ヨハネの福音書11章17~27節 「わたしはよみがえりです いのちです」

きょうは、「わたしはよみがえりです いのちです」というタイトルでお話します。ヨハネの福音書には「わたしは・・である」という宣言が7回出てきますが、これはその中の5番目のものです。また、ヨハネの福音書にはイエスが神から遣わされたメシアであることを示すしるしがやはり7回出てきますが、このラザロを生き返らせるという奇跡は、その7番目のものであり、最大のものです。というのは、それはただラザロを生き返らせるというだけでなく、このことを通して主はご自身がよみがえりであり、いのちであることを示してくださったからです。ラザロは生き返りましたが、また死にました。しかし、キリストは再び死ぬことのないからだ、霊のからだによみがえられました。それはこの方を信じる者がみな、イエスのように死んでも霊のからだによみがえり、永遠のいのちが与えられるという聖書の約束が真実であることを示すためだったのです。よみがえりであり、いのちであるイエス・キリストを信じる者は、死んでも生きます。また、生きていてこの方を信じる人は、永遠に決して死ぬことはありません。私たちにはこのことを信じなければなりません。

 

私たちの人生には、ある日突然、予想だにしなかったことが起こります。先週の台風19号はそうでしょう。まさかあんなに大きな災害をもたらすなんて思いませんでした。それは災害だけでなく病気もそうですし、事件、事故などもそうです。中にはそうしたことで死ぬことさえあります。そんなことが起こるとき、私たちは「どうしてこんなことが起こるの?」と思ってしまいます。しかし、それがどんなことであっても、私たちはそれを乗り越えることができます。なぜなら、イエスはよみがえりであり、いのちであり、そのイエスが私たちともにいてそうした問題を乗り越える力を与えてくださるからです。

 

きょうは、このイエス様の御言葉から三つのことをお話しします。第一のことは、私たちの信じているイエスがどのような方であるのかを正しく理解しましょう、ということです。第二のことは、イエス様はよみがえりです。いのちです。イエス様を信じる者は死んでも生きる、ということです。そして第三のことは、あなたは、このことを信じますか、ということです。信じない者にならないで、信じる者になりましょう。

 

Ⅰ.もしここにいてくださったなら(17-22)

 

まず、17~22節をご覧ください

「イエスがおいでになると、ラザロは墓の中に入れられて、すでに四日たっていた。 ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほど離れたところにあった。マルタとマリアのところには、兄弟のことで慰めようと、大勢のユダヤ人が来ていた。マルタは、イエスが来られたと聞いて、出迎えに行った。マリアは家で座っていた。マルタはイエスに言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお求めになることは何でも、神があなたにお与えになることを、私は今でも知っています。」

 

イエスは、ラザロが病んでいるということを聞いてからも、そのときいた場所になお二日とどまられました(6)。「そのときいた場所」とは、ヨルダン川の川向うのことです。そこはかつてバプテスマのヨハネが人々にバプテスマを授けていた所です。イエスは彼を殺そうとしていたユダヤ人たちの手から逃れるために、そこに退いておられたのです。それからラザロがいたベタニアにやって来ましたが、それはラザロが死んで墓に葬られてすでに四日もたっていた時でした。ベタニアはエルサレムに近く、3キロメートルほど離れた所にありました。大勢の人々がマルタとマリアを慰めるために来ていました。マルタはイエスが来られたと聞いてすぐに迎えに行きましたが、マリアは家で座っていました。兄弟ラザロが死んだことがあまりも悲しくて、そこから動けなかったのかもしれません。

 

マルタは、イエス様に会うなりこう言いました。21節です。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」どういうことでしょうか。32節を見ると、実はマリアも同じように言っていたことがわかります。ここに、彼女たちが、どれほどイエスが来られるのを待っていたのかがわかります。あるいは、待ってはいてもなかなか来てくれないイエス様のことを残念に思っていたのでしょう。これまで一生懸命に尽くしてきたのだから、何を差し置いてもすぐに飛んで来てくれると思ったのにそうではない。イエス様がエルサレムに上られた時は、彼らの家に宿泊することが多かったようですが、その時にはいつも決まった時間に来てくれたではないですかるそれなのにこんな大事な時に来てくださらないとはどういうことか、彼女の中に不満というか、失望があったかもしれません。彼女たちは、ラザロが死ぬと頼るべき対象を失い絶望していたのです。ラザロの死は、彼女たちに大きな悲しみと虚しさを与え、生きる意欲と希望を奪って行きました。このように死は、死んだ人ではなく生きている人を支配するのです。

