Ⅱサムエル記17章

 Ⅱサムエル記17章から学びます。

 Ⅰ.アヒトフェルとフシャイの進言(1-14)

 まず、1~4節をご覧ください。「アヒトフェルはアブサロムに言った。「私に一万二千人を選ばせてください。私は今夜すぐに、ダビデの後を追い始めます。私は、彼が疲れて気力を失っている間に、彼を襲い、彼を震え上がらせます。彼と一緒にいるすべての民は逃げるでしょう。私は王だけを打ち殺します。私は兵全員をあなたのもとに連れ戻します。すべての者が帰って来るとき、民はみな、穏やかになるでしょう。あなたが求めているのは、ただ一人の人だけですから。」このことばは、アブサロムとイスラエルの全長老の気に入るところとなった。」

アブサロムがエルサレムに入場した日、アヒトフェルは彼に一つの助言をしました。それは、ダビデが王宮に残した側女たちのところに入るようにというものでした。そうすれば、全イスラエルが、ダビデとアブサロムは決裂したことをはっきりと悟り、アブサロムの側に着くようになるだろうということでした。アブサロムはその助言を受け入れ、王宮の屋上に天幕を張り、そこで全イスラエルの目の前で、父ダビデの側女たちのところに入りました。

そしてきょうのところには、そのアヒトフェルがアブサロムに第二の助言を与えたことが記されてあります。それは、彼がイスラエルの中から1万2千人を選び、彼らとともにダビデの後を追い、ダビデが疲れて気を失っている間に彼を襲い、彼を殺すというものでした。そうなれば、ダビデと一緒にいる兵たちはみなアブサロムのもとに帰らざるを得なくなります。そのようにしてすべての者が戻ってくるとき、イスラエルの民はみな穏かになるでしょう。このアヒトフェルの作戦は、実に見事であり、アブサロムと長老たちを納得させました。

しかし、アブサロムはアヒトフェルの助言に不安を感じていたのか、フシャイを呼び出し、彼の助言も求めました。5節から14節までをご覧ください。「アブサロムは言った。「アルキ人フシャイを呼び出し、彼の言うことも聞いてみよう。」フシャイがアブサロムのところに来ると、アブサロムは彼に言った。「アヒトフェルはこのように語ったが、われわれは彼のことばに従ってよいものだろうか。もしそうでなければ、あなたが語りなさい。」フシャイはアブサロムに言った。「このたびアヒトフェルの進言した助言は良くありません。」フシャイは言った。「あなたは父上とその部下が戦士であることをご存じです。彼らは、野で子を奪われた雌熊のように気が荒くなっています。また、あなたの父上は戦いに慣れた方ですから、兵たちと一緒には夜を過ごさないでしょう。きっと今、洞穴かどこか、そんな場所に隠れているに違いありません。もし、兵たちのある者が最初に倒れたら、それを聞く者は『アブサロムに従う兵たちのうちに、打たれた者が出た』と言うでしょう。 たとえ、獅子のような心を持つ力ある者でも、気がくじけます。全イスラエルは、あなたの父上が勇士であり、彼とともにいる者が力ある者であるのをよく知っています。私の助言はこうです。全イスラエルをダンからベエル・シェバに至るまで、海辺の砂のように数多くあなたのところに集めて、あなた自身が戦いに出られることです。われわれは彼が見つかる場所に行って、そこで露が地面に降りるように彼を襲うのです。そうすれば、彼や、ともにいるすべての兵たちのうちには、一人も残る者はありません。もし彼がどこかの町に入るなら、イスラエル中の者がその町に縄をかけ、その町を川まで引きずって行って、そこに一つの石ころも残らないようにしましょう。」アブサロムとイスラエルの人々はみな言った。「アルキ人フシャイの助言は、アヒトフェルの助言よりも良い。」これは、主がアブサロムにわざわいをもたらそうとして、主がアヒトフェルのすぐれた助言を打ち破ろうと定めておられたからである。」

フシャイはダビデの友でした。この場合の「友」とは単なる友ということ以上にダビデの片腕であり、ダビデの相談相手であったということです。彼はダビデがエルサレムから逃げたときダビデと一緒に行きたかったのですが、ダビデにとって負担になるということでエルサレムに戻り、アブサロムに仕えるふりをして、その情報をダビデに流すという使命が与えられました。アブサロムはフシャイの話をすっかり信じて、これから何かをする時には二人の助言を受けて行っていこうとしたわけですが、今そのフシャイの助言も聞こうと思ったのです。

フシャイはアブサロムから助言を求められると、開口一番「このたびのアヒトフェルの進言した助言はよくない」と言いました。フシャイは、アヒトフェルの助言を聞いて、内心あせっていたのかもしれません。前の章にはアヒトフェルの助言は「人が神のことばを伺って得ることばのようであった。」(16:23)とありますが、このままではダビデは殺されてしまうと思ったでしょう。そこで彼はその天才的な洞察力を持って、非常に有効な戦法をアブシャロムに提案しました。それは以下のようなものでした。

すなわち、もしダビデひとりを殺すといっても、彼は百戦錬磨のつわものだから、そう簡単に倒せるような相手でない。きっと今頃は洞穴とか、そんな所に隠れているに違いない。そんなところに出て行って、ダビデを見付ける前にアブサロム軍のだれかが撃ち殺されることでもあれば、アブサロム軍の士気は一気に下がってしまうことになります。それよりもイスラエル全地域から数多くの兵士を集め、アブサロム自身が指揮を執って総攻撃をかけるべきだ。そして、ダビデが見つかったら、そこで地面に露が降りるように彼を襲うのです。そうすれば、彼や、彼とともにいるすべての兵たちは、一人も残らないでしょう。もしダビデがどこか別の町に逃げても、イスラエル中の者がその町に網をかけ、その町を川までひきずって行って、そこに一つの石ころも残らないようにしましょう、というものです。いわゆる時間稼ぎです。アブサロムがイスラエルの国中から兵士を集めている間に、そのことをダビデに告げ、ダビデが逃げることができるようにしたのです。

さて、アヒトフェルとフシャイの助言のうちどちらが採用されたでしょうか。14節をご覧ください。「アブサロムとイスラエルの人々はみな言った。「アルキ人フシャイの助言は、アヒトフェルの助言よりも良い。」これは、主がアブサロムにわざわいをもたらそうとして、主がアヒトフェルのすぐれた助言を打ち破ろうと定めておられたからである。」

アブサロムとイスラエルの人々はみな、アヒトフェルの助言よりも、このフシャイの助言の方が良いと思いました。いったいどうしてこのような結果となったのでしょうか。ここにその理由も述べられています。それは、主アブサロムにわざわいをもたらそうとして、主がアヒトフェルのすぐれた助言を破ろうと定めておられたかです。もしアヒトフェルの助言が採用されていたら大変なことになっていました。ダビデは殺され、アブサロムの王位が確立されていたでしょう。しかし、主はそれをお許しになりませんでした。なぜなら、主はアブサロムではなくソロモンがダビデの後継者になることを定めておられたからです。その計画が成就するために主は、アブサロムの判断力を鈍らせ、彼の身に破滅をもたらされたのです。このようにすべての人間の判断の背後には主の御手があるのです。いや人間の判断ばかりでなくすべての出来事の背後にです。このコロナの背後においてもです。主はご自分の思いのままに人の心を開いたり閉じたりすることができるのです。ですから、主のみこころにそって祈り、みこころにそって行動することが大切なのです。

と同時に、以前にダビデは「主よ。どうかアヒトフェルの助言を愚かなものにしてください。」(Ⅱサムエル15:31)と祈りましたが、これはその祈りの答えでもあったことを見ます。ダビデはまさかこのようにして祈りが答えられるとは思っていなかったでしょうが、主はそのダビデの祈りを聞いておられたのです。「何事でも神のみこころに従って願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。」(Ⅰヨハネ5:14)

 Ⅱ.神の守り(15-23)

次に15~23節までをご覧ください。「フシャイは祭司ツァドクとエブヤタルに言った。「アヒトフェルは、アブサロムとイスラエルの長老たちにこれこれの助言をしたが、私は、これこれの助言をした。今、急いで人を遣わして、ダビデに、『今夜は荒野の渡し場で夜を過ごしてはいけません。必ず、あちらへ渡って行かなければなりません。そうでないと、王をはじめ、一緒にいる民全員にわざわいが降りかかるでしょう』と告げなさい。」ヨナタンとアヒマアツはエン・ロゲルにとどまっていたが、一人の女奴隷が行って彼らに告げ、彼らがダビデ王に告げに行くようになっていた。これは、彼らが都に入るのを見られないようにするためであった。ところが、ある若者が彼らを見て、アブサロムに告げた。彼ら二人は急いで去り、バフリムに住むある人の家に行った。その人の庭に井戸があったので、彼らはその中に降りた。その人の妻は覆いを持って来て、井戸の口の上に広げ、その上に麦をまき散らしたので、だれにも知られなかった。アブサロムの家来たちが、その女の家に来て言った。「アヒマアツとヨナタンはどこにいるのか。」女は彼らに言った。「あの人たちは、ここを通り過ぎて川の方へ行きました。」彼らは、捜したが見つけることができなかったので、エルサレムへ帰った。彼らが去った後、二人は井戸から上がって来て、ダビデ王に知らせに行った。彼らはダビデに言った。「さあ、急いで川を渡り始めてください。アヒトフェルがあなたがたに対して、これこれのことを進言したからです。」ダビデと、ダビデのもとにいたすべての者たちは、ヨルダン川を渡り始めた。夜明けまでにヨルダン川を渡りきれなかった者は一人もいなかった。アヒトフェルは、自分の助言が実行されないのを見ると、ろばに鞍を置いて自分の町の家に帰り、家を整理して首をくくって死んだ。彼は彼の父の墓に葬られた。」

 フシャイは、祭司ツァドクとエブヤタルに自分がアブサロムに言った助言を伝えたうえで、ダビデに速やかに荒野を出てヨルダン川を渡るようにと伝えました。彼らはそれを自分たちの息子ヨナタンとアヒマアツに伝え、それを荒野にいたダビデのところに伝えることになっていたからです。ダビデに情報を伝えるネットワークが出来ていたのです。

