エレミヤ書2章14~19節「いつも主を前に置いて」

 新しい年を迎えました。この新しい年を、皆さんはどのような思いで迎えられたでしょうか。箴言4章23節に、「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」とあります。いのちの泉は私たちの心からわいてきます。ですから、力の限り、見張って、あなたの心を見守らなければなりません。新しい年も神の御言葉によって、心の井戸を深く掘っていきたいと思います。

この新年の礼拝で、主が私たちに与えておられる御言葉は、エレミヤ書2章14~19節の御言葉です。前回もお話したように、この2章には神から離れ偶像に走って行ったイスラエルの姿を、いくつかの比喩をもって語られています。1~8節までには不誠実な妻の姿を通して、また9~13節には、壊れた水溜のたとえをもって描かれてきました。

きょうのところには、奴隷としてのイスラエルの姿を通して語られています。イスラエルは奴隷なのか、それとも家に生まれたしもべなのか、ということです。だから、知り、見極めよ、と。何を見極めるのでしょうか。19節の後半にこうあります。「あなたがあなたの神、主を捨てて、わたしを恐れないのは、いかに苦いことかを。」主を捨てて、主を恐れないことは、いかに苦しいことであるのかを、です。すなわち、主を恐れないこと、主に信頼しないことが、いかに悪いことであり苦しいことであるかということです。このことを見極めなければなりません。この新しい年、私たちはこのことを見極め、真に主を恐れ、主に信頼して歩む年でありたいと思います。

 Ⅰ.イスラエルは奴隷なのか(14-16)

 まず14節から16節までをご覧ください。「14 イスラエルは奴隷なのか。それとも家に生まれたしもべなのか。なぜ、獲物にされたのか。15 若獅子は彼に向かって吼えたけり、うなり声をあげて、その地を荒れ果てさせる。その町々は焼かれて、住む者がいなくなる。16 メンフィスとタフパンヘスの子らも、あなたの頭の頂を剃り上げる。

 ここで預言者エレミヤは、イスラエルの背信がどのような結果を招くのかを語っています。イスラエルは神に背いた結果、どうなったでしょうか。14節には「イスラエルは奴隷なのか。それとも家に生まれたしもべなのか。」とあります。

当時、奴隷には二つの種類がありました。お金で買われて奴隷になった者と、奴隷の両親の間に生まれた、生まれながらの奴隷です。イスラエルは神の民として贖われた者ですから、自由な民であるはずです。まして生まれながらの奴隷であるはずがありません。それなのに、彼らの状態はもっと悪くなっていました。戦争によって捕虜となり、獲物として外国に連れ去られるような惨めな状態になっていたのです。どうしてこのようになったのでしょうか。いうまでもなく、彼らが自分の神を捨てて偶像に仕え、外交や武力によって自分たちの安全を保つことができると考えたからです。その結果、どうなったでしょうか。

 15節をご覧ください。「若獅子は彼に向かって吼えたけり、うなり声をあげて、その地を荒れ果てさせる。その町々は焼かれて、住む者がいなくなる。」

 「若獅子」とはライオンのことです。聖書では、イスラエルを荒らす敵の比喩としてしばしば用いられています。文脈によってそれはアッシリヤであったり、エジプトであったり、バビロンであったりしますが、ここではバビロンのことを指しています。バビロンがイスラエルに向かって吼えたけり、うなり声をあげて、その地を荒れ果てさせるというのです。その町々は焼かれて、住む者がいなくなります。エレミヤがこれを語った約40年後に、実際にこのことが起こります。バビロン捕囚という出来事です。B.C586年に、バビロンの王ネブカデネザルがエルサレムを攻め落とし、そこに住んでいた者たちを捕囚の民としてバビロンに連れて行きました。

それはバビロンだけではありません。エジプトもそうです。16節にある「メンフィスとタフパンヘス」は、ともにエジプトにある都市です。つまり、もし彼らがエジプトに保護を求めるなら、彼らがあなたの頭の頂を剃り上げるようになるというのです。ユダヤ人にとって髪を剃り上げることは、恥を見ること、悲しみに打ちひしがれることを表わしていました。イスラエルはせっかく神によって贖われ自由の民とされたのに、その神に背きメンフィスやタフパンスに助けを求めたことで、再び奴隷の状態に陥り獲物として外国に連れ去られるような惨めな状態になったのです。私たちもせっかく主イエス・キリストによって罪から解放され自由の民とされたのにその神に背くなら、若獅子の獲物にされてしまうことになります。頭の頂を剃り上げられることになるのです。

