雅歌8章5~7節「愛は死のように強く」

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 いよいよ雅歌からのメッセージも、今回を含めてあと2回となりました。きょうのところからまた場面が変わります。最後の場面です。きょうは、「愛は死のように強く」というタイトルでお話します。

 Ⅰ.そこは産みの苦しみをした所(5)

まず、5節の前半の部分をご覧ください。「自分の愛する方に寄りかかって、荒野から上って来る女の人はだれでしょう。」

これは、エルサレムの娘たちのことばです。3章6節にも「煙の柱のように荒野から上って来るのは何だろう」とありましたが、それは花嫁ことを指していました。花嫁は荒野から上って来る者です。それはキリストの花嫁であるクリスチャンのことを指しています。クリスチャンは罪の荒野から上って来た者なのです。キリストが私たちを罪の荒野から救い出してくださいました。その特徴は何かというと、「自分の愛する方に寄りかかって」いることです。キリストの花嫁であるクリスチャンは、愛する主に寄りかかって荒野から上って来るのです。感謝ですね。

そして、5節の後半をご覧ください。ここには「私はりんごの木の下であなたの目を覚まさせた。そこは、あなたの母があなたのために産みの苦しみをした所。そこは、あなたを産んだ人が産みの苦しみをした所。」とあります。これは花婿のことばです。花婿が花嫁に、私はりんごの木の下であなたの目を覚まさせた、と言っているのです。どういうことでしょうか。

このりんごの木の下とは、花婿と花嫁が出会った場所です。そのりんごの木の下で花婿は彼女の目を覚まさせました。そこはどういう所ですか。「そこは、あなたの母があなたのために、産みの苦しみをした所。そこは、あなたを産んだ人が産みの苦しみをした所。」です。つまり、そこは彼女が生まれた所です。それは、クリスチャンにとっては十字架のことであると言えます。私たちはそこで新しく生まれ、目を覚まさせていただきました。それまでは、自分は何一つ悪いことなどしたことがないまともな人間だと思っていたのに、十字架の下でキリストに出会ったとき、「ああ、私は本当に罪深い人間だ。そのためにイエスが身代わりとなって死んでくださったんだ」ということがわかったのです。それまではわかりませんでした。自分ほど良い人間はいないと思っていたのです。私たちはみなイエス様に出会うまではそのように思っています。しかしイエス様に出会い、イエス様が産みの苦しみをしてくださった所で、私たちの目が覚ましていただき、はっきりわかるようになりました。そして私たちは、新しく生まれ変わることができたのです。そこがあなたの生まれた所。そこがあなたの信仰の原点なのです。

私たちはイエス様と出会った木の下で自分の罪に向き合うとき、そして私たちを産んでくださった十字架の下に近づくとき、そこで信仰の原点を見出すことができるのです。もうこの方から離れません。本当の意味での花婿イエス様との人生のスタートを切ることができるのです。あなたはどうでしょうか。

Ⅱ.愛は死のように強く(6)

次に、6節をご覧ください。「封印のように、私をあなたの胸に、封印のように、あなたの腕に押印してください。愛は死のように強く、ねたみはよみのように激しいからです。その炎は火の炎、すさまじい炎です。」

これは花嫁のことばです。花嫁はここで、「封印のように、私をあなたの胸に、封印のように、あなたの腕に押印してください。」と言っています。「封印」とは、手紙などの封じ目に印を押すことです。実際には、封じ目に「(しめ)」とか「(ふう)」、「(かん)」などと書いたり印を押したりしますが、あれです。その封印には二つの意味がありました。

一つは決して解かれることがないということです。ですからここで花嫁が「封印のように、私をあなたの胸に、封印のように、あなたの腕に押印してください」と言っているのは、互いの愛が決して解かれることがないようにしてくださいということです。私はあなたのものです。そしてあなたは私のものです。私たちは互いのものなのです。それはもう解かれることはありません。たとえ死んでも、です。花嫁はここで「愛は死のように強く」と言っているのはそのことです。彼女の愛は死んでも解かれることがありません。それほど強いのです。すごいですね、夫婦は生きている間だけでもフーフーしているのに、死んでも解かれたくないと強く願うほどの愛を持っているのですから。決して離れることがないように、決して解かれることがないように、あなたの胸にしっかり刻み付けてください。あなたの腕にしっかり押印してくださいと切望しているのです。

