て、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。」(ヨハネ1:29)と言ったのです。イエス様ご自身が、私たちの罪のためのいけにえの小羊となって、十字架で血を流してくださるからです。

 

すなわち、イエス様が血によって来られたというのは、イエス様が十字架で血を流してくださったことにより、イエス様がまことの救い主であることを証ししているのだ、ということなのです。

 

きょうは、このあとで聖餐式が行われますが、いったい聖餐式は、何のために行うのでしょう。それは、イエス様の十字架の出来事を思い起こし、イエス様こそ罪を赦し救いを成し遂げてくださった救い主であることを覚え、神様の愛と赦しの恵みを味わうためです。  イエス様は、十字架につけられる前、弟子たちとの最後の晩餐の時に、ぶどう酒の杯を手にしてこう言われました。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です」と。イエス様が十字架についてくださることによって私たちは、神様と新しい契約を結ぶことができるようになったのです。イエスを救い主として信じることによって、私たちのすべての罪が赦され、永遠のいのちを受けて、神様と親しい関係の中に入れられるという契約です。つまり、イエス様の十字架こそ、はるか昔から預言されていた神様の救いのご計画を成就するものなのです。

 

先々週、講壇交換のため宇都宮の教会を訪問しました。「礼拝後、求道者クラスがあるので先生も入ってください」と言われたので、2階のお部屋に行ってみると、そこに62歳になる男性とその娘さんがおられました。すると男性の方がこう言われました。「家内が約30年前にクリスチャンになったけど、自分はなぜキリストを信じなければならないのかわからない。」別にキリストでなくてもいいんじゃないかと思っている・・と。

そこで、「せっかくだから聖書を開いてみましょう」と、あのヨハネの福音書3章にあるニコデモの箇所を読みました。ニコデモはとても優秀な人で、真面目に生きて来た人ですが、一つだけどうしても分からないことがありました。それは、どうしたら神の国を見ることができるか、ということでした。どうしたら救われ天国に行くことができるのかということです。

イエス様はそんなニコデモに、「人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言われました。どうしたら新しく生まれることができるのでしょうか?それは決して人間の努力や功績によってではありません。御霊によって生まれなければなりません。それではどうしたら御霊によって生まれることができるのでしょうか?

イエス様は、旧約聖書にある一つの出来事を引用して教えられました。それはかつてイスラエルがエジプトを出て約束の地に向かっていた時のことです。途中荒野でパンもなく、水もなかったとき、イスラエルの民は神とモーセに逆らったので、神様はイスラエルの民の中に燃える蛇を送られました。それで、多くの人がそれにかまれて死んだのです。民はモーセのところに来て悔い改め、主に祈ってくれるように願ったので、モーセが民のために祈ると、神は不思議なことを言われました。それは、「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上に付けよ。かまれた者はみな、それを仰ぎ見れば生きる。」(民数記21:8)ということでした。

それでモーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上に付けました。すると蛇がかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぎ見ると生きたのです。その青銅の蛇とは何でしょうか。それはイエス・キリストの十字架でした。聖書に、「木にかけられた者は呪われた者である」とありますが、イエス様は呪われた者となって木にかけられたのです。それは蛇にかまれたイスラエルの民が救われたように、神に背いたことで神に呪われた私たちを救うためでした。これが神様の救いの方法でした。それは旧約聖書の時代から、神様によって示されていた救いの道だったのです。それゆえ、何でもいいから信じれば救われるというのではなく、救われるためにはこのイエスを信じなければなりません。それが、神様が永遠の昔からこの人類の救いのために用意しておられた計画だったのです。

 

そして、このことをはっきりとあかしするのが、三つ目の聖霊です。6節には、「御霊はこのことを証しする方です。御霊は真理だからです。」とあります。三つのものが証しします。それは御霊と水と血です。この三つは一致しています。ですから、水だけでなく、また水と血だけでなく、御霊も証しします。御霊が証しするとはどういうことでしょうか?

 

ここで7節と8節の訳についてちょっと触れておきたいと思います。新改訳聖書には、「三つのものが証しをします。御霊と水と血です。」とありますが、英語のKing James Versionでは次のように訳しています。

7 For there are three that bear witness in heaven: the Father, the Word, and the Holy Spirit; and these three are one.

8 And there are three that bear witness on earth: the Spirit, the water, and the blood; and these three agree as one.

これを日本語に訳すとどうなるかというと、「7 天において証しをするものが三つある。それは父と、ことばと、聖霊である。そしてこれら三つは一つである。8 地において証しをするものが三つある。それは御霊と水と血である。これら三つは一致している。」

どういうことですか?訳が全然違います。これは写本の違いから生じています。聖書は原本が残っていないため、それを書き写したいくつかの写本から復元しているのですが、新改訳聖書をはじめほとんどの聖書が採用しているのは、バチカン写本やシナイ写本といった聖書校訂本と言われるものであるのに対して、英語の欽定訳(KJV)は、公認本文と呼ばれている写本を採用しています。どうして新改訳聖書は聖書校訂本を用いているのかというと、その写本の方が古いからです。単純に考えれば、古い写本の方がよりオリジナルに近いと考えられるので、聖書校訂本の方がオリジナルに近いものと考えているのですが、果たしてそうでしょうか。

 

新改訳聖書を見る限り、その写本にない文章、もしくは、このヨハネの手紙のように文章が欠けている箇所がいくつかあります。

代表的なのは、マルコの福音書16章9節から終わりまでと、ヨハネの福音書7章53節から8章11節まででしょう。マルコの福音書の16章はマルコの福音書の最後の箇所ですが、ここには有名な、「全世界に出て行って、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えよ。」もあります。しかし、新改訳聖書には本来欠けている内容です。でもないと不自然なので( )して加えてあるのです。

