雅歌4章1~7節「あなたのすべてが美しい」

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 きょうは、雅歌4章1~7節から学びたいと思います。タイトルは、「あなたのすべてが美しい」です。7節に「わが愛する者よ。あなたのすべてが美しく、あなたは何の汚れもない。」とあります。これは、花婿が花嫁に語っていることばです。結婚してエルサレムにある自分の宮殿に招き入れた花婿、ソロモンは、花嫁を見て「あなたのすべては美しい」と言うのです。

この花嫁は教会のこと、すなわち、私たちクリスチャンの姿でもあります。ですから、花婿であられるキリストが、花嫁である私たちクリスチャンを見て「あなたのすべてが美しい」と言ってくださるということです。しかも、ここには、目とか、髪とか、歯とか、唇とか、頬とか、首とか、乳房とか、花嫁のからだの一つ一つの部分を取り上げて具体的にほめています。これは、教会はキリストのからだとも言われていますが、そのからだを構成している一つ一つの器官を見て「美しい」と言っておられるということです。私たち一人一人が美しいのです。感謝ですね。いったいどのように美しいのかを、早速、見ていきたいと思います。

Ⅰ.美しい花嫁パートⅠ(1-3)

まず1~3節をご覧ください。ここには花嫁の美しさの具体的な七つの描写のうち、五つの部分が取り上げられています。すなわち、目と、髪と、歯と、唇と、口と、頬です。まず1節には、「ああ、あなたは美しい。わが愛する者よ。ああ、あなたは美しい。あなたの目は、ベールの向こうの鳩。髪は、ギルアデの山を下って来るやぎの群れのようだ。」とあります。

まずその目です。「あなたの目は、ベールの向こうの鳩」とあります。ベールとは、花嫁が結婚式で身に着けるベールのことです。これは処女のしるし、また従順さを象徴しています。そのベールの向こうの鳩だと言われています。鳩は前にも出ていましたね。1章15節には「あなたの目は鳩」とありました。それは美しいもの、清らかであることの象徴でした。また、平和のシンボルでもあります。ですから、あなたの目は鳩のようだというとき、それは最高の誉め言葉なのです。

また鳩は聖霊のシンボルでもあります。ですから、あなたの目は鳩というとき、それは単に美しいとか平和であるというだけでなく、聖霊のように聖く、何が正しく、何が間違っているのかを判別することができる目でもあるということです。

ちなみにイエス様はマタイ10章16節で、「蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい。」と言われました。ここでは鳩が素直な鳥であると言われています。よく公園などで鳩にえさをやっている人を見かけることがありますが、何も疑うことなくすぐに集まってきます。そのように神の招きのことばに素直に集まって来る人、心に蒔かれたみことばを素直に受け入れる人でもあります。

次は髪です。ここには「髪は、ギルアデの山を下りて来るやぎの群れのようだ。」とあります。ここでは黒髪の美しさがたたえられています。えっ、やぎって白いんじゃないですかと思われるかもしれませんが、ここでは黒やぎのことを言っています。黒やぎの群れがギルアデの山を流れ下るようななめらかでつやつやとしている美しい黒髪だというのです。まさにラックススーパーリッチです。あれはブロンドですが・・。それはまるでやぎの群れがギルアデの山を下って来るようです。ギルアデの山とは、ガリラヤとサマリヤの東側にある高原のことですが、そこはヨルダン川の渓谷から1000㍍も高いところにありました。その高くて険しい崖がそびえ立つギルアデの山から群れをなしてやぎが下ってくるのです。上空からの光景を想像してみてください。なんとも美しく、勇ましい姿です。抜け毛の心配などいりません。

ところで、この髪の毛ですが、これはどんなに年老いても伸び続けることから、聖書ではいのちと力の源と言われています。聖書には、髪は二つのシンボルとして用いられています。一つは聖別と献身です。そしてもう一つは服従です。

聖別と献身ということで有名なのはサムソンです。彼は一生涯髪の毛を切りませんでした。なぜなら、彼は神にささげられた者、聖別された者であったからです。それをナジル人と言います。彼はナジル人として生まれてきました。その特徴の一つは髪を切らないということです。それはいのちと力を象徴していたからです。いったいサムソンはどうしてそんなに強いのかと、その強さの秘密を探ろうと、敵のペリシテ人はひそかにデリラという女性を送り込み、その出生の秘密を知ります。それで彼の髪の毛が切られてしまいました。すると神(髪)が彼から離れて行きました。このように私たちクリスチャンの美しさとは、神に自分をささげている姿です。美しい髪は、その姿を表しています。

それから、髪のもう一つのシンボルである「服従」ですが、Ⅰコリント11章15節にあります。「女が長い髪をしていたら、それは彼女にとっては栄誉なのです。なぜなら、髪はかぶり物として女に与えられているからです。」

ここでは、女が長い髪をしていたら、それは彼女にとって栄誉だと言われています。別に髪が長ければいいと言っているのではなく、その髪が意味しているところの権威に従うことがすばらしいということです。なぜなら、髪はかぶり物として女性に与えられているからです。かぶり物とは、自分が夫の権威の下にあることを表すものでした。それが創造の秩序です。男が女から出たのではなく、女が男から出たからです。それは男女に優劣があるということではありません。どちらが上でどちらが下かということではなく、男が神のかたちに造られ、女はその男から造られたという創造の秩序から、妻は夫に従うことが求められているのです。そのしるしがかぶり物だったのです。女性の長い髪はその服従のしるしでした。したがって、もし女性が髪を切るなら、頭にかぶり物を付けるべきです。もちろんこれは実際に頭にかぶり物をつけなければならないということではなく、キリストの権威に従うこと、夫の権威に従わなければならないということです。そのような女性は美しいということです。それはギルアデの山を下っ来るやぎの群れのようなのです。

ところで、髪は自分では数えられません。しかし、イエス様はマタイ10章30節でこのように言われました。「あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています。」主はあなたのすべてを知っておられるということです。自分でも自分のことがわからないことがあります。でも主はあなた以上にあなたのことを知っておられます。それゆえ、安心してこの方に従うことができるのです。このように従う人は、ギルアデの山から下ってくるやぎの群れのように美しいのです。

次に2節をご覧ください。「歯は、洗い場から上って来た、毛を刈られた雌羊の群れのよう。それはみな双子で、一方を失ったものはそれらの中にはいない。」

次は歯です。それは洗い場から上って来た、毛を刈られた雌羊の群れのようです。どういうことでしょうか。「洗い場から上って来た羊」とは、毛を刈られる前に、毛の汚れを洗い場で洗い落としてもらった羊のことです。その羊の毛は真っ白です。1節にはやぎの毛のような黒髪について語られましたが、ここでは羊の毛のような白さが強調されています。

「それはみな双子で、一方を失ったものはそれらの中にはいない」というのは、これは歯の話です。上の歯と下の歯で一対になるわけですが、それをかみ合わせたとき欠けた歯がないということです。想像しみてください。ニヤッと笑ったとき前歯が1本欠けていると折角のきれいな歯が台無しです。しかし、花嫁の歯は完璧です。それはみな双子で、一方を失ったものはありません。きれいな歯並びをしています。よく「あの人の歯だけはきれいだ!」と言うのを聞くことがありますが、そういう歯です。他のところは大したことありませんが、歯だけはきれいなのです。「私はあの人の歯にほれて結婚した」という人さえいます。そんな歯並びです。現代人の歯は上下合わせて28本あると言われていますが、それが全部揃っているのです。花婿は、花嫁のそんなに歯の美しさかに圧倒されているのです。

聖書では、歯は食物を嚙み砕いて消化する働きがあるものとして用いられています。へブル5章12~14節には「あなたがたは、年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神が告げたことばの初歩を、もう一度だれかに教えてもらう必要があります。あなたがたは固い食物ではなく、乳が必要になっています。乳を飲んでいる者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。固い食物は、善と悪を見分ける感覚を経験によって訓練された大人のものです。」とあります。乳歯(にゅうし)だと柔らかいので、固い物を噛み砕くことができません。それで乳ばかり飲まなければならないのです。乳ばかり飲んでいる人は、義の教えに通じていません。幼子なのです。しかし、大人の歯は固い物を噛み砕くことができます。それは霊的に成熟した者の歯です。そのような歯は真理をより深くかみしめ、理解し、自分のものとすることができます。

あなたの歯はどうですか。年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神が告げたみことばの初歩を、もう一度だれかに教えてもらう必要がある状態でしょうか。花婿なるキリストは、花嫁の白くてきれいな歯、固くて食べ物を噛み砕くことができるような強い歯を見て、美しいと言ってくださいます。私たちもそのような歯を持ちましょう。神のみことばによって養っていただこうではありませんか。

3節をご覧ください。ここには「唇は紅の糸のようで、口は愛らしい。頬はベールの向こうで、ざくろの片割れのようだ。」とあります。

次は唇です。ここには「唇は紅の糸のよう」とあります。イザヤ1章18節には、「紅のように赤くても」とありますが、これは真っ赤であるということです。それは同時に高貴な色を表していました。女性の美しさを飾るものの一つに口紅がありますが、紅のように赤い唇は魅力的ですよね。ここで花婿は、そんな花嫁の唇を称賛しています。

ところで、この「唇」はヘブル語では「サーファー」と言います。意味は「終結」、「末端」、「行き着く先」です。つまり、唇は内面の思いとか考え、感情が溢れて出てくる所のことを指しています。イエス様はマタイ15章18~19節でこのように言われました。「しかし、口から出るものは心から出て来ます。それが人を汚すのです。悪い考え、殺人、姦淫、淫らな行い、盗み、偽証、ののしりは、心から出て来るからです。」口から出るもの、唇から出るもの、それが人を汚します。すなわち、悪い考え、殺人、姦淫、淫らな行い、盗み、ののしりといったものは、心から出てくるのです。その行き着くところ、その末端が唇であるということです。ですから、その唇が美しいというのは、そうした悪い考えとか、淫らな思い、偽りの心といったことのない純真な心を持つ人のことなのです。

詩篇45篇2節には、「あなたは人の子らにまさって麗しい。あなたの唇からは優しさが流れ出る。神がとこしえにあなたを祝福しておられるからだ。」とあります。いいですね、あなたの唇からはやさしさが流れ出るのは。あなたの唇からは毒が飛び散るとなったら大変です。実はこれはメシヤ詩篇と言ってイエス様のことを預言して歌われた歌です。イエス様の唇はどのようなものだったでしょうか。ここには、「あなたの唇からはやさしさが流れ出る。」とあります。イエス様の唇からはやさしさが流れ出ていました。そういう唇です。そのような唇は美しいのです。それは紅の糸のように、高貴で美しい。かつては紅のように汚れていたものでも、雪のように白くきよめられて美しくされるのです。

そして、次は口です。「口は愛らしい」とあります。口が愛らしいとはどういうことでしょうか。口が小さくてかわいいということですか、それとも、口の形がかっこいいということでしょうか。そういうことではありません。「口」はヘブル語で「ミルバーブ」と言いますが、それは「語ること」を意味しています。ですから、口が愛らしいというのはその口の大きさとか、形よりも、むしろその口から出てくることばのことです。それが美しいのです。

ヤコブ3章2節には、「私たちはみな、多くの点で過ちを犯すからです。もし、ことばで過ちを犯さない人がいたら、その人はからだ全体も制御できる完全な人です。」とあります。もし、ことばで過ちを犯さない人がいたら、からだ全体を制御できる完全な人です。私たちは口でよく失敗するものです。言わなくてもいいようなことを言って相手を傷つけてみたり、言わなければならないことを言えない弱さがあります。そんな舌をヤコブは火にたとえて、「あのように小さな火が、あのように大きな森を燃やします。」と言っています。

へブル3章15節には、「それなら、私たちはイエスを通して、賛美のいけにえ、御名をたたえる唇の果実を、絶えず髪にささげようではありませんか。」とあります。「それなら」とは、イエスの血によって、聖なるものとされたのですからという意味です。ですから、私たちはイエスを通して、賛美のいけにえ、御名をたたえる唇の果実を絶えず神にささげようではありませんかというのです。そのような唇は、そのような口は美しいのです。

詩篇63篇3節には、「あなたの恵みはいのちにもまさるゆえ私の唇はあなたを賛美します。」とあります。このような口こそ、美しい口です。そのような口は愛らしいと、そのような花嫁の口を花婿は称賛しているのです。