「封印」のもう一つの意味は、契約の確かな保証です。封印とは「証印」と訳すこともできます。はんこですね。それは、契約の確かな保証を表しています。私たちも何らかの契約をするとき互いに押印しますが、それはその契約の確かさを保証しているわけです。ですから「封印のように、私をあなたの胸に、封印のように、あなたの腕に押印してください」とは、自分をはんこのように花婿の胸に、花婿の腕に押してくださいということです。どんなことがあっても決して離れることがないと保証してくださいと願っているのです。

私たちにもそのようなはんこが押されているのを知っていますか。エペソ1章13~14節にこうあります。「このキリストにあって、あなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞いてそれを信じたことにより、約束の聖霊によって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。このことは、私たちが贖われて神のものとされ、神の栄光がほめたたえられるためです。」

ここには、「約束の聖霊によって証印が押されました」とあります。私たちは真理のことば、救いの福音のことばを聞いて信じたとき、約束の聖霊が与えられました。その聖霊によって証印を押されたのです。それは、私たちがどんなことがあっても天の御国を受け継ぐことができるという保証です。人間の約束ならば、状況が変われば契約も破棄されるということもあるかもしれませんが、神であられる聖霊様が保証しておられるのであれば、どんなことがあっても大丈夫です。救いを失うことは絶対にありません。イエス様を信じる者はだれでも救われ、天国に行くことができるのです。聖霊によってその証印が押されています。私たちはいい加減なもので、イエス様を信じてからも罪を犯すような弱い者ですが、それでも救いを失うということは決してありません。罪を悔い改めて神に立ち返るなら、神はどんな罪でも赦してくださるのです。

アメリカ人女性が作った詩で「あしあと」という詩があります。

「ある夜、私は夢を見た。私は、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでの私の人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上に二人のあしあとが残されていた。
一つは私のあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
私は砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
私の人生でいちばんつらく、悲しいときだった。
このことがいつも私の心を乱していたので、私はその悩みについて主にお尋ね
した。「主よ。私があなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道にお
いて私とともに歩み、私と語り合ってくださると約束されました。
それなのに、私の人生の一番辛いとき、一人のあしあとしかなかったのです。
一番あなたを必要としたときに、
あなたがなぜ私を捨てられたのか、私にはわかりません」
主はささやかれた。
「私の大切な子よ。私はあなたを愛している。
あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みのときに。
あしあとが一つだったとき、私はあなたを背負って歩いていた。」

(「あしあと」マーガレット・F・パワーズ)

何度か紹介したことがある詩です。何度読んでも励まされます。なぜなら、ここには変わらない神の真実が描かれているからです。私たちは感情的なもので、状況によって主が共にいてくださると喜んでみたり、どこかへ行ってしまったと悲しんだりすることがありますが、主は決して約束を反故にすることはされません。すべての道においてともに歩まれると約束された方は、どんなことがあっても離れることはないのです。なぜなら、聖霊によって証印を押してくださったからです。聖霊による愛の関係は、決して絶えることがないのです。愛は死のように強いからです。

ところで、ここには「ねたみはよみのように激しいからです」ともあります。愛は死のように強いというのはわかりますが、ねたみはよみのように激しいとはどういうことでしょうか。愛とねたみは相いれないものように感じます。それは愛の裏側には常にねたみがあるということです。愛とねたみは表裏一体なのです。愛が強ければ強いほど、ねたみも激しくなります。神は愛ですが、同時にねたむ方でもあります。出エジプト記20章5節には、「あなたの神、主であるわたしは、ねたみの神。」とあります。ここで主ははっきりと「主であるわたしはねたむ神」と言っています。また、出エジプト記34章14節でも、「あなたは、ほかの神を拝んではならない。主は、その名がねたみであり、ねたみの神であるから。」とあります。神はねたみの神なのです。

しかしそれは私たちが抱くようなねたみとは違います。一般に「ねたむ」とは、他人が自分よりも優れた状態である時、それを羨ましく思ったり、憎らしく思うことで、罪の中の一つに数えられているものです。事実、愛の賛歌として有名なⅠコリント13章4節には、「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。」とあります。愛はねたまないのです。それなのにここには、ねたみはよみのように激しいとあります。それは神のねたみは私たち人間が抱くねたみと違って、ご自分にのみ帰せられる愛とか栄光を、だれかほかのものに与えられる時に抱く思いのことです。ですから新共同訳ではここを「熱情は陰府のように酷い。」と訳しているのです。