ヨハネの福音書7章53節から8章11節までには、あの姦淫の現場で捕らえられた女の話があります。しかし、新改訳聖書には本来無い内容です。ですから( )して加えてあるのです。

他に、ヨハネの福音書5章4節もそうです。ここには、38年もの長い間病に伏していた人がいやされたことが書かれてありますが、この節がないと、なぜ多くの病人がベテスダの池の周りに伏せていたのかわかりません。しかし、欽定訳にはその理由として4節があるのですが公認本文には無いため、 欄外に4節としての説明が書かれてあるのです。

その他、ローマ8章1節もそうです。しかし、たとえ写本に違いがあっても聖書の重要な教理にはほとんど影響がないことから問題にしてこなかったのですが、このヨハネ第一の手紙5章7節と8節は、大切な三位一体の教理を擁護するものとしてとても重要な箇所です。というのは、父なる神とことばなるキリスト、そして聖霊なる神の三つが一つであると書かれてあるからです。

また、このイエス・キリストが神の御子と証しするものが、天において三つあり、それが父と御子と聖霊であるというのは、完全な証であることを示していることからです。したがって、この箇所の写本をどこから取るかは極めて重要であるよう思います。

 

しかし、新改訳聖書では、イエス・キリストが神の御子であることの地における証しとしての水と血と御霊の三つの証言を取り上げていますので、そのことに焦点を絞ってみていきたいと思います。

 

それで、イエス様について証しするもう一つのもの、御霊について見ていきたいと思います。7節と8節には、「三つのものが証しをします。御霊と水と血です。この三つは一致しています。」とあります。御霊が証しするとはどういうことでしょうか?

ヨハネの福音書15章26節には、「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち、父から出る真理の御霊が来るとき、その方がわたしについて証ししてくださいます。」とあります。ここにははっきりと、真理の御霊が来るとき、その方がわたしについて証ししてくださいます、とあります。その方とはどの方でしょうか?そうです、真理の御霊です。聖霊です。その方が来ると、その方がイエス様について証してくださるのです。

 

その後、イエス様は、十字架につけられ、死んで葬られ、三日目によみがえり、四十日の間多くの弟子たちの前に復活の姿を示されてから、天に昇って行かれました。そして、その十日後に弟子たちの上に、イエス様が約束した、真理の御霊であられる聖霊が下ったのです。あのペンテコステの出来事です。  「使徒の働き」2章にその時の出来事が記されてあります。「五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。」(使徒2:1-4)

 

この出来事をきっかけに、弟子たちの姿は大きく変化していきました。以前は、自分のことしか考えられないばかりか、イエス様の教えを十分に理解することができず、弱く臆病だった彼らが、聖霊を受けてからは、まるで別人に生まれ変わり、確信をもって大胆に、イエス様がまことの救い主であり、よみがえって今も生きておられることを宣べ伝えるようになりました。  このヨハネとマタイは、イエス様の生涯の記録である福音書を書きました。また、パウロをはじめとした多くの弟子たちが、各地にある教会に手紙を書き送りました。その福音書や手紙をまとめたものが新約聖書です。

 

聖霊が弟子たちにイエス様についてあかししてくださったからこそ、福音が全世界に伝わり、私たちも今のような形で聖書を手にすることできるようになったのです。聖書は「イエスは神が人となってこられたまことの救い主だ」ということを告げる書物であり、聖書がこうしてあること自体が、聖霊の働きを証明するものなのです。  また、聖霊は、私たち一人一人にもイエス様が救い主であることをあかししてくださいます。聖霊の助けによって、私たちは、自分が神様から離れた罪人であるということに気付かされ、イエス様を救い主として信じ、神様の愛と恵みを知り、聖書のことばによって養われ、成長していくことができるのです。

 

Ⅱ.人の証しにまさる神の証し(9)

 

第二のことは、この神の証しは人の証しにまさるということです。9節をご覧ください。「私たちが人の証しを受け入れるのであれば、神の証しはそれにまさるものです。御子について証しされたことが、神の証しなのですから。」

ここでヨハネは、もし私たちが人間のあかしを受け入れるなら、神のあかしはそれにまさるものであると、と言っています。御子についてあかしされたことが神のあかしだからです。つまり、「水」と「血」と「聖霊」の三つのあかしは、神様が私たちに示してくださったあかしだというのです。

 

ヨハネの福音書8章18節で、イエス様は次のように言っておられます。「わたしは自分について証しする者です。またわたしを遣わした父が、わたしについて証ししておられます。」ここには、イエス様ご自身と、父なる神様がイエスは救い主であることを証ししているとあります。

また、先ほど見たように、ヨハネの福音書15章26節には、「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち、父から出る真理の御霊が来るとき、その方がわたしについて証ししてくださいます。」(ヨハネ15:26)とあります。すなわち、聖霊もイエス様が救い主であることを証しされるのです。ということは、父なる神、子なる神イエス、聖霊なる神が一致した証言をしておられる、ということです。

これは7節のKJVの訳にも通じますね。三位一体の神がそのことを証ししておられるのです。それは、人間の証しにまさる完全な証しです。神様は、ご自分の中に完全な証を持っておられ、その証しは人間の証言いかんによって変わってしまうようなものではありません。人間の考えや感情に左右されることもありません。永遠に変わらないものなのです。

 

私たちはイエス様を救い主と信じていますが、時々、自分が落ち込んだり、悩んだり、問題に直面しますと、信じていることに疑問を持ったり、聖書の約束が変わってしまうかのような錯覚を持つことがありますが、しかし、神様ご自身の証しがあるのですから、イエス様がまことの救い主であり、私たちの罪を赦し、世の終わりまでいつまでも共にいてくださるということは決して変わりません。私たちの信仰の在り方で、神様の計画が変わるというようなことはないからです。