次は「頬」です。「頬はベールの向こうで、ざくろの片割れのようだ。」どういうことでしょうか。「頬」はヘブル語では「ラー」という言葉ですが、「こめかみ」とも訳せます。ですから、新共同訳聖書ではこれを「こめかみ」と訳しています。その頬がざくろの片割れのようだというのです。ざくろはイスラエルの七つの果実の一つとして、聖書には豊かさとか繁栄、生命の象徴して用いられています。祭司がエポデの下に着る長服の裾周りにも付けられました(出エジプト記28:33)。それはざくろがキリストの生命の豊かさを表していたからです。ここで花嫁の頬がそのざくろの片割れのようだというのです。つまり、ざくろのように豊かな実を持っているということです。ですから、この「頬」とか「こめかみ」というのは、心の思いの源を表しているのです。心にどんな思いを抱くかによって結果が決まります。心に肉の思いを持つなら死という実を結びますが、御霊の思いを持つなら、いのちと平安の実を結びます。ざくろのように。それゆえ、聖書はこのように勧めているのです。「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」(箴言4:23)

あなたの心にはどんな思いを宿していますか。いのちの泉はここからわきます。ざくろの片割れのような豊かな実を結ぶために、あなたの心を見守りましょう。

Ⅱ.美しい花嫁パートⅡ(4-6)

花嫁の美しさの称賛が続きます。4~6節をご覧ください。4節には「首は、兵器倉として建てられたダビデのやぐらのよう。その上には千の盾が掛けられ、すべて勇士の丸い小盾だ。」とあります。

今度は首です。ここには、その首が、兵器倉として建てられたダビデのやぐらのようとあります。どういうことでしょうか。当時、ダビデのやぐらには盾が立て掛けてありました。盾が立て掛けられていないということは戦っていることを表していました。ですから、盾が立て掛けられているということは戦っていないということ、平和な状態であることを意味していました。ここには、花嫁の首は、その兵器倉として建てられたダビデのやぐらのようだとあります。そこには千の盾が掛けられていました。全く戦いがない平和な状態であったということです。

「首」は女性の美しさの象徴でもあります。京都の舞子さんとか着物姿の女性のうなじはきれいですね。あまりもきれいなのでお顔を見るとそうでもなくてがっかりすることがありますが、うなじがきれいだとうっとりして見入ってしまいます。ここでは花嫁の首が、うなじがきれいなのです。それは単に見た目がきれいであるというよりも、花嫁のその心の態度がきれいであったということです。

聖書には、「うなじがこわい」という表現が使われています。「こわい」とは強情であるとか頑固であるということです。本来は、牛がくびきをかけられるのを嫌って抵抗する様を表現したものですが、それがイスラエルの民に対して使われています。イザヤ書48章4節です。「あなたが頑なであり、首筋は鉄の腱、額は青銅だと知っているので」彼らは、神のことばに耳を傾けず、聞くこともせず、訓戒を受け入れることもしようとしませんでした。まさに反抗的な民であったのです。そのような者のうなじは美しくありません。

でもイエス様はどうでしょう。イエス様はこう言われました。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11:28)

イエス様は心優しく、へりくだっています。ですから、私たちもイエス様のくびきを負うことができます。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。イエス様を見るならうなだれることはありません。イエス様に従うなら、あなたの首はまっすぐになります。美しい首になるのです。

次に、5節と6節をご覧ください。「二つの乳房は、ゆりの花の間で草を食べている双子のかもしか、二匹の子鹿のようだ。そよ風が吹き始め、影が逃げ去るまでに、私は没薬の山、乳香の丘に行こう。

ここに「二つの乳房」とあります。「二つの乳房は、ゆりの花の間で草を食べている双子のかもしか、二匹の子鹿のようだ。」と。乳房の話なんて、ちょっとエロティックじゃないかと思われるかもしれませんが、ここで花婿と花嫁は既に結婚しているのです。結婚している夫婦にとってはむしろ自然なことです。箴言5章19節には、「彼女の乳房がいつもあなたを潤すように」とあります。

「乳房」はヘブル語で「シャドー」と言いますが、それは祝福と恵みを象徴しています。イザヤ書66章12節には、「主はこう言われる。「見よ。わたしは川のように繁栄を彼女に与え、あふれる流れのように国々の栄光を与える。あなたがたは乳を飲み、脇に抱かれ、膝の上でかわいがられる。」とあります。川のような繁栄とあふれる流れのような国々の栄光が乳を飲むようだと言われているのです。その二つの乳房が、ゆりの花の間で草を食べている双子のかもしか、二匹の小鹿にたとえられているのです。

双子とはバランスのとれた美しい乳房を表現しています。しかも小鹿です。小鹿とは若々しさ、みずみずしさ、張りのある若い乳房のことをたとえています。垂れていません。跳びはねるような張りのある乳房であるということです。別に乳房の美しさを言っているのではなく、霊的にそうであるということです。つまり、花嫁の心が若々しく、みずみずしく、張りがあって、跳びはねるように魅力的であるということです。ですから、私はもう張りがないという人も落ち込まないでください。あなたの心がどうであるかということですからあなたの心はみずみずしく張りがあるでしょうか。それとも、カサカサと萎れてはいないでしょうか。双子のかもしかとはバランスがとれているという意味だと申し上げましたが、あなたの心はバランスがとれているでしょうか。それとも、アンバランスでしょうか。不安定な状態ではないでしょうか。アップダウンの激しい状態でしょうか。でも、イエス・キリストにあるなら、あなたの乳房は双子のかもしかのようにバランスがとれたものとなります。

6節をご覧ください。ここには「そよ風が吹き始め、影が逃げ去るまでに、私は没薬の山、乳香の丘に行こう。」とあります。「そよ風が吹き始め、影が逃げ去るまでに」とは、日暮れになり、風が吹いて涼しくなるまでにということです。それまでに花婿は没薬の山、乳香の丘に行こう、というのです。これは、没薬の山、乳香の丘で花嫁に会いに行こうということです。花婿は、日が暮れる前に、花嫁を迎えに来られるのです。何のことかというと、これは再臨のことです。新聖歌148番に「夕べ雲焼くる 空を見れば、主の来たり給う 日のしのばる」(新聖歌148)とありますが、日が暮れる前に、花婿なる主は花嫁であるあなたを迎えに来られるのです。それはもうすぐです。そよかぜが吹き始め、影が逃げ去るまでに、あなたを迎えに来てくださるのです。

ここには「没薬の山、乳香の丘」とありますが、花婿が来られるのは没薬の山、乳香の丘です。これは以前も見たように、イエス様ことを象徴しています。つまり、私たちの身代わりとして死んでくださったイエス様を信じる者のところに迎えに来られるということです。ここではそれが妻の乳房によって表現されています。乳房は心を表していると言いましたが、そういう心の状態の人のところに来られるということです。あなたはどうでしょうか。双子のかもしか、二匹の小鹿のような心でしょうか。キリストの花嫁として、キリストの心を心として、キリストが迎えに来られるのを待ち望みたいと思います。

Ⅲ.あなたのすべてが美しい(7)

最後に、7節をご覧ください。「わが愛する者よ。あなたのすべては美しく、あなたには何の汚れもない。」とあります。

これが花嫁の姿です。花婿の愛の告白には、花嫁の美しさが称えられているだけで、花嫁の欠点とか、足りないところは一つもありません。花婿にとって花嫁は何の汚れもないのです。花婿であられるキリストが十字架であなたの一切の罪、汚れを贖ってくださったからです。そのことをパウロはエペソ5章26~27節でこのように言っています。「キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自分で、しみや、しわや、そのようなものが何一つない、聖なるもの、傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」

「キリストがそうされたのは」とは、キリストが十字架でご自分をささげられたのは、ということです。それは、教会をきよめて聖なるものとするためです。しみや、しわや、そのようなものが何一つない、聖なるもの、傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためだったのです。

これが私たちの姿です。私たちはかつては神から遠く離れ、罪と欲に汚れた者でしたが、今はキリストのうちにあるものとされたことによって、きよめられ聖なるものとされました。確かに、罪を犯すことがあります。汚れることがある。けれども美しいのです。キリストがあなたの罪のためにご自身のいのちをささげてくださったからです。その血によってあなたのすべての罪は贖われたからです。教会はそうかもしれないけれども、私は本当に罪深い人間で聖くないと言う方がおられますが、あなたのその教会に加えられています。あなたが目なのか、鼻なのか、髪なのか、歯なのか、頬なのか、口なのか、唇なのか、首なのか、乳房なのかわかりませんが、あなたもこのキリストのからだである教会の一部なのです。そんなあなたを見てイエス様は「美しい」と言ってくださるのです。あなたの目は鳩です。髪はやぎの群れです。歯は洗い場から上って来た羊のようです。唇は紅の糸、口は愛らしい、頬はざくの片割れ、首はダビデのやぐらのよう、二つの乳房は双子のかもしか、二匹の小鹿と。感謝ですね。

であれば私たちは自分をどう見るかではなく、花婿であられるキリストがどう見ておられるのか、キリストの目、神の目で自分を見なければなりません。神さまはあなたを愛しておられます。それはご自分の御子をお与えになったほどにです。その御子の血によってあなたの罪、汚れはきよめられ、聖なるものとされたのです。「わが愛する者よ。あなたのすべては美しく、あなたには何の汚れもない。」これが花婿の花嫁であるあなたを見る目なのです。

アメリカの伝道者で、数年前に天に召されたビリー・グラハムはこう言いました。「過去を考えてむだな時間を過ごさずに、未来を見つめてキリストとの交わりに生きてください。キリストが赦すことのできないほどの大きな罪はないのですから、恵みとあわれみを感謝し、キリストを毎日賛美しましょう。」

これが、罪赦された花嫁にふさわしい姿ではないでしょうか。「あなたには何の汚れもない」と言ってくださる花婿に、心からの感謝と賛美をささげましょう。

Ⅱサムエル記15章

 Ⅱサムエル記15章から学びます。

 Ⅰ.アブサロムの謀反(1-12)

 1~12節をご覧ください。まず6節までをお読みします。「その後、アブサロムは自分のために戦車と馬、そして自分の前に走る者五十人を手に入れた。アブサロムはいつも、朝早く、門に通じる道のそばに立っていた。さばきのために王のところに来て訴えようとする者がいると、アブサロムは、その一人ひとりを呼んで言っていた。「あなたはどこの町の者か。」その人が「このしもべはイスラエルのこれこれの部族の者です」と答えると、アブサロムは彼に、「聞きなさい。あなたの訴えは良いし、正しい。だが、王の側にはあなたのことを聞いてくれる者はいない」と言っていた。さらにアブサロムは、「だれか私をこの国のさばき人に立ててくれないだろうか。訴えや申し立てのある人がみな、私のところに来て、私がその訴えを正しくさばくのだが」と言っていた。人が彼に近づいてひれ伏そうとすると、彼は手を伸ばし、その人を抱いて口づけしていた。アブサロムは、さばきのために王のところにやって来る、すべてのイスラエルの人にこのようにした。アブサロムはイスラエルの人々の心を盗んだ。」

自分の妹タマルが辱められたことを怒り兄弟アムノンを殺したアブサロムは、母方の親戚ゲシュルの地へ逃げました。それから3年後、ダビデの家来ヨアブの計略によってアブサロムはエルサレムに引き戻されました。しかし、2年間もダビデに会うことが許されなかった彼は、ヨアブの畑に火を付け、無理やりヨアブを自分のところに呼び、王に会いたい旨を伝えます。それでようやくダビデ王は彼と会うことを決断し、彼に口づけしました。やっと和解できたかと思いきや、アブサロムの心の中には苦々しい思いが残っていました。そして、それがついに父ダビデ王に対する謀反という形になって現れます。アブサロムは、ダビデの王位を奪う工作を開始します。

アブサロムは、自分のために戦車と馬、そして自分の前に走る者五十人を手に入れると、いつも、朝早く、門に通じるそばに立ちました。自分こそが王位継承者であることを印象付けようとしたのです。そして、さばきのために王のところに来て訴えようとする者がいると、その人に「あなたはどこの町の者か」「あなたの訴えは正しいが、王の側にはあなたの話を聞いてくれる者はいないだろう。」「もしだれかが私をこの国のさばき人に建ててくれるなら、正しくさばくことができるのだが」と、いかにも自分になびくように仕向けたのです。彼は人が自分に近づいてひれ伏そうとすると、手を伸ばし、その人を抱いて口づけしていました。これはただの演技です。彼は持ち前の容姿と、こうした演技によってイスラエルの人々の心を盗んだのです。つまり、人々がダビデに対して示していた忠誠心を、自分のものとしたのです。