ところが、ヨナタンとアヒマアツが一人の女奴隷のところに行ってそれを伝えたとき(この女奴隷がダビデに告げることになっていたので)、それをある若者に見られてアブサロムに告げられてしまったのです。大ピンチです。それで二人はどうしたかというと、その場を急いで立ち去り、バフリムに住むある人の家に行きました。そして、その人の庭に井戸があったので、その中に隠れました。その人の妻は覆いを持って来て、井戸の上に広げ、その上にまき散らしたので、だれにも知られることがありませんでした。アブサロムの家来たちが、その女の家に来て捜しましたが見つけることができず、彼らはエルサレムのアブサロムのもとに帰りました。主がこの諜報活動を守ってくださったのです。そして、それをダビデ王に知らせることができたので、ダビデと、ダビデのもとにいたすべての者たちは、夜明けまでにヨルダン川を渡りきることができました。

ある人はこの女がやったことは嘘ではないか、罪ではないかと言う人がいますが、このような行為を罪と呼ぶべきではありません。なぜなら、これは戦争の中で起こった戦略の一部であり、いのちの危険を冒して斥候(スパイ)を助けたのだからです。かつてイスラエルがエリコを攻略したとき、その前にその地を偵察させたことがありましたが、その時にラハブという女性が二人の斥候をかくまい、嘘をついて彼らを守りました。そのことについて聖書はこのように言っています。「信仰によって、遊女ラハブは、偵察に来た人たちを穏やかに受け入れたので、不従順な者たちと一緒に滅びずにすみました。」(へブル11:31)また、ヤコブ2章25節にも、「同じように遊女ラハブも、使者たちを招き入れ、別の道から送り出したので、その行いによって義と認められたではありませんか。」とあります。すなわち、あのラハブがやったことを信仰の行為として称えられているのです。ここでも同じです。確かに彼女は嘘をつきましたが、それは罪と呼ぶべきことではなく、むしろ信仰から出たことだったのです。主イエスは、「蛇のようにさとく、鳩のように素直でありなさい。」と言われましたが、私たちは鳩のように素直であるだけでなく、蛇のようにさとくあることも求められているのです。

23節を見てください。「アヒトフェルは、自分の助言が実行されないのを見ると、ろばに鞍を置いて自分の町の家に帰り、家を整理して首をくくって死んだ。彼は彼の父の墓に葬られた。」

 アヒトフェルは、自分のはかりごとが行なわれないのを見て、ろばに鞍を置き、自分の町の家に帰って行き、家を整理して、首をくくって死にました。自殺です。彼はなぜ自殺したのでしょうか。ここには「自分の助言が実行されないのを見ると」とあります。彼は自分の案が棄却された瞬間、この戦いが敗北に終わることを悟ったのでしょう。どうせ戦いに負けて殺されるのなら、自分でいのちを断ったほうがいいと考えたのです。イエスを裏切って首をくくって死んだイスカリオテのユダも同じです。彼も罪ない人を銀貨30枚で売り渡してしまったことを悔いて、自ら命を断ってしまいました。この二人に共通していることはどんなことでしょうか。それは悔い改めることを拒んだことです。Ⅰヨハネ1章9節には「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」とあります。もし、私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実な方ですから、私たちをすべての悪からきよめてくださいます。それはダビデに対する裏切り行為であっても、主に対する裏切る行為であっても、です。もしアヒトフェルが自分の罪を悔い改めたのであれば、彼の罪は赦されました。もしイスカリオテのユダが悔い改めたのであれば、彼の罪も赦されたのです。残念ながら彼らはそうではありませんでした。イスカリオテのユダは、罪のない人を売り渡してしまったという後悔がありましたが、悔い改めませんでした。そもそもイエスを自分の救い主として信じていませんでした。アヒトフェルも、自分が神に対して罪を犯したことを悔い改めませんでした。彼は自分のはかりごとが実行されず、ダビデを殺すことに失敗したことに絶望して、それで自殺したのです。

 大切なのは、悔い改めることです。神は、へりくだり、悔い改める者には、豊かなあわれみと、有り余る恵みを注いでくださいます。パウロがこう言いました。「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。」(Ⅱコリント7:10)神が求めておられるのは世の悲しみではなく、神のみこころに添った悲しみなのです。

 Ⅲ.予期せぬ助け(24-29)

 最後に、24~29節をご覧ください。「ダビデがマハナイムに着いたとき、アブサロムは、彼とともにいるイスラエルのすべての人々とヨルダン川を渡った。アブサロムはアマサをヨアブの代わりに軍団長に任命していた。アマサは、アスリエル人イテラという人の息子で、イテラは、ヨアブの母ツェルヤの妹ナハシュの娘アビガルと結婚していた。イスラエルとアブサロムはギルアデの地に陣を敷いた。ダビデがマハナイムに来たとき、アンモン人でラバ出身のナハシュの息子ショビと、ロ・デバル出身のアンミエルの息子マキルと、ロゲリム出身のギルアデ人バルジライは、寝台、鉢、土器、小麦、大麦、小麦粉、炒り麦、そら豆、レンズ豆、炒り豆、蜂蜜、凝乳、羊、チーズを、ダビデと彼とともにいた民の食糧として持って来た。彼らが「民は荒野で飢えて疲れ、渇いています」と言ったからである。」

エルサレムを逃れたダビデは、ヨルダン川を渡りマナハイムに到着しました。ここは、ダビデがまだヘブロンで王であったとき、サウルの息子イシュ・ボシェテがこの町を拠点としてイスラエルを支配していたところです(Ⅰサムエル2:8)。ダビデがこの町を選んだのは、おそらく要塞がしっかりしていたことと、また、イシュ・ボシェテにダビデが害を加えなかったことを覚えている人々がいたことからだと思われます。

アブサロムも大軍を率いて、ヨルダン川を渡ってきました。そして、ギルアデの地に陣を敷きました。ギルアデの地とは、ダビデがいたマナハイムがある地域です。すなわち、両者が激突する準備が整ったということです。

するとそこへ三人の首長がダビデのところに支援物資を携えてきました。アンモン人ナハシュの息子ショビと、ロ・デハル出身のアンミエルの息子マキルと、ロゲリム出身のギルアデ人バルジライです。ここで聞き覚えのある人物は、アモン人のナハシュです。

アンモン人ナハシュの息子ショビは、ダビデがその兄弟ハヌンに真実を尽くそうとしましたが、ハヌンはダビデに歯向かいました。ショビはその兄弟です。彼はおそらく、ダビデの寛大さを横目で見ていたのでしょう。そして、マキルという人物も前に出てきました。イシュ・ボシェテを自分の家屋に住まわせていた人物です。ダビデの親切を彼も経験していました。そして地元の首長であるバルジライがいます。彼は後にも出てきますが、非常に高齢で、非常に富んでいました。ダビデがいつまでも覚えていて、晩年に息子ソロモンに、バルジライの子らには良くしてあげるようにと命じているほどです。彼らは寝台、鉢、土器、小麦、大麦、小麦粉、炒り麦、そら豆、レンズ豆、炒り豆、蜂蜜、凝乳、羊、チーズを、ダビデと彼とともにいた民の食糧として持って来たのです。どうしてでしょうか。最後のところにこうあります。「彼らが「民は荒野で飢えて疲れ、渇いています」と言ったからである。」」ダビデたちが、荒野で飢えて疲れ、渇いていると言っているのを聞いたからです。食料の備えなしにエルサレムを出てきたダビデたちにとって、これは何よりの贈り物でした。彼らがしたことは、いつまでも聖書の記録にとどめられることになりました。

神を信じていても、予期せぬところから苦難や試練が襲ってきます。しかし、いかなる試練の中でも神が私たちから去られることはありません。それどころか、思いがけないところからこうした助けの手が差し伸べられるのです。

今、あなたにはどんな苦難や試練が襲っていますか。それがどんなものであっても、神はあなたとともにいて、このように予期せぬ方法であなたを助けてくださいます。耐えられない試練はありません。神は耐えることができるように、試練とともに脱出の道も備えてくださると信じて、神の助けを待ち望みましょう。

雅歌5章2~7節「戸をたたく花婿」

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きょうは、雅歌5章2節から7節までの箇所からお話します。タイトルは、「戸をたたく花婿」です。

ここから新しい場面に入ります。前回までのところには、花嫁と結ばれた花婿が、花嫁の美しさをほめたたえました。たとえば、4章7節には「わが愛する者よ。あなたのすべては美しく、あなたは何の汚れもない。」とあります。こんなことを言われた花嫁はどんなうれしかったことでしょう。花嫁の美しさに花婿の心がすっかり奪われてしまったのです。これが花婿の花嫁を見る目、心です。これが花婿であるキリストが花嫁である教会、私たちクリスチャンを見る目です。すばらしいですね。

しかし、時間が経つにつれ花嫁の心がだんだん冷えていきます。花婿が帰宅し戸を開けておくれと言っても、なかなかベッドから起き上がろうとしないのです。面倒かけないでください。もうベッドに入ってしまったんですから、と言って。その結果、花婿は去って行きました。これが2回目です。花婿の姿はもうそこにはありませんでした。花嫁は後悔して花婿を捜しますが後の祭りです。見つけることができませんでした。

私たちにもこのようなことがあります。イエス様を信じてバプテスマを受けたばかりの頃は何をしても楽しいのですが、いつしか馴れ合いのようになってしまい、自分本位になってしまうことがあります。主が「開けておくれ」と頼んでも、それに応答するのが面倒くさいと思うようなことがあるのです。その結果、主がどこかへ行ってしまったかのように感じることがあります。そういうことがないように、私たちはいつも主をつかんで離さず、主と親密な関係を保つようにしなければなりません。

Ⅰ.戸をたたく花婿(2)

まず2節をご覧ください。「私は眠っていましたが、心は目覚めていました。すると声がしました。私の愛する方が戸をたたいています。「わが妹、わが愛する者よ。私の鳩よ。汚れのないひとよ。戸を開けておくれ。私の頭は露にぬれ、髪の毛も夜のしずくでぬれているので。」」

「私」とは「花嫁」のことです。花嫁は眠っていましたが、心は目覚めていました。寝てはいても心は起きているという状態です。こういうことがあります。からだは休んでいても心は目覚めているということが。なぜでしょうか?花婿がいなかったからです。花婿がいれば安心してぐっすりと休むこともできたでしょうが、花婿がいなかったので眠ろうとしてもなかなか寝付かれなかったのです。