 

聖書に書かれている通り、神様は、「水」と「血」と「聖霊」によってイエス様が救い主であることを証ししておられます。その証しにどのように応答するかによって、おのずと結果も決まってきます。

 

Ⅲ.神の御子を信じる者(10-13)

 

ですから、第三のことは、その証を受け入れる者は永遠のいのちを持つということです。これが、ヨハネが伝えたかったことです。10節から12節までをご覧ください。10節には、「神の御子を信じる者は、その証しを自分のうちに持っています。神を信じない者は、神を偽り者としています。神が御子について証しされた証言を信じていないからです。」とあります。

 

神の御子を信じる者は、その証しを自分のうちに持っており、神を信じない者は、神を偽り者としています。神が御子について証しされた証言を信じていないからです。

その証とは何でしょうか。その証しとは、神が私たちに永遠のいのちを与えてくださったということ、そして、そのいのちが御子のうちにあるということです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。

 

あなたは、神の証を受け入れて、その証しに基づいてイエスを救い主として信じているでしょうか。それとも、神の証しを信じないで、神を偽り者としているでしょうか。どちらにするのかは、あなたの選択にかかっています。信じない者にならないで、信じる者になってください。なぜなら、神の証しは、人の証しよりもはるかにまさる確かなものだからです。この証しは信頼に値するものなのです。

 

イエス様は、ご自分が復活した後で復活を疑っていたトマスにこう言われました。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」(ヨハネ20:29)信じない者にならないで、信じる者になりましょう。信じて、永遠のいのちを持つ者となりましょう。それが、ヨハネがこの手紙を書いた目的だったのです。

私たちは、イエス様がまことの救い主であることを示す神の確かな証を持っているのですから、この神の証しに信頼し、イエス様の十字架によって罪赦され、神様のいのちが与えられているということを確信して、日々信仰に歩みましょう。

 

Ⅰヨハネ5章1~5節 「信仰は勝利」

ヨハネの手紙第一から学んでおります。きょうは最後の5章の最初の部分から「信仰は勝利」という題でお話ししたいと思います。ヨハネの手紙を読んでいくと、大切な信仰の告白が二つ出てくるのがわかります。一つはイエスが神の御子であり、救い主であるということ(2:22、3:23)、もう一つは、そのイエスが人となって来られた(4:2)ということです。

 

ヨハネがこの手紙を書き記した当時、偽りの教師たちがいて、このイエス様に対する信仰の告白を真っ向から否定しました。しかし、もしこの告白を否定するなら信仰の土台が破壊されることになり、教会はいのちを失ってしまうことになります。そして、クリスチャン一人一人の信仰も揺らいでしまいます。

 

イエス様はピリポ・カイザリヤの地方に行かれた時、弟子たちに、「人々は人の子をだれだと言っているか」と尋ねました。すると弟子たちは、「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もいます。また、ほかの人たちはエレミヤだとか、預言者のひとりだとか言っています。」と答えると、イエス様は弟子たちに、「ではあなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」と質問しました。

すると、ペテロは「あなたは、生ける神の子キリストです」と答えました。すると、イエス様はペテロにこう言いました。とても重要なことばです。

「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれには打ち勝つことはできません。」(マタイ16:17-18)

 

イエス様は、「この岩の上に、わたしの教会を建てます」と言われました。この「岩」とは何でしょうか。この「岩」とはペテロのことではなく、ペテロが発した信仰の告白のことです。ペテロが告白した信仰の内容とは、「人の子として来てくださったイエス様は生ける神の御子であり、救い主です」という告白でした。この告白の上に教会を建てると言われたのです。そして、この告白の上に建てられた教会は、よみの門も打ち勝つことができないほど揺るぎないものなのだ、と宣言されたのです。

ですから、このイエス様に対する信仰の告白は非常に重要です。きょうはこの信仰による勝利についてご一緒に学びたいと思います。

 

Ⅰ.神から生まれた者(1)

 

まず第一に、イエスがキリストであると信じる者はみな、神から生まれた者であるというヨハネのことばを見たいと思います。1節をご覧ください。

「イエスがキリストであると信じる者はみな、神から生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はみな、その方から生まれた者も愛します。」

 

イエスがキリストであると信じる者とはだれのことでしょうか。そうです、それは私たちクリスチャンのことです。クリスチャンはみな神から生まれました。それは血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってではなく、ただ、神によって生まれたのです。

 