アブサロムのように行動する人は、この世にいくらでもいます。しかし、クリスチャン生活はこうした野心とはほぼ遠いものです。ゼベダイの子ヤコブとヨハネがイエスに、「あなたが栄光をお受けになるとき、一人があなたの右に、もう一人があなたの左に座るようにしてください。」(マルコ10:37)と言ったとき、イエス様が言われたことはこうでした。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められている者たちは、人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。」(マルコ10:42-44)

私たちはこの世で評価されることを求めるのではなく、神の国で評価されることを求めているものです。人の計略に(くみ)する者ではなく、神のみこころを求め、そこに生きるべきです。こうした計略に与することがないように注意しなければなりません。

次に、12節までをご覧ください。「四年たって、アブサロムは王に言った。「私が主に立てた誓願を果たすために、どうか私をヘブロンに行かせてください。このしもべは、アラムのゲシュルにいたときに、『もし主が私を本当にエルサレムに連れ帰ってくださるなら、私は主に仕えます』と言って誓願を立てたのです。」王は言った。「安心して行って来なさい。」彼は立って、ヘブロンに行った。アブサロムはイスラエルの全部族に、ひそかに人を遣わして言った。「角笛が鳴るのを聞いたら、『アブサロムがヘブロンで王になった』と言いなさい。」アブサロムとともに、二百人の人々がエルサレムを出て行った。その人たちは、ただ単に招かれて行った者たちで、何も知らなかった。アブサロムは、いけにえを献げている間に、人を遣わして、ダビデの助言者ギロ人アヒトフェルを、彼の町ギロから呼び寄せた。この謀反は強く、アブサロムにくみする民が多くなった。」

ヘブロンは、かつてダビデがユダの人々によって王として立てられた町です。彼はそこで七年間、王として統治しました。それからエルサレムに移りました。アブシャロムは今、そのヘブロンに行っていけにえをささげたい、と嘘を言います。彼の本当の目的は、そこで王として即位することでした。アブサロムはイスラエルの全部族に、ひそかに人を遣わし、自らの謀反に参加するように呼び掛けていました。周到な準備によって、国中に謀反に加担する反逆者が用意されていたことがわかります。

ダビデをはじめ多くの部下たちがアブサロムの罠にまんまと騙されてしまいました。ダビデは何も疑わず、「安心して行って来なさい」と言って彼を送り出しました。また、アブサロムとともに200人の人々がエルサレムを出て行きました。彼らはアブサロムにただ招かれて行っただけで、何も知らなかったのです。アブサロムにとっては、そのうちの何人かでも自分に付いてくれるなら、という思いだったのかもしれませんが、全員が付いて来ることになったのです。そればかりではありません。何とダビデの助言者アヒトフェルも、彼に従いました。

信じられません。こんなにも多くの人たちがいとも簡単にアブサロムの謀反に加担するようになるとは。イエス様はこう言われました。「いいですか。わたしは狼の中に羊を送り出すようにして、あなたがたを遣わします。ですから、蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい。」(マタイ10:16)

私たちを騙そうとするサタンの攻撃に対して、鳩のように素直なだけではだめです。蛇のようにさとくふるまうことが必要です。特に世の終わりが近づくと、私たちが学んだ教えに背いて、分裂とつまずきをもたらす者たちが現れます。最近では新世界イエス教とか、グッドニュース宣教会といった異端の教えがはびこっていますし、キリスト教会の中でも聖書の教えとは違う、逸脱した教えが広がっています。そのような教えに警戒し、それらから遠ざけなければなりません。

 Ⅱ.ダビデの逃亡(13-17)

次に、13~17節までをご覧ください。「ダビデのところに告げる者が来て、「イスラエルの人々の心はアブサロムになびいています」と言った。ダビデは、自分とともにエルサレムにいる家来全員に言った。「さあ、逃げよう。そうでないと、アブサロムから逃れる者はいなくなるだろう。すぐ出発しよう。彼がすばやく追いついて、私たちに害を加え、剣の刃でこの都を討つといけないから。」王の家来たちは王に言った。「ご覧ください。私たち、あなたのしもべどもは、王様の選ばれるままにいたします。」王は出て行き、家族のすべての者も王に従った。しかし王は、王宮の留守番に十人の側女を残した。王と、王に従うすべての民は、出て行って町外れの家にとどまった。」

 ダビデは、助言者アヒトフェルをはじめ、イスラエルの多くの民がアブサロムにくみするようになったのを見て、逃げることを決意します。ダビデがそのように決意したのは、アブサロムから逃れる者はいなくなると思ったからです。そうしないと、アブサロムがすばやく追いついて、ダビデたちに害を加えると思ったのです。そのような事態は何としても避けなければなりませんでした。

ダビデ王が出て行くと、家族のすべての者も王に従いました。王宮の留守番のために残した10人の側女以外は。彼女たちは正妻ではなかったので、殺される心配がなかったのです。王と、王に従うすべての民は、出て行って町はずれの家にとどまりました。おそらくそこで、逃げるための最終準備をしたのでしょう。荷物をまとめて、まとまって逃げるための準備です。

それにしても、ダビデの家来たちの忠誠心は大したものです。ダビデが「さあ、逃げよう」と言ったとき、彼らは「私たち、あなたのしもべどもは、王様の選ばれるままにいたします。」と言いました。彼らはダビデを愛していました。そしてやがてダビデが兵を起こしてエルサレムに帰還すると信じていました。彼らはダビデの判断に全幅の信頼を置いたのです。

これこそ、主イエスに従う私たちクリスチャンが取るべき態度です。イエス様の公生涯において、人々が主から離れて行った時がありましたが、そのとき、弟子たちに「まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう。」と問いかけると、ペテロが「主よ、私たちはだれのところに行けるでしょうか。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。私たちは、あなたが神の聖者であると信じ、また知っています。」(ヨハネ:68-69)と答えました。主を評価しない人々が多くいる中でもなお、「主よ。私たちはだれのところへ行けるでしょう。」と告白できるなら幸いです。どんなことがあっても、この主から離れず、主の御言葉に信頼して、主の後に従う者でありたいと思います。

そのようにダビデに従ったのは、彼の家来たちの中で、外国人たちも同じでした。18~23節をご覧ください。「王のすべての家来は王の傍らを進み、すべてのクレタ人と、すべてのペレテ人、そしてガテから王について来た六百人のガテ人がみな、王の前を進んだ。王はガテ人イタイに言った。「どうして、あなたもわれわれと一緒に行くのか。戻って、あの王のところにとどまりなさい。あなたは異国人で、自分の国からの亡命者なのだから。あなたは昨日来たばかりなのに、今日、あなたをわれわれと一緒にさまよわせるのは忍びない。私はこれから、あてどもなく旅を続けるのだから。あなたの兄弟を連れて戻りなさい。恵みとまことがあなたとともにあるように。」イタイは王に答えて言った。「主は生きておられます。そして、王様も生きておられます。王様がおられるところに、生きるためでも死ぬためでも、このしもべも必ずそこにいます。」ダビデはイタイに言った。「では、進んで行きなさい。」ガテ人イタイは、彼の部下全員と、一緒にいた子どもたち全員を連れて、進んで行った。」

イスラエル人ではない異邦人が、ダビデの家来として従っていました。それはすべてのクレテ人と、すべてのペレテ人、そしてガテです。彼らは全員ペリシテの地から来た兵士たちでした。彼らは王の親衛隊として、王の傍らを進んだのです。中でも特に注目すべきは、ガテから来た600人です。その長はイタイでした。彼らは前日来たばかりなのに、ダビデの逃亡の旅に加わりました。ダビデも、それはさすがに忍びないとガテに戻るようにと言いましたが、王様がおられるところに、自分たちも必ずいますと宣言しました。21節のイタイのことばはすごいですね。感動です。イタイの気持ちになって一緒に読みましょう。

「主は生きておられます。そして、王様も生きておられます。王様がおられるところに、生きるためでも死ぬためでも、このしもべも必ずそこにいます。」

ダビデ王に対するすばらしい愛と献身です。ちょうどルツ記で見たように、ルツが姑ナオミに対して行なったのと同じですね。夫も息子も失ったナオミがベツレヘムに戻ろうとするとき、嫁ルツとオルパに、あなたたちの故郷モアブに帰りなさいと説得しました。けれども、ルツは言うことを聞かず、このように言いました。

「あなたが行かれるところに私は行きます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。あなたが死なれるところで私は死に、そこで葬られたいのです。」(ルツ1:16)

だれから頼まれるのでもなく、ただその人を愛しているから、いつまでもついて行くという決心です。

ダビデもこのことばを聞いてどれほどうれしかったことでしょう。そんなイタイにダビデが「では進んで行きなさい。」と言ったので、イタイは、彼の部下全員と、一緒にいた子供たち全員を連れて、進んで行きました

私たちもイタイと同じように、「あなたがおられるところに、生きるたるでも、死ぬためでも、しもべは必ず、そこにいます。」と告白する者でありたいと思います。

 23~29節をご覧ください。「この民がみな進んで行くとき、国中は大きな声をあげて泣いた。王はキデロンの谷を渡り、この民もみな、荒野の方へ渡って行った。見よ、ツァドクも、すべてのレビ人と一緒に神の契約の箱を担いでいた。民がみな都から出て行ってしまうまで、彼らは神の箱を降ろし、エブヤタルがささげ物を献げた。王はツァドクに言った。「神の箱を都に戻しなさい。もし私が主の恵みをいただくことができれば、主は、私を連れ戻し、神の箱とその住まいを見させてくださるだろう。もし主が『あなたはわたしの心にかなわない』と言われるなら、どうか、主が良いと思われることをこの私にしてくださるように。」王は祭司ツァドクに言った。「あなたは先見者ではないか。安心して都に帰りなさい。あなたがたの二人の息子、あなたの息子アヒマアツとエブヤタルの息子ヨナタンも、あなたがたと一緒に。見なさい。私は、あなたがたから知らせのことばが来るまで、荒野の草原でゆっくり待とう。」ツァドクとエブヤタルは神の箱をエルサレムに持ち帰り、そこにとどまった。」

 キデロンの谷とは、エルサレムの町の右側を走っている谷です。谷の向こう側にはオリーブの山があります。そしてオリーブの山を越えるとヨルダン川の方面へ、荒野へと向かいます。彼らが進んで行くとき、国中は大きな声を上げて泣きました。

 祭司ツァドクとエブヤタルも、契約の箱を担いでエルサレムを出ようとしました。しかし、ダビデは止めさせます。なぜなら、もし彼が主の恵みにかなうなら、主は彼を再びエルサレムに連れ戻し、神の箱とその住まいを見させてくれると思ったからです。もしそうでないなら、主が良いと思われることを自分にしてくれるでしょう。ダビデは以前のダビデに戻っています。つまり、神の主権にすべてをゆだねたのです。すばらしいですね。すばらしい信仰です。

 そしてダビデは、祭司ツァドクとエブヤタルをエルサレムに返します。それは、彼らが「先見者」であったからです。「先見者」とは預言者のことです。アブサロムがエルサレムにやって来ても、その後の動静を見据えるために、彼らがエルサレムに残る必要がありました。そしてツァドクの息子アヒマアツとエブヤタルの息子ヨナタンが、ダビデへの連絡係となりました。ツァドクとエブヤタルが動静を見極めたら、それをヨナタンに伝え、彼らがダビデに伝えるようにしたのです。いわゆるスパイ活動です。ダビデは荒野の草原で、彼らの連絡を待つことにしました。

 30節をご覧ください。「ダビデはオリーブ山の坂を登った。彼は泣きながら登り、その頭をおおい、裸足で登った。彼と一緒にいた民もみな、頭をおおい、泣きながら登った。」

 胸が痛みますね。涙が出ます。これら一連の行為は、深い悲しみと悔い改めを表現したものです。この時のダビデの心境を歌った詩があります。詩篇3篇です。開いてみましょう。