1ペテロ5章8節にこうあります。「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」

ここでは、悪魔がほえたける獅子のようだと言われています。悪魔は、ほえたける獅子のように、食い尽くすべき獲物を捜し求めながら歩き回っています。だから、身を慎み、目をさましていなければなりません。そうでないと、当時のイスラエルのように若獅子の獲物にされてしまいます。頭の頂を剃り上げられてしまうことになるのです。そういうことがないように、身を慎み、目をさましていなければなりません。エレミヤは、かつてB.C.722年に北王国イスラエルがアッシリヤによって滅ぼされたことを思い起こしながら、南ユダ王国の人々に、注意しないとあなたがたもライオンの餌食にされてしまいますよ、と警告しているのです。

それは今を生きる私たちにも言えることです。注意しないと、私たちもライオンの餌食にされてしまいます。だから、身を慎み、目をさましていなければなりません。自分は大丈夫と思っている人ほど危ない人です。悪魔なんてやっつけてやるという人ほど簡単にコロリとやられてしまいます。私たちは若獅子の餌食にならないように身を慎み、目をさましていなければなりません。

Ⅱ.なぜ、獲物にされたのか(17~19a)

いったい彼らの問題は何だったのでしょうか。なぜ彼らは若獅子の獲物にされてしまったのでしょうか。次にその理由について考えたいと思います。17~19節前半をご覧ください。「17 あなたの神、主があなたに道を進ませたとき、あなたが主を捨てたために、このことがあなたに起こったのではないか。18 今、ナイル川の水を飲みにエジプトへの道に向かうとは、いったいどうしたことか。大河の水を飲みにアッシリヤへの道に向かうとは、いったいどうしたことか。「あなたの悪があなたを懲らしめ、あなたの背信があなたを責める。」

いったいなぜ彼らは獲物にされてしまったのでしょうか。それは彼らが主を捨てたからです。彼らの神、主が彼らに道を進ませたとき、彼らが主を捨てたので、このようになったのです。どうしてナイル川の水を飲みにエジプトへ向かうのでしょうか。どうして大河ユーフラテス川の水を飲みにアッシリヤへ向かうのでしょうか。それは彼らが自分たちの神、主に助けを求めないで、エジプトやアッシリヤに助けを求めたからです。その悪が彼らを懲らしめ、彼らの背信が彼らを責めたのです。

私たちも、そういうことがあるのではないでしょうか。聖書ではエジプトはこの世の象徴として描かれています。また、アッシリヤは超大国の象徴として描かれています。私たちもイエス様を信じていてもにっちもさっちもいかなくなると、目に見えるこの世のもので安心を得ようとすることがあります。しかし、そのような水をいくら飲んでもまた渇くと、イエス様は教えてくださいました。「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(ヨハネ4:13-14)

また使徒パウロは、そうした頼りにならないものに望みを置かないようにと警告しています。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように、と(1テモテ6:17)。そのようなものに望みをおくと、結局のところ、裏切られてしまうことになります。皆さんもそういう経験があるでしょう。

実際、イスラエルの王であったヨシヤ王も、この後B.C.609年にエジプトに攻め込まれて死んでしまうことになります。メギドの戦いです。エレミヤがこれを警告したのはB.C.627年のことですから、実に18年後のことになります。彼らはエジプトに助けを求めたのに、そのエジプトによって滅ぼされてしまうのです。まさに、頭の頂を剃り上げられたのです。その後、新興国であるバビロン帝国が台頭して来て、エジプトも、アッシリヤも、そしてこの南ユダ王国も滅ぼされしまうことになります。そして、バビロンの奴隷として、捕囚の民としてバビロンに連れて行かれることになるのです。どんなにエジプトを頼っても、どんなにアッシリヤを頼っても、そうしたものは何の助けにもならないのです。

預言者イザヤは、そんなイスラエルの姿を短い毛布にたとえてこう言いました。「寝床は、身を伸ばすには短すぎ、毛布も、身をくるむには狭すぎるようになる。」(イザヤ28:20)皆さん、わかりますか。エジプトという寝床は、身を伸ばして寝るには短すぎます。アッシリヤという毛布は、身をくるむには狭すぎるのです。私の妻はいつも毛布に身をくるんで寝ていますが、見ると足がベッドからはみ出しています。背中には毛布がかかっていません。短じかすぎるのです。狭すぎるのです。そのようなものは安全のための何の保障にもなりません。それなのに、どうしてエジプトやアッシリヤへの道に向かうのでしょうか。どうして主なる神に背を向けて、この世に向かって走って行くのでしょうか。

あなたがこの世に向かって走るなら、結果的に神に背を向けることになります。その結果、懲らしめや責めを受けることになるのです。勿論、それはこの世を捨てるということではありません。この世を憎むということでもありません。神はこの世を愛されました。神は一人も滅びることなく、すべての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。そのためにひとり子をこの世に与えてくださいました。それは御子を信じる者が一人として滅びることなく永遠のいのちを持つためです。ですから、私たちは神がこの世を愛されたように、私たちもほかの人々を愛するべきです。