ヨハネの福音書3章に、ニコデモという人の話があります。ニコデモは、厳格なユダヤ教徒でユダヤ人の指導者でした。サンヘドリンと呼ばれていたユダヤの最高議会のメンバーであり、教師でした。そんな彼がある夜、人目を避けて、こっそりとイエス様のもとにやって来ました。なぜなら、彼にはどうしてもわからないことがあったからです。それは、どうしたら神の国を見ることができるかということでした。彼は、旧約聖書の教えにも精通しており、自分の出来る範囲で模範的な生活を送っていましたが、どうしてもそのことがわからりませんでした。。そこで、思い切ってイエス様のもとにやって来たのです。  イエス様は、そんなニコデモにはっきりと言われました。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ3:3)  しかし、ニコデモは、この「新しく生まれる」ということがどういうことなのか理解できませんでした。そして、「自分のような年寄りが、どうやって新しく生まれることができると言うのですか。もう一度、母の胎内に戻って生まれ直すということですか。」と答えました。  でも、イエス様が言われた「新しく生まれる」というのは、肉体が生まれ変わるということではありまません。この「新しく生まれる」という言葉は、「上から生まれる」とも訳すことができますが、「上から生まれる」とは、神様によって人の内側、つまり霊の部分が新しく生まれることを意味していました。人は神の命令に背いたことで罪を犯したことで心の奥底にある霊の部分が神様から離れて死んでしまったので、その霊が神様のいのちを受けて新しく生まれる必要があるというのです。それは、人の努力や頑張りによって出来ることではありません。神様の力が必要です。「救いとは上から差し伸ばされた手である」と言った方がいますが、神様が上から差し伸ばしてくださった手によって、人は新しく生まれ、神様との関係を回復することができるのです。  イエス様は、ニコデモに言われました。「だれも天に上った者はいません。しかし、天から下った者、人の子は別です。モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」(ヨハネ3:13-15)これはどういうことかというと、天から下って人となってくださったイエス様が、これから人々の救いのために十字架にかかってくださるので、そのイエス様を信じるならば、永遠のいのちを持ち、新しく生まれて神の国に属する者になれる、ということです。  つまり、イエス様は、ニコデモに「あなたは立派な生活をしてきたが、それによって神の国に入ることはできない。わたしを信じて神様から永遠のいのちを受け取ることによって、新しく生まれるのだ」と言われたわけです。  それは赤ちゃんが生まれるときのようです。赤ちゃんは自分の力や努力によって生まれてくるわけではありません。それと同じように、私たちも自分の努力や頑張りによってではなく、ただ神様によって新しく生まれることができるのです。

 

ですから、私たちの努力や功績は、救いとはまったく関係ありません。もし、人間の努力や功績などで救いを得ることができるなら、その救いは限られた一部の人たちだけのものとなるでしょう。それに、人の力で獲得できる程度の救いは、相当安っぽいものです。しかし、神様が与えてくださる救いは、神様のひとり子イエス・キリストのいのちと引き替えにしたほどに高価で尊いものです。あまりにも高価なので私たちが代価を支払うことなど到底できません。その高価な贈り物を神様は私たちに無償で差し出してくださいました。神様は、それほどまでに私たちを愛してくださったのです。

 

私たちは、その差し出された贈り物に対してどういう態度を取ったらいいのでしょうか。その贈り物に対して、ただ「ありがとうございます」と感謝して受け取ることを神様は願っておられます。それが神から生まれた者です。「イエスがキリストであると信じる者はみな、神から生まれたのです」、つまり、イエス様がキリストであると信じるだけで、神によって生まれることができるのです。それが福音の素晴らしさです。

 

そして、そのように神から生まれた者は、同じように神から生まれた者を愛します。1節の後半をご覧ください。ここには、「生んでくださった方を愛する者はみな、その方から生まれた者を愛します。」とあります。

「生んでくださった方」とはもちろん神のことです。そして「その方から生まれた者」とはクリスチャンのことを指しています。この「その方から生まれた者」という言葉が単数形であることから、ある人たちは、これはイエス様のことを指しているのではないかと考えていますが、前後の文脈から考えると、これは神から生まれた者たち、すなわち、クリスチャンのことであると言えます。神から生まれた者は自分を生んでくださった方を愛し、またその方から生まれた者をも愛するようになるのです。父親を愛する者が、その子どもである兄弟姉妹を愛するのは当然のことです。この人間の社会に見られる原則は、霊的な世界においても「然り」であると言うことが言えるのです。

 

Ⅱ.神の命令は重荷とはならない(2-3)

 

では、どのようにしたら兄弟を愛することができるのでしょうか。次に2節と3節をご覧ください。ここには、「このことから分かるように、神を愛し、その命令を守るときはいつでも、私たちは神の子どもたちを愛するのです。「神の命令を守ること、それが神を愛することです。神の命令は重荷とはなりません。」とあります。神を愛することと、神の命令を守ることは切り離すことができません。というのは、神を愛することは、神の命令を守ることだからです。

 

イエス様はヨハネの福音書15章9節~12節でこう言われました。

「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。わたしがわたしの父の戒めを守って、父の愛にとどまっているのと同じように、あなたがたもわたしの戒めを守るなら、わたしの愛にとどまっているのです。わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたが喜びで満ちあふれるようになるために、わたしはこれらのことをあなたがたに話しました。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」

「あなたがたもわたしの戒めを守るなら、わたしの愛にとどまっているのです。」とあるように、神を愛するとは、神の戒めにとどまることであり、神の戒めを守ることなのです。その神の戒めとは何でしょうか。それは互いに愛し合うことです。

 

このように、クリスチャンが互いに愛し合うというのは、クリスチャンが神を愛し、その命令を守ることの表れであって、単なる人間的な感情によるものではないということがわかります。このことをよく理解していないと、教会の中でもこの世の一般社会と同じような人間的な親しさや、家族的な甘え、気心の知れた人々との楽しいおしゃべり、傷のなめ合いといった閉鎖的なものになってしまいます。しかし、聖書が言っているクリスチャン同士の愛とは、いつでも神を愛しその命令を守るという神を中心としたものがその土台にあるということを忘れてはなりません。このことが土台になって初めて本物の愛となるのです。

 

ですから、3節にはこうあるのです。「神の命令を守ること、それが神を愛することです。神の命令は重荷とはなりません。」神の命令を守ること、それが神を愛することです。

神の命令とは何でしょうか。それは、私たちが互いに愛し合うことです。3章23節にそのことがはっきりと語られています。「私たちが御子イエス・キリストの名を信じ、キリストが命じられたとおりに互いに愛し合うこと、それが神の命令です。」これが神の命令です。