 

そんな中でもマルタは、かすかな期待を持っていました。そして、こう言いました。22節です。「しかし、あなたが神にお求めになることは何でも、神があなたにお与えになることを、私は今でも知っています。」どういうことでしょうか。この言葉には、イエスに対する不十分な理解というものが見られます。彼女は、それまでイエスが行われた数々の奇跡というものを忘れていました。それはイエスが力ある神だからというよりも、イエスのとりなしの祈りに効果があるのであって、イエスが神に求めることは何でも神は聞いてくださると考えていたからです。マルタはイエスを全能の神としてよりも、一人の祈りの勇者として信じていたのです。21節で彼女が「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょう。」と言ったのも、同様の理由からです。イエスがここにいてくだされば何とかなったかもしれませんが、いてくれなかったので兄弟ラザロは死んでしまったのだ、と言っています。でも、イエスはそこにいなければ何もできないのでしょうか?そうではありません。あのカペナウムの王室の役人の息子が癒された時もそうでした。彼がイエスの所に来て、「主よ。どうか子どもが死なないうちに、下って来てください。」(4:49)と懇願したとき、イエスは、「行きなさい。あなたの息子は治ります。」(4:50)と言っただけで癒すことができました。イエスがその場に行かなくても、ただ言葉を発しただけで癒すことができたのです。イエスは全能の神です。そこにいなくても御言葉を発するだけで癒すことができる方なのです。彼女はそのことを忘れていました。

 

しかし、それはマルタだけではありません。私たちもイエスは死人をも生き返らせることができる全能者であるということを頭ではわかっていても、いざその現実に直面すると信仰がどこかに吹っ飛んで行くというか、すぐに慌てふためくのではないでしょうか。

 

今、さくらの祈祷会では出エジプト記を学んでいますが、エジプトを出たイスラエルが荒野に導かれた時、行き場を失う場面が出てきます。目の前には紅海が広がっています。後ろからはエジプト軍が追いかけて来る。絶対絶命です。その時、イスラエルの民はモーセに向かってつぶやきました。「エジプトには墓がないからといって、荒野で死なせるために、あなたはわれわれを連れて来たのか。われわれをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということをしてくれたのだ。」(出エジプト記14:11)そんなことをしたらエジプト軍が追いかけて来て自分たちを捕らえてしまうでしょう。もっとひどいことになる。モーセよ、あなたは、エジプトには墓がないからといって、荒野で死なせるために、あなたはわれわれを連れて来たのかと言って、叫んだのです。これは信仰の叫びではなく不信仰の叫びです。皆さん、叫びには二種類の叫びがあります。それは信仰の叫びと不信仰の叫びです。彼らの叫びは不信仰の叫びでした。確かに彼らはエジプトになされた主のみわざを見て主を信じましたが、こうした困難に直面すると、その信仰はどこかへ吹っ飛んで行ってしまったのです。

 

それは私たちも同じです。私たちもイエス様を信じています。しかし、こうした困難に直面すると、マルタのように、またイスラエルの民のように、不信仰になってすぐに不平不満を漏らしてしまうのです。いったい何が問題なのでしょうか。それは、キリストに対する理解が欠如していることです。私たちの信じている主イエスがどのような方であるのかを正しく理解していないのです。確かに、マルタとマリアは紛れもなくイエスを信じていました。そういう意味では真のクリスチャンです。しかし、その信仰には欠けがありました。確かにイエスを見てはいましたが、そこには不信仰が入り混じっていました。それはちょうどすりガラスを通して観るようにぼんやりとしたものでした。知ってはいましたが部分的でした。信じていましたがキリストの力を自分の頭で制限していたのです。あなたはどうでしょうか。どのようにキリストを理解しているでしょうか。あなたの理解は、どれほど深く、広いものになっているでしょうか。また、その理解は日々深まっているでしょうか。私たちは聖書の御言葉を通して、キリストを正しく理解しなければなりません。

 