すると声がしました。愛する花婿の声です。花婿が帰って来たのです。いったいどこに行っていたのでしょうか。こんなに遅くなるまで。まさか外をほっつき歩いていたということではないでしょう。仕事で遅くなったのでしょうか。わかりません。ここにはその理由が書かれていないので、どうしてそんなに遅くなったのかはわかりせらん。ただ一つだけ言えることは、どんなことがあっても花婿の花嫁に対する愛は変わらないということです。なぜなら、この方は花嫁のために自分のいのちを与えるほど愛しておられる方だからです。この方は私たちの主イエス・キリストです。この方はどんなことがあっても私たちを見捨てたり、見放したりはしません。

しかし主は、時にこのようなことをされることがあります。突如として、あなたから離れてしまったかのようなことをされることがあるのです。それは主があなたを愛していないからではありません。あなたへの愛が冷めてしまったからではないのです。むしろ、あなたとの関係をもっと深めるために、あえてそのようにされることがあるのです。そうすることによってそれまで以上に主を求めるようになるからです。たとえば、家族に何らかの問題や困難が起こるとき、それまで以上に夫婦の絆が深められることがあります。それまでは何とも思わなかったのに、いや、面倒くさいなあと思っていたのに、そうした試練を通されることによって夫婦の関係がもっと強められることがあります。こういう時だからこそ夫婦が力を合わせて艱難苦難を乗り越えようとするからです。そうした試練がお互いの関係を見つめ直し、冷え切った関係を取り戻すきっかけになります。これまで以上に二人の絆を深めていく機会となるのです。

皆さんもそのような経験をされたことがあるのではないでしょうか。あれは本当に辛い経験だったけど、あれがあったからこそ今の自分たちがある。あのことによって私たちの関係がもっと強められたということが。同じように、イエス様との関係においてもその関係がもっと強いものとなるために、主はあえて自分を隠されることがあるのです。イエス様はいつも私たちと一緒にいることを望んでおられますが、それは単に今の関係を維持するということではなく、あるいは、バックスライドしなければいいということでもなく、今まで以上に親密になることを望んでおられるのです。もっと深い関係を持ちたいと願っておられるのです。救われるということはすばらしいことですが、どんなに救われてもその喜びが冷めていき、こんなはずじゃなかった、一緒にいるのが苦痛です、と言いながら過ごすことがあるとしたら、どんなに残念なことでしょうか。イエス様はそのことに気付かせるために、あえてご自身を隠されることがあるのです。ですから私たちは、自分がどこから落ちたのか、どこからずれたのかを考えて、初めの愛に立ち返らなければなりません。

2節をもう一度ご覧ください。その次です。「すると声がしました。私の愛する方が戸をたたいています。「わが妹、わが愛する者よ。私の鳩よ。汚れのないひとよ。戸を開けておくれ。私の頭は露にぬれ、髪の毛も夜のしずくでぬれているので。」

別に何の問題もないと、そういう人の心は眠っているかのような状態になります。そのような時、花婿なるキリストは、その人の心の戸をたたいてくださるのです。実際そういう場面があります。黙示録3章20節です。「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」

これはラオデキアの教会に宛てて書き送られた手紙です。彼らは冷たくもなく、熱くもありませんでした。彼らは、自分は富んでいる、豊かになった、足りないものは何もないと思っていましたが、実はみじめで、あわれで、貧しくて、盲目で、裸であるのが見えていませんでした。ですから、その目が見えるようになるために硝子体の手術を受けなさいとは言われませんでしたが、目に塗る目薬を買いなさい、と言われました。彼らに必要だったのは、熱心になって悔い改めることでした。そのために主は、彼らの心の戸をたたかれたのです。だれでも主の声を聞いて戸を開けるなら、主はその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もまた主とともに食事をするようになります。食事をするというのは親しい交わりを持つということです。もし、イエス様の声を聞いて戸を開けるなら、イエス様はあなたのところに入ってあなたとともに食事をし、あなたもイエス様とともに食事をするのです。

ホルマン・ハントという画家が、戸をたたくキリストの絵(「世の光」)を描きました。キリストが片手にランプを手に持って、家の戸をノックしている絵です。キリストがたたく扉には、外にノブが付いていません。中にいる人が開けなければ、戸は開かないのです。

私は、この絵を見るたびに、胸が締め付けられる思いがします。というのは、かつて、ずいぶん長い間、キリストを外に立たせたまま戸をたたき続けさせたことがあるからです。キリストは、私の所に来たいと願っているのに、私のほうが「いいえ結構です」、「私にはやりたいことがありますから」「束縛されたくないのです」と勝手なことを言って、開けるのを拒んでいました。今にして、何ともったいない、また何と申し訳ないことをしていたのだろうと思います。

しかし、キリストは、そんな傲慢で強情な私を、なお愛して、忍耐して、戸をたたき続けてくださいました。そのキリストの愛がわかったのは、自分の罪がわかり、神の前に悔い改め、この私の罪のためにキリストは十字架で死なれたのだと信じた時でした。こんな罪深い者のために、罪のない神の子がよくぞ死んでくださったと思います。

イエス様は、決して戸をこじ開けたり、蹴破ったりして、無理に入ろうとはしません。ただ、中の人が開けるのを待って、やさしく戸をたたき続けるのです。

キリストは、あなたの心の戸もをたたいておられます。あなたがその声を聞いて、自分で戸を開けるなら、キリストはいつでも中に入られ、あなたの魂の内に、すばらしい救いのみ業をなしてくださいます。

声を聞いているのに、戸を開けるのをためらったり、拒んだりしていると、やがてキリストは前から立ち去ってしまうかもしれません。そのときになって「しまった」ということにならないように、キリストの声に応答して、今、心の扉を開けていただきたいと思います。

また、ここで花婿は、「わが妹、わが愛する者よ。私の鳩よ。汚れてのないひとよ。戸を開けておくれ。私の頭はぬれ、私の髪の毛も夜のしずくでぬれている」と言っています。「私の妹」という表現は4章9節にも出てきましたが、血を分けた妹のような存在であるということです。また、「私の鳩よ」という表現は、花嫁が鳩のように純粋で清らかな存在であるということです。花婿にとって花嫁は「妹」のような存在であり、「鳩」のような存在なのです。何年経っても花婿の花嫁に対する愛は変わりません。変わってしまったのは花嫁の方です。結婚したばかりの頃はあれほど燃えていたのに、いつの間にか花婿に対する愛が冷えてしまいました。「もうイヤ!勝手にして。あなたなんて別にいてもいなくてもどうでもいい。」なんて言わんばかりです。しかし花婿はそんな花嫁に、「私の妹、わが愛する者よ。私の鳩よ。汚れのないひとよ。戸を開けておくれ。」と呼び掛けるのです。なぜでしょうか。ここには「私の頭は露にぬれ、髪の毛も夜のしずくでぬれているので」とあります。イスラエルは昼と夜の寒暖差があるので、特に夏になると夜露が降りるのです。そのため花婿の頭はびしょびしょに濡れていました。当然夜になると冷えてきます。ですから部屋の中に入ってタオルで頭を拭き、からだを温めてほしかったのです。だから「戸を開けておくれ」と呼びかけているのです。

皆さんには、この花婿の叫びが聞こえているでしょうか。あなたの花婿イエスは、戸の外にたってたたいておられます。その声を聞いてドアを開け、中に入れてくれますか。それとも、それとも、「別にいなくても間に合っています」といって無視するでしょうか。花婿イエスの頭は露に濡れ、身体も冷え切っています。「戸を開けておくれ」と言われる主の御声に応答し、あなたの心の戸を開けていただきたいと思います。

Ⅱ.去って行った花婿(3-6)

それに対して花嫁は、どのように応答したでしょうか。3節から6節までをご覧ください。まず3節だけをお読みします。「私は衣を脱いでしまいました。どうして、また着られるでしょう。足も洗ってしまいました。どうして、また汚せるでしょう。」どういうことでしょうか。

「衣」とは、くるぶしまで届く着物のことです。花嫁はそれを脱いでしまいました。つまり、もう寝支度をしてしまったということです。「足も洗ってしまいました」当時、道は舗装されていませんでしたから、また、履物もサンダルのようなものでしたから、外から帰った時やベッドに入る時などは足を洗う習慣がありました。それなのに、またドアのところまで行ったら足が汚れてしまいます。また足を洗うのですか?面倒くさいことです。そう言って断っているのです。なんて怠惰な妻でしょうか。自分の夫が帰宅したというのに面倒くさいと言って断るとは、何とも冷たい妻です。私の妻は決してこんなことは言いません。たぶん。どんなに疲れていても、どんなに面倒臭くてもベッドから起き上がって来て、ドアを開けてくれます。時々、何の反応もない時もあります。見ると熟睡しています。そういう時もあります。でも、起きていたら面倒くさいなんて決して言いません。

この花嫁は私たちの姿です。私たちも時々このようになることがあります。主が私たちの心のドアをノックしているのに、「今日は疲れているのでまた明日にしてください」とか、「今、少し忙しいんです。もう少し暇になったら開けます」と言って断ることがあります。でもそんな時だからこそ主は、私たちの心の戸をたたかれるのです。あなたはどうでしょうか。もう足も洗ってしまいました、面倒かけないでください、と言って断りますか。あまりたたかないでください。たまにゆっくりさせてくださいと言って断りますか。主イエス様と交わることができる絶好の機会を逃さないでください。

実はこれは花嫁にとって、初めてのことではありませんでした。過去にもそんなことがありました。覚えていますか。3章です。ちょっと振り返ってみましょう。3章11節のところで、冬は去り、春がやって来ました。新しい季節がやって来たのだから、さあ、立って、出ておいでと呼び掛けられたのに、彼女は出て行くことができませんでした。これは二人がまだ結婚する前のお付き合いをしていた時のことです。それでも彼女は自分の失敗に気付き花婿を捜しだすと、花婿をつかんで離すことをせず、彼女の実家の奥の間で親しい時を持ちました。やっとのことでそれを乗り越えたのに、またここで同じような失敗を繰り返しています。