神の命令とは、私たちがイエス・キリストの名を信じて、キリストが命じられたとおりに互いに愛し合うことです。神を愛すると言いながら兄弟を憎むということはありません。もしそういうことがあるとしたら、その人は偽り者となってしまいます。なぜなら、兄弟を愛することが神の命令だからです。それなのに、兄弟を愛さないとしたら、神を愛していないし、神の命令をも守っていないことになります。

 

神を愛する者は、その命令に喜んで聞き従います。それは重荷とはなりません。「しょうがないな、やりたくないし、面倒くさいけど、命令だからやらなければならなくちゃいけない」とか、「悪いのは相手であって相手が折れるべきであって、自分から頭を下げるなんてもってのほかだ」というのではなく、喜んでその命令に従うのです。

 

それはちょうど結婚したばかりの夫婦のようです。結婚したばかりの夫婦はそうでしょう。お互いに喜んで従ったはずです。「こうしてほしい」と言われたら、「はい、わかりました。喜んでやりますよ」と言っていたのに、あれから40年、あの新婚当初のフレッシュな気持ちはどこかへ行ってしまったのでしょうか。「自分でやってよ」となってしまいました。「自分のことは自分でやって、人に迷惑かけないでほしい・・・」とかと言うようになってしまいました。

 

しかし、神を愛するなら、神の命令は重荷とはなりません。この「重荷」と訳された言葉は「重い」という言葉から出たもので、「難しい、実行困難」という意味です。「御子イエス・キリストの御名を信じ、互いに愛し合いなさい」という神様の命令は、重くありません。難しくないし、実行できないことではありません。なぜなら、まずイエス様が私を愛してくださったからです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わしてくださいました。ここに愛があるのです。この愛を知りました。だから私たちは互いに愛し合うことができるのです。

 

もちろん、まだ完全にされているわけではありませんから、愛せないと思うこともあるでしょう。苦手だという人もいるかもしれません。しかし、イエス様のように愛せる者へと変えられているのです。私たちの内に住む聖霊がその愛を育ててくださっています。その御業に期待したいと思います。そして、今、自分にできる範囲で愛を示していこうではありませんか。人と比べて自分をさばいたり、他人をさばいたりする必要はありません。人に見せるために何かをするわけでもありません。ただ自分に関わりのある人々の最善を願い、自分なりの方法で神様の愛に応えていくのです。ですから、互いに愛することは、決して実行困難ではないのです。神の命令は重荷とはならないのです。

 

Ⅲ.世に勝つ者(4-5)

 

どうしたら神の命令は重荷とはならないのでしょうか?4節と5節にもう一つの理由が記されてあります。

「神から生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」

 

神の命令を守ることが重荷とならないもう一つの理由は、神から生まれた者は世に勝つからです。世とは何でしょうか。ここにある「世」とは神に反抗する、いっさいのこの世の勢力のことです。あるいは、イエス・キリストを否定する偽りの教師たちとその教えのことであるとも言えます。また、「世」には、「神様抜きの秩序」という意味がありますから、私たちを神様から引き離そうとする様々な働きを指しているといってもいいでしょう。この世はあらゆる面からクリスチャンを攻撃してきます。それは強大であり、強力ですから、そうしたこの世の様々な攻撃に翻弄されたり、不安や心配に悩まされることもあります。しかし、この世の力がどんなに強くても、神から生まれた者はみな、世に打ち勝つのです。それは私たちに力があるからではありません。そうではなく、イエスをキリストと信じる者には、神の聖霊が与えられているからです。聖霊が与えられているということは、父なる神様、子なるイエス様も共にいてくださるということです。それは、「わたしはあなたを離れず決してあなたを捨てない」という約束の成就でもあります。神様がいつも私たちと共にいてくださるので、私たちは、この神の力によって勝利することができるのです。

 

このことをパウロはローマ人への手紙8章37~-39節のところで、このように言っています。「しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」

私たちを神様の愛から引き離そうとするいろいろな力が襲ってきます。しかし、私たちは私たちを愛してくださる神様によって、これらすべてのものの中にあっても圧倒的な勝利者となるのです。

 

今、山中さんが闘病中にありますが、皆さんで寄せ書きをすることになりました。私たちの祈りを何らかの形らしたいということで、色紙を用意しました。その真中には先生が書いてくださいとハートの形のシールを渡されたので、何を書こうかと考えましたが、自分の言葉よりも聖書の言葉の方が励ましになると思い、この言葉が与えられました。「しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。」

山中さんは決してひとりではありません。主がともにいてくださいます。これほど力強い約束はないでしょう。

それは山中さんだけではありません。私たちクリスチャンのすべて、イエスがキリストであると信じる者、神によって生まれた者はみな、同じ約束が与えられているのです。

 

この信仰こそ勝利のかぎです。この信仰が私たちをキリストに結びつけ、キリストから勝利する力を受け取らせてくれます。イエス様が十字架でその勝利を獲得してくださいました。私たちはこのイエスこそ神の御子、救い主と信じる信仰によってイエス様に結びついて一つとなり、この世に勝利することができるのです。

 

私たちには日々戦いがあります。私たちの内には肉の思いや欲との戦いがあり、外にはこの世で生きる上での思い煩いや不安、恐れ、プレッシャー、また病気との戦いなど、実に多くの戦いがあります。しかし、イエス様がすでに勝利してくださいました。私たちはこのイエスを神の御子、キリスト(救い主)と告白することによって、そうした戦いに勝利することができるのです。

 

イエス様はこう言われました。「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」(ヨハネ16:33)

 