那須でバプテスマを受けられた小島兄夫妻と継続的に学びの時を持っていますが、先日のテーマは「三位一体」でした。私たちが信じている聖書の神は、三位一体の神です。三位一体とは何ですか。三位一体とは、神は実態において唯一の神であり、父と子と聖霊という三つの位格によって存在するということです。位格とは人格と置き換えることができます。つまり、神はただ一人、唯一ですが、三人いるということです。単純に考えると理解できません。複雑に考えても理解できません。だって一人だけれど3人なんですから。目がくるくる回りそうです。聖書には三位一体という言葉は出てきませんが、そういう神概念を啓示しています。すなわち、父なる神は神としての性質を持っているということ、子なる神も神としての性質を持っているということ、そして、聖霊なる神も神としての性質を持っているということです。だから、三位一体を頭で理解することはできないのですが、啓示された神の言葉を受け入れるなら、これを信じなければならないのです。これは理解できるかできないかということではなく、信じるかどうかの問題です。

 

ところで、エホバの証人の方は、キリストは神の子であっても神ではないと主張します。神に近い人間だけれども神ではないと。皆さん、どう思いますか。そうだね、なんて言わないでください。聖書そのものをみると、イエス・キリストが神であるということは至るところに出てくるのですから。たとえば、ヨハネ1:1~3には、「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。」とあります。もうこれだけでもキリストが神であるのは明らかです。ここには、キリストは「ことば」として表されていますが、それは神を啓示された方という意味です。そのことばは「初め」から存在していました。この「初め」とは永遠の初めのことです。何も存在していなかった永遠の昔からキリストは存在していたのです。それは、ヨハネ8:58で、「まことに、まことに、あなたがたに言います。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』なのです。」とあることからもわかります。イエスはアブラハムが生まれる前から存在しておられました。アブラハムが生まれたのはいつですか。B.C.2000年です。イエスはそれよりも先におられたというのは、イエスは霊において永遠の昔から存在しておられたということです。それが時至って今から2,000年前に人間の姿を取ってこの地上に来てくださいました。キリスト永遠なるお方なのです。これだけでもキリストは神であるということがはっきりしています。でも、そればかりではありません。ここには、「ことば神とともにあった。ことばは神であった。」とあります。ここにはっきりと、「ことばは神であった」とあります。キリストは神ご自身であられるのです。それは、「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。」と言う言葉からもわかります。この方は、創造主なる神なのです。

 

これだけ見ても、キリストが全能の神であられるということがわかります。しかし、そればかりでないのです。たとえば、私たちはこれまでずっとヨハネの福音書を学んできましたが、その中でこの方が成されたわざを見れば、どれほど偉大な方であるかがわかります。キリストは王室の役人の息子の病気を癒したり、ベテスダの池の周りで38年間も伏せていた人を癒されました。そして、生まれつき盲人の目を開けて見えるようにしました。これだけでもすごいのに、それだけではありません。何とガリラヤ湖を舟で渡っていた弟子たちが嵐のため漕ぎあぐねているのを見ると、水の上を歩いて近づかれました。近づいて「どうした」と言われるのかと思ったら、そのまま通り過ぎるおつもりであったなんて、おもしろいですね。そして、そんな嵐に向かって、「嵐よ、静まれ」と言われると、波はなぎになりました。自然界をも支配されたのです。先の台風19号が襲来したとき、だれがその自然の猛威を静めることができたでしょうか。だれもいませんでした。台風が来るのでいのちを守ってくださいと言うことはできても、その嵐に向かって「静まれ」ということができる人など一人もいませんでした。しかし、キリストはその自然界さえも治めることができました。

そしてここでは死んだラザロを生き返らせます。だれがそんなことができるでしょうか。だれもできません。しかし、キリストはおできになるのです。なぜなら、キリストは神だからです。キリストは神であられ、どんなことでもおできになる全能者なのです。あなたはそのことを本当に信じていますか。

 

20世紀の偉大な聖書学者、J・B・フィリップスの著書に、「あなたの神は小さすぎる」という本があります。あなたは、自分の小さな箱の中に、偉大な神様を、閉じ込めている、というのです。あなたはどうでしょうか。この偉大な神であられるイエス・キリストを、限界のある、人間の脳みその中に、押し込んでいる、ということはないでしょうか。私たちの主イエス・キリストは全能の神であることを信じ、いざというときに、その信仰を働かさなければなりません。

 

Ⅱ.わたしはよみがえりです。いのちです(23-26a)

 