しかしそれは、この世の考えやこの世を優先することではありません。神様以上にこの世を愛してはならないと、イエス様は言われました。「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」(マタイ6:33)

神の子とされた者、クリスチャンは、その優先順位を神の価値観に従って、選択すべきです。誰も二人の主人に仕えることはできないからです。神とこの世に同時に仕えることはできません。その優先順位において神よりもこの世を優先するなら、それは神に背を向けてしまうことになります。その悪があなたを懲らしめ、その背信があなたを責めることになるのです。

皆さん、私たちが歴史から学ぶことは何でしょうか。それはたった一つのことです。それは、人類は歴史から何も学ばないということです。本来、彼らは学ぶべきでした。彼らと同じことをすれば自分たちはどうなるのかということを。自分たちもそうなるということ。しかし、彼らは何も学びませんでした。そして同じように痛い目に遭ってしまったのです。どんな人でも最初の一歩を間違えると、どんどん神から離れていってしまいます。しかし、信仰によって小さな一歩を踏み出すと、その人の人生は神によって祝福されたものへと導かれます。

1969年7月16日、アメリカの有人ロケット「アポロ11号」が月に着陸して、初めて人間が月を歩いた時、ニール・アームストロング船長はこのように言いました。「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な一歩である」

それはあなたにとって小さな一歩かもしれません。しかし、それはあなたの人生にとって偉大な一歩となるのです。その信仰の一歩を踏み出そうではありませんか。

Ⅲ.だから、知り、見極めよ(19b)

では、どうすればよいのでしょうか。最後に19節の後半を見て終わりたいと思います。「だから、知り、見極めよ。あなたがあなたの神、主を捨てて、わたしを恐れないのは、いかに苦いことかを。-万軍の主のことば。」

この箇所のまとめです。私たちにとって必要なのは、このことを知り、見極めることです。アッシリヤやバビロンの奴隷になるという悲惨さの原因は、指導者の政策が悪いからではありません。それは神を捨て、神を恐れないことです。これが最も根本的な原因なのです。悲惨の原因が自らの罪であることを知らないことが最大の悲惨でありますこのことを知り、見極めるようにと、エレミヤは教えているのです。あなたはこのことを知り、見極めているでしょうか。

昨年からサムエル記を通してダビデの生涯を学んでいますが、ダビデはこのことを知り、見極めていました。主が彼を、すべての敵の手、特にサウルの手から救い出された日に、彼は主に向かってこのように歌いました。「私は苦しみの中で主を呼び求め、わが神に叫んだ。主はその宮で私の声を聞かれ、私の叫びは御耳に届いた。」(Ⅱサムエル記22:7)ダビではいつも苦しみの中で主を呼び求めました。すると主は彼の声を聞かれ、彼は助だされたのです。

私たちの人生に何が起こるか、だれも予測することはできません。突然、病気や事故や災いに襲われることがあります。まさに人生という舞台に、大きな穴がポッカリと開くような出来事に遭遇することがあるのです。そんなときに、ある人は穴を見て絶望し、運命を呪い、悲しみに暮れます。またある人は、穴を見ないふりをして、現実から逃避しようとします。しかしダビデは、その穴から神を見ました。神を見て、神に信頼し、神に叫んだのです。そして、その穴から救われるという経験をしたのです。すなわち、その穴から、穴が開かなければ、決して見ることがない新しい世界をしっかり見つめたのです。なぜなら、彼はいつも、主を恐れ、主に信頼していたからです。

彼は、詩篇16篇で次のように告白しています。「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。」(詩篇16:8)すばらしいですね。これを、今年の教会の目標聖句にしたいと考えています。「私の前に主を置く」とは、いつも主の助けと導きを仰ぐことです。これによってダビデは、「揺るぐことはない」と告白することができました。彼はサウル王に追われて流浪の生活をしていた時は、生命を繋ぐだけでも大変でした。また、その後イスラエル王となってからも、家庭問題で大いに悩まされました。しかし、こうした人生のトラブルの中にあっても、彼の心の深い所には神様との強い絆がありました。だから彼は揺るがされなかったのです。それは、彼がいつも主に信頼し、主を前に置いていたからです。

17世紀に、フランスの修道院において台所の奉仕で一生涯を終えたブラサー・ローレンスという人がいますが、彼は「神の臨在の実践」(The Practice of the Presence of God)の中でこう言っています。「仕事の時は、私にとって祈りの時とさして変わらない。台所でガチャガチャした騒音に埋もれ、色々な人々が同時に別々なことで私を呼んでいる時でさえ、私は聖餐式の時に跪いているかのような大いなる静けさの中に住み給う神を持っている」