私の二番目の娘が3歳の頃、屋内プールに連れて行ったことがありました。私は紺の水泳パンツと黒いキャップ、それに黒いゴーグルを着けていました。しかし、ちょっと疲れたのでプールサイドに腰かけて休憩していたら、何を血迷ったのか、娘が急に「お父さん!」と叫んでプールに向かって走り出し、そのまま勢いよくジャンプしたのです。もちろん、そのまま沈んでいきました。遠くから見ていた私は「なんだ!」と思いながら娘を救出しようと近寄ると、そこに私と全く同じ格好をしていた男性がいたのです。娘はそれを私と勘違いして思いっきり飛び込んだのです。焦ったのはその男性の方でした。いったい何が起こったのかを理解できず、しかしこのままでは小さな女の子が溺れるのではないかと思って、必死で救出してくれました。

「すいません。なんだか私と間違えたみたいです」と言ってその場を後にしましたが、私の中には少し複雑な気持ちがありました。「おいおい、お父さんはボクだよ。知らない人に行っちゃだめだよ!」と。

そのときですが、神様の気持ちをちょっと理解できたような気がしました。私たちは神によって造られた者です。それなのに、神ではない他の神々に走っていくことがあるとしたら、神はねたまれるのではないかと。そうなんです、愛とねたみは表裏一体であって、本当の愛にはねたみが伴うのです。

そのねたみはよみのように激しいのです。「よみ」とはヘブル語で「シェオル」と言います。死んだ人が行くところです。ですから、これも死のように激しいと同じことなのです。愛は死のように強く、ねたみはよみのように激しいからです。それほど花嫁の花婿に対する愛が燃えているということです。その炎は火の炎、すさまじい炎です。それはひとえに花婿の愛がそれほどまでに強く、激しいからです。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)これが愛です。神は、それほどに、あなたを愛されたのです。

それは私たちに対する神の熱情の表れです。その炎は火の炎であり、すさまじい炎です。あなたはそれほどまでに愛されているのです。神はあなたのことを片時も忘れたことはありません。私たちは平気で神様を裏切り、神様そっちのけで自分のことばかり気になって、とにかく我力で、自分勝手に生きているような者ですが、神は違います。神の愛は死のように強く、よみのように激しいのです。私たちは、そんな愛で愛されているのです。ですから私たちは、この花嫁のように、たとえ死んでも解かれることのないような強い愛であなたの胸に刻んでくださいと応答したいです。封印のように、あなたの腕に押印してください、と強く願う者でありたいと思うのです。

Ⅲ.大水もその愛を消すことができません(7)

最後に、7節をご覧ください。「大水もその愛を消すことができません。奔流もそれを押し流すことができません。もし、人が愛を得ようとして自分の財産をことごとく与えたなら、その人はただの蔑みを受けるだけです。」

その愛は炎のように燃える、すさまじい愛でした。そのような愛は大水でも消すことができません。この「大水」という言葉は、創世記6章17節では「大洪水」と訳されています。それはノアの箱舟の大洪水のことです。地球がすべて覆われるような大水でも消すことはできないということです。あの東日本大震災では、測り知れないほどのパワーがある津波が東北の太平洋沿岸部を襲いました。それは町々村々をまるごと吞み込むほどのパワーでした。しかしそれほどの大水をもってしても、神の愛を消すことはできないのです。

「奔流もそれを押し流すことはできません。」「奔流」とは、第三版では「洪水」と訳していますが、これは支流に対する奔流のことです。ちょろちょろと流れるような川ではありません。ゴーゴーと音を立てて勢いよく流れる川、それが奔流です。その奔流さえも押し流すことができません。つまり神の愛は最強であるということです。

Ⅰコリント13章13節には、「こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。」とあります。

いつまでも残るものは、信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。愛はいつまでも残ります。何があっても愛だけは残るのです。私たちはこのことを覚えておきましょう。愛は何をもってしても押し流すことはできません。すべてを失ったとしても残るのです。愛する家族を失い、自分の家を失い、仕事を失い、何もかも失ったとしても、神の愛を失うことは決してありません。いつまでも残るのは信仰と希望と愛です。その中で最もすぐれているのは愛なのです。

あなたが人生に行き詰ったとき、どうしたらいいかわからなくなったとき、この聖書の箇所を読んでください。この箇所を読むだけで神から愛の力が与えられ、すべての迷いが吹っ飛んでいきますから。それはローマ8章28~39節のみことばです。