「ダビデの賛歌。ダビデがその子アブサロムから逃れたときに。
1 主よなんと私の敵が多くなり私に向かい立つ者が多くいることでしょう。
2 多くの者が私のたましいのことを言っています。「彼には神の救いがない」と。セラ
3 しかし主よあなたこそ私の周りを囲む盾私の栄光私の頭を上げる方。
4 私は声をあげて主を呼び求める。すると主はその聖なる山から私に答えてくださる。セラ
5 私は身を横たえて眠りまた目を覚ます。主が私を支えてくださるから。
6 私は幾万の民をも恐れない。彼らが私を取り囲もうとも。
7 主よ立ち上がってください。私の神よお救いください。あなたは私のすべての敵の頬を打ち悪しき者の歯を砕いてくださいます。
8 救いは主にあります。あなたの民にあなたの祝福がありますように。セラ」

 これは、ダビデがその子アブサロムから逃れたときに歌った詩です。1~2節は、ダビデが直面していた苦難の描写です。「彼には神の救いがない」とは、ダビデが置かれていた絶望的な状況を表しています。オリーブ山を泣きながら、頭をおおい、裸足で登っていくダビデの姿は、まさに神の救いがないといった状況でした。

 しかし、ダビデはそのような中で主を呼び求めます。「しかし主よ あなたこそ私の周りを囲む盾 私の栄光 私の頭を上げる方。私は声をあげて主を呼び求める。すると主はその聖なる山から私に答えてくださる。」(3-4)

 そして、そのような中で主に感謝をささげています。「私は身を横たえて眠りまた目を覚ます。主が私を支えてくださるから。私は幾万の民をも恐れない。」(5-6)

 そして、主が救ってくださると信じ、主の勝利を確信しています。「彼らが私を取り囲もうとも。主よ立ち上がってください。私の神よ お救いください。あなたは私のすべての敵の頬を打ち悪しき者の歯を砕いてくださいます。救いは主にあります。あなたの民にあなたの祝福がありますように。」

 試練や困難が襲ってくるとき、私たちはどこに助けを求めているでしょうか。ダビデのように、主を見上げ、主が救ってくださると信じて、主に助を求める人は幸いです。

 Ⅲ.ダビデの友フシャイ(31-37)

 最後に、31~37節をご覧ください。「そのときダビデは、「アヒトフェルがアブサロムの謀反に荷担している」と知らされた。ダビデは言った。「主よ、どうかアヒトフェルの助言を愚かなものにしてください。」ダビデが、神を礼拝する場所になっていた山の頂に来たとき、見よ、アルキ人フシャイが上着を引き裂き、頭に土をかぶってダビデに会いに来た。ダビデは彼に言った。「もしあなたが私と一緒に行くなら、あなたは私の重荷になる。しかしもし、あなたが都に戻って、アブサロムに『王よ、私はあなたのしもべになります。これまであなたの父上のしもべであったように、今、私はあなたのしもべになります』と言うなら、あなたは私のためにアヒトフェルの助言を打ち破ることになる。 あそこには祭司のツァドクとエブヤタルも、あなたと一緒にいるではないか。あなたは王の家から聞くことは何でも、祭司のツァドクとエブヤタルに告げるのだ。見よ、あそこには、彼らの二人の息子、ツァドクの子アヒマアツとエブヤタルの子ヨナタンが彼らとともにいる。二人をよこして、あなたがたが聞いたことを残らず私に伝えてくれ。」ダビデの友フシャイは都に帰った。そのころ、アブサロムもエルサレムに着いた。」

 そのときダビデは、アヒトフェルがアブサロムの謀反に加担していることを知り、主に祈りました。「主よ、どうかアヒトフェルの助言を愚かなものにしてください。」と。これはダビデにとってとても傷ついた知らせだったでしょう。というのは、アヒトフェルはダビデが最も信頼していた議官の一人、助言者だったからです。ダビデがこの時の心境を詩篇のいくつかの箇所で書いています。たとえば、詩篇55篇12~14節では、「まことに私をそしっているのは敵ではない。それなら私は忍ぶことができる。私に向かって高ぶっているのは私を憎む者ではない。それなら私は身を隠すことができる。それはおまえ。私の同輩私の友私の親友のおまえなのだ。私たちはともに親しく交わりにぎわいの中神の家に一緒に歩いて行ったのに。」と言っています。キリスト教のキの字も嫌がる、キリスト教とは全く無縁の人が自分に敵対しているのならば、それほど痛くもないでしょう。けれども、クリスチャンで、しかも今まで仲の良かったクリスチャンの友が、親友と思っていた者が、これまで親しく交わり一緒に主を礼拝していた者が、自分に敵対することがあれば、これほど辛いことはありません。

ダビデが、神を礼拝する場所になっていた山の頂に来たちょうどその時、アルキ人フシャイが上着を裂き、頭に土をかぶってダビデに会いに来ました。しかし、もし彼がダビデと一緒に行くなら、ダビデの重荷となります。なぜなら、彼はかなりの高齢になっていたからです。37節に「ダビデの友」とありますが、「王の友」というのは、高官の職名であり、その働きの内容は王の相談役でした。フシャイは高齢であるにもかかわらず、ダビデに従って行こうとしたのです。それは本当に感謝なことですが、ダビデにとって重荷となるだけでなく、彼には彼にしかできない役割がありました。それは、エルサレムに戻り、アブサロムのしもべになったふりをして、アヒトフェルの助言を打ち破るということです。彼はこれまでダビデの相談役としての実績がありました。ですから、アヒトフェルの助言を打ち破る力があったのです。

そればかりではありません。アブサロムのところには、祭司ツァドクとエブヤタルもいます。彼は王の家から聞くことは何でも祭司ツァドクとエブヤタルに告げれば、彼らが息子のアヒマアツとエブヤタルに伝え、それをダビデに伝えることができるのです。

こうやって見ると、ダビデを愛して、ダビデに忠誠を誓っていた人たちでも、必ずしも一緒に逃げたわけではないことが分かります。エルサレムに残ることによってダビデに仕える者もいれば、フシャイのようにアブサロムの側につくふりをしてダビデに仕える者もいました。教会も同じです。教会はキリストのからだとして、そこにはいろいろな器官があります。みな役割(賜物)が違います。それぞれがかしらであるキリストに仕えるのですが、それぞれがそのからだの器官であり、与えられている賜物は異なり、奉仕も、働きも異なってきます。けれども同じキリストに仕えるのです。

あなたの役割は何でしょうか。他の器官とは違うかもしれませんが、自分に与えられた賜物を用いて主に仕えましょう。そして、主の栄光を現わす者でありたいと思います。

雅歌3章6~11節「荒野から上って来るのは何か」

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 雅歌からお話しております。きょうはその7回目となりますが、「荒野から上ってくるのは何か」というタイトルでお話したいと思います。6節に「煙の柱のように荒野から上って来るのは何だろう」とあります。きょうは、このタイトルで3つのことをお話します。

Ⅰ.あらゆる香料をくゆらして(6)

まず6節をご覧ください。「煙の柱のように荒野から上って来るのは何だろう。没薬や乳香、隊商のあらゆる香料の粉末をくゆらせて来るのは。」

ここから場面が変わります。1章1節から2章7節までは、結婚式当日の思い出が語られました。そして前回の2章8節から3章5節までは、婚約時代の思い出が語られていました。ここからは結婚式に至るまでの出来事が描かれていきます。

「煙のように荒野から上って来るのは何だろう。」これは、王である花婿が花嫁をエルサレムに迎えるために使者たちを遣わし、その花嫁が行列をなしてエルサレムに上って来る様子です。それを見た群衆のひとりが語っていることばです。ここには「何だろう」とありますが、この「何」という原語のへブル語は「ゾー」ということばで、女性の単数形が使われています。ですから、これは明らかに1人の女性を指していることがわかります。それはこれまで登場してきた花嫁のことです。ですから、新共同訳ではこれを「おとめ」と訳しているのです。また、他の多くの聖書でも「何か」ではなく、「誰か」と訳しています。3章前半では、花婿を見失った花嫁が花婿を必死に探し出すシーンが描かれていましたが、花婿を見つけた花嫁は、彼をしっかりと捕まえると放すことなく、母の家に、すなわち、実家へと連れて行きました。その後花嫁は荒野へと導かれていたのです。花婿はその荒野から花嫁を連れ出し、自分のもとへと引き寄せているわけです。

「荒野」というと、皆さんは何を想像されるでしょうか。さくらチャーチでは今、祈祷会で民数記から学んでおりますが、エジプトを出て約束の地へ向かったイスラエルの民はバランの荒野に導かれると、彼らはひどく不平を言って主につぶやいたのです。「ああ、肉が食べたい。エジプトでただで魚を食べていたことを思い出す。きうりも、すいかも、にら、玉ねぎ、にんにくも。だが今や、私たちの喉はからからだ。全く何もなく、ただ、このマナを見るだけだ。」(民数記11:4-6)

失礼ですね。主がせっかくエジプトの奴隷の中から救い出してくださったというのに、それに感謝するのではなく、不平や不満を言うとは。いったいなぜ彼らはつぶやいたのでしょうか。荒野は決して楽な場所ではありませんでした。不便なことがあれば、困難もありました。空腹や疲れもあったでしょう。そんな荒野での三日間の旅で、彼らは「もう嫌だ、こんな生活は・・」と言ってつぶやいたのです。

それが荒野です。飢えと渇きに満ちたところ、不平不満、不信仰が渦巻いているところ、それが荒野なんです。花婿は花嫁をそんな不信仰の荒野から連れ出して、自分のもとで安らぐようにしてくれます。この花婿とはだれのことでしょうか。そうです、これは私たちの主イエス・キリストです。そして花嫁とは私たち教会のことです。すなわち、これはやがて主が私たちをこの地上の荒野から引き上げてくださり、ご自身のもとへと連れ出してくださる携挙のことを予表しているのです。感謝ですね。この地上では旅人、私たちもイスラエルの民が荒野で「ああ、肉が食べたい」と不平を言ったように、さまざまな試練や困難の中でもがき苦しむ者ですが、やがて主がこの人生の荒野から完全に引き上げてくださるときがやって来るのです。そのときを待ち望みながら、そこに希望を置いて、この荒野での歩みを信仰と忍耐をもって送れることは何と幸いなことでしょうか。

ところで、花嫁はどのように荒野から上ってくるのでしょうか。ここには「煙の柱のように、没薬や乳香、隊商のあらゆる香料の粉末をくゆらせて来るのは」とあります。どういうことでしょうか。花嫁は、あらゆる香料の煙をくゆらせて、垂直に上る柱のような煙を携えて上ってくるということです。

この香の煙とは、私たちの祈りのことです。聖書では、香の煙は神さまにささげられる香りであると言われています。たとえば、詩篇141篇2節には「私の祈りが 御前への香として 手を上げる祈りが 夕べのささげ物として 立ち上りますように。」とあります。また、ヨハネの黙示録5章8節にも、「巻物を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老たちは子羊の前にひれ伏した。彼らはそれぞれ、竪琴と、香に満ちた金の鉢を持っていた。香は聖徒たちの祈りであった。」とあります。ここには「香は聖徒たちの祈りであった」とあります。香は聖徒たちの祈りを表しているのです。私たちの祈り、私たち自身が神さまへの香のささげ物なのです。それが煙の柱のように、没薬や乳香など、あらゆる香料の粉末をくゆらせて来るのです。

「くゆらせて」ということばは、あまり聞かないことばですね。「くゆらせて」ということばを辞書で調べてみると、「(くす)ぶらせて」とか、「(かお)らせて」とありました。よい匂いがほのかに立つことです。花嫁は、没薬や乳香、その他あらゆる良い香りを立ち上らせながらやって来るというのです。これが花嫁の香りです。これはもともと花婿なるキリストの香りですが、キリストと結ばれ、キリストに似た者とされるクリスチャンは、同じ香りを放つようになるのです。

あるとき、先生と弟子が道を歩いていました。すると一人の男が、道端で紐を見付けると拾って匂いを嗅いでいるのを見ました。ある紐は大事そうに袋に入れるのですが、別の紐は匂いを嗅ぐとポーンと捨てるのです。「先生、あの男は何をしているんですか」と尋ねました。

すると先生は答えました。「あなたたちは気が付きませんでしたか。彼が最初に拾った紐は、香木(こうぼく)と言って匂いの非常にいい木を縛ってあった木だ。だからその匂いがあの紐に染み付いて、とってもいい臭いがしたのだ。それで彼は大事そうにちゃんと袋に入れて持って帰ったんだ。でも二回目に拾った紐、あれは捨てただろう。あれはな、実は腐った魚を捨てるために縛っておいた木なんだ。だから、臭い匂いがしみ付いていたので捨てたんだよ。同じように、あなたたちも一緒にいる人のにおいが身に着くものだ。だから一緒に過ごす人をよく選びなさいよ。」と。