彼は、それが仕事の時であろうと、祈りの時であろうと、いつも神の臨在の中にいるようでした。それは彼が大切にしていたのは、そうした事柄の背後にある動機であったからです。つまり、いつも自分の前に主を置いているかどうか、そして、何をするにしても、その主への愛に対する応答であるかどうかということです。

彼はダビデのように、いつも自分の前に主を置いていたのです。

新しく迎えたこの2022年、さまざまな計画があり、活動があることでしょうが、それらの活動に勝って、私たちが知り、見極めなければならないことは、主を恐れ、主に信頼し、心を尽くして主を求めることです。ダビデのように「私の前に主を置く」という心の営みを一人一人のものにさせていただこうではありませんか。

伝道者の書7章15~29節「キリストにあって歩みなさい」

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主の2021年、明けましておめでとうございます。この新しい年、皆さんはどのような御言葉が与えられたでしょうか。私は詩篇92:13の御言葉が与えられました。「彼らは、主の家に植えられ、私たちの神のおお庭で花を咲かせます。」悪者は青草のように萌え出でますが、主を愛する者は、主の家に植えられ、神の大庭で花を咲かせます。この新しい年も、主の大庭、主の幕屋の庭で花を咲かせる年になりたいと思います。

 

さて、この朝私たちに与えられている御言葉は、伝道者の書7章15節からの御言葉です。伝道者は7章前半のところには、何が人のために良いことなのかを、知恵のある者と愚かな者の対比を通して学びました。その中心は何かというと、13節にあるように「神のみわざに目を留めよ」ということでした。神が曲げたものをだれもまっすぐにすることはできません。すなわち、神の成されたことをだれも変更することはできないのですから、それをありのままに受け入れ、それが神の最善と信じて前進するのがベストです。どのように受け入れれば良いのでしょうか?14節にあるように、「順境の日には幸いを味わい、逆境の日にはよく考えよ」ということでしたね。なぜなら、「順境日も」も「逆境の日」も共に神がお与えになられたものだからです。これもあれも、神のなさることなのです。ですから、そのすべてが神の主権によって成されていることを覚え、その神にすべてをゆだねることが求められているのです。今回はその続きとなります。

 

Ⅰ.正しすぎてはならない、悪すぎてはいけない(15-20)

 

まず、15~20節までをご覧ください。「私はこの空しい人生において、すべてのことを見てきた。正しい人が正しいのに滅び、悪しき者が悪を行う中で長生きすることがある。あなたは正しすぎてはならない。自分を知恵のありすぎる者としてはならない。なぜ、あなたは自分を滅ぼそうとするのか。あなたは悪すぎてはいけない。愚かであってはいけない。時が来ないのに、なぜ死のうとするのか。一つをつかみ、もう一つを手放さないのがよい。神を恐れる者は、この両方を持って出て行く。知恵は町の十人の権力者よりも、知恵のある者を力づける。この地上に、正しい人は一人もいない。善を行い、罪に陥ることのない人は。」

 

非常に含蓄のある言葉ではないでしょうか。この新年礼拝にふさわしい御言葉だと思います。15節の「すべてのことを見てきた」とは、人生におけるすべてのことです。その中には考えられないようなこと、信じられないようなこともあります。何とも理不尽だなぁ思えるようなことも含まれています。たとえば、その後にあるように「正しい人が正しいのに滅び、悪しき者が悪を行う中で長生きすることがある。」というようなことです。私たちもこのような現実に直面することがあるのではないでしょうか。そして、その度に、イエス様を信じ、神様に信頼して歩むことにいったいどんな意味があるのだろうかと考えさせられるわけです。中には、そのような不条理を経験する中で、「聖書はもういらない」と信仰から離れてしまう人もいます。しかし、そのような現実の中にあっても、神を恐れて生きることを学ばなければなりません。

 

伝道者ソロモンは、その理由を次のように語るのです。16~18節です。「あなたは正しすぎてはならない。自分を知恵のありすぎる者としてはならない。なぜ、あなたは自分を滅ぼそうとするのか。あなたは悪すぎてはいけない。愚かであってはいけない。時が来ないのに、なぜ死のうとするのか。一つをつかみ、もう一つを手放さないのがよい。神を恐れる者は、この両方を持って出て行く。」

 