するとどうなったでしょうか。4節をご覧ください。「私の愛する方が、戸の穴あたりに手を差し入れ、私の胸は、あの方のゆえにときめきました。私は起きて、私の愛する方のために戸を開けようとしました。私の手から没薬が滴り、私の指から没薬の液がかんぬきの取っ手に流れ落ちました。」

「戸の穴に手を差し入れる」とは、花婿がピッキングをしているということではありません。この戸の穴とは、誰がやって来たのかを見るための小さな穴のようなものです。花婿はこの小さな穴から手を差し入れ、戸を開けてくれるようにと合図をしたのです。そのとき、彼女の胸はときめきました。そこまでして自分と時間を過ごそうとする花婿に心が揺れ動いたのです。そしてベッドから起きて戸を開けようとしました。すると、花嫁の手から没薬が滴り、指から没薬の液がかんぬきの取っ手に流れ落ちました。どういうことでしょうか。

この没薬とは、花嫁が寝る前に手に塗っておくものです。それは甘い香りがしました。それは、性的欲情をかき立てるものでした。つまりそれは、夫婦の営みのために用いられるものだったのです。その没薬が彼女の手から滴り落ちました。それほどたくさん塗ったとは考えられませんが、おそらく滴り落ちるほどたっぷり塗ったというでしょう。

この「没薬」という言葉を聞くと、皆さんの中には何かピンと来る方もおられるのではないでしょうか。そうです、これは死人のためにも用いられるものでした。それがかんぬきの取っ手に落ちたのです。かんぬきとは、扉を閉じて内側から固めるための横木で、貫木(かんのき)とも書きますが、それはイエス様の十字架を指し示すものでもありました。イエス様はこの横木を担いでゴルゴタの丘に行かれました。いったいだれのためでしょうか。それはひとえに私のためであり、あなたのためでした。あなたのすべての罪を背負って十字架にかかってくださいました。それゆえに、私たちのすべての罪は赦されて、永遠のいのちが与えられたのです。イエス様はあなたのために没薬を塗られたのです。ここからも、イエス様の愛がどれほど尊いものであるか、どれほど大きいかを感じます。あなたはそれほどまでに愛されているのです。

6節をご覧ください。「愛する方のために戸を開けると、愛する方は、背を向けて去って行きました。私は、あの方のことばで気を失うばかりでした。あの方を捜しても、見つけることができませんでした。あの方を呼んでも、あの方は答えられませんでした。」

花婿の切なるアプローチに心動かされ、ようやくの思いで花嫁が戸を開けると、そこに花婿の姿はありませんでした。花婿は背を向けて去って行ったのです。せっかく戸を開けたのに背を向けて去っていくなんてひどい!と思う方もおられるかと思いますが、もとはと言えば花嫁がなかなか開けようとしなかったのが問題です。この時花婿が放ったことばに花嫁は気を失うばかりでした。この時花婿が何を言ったのかはわかりません。でもそれは花嫁が気を失うばかりだとあるので、相当ショッキングなことだったと思います。

私たちもイエス様の招きに応じないと、衝撃的なことばを聞くことになります。それは必ずしも悪いことばというよりも、心に突き刺さるようなことばです。たとえば、サマリヤの女がイエス様とお話をしていたとき、イエス様は「わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがなく、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」と言われると、彼女は「私が渇くことがないように、その水を私にください。」と言いました。 

するとイエス様は彼女にこのように言われました。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」(ヨハネ4:16)

それは彼女にとって痛いことばでした。それはちょうど石の割れ目に釘を打つようなものでした。そこだけには触れないでください。そうした部分をさらけ出すようにとイエス様は言われたのです。それは彼女にとって本当に衝撃的なことばでした。

同じです。花嫁にとって触れてほしくないこと、そうした心の闇をえぐり出すかかのようなことばを言われたのです。それはその後、彼女が必死になって花婿を捜し求めるようになったことからも想像できます。このように、時として主は、私たちにとって気を失うようなことを言われることがあります。けれども、それは私たちを傷つけるためではなく、私たちがそのことに気付き、もっと主を求めるようになるために、あえてそのようなことを言われることがあるのです。そのことをしっかり受け止めたいと思います。

花嫁は、必死になって花婿を捜しましたが、どこを捜しても見つけることができませんでした。花婿を呼んでも、花婿は答えられませんでした。どうしてでしょうか。先ほども申し上げように、花嫁が花婿を見失うのはこれが二回目です。最初の時と今回の時を比べてみると、共通点もありますが相違点もあります。その一番の違いは何かというと、花婿を見失った原因です。最初の時は婚約時代でしたが、そもそも花嫁は花婿のことをあまりよく知りませんでした。だから、花婿が「さあ立って、出ておいで」と言われても、花嫁は出て行くことをしなかったのです。

しかし、今回は違います。今回は花嫁と花婿と結ばれ、共に生活する中で花婿のすばらしさ体験していました。そのすばらしさ、その麗しさ、その偉大さを十分知っていたのです。にもかかわらず、彼女は花婿の呼びかけにすぐに応答しませんでした。それは花婿のことを知らなかったからではなく、花婿に関心がなかったからです。そうした花嫁の無関心が、花婿を見失う大きな原因だったのです。

もしかすると、私たちにもこのようなことがあるかもしれません。イエス様を知らないからではなく、知っているにもかかわらず、信じているにもかかわらず、無関心であるがゆえに、主を見失っていることがあります。これはただ単に私たちの怠慢によるものです。もうお風呂にも入ってしまったんですから、寝る支度も整えたんですから、わざわざ起きたくありませんと、自分の都合によって拒んでしまうことがあるのです。ついさっきまではハネムーンのように燃えていたのに、いつしか冷え切っているのです。それが大事だとわかっているのに自分のことでいっぱいになって、イエス様のことには関心が向かないのです。そうなると、花婿は去って行かれます。捜しても、捜しても、なかなか見つけることができなくなってしまのです。そうならないように注意したいですね。

Ⅲ.花嫁を打ちたたいた夜回りたち(7)

最後に7節をご覧ください。町を巡回している夜回りたちが私を見つけて、私を打ち、傷つけました。城壁を守る者たちも、私のかぶり物をはぎ取りました。」

花嫁は自分の過ちに気付き、必死になって花婿を捜しました。すると町を巡回している夜回りが彼女を見付け、彼女を打ちたたき、傷つけました。城壁を守る者たちも、彼女のかぶり物をはぎ取りました。想像してください。夜中に女性が一人で外をふらついているのです。夜回りが怪しいと思うのは当然でしょう。もしかしたら薬でもやっているんじゃないかと疑っても不思議ではありません。それで彼女を捕らえて打ちたたき、かぶり物をはぎ取るのです。

「夜回り」とは「夜警」とか「警備員」のことです。彼らはそうした不審な人物を見つけると、容赦なく打ちたたき、かぶり物をはぎ取ります。「かぶり物」とは「ベール」のことです。ベールをはぎ取ったのです。これが花婿を捜しに出た花嫁に夜回りたちがしたことです。

しかし、真の夜回りはそのようなことはしません。ガラテヤ6章1節には、「兄弟たち。もしだれかが何かの過ちに陥っていることが分かったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。」とあります。これが真の夜回りがすることです。もしだれかが何かの過ちに陥っているなら、柔和な心で正してあげます。打ちたたいたり、ベールをはぎ取ったりはしないのです。

これが私たちの主イエスです。イエス様は真の夜回りです。無知と無関心のゆえに神から遠く離れてしまった私たちを打ちたたく代わりにご自身が打ちたたかれ、十字架に掛かって死んでくださいました。それは御子を信じる者がひとりも滅びることなく、永遠のいのちを得るためです。そうです、イエス様はあなたのためにご自分のいのちを与えてくださったのです。それほどまでにあなたを愛してくださいました。あなたが誰かに責められたとき、傷つけられたとき、痛みつけられたとき、ぜひこのことを思い起こしてほしいと思います。イエス様はあなたをこよなく愛しているということを。

ヨハネの福音書8章に、姦淫の現場で捕らえられた女がイエス様のところに連れて来られた出来事が記されてあります。律法学者やパリサイ人は、その女を彼らの真ん中に立たせ、イエスに「先生、この女は姦淫の現場で捕らえられました。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするよう私たちに命じています。あなたは何と言われますか。」(8:4-5)

するとイエスは指で地面に何を書いておられましたが、彼らが問い続けて止めなかったので、身を起こしてこう言われました。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に人を投げなさい。」(7)

すると、一人、一人と去って行き、真ん中にいた女とイエス様だけが残されました。すると、イエスは身を起こして、彼女に言われました。「女の人よ、彼らはどこにいますか。だれもあなたにさばきを下さらなかったのですか。」(10)彼女が「はい、だれも。」と答えると、イエスは、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」(11)と言われました。

人々を罪に定める権威を持っておられたイエス様は、彼女に罪の赦しを宣言されました。罪をさばく権威のない人たちが人をさばこうとし、人をさばく権威を持っておられたイエス様がさばこうとされませんでした。律法学者やパリサイ人たちは、誰からも一番よく見えるところにこの女性をひきずり出しその罪をあばき出そうとしましたが、イエスはその女性に背を向けて、彼女の罪を見ないようにされました。どうしてでしょうか。それは主が彼女の罪を軽く扱っておられたからではありません。主が彼女の罪を背負われ、彼女が受けなければならない罪の刑罰を代わりに受けてくださったからです。これが、イエス様が私たちに対して取ってくださることです。本物の夜回りは、だれかが何かの過ちに陥っていたら、柔和な心でその人を正してあげるのです。ただ非難して、拒否して、責め立てて、打ちたたいて、ベールをはぎ取るのではなく、柔和な心で正して上げます。

しかし、時に間違いを犯した人は正されることが必要なので、厳しいことを告げられることもあります。まるで責め立てられているように感じてしまうこともあるかもしれません。でも忘れないでください。私たちの羊飼いであり、私たちの夜回りであられる主は、あなたを愛してやまないということを。イエス様があなたを見捨てるようなことは決してありません。むしろ、イエス様はあなたともっと近くになりたいし、あなたとの関係を深めたいと願っておられるのです。

あなたには、そんなイエス様の思いが届いているでしょうか。もしかしたら、霊的倦怠期を迎えておられるかもしれません。自分のことで一杯になり、イエス様との関係が後回しになっているということはないでしょうか。主はあなたの心の戸をたたいておられます。その御声に応答して、あなたの心の扉を開いてください。