含蓄のあることばではないでしょうか。私たちが一緒に過ごすのは、私たちの花婿イエス・キリストです。この方は乳香、没薬など、あらゆる香料の良い香りがします。ですから、この方と結び合わされた私たちも同じ香りを放つことができるのです。それが花嫁である私たちクリスチャンに求められている務めでもあります。

エペソ5章1~2節を開いてください。ここには「ですから、愛されている子どもらしく、神に倣う者となりなさい。また、愛のうちに歩みなさい。キリストも私たちを愛して、私たちのために、ご自分を神へのささげ物、またいけにえとし、芳ばしい香りを献げてくださいました。」とあります。「ですから」というのは、私たちは、以前は闇でしたが、ということです。でも今は、主にあって光となりました。「ですから」です。もっと言うならば、私たちは、以前はキリストから遠く離れ、約束の契約については他国人で、この世にあっては望みもなく、神もない者たちでしたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者とされたのですから、ということです。ですから、私たちは、愛されている者らしく、神に倣う者でなければなりません。また、愛のうちに歩まなければなりません。なぜなら、キリストが私たちのために、ご自分を神へのささげ物、またいけにえとして、芳ばしい香りを献げてくださったからです。ほら、ここに、キリストご自身が、神への芳ばしい香りであり、その香りを献げてくださったとありますね。ですから、私たちも芳ばしい香りとして、自分を神にささげなければならないのです。

同じことが、Ⅱコリント2章15~16節にも書かれてあります。「私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神に献げられた芳しいキリストの香りなのです。滅びる人々にとっては、死から出て死に至らせる香りであり、救われる人々にとっては、いのちから出ていのちに至らせる香りです。このような務めにふさわしい人は、いったいだれでしょうか。」
 私たちは、神に献げられた芳ばしいキリストの香りです。それは滅びる人々にとっては、死から出て死に至らせる香りですが、救われる人々にとっては、いのちから出ていのちに至らせる香りです。キリストの花嫁である私たちには、このような務めがゆだねられているのです。すごいですね。それは一人の人の運命を、永遠に変えてしまう香りです。人の一生を変えてしまうのです。そのような務めが与えられているのです。私たちはとてもこのような務めにふさわしい者ではありませんが、でも、神はこんな私でも、あなたでも用いてくださるのです。

あの星野富弘さんがこういう詩を作っていらっしゃいます。

風はみえない

だけど 木に吹けば緑の風になり

花に吹けば花の風になる

今 私を すぎていった風は

どんな風になるのだろう

(星野富弘「詩画集 風の詩―かけがえのない毎日」から)

風はみえませんが、いろいろな色があります。緑の木々に吹くと、何だか緑の色に見えるし、花に吹けば、ピンクの色に見えます。では、あなたに吹いた風はどんな色でしょうか。美しい色ですか、そしていい香りですか。もしそれがイエス様の香りがするなら、なんと幸いでしょうか。荒野から上って来る花嫁は、没薬や乳香、貿易商人のあらゆる香料の粉末をくゆらして、煙の柱のように上ってきます。それが私たちクリスチャンの香りです。私たちにはそのような生き方が求めてられているのです。それがキリストの香なのです。

Ⅱ.夜襲に備える勇士(7-8)

次に、7~8節をご覧ください。「見よ、あれはソロモンの乗る輿。周りには、イスラエルの勇士の六十人衆がいる。彼らはみな剣を帯びた練達の戦士。それぞれ腰に剣を帯びて夜襲に備える。」

これは、群衆の中にいた別の人が語っていることばです。花婿は花嫁が婚礼のパレードをしているときに、その人が「見よ、あれはソロモンの乗る輿」と言いました。「輿」とは、日本のお祭りのときに見るお神輿(みこし)を想像する人もいるかもしれませんが、これは移動式ベッドのことです。当時は長椅子としても使われていました。その移動式ベッドに乗っていたのです。まさにシンデレラですね。かぼちゃの馬車ではありませんが、王が乗る最高の乗り物に乗っていたのです。

それは私たちも同じです。私たちも王である花婿の輿に乗るようになります。なぜなら、私たちはキリストの花嫁とされたからです。花嫁であれば、花婿のものを受けるのは当然です。ローマ8章17節には、「子どもであるなら、相続人でもあります。私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。」(ローマ8:17)とあります。私たちは、神の子とされたわけですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。キリストが持っているすべてのものを共に持つ者とされました。だってキリストの花嫁なんですから。お嫁さんの立場ってすごいですね。花婿との共同相続人となるのです。玉の輿に乗るとはこのことです。特に私たちの花婿は天地万物を造られた方です。私たちはそのような方と夫婦になり、その方の持っているものを全部所有するようになるのですから。これが私たちに与えられている立場です。

7節の後半見てください。このソロモンの乗る輿の周りには、イスラエルの勇士60人衆がいます。これはこの輿を護衛する人たちです。強力なエス・ピー、ボディー・ガードです。彼らがガードしてくれるのです。なぜですか?8節には「夜襲に備える」とあります。「夜襲」とは、下の欄外注にあるように「夜の恐怖」のことです。夜になると様々な恐怖が襲ってきます。突然、脇からナイフを持った強盗が襲ってくるかもしれません。あるいき野獣が襲ってくるかもしれません。でも何が襲ってきても大丈夫です。なぜなら60人の勇士がいて守ってくれるからです。彼らはみな剣を帯びた練達の戦士たちです。最強のボディー・ガードなのです。

このようなボディー・ガードが私たちにも与えられています。それは天使たちです。へブル1章14節にはこうあります。「御使いはみな、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになる人々に仕えるために遣わされているのではありませんか。」「救いを受け継ぐことになる人々」とは誰のことでしょうか。そうです、私たちクリスチャンのことです。神はこの御使いを遣わし、救いを受け次ぐことになる私たちクリスチャンに仕え、すべてのわざわいから守っておられるのです。

詩篇34篇7節には、「主の使いは、主を恐れる者の周りに陣を張り、彼らを助け出される。」とあります。「主を恐れる者」とは、クリスチャンのことです。主の使いは、主を恐れる者の周りに陣を張り、彼らを助け出されるのです。すばらしいですね。

かつてイスラエルがアラムと戦っていたとき、アラムの戦略がすべてイスラエルの王にツーツーだったことがありました。それでアラムの王がその原因を突き止めると、それはイスラエルの預言者エリシャが、王室の中で語られていることばまでもイスラエルの王に告げているからだということがわかりました。それでエリシャを捕まえるために人をドタンというところに遣わしました。エリシャの召使いが外に出てみると、馬と戦車の軍隊がその町を包囲していました。若者は焦ってエリシャに「ご主人様。どうしたらよいでしょう」と言うと、エリシャはこのように言いました。「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから」(Ⅱ列王記6:16)

そして、エリシャは主に祈って言いました。「どうか、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」(Ⅱ列王記6:17)

するとどうでしょう。主がその若者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていました。結局、主が敵の目をくらませたので、敵は何もすることができませんでした。そして、アラムの略奪隊は二度とイスラエルの地に侵入することはなかったのです。

皆さん、私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのです。私たちには神の御霊、聖霊がともにおられるのでそれだけでも十分安心ですが、さらに幾千、幾万という天使たちが私たちの周りに陣を張り、助けてくださるのです。それは本当に心強いことです。あなたは今、何に脅えていますか。何を心配していますか。あなたの周りには、イスラエルの勇士の60人衆がいて、あなたをしっかりと守ってくださるということを信じていただきたいと思います。

ところで、クリスチャンにはこのような強力な護衛がいるのだから、一切危険な目に遭うことはないのかというと、そうではありません。クリスチャンでも交通事故に遭ったり、危険な目に遭ったりすることがあります。勿論、そのようなときでも主の使いが守ってくださいますが、それは一切の危険から守られるということではないのです。ここには「夜襲に備える」とあります。「夜の恐怖」から守ってくれるのです。夜の恐怖とは何でしょうか。それは、暗闇の世界の支配者たちのことです。天にいるもろもろの悪霊のことです。そのような敵から守ってくれるのです。

エペソ6章12節をご覧ください。ここには、「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。」とあります。皆さん、私たちの格闘は、目に見える血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。このような悪霊に襲われることはありません。たとえ襲われたとしても、御使いが守ってくれるので大丈夫です。もちろん、私たちも神の武具を身につけて戦いますが、私たちの戦いは一人で戦うものではありません。イスラエルの勇士60人衆が共に戦ってくれるのです。何よりも神ご自身がともにいて、戦ってくださいます。私たちとともにおられる方は、この世にいるあの者よりも強いのです(Ⅰヨハネ4:4)。だから、恐れることはありません。

サタンは日夜、クリスチャンであるあなたを訴えるでしょう。「また罪を犯した」「それでもクリスチャンか」「あなたがクリスチャンだとは思えない」そういってクリスチャンであるあなたを非難して攻撃してきます。でも恐れてはなりません。あなたには主の勇士60人衆がいて、守ってくれるのだから。あなたは決して一人ではありません。一人で戦うのではないのです。主の使いがあなたとともにいて、戦ってくださいます。そのことを忘れないでください。

Ⅲ.ご自分の婚礼の日、心の喜びの日に(9-11)

最後に、9~11節をご覧ください。9節と10節には「ソロモン王は、レバノンの木で自分のために駕籠を作った。その支柱は銀、背は金、座席は紫布で作り、内側には、エルサレムの娘たちの愛の切りばめ細工が施されている。」とあります。

ソロモン王は、レバノンの木で、自分のために駕籠を作りました。これは7節の輿、移動式ベッドのことではありません。新共同訳では「天蓋」と訳していますが、これは奥の間(寝室)に用意されている新郎新婦のためのベッドです。1章17節に「私たちの寝床も青々としています」とありますが、その寝床のことです。ソロモンは、花嫁のために豪華なベッドを用意したのです。それはレバノンの木でできた豪華なものでした。レバノンの木といったら、当時は最高の建材でした。支柱は銀、背は金です。座席は紫布でできていました。その内側には、エルサレムの娘たちが施した愛の切りばめ細工が施されていました。花婿であるソロモンが愛情を込めて作ったのです。どうしてでしょうか。それは、花婿にとって最高の喜びの日だからです。

11節をご覧ください。「シオンの娘たち。ソロモン王を見に出かけなさい。王は、ご自分の婚礼の日、心の喜びの日に、母がかぶらせた冠をかぶっている。」

「シオンの娘たち」とは「エルサレムの娘たち」のことです。ここではエルサレムの娘たちに呼びかけられています。ソロモン王を見に出かけなさいと。なぜ?王は、ご自分の婚礼の日、心の喜びの日に、母がかぶらせた冠をかぶっているからです。この「冠」とは王冠のことではありません。結婚式のときに花婿にかぶせられた冠のことで、植物の枝で編んだ花の冠でした。もうすぐオリンピックですが、マラソンの勝者には月桂樹の冠がかぶせられますが、それに似ています。それは喜びを表していました。喜びのしるしとしての冠です。それは花婿にとって最高の喜びの日なのです。

イタリヤのシチリヤでの結婚式の様子がテレビで紹介されていましたが、今でも中世のやり方が受け継がれています。新郎新婦が音楽隊の音楽に合わせて、村中を歩き回ります。花婿が花嫁を家まで迎えに行き、それから村中を歩き回り、結婚式場に入って行きます。村中に、喜びが溢れます。愛する新郎新婦が一緒にいる時、そこには喜びがあります。それは最高の喜びの日です。この花婿との婚礼にあなたも招かれているのです。

黙示録19章6~7節には、「ハレルヤ。私たちの神である主、全能者が王となられた。私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。子羊の婚礼の時が来て、花嫁は用意ができたのだから。」とあります。結婚式の準備には時間がかかります。しかし、王であるキリストとの結婚式は普通の結婚式ではなく、極めて特別な結婚式です。準備に約2,000年の歳月が費やされましたが、花婿が花嫁と結び合わされる時は急速に近づいています。Ⅰテサロニケ4章16~17節にあるように、主ご自身が天から下って来られ、私たちを一挙に引き上げてくださいます。そして天の御国で主と結ばれ、一つになる時がやって来るのです。そのためにしっかりと備えなければなりません。

キリストは幾世紀にもわたり、この天での結婚式のために花嫁なる教会を整えてこられました。使徒パウロによると、キリストが教会のためにご自身を献げられたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためである、とあります。そして、しみや、しわや、そのようなものが何一つない、聖なるもの、傷のないものとなった栄光の教会を、ご自身の前に立たせるためでした(エペソ5:25-27)。