どういうことでしょうか。正しい人が正しいのに滅び、逆に、悪しき者が悪を行う中で長生きすることがありますが、これもあれも、神がなさることなのです。私たちにはわからないことがあります。そうかといって正しい人であることが問題なのではありません。たとえ、正しい人が滅びていくかのように見えても、正しい人であること、イエス様を信じて義と認めていただくことは、神に受け入れていただく唯一の道であることに変わりはありません。問題は、自分で義と認めてもらおうとあくせくすることです。ですからここには「あなたは正しすぎてはならない。自分を知恵のありすぎる者としてはならない。」とあるのです。そうかと言って、悪すぎればいいのかというとそうでもありません。正しすぎるのはよくありませんが、悪すぎてもいけないのです。なぜなら、自分を滅ぼしてしまうことになるからです。

 

それが18節で言っていることです。「一つをつかみ、もう一つを手放さないのがよい。神を恐れる者は、この両方を持って出て行く。」この「一つをつかみ」とは、正しすぎることであり、知恵ありすぎることです。そして「もう一つを手放さないのがよい」の「もう一つ」とは、悪すぎることであり、愚かであることです。どちらも手放さないで、両方持っているのが良いのです。つまり、神に信頼し、すべてを神にゆだね、神がなさることを受け入れて、神に感謝して生きることです。それが神を恐れて生きる人なのです。

 

20節にその理由が述べられています。「この地上に、正しい人は一人もいない。善を行い、罪に陥ることのない人は。」この地上には正しい人など一人もいないからです。それなのに、自分を正しい者とするなら、あの律法学者やパリサイ人たちのように、人をさばいてしまうことになります。彼らは自分たちには神の律法が与えられているので、優れた者、正しい者だと思い込んでいました。その結果、そうでない人たちをさばいていたのです。そのようなことが私たちにもあります。私たちももし自分を正しい者とするなら、同じ誤りに陥ってしまいます。それは最初の人アダムの罪そのものです。彼の問題は何だったのでしょうか。それは自分を善悪の基準としたことです。神ではなく自分を基準にしました。その結果、神から「あなたは、食べてはならない、とわたしが命じた木から食べたのか」と問われたとき、「私のそばにいるようにとあなたが与えてくださったこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」と答えたのです。あろうことか、神と妻のエバとを非難したのです(創世記3:11,12)。

 

残念ながら、今も「あなたのせいで・・・」と罵り(ののしり)合う夫婦喧嘩がどれほどあるでしょう。問題は、正しすぎることです。「私は正しい。悪いのはあなただ」と徹底的に主張するなら、結婚関係は破綻してしまいます。それはすべての人間関係、また国と国との関係にも当てはまることです。そのようにして自分を滅ぼすことになってしまうのです。

 

また、「知恵がありすぎる」のも問題です。そこには大きな落とし穴があります。ソロモン王はこの世の誰よりも知恵がありましたが、多くの妻を持つことで妻たちの偶像崇拝に陥り、神からの警告にも耳を傾けなくなってしまいました。自分こそ知者だと思う人は、神にも人にも聞くことができなくなります。ですから、「正しすぎる」ことも「知恵がありすぎる」ことも、神と人のありがたさを忘れさせるきっかけになってしまい、人を滅ぼしてしまうことになります。

 

そうかといって、悪すぎるのもよくありません。ここには、「あなたは悪すぎてはいけない。愚かであってはいけない。」とあります。これは、悪すぎなければ多少の悪は赦されるということではありません。これは、悪や愚かさであることを開き直ることは危険であるという意味です。「どうせ、私は・・なんだから」と開き直るなら、自分を滅ぼしてしまうことになります。また、「神のかたち」に造られたすべての人には良心があり悪いことをしたら心が痛みますが、悪いことをし過ぎると、それさえも感じなくなってしまいます。その結果、生ける屍のような状態になってしまうわけです。

 

では、どうしたらいいのでしょうか。Ⅰヨハネ2:1をご覧ください。ここに解決があります。「私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。しかし、もしだれかが罪を犯したら、私たちには、御父の前でとりなしてくださる方、義なるイエス・キリストがおられます。」

私たちはキリストによって罪が贖われ、神の前に義人とされました。しかし、私たちが罪を犯さずに生きることは不可能です。作家の三浦綾子さんは、その著「孤独のとなり」の中で「わたしたち人間は罪を犯さずには生きていけない存在だということである」と言っておられますが、罪を犯さずに生きていくことなどできないのです。…正しく歩もうとすればするほど、自分の愛のなさ、内側の醜さに心を痛めずにはいられません。しかし、私たちには、御父の前でとりなしてくださる方がおられます。その方は義なるイエス・キリストです。ですから、あなたが罪を犯したなら、その罪を悔い改めて、神に立ち返り、キリストにとどまることです。そうすれば、あなたの罪は赦されるのです。