雅歌4章8~16節「あなたは私の心を奪った」

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ソロモンの雅歌4章からお話しています。今日は「あなたは私の心を奪った」というタイトルでお話します。9節に「あなたは私の心を奪った」と、2回繰り返して使われています。「あなた」とは花嫁のこと、「私」とは花婿のことです。花婿が花嫁に対して、「あなたは私の心を奪った」と言っているのです。花婿の心を奪った花嫁です。やっとの思いで花嫁と結ばれた花婿は、うれしくて、うれしくて、何度も花嫁をほめ称えます。それが4章1節からの内容でした。1節には「ああ、あなたは美しい。」とあります。そして7節にも「あなたのすべてが美しい」(7)とあります。花嫁の目、髪、歯、唇、口、頬、首、乳房、そのすべてです。すべてが美しい。

きょうはその続きです。その花嫁の美しさは花婿の心を奪いました。この花嫁は、私たちのこと、私たち教会のことです。教会は、キリストの心を奪いました。どのように奪ったのでしょうか。

Ⅰ.レバノンから来ておくれ(8)

まず、8節をご覧ください。「花嫁よ。私と一緒にレバノンから、私と一緒にレバノンから来ておくれ。アマナの頂から、セニルの頂、ヘルモンの頂から、獅子の洞穴、豹の山から下りて来ておくれ。」

これまで花婿は花嫁を「わが愛する者」と呼んできましが、ここから「花嫁よ」と呼びかけています。それは、二人が結婚して結ばれたことでそのような関係となったからです。その花嫁に対して花婿は、「私と一緒にレバノンから、来ておくれ」と言っています。ここから、花嫁はレバノンに住んでいたことがわかります。その住み慣れたレバノンから出てきて、自分の宮殿に住みなさい、と言っているのです。

皆さんは、レバノンがどこにあるかわかりますか。「レバノン」とは、イスラエルの北部に隣接している小さな国です。面積は日本の岐阜県とほぼ同じです。アジア大陸でもっとも小さな主権国家として認められています。その割には頻繁にニュースで取り上げられています。昨年は首都のベイルートで爆発事故があったことが報じられました。カルロス・ゴーン氏が逃亡したのもこのレバノンです。

聖書では、「レバノン」は豊かさの象徴として用いられています。たとえば、詩篇72篇16節には、「地では、山々の頂に穀物が豊かにあり、その実りはレバノンのように豊かで」とあります。ここには「レバノンのように豊かで」と、実りが豊かである所として用いられています。また、今日の聖書の箇所にも、11節に「レバノンの香りのようだ」(11)とありますが、そこは絶えず香りで満ちていました。そのレバノンから来るようにというのです。なぜでしょうか。

その次にこうあります。「マナニの頂から、セニルの頂、ヘルモンの頂から、獅子の洞穴、豹の山から下りて来ておくれ」「マナニの頂」とか、「セニヌの頂」、「ヘルモンの頂」とは、このレバノンのことです。レバノンには南北に山脈が走っていて、そこにはこうした山々が連なっていました。北からアマニ山、セニル山と続き、一番南がヘルモン山です。これらは全長150キロにも及ぶ連山で、北はシリアから南はイスラエルまで続いていました。ですから、新約聖書にはヘルモン山がよく出てくるのです。ヘルモン山はイスラエルの北部にある山です。そこで主イエスはまばゆい姿に変貌されました。そこはイスラエルの北の果てにある山です。すなわち、この「レバノンから来ておくれ」の「レバノン」とは、花婿がいたエルサレムから離れているところ、遠いところを指していたのです。そのイスラエルの北の果て、エルサレムから一番離れたところから「来なさい」と言うのです。

私たちも時として神から離れてしまうことがあります。イスラエルの北の果てレバノンにいるようなことがありますが、でもどんなに神から離れてしまっても、北の果てに落ち込んでいたとしても、そこから来なければならないのです。

詩篇42篇6節には、「私の神よ。私のたましいは私の前でうなだれています。それゆえ、ヨルダンとヘルモンの地から、またミツァルの山から私はあなたを思い起こします。」とあります。この「ヨルダンとヘルモンの地」とは、このことです。神から遠く離れたところです。この詩篇の作者は、神から遠く離れてうなだれていました。でもそこから神を思い起こしています。神から遠く離れていても、今さら神のもとには戻れないのではないかと思っても、あなたは戻ることができます。なぜなら、主が「来なさい」と呼び掛けておられるからです。

ここにはまた「獅子の洞穴、豹の山」から下りて来ておくれ。」あります。どういうことでしょうか。獅子の穴で有名なのは、ダニエルが投げ込まれた獅子の穴です。彼はペルシャの王ダリウス(ダレイオス)の時代に、ペルシャの王以外のものに祈願する者があれば獅子の穴に投げ込まれるという禁令を破り、いつものように日に三度ひざまずき、自分の神に祈って感謝をささげました。それで彼は捕らえられ、獅子の穴に投げ込まれてしまいました。

しかし、神が獅子の口をふさいでくださったので、獅子は彼に何の害も加えることができませんでした。ダニエルが穴から引き上げられると、何と彼にはなんの傷もなかったのです。聖書はその理由をこう言っています。「彼が神に信頼していたからである。」(ダニエル6:23)もし彼が神に信頼していなかったら、彼はライオンに食われていたでしょう。ですから、この「獅子の穴」とは、不信仰の穴であると言えます。神に信頼しない、できないのです。いつも自分の力で生きようとしています。その結果、八方塞がりに陥っているのです。そんな不信仰の穴から出てくるようにと呼び掛けられているのです。

さらに、ここには「豹の山」とあります。「豹の山」から下りて来るようにと。黙示録13章2節に、「ひょう」が出てきます。「私の見たその獣は、ひょうに似ており、足は熊の足のようで、口は獅子の口のようであった。竜はこの獣に、自分の力と位と大きな権威とを与えた。」とあります。これはやがて来る反キリストのことです。その獣は「ひょう」に似ていました。すなわち、この「豹の山」とはサタンの力、敵に取り囲まれて二進も三進もいかないような状態のことを指しています。そうした豹の山から下りて来なければなりません。そうすれば、あなたもキリストの救いのすばらしさを体験することができます。

あなたは今どこにいますか。アマニの頂、セニルの頂、ヘルモンの頂ですか。それとも、獅子の穴でしょうか。あるいは、豹の山ですか。花婿なるキリストは、そこから「来なさい」と呼び掛けておられます。もう来るなうっとうしい!顔も見たくない!あっちへ行け!と言うのではなく、「来なさい」と言ってくださるのです。たとえレバノンのように神から遠く離れたところにいても、何度でもやり直すことができます。何度もつまずき、主から離れたとしても、あなたはやり直すことができるのです。主はあなたを決して見放したり、見捨てたりすることはなさらず、「来なさい」と呼び掛けてくださるのです。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)

あなたが神から遠く離れ、人生に疲れ果て、重荷で押しつぶされそうであるなら、花婿であられるキリストのもとに来てください。そうすれば、主があなたを休ませてあげます。

どうやって来たら良いのでしょうか。ここには「私と一緒に来ておくれ」とあります。しかもこれも2回繰り返されています。この花婿であられるイエス・キリストと一緒に来ておくれと言うのです。自分一人ではとても行けないと思っている方がおられますか。大丈夫です。イエス様が一緒にいてくださいますから。あなたは一人ではありません。いつでもイエス様が一緒にいてくれます。だから恐れることはありません。安心して来ることができます。

ですから、あなたは安心して主のもとに来ることができます。たとえ主から遠く離れたところにいても、たとえ不信仰の穴に落ちていても、たとえ罪に支配され、自分で自分のことがわからないような状態にあっても、花婿なる主が共にいてくださるので、あなたは来ることができるのです。花嫁よ。私と一緒にレバノンから来ておくれと言われる花婿の声に応答して、花婿のもとに下りて来たいと思います。

Ⅱ.あなたは私の心を奪った(9-12)

次に、9~12節をご覧ください。まず9節をお読みします。「あなたは私の心を奪った。私の妹、花嫁よ。あなたは私の心を奪った。ただ一度のまなざしと、首飾りのただ一つの宝石で。」

ここには「あなたは私の心を奪った」とあります。花嫁は花婿の心を奪いました。その目、鼻、口、歯、頬、すべてが美しい。8節では「花嫁よ」と呼ぶようになりましたが、ここではさらに「私の妹、花嫁よ。」と呼び掛けられています。10節にも、12節にも使われています。このような言い方は、4章だけで実に3回も使われているのです。どういうことでしょうか。花嫁と花婿はそれだけ近い関係であるということです。それは、妹のように血のつながりのある関係であるということです。

「妹」と訳されたことばはヘブル語で「アホーティ」と言いますが、「実際の血のつながった妹」を意味します。花婿にとって花嫁は血のつながりがあるほど親密な関係なのです。古語で「妹背(いもせ)」ということばがあります。新聖歌の504番には「妹背を契る」という讃美歌がありますね。現代で使われていません。これは親しい関係の男女を指すことばで、親しい男女が結婚することを意味しています。まさに血を分け合った兄と妹という関係です。

このことは、キリストと教会の関係を表しています。つまり、キリストの花嫁なる教会は、花婿なるイエスさまの血によって生まれたものであるということです。イエスさまにとって教会は、ご自身と同じほど尊い存在なのです。

その妹であり、花嫁である相手に、花婿は「あなたは私の心を奪った。」と言っています。「あなた」とは花嫁のことであり、私たち教会のことです。そして「私」とは花婿のこと、すなわちイエス様のことです。花嫁である教会は、花婿であられるイエス様の心を奪ってしまったというのです。イエス様は私たちを見てもうメロメロであるということです。

この「奪う」ということばはヘブル語で「ラバーブ」ですが、心をかき立てるとか、かき混ぜるという意味があります。家内は毎日のようにケーキを作っていますが、どのようにして作るのかを見ていると、ボールに小麦粉とかバター、卵、砂糖とかをバーって入れてミキサーにかけます。そのかき混ぜた状態のことです。イエス様が私たちを見るとき、そのように心がかき混ぜられたようになるのです。皆さんも好きな人を見るときなど胸がキュンとすることがありますがそれです。すっかり魅了されてしまいます。虜にされてしまいます。これが、イエス様が私たちを見る目です。いったい私たちのどこにそんな魅力があるのでしょうか。自分では何の取り柄もないと思っているのに。