皆さん、イエス様はすでに世に勝利されました。このイエス様があなたとともにおられます。あなたがこのイエスをキリストであると信じることによって、イエスを神の御子と信じることによって、あなたも勝利者となるのです。だったらどうして下ばかり見ているのでしょうか。どうしてまるで敗残兵のように落ち込んでいるのでしょうか。あなたは神から生まれた者です。だったらあなたは世に勝つことができるのです。イエスを神の御子と信じる者に敗北者は一人もいません。イエスをキリストと信じる信仰によって、イエスを神の御子と信じる信仰によって、本当に弱い私たちですが、イエス様によって勝利することができるのです。イエスがキリストであると告白して、それぞれの置かれたところで力強く歩ませていただきましょう。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利なのです。

士師記4章

士師記4章を学びます。まず1節から9節までをご覧ください。まず1節から5節までをお読みします。

Ⅰ.女預言者デボラ(1-5)

1 イスラエルの子らは、主の目に悪であることを重ねて行った。エフデは死んでいた。2 主は、ハツォルを治めていたカナンの王ヤビンの手に彼らを売り渡された。ヤビンの軍の長はシセラで、ハロシェテ・ハ・ゴイムに住んでいた。3 すると、イスラエルの子らは主に叫び求めた。ヤビンには鉄の戦車が九百台あり、そのうえ二十年の間、イスラエルの子らをひどく圧迫したからである。4 ラピドテの妻で女預言者のデボラが、そのころイスラエルをさばいていた。5 彼女は、エフライムの山地のラマとベテルの間にあるデボラのなつめ椰子の木の下に座し、イスラエルの子らは、さばきを求めて彼女のところに上って来た。

前回3章で、三人の士師たちについて学びました。オテニエル、エフタ、シャムガルです。この三人にはそれぞれ特徴がありました。オテニエルは勇士で、主の霊が彼の上に臨み、力強い戦いをしたので、彼はアラムの王クシャン・リシュアタイムを抑え、40年間イスラエルを穏やかに治めました。

そしてエフタは左利きであることが強調されていました。彼はそうした人と異なる点を有効に用いてモアブの王エグロンを打ち破り、イスラエルに平穏をもたらしました。

それからもう一人はシャムガルです。彼は牛を追う棒でペリシテ人六百人を撃ち殺しました。牛を追う棒とは、牛が畑を耕しているときに余計な動作をしないように突いて正すための棒でしたね。そうです、シャムガルは普段農作業をしていた普通の人でしたが、主はそのような人をも用いられたのです。

今回の箇所にはデボラという人が登場します。この人の特徴は何かというと、女性であったということです。主はイスラエルの解放のために女性も用いられました。

1節を見ると、イスラエルの子らは、主の目の前に悪であることを重ねて行ったとあります。エフデは死んでいました。エフデは自分に与えられた利点を用いてモアブの王エグロンを打ち破り、八十年もの間イスラエルに平和をもたらしましたが、そのエフタが死ぬとイスラエルはおのおの自分勝手なことをして、主の目の前に悪を行うようになったのです。

すると主は、ハツォルを治めていたカナンの王ヤビンの手にイスラエルを売り渡されました。ヤビンの軍の長はシセラという人でしたが、彼はイスラエルの子らをひどく圧迫しました。ヤビンには鉄の戦車が九百台もあったので、イスラエルは彼らの前に何の成す術もなかったのです。それでイスラエルはどうしたかというと、主に叫び求めました。人は苦しくなると主に叫び求めるようになります。そうでないと主を振り向くこともしないのに、しかし苦しくなると主に助けを求めて叫ぶようになるのです。イエス様は、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」(マタイ5:3)と言われましたが、まさに心が貧しくされるような時、人は神に救いを求めやすくなるのです。そういう意味では、イスラエルが敵に圧迫されるという経験は、彼らが主に向くチャンスの時でもあったと言えます。

すると主はひとりの士師を彼らのもとに送りました。誰ですか?デボラです。4節を見ると、「ラピトデの妻で女預言者デボラが、そのころイスラエルをさばいていた。」とあります。彼女は、エフライムの山地のラマとベテルの間にあるなつめ椰子の木の下に座しており、イスラエルの子らは、さばきを求めて彼女のところに上って来ていたのです。デボラの特徴は何かというと、女性であったということです。女預言者です。このように聖書にはしばしば女預言者が登場します。たとえば、モーセの姉ミリヤム(出エジプト15:20)は預言者でした。また、Ⅱ列王記22章14節には、女預言者でフルダという人が登場しています。彼女は、ヨシヤが南ユダの王であったとき、預言を行なっていました。そしてイエス様がお生まれになったとき、エルサレムにはアンナという女預言者がいました(ルカ2:36)。それから使徒の働き21章10節には、伝道者ピリポには四人の娘がいたことが記されてありますが、彼女たちは預言をしていました。そしてコリント第一11章6節には、女が預言をしたり祈るとき、と書かれてあります。

このように女性も神のみことばを語るために用いられていたことがわかります。ですから、女性はいっさい神のみことばを教えてはならないというのは誤った教えです。女性も主の働きに用いられるのです。しかしながら、聖書にはそこには神の秩序があることが教えられています。1コリント11章3節から11節までを開いてください。

3 しかし、あなたがたに次のことを知ってほしいのです。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。4 男はだれでも祈りや預言をするとき、頭をおおっていたら、自分の頭を辱めることになります。5 しかし、女はだれでも祈りや預言をするとき、頭にかぶり物を着けていなかったら、自分の頭を辱めることになります。それは頭を剃っているのと全く同じことなのです。6 女は、かぶり物を着けないのなら、髪も切ってしまいなさい。髪を切り、頭を剃ることが女として恥ずかしいことなら、かぶり物を着けなさい。7 男は神のかたちであり、神の栄光の現れなので、頭にかぶり物を着けるべきではありません。一方、女は男の栄光の現れです。8 男が女から出たのではなく、女が男から出たからです。9 また、男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたからです。10 それゆえ、女は御使いたちのため、頭に権威のしるしをかぶるべきです。11 とはいえ、主にあっては、女は男なしにあるものではなく、男も女なしにあるものではありません。