18節に「一つをつかみ、もう一つを手放さないのがよい。」とあるのは、このことです。つまり、正し過ぎるのではなく、かといって悪すぎるのでもなく、謙虚になって自分の罪を認め、神の恵みとイエス様のとりなしに生きることこと、これが神の知恵であるということです。神を恐れる者は、この両方を持って出て行くのです。

 

あるとき、一人の若いクリスチャンの女性が、自分の弱さを率直に認めながら、真心から「私はイエス様なしには生きてゆけない・・」と言っているのを聞いたことがありますが、その謙遜な姿にとても感動したのを覚えています。自分を義とするのではなく、神の義、イエス・キリストの義に生きること、それが神の知恵なのです。

 

19節をご覧ください。「知恵は町の十人の権力者よりも、知恵のある者を力づける。」この知恵は、十人の権力者よりも、知恵ある者を力づけます。もっと力があるという意味です。なぜでしょうか?この地上に罪を犯さない人などひとりもいないからです。義人はいない。一人もいない。みんな罪を犯さずには生きていくことができません。そのような日々の歩みの中で私たちを真に力づけるのはこの神の知恵なのです。

 

Ⅱ.人の語ることばをいちいち心を留めてはならない(21-22)

 

次に、21~22節をご覧ください。ここにもう一つの知恵が語られています。「また、人の語ることばをいちいち心に留めてはならない。しもべがあなたをののしるのを聞かないようにするために。あなた自身が他人を何度もののしったことを、あなたの心は知っているのだから。」

人の語ることばをいちいち心に留めてはなりません。そうでないと、つまらないことに気が奪われてしまうことになります。それを気にしてどれだけ多くの人々が心を痛めていることでしょうか。ネットの書き込みで自殺する人も跡を断ちません。しかし、悪意ある者のことばは気まぐれです。そんなことばにいちいち躓き、心をかき乱されるのも馬鹿馬鹿しいことです。イギリスの有名な牧師チャールズ・スポルジョンはこう言いました。「人の舌を止めることはできない。だったら、自分の耳を閉じて、話されたことを気にしないことである」と。
22節には、どうして人の語ることばをいちいち心に留めてはならないのか、その理由が書かれてあります。それは「あなた自身が他人を何度もののったことを、あなたの心は知っているのだから。」です。なるほど、考えてみると、自分自身もよく人の悪口を言ってしまいます。自分も他人をののしるのだから、他人もあなたをののしるのは当然じゃないかというのです。自分は人から批判されたり、非難されたりするのが嫌なのに、自分は平気で人の悪口を言ってしまう。これが人間の性です。

 

大川従道先生が、ご自身の説教集「風は己が好む所に吹く」という本の中で、聖霊がご自身の教会を好んでいない、ということを感じた時があったと言っておられます。それは、先生がよく信徒を裁いていたことが原因でした。少し長いですが、その部分を引用させていただきます。

「私は鈴木健二さんの気くばりの本が出る前から、「気くばり牧師」と言われていました。日曜日、朝から晩まで私は気を配っていたのです。絶対に人から後ろ指さされないように気をつかっていたのです。老人には優しくし、青年にも仕え、人間的な努力で、電話の取り方、言葉づかい、カウンセリング、あらゆることに配慮していました。

日曜日の夜は疲れきり、コカコーラとスルメを買ってきて、妻を相手に信徒の悪口を言うのが楽しみでした。若い牧師が一生懸命頑張っているのだから、日曜日の夜くらい信徒の悪口を言わせてもらわなければ、と思っていたのです。

「あの役員は言うことは言うけれど金は出さないね。いつになったら給料上がるかね」

「婦人会の彼女はしゃべること喋ること。ありゃ、口から生まれてきたのかね」

「今の若者はしつけがなってないねえ。親の顔が見たい」信徒を裁くと溜飲(りゅういん)が下がり、「スカッとさわやかコカコーラ」でした。そして、また月曜日からさわやかに伝道する、というのを繰り返していました。

その点を、私は主から厳しく指摘されました。

・・・

しかし、私は神様から言われました。

「何を言うか。お前に必要だから、この人をここに置くのだ」

・・・

私は主の御前に涙を流しながら、「イエス様、ごめんなさい。あなたの愛する信徒を裁いていました。あなたが置いてくださったのに、「あいつの根性が悪い」などと思っておりました。赦してください!」

気持ちが変わらないうちに、次の日曜日にこんな説教をしました。

「愛する皆さん、私に御言葉が与えられました。この御言葉通りに生きれば絶対に祝福されると思います。それは、「風は己が好む所に吹く」という御言葉です。聖霊様は人格を持っておられて、人を裁くことがお嫌いです。それを示されました。皆さんの中にはお気づきの方もいらっしゃるかもしれませんけれど、私はけっこう皆さんを裁いておりました」