「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。神は、あらかじめ定めた人たちをさらに召し、召した人たちをさらに義と認め、義と認めた人たちにはさらに栄光をお与えになりました。では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。こう書かれています。「あなたのために、私たちは休みなく殺され、屠られる羊と見なされています。」しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」

神が私たちの味方であるなら、だれも私たちに敵対することはできません。私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。大水もその愛を消すことはできません。奔流もそれを押し流すことはできないのです。神の愛はそれほどパワフルなものです。あなたはこの愛を受けているのです。

ただ一つだけ注意が必要です。それはこの愛をどのようにして得るのかということです。7節の後半をご覧ください。ここには、「もし、人が愛を得ようとして自分の財産をことごとく与えたなら、その人はただの蔑みを受けるだけです。」とあります。どういうことでしょうか。

神の愛はお金で買えるようなものではないということです。また、私たちの行いによって得られるものでもありません。私はこれだけ献金したのだから神は愛してくれるに違いないと思ったら大間違いです。私はこれだけ奉仕したんだから愛されて当然だと思っているとしたら蔑みを受けることになります。もし人が愛を得ようとして自分の財産をことごとく与えるなら、その人はただの蔑みを受けるだけです。必ず期待はずれに終わってしまいます。

では、どうしたらいいのでしょうか。神の一方的な恵み受け入れるということです。私たちが何かをしたからではありません。何もしなくても、神はあなたを愛しておられます。その愛をただ感謝して受け取るだけでいいのです。そうすれば、神の愛があなたを覆ってくださいます。

じゃ、何もしなくてもいいんですか。聖書を読まなくても、祈らなくても、教会に行かなくても、献金しなくても・・。いいのです。あなたが神の愛を受けるのは、神の一方的な恵みによるのですから、あなたが何をしたかなんて関係ないのです。ただ誤解しないでいただきたいのは、本当の意味であなたが神の愛を受けたのであれば、当然、教会に行くたくなりますし、神からのラブレターである聖書を読んだり、祈ったりしたくなるはずです。喜んで神様のために自分をささげたいと思うはずなのです。もしそうでないとしたら、本当にあなたが神の愛を受けているのかどうかを点検しなければなりません。私たちが良い行いをするのは神の愛を受けるためではなく、神に愛されたから、神の愛を受けたからであるということを覚えておかなければならないのです。

但し、あなたがもっと積極的に神の愛を受けたいと思うなら、どうぞ御言葉を読んでみてください。祈ってみてください。礼拝や祈祷会に足しげく通ってみてください。礼拝を絶やさないでください。そうすれば、神の愛はもっとあなたに迫ってくるでしょう。神の愛がどのようなものであるかがわかるようになります。花婿イエスは、あなたのためにすべてを投げ捨ててあなたを獲得してくださったのですから。

大水もその愛を消すことができません。奔流も押し流すことができません。その愛を与えてくださった主に感謝しましょう。そして、いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことについて感謝しましょう。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに臨んでおられることです。

最後に、エペソ3章16~19節のみことばを読んで祈りたいと思います。「どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。アーメン。」

あなたがその愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つことができるようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができるお祈りします。

Ⅱサムエル記20章

 

 きょうは、Ⅱサムエル記20章から学びます。

 Ⅰ.よこしまな者シェバ(1-2)

 まず、1~2節をご覧ください。「1 たまたまそこに、よこしまな者で、名をシェバという者がいた。彼はベニヤミン人ビクリの息子であった。彼は角笛を吹き鳴らして言った。「ダビデのうちには、われわれのための割り当て地はない。エッサイの子のうちには、われわれのためのゆずりの地はない。イスラエルよ、それぞれ自分の天幕に帰れ。」2 すべてのイスラエルの人々は、ダビデから離れ、ビクリの子シェバに従って行った。しかし、ユダの人々はヨルダン川からエルサレムまで、自分たちの王につき従って行った。」

そこに、よこしまな者で、シェバという者がいました。そこにとは、ダビデをエルサレムに連れて行くのに、ユダの人々とイスラエルの人々が争っていたときです。そのとき、ベニヤミン人のシェバが人々を自分の方に引き寄せようとして角笛を吹き鳴らしたのです。イスラエルの最初の王サウルの出身がベニヤミン人でした。同じ民族のサウル王の死後、ユダ部族のダビデが王となったことにシェバは不満をもっていたのかもしれません。彼はユダとイスラエルの分裂を利用して、すべてのイスラエルの人々に、自主独立を呼び掛けたのです。