ここには、すべての女のかしらは男であり、男のかしらはキリストであり、キリストのかしらは神です、とあります。これが神の秩序です。男性が女性よりも偉いとか、能力があるということではありません。多くの場合男性よりも女性の方が能力が高い場合があります。特に霊的な面においてはそうです。しかしだからといって女性が勝手に預言してもよいのかというとそうではなく、そこには男性の権威があるということをわきまえなければなりません。このことが女預言者デボラにも見られます。彼女はバラクが戦いに出るように彼を励ましていることがわかります。そのために用いられているのです。自分がかしらとなるのではなく、そのかしらを手助けする働きに徹しているのです。彼女はどのようにバラクを励ましたでしょうか。6節から9節までをご覧ください。

6 あるとき、デボラは人を遣わして、ナフタリのケデシュからアビノアムの子バラクを呼び寄せ、彼に言った。「イスラエルの神、主はこう命じられたではありませんか。『行って、タボル山に陣を敷け。ナフタリ族とゼブルン族の中から一万人を取れ。7 わたしはヤビンの軍の長シセラとその戦車と大軍を、キション川のあなたのところに引き寄せ、彼をあなたの手に渡す』と。」8 バラクは彼女に言った。「もしあなたが私と一緒に行ってくださるなら、行きましょう。しかし、もしあなたが私と一緒に行ってくださらないなら、行きません。」9 そこでデボラは言った。「私は必ずあなたと一緒に行きます。ただし、あなたが行こうとしている道では、あなたに誉れは与えられません主は女の手にシセラを売り渡されるからです。」こうして、デボラは立ってバラクと一緒にケデシュへ行った。

デボラは人を遣わしてバラクを呼び寄せると、彼に、「イスラエルの神、主はこう命じられたではありませんか。『行って、タボル山に陣を敷け。ナフタリ族とゼブルン族の中から一万人を取れ。 わたしはヤビンの軍の長シセラとその戦車と大軍を、キション川のあなたのところに引き寄せ、彼をあなたの手に渡す』と。」と言いました。ここでデボラは、「主はこう仰せられる」と言わず、「命じられたではありませんか」とバラクに念を押しています。なぜなら、おそらくバラクにも同じような主のことばがあったからです。しかし、バラクはなかなかその重い腰をあげませんでした。そこでデボラは「主はこう命じられたではありませんか」と言って彼を励まし、それを行なうようにと勧めているのです。これは女性ならではのいい方ではないでしょうか。男性だったら、「ダメじゃないか。主はこう言っておられるのにどうしてやらないんだ」と言うでしょう。そうするとそれを受けた人はもうやる気を失せてしまいます。しかし、デボラのように「こう言われたではありませんか」と優しく念を押した上で、だからこうするようにと主はお語りになっておられますよ、と言われると、「そうか、じゃ行くとしようか」となります。

8節を見ると案の定バラクは彼女にこう言っています。「もしあなたが私と一緒に行ってくださるなら、行きましょう。しかし、もしあなたが私と一緒に行ってくださらないなら、行きません。」デボラが一緒に行ってくれるのなら大丈夫だという確信を得ているのです。それほどデボラに励まされているのです。言い換えるなら、バラクはデボラの手のひらの上で転がされていたのです。デボラは男性の扱いをよく心得ていたのですね。

そのようにせがむバラクに対してデボラは、「私は必ずあなたと一緒に行きます。」と約束しました。「ただし、あなたが行こうとしている道では、あなたに誉れは与えられません。」どういうことでしょうか。

確かにバラクはデボラに励まされて戦いに出て行きますが、彼が信頼していたのは主ではなくデボラであったということです。ですからここで一つの条件を付けているのです。「もしあなたが私と一緒に行ってくださるなら、行きましょう。」主が彼に求めていたことはこうした条件を付けることではなく、絶対的に従うことでした。神の国とその義とをまず第一に求めなければなりません。そうすれば、それに加えて、すべてのものは備えられるからです。それなのに彼は神ではなくデボラを求めました。それゆえに、彼は誉れを受けることはできなかったのです。

私たちも神さまに呼ばれるとき、必要な物や必要な人がいます。けれども、その必要が満たされなければ神の命令に従わないというのは神のみこころではありません。主が私たちを呼ばれるとき、無条件で従うことが求められます。必要な物がなくても、必要な人がいなくても、主が「こうしたなさい」と言われるのなら、無条件でそれに従っていかなければならないのです。そうすれば、それに加えてすべてのものが備えられるのです。

Ⅱ.主の御業(10-16)

その結果どうなったでしょうか。次に、10節から16節までをご覧ください。

10 バラクはゼブルンとナフタリをケデシュに呼び集め、一万人を引き連れて上った。デボラも彼と一緒に上った。11 ケニ人ヘベルは、モーセのしゅうとホバブの子孫のケニ人たちから離れて、ケデシュに近いツァアナニムの樫の木のそばで天幕を張っていた。12 一方シセラに、アビノアムの子バラクがタボル山に登ったと知らされた。13 シセラは自分の戦車すべて、すなわち鉄の戦車九百台と、彼と一緒にいた兵をみな、ハロシェテ・ハ・ゴイムからキション川に呼び集めた。14 デボラはバラクに言った。「立ち上がりなさい。今日、主があなたの手にシセラを渡される。主があなたに先立って出て行かれるではありませんか。」そこで、バラクはタボル山から下り、一万人が彼の後に従った。15 主は、シセラとそのすべての戦車とすべての陣営の者を、剣の刃をもってバラクの前で混乱させられた。シセラは戦車から飛び降り、自らの足で逃げた。16 それでバラクは、戦車と陣営をハロシェテ・ハ・ゴイムまで追いつめた。こうして、シセラの陣営の者はみな剣の刃に倒れ、残された者は一人もいなかった。