その後のところを見てください。ここには「ただ一度のまなざしと、首飾りの宝石で。」とあります。花嫁のたった一度のまなざしで花婿の心が奪われてしまいました。いわば一目ぼれです。あなたが何者であるかは関係ありません。あなたが過去においてどうであったかとか、今何をしているのか、これから先どうなるかといったことは全く関係ないのです。たとえ金メダルを取れなくても、あなたの存在そのものが美しい。あなたをたった一度見ただけで、イエス様の心はもうヨレヨレなのです。へブル12章2節には「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。」とありますが、もしあなたがイエスを見るなら、イエスは喜んでくださいます。それが私たちの信仰です。信仰とは、イエスを見ることです。他のことは要求はされません。ただイエスを見るだけで、イエスは喜んでくださるのです。

また、ここには「首飾りの宝石で」とあります。「首飾りの宝石」とはネックレスのことです。花嫁のネックレスを見ただけで花婿の心が奪われてしまいました。なぜなら、花婿はそのネックレスに込められた花嫁の思いを知ってくださるからです。私たちの花婿イエスは、私たちの一挙手一投足を注意深く見られ、そこに込められた思いのすべてを察知してくださるのです。それほどあなたに夢中であるということです。義務的にではなく、義理でもなく、心からあなたを愛しておられるからです。

10節をご覧ください。「私の妹、花嫁よ。あなたの愛は、ぶどう酒にまさって麗しく、あなたの香油の香りは、すべての香料にまさっている。」

これは花嫁が1章2~3節で語ったことばと全く同じことばです。そのことばを今度は花婿が花嫁に語っています。どういうことかというと、まず花婿が愛してくださったので、その愛を受けて、今度は花嫁が花婿を愛するようになったということです。

Ⅰヨハネ4章19節に「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。」とあります。神がまず私たちを愛してくださいました。その愛を受けて、その愛を知って、今度は私たちが神を愛することができるのです。神の愛がわからなければ、神を愛することはできません。ですから、神がまず私たちを愛してくださったのです。その愛は、ぶどう酒にまさって美しいとあります。その香りは香料にまさっています。但し、私たちのキリストへの愛よりも、キリストの私たちに対する愛の方がはるかにすばらしいということを忘れないでください。キリストの愛は真実な愛です。それはどんなことがあっても破棄されることはありません。あなたがどんなに神に背いても、どんなに神から離れても、神はあなたを見捨てたり、見離したりはしません。それは無限の愛であり、無条件の愛、無償の愛です。それはキリストが十字架の上で死なれたことによって現わされた愛です。人間にはこのような愛はありません。でも私たちのちっぽけな愛でも、キリストは喜んでくださるのです。

11節をご覧ください。ここには「花嫁よ。あなたの唇は蜂蜜を滴らせ、舌の裏には蜜と乳がある。衣の香りは、レバノンの香りのようだ。」とあります。

この「唇」とか「舌の裏」とは、花嫁との口づけを表しています。それは蜂蜜のように甘く、果実の蜜や乳のように豊かであるということです。この「蜜と乳がある」という表現は、「乳と蜜が流れる地」、約束の地カナンをイメージさせます。聖書には、約束の地カナンは乳と蜜が流れる地であると言われています。それは乳と蜜それ自体が流れているということではありません。これは牧草の豊かな、しかも蜂が蜜を吸うことのできる多くの花や樹木が生えている自然が豊かな地であるという意味です。そのように心が満たされるところがカナンなのです。花嫁との口づけはそのように甘く、心が満たされる行為であるというのです。

これは何を表しているのかというと、私たちの神への礼拝です。礼拝とはギリシャ語で「プロスクネオー」と言いますが、意味は「~に向かって口づけする」という意味があります。ですから、礼拝とは、主に向かって口づけする行為なのです。それはまさに蜂蜜のように甘く、乳と蜜のように私たちの心を満たしてくれるものなのです。これが毎週日曜日の礼拝でもあります。ですから、今皆さんは主イエスに向かって口づけしているのです。主を愛するがゆえに行う行為、それが礼拝なのです。それは私たちの花婿イエス・キリストの心を満たすものです。私たちのささげる礼拝は、イエス・キリストの心を満たすものなのです。これを取り違えないようにしなければなりません。私たちのささげる礼拝は私たちの心を満たすものではなく、私たちの主イエスの心を満たすものです。もちろん、私たちが礼拝することで結果的には私たちの心が満たされることになりますが、それが礼拝の第一の目的ではありません。礼拝は私たちの心を満たす前に、イエス・キリストの心を満たすことなのです。私たちはよくきょうの礼拝は良かった、恵まれた、満足した、と言うことがありますが、それもすばらしいことですが、その前に考えなければならないことがあります。それはあなたの花婿イエス・キリストはどうだったかということです。あなたのささげる口づけ(礼拝)が、イエス様の唇を甘くし、その舌の裏には蜜と乳があるかのような喜びと満足を与えるものであったかということです。主は私の礼拝を喜んでくださっただろうか。私の奉仕、私の献金を喜んでくださったかどうかということです。自分が満足したかどうかの前に、主はどのように受け止められたかということです。もちろん、そのような期待をしてはいけないということではありません。しかし、イエス・キリストに喜ばれる礼拝をささげたい。どうすれば主に喜ばれる礼拝をささげることができるかを、もっと真剣に考えなければなりません。

ルカの福音書の最後は、このことばで締めくくられています。「いつも宮にいて神をほめたたえていた。」(ルカ24:53)この「ほめたたえていた」ということばは、祝福していたという意味です。イエス様が天に昇って行かれた後、弟子たちはエルサレムに帰り、いつも宮にいて神をほめたたえていました。主を祝福していました。逆じゃないですか。主が私たちを祝福してくれるんじゃないですか。もちろん、そういう面もあります。しかし、礼拝とは神が私たちを祝福してくれるというだけでなく、私たちが神を祝福することでもあるのです。自分が祝福されることは感謝なことですが、何よりもイエス・キリストを祝福すること、イエス・キリストの心が満たされること、イエス・キリストの栄光が崇められることが、礼拝の最大の関心とならなければなりません。

11節に戻ってください。ここにはもう一つのことが言われています。それは「衣の香りは、レバノンの香りのようだ。」とあります。

「レバノン」については、8節にも出てきましたが、そこでは神から遠く離れた地の象徴として用いられていましたが、ここでは、香りが満ちている場所として用いられています。レバノンはレバノン杉で有名ですが、他にも芳香性が強い植物が生息していたことでも有名です。そこには絶えず香りが満ちていました。花嫁の衣は、このレバノンの香りのようだというのです。

この「衣」とは全身を覆うもので、花嫁が寝る時に着たものです。今でいうパジャマとかネグリジェのようなものです。その衣がレバノンの香りのようだというのです。それはイエス・キリストの香りでもあります。

コロサイ3章12節には、「キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです。」とあります。ですから、花嫁はキリストを着たのです。それはキリストとの親密な交わりによって、キリストのようになることを意味します。それはどんな香りでしょうか。コロサイ3章には続いてこのように勧められています。「ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい。互いに忍耐し合い、だれかがほかの人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全です。キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのために、あなたがたも召されて一つのからだとなったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。ことばであれ行いであれ、何かをするときには、主イエスによって父なる神に感謝し、すべてを主イエスの名において行いなさい。」(コロサイ3:12-17)

あなたはどうでしょうか。キリストを着ていますか。キリストの香りを放っていますか。花婿であられるキリストは、あなたのそのような香りをとても喜んでくださいます。

12節をご覧ください。「私の妹、花嫁は、閉じられた庭、閉じられた源、封じられた泉。」

これらの表現はすべて花嫁の処女性を表しています。「閉じられた」「封じられた」という表現は、花婿以外にだれも入ることのできないように鍵がかかっているような状態であるという意味です。そこは花婿だけが開くことができる庭であり、源であり、泉です。たった一人の花嫁であるということです。それは純潔と貞潔を意味しています。花婿だけであるということです。花嫁にどうしてもなければならないもの、それが花婿に対する純潔なのです。

パウロもそのことを語っています。Ⅱコリント11章1~3節で次のように言われています。「私の少しばかりの愚かさを我慢してほしいと思います。いや、あなたがたは我慢しています。私は神の熱心をもって、あなたがたのことを熱心に思っています。私はあなたがたを清純な処女として、一人の夫キリストに献げるために婚約させたのですから。蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔から離れてしまうのではないかと、私は心配しています。」

蛇が偽りによってエバを欺いたように、教会にもサタンが悪巧みによって欺こうとしてきます。パウロはそのことを心配していました。教会にとってどうしても必要なことは、イエスさまに対する「純潔と貞潔」です。サタンは偽りの教えによって私たちの思考に入り込み惑わしてきます。だから私たちは、いつも主のみことばをしっかり握って聖さを保つ必要があるのです。

私たちクリスチャンはみなキリストの花嫁です。キリストは、やがて再びこの世界に戻って来られます。その時のために傷のない、本当に純潔な教会を、キリストの花嫁として整えなければなりません。教会には聖書以外の様々な教えが入り込んできます。蛇がエバを欺いたように、間違った教えによって私たちを信仰から遠ざけようとしますが、そうした教えに警戒し、彼らから遠ざからなければなりません。花婿への純潔と貞潔を守らなければならないのです。

Ⅲ.あなたの産み出すもの(13-16)

最後に、13節から16節までをご覧ください。「あなたの産み出すものは、最上の実を実らせるざくろの園、ナルドとともにヘンナ樹、ナルドとサフラン、菖蒲とシナモンに、乳香の採れるすべての木、没薬とアロエに、香料の最上のものすべて、庭の泉、湧き水の井戸、レバノンからの流れ。」

ここで花婿は花嫁を、園に植えられた木や咲き乱れる花にたとえています。これらすべて花嫁について描写されているものです。あなたの産み出すもの、つまり花嫁が産み出すものが、ここに列挙されています。