うなずいている人がいました。

「私はそれがいけないことだと分かりましたから、もう、どんなことがあっても皆さんを裁かない牧師になります。どうか私を赦してください。ところで、皆さんも、事によると、私を裁いていたでしょう」

またうなずいている人がいました。

・・・

それから教会に人が増え始め、試練もありましたが、ものすごく祝福され、教会堂も建てられました。大川先生いわく、祝福の原点は何でしょう。「裁き合わない」ことです。神様がくださった人生を裁き合わないことです。そうすれば、聖霊様は喜んでくださり、私たちの人生を祝福してくださいます。

 

私たちも他人を何度ののしったことでしょう。だから、他人があなたをののしるのは当然なことなのです。でもそのようなことにいちいち心を留めてはなりません。そうでないと、つまらないことに気を遣わなければならなくなるからです。むしろ、私たちは人をののしるのではなく神の愛で人を評価し、その人の良さを見つけ、その人のためにとりなしの祈りをささげていくべきです。そのように人を否定的な眼ではなく、肯定的な眼で見るなら、あなたもそのように観られるようになるでしょう。人の悪口、陰口は、自分に返ってくるものです。

 

米国の伝道者スタンレー・ジョーンズが、ある国の有力な将軍と話をしていたときのことです。この将軍は密かに女を囲っていました。

彼はしきりに、他のクリスチャンの悪口を言い出しました。ジョーンズは、このような状態の人のことをよく知っていました。

「悪意の背後には、自分自身の堕落を隠そうとする動機があるということ」を。

そこでジョーンズは、将軍の語る批判の言葉をさえぎって言いました。

「将軍、ペテロがヨハネについて『主よ、この人はどうですか』とイエスに尋ねたとき、主はこう言われました。『それがあなたと、何のかかわりがありますか。あなたはわたしに従ってきなさい。』(ヨハネ21:22)」

すると将軍は素直に、「どうも負けました」と自分の非を認めました。

 

大切なのは、他の人があなたのことを何と言っているかということではなく、主があなたに何と言っておられるかということであり、主に従っていくことです。

 

Ⅲ.キリストにあって歩みなさい(23-29)

 

最後に、23~29節をご覧ください。まず、23~25節までをお読みします。「私は、これらの一切を知恵によって試みた。私は言った。「私は知恵のある者になりたい」と。しかし、それは私には遠く及ばないことだった。今までにあったことは、遠く、とても深い。だれがそれを見極めることができるだろうか。私は心を転じて、知恵と道理を学び、探り出し、探し求めた。愚かさの悪と、狂気の愚かさを知ろうとした。」

伝道者は、人生におけるすべてのことを見極めるために知恵を得ようと決心しましたが、それは無理なことでした。知恵は遠いかなたにあって、だれもそれを見出すことはできないからです。そこで、彼は知恵と物事の道理を追及し、捜し求めました。すると、そこにあったのは人間の悪行と狂気の愚かさばかりでした。

 

その一つが26節にあることです。「私は、女が死よりも苦々しいことに気がついた。女は罠であり、その心は網、その手は、かせである。神に良しとされる者は女から逃れるが、罪に陥る者は女に捕らえられる。」

ここをちょっと見ると、女性の皆さんは憤慨してしまうかもしれませんね。でもこれは女性を蔑視したり、差別しているのではなく、私たちが陥りやすい罠について警告しているのです。それが「女」であり、「男」であるということです。つまり「異性」です。この「女」という言葉ですが、これは「娼婦」のことを指しています。伝道者は、こうした娼婦が死より苦々しいということを実感したのです。ソロモンには千人もそばめがいましたから、それがどれほど男を捕らえる罠であり、網であり、手かせであるのかを実感していたのでしょう。

 

しばらく前に、NHKBSプレミアムで「洞窟おじさん」というスペシャルドラマを放映しました。これは、親の虐待から逃れ13歳で家出をした少年が、43年間も洞窟で生活したという実話です。山奥の洞窟で一体どうやって43年間も1人で生活することができたのでしょうか。この少年はヘビや木の実で食いつなぎながら、やがて山の幸を売って大金を稼ぐ知恵を身につけていくのです。その中に自力でイノシシを狩るシーンが出て来るのですが、どうやって狩るのかというと罠を使ってです。土を深く掘りそこに竹を槍の形に鋭く切ったものを並べ、その上にうっすらと土をかぶせて元のように見せかけるのです。そして、イノシシの前に自分の姿を現して襲わせるのです。逃げるふりをした少年はその罠のそばを駆け抜け、イノシシがその罠に落ちるようにするのです。自分が落ちたら大変ですが、そうやってイノシシを捕まえて食いつないだのです。まさに女は罠であり、その心は網、その手は、かせです。神に喜ばれる者は女の罠から逃れますが、罪に陥る者は女に捕らえられるのです。