パウロはコリントのクリスチャンに、こう述べています。「私は神の熱心をもって、あなたがたのことを熱心に思っています。私はあなたがたを清純な処女として、一人の夫キリストに献げるために婚約させたのですから。」(Ⅱコリント11:2)

当時のユダヤ人の結婚式では、花嫁の友人という人がいました。普通は二人選ばれました。彼らの役割は何かというと、結婚式の日まで、花嫁の純潔を守ることでした。つまり、きれいな体のままで、花嫁を花婿のところに連れて行くことだったのです。パウロはここで、自分はそういう働きを任せられた者であると言っているのです。

キリストの教会、私たちクリスチャンはイエス・キリストの花嫁です。その花嫁に求められていることは、キリストがもう一度、この世界に戻って来られるとき、すなわち、再臨される時に、本当に傷のない、純粋な教会をキリストの花嫁として整えることです。私たちもイエス・キリストの花嫁として、愛する花婿に、自分が持っている最も良いものを捧げたいと思います。

あなたはどうでしょうか。そのために備えておられますか。この喜びの日に、あなたも招かれています。いや、驚くべきことに、この婚宴の席で、花嫁として立つようにと招かれているのです。感謝すべきことに、招待状は、すでにあなたの手に渡されています。ですから、どうか神の招きにふさわしく歩むことが出来ますように。私たちはきっとこれからも、何度も何度も罪を犯すことでしょう。何度も何度も神に背を向けてしまうかもしれません。でも、イエスさまはあなたのために祈っておられます。そのことを忘れないでください。そのことに気づくたびに、花婿なるイエスさまを見つめることが出来ますように。そしてその度に、神の招きに相応しく歩もうと思い直し、悔い改めて、将来招かれる子羊の婚宴を、喜びをもって見つめながら、歩んでいくことが出来ますように。

Ⅱサムエル記14章

 Ⅱサムエル記14章から学びます。

 Ⅰ.ヨアブの計画(1-17)

 1~17節をご覧ください。まず7節までをお読みします。「ツェルヤの子ヨアブは、王の心がアブサロムに向いていることを知った。ヨアブはテコアに人を遣わして、そこから知恵のある女を連れて来て、彼女に言った。「喪に服している者を装い、喪服を着て、身に油も塗らず、死んだ人のために長い間喪に服している女のようになって、王のもとに行き、王にこのように話してください。」ヨアブは彼女の口にことばを与えた。テコアの女は、王に話したとき、地にひれ伏して礼をして言った。「お救いください。王様。」王は彼女に言った。「いったい、どうしたのか。」彼女は答えた。「実はこの私はやもめで、夫は亡くなりました。このはしためには二人の息子がおりましたが、二人が野原でけんかをして、だれも二人を仲裁する者がいなかったので、一人が相手を打ち殺してしまいました。すると、お聞きください、親族全体がこのはしために詰め寄って、『兄弟を打った者を引き渡せ。彼が殺した兄弟のいのちのために、彼を殺し、この家の世継ぎも消し去ろう』と言います。残された私の一つの火種を消して、夫の名だけではなく、残りの者までも、この地に残さないようにするのです。」

「王の心がアブサロムに向いている」とは、前回見たように、アムノンが殺されたことで王がアブサロムに敵意を向けているということです。ヨアブはそのことを知り、テコアに人を遣わします。何のためかというと、ダビデとアブサロムの関係を修復するためです。でも、どうしてヨアブはダビデとアブサロムの関係を修復しようと思ったのでしょうか。実はこの「王の心がアブサロムに向いていることを知った」とは、ただ敵意をいだいていることを知ったということではなく、ダビデがアブサロムとの和解を願いつつも、それができずにジレンマに陥っていることを知って、ということです。新改訳2017や口語訳ではそのように訳しています。ヨアブはそのことを知り、事態を打開する案を考えたのです。それがテコアに人を遣わすことでした。

テコアは、ベツレヘムとヘブロンの間にある町です。そこから知恵のある女を連れて来て、彼女にこう言いました。「喪に服している者を装い、喪服を着て、身に油も塗らず、死んだ人のために長い間喪に服している女のようになって、王のもとに行き、王にこのように話してください。」(2-3)そして、彼女の口にことばを与えました。

当時のイスラエルでは、王が裁判官の役目も果たしていました。地方の裁判官が自分の懇願を聞き入れてくれないとき、王に直訴することができました。彼女の訴えの内容は、次のようなものでした。すなわち、自分は既に夫はなくなっているが、二人の息子が野原でけんかをし、一方が他方を殺してしまった。それで、親族の者が殺害した者を引き渡し、死刑にしなければならないというがいったいどうしたら良いかということです。そんなことをしたら残された自分の息子の火種が消え、家系までも残らなくなってしまいます。そのようなことがないようにしてほしいというのです。

それに対してダビデは何と言いましたか。8節から11節までをご覧ください。「王は女に言った。「家に帰りなさい。あなたのことで命令を出そう。」テコアの女は王に言った。「王様。刑罰は私と私の父の家に下り、王様と王位は罰を免れますように。」王は言った。「あなたに文句を言う者がいるなら、その人を、私のところに連れて来なさい。もう二度とあなたを煩わすことはなくなる。」彼女は言った。「どうか王様。あなたの神、主に心を留め、血の復讐をする者が殺すことを繰り返さず、私の息子を消し去らないようにしてください。」王は言った。「主は生きておられる。あなたの息子の髪の毛一本も決して地に落ちることはない。」」

ダビデは、このことで彼女の息子の髪の毛一本も決して地に落ちることはない、と宣言しました。もしこのことで文句を言う者がいるなら、その人を、自分のところに連れて来るように・・と。

テコアの女は、ダビデの口からこの言葉が出てくるのを待っていました。すなわち、「あなたの息子の髪の毛一本も決して地に落ちることはない」という言葉です。その言葉を元に彼女は、いよいよ本題に入ります。12~17節です。

「女は言った。「このはしために、一言、王様に申し上げさせてください。」王は言った。「言いなさい。」女は言った。「あなた様はどうして、神の民に対してこのようなことを計られたのですか。王様は、先のようなことを語って、ご自分を咎ある者としておられます。王様は追放された者を戻しておられません。私たちは、必ず死ぬ者です。私たちは地面にこぼれて、もう集めることができない水のようなものです。しかし、神はいのちを取り去らず、追放されている者が追放されたままにならないように、ご計画を立ててくださいます。今、私が、このことを王様に話しに参りましたのも、人々が私を脅したからです。このはしためは、こう思いました。『王に申し上げよう。王は、このはしための願いをかなえてくださるかもしれない。王は聞き入れて、私と私の息子を神のゆずりの地から消し去ろうとする者の手から、このはしためをきっと助け出してくださるから。』このはしためは、『王様のことばは私の慰めとなるに違いない』と思いました。王様は、神の使いのように、善と悪を聞き分けられるからです。あなた様の神、主が、あなたとともにおられますように。」」

彼女の訴えは、もし殺人者の息子を赦すというなら、追放されたままになっているアブサロムも赦すべきではないかということでした。というのは、人のいのちは水のようなものだからです。ここに「私たちは地面にこぼれて、もう集めることができない水のようなものです」とは、このことです。人のいのちは、地面にこぼれ落ちたらもう集めることができない水のようにはかないものであるということです。遅らせると手遅れになってしまいます。取り返すことができなくなってしまいます。だから、手遅れになる前にアブサロムを赦すべきです。なぜなら、ダビデもそうでしたが、神はいのちを取り去らず、追放されている者が追放されたままにならないように計画しておられるからです。ダビデ王に神の使いのように、善と悪とを聞き分ける能力が備わっているので、きっとこのことを理解してくださるはずです。事実、ダビデ王は自分のためにあわれみの判断を下されました。自分は王の判断力を信じたので、王から慰めのことばを得るためにこうしてやって来たのですと。すなわち、テコアの女は、そのあわれみの判決を自分自身にも適用するようにと迫ったのです。

このように知っていることと、それを実践することとは、別の問題です。聖書の真理を理解していることと、それを自分の生活に適用することとは、別の問題なのです。神の愛を理解したからといっても、それを自分の生活に適用できるかというとそうではありません。私たちはただ聖書を理解するだけでなく、それを自分の生活に適用しなければならないのです。神の愛と赦しを受け取り、その神の愛に生きなければなりません。神は私たちを愛し、そのすべての罪を赦してくださいました。もう過去の罪に悩む必要はありません。トラウマに捉われなくてもいいのです。私たちに必要なのは、この神の愛と赦しの約束に堅く立つことです。キリストにある新しい人生を歩むことなのです。

 Ⅱ.ダビデの赦し(18-22)

するとダビデは、この女の背後にヨアブの入れ知恵があったことを見抜いて、彼女にこう言いました。18~19節前半をご覧ください。「王は女に答えて言った。「私が尋ねることに、隠さずに答えなさい。」女は言った。「王様、どうぞお尋ねください。」王は言った。「これはすべて、ヨアブの指図によるのであろう。」」

すると女は答えて言いました。19節後半~20節です。「「王様、あなたのたましいは生きておられます。王様が言われることから、だれも右にも左にもそれることはできません。確かに王様の家来ヨアブが私に命じ、あの方がこのはしための口に、これらすべてのことばを授けたのです。王様の家来ヨアブは、事の成り行きを変えるために、このことをしたのです。あなた様には、神の使いの知恵のような知恵があり、地上のすべてのことをご存じですから。」」

 そこでダビデはヨアブを呼び寄せて言いました。そして、彼の言葉を受け入れます。21~22節をご覧ください。「よろしい。その願いを聞き入れた。行って、若者アブサロムを連れ戻しなさい。ヨアブは地にひれ伏して礼をし、王に祝福のことばを述べて言った。「今日、このしもべがご好意を受けていることが分かりました。王様。王が、このしもべの願いを聞き入れてくださったのですから。」」

ヨアブは地にひれ伏し、王に礼をして、祝福のことばを述べました。彼はアブサロムの帰還があたかもダビデにとっての利益ではなく、自分にとっての利益であるかのように喜びました。元々これはダビデの心がアブサロムに向かっているのを見たヨアブが、自分に出来ることとして考えたことでした。そう思いながらもダビデがなかなか実践に移せないでいるのを見て、テコアの女を用いて解決を図ろうとしたのです。それを今、自分のことかのように喜びました。こうしたヨアブの心構えには、家来として大いに学ぶものがあります。

 かくして、アブサロムはエルサレムに戻されることになります。23~24節をご覧ください。「ヨアブはすぐゲシュルに出かけて行き、アブサロムをエルサレムに連れて来た。王は言った。「あれは自分の家に行ってもらおう。私の顔を見ることはならぬ。」アブサロムは自分の家に行き、王の顔を見ることはなかった。」

 ヨアブは王の決定を大いに喜び、直ちにゲシュルに行ってアブサロムをエルサレムに連れて来ました。しかしダビデは、アブサロムにエルサレムへの帰還を許しただけで、自分と面会することまでは許しませんでした。アブサロムは自分の家に引きこもったままで、王の顔を見ることができなかったのです。どうしてでしょうか。

 ダビデは、心の中では彼を赦していなかったからです。いや、赦すべきではないと思っていたのでしょう。そんなに簡単に赦しては王としての面子が立たないと思ったのかもしれません。しかしダビデは自分がバテ・シェバとの姦淫という罪を言い表わしたとき、神がその罪を赦してくださったので、神との交わりを回復することができたはずです。それなのに彼はアブサロムを赦すことができませんでした。もっと厳しくすべきだと考えたのです。こうしたダビデの態度には一貫性がありません。彼は厳しく対処しなければならないときに優柔不断な態度を見せ、赦しの心が必要な時には厳しい態度で接しました。なんともちぐはぐです。それがまた大きな問題を引き起こす火種となります。

 使徒パウロはこう言っています。「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」(エペソ4:31)

私たちは、キリストによって罪を赦された者です。神が罪を知らない方を私たちのために罪とされたのは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。大切なのは、私たちも赦された者、神と和解させられた者であるということを覚えることです。あたかも自分が義であるかのように錯覚し、他の人をさばくことがあるとしたら、それは神のみこころではありません。神が私たちに願っておられることは、私たちが赦されたように、私たちも互いに許し合うことなのです。

Ⅲ.ダビデとアブサロムの和解(25-33)