この出来事が、やがてはイスラエルを北と南に分断するきっかけになります。
イスラエルの分裂が決定的になる時に、このシェバと同じ言葉が叫ばれています(Ⅰ列王記12:16)19章では必死にダビデを自分たちの王として迎えようとしていたイスラエルの人々も、ここではシェバの呼びかけにあっさりとダビデから離れてシェバについていきました。
  結局、ヨルダン川からエルサレムまでダビデ王に従ったのは、ユダの人々だけでした。まさに人の称賛は陽が上ると消え去る朝露のようなものです。新約聖書にも「ホサナ、ダビデの子に。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。ホサナ、いと高き方に。」(マタイ21:9)とイエスを歓迎した群衆が、次の瞬間にはイエスを十字架につけよと叫びました(マタイ27:22-23)。人の評価の上に自分の人生を立てるのは愚かなことです。神を恐れ、神とともに歩む人こそ真の勝利者です。

 Ⅱ.アマサの死(3-13)

次に、3~13節までをご覧ください。「3ダビデはエルサレムの自分の王宮に入った。王は、王宮の留守番に残しておいた十人の側女をとり、監視つきの家を与えて養ったが、彼女たちのところには通わなかった。彼女たちは、一生、やもめとなって、死ぬ日まで閉じ込められていた。4 王はアマサに言った。「私のために、ユダの人々を三日のうちに召集し、あなたも、ここに帰って来なさい。」5 アマサは、ユダの人々を召集するために出て行ったが、指定された期限に間に合わなかった。6 ダビデはアビシャイに言った。「今や、ビクリの子シェバは、アブサロムよりも、もっとひどいわざわいを、われわれに仕掛けるに違いない。あなたは、主君の家来を引き連れて彼を追いなさい。さもないと、彼は城壁のある町に入って、逃れてしまうだろう。」7 ヨアブの部下、クレタ人、ペレテ人、そしてすべての勇士たちは、アビシャイの後に続いて出て行った。彼らはエルサレムを出て、ビクリの子シェバの後を追った。8 彼らがギブオンにある大きな石のそばに来たとき、アマサが彼らの前にやって来た。ヨアブは自分のよろいを身に着け、さやに収めた剣を腰の上に帯で結び付けていた。彼が進み出ると、剣が落ちた。9 ヨアブはアマサに「兄弟、おまえは無事か」と言って、アマサに口づけしようとして、右手でアマサのひげをつかんだ。10 アマサはヨアブの手にある剣に気をつけていなかった。ヨアブは彼の下腹を突いた。それで、はらわたが地面に流れ出た。この一突きでアマサは死んだ。ヨアブとその兄弟アビシャイは、ビクリの子シェバの後を追った。11 ヨアブに仕える若者の一人がアマサのそばに立って言った。「ヨアブにつく者、ダビデに味方する者は、ヨアブに従え。」12 アマサは大路の真ん中で、血まみれになって転がっていた。この若者は、兵がみな立ち止まるのを見て、アマサを大路から野原に運んだ。そして、その傍らを通る者がみな立ち止まるのを見ると、彼の上に衣を掛けた。13 アマサが大路から移されると、みなヨアブの後について進み、ビクリの子シェバを追った。」

アブサロムが謀反を起こしダビデがエルサレムを追われた時、ダビデは王宮に10人のそばめを残していきました(15:16)が、アブサロムはアヒトフェルの進言に従いこのそばめたちのところに入りました(16:21)。ダビデがエルサレムに戻って来た時に最初にしたことは、そのそばめたちの回復でした。しかしダビデは、アブサロムと寝た彼女たちを受け入れることができませんでした。それで彼は、彼女たちに監視付きの家を与えて養いましたが、彼女たちのところに通おうとはしませんでした。それで彼女たちはやもめとしてその余生を送らなければならなかったのです。ある意味では彼女らはダビデ家の被害者でもありました。しかし元はといえばすべてダビデの罪のゆえです。彼女たちはダビデの罪による犠牲者だったのです(Ⅱサムエル12:11)。罪を犯すと、必ずこのような結果が伴います。