第二のことは、イエスはよみがえりであり、いのちであるということです。23節から26節前半までご覧ください。

「イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」マルタはイエスに言った。「終わりの日のよみがえりの時に、私の兄弟がよみがえることは知っています。」イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。」

 

そこでイエスは、マルタに「あなたの兄弟はよみがえります。」と言われました。これが、イエスがベタニアに来て最初に言われた言葉です。マルタのあいまいなキリスト観というものを正そうと導こうとして発せられた最初の御言葉です。いつ、どのように生き返らせるのかといったことには一切触れず、ただラザロが生き返ると言われたのです。

 

それに対してマルタは何と言いました。25節です。「終わりの日のよみがえりの時に、私の兄弟がよみがえることは知っています。」どういうことですか?「終わりの日」とは世の終わりの日のことで、キリストが再臨される時のことです。その日にクリスチャンがよみがえるというのは聖書の約束であり、それを信じる信仰は確かにすばらしいものです。しかし、その信仰が今の彼女が当面している問題に対して何の解決も与えてくれないとしたら、それは生きた信仰とは言えません。彼女はイエスを信じていながらも現実的には悲しみ、絶望していました。今の彼女にとっては何の力にもならなかったのです。しかし、主が望んでおられたことは、その信仰が現実の生活の中に生かされることでした。死からよみがえるという復活の信仰に生きることだったのです。信仰と現実が一致することです。信仰は心の平安のために、でも実際の生活は自分の力でというのではありません。信仰が実際の生活の中で生かされることなのです。ですから、イエスは彼女に対して力強い約束と宣言のことばを語られました。25節と26節の言葉です。ご一緒に読みましょう。

「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。」

 

イエスはこれまで何回も「わたしは・・です」と宣言されました。たとえば、「わたしはいのちのパンです」と言われました。6:35です。また、8:12では「わたしは世の光です」とも言われました。そして、10:7では「わたしは羊たちの門です」と言われました。また、そのすぐ後の10:11では「わたしは良い牧者です」とも言われました。イエスはこれまで4回も「わたしは・・です」語られましたが、これらはみな比喩として語られました。ところが、今回は単なる比喩としてではなく、そのものズバ語られたのです。つまり、イエスはよみがえりであり、いのちであられるということです。これはどういうことかと言うと、イエスはよみがえりそのものであり、いのちそのものであられるということです。そのような者であるということではなく、そのものズバリであられるということです。よみがえりであり、いのちであられるのです。

 

そして、これが現在形で書かれていることからもわかるように、よみがえりであり、いのちであられるキリストは、私たちが今、現在抱えている様々な問題のただ中にそのような方として存在しておられるのです。信仰とは過去や未来ではなく現在です。私たちは現在においてイエスを信じなければなりません。過去において信じていましたとか、いつか信じるでしょうというのではなく、今、信じなければならないのです。それは線のようにずっと継続していくものなのです。ですから、この終わりの日だけでなく、今イエスを自分のよみがえり、いのちと信じるなら、イエスは当面している今の問題を、その復活の力によって解決してくださるのです。よみがえりであり、いのちであられる主は、死んだ人にいのちを与えてことができます。しかし、それは死んでからのことだけでなく、生きている今、この瞬間にも、もたらされるのです。イエスはヨハネ5:24でこのように言われました。

「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。」

イエスの言葉を聞いてイエスを信じる者は、その瞬間に永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。将来において移るでしょう、たぶん移るはずです、きっと移りますと言うのではなく、今、この瞬間に移っているのです。イエスを信じたら、その瞬間に天国です。天国とは神の支配です。神が共におられるところです。そういう意味では、信仰は本当に神秘的です。私たちがイエスをいのちの主として信じ受け入れる時、その瞬間にそこに驚くべきことが起こるからです。死からいのちに移ります。私たちはこれまで死の勢力が支配されて生きてきました。死んだら終わりという世界です。死の勢力は私たちを恐れさせ、虚しくし、悲しくし、運命の奴隷としてきました。死は人からすべての生命、希望、喜びを奪って行きます。しかし、いのちの世界に移されると状況は全く変わります。その時、それ以上死が支配することができないのです。代わりにいのちが私たちを支配するようになります。いのちの世界は光の世界であり、喜びと希望の世界です。いのちの世界に生きている人はもはや虚しさにさいなまれることはありません。もう運命に支配されることはないのです。使徒パウロは復活されたイエスに出会い、人生が全く変えられました。彼は次のように言いました。