最後に25~33節をご覧ください。27節までをお読みします。「さて、イスラエルのどこにも、アブサロムほど、その美しさをほめそやされた者はいなかった。足の裏から頭の頂まで、彼には非の打ちどころがなかった。彼は毎年、年の終わりに、頭が重いので髪の毛を刈っていたが、刈るときに髪の毛を量ると、王の秤で二百シェケルもあった。アブサロムに、三人の息子と一人の娘が生まれた。その娘の名はタマルといって美しい女であった。」

アブサロムは、かつてサウルがそうであったように、容姿がすぐれていました。彼は後にダビデから王位を奪おうとしますが、容姿も民の心をつかむのに役立ったことでしょう。髪の毛は200シェケルもありました。これは約2.8キログラムです。彼には3人の息子と一人娘がいました。その娘には「タマル」という名が付けられました。アムノンによって犯された美しい妹と同じ名です。よほど妹のことを愛し、彼女のことが忘れられなかったのでしょう。

ここにはアブサロムの肉体的な美しさが記されてありますが、その信仰や知恵に関する言及は一つもありません。肉体的な美しさもまた神からの賜物ですが、多くの場合、それが高慢となって自分の身に滅びを招くことになります。アブサロムもその長い髪が破滅の一因となりました。この後のところで、彼は逃亡する際に、頭を樫の木に引っ掛け、宙づりになったところを、ヨアブによって殺されたことが記されてあります。(Ⅱサムエル18:9~15)。

Ⅰペテロ3章3~4節に「あなたがたの飾りは、髪を編んだり金の飾りを付けたり、服を着飾ったりする外面的なものであってはいけません。むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人を飾りとしなさい。それこそ、神の御前で価値あるものです。」とありますが、私たちは自分の外見ではなく、心の中の人柄を誇る者でありたいと思います。

最後に、28~33節をご覧ください。「アブサロムは二年間エルサレムに住んでいたが、王の顔を見ることはなかった。アブサロムは、ヨアブを王のところに送ろうとして、ヨアブのもとに人を遣わしたが、彼は来ようとしなかった。アブサロムはもう一度、人を遣わしたが、ヨアブは来ようとしなかった。アブサロムは家来たちに言った。「見よ。ヨアブの畑は私の畑のそばにあり、そこには大麦が植えてある。行って、それに火をつけよ。」アブサロムの家来たちは畑に火をつけた。ヨアブは立ち上がり、アブサロムの家に来て、彼に言った。「なぜ、あなたの家来たちは私の畑に火をつけたのですか。」アブサロムはヨアブに答えた。「ほら、私はあなたのところに人を遣わし、ここに来るように言ったではないか。私はあなたを王のもとに遣わし、『なぜ、私をゲシュルから帰って来させたのですか。あそこにとどまっていたほうが、まだ、ましでした』と言ってもらいたかったのだ。今、私は王の顔を拝したい。もし私に咎があるなら、王に殺されてもかまわない。」ヨアブは王のところに行き、王に告げた。王はアブサロムを呼び寄せた。アブサロムは王のところに来て、王の前で地にひれ伏して礼をした。王はアブサロムに口づけした。」

アブサロムは2年間エルサレムに住んでいましたが、王の顔を見ることはありませんでした。それで彼は王へのとりなしを頼もうとして、ヨアブのところに人を遣わしましたが、ヨアブは来ようとしませんでした。何度遣わしても来ようとしなかったので、業を煮やしたアブサロムは非常手段に訴えました。自分の家来たちに、ヨアブの畑の大麦に火をつけさせたのです。驚いて駆けつけたヨアブが、なぜ自分の畑に火をつけたのかと言うと、アブサロムは言いました。何度もあなたのところに人を遣わして、ここに来るようにと言ったにもかかわらず、来なかったからだと。これでは何のためにゲシュルから戻って来たのかわからない。王の顔を拝したい。もし自分に咎があるなら、王に殺されても構わないと。つまり、はっきりしてほしいということです。ヨアブがこのことをダビデに告げると、ダビデはアブサロムを呼び寄せました。そして、アブサロムがダビデのところに来ると、アブサロムはダビデの前でひれ伏して礼をし、ダビデはアブサロムに口づけしました。つまり、アブサロムを赦し和解したのです。実にあの事件、あの事件とは、アブサロムが兄弟アムノンを殺害してゲシュルの地に逃亡したという出来事ですが、あれから5年後のことです。

しかし、この和解は真実なものではありませんでした。というのは、次の章を見るとわかりますが、アブサロムはダビデから王位を奪おうとする工作を始めるからです。彼はイスラエルの民の心を自分に向けさせようとします。いったいなぜアブサロムは和解できなかったのでしょうか。それは、ダビデがアブサロムを蔑ろにしたからです。彼をゲシュルから連れ戻したのに彼と会おうともしませんでした。そのため彼はいったい何のために戻って来たのかわからなかったし、そのことでヨアブがきちんとした対応を取らなかったので、ヨアブの畑に火をつけたほどです。表面上は和解したかのようでも、実際にはアブサロムの中に苦々しい思いが残っていたのです。

ここから私は、親に対するパウロの勧めを思い出します。エペソ6章4節には、「父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。」とあります。「怒らせない」とは、子どもを自由気ままに育てること、甘やかすこと、子どもに媚びることではありません。「怒らせる」(パロルギゾー)とは、文字通りの意味では、「何かによって怒らせる、挑発する」という意味です。英語訳ではirritateしない(いらいらさせない)となっています。コロサイ3章21節に、同じ命令の理由として、「気落ちさせないためです」と説明しています。つまり、「子どもをおこらせてはいけません」というのは、子どもたちが何らかの理由で「気落ちする」ことが無いように配慮することなのです。ダビデはアブサロムと会おうとしなかったことで彼を怒らせました。また、主の教育と訓戒によって育てることもしませんでした。彼はアブサロムに5年間も自分に会えなくするという、過度の懲らしめを与えてしまったのです。そのことで彼を気落ちさせてしまいました。

私たちはそのようなことがないように気をつけなければなりません。それは親子関係ばかりでなく、夫婦関係やすべての家族関係、また、教会や職場の人たちとの関係、さらには地域社会の人たちとの関係においても言えることです。言っていることとやっていることが違う一貫しない態度や不当な言動は、周りの人々にフラストレーションを与えることになります。子どもたちを怒らせてはなりません。そのためにはまず私たちが神のことばによって整えられ、みことばに従って生きることが求められます。そこに聖霊が働いてくださるからです。神の聖霊によって、私たちが神のしもべとしてふさわしく整えられるように祈りましょう。

雅歌3章1~5節「捜し求める花嫁」

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 きょうは、雅歌3章1節から5節までの箇所から、「捜し求める花嫁」というタイトルでお話したいと思います。ここは先週に続いて婚約時代を思い起こして歌っています。羊飼いである花婿は花嫁の家を訪ね、壁の向こうでじっと立ち、格子越しに窓から中を見ました。そして、「わが愛する者、私の美しいひとよ。さあ立って、出ておいで。」と優しく語りかけましたが、花嫁は出てくることができませんでした。「私の愛する方は私のもの。私はあの方のもの。」と告白しつつも、立って、出て行くことができなかったのです。すると彼女は、花婿が取り去られる夢を見ます。それが今日の箇所です。

Ⅰ.見つからない花婿(1)

1節をご覧ください。「私は夜、床についていても、私のたましいの恋い慕う方を捜していました。私が捜しても、あの方は見つかりませんでした。」

羊飼いである花婿が仕事に出かけると、花嫁は夢を見ました。それは花嫁が花婿を捜す夢です。彼女は夜、とこについても、たましいの恋い慕う方、これは花婿のことですが、彼を探していました。でも、捜しても探しても、花婿を見付けることができませんでした。この「夜」ということばですが、これは複数形になっています。ですから、「夜毎に」とか、「毎晩」ということです。一晩だけのことではありません。夜毎に必死になって花婿を捜しましたが、見つからなかったということです。ここには「捜す」という言葉が繰り返して使われています。2節も含めると、実に4回も使われています。このように繰り返して使われているということは、そのことが強調されているということです。ここに、必死になって捜している花嫁の姿がよく表れているのではないかと思います。それでも見つかりませんでした。なぜでしょうか。

前回のところを思い出してください。花婿は彼女のところにやって来て、「わが愛する者、私の美しいひとよ。さあ立って、出ておいで」(2:10)と呼び掛けました。冬が過ぎ去り、春(夏)がやって来ました。新しい季節がやって来たのですから、さあ立って、出ておいで、と呼び掛けられたのに、出て行くことができませんでした。そのタイミングを逃してしまったのです。それで、花婿を見失ってしまいました。もしその招きに応じていたら、彼女は花婿との親密な交わりを待つことができたのに、そうしなかったのです。2章15節の言葉を借りるなら、狐を捕らえませんでした。「狐」とは、花婿との親密な交わりを妨害するものです。それは何と彼女の内側にありました。彼女は花婿を自分の思いのままに支配しようとしました。そよかぜが吹き始め、影が逃げ去るまでに何とか戻って来てください、すなわち、夕暮れになるまで戻って来てよと、自分の意のままにしたいと思ったのです。花婿にすべてをゆだねることができませんでした。その結果、花婿を見失ってしまったのです。そして今、その花婿がどこにいるのかわからないのです。どこを捜してもいません。

私たちも同様の体験をしたことがあるのではないでしょうか。花婿なる主の招きに応えることができず、主を見失ってしまったということが。どこへ行ってしまったのかわかりません。主の臨在が全く感じられなくなってしまったということがあります。もしかすると、今そういう体験をしている方がおられるかもしれません。それはあなたがこの花嫁と同じように、主の招きに応答しないからです。「また後で」とか、「今度時間がある時に」と言って、その招きを蹴ってしまうのです。そして、再びベッドにゴロンとなるのです。その結果、どこかへ行ってしまったと思い、捜しても、捜しても見つからないのです。

ちなみに、「教会」はギリシャ語で「エクレシア」と言いますが、意味は「召しだされた者たちの群れ」です。主は私たちを召し出してくださいました。そして今も主との会見に召し出しておられます。そういう機会がたくさんあります。こうして毎週日曜日に集まって礼拝をささげる時もそうですし、今週の水曜日には祈祷会もあります。その他、小グループでのバイブルスタディーやC-BTEなど、様々な聖書の学びの機会が提供されています。このような絶好の機会をいとも簡単に逃していることがあります。たとえ教会に来ることができなくても、家で聖書を開き祈ることもできます。

それなのに、この花嫁のように、いろいろな理由をつけてはそれを拒んでしまうのです。今は忙しいからまた後でとか、きょうは疲れているので明日にしてください。今月はいろいろなスケジュールが入っているので無理ですと、ついつい後回しにしては、その機会を逃してしまうのです。その結果、この花嫁のように、主がどこかへ行ってしまったかのような距離感を感じ、その溝をなかなか埋められないでいるのです。あなたはどうでしょうか。そのような機会逃してはいないでしょうか。主と親しい交わりを持つために、いつも主の招きに応答したいものです。

Ⅱ.捜し求める花嫁 (2-3)

次に、2~3節をご覧ください。「「さあ、起きて町を行き巡り、通りや広場で、私のたましいの恋い慕う方を捜して来よう。」私が捜しても、あの方は見つかりませんでした。町を行き巡る夜回りたちが私を見つけました。「私のたましいの恋い慕う方を、お見かけになりませんでしたか。」」

花嫁は目を覚まし花婿を捜しに出かけます。私たちの主は、時にご自身を隠されるようなことをなさいます。あえてかくれんぼをするようなことをされるのです。それは主が意地悪だからではありません。あなたにご自身を現わしたくないからでもないのです。それは、私たちを子として扱っておられるからです。

「かわいい子には旅をさせよ」ということわざがありますが、神様は子供が成長するために、あえて訓練されることがあります。へブル12章5~6節にはこうあります。「わが子よ、主の訓練を軽んじてはならない。主に叱られて気落ちしてはならない。主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから。」

父親が訓練しない子はいません。もしそのような子がいるとしたら、それは私生児であって、本当の子ではないのです。だから、訓練と思って耐え忍ぶように。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。