4節と5節をご覧ください。ダビデ王はヨアブに代わり新しく指揮官にしたアマサに対して、シェバの反逆を鎮圧すべくユダの人々を三日のうちに召集するように命じました。しかし、彼は指定された期限に間に合いませんでした。それまでアブサロムの将軍として仕えていた人物でしたから、ユダの人々の信頼を勝ち取れなかったのでしょう。ダビデ王からは信頼されていましたが、民衆から信頼されていなかったため、結局のところ、肝心なときに協力を得ることができなかったのです。そこでダビデはアビシャイを一時的に指揮官にし、反逆者シェバの討伐に取りかかるように命じました。アビシャイとは、それまでユダの軍団長であったヨアブの弟です。ダビデはこの時もヨアブを指揮官には選ばず、彼の兄弟アビシャイを選びました。それは彼が自分の命令に背きアブサロムを殺してしまったことや、その後もダビデに対して横柄な態度を取り続けていたからです。

彼らがシェバを追ってギブオンにある大きな石のそばに来たとき、アマサが彼らの前にやって来ました。合流するためです。すると軍団長を降ろされ、アブサロムに加担していたアマサが自分の代わりに起用されたことを快く思っていなかったヨアブは、アマサにあいさつすると見せかけて、剣でアマサの下腹部を突き刺して殺してしまいました。すると、ヨアブに仕える若者の一人が「ヨアブにつく者、ダビデに味方する者は、ヨアブに従え。」と言いました。これは、自分たちの軍団長はやっぱりヨアブだ、ヨアブにつけ、ということです。そしてみなヨアブの後について進み、シェバを追いました。

このようにしてヨアブは、邪魔者だったアマサを殺し自力で軍団長としての地位を取り戻しました。ヨアブはダビデの甥にあたる人物で非常に有能な戦士でしたが、その性質は極めて残虐でした。それなのにダビデは、ヨアブを戒めることができませんでした。なぜでしょうか。ヨアブに弱みを握られていたからです。弱みとはダビデの命令に従って、バテ・シェバの夫であったウリヤを殺害したことです。罪を犯すと、人に弱みを握られてしまうことになります。それがサタンの常套手段です。サタンも私たちが罪を犯すとその弱みを握り、それを神の前に訴えるのです。しかし、私たちには、父なる神の御前でとりなしてくださる方がおられます。それは、義なるイエス・キリストです。イエス・キリストの血は、すべての罪から私たちをきよめてくださいます。ですから、大切なのはイエス・キリストを信じてキリストの衣を着せていただくことです。そうすれば、どんなにサタンが罪を告発しても、神の御前に大胆でいることができるのです。この方にあって歩めることは何と幸いなことでしょうか。

 Ⅲ.一人の知恵ある女(15-26)

 最後に、15~26節をご覧ください。22節までをお読みします。「15 人々はアベル・ベテ・マアカに来て、彼を包囲し、この町に向かって塁を築いた。それは外壁に向かって立てられた。ヨアブにつく兵はみな、城壁を破壊して倒そうとしていた。

16 この町から、一人の知恵のある女が叫んだ。「聞いてください。聞いてください。ヨアブにこう言ってください。『ここまで近づいてください。あなたにお話ししたいのです。』」

17 ヨアブが彼女の方に近づくと、この女は言った。「あなたがヨアブですか。」彼は言った。「そうだ。」女は言った。「このはしためのことばを聞いてください。」彼は言った。「よし、聞こう。」18 女は言った。「昔、人々は『アベルで尋ねよ』と言って、事を決めました。19 私は、イスラエルのうちで平和な、忠実な者の一人です。あなたは、イスラエルの母である町を滅ぼそうとしておられます。あなたはなぜ、主のゆずりの地を、呑み尽くそうとされるのですか。」20 ヨアブは答えて言った。「とんでもない。呑み尽くしたり滅ぼしたりするなど、とんでもないことだ。21 そうではない。実はビクリの息子で、その名をシェバというエフライムの山地の出である男が、ダビデ王に手向かったのだ。この男だけを引き渡してくれたら、私はこの町から引き揚げよう。」女はヨアブに言った。「では、その男の首を城壁の上からあなたのところに投げ落としてごらんにいれます。」22 この女は知恵を用いて、民全員のところに行った。それで彼らはビクリの子シェバの首をはね、それをヨアブのもとに投げた。ヨアブは角笛を吹き鳴らし、人々は町から散って行き、それぞれ自分の天幕に帰った。ヨアブはエルサレムの王のところに戻った。」