バラクはゼブルンとナフタリをケデシュに呼び集め、一万人を引き連れて上って行きました。もちろん、デボラも一緒です。するとシセラは自分の戦車のすべて、すなわちあの鉄の戦車九百台と、彼と一緒にいた兵をキション川に呼び集めました。

するとデボラはバラクに言いました。「立ち上がりなさい。今日、主があなたの手にシセラを渡される。主があなたに先立って出て行かれるではありませんか。」ここでも彼女は、「主があなたに先立って出て行かれるではありませんか」と言って主のみことばを語って励ましています。本当に励ましの人です。

それで、バラクはタボル山から下り、一万人の兵とともに出て行くと、何と主がシセラとそのすべての戦車とすべての陣営の者を混乱させたので、敵はみな剣の刃に倒れ、残された兵は一人もいませんでした。シセラも戦車から飛び降り、自らの足で逃げ去りました。

強大な戦力であったはずの戦車がかえって戦いの邪魔になってしまいました。主が混乱させたからです。主はその強さを逆に弱さにされました。逆に、主は弱さを強さに変えてくださいます。私たちは時々不利な状況を見て戦うことができないと思うことがありますが、主はそれを強さに変えてくださいます。こんな田舎で伝道してどれだけのことができるかわかりません。しかし、主はそれを利点に変えてくださいます。主がともにいてくださるなら、どのような状況も最善なのです。主は宣教のことばの愚かさを通して、そこから救われる人を起こしてくださるからです。

Ⅲ.ヤエルの鉄の杭(17-24)

最後にその結末を見たいと思います。17節から24節までをご覧ください。

17 しかし、シセラは自らの足でケニ人ヘベルの妻ヤエルの天幕に逃げた。ハツォルの王ヤビンとケニ人ヘベルの家は友好関係にあったからである。18 ヤエルはシセラを迎えに出て来て、彼に言った。「お立ち寄りください、ご主人様。私のところにお立ち寄りください。ご心配には及びません。」シセラが彼女の天幕に入ったので、ヤエルは彼を布でおおった。19 シセラはヤエルに言った。「どうか、水を少し飲ませてくれ。喉が渇いているから。」ヤエルは乳の皮袋を開けて彼に飲ませ、また彼をおおった。20 シセラはまた彼女に言った。「天幕の入り口に立っていてくれ。もしだれかが来て、ここにだれかいないかと尋ねたら、いないと言うように。」21 だが、ヘベルの妻ヤエルは天幕の杭を取ると、槌を手にしてそっと彼に近づき、そのこめかみに杭を打ち込んで地に突き刺した。彼は疲れて熟睡していたのである。こうして彼は死んだ。22 ちょうどそのとき、バラクがシセラを追って来たので、ヤエルは彼を迎えに出て言った。「おいでください。あなたが捜している人をお見せしましょう。」彼がヤエルのところに行くと、なんと、シセラが倒れて死んでおり、そのこめかみには杭が刺さっていた。23 こうして神は、その日、イスラエル人の前でカナンの王ヤビンを屈服させた。24 イスラエル人の勢力は、カナンの王ヤビンに対してますます強くなり、ついにカナンの王ヤビンを滅ぼすに至った。

シセラの兵はみな剣の刃に倒れ、残された者は一人もいませんでしたが、シセラだけは戦車から飛び降りて、自らの足で逃げました。彼が逃げたのはケニ人ヘベルの妻ヤエルの天幕でした。

ケニ人というのは11節にあるようにモーセの義兄弟の子孫です。モーセはエジプトを逃れてミデアンの荒野へ行き、そこでチッポラ(ツィポラ)という女性と結婚しました。その兄弟がホパブです。そしてその子孫がケニ人です。ヘベルは、ケニ人から離れて、ケデシュに近いツァフアニムの樫の木のそばで天幕を張っていたのですが、シセラはそこへ逃げ込んだのです。それはハツォルの王ヤビンとケニ人ヘベルの家は友好関係にあったからです。シセラがヤエルの家に逃れると、彼を布でおおい、水を飲ませました。そして彼がヤエルに「天幕に立ってくれ・・」と言うと、彼女は天幕の杭を取って、彼のこみかめに打ち込み、地に突き刺しました。彼は疲れて熟睡していたのです。こうしてシセラは死にました。こうして神は、その日、イスラエル人の前でカナンの王ヤビンを屈服させました。

こうしてデボラの言ったあの預言が成就しました。つまり、「あなたに誉れは与えられません。主は女の手にシセラを売り渡されるからです。」とバラクに言ったあの預言です。カナンの王ヤビンの将軍シセラと戦ったのはバラクでしたが、誉れを受けたのはヘベルの妻ヤエルでした。彼女は天幕の杭でシセラを地に突き刺しました。当時天幕を張るのは女性の仕事でした。ですから鉄の杭も槌(つち)もいつも使っているものだったのです。シャムガルと同じですね、普段使っているもので戦っています。台所で調理しているような普通の主婦が、あの強靭なシセラを倒すために用いられたのです。このように神はご自身の働きのために女預言者デボラばかりでなく普通の主婦も用いられました。か細い女性であっても主の御手の中にあることによって、主はご自身のために用いてくださるとのです。そのことを覚えて、私たちもいつもへりくだって主に主に仕えて行きたいと思います。