私たちは主との関係を当たり前のものだと思い、もはやそれを有難いこととして、あるいは感謝なことであると受け止めることができなくなっています。それで、ついついあぐらをかいてしまうことがあるのです。別に主を求めなくてもどうせ主はそばにいてくれるから大丈夫だと、求めることをしないのです。イエス様を信じて天国に行けるようになったんだから、あとは別にどうでもいいと思っているのです。それで主は、そういう人からご自身を隠されることがあるのです。主との関係がどれほど大切なものであり、どれほど恵み深いものであるのかを教えるために、あえてご自身を隠されることがあるのです。決して私たちを困惑させたり、失望させるためではありません。

確かに私たちはイエス様を信じて救われました。死んだら天国に行くことができます。いや、今この世にありながら、さながら天国を味わうことができます。私の罪のすべてが赦されて、神が共にいてくださると約束してくださいました。それが天国です。天国とは、神がともにおられるところです。それは最高の祝福です。しかし、そのように救いに導いてくださった主を求め、主との交わりを持たなかったら、私たちの信仰はどんどん弱くなってしまいます。肉体の筋肉も使わないでいるとだんだん弱くなっていくように、霊の筋肉も使わないとだんだん弱くなっていくのです。主はそのことを知っておられるので、私たちを強くするためにあえてこのようなことをなさるのです。

詩篇13篇1~2節をお開きください。これはダビデの賛美ですが、この歌の中でダビデはこのように歌っています。「主よ、いつまでですか。あなたは私を永久にお忘れになるのですか。いつまで御顔を私からお隠しになるのですか。いつまで私は自分のたましいのうちで思い悩まなければならないのでしょう。私の心には一日中悲しみがあります。いつまで敵が私の上におごり高ぶるのですか。」

ダビデは絶望的な心と苦しみの中で、いつまで神様は自分から御顔を隠されるのですかと言っています。それは苦しいことです。彼は自分のたましいのうちで思い悩み、心には、一日中悲しみがあると言っています。しかし、そのような苦しみの中で彼は、「主よ」と呼び求めるのです。

すべてのクリスチャンは主と関係を持っています。しかし、すべてのクリスチャンが主と交わりをもっているかというと、そうではありません。イエス様を信じて主との関係を持っていても、主と交わりをもっているわけではないのです。主と関係を持つということと、主と交わりを持つということは別のことです。ここで主が私たちに求めておられることは、イエス様を信じて救われた私たちがイエス様との関係においてただそれにあぐらをかいているのではなく、神様との関係を与えてくださった主に感謝し、主との交わりを切に追い求めることです。

たとえば、結婚している男女は夫婦の関係を持っていますが、それは必ずしも夫婦としての交わりをもっているということではありません。夫婦の関係であっても全く会話がないとか、コミュニケーションがないということもあります。確かに戸籍上は夫婦かもしれませんが、そこに夫婦としての関係というか実態がなければ、それは夫婦とは言えないのです。。それは仮面をかぶった夫婦、仮面夫婦です。

神様との関係も同じです。神様を信じたことで神様と関係を持つことができました。聖書ではそれを永遠のいのちと言っています。イエス・キリストにある永遠のいのちです。それは消えて無くなるものではありません。救いが失われることは決してありません。しかし、神様と関係を持っていても、神様と親しい交わりをもっているかというとそうでもありません。折角イエス様を信じて、神様との平和を持つことができたのに、その神様と交わりをもっていないことがあるのです。主との交わりを疎かにしないでほしいと思います。そして、私たちが主を求め主と深い交わりを持つために、主はあえてご自身を隠されることがあることを覚えてほしいと思います。

花嫁は2節で、「私のたましいの恋い慕う方を捜して来よう。」と言っています。この「私のたましいの恋い慕う方」という表現が、ここに何回も繰り返して出てきます。4節までに、実に4回も使われています。これは1章7節に出てきた時に説明しましたが、たましいから恋い慕う方という意味です。たましいとは、私たちの一番深いところにあるものです。そ単に心から愛するというのではなく、たましいの極みから愛するということです。最高の愛の表現です。皆さんもどなたかにご自分の愛を表現をなさる時にいうといいですよ。「私のたましいの恋慕う方よ」と。相手はびっくりして逃げていくかもしれませんが。

彼女は今わかったのです。花婿がどんなに麗しい方であるのかを。それは、彼女のたましいの恋い慕う方であるということです。花嫁は、羊飼いなる花婿がそのような存在なのだということに気付いたのです。失って初めて気づく世界があります。今までは何とも思わなかったのに、失ってみてそれがどんなに有難いものだったのか、どんなに感謝なことだったのかがわかることがあるのです。彼女は花婿から離れてみてはじめて、そのすばらしさ、麗しさに気付かされたのです。

3節をご覧ください。ここには、「町を行き巡る夜回りたちが私を見つけました。」とあります。「夜回り」とは「町の見張り人」のこと、「警護する人」のことです。花嫁はこの夜回りを見つけたとき、「私のたましいの恋い慕う方を、お見掛けになりませんでしたか。」と尋ねています。しかし、夜回りも花婿を見つけることができませんでした。時に私たちは主を見失うと、教会の牧師やリーダーたちに相談すれば見つけることができるのではないかと思いますが、そうではありません。夜回りも彼女のために花婿を見つけることはできませんでした。ではどうすればいいのでしょうか。自分自身で見つけるしかないのです。だれかに見つけてもらうのではなく、自分自身で見つけなければなりません。あなた自身が見つけなければならないということです。

エレミヤ書29章13節を開いてください。ここには「あなたがたがわたしを捜し求めるとき、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしを見つける。」とあります。

もしあなたが心を尽くして主を捜し求めるなら、見つけることができます。ここには「心を尽くしてわたしを求めるなら」とあります。英語では「with all your heart」となっています。「あなたのすべての心で」という意味です。半分の心ではありません。すべての心です。すべての心で主を求めるなら、あなたは主を見つけるのです。

ヨハネの福音書20章には、復活の朝、主のお身体に香油を塗ろうと墓に出かけて行ったマグダラのマリアのことが書かれています。彼女は墓に着いてみると、そこに置かれてあった大きな石が取り除かれているのを見て、困惑します。だれかが墓から主を取って行ったと思った彼女は、そのことを弟子のペテロとはヨハネに告げました。そして彼女は墓の外でたたずんで泣いていたのです。すると「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか」という声がしました。彼女はそれが園の管理人だと思って、「もしあなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。私が引き取ります。」と言いました。すごいですね。「私が引き取ります」というのですから。この時彼女はもう50~60歳くらいになっていたかと思いますが、その彼女が50~60キロはあったでしょうイエス様のお身体を引き取るというのです。彼女はそれほど主を求めていました。心を尽くして主を求めていたのです。

すると、イエスは彼女に言われました。「マリア」。彼女はすぐにそれがイエスだとわかり、振り向いて、「ラボニ」、すなわち「先生」と言いました。するとイエスは彼女に言われました。「わたしにすがりついてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないのです。わたしの兄弟たちのところに行って、「わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたの神である方のもとに上る」と伝えなさい。」(ヨハネ20:17)

ここから彼女がイエス様にすがりつこうとしていたことがわかります。それほど主を愛していました。それほど主を求めていたのです。彼女は心を尽くして主を求めました。だから、主を見つけることができたのです。

あなたはどうでしょうか。マグダラのマリアのように主を愛していますか。心を尽くして主を求めているでしょうか。「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。」(マタイ7:7-8)

なたがたが主を求めるなら、与えられます。捜すなら、見出します。たたくなら、開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見出し、たたく者は開かれます。心を尽くして主を求めましょう。そうすれば、あなたも主を見つけることができるのです。

Ⅲ.しっかり捕まえて放さず(4-5)

その結果、どうなったでしょうか。最後に4~5節を見たいと思います。4節には「私は彼らのところを通り過ぎると間もなく、私のたましいの恋い慕う方を見つけました。私はこの方をしっかり捕まえて放さず、ついには私の母の家に、私を身ごもった人の奥の間に、お連れしました。」とあります。

花嫁は、ついに花婿を見つけました。すると彼女はどうしたでしょうか。彼女はこの方をしっかり捕まえて放さず、とあります。捕まえて放しませんでした。これまではどうでもいいと思っていたのに、失ってみてはじめてそのすばらしさ、有難さに気付いた彼女は、この方をしっかりと捕まえて放しませんでした。今まで失われていた主との関係を取り戻していくかのようです。

そればかりではありません。ここには「ついには私の母の家に、私を身ごもった人の奥の間に、お連れしました。」とあります。母の家とは彼女の実家のことです。そこにお連れしたのです。何のためでしょうか。ここに「私を身ごもった人の奥の間に」とありますが、これは親しい交わりを持つことを意味しています。これまではそんなに意識していませんでした。この方との交わりがそんなにすばらしいものであるのかということを。しかし、花婿がいなくなってみて、その存在の大きさに気付かされ、彼女が安心できる実家の奥の間にお連れし、そこで二人きりの親しい交わり、深い交わりの時を持ったのです。

神様を求めるのに特別な場所はいりません。そのためにわざわざ時間をかける必要もないのです。主を見つけたらしっかりと捕まえて、放さないようにしなければなりません。そして、だれにも邪魔されないように二人きりの場所で、二人きりの時間を持つことが大切です。

この「母の家」の「母」ということばは、へブル語で「エーム」と言いますが、これは「分岐点」「出発点」をも意味する言葉です。つまり、「母」は花婿と花嫁が出会った出発点、「初めの愛」を意味しています。初めの愛に立ち返らなければなりません。

黙示録2章には、主が書き送ったアジアにある七つの教会のうち、エペソの教会にこのように言われました。「あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れ果てなかった。けれども、あなたには責めるべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたのか思い起こし、悔い改めて初めの行いをしなさい。」(黙示録2:3-5)

あなたが初めの愛に立ち返り、その愛にとどまるなら、あなたは主のすばらしさを見出し、主との関係がさらなる次元に引き上げられていくことになるでしょう。

あなたはどうでしょうか。あなたは主を見つけましたか。もし主を見つけたのなら放さないでください。しっかりと捕まえてください。そして、二人だけの場所で、二人だけの時間を過ごしていただきたいと思います。

最後に5節をご覧ください。「エルサレムの娘たち。私は、かもしかや野の雌鹿にかけてお願いします。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛がそうしたいと思うときまでは。」

同じフレーズが2章7節にもありましたね、そこでは愛を擬人化して、「揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛がそうしたいと思うときまでは。」とありました。ここまでが恋愛の時代の思い出です。次の節から新しい場面に入ります。その区切りのフレーズがこれです。「揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛がそうしたいと思うときまでは。」愛は外側からの刺激によってではなく、内側から自然に目覚めるものだからです。

ここでも同じです。神との関係は、外側からの働きかけによって改善できるものではありません。その人の内側から、そうしたいと思う気持ちが起こらない限り無理なのです。すなわち、愛がそうしたいと思うときまで待たなければなりません。それまでは揺り動かしたり、かき立てたりしてはならないのです。主から離れている人を見ると、確かに心が痛みます。残念だなぁ、悲しいなぁ、同じ主にある兄弟姉妹なのにどうして離れて行ってしまったんだろう。そしてその人のために祈り、自分に出来ることがあれば少しでも役に立ちたいと思います。必要であればその人の悩みを聞いてあげたり、励ましたりすることも大切です。しかし、そこから踏み込む必要はありません。そっとしてあげればいいのです。愛がそうしたいと思う時までは。なぜ離れてしまったんですか、なぜ主の招きに応答しないんですかと、かき立てる必要はないのです。愛がそうしたいと思う時まで待たなければなりません。そして、このことについては祈り、すべてを主にゆだねなければならないのです。それは主がなさることだからです。私たちがすることではありません。私たちがあれこれと思い煩い、分析し、解決できることではないのです。主はご自身のタイミングで、ご自身のやり方で解決してくださいます。まさに「神がなさることは、すべて時にかなって美しい。」(伝道者3:11)です。あなたはそのことで騒ぎ立てたり、揺り起こしたりしなくてもいいのです。

これは主から離れて行った人たちのことだけでなく、私たちの生活に起こるすべてにおいて言えることではないでしょうか。私たちは日々いろいろなことで思い悩みますが、そのことで心を騒がせたり、思い煩ったりする必要はないのです。それをすべて主にゆだねなければなりません。「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(Ⅰペテロ5:7)

神にゆだねましょう。神があなたがたのことを心配してくださいます。愛がそうしたいと思うときまでは待たなければなりません。神がその人の心に働いてくださり、その人を動かしてくださいますから。私たちは揺り起こしたり、かき立てたりしないで、主がなさる最善を祈りながら、待ち望みたいと思います。