 

27~28節をご覧ください。「伝道者は言う。見よ。私が道理を見出そうとして、一つ一つに当たり、見出したことは次のとおりである。私のたましいは、なおも探し求めたが、見出すことはなかった。私は千人のうちに、一人の男を見出したが、そのすべてのうちに、一人の女も見出さなかった。」

「道理」とは、物事の正しいすじみち。また、人として行うべき正しい道のことです。伝道者はこの道理を見いだそうと一つ一つ当たりましたが、何も見出すことができませんでした。彼が見出したのは、千人のうちで心の真実な人は、男はせいぜい一人ぐらいしかいないということ、女の人に至っては一人もいませんでした。なんだ、やっぱり女性蔑視ではないかと思われるかもしれませんが、それは今の私たちの感覚とはかけ離れています。というのは、聖書は男女が等しい価値感を持っていると教えているからです。いずれにせよ、人として行うべき正しい道を知っている人はほとんどいませんでした。

 

そこで伝道者はこういうのです。29節をご覧ください。これが伝道者の結論です。ご一緒に読みましょう。「私が見出した次のことだけに目を留めよ。神は人を真っ直ぐな者に造られたが、人は多くの理屈を探し求めたということだ。」

伝道者は、知恵の探求の結果、正しい結論に至りました。それは、神は人を真っ直ぐな者に造られたが、人は多くの理屈を探し求めたということです。どういうことでしょうか。神は人を真っ直ぐな者として創造されたが、人は勝手に向きを変え、罪の生活へと向かって行った、ということです。「真っ直ぐな者に造られた」とは、正しい者に造られたという意味です。それは神のかたちに造られたということです。神を愛し、神と交わり、神の栄光を現す者として私たち人間を造られたのに、人は、本来造られた目的から離れて自分勝手な道に向かってしまいました。

 

これこそが、人間の本当の問題です。私たちの根本的な問題は神から離れてしまったことです。聖書ではこれを罪と言っています。「罪」とはギリシャ語で「ハマルティア」と言いますが、それは「的外れ」を意味します。本来なら神という的に向かって矢が放たれなければならないものを、その的を外してしまいました。それが「罪」です。その本質は「自分中心」です。神中心ではなく自分中心であること、それが罪です。罪を英語で書くと「SIN」と書きますが、真中にあるのは何でしょうか?「I」、「私」です。これが罪の本質なのです。

 

ですから、もし私たちが本当に満たされたいと願うなら、この罪を解決し、再び元々の状態、真っ直ぐな者に造り変えていただかなければなりません。神のかたちに再創造していただく必要があるのです。どうしたら新しく造り変えていただくことができるのでしょうか。Ⅱコリント5:17にこう約束されてあります。「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」

だれでも、キリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。罪という古い性質が過ぎ去って、すべてが新しくされます。もしあなたが人生に答えを見出したいなら、満ち足りた人生を送りたいと願っているなら、キリストにあって神が造られた元の状態に造り変えられなければならないのです。

 

それは自力ではできません。ソロモンもそうでした。彼も自分の力で何とかしようとしましたができませんでした。日の下でどんなに労苦しても、「空の空。すべては空。」なのです。しかし、ここにソロモンよりも偉大な方がおられます。私たちを「真っ直ぐな者」、「正しい者」に造り変えてくださる方がおられるのです。それはイエス・キリストです。だれでも、キリストのうちにあるなら、新しく造り変えられます。それは完全無欠な人間に変えられるということではありません。神の目には、イエス・キリストのうちにいる者とされるということです。私たちはイエス・キリストのうちにいなければただの罪人にすぎません。しかし、イエス・キリストのうちにいるなら、私たちの罪が覆われるのです。キリストという義の衣を着せられるからです。イエス・キリストの義の衣を着て、神に再び受け入れられた者となり、本来の姿に造り変えられるのです。それ以外にいかなる理屈を探しても答えは見つかりません。唯一の答えは、イエス・キリストにあります。コロサイ2:3に「このキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されています。」とありますが、このキリストに知恵と知識の宝がすべて隠されているからです。

 

あなたはどこに知恵を求めていますか。神の知恵はこの方、イエス・キリストにあります。ですから、このキリストを求め、キリストによって新しく造り変えられ、キリストの知恵に生きる者とさせていただきたいと思います。これが私たちの教会の今年の目標です。「キリストにあって歩む」。「このように、あなたがたは主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストにあって歩みなさい。」(コロサイ2:6)

このキリストにあって歩むお一人お一人の上に、神の知恵と知識が豊かに満ち溢れますようにお祈りします。