「「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。」死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝します。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。」(Ⅰコリント15:55-58)

 

すごいでしょ。以前、NHKで死の医学というものを提唱した精神科医の西川喜作さんのドキュメント番組を放映しました。これは作家の柳田邦夫さんも「死の医学」という本に書いています。

西川さんは精神科医として、まさに働き盛りの頃、その仕事に生き甲斐をもって全力を打ち込んでいました。ところがある日、血尿が出たため検査を受けたところガンの兆候であることがわかりました。それからというもの、検査、検査の毎日が続き、からだはその検査のためにクタクタになり、自分の生き甲斐である仕事も思うようにできなくなっていきました。やがて、彼は自分がガンであることを悟ります。担当医は、症状が少しでも進まないように、仕事から離れて静養することを勧めるのですが、彼にとっては仕事が何よりの生き甲斐でしたから、ドクター・ストップを振り切って、これまでどおりに手がけてきた仕事に全力を傾けていきました。

そうした中で、彼は医者として、現代の医療のあり方に対して非常に強い疑問を抱くようになるのです。確かに科学が進歩し、医療技術も進歩して、1日も長く寿命を延ばすことができるようになったけれども、ただそれだけのことではないか。自分が今抱えている死に対する不安や焦り、恐れ、そうした心の苦痛に対して、現代の医療は何も解決を与えてくれない、ということを痛感したのです。そして、「死の医学」を提唱し始めたのです。

症状が着実に進んでいきました。ガンは全身に転移し、力尽きてベッドに寝たままとなってしまいました。弱々しい姿に変わり果てながらも、訪問してくれる同僚や先輩の医者たちに対して、死についての真剣な対話を求めます。「死の向こうに何かあると思いますか。あなたは来世を信じていますか。」・・など。しかし、同僚や先輩たちは何も答えてくれませんでした。誰も真の意味で慰めてはくれない。死の恐れから彼を慰めるものは何もなかった、誰もいなかったのです。

私はそのドキュメントを見ながらとても痛々しかったのを覚えています。絶望感、虚無感、なぜ、どうしてという虚無感に襲われながらも何一つつかまるところのないその姿はとてもかわいそうでした。

私たちもいずれ例外なく、自分の死に直面します。これだけはみな平等です。その確立は100%です。しかし、この死の恐れ、死の不安に対して、本当の慰め、本当の勝利を持っている人が、果たしてどれだけいるでしょうか。人生の終わりに自分がどこへいくのかわからない、そんな人生はとても悲惨です。その人が人生で成してきたことが、死に対してなんの力にもならないのです。私たちがどこへいくのかはっきりと知ってこそ、どうなるのかを知ってこそ、はじめて死の恐れから解放されて生きることができるのです。

 

イエスはこう言われました。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。」私たちの恐れの最後の砦である「死」に打ち破り、勝利を与えてくださった主に、心からの感謝しようではありませんか。そして、それは私たちが死んでからだけのことばかりではなく、生きていて、イエスを信じる者は決して死ぬことがなく、永遠の命を持つということ、つまり、キリストが今この復活の力を持って、この方を信じるすべての人の問題をも解決することができるということを信じて、ここに慰めと希望を持ちたいと思うのです。

 

Ⅲ.あなたは、このことを信じますか(26b-29)

 

ですから、第三のことは、このことを信じましょう、ということです。26節後半から29節までをご覧ください。

「あなたは、このことを信じますか。」彼女はイエスに言った。「はい、主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストであると信じております。」マルタはこう言ってから、帰って行って姉妹のマリアを呼び、そっと伝えた。「先生がお見えになり、あなたを呼んでおられます。」マリアはそれを聞くと、すぐに立ち上がって、イエスのところに行った。」

 

イエスは、ご自分がいのちであり、真理であられるということ、そして、このことを信じる者は死んでも生きるというだけでなく、生きていてこのことを信じる者は、決して死ぬことはない、と言われると、マルタに向かって「あなたにとって少し慰めになりましたか」とか、「ちょっと楽になりましたか」などとは言いませんでした。、「あなたは、このことを信じますか」と言われました。「このこと」とは何ですか。それは、死んでも生きるというだけでなく、生きていて信じる者は、決して死ぬことがないということ、つまり、その復活のいのちをもって、今、当面している問題をも解決することができるということです。このことを信じますか、と問われたのです。