シェバはイスラエルの全部族のうちを通って、アベル・ベテ・マアカへ行きました。アベル・ベテ・マアカとは、ガリラヤ湖の北、イスラエルの最北端にある町です。シェバはそこまで逃亡し、そこに立てこもりました。すると、ヨアブ率いるダビデ軍は、その町まで追って来て、この町を責めるために塁を築き、城壁を破壊して倒そうとしました。そのときです。一人の知恵ある女が町の中からヨアブに向かって言いました。18~19節です。「昔、人々は『アベルで尋ねよ』と言って、事を決めました。私は、イスラエルのうちで平和な、忠実な者の一人です。あなたは、イスラエルの母である町を滅ぼそうとしておられます。あなたはなぜ、主のゆずりの地を、呑み尽くそうとされるのですか。」

これはどういうことかというと、昔、人々は争いが起ころうとしても、この町で協議すれば平和裏に解決できた、ということです。それにも関わらず、そのイスラエルの母である町を、あなたは滅ぼされるのですか、ということです。

するとヨアブは、それはとんでもないことだと答えます。そうではなく、ビクリの息子でシェバという男を引き渡してくれたら、それでいい。自分たちはこの町から引き揚げようと約束します。

するとこの女はどうしたでしょうか。「では、その男の首を城壁からあなたのところに投げ落としてごらんにいれます。」と言うと、知恵を尽くして町中の人々を説得し、シェバの首をはねさせて、これをヨアブのもとに投げ落としたのです。こうして反乱は収まり、ヨアブは角笛を吹き鳴らし、人々は町から散って行き、それぞれ自分の天幕に帰って行きました。ヨアブはエルサレムの王のところに戻りました。

この女の知恵に注目しましょう。彼女には確かに知恵がありました。すぐに判断して、人々を説得して、シェバの首をはねさせることによって平和を保つことができました。彼女はどうすることが平和な道なのか、どうすることが自分たちの社会を守ることにつながるのか、すぐに判断することができました。

知恵と知識とは別ものです。知恵とは具体的な問題に直面したときに発揮される判断力のことです。知恵があるかどうかは、年齢や性別、学歴とは全く関係ありません。彼女は問題点を取り除くことによって、町全体の平和を保つことができました。私たちも自分の人生の中でこのような知恵を発揮しなければなりません。あなたの問題点は何ですか。それをどのように取り除きますか。

箴言9章10節には、「主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟ることである。」とあります。また詩篇111篇10節にも、「知恵の初めそれは主を恐れること。これを行う人はみな賢明さを得る。主の誉れは永遠に立つ。」とあります。主を恐れることが知恵の初めです。

「主を恐れる」とは、箴言9章10節にあるように「聖なる方を知ること」です。それはキリストを知ることです。キリストを知る者(信じる者)は、平和をつくることができます(マタイ5:9)。そのような人は、どうすることが平和につながる道なのかを常に考えます。しかし平和を求める時にまず自分自身の中に平和がないと、平和を生み出していくことはできません。キリストを通して神との平和(和解)が与えられる時、私たちは本当の平安を得ることができます(Ⅱコリント5:17~21)。キリストを通して、自分が平和な、忠実な者であることを求めていきましょう。そして具体的にどうしていくことが、この社会において平和を生み出す道であるか、祈り求めていきたいと思うのです。

23~26節をご覧ください。「23 さて、ヨアブはイスラエルの全軍の長であった。エホヤダの子ベナヤはクレタ人とペレテ人の長、24 アドラムは役務長官、アヒルデの子ヨシャファテは史官、25 シェワは書記、ツァドクとエブヤタルは祭司、26 ヤイル人イラもダビデの祭司であった。」

さて、ヨアブがエルサレムに戻ると、彼はそこで再びダビデ軍の長に復帰しました。ダビデはヨアブを退けたいと思っていましたが、生涯ヨアブに対して厳しい措置を断行することができませんでした。それを実行するのはその子ソロモンです。ダビデがヨアブに対して厳しい態度を取ることかできなかったのは、バテ・シェバ事件での弱みを握られていたからです。罪の支払う代価は、あまりにも大きいです。

雅歌7章11節~8章4節「花婿を導いた花嫁」

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 雅歌も終盤を迎えています。きょうは雅歌7章11節から8章4節までの箇所から、「花婿を導いた花嫁」というタイトルでお話します。今日の箇所には、花婿を導く花嫁の姿が描かれています。たとえば、11節には、「さあ、私の愛する方よ、私たちは野に出て行って、村で夜を過ごしましょう。」とあります。花嫁が花婿を導いているのです。極めつけは8章2節のことばです。「私はあなたを導いて、私を育てた私の母の家にお連れして、香料を混ぜたぶどう酒、ざくろの果汁をあなたに飲ませて差し上げましょう。」