まず、最上の実を実らせるざくろの園です。「ざくろ」については3節にも出てきましたが、それは豊かさといのちを象徴するものです。乾燥したイスラエルでは水分を補給するのに欠かせないものでした。まさに渇いた喉を潤す清涼飲料水のような最高のジュースとして重宝されました。ざくろを見ると、一つの実の中にたくさんの種が入っているのがわかります。それはまさに御霊の実を表しています。有名なガラテヤ5章22~23節にはこうあります。「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。」花婿は花嫁が産み出す御霊の実を見て絶賛しているということです。

そればかりではありません。13節の後半には「ナルドとともにヘンナ樹、ナルドとサフラン、」とあります。ナルドについては1章12節にもありましたが、ヒマラヤやチベットといった標高の高いところに生息する植物で、古代からインド人により、薬用や香料として使われてきました。それに油を混ぜ合わせたものがナルドの香油です。それは非常に高価なものでした。「ナルド」という名前には、「かぐわしい」という意味があります。

また、「ヘンナ樹」についても1章14節に出てきました。これは「へんな木」ではありません。立派な木です。エジプト、インド、北アフリカ、イランなどの乾燥した水はけの良い丘陵に育つ、ミソハギ科の植物で、3メートルから6メートルほどの常緑低木です。熱い地方では日陰になる大切な木でした。まさにオアシス的な存在です。

そして14節には、「ナルドとサフラン、菖蒲とシナモンに、乳香の採れるすべての木、没薬とアロエに、香料の最上のものすべて、」とあります。

ナルド、サフラン、菖蒲、シナモン、乳香、没薬、アロエは、すべて香りを放つ草花です。まさに(かぐわ)しいということです。問題は、何のために芳しいのか、だれのために芳しい香りなのかということです。それはもちろん花婿のためです。自分を喜ばせるためのものではありません。花婿であられるイエス・キリストの喜びと、イエス・キリストの栄光のための香りなのです。私たちはそのために存在し、生かされているのです。

15節をご覧ください。ここには「庭の泉、湧き水の井戸、レバノンからの流れ。」とあります。ここに「レバノンからの流れ」とあるように、レバノンの山々、特にヘルモン山の雪解けの水が湧き出ます。それはすべてを潤す水、いのちを与える水のことです。イエス様はこう言われました。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」(ヨハネ7:37-38)

ここに「聖書が言っているとおり」とありますが、この聖書が言っているとおりとは、旧約聖書が言っているとおりにということで、実はこの箇所で言われているとおりにということです。イエスを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から生ける水の川が流れ出るようになりますが、それはここで言っているヘルモンの雪解けの湧き水のように流れるということだったのです。イエス様はそれを念頭に言われたのです。この「生ける水」とは何でしょうか。イエス様はその後のところで、このことについても説明しておられます。「イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。」(ヨハネ7:39)

この花嫁の美しさは、生ける水が流れ出ていたことでした。神の聖霊に満たされていたことです。あなたもイエスのもとに来て飲むなら、心の奥底から生ける水が流れ出て、美しい花嫁として整えられます。

あなたが産み出しているものは何でしょうか。あなたの特産物は何でしょうか。あなたの園はどんな園でしょうか。花が咲き乱れているでしょうか。豊かな実が実った果樹園でしょうか。良い香りが漂うハーブ園でしょうか。それはこの湧き水の井戸、レバノンの流れがあるかどうかで決まります。もしあなたが花婿のもとに来て生ける水を飲むなら、あなたの園は最上の実を実らせ、芳しい香りを放つ園となるのです。あなたの花婿キリストは、そんな花嫁を喜び称えているのです。

最後に16節を見て終わります。「北風よ、起きなさい。南風よ、吹きなさい。私の庭に吹いて、その香りを漂わせておくれ。私の愛する方が庭に入って、その最上の実を食べることができるように。」

これは花婿のことばを受けた花嫁のことばです。彼女はここで、「北風よ、起きなさい。南風よ、吹きなさい。私の庭に吹いて、その香りを漂わせておくれ。」と言っています。どうしてこのように言っているのでしょうか。それは、「私の愛する方が庭に入って、その最上の実を食べることができるように。」するためです。

聖書では、「風」は聖霊のシンボルとして使われています。15節の「泉」や「湧き水」もそうです。聖霊のシンボルとして用いられています。エデンの園にも風が吹いていました。エデンの園では、神が土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれました。それで人は生きるものとなりました。いのちの息が吹き込まれなければ、生きるものにはなりません。生きてはいても死んでいる、生ける屍でしかないわけです。それだけでは死んだ者です。肉体は生きていても、霊は死んでいます。ですから、そういう人は死んだら終わりです。でも、聖霊があなたの内に吹き込まれるなら、あなたは生きるものとなるのです。死んでもなくならない永遠のいのちをいただくのです。それはいのちの水となってあなたを潤します。あなただけでなく、あなたの周囲にいる人たちをも潤していきます。同時にあなたは庭ですから、花を咲かせ、実を結び、キリストの香りを漂わせるようになります。そのためには風が吹かなければなりません。聖霊があなたの庭に吹くとき、その香りを漂うのです。

あなたの愛する方が、あなたの主イエスがあなたの園に入って、その最上の実を食べることができるように、あなたの庭を整えてください。最善の実を結ばせていただきましょう。

Ⅱサムエル記16章

 Ⅱサムエル記16章から学びます。

 Ⅰ.メフィボシェテのしもべツィバ(1-4)

 1~4節をご覧ください。「ダビデは山の頂から少し下った。見ると、メフィボシェテのしもべツィバが王を迎えに来ていた。彼は、鞍を置いた一くびきのろばに、パン二百個、干しぶどう百房、夏の果物百個、ぶどう酒一袋を載せていた。王はツィバに言った。「これらは何のためか。」ツィバは言った。「二頭のろばは王の家族がお乗りになるため、パンと夏の果物は若者たちが食べるため、ぶどう酒は荒野で疲れた者が飲むためです。」王は言った。「あなたの主人の息子はどこにいるのか。」ツィバは王に言った。「今、エルサレムにとどまっております。あの方は、『今日、イスラエルの家は、父の王国を私に返してくれる』と言っておりました。」王はツィバに言った。「見よ、メフィボシェテのものはみな、あなたのものだ。」ツィバは言った。「王様。あなた様のご好意をいただくことができますように、伏してお願いいたします。」」

ダビデは山の頂から少し下りました。この山とは「オリーブ山」のことです。この山から下ったとき、メフィボシェテのしもべツィバがダビデ王を迎えに出て来ていました。覚えていますか、ツィバはサウル王に仕えたしもべの一人ですが、ダビデがサウルの子ヨナタンとの約束を守るために、サウルの家の者で生き残っている者がいないかどうか尋ねたとき、ツィバはそのヨナタンの息子で足の不自由なメフィボシェテがいることを告げました。そこでダビデは、サウルに属する土地を全部メフィボシェテに与え、ツィバにその管理を命じたのでした(9:9-10)。

このツィバが、食料をもってダビデの前に現れたのです。なぜでしょうか。彼は、鞍を置いた一くびきのろばに、パン二百個、干しぶどう百房、夏の果物百個、ぶどう酒一袋を載せていました。ダビデが彼に「これは何のためか」と言うと、彼は、これらはすべてダビデへの贈り物であると言いました。するとダビデは「あなたの主人の息子はどこにいるのか」と尋ねました。つまり、メフィボシェテはどうしているかということです。すると彼は、メフィボシェテは今エルサレムにとどまっていて、イスラエルの家を自分のものにしようと狙っていると伝えました。するとダビデは憤り、ツィバにメシュボシェテのものをすべて与えると言いました。これが、ツィバが企んでいたことです。彼が言ったことは全部ウソです。後で分かりますが、メフィボシェテは、ダビデ王といっしょに行こうとしましたが、ツィバがそれを留めたのです。ツィバはダビデ王がこのような苦境にいるので、それを利用して自分が欲していたものを得ようと企んでいたのです。すべてメフィボシェテのものとなっていた地所を自分のものにしたいと思っていたわけです。

ダビデは、誤った判断をしました。一方的な情報によって判断を下してしまったからです。私たちもしばしば、このような間違いを犯すことがあるのではないでしょうか。一方の話だけを聞いてそれを信じ込み、状況を正しく把握しないうちにさばいてしまうことがあります。

マタイ18章15~16節には、「また、もしあなたの兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで指摘しなさい。その人があなたの言うことを聞き入れるなら、あなたは自分の兄弟を得たことになります。もし聞き入れないなら、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。二人または三人の証人の証言によって、すべてのことが立証されるようにするためです。」とあります。ここに「二人か三人の証人の証言によって、すべてのことが立証される」とあります。それが事実であると確かめられるのです。一人の証言だけでは、それが嘘なのか本当なのかわかりません。二人か三人の証言によって確かめられることで、事実が立証されるのです。ですから、よく調べなければいけません。

また、箴言18章17節にも「最初に訴える者は、相手が来て彼を調べるまでは、正しく見える。」とありますが、それはこのことです。最初に訴える者は相手が来て調べるまでは正しく見えますが、実際は相手の話を聞くまでは何が正しいのかを判断することはできません。事実をよく調べてから判断するように、慎重に物事の解決に当たらなければなりません。

 Ⅱ.シムイののろい(5-14)

次に5~14節までをご覧ください。「ダビデ王がバフリムまで来ると、見よ、サウルの家の一族の一人が、そこから出て来た。その名はゲラの子シムイで、盛んに呪いのことばを吐きながら出て来た。彼は、ダビデとダビデ王のすべての家来たちに向かって石を投げつけた。兵たちと勇士たちはみな、王の右左にいた。シムイは呪ってこう言った。「出て行け、出て行け。血まみれの男、よこしまな者よ。主がサウルの家のすべての血に報いたのだ。サウルに代わって王となったおまえに対して。主は息子アブサロムの手に王位を渡した。今、おまえはわざわいにあうのだ。おまえは血まみれの男なのだから。」ツェルヤの子アビシャイが王に言った。「この死んだ犬めが、わが主君である王を呪ってよいものでしょうか。行って、あの首をはねさせてください。」王は言った。「ツェルヤの息子たちよ。これは私のことで、あなたがたに何の関わりがあるのか。彼が呪うのは、主が彼に『ダビデを呪え』と言われたからだ。だれが彼に『おまえは、どうしてこういうことをするのだ』と言えるだろうか。」ダビデはアビシャイと彼のすべての家来たちに言った。「見よ。私の身から出た私の息子さえ、私のいのちを狙っている。今、このベニヤミン人としては、なおさらのことだ。放っておきなさい。彼に呪わせなさい。主が彼に命じられたのだから。おそらく、主は私の心をご覧になるだろう。そして主は今日の彼の呪いに代えて、私に良いことをもって報いてくださるだろう。」ダビデとその部下たちは道を進んで行った。シムイは、山の中腹をダビデと並行して歩きながら、呪ったり、石を投げたり、土のちりをかけたりしていた。王も、王とともに行った兵もみな、疲れたのでそこで一息ついた。」