 

すると彼女は、このようにイエスに言いました。「はい、主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストであると信じております。」どういうことですか。これは彼女がイエスの意図しておられるような意味で信仰を持ってはいなかったということを表しています。というのは、確かに彼女はイエスが世に来られる救い主であると信じていましたが、それ以上のお方としては信じていなかったからです。それ以上の方とは、この方が、今、現在、当面している問題をも解決することができる方であるという信仰です。この場合で言うなら、ラザロが生き返るということです。マルタのこの信仰告白は間違いではありませんでしたが、それは、漠然とした一般的な告白にすぎなかったのです。

 

クリソストムという神学者は、ヨハネの福音書の註解の中で次のように述べています。「マルタはキリストの語られた内容を理解していないように思われる。その重大性には気付いていたが、意味を十分に把握していなかった。そのため、的外れの返答をしたのである。」(J.C.ライル「ヨハネの福音書註解ⅢP64」)

また、トレトスという神学者はこう述べています。「マルタはキリストが、約束された真のメシアであると信じ、キリストが語られた一切の事柄を信じていると考えた。確かに彼女は信じてはいたが、その信仰は完全ではなく、漠然としていた。あたかも、よく把握していない信仰の教義について訪ねられた際、よく考えもせず、「私は公同の教会を信じます」と答える人に似ている。ここでのマルタも同様であり、「主よ、私は、あなたが真のキリストであること、また語られた事柄すべてが真実であることを信じますと述べてはいるが、その内容を十分に悟っていなかった。」(J.C.ライル「ヨハネの福音書註解ⅢP64」)

つまり、彼女は確かにイエスを神の子キリストであると信じていましたが、また、そういう意味では神の子とされ、永遠のいのちを受けていましたが、同時にそれがこの世でのさまざまな問題においても実際に解決をもたらす力がある方としては理解していなかったのです。いわばそれは私たちの信仰と同じであったということです。私たちもイエスを信じれば天国に行くことができると素朴に信じています。しかし、それがこの世の現実の生活においてはどうなのかと言われると、どこか首をかしげることがあるのではないでしょうか。なかなかそこまで信じることができません。

 

マルコの福音書に、口をきけなくする霊につかれた息子が連れて来られた時、イエスがその息子を癒される出来事が記録されています。人々がその子をイエスのもとに連れて来ると、霊がすぐ彼に引きつけを起こさせたので、彼は地面に倒れ、泡を吹きながら転げ回りました。イエスはその子の父親に、「この子にこのようなことが起こるようになってから、どのくらいたちますか」と尋ねると、父親は、こう答えました。「幼い時からです。霊は息子を殺そうとして、何度も日の中や水の中に投げ込みました。しかし、おできになるなら、私たちをあわれんでください。」(マルコ9:21-22)するとイエスは何と言われたでしょうか。イエスは、こう言われました。「できるものなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」(9:23)

 

皆さん、私たちもこの父親のように言うのではないでしょうか。「もしおできになるなら・・・」。確かにイエスは全能者であると信じていますが、まさか目の前にある問題は解決できないでしょう。だから、「もし、おできになるなら」と言ってしまうのです。そこに「もし」が付くのです。もしできるなら、お願いします。しかし、信仰には「もし」はないのです。信じる者にはどんなことでもできるのです。その父親は自分の不信仰を悔改めてこう言いました。「信じます。不信仰な私をお助けください。」(マルコ9:24)

 

私たちも、目の前の問題が大きければ大きいほどイエス様に限界を設け、「もしできるなら」と言ってしいますが、信じる者にはどんなことでもできるのです。問題はイエス様に限界があるのではなく、私たちの側に限界があるのです。イエスはよみがえりです。いのちです。イエスを信じる者は死んでも生きます。また、生きていて、イエスを信じる者は、決して死ぬことはありません。私たちはこのイエス様の言葉を信じなければなりません。もし私たちの中にあの父親のような不信仰が少しでもあるなら、今悔い改めましょう。そして、彼が「信じます。不信仰な私をお助けください。」と言ったように、聖霊によってイエスを主として、全能の主として信じることができるように祈ろうではありませんか。

 

「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。」(エペソ1:17-19)

そして、この主の問いかけに対して、私たちも「はい、信じます」と告白することができますように。私たちは信じないで滅びる者ではなく、信じていのちを得る者とさせていただきましょう。