 次に登場するのは、サウルの家の一族で、ゲラルの子シムイです。彼は、ダビデ王がオリーブ山を越えてバフリムまで来ると、ダビデとその家来たちにのろいのことばを吐いただけでなく、石を投げつけてきました。彼はダビデを呪ってこう言いました。「出て行け、出て行け。血まみれの男、よこしまな者よ。主がサウルの家のすべての血に報いたのだ。サウルに代わって王となったおまえに対して。主は息子アブサロムの手に王位を渡した。今、おまえはわざわいにあうのだ。おまえは血まみれの男なのだから。」

 シムイは、ダビデが今受けている災いはサウル一族の血を流した罪に主が報いられたものだと言いました。もちろん、これは事実ではありません。サウルやサウルの家の者たちは、ペリシテとの戦いの中で死んでいきました。むしろダビデは、サウルの家の者が血を流さないように細心の注意を払っていました。それなのにシムイは、サウルの家が滅んだ原因をダビデになすりつけたのです。どうしてでしょうか。サウルの家に仕えていた者として、サウルの家が滅んでしまったことを受け入れられなかったのでしょう。それがダビデによってなされたことではないと知りつつも、サウルに代わって王となったダビデをひがんでいたのでしょう。そのダビデがいのちを狙われて逃亡している姿を見て、罰が当たったかのように言うことで鬱憤を晴らしているのです。

するとツェルヤの子アビシャイが、ダビデに「この死に犬」の首をはねさせてくださいと言いました。ツェルヤとはダビデの姉妹ですから、ツェルヤの子はダビデの甥にあたります。彼は常にダビデ王を守ることに熱心でしたから、ダビデがシムイから呪いのことばを受け侮辱されているのを聞いて、黙っていられなかったのです。

主イエスの弟子たちもそうでした。ゼベダイの子ヤコブとヨハネは、サマリヤ人がイエスを受け入れなかったので、「主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」(ルカ9:54)と言いました。それで「雷の子」というあだ名が付けられたほどです。

それに対して、ダビデは何と答えましたか。ダビデはそれを許しませんでした。ダビデはシムイののろいのことばの背後に主の御手があるのを見たのです。自分の子アブサロムが自分のいのちを狙っているくらいなのだから、サウルの身内(ベニヤミン人)が自分をのろうのは当然だし、それは彼がというよりも、主がそのように彼に命じたからに違いないと受け止めたのです。そればかりではありません。主は自分の心もご存じなのだから、主はこの呪いに代えて、良いことをもって報いてくださると信じたのです。すごいですね。この地上で最も謙遜なのはだれでしょう。イエス様以外に。モーセです。モーセは、地の上のだれにもまさって柔和であったとあります(民数記12:3)。モーセも、自分の姉のミリアムと兄のアロンに妻のことで非難されても、怒ったり、憤ったりしませんでした。むしろ、彼らのために祈りました。そのことでミリアムがツァラ―トに冒されるのですが、それが癒される7ようにと祈っています。実に柔和で、謙遜に人でした。それに勝るとも劣らぬ態度です。このことばの通り、ダビデはエルサレムに無事に帰還することになります(19:18~23)。主がダビデの信仰に報いてくださったのです。

主は真に良い方です。私たちにとって大切なのは状況を変えることではなく、状況の中で正しい心を保っていることです。そうすれば、主がこの悪いことを良いことのために変えてくださいます。

 Ⅲ.アヒトフェルの助言(15-23)

 最後に、15~23節をご覧ください。「アブサロムとすべての民、イスラエルの人々はエルサレムに入った。アヒトフェルも一緒であった。ダビデの友アルキ人フシャイがアブサロムのところに来たとき、フシャイはアブサロムに言った。「王様万歳。王様万歳。」アブサロムはフシャイに言った。「これが、あなたの友への忠誠の表れなのか。なぜあなたは、あなたの友と一緒に行かなかったのか。」フシャイはアブサロムに言った。「いいえ、主と、この民、イスラエルのすべての人々が選んだ方に私はつき、その方と一緒にとどまります。また、私はだれに仕えるべきでしょうか。私の友の子に仕えるべきではありませんか。私はあなた様の父上に仕えたように、あなた様にもお仕えいたします。」アブサロムはアヒトフェルに言った。「あなたがたで相談しなさい。われわれは、どうしたらよいだろうか。」 アヒトフェルはアブサロムに言った。「父上が王宮の留守番に残した側女たちのところにお入りください。全イスラエルが、あなたは父上に憎まれるようなことをされたと聞くでしょう。あなたに、くみする者はみな、勇気を出すでしょう。」アブサロムのために屋上に天幕が張られ、アブサロムは全イスラエルの目の前で、父の側女たちのところに入った。当時、アヒトフェルの進言する助言は、人が神のことばを伺って得ることばのようであった。アヒトフェルの助言はすべて、ダビデにもアブサロムにもそのように思われた。」

ここから場面がエルサレムの町に移ります。アブサロムとすべての民、イスラエルの人々はエルサレムに入りました。アヒトフェルも一緒でした。アヒトフェルとはダビデの助言者でした(15:12)。ダビデが最も信頼していた友の一人です。そのアヒトフェルがダビデを裏切り、アブサロムの側に着いたのです。それはダビデにとって本当に辛く、苦しいことでした。信頼していた友に裏切られるということほど辛いことはありません。

そこには、ダビデの友でアルキ人フシャイもいました。フシャイもダビデの友でした(15:37)。彼はダビデがエルサレムを出て行くときダビデと一緒に行きたかったのですが、歳をとっていたので、もし彼が一緒に行くならかえって重荷になるということ、それに、彼がエルサレムに残ることによってアヒトフェルの助言を愚かなものにするという使命が与えられていたので、そのままエルサレムに残ることになりました。そのフシャイがアブサロムのところにやって来ると「王様万歳。王様万歳。」と叫びました。不信に思ったアブサロムが、どうしてダビデに着いていかなかったのかと尋ねると、彼はこう言いました。「いいえ、主と、この民、イスラエルのすべての人々が選んだ方に私はつき、その方と一緒にとどまります。また、私はだれに仕えるべきでしょうか。私の友の子に仕えるべきではありませんか。私はあなた様の父上に仕えたように、あなた様にもお仕えいたします。」(17-18)どういうことでしょうか。

フシャイはダビデの進言を受け入れ、アブサロムのところにやって来ました。それはアブサロムに着くためではなく、着いたふりをしてダビデにそのことを伝えるためです。この彼のことばは、そのことを表しています。ここで興味深いのは、「主と、この民、イスラエルのすべての人々が選んだ方に私はつき、その方と一緒にとどまります」と言っていますが、それがアブサロムだとは一言も言っていません。けれどもアブシャロムは、自分のことを言われていると思い、そのことを受け入れました。

アブサロムはエルサレムに入場すると、次に何をしたらよいかとアヒトフェルに助言を求めます。するとアヒトフェルは、ダビデの側女たちのところに入るようにと、アブサロムに助言しました。そうすることでダビデとアブサロムの関係に亀裂が生じたことをだれもが認め、アブサロムの家来たちも勇気を出すようになるからです。

それでアブサロムは王宮の屋上に天幕を張り、全イスラエルの目の前で、彼女たちの中に入りました。当時、王が他の王を倒して国を確立させるとき、前の王のハーレム、そばめや妻たちと寝ることが習慣としてありました。そのことによって、自分が前の王を征服したことを誇示したのです。けれども、これはイスラエルにとって恥ずべき行為でした。というのは、律法にこのような行為が禁じられていたからです。レビ記18章8節には、「あなたの父の妻の裸をあらわにしてはならない。それは、あなたの父の裸をあらわにすることである。」とあります。と同時に、これはダビデに与えられた神のさばきの成就でもありました(12:11~12)。

当時、アヒトフェルの進言する助言は、人が神のことばを伺って得ることばのように受け止められていました。しかし、次回のところで見ますが、主はそんな彼の助言を無きものにされます。アヒトフェルの助言は邪悪で悪魔的なものでした。アブサロムはアヒトフェルの助言ではなく、神の助言を求めるべきでした。神の御前にひざまずき、神の知恵を求めるべきだったのです。しかし、彼は人間の愚かな助言に頼ってしまいました。そこに、彼の愚かさがあります。

それは私たちも同じです。神のことば、神の知恵ではなく、人間の助言に頼ってしまうことがあります。人はどう考えているのか、周りの人はどう思っているのか、それを自分の行動の基準としているのです。しかし、「人はみな草のよう。その栄はみな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは永遠に立つ。」(Ⅰペテロ:24-25)とあります。人のことばはいつもコロコロ変わっています。どんなに優れた人でも神の知恵の足元にも及びません。しかし、主のことばこそとこしえに立ちます。この天と地を創られた主が、何が正しいか、何が間違っているのかを、ご自身のみことばによって示してくださいます。これが創造の秩序です。これは完全な神の知恵です。このことばに従う時、私たちは真の祝福と平安を得ることができるのです。たとえそれが心理学者のことばであっても、それは人間が考え出した科学であって、必ずしも正しいとは限りません。いやむしろまったく逆の場合があります。すべての問題の原因は罪であって、その罪を解決することが真の解決なのに、自己中心の考えを助長するかのような風潮があるからです。この世はますますそのような方向に傾いていますが、しかし、人はみな草のようで、その栄は草の花のようであり、草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばはとこしえに堅く立つことをしっかりと覚えておきましょう。そして、アヒトフェルの助言ではなく、主のことばに聞きましょう。主の御前にひざまずき、主の知恵を求めることこそ、それが私たちが堅く立ち続ける秘訣なのです。