とあります。ここにはきっきりと「あなたを導いて」とか「お連れして」とあります。花嫁が花婿を導いているのです。

 私たちはいつも花婿であるキリストに導かれていると思っていますが、もちろん、そういう面もありますが、同時に花婿を導いているという側面もあります。これまではどちらかというとイエス様に導かれること、イエス様に何かをしていただくことが中心の信仰でしたが、それと同時に、霊的、信仰的に成長していく中で、今度はイエス様を導く者に、イエス様に喜んでささげる者へと変えられていくのです。きょうはこのことについてご一緒に考えたいと思います。

 Ⅰ.恋なすびは香りを放つ(7:11-13)

まず、7章11~13節までをご覧ください。「さあ、私の愛する方よ。私たちは野に出て行って、村で夜を過ごしましょう。私たちは朝早くからぶどう畑に行き、ぶどうの木が芽を出したか、ぶどうの木が花を咲かせたか、ざくろの花が咲いたかどうかを見ましょう。そこで私は、私の愛をあなたにささげます。」

これは花嫁のことばです。花嫁は花婿から「なんと美しいことか。高貴な人の娘よ。」(7:1)と言われると、10節でこう告白しました。「私は、私の愛する方のもの。あの方は私を恋い慕う。」

これは、花嫁が単に自分を花婿にささげるというだけでなく、また、自分よりも花婿を優先するというレベルでもなく、「あの方は私を恋い慕う」、つまり、花婿にとって自分が関心の的であると告白したのです。もう何があっても大丈夫です。花婿が必ず守ってくださいますから。そうした平安の中で完全に憩っているのです。花婿は必ず良いことをしてくださるという確信があります。だって自分は花婿にとって関心の的なのですから。ただ花婿がいて、自分をつかんでいてさえすれば、それで十分なのです。つまり、花婿にすべてを完全にゆだねているのです。花嫁はそこまで成長しました。

そして、花嫁は続いてこう言っています。11節、「さあ、私の愛する方よ。私たちは野に出て行って、村で夜を過ごしましょう。」

この「村」とは8章2節にある母の家、実家のことです。エルサレムの都会にある王宮のような華やかなところだけでなく、自分にとって人生の原点でもある実家に戻り、そこで愛を楽しみましょう、と誘っているのです。

その理由が12節に書かれてあります。「私たちは朝早くからぶどう畑に行き、ぶどうの木が芽を出したか、ぶどうの木が花を咲かせたか、ざくろの花が咲いたかどうかを見ましょう。」

彼女は6章3節で「シュラムの女よ」と呼ばれていますが、シュラムがあるガリラヤ地方ではぶどうの木が芽を出したり、ぶどうの木が花を咲かせたり、ざくろの花が咲いたりするのを見ることができます。そうした自然の中で夫婦の交わりを持つことができます。それは、エルサレムのような都会では不可能なことです。

13節をご覧ください。「恋なすびは香りを放ち、私たちの門のそばには、すべての最上の果物があります。新しいものも、古いものも。私の愛する方よ、これはあなたのために蓄えておいたものです。」

実家があるガリラヤには「恋なすび」も豊かに実っています。「恋なすび」は「マンドレイク」という名で知られていています。昔から薬草として使われていましたが、受胎効果が有るとも思われていました。創世記30章14節では、不妊で悩んでいたラケルが姉のレアに、息子ルベンが取って来た恋なすびを譲ってほしいと言っているのはそのためです。恋なすびは良い香りを放つため、性的欲情をかき立てるものでもありました。それは花婿と花嫁の関係をより親密にするものです。そこには、恋なすびが香りを放ち、すべての最上の果物がありました。それは花嫁が花婿のために蓄えておいたものです。ですから、ここで花嫁は花婿との関係をより一層親密にするものを用意しています、と言っているのです。

それは、私たちにも必要なことです。花婿なるキリストとの関係をより親密にするものが必要です。たとえば、私たちが手にしているこの聖書はその一つでしょう。聖書は「恋なすび」であるとも言えます。イエス様との関係をより親密にさせてくれます。聖書を通してイエス様の心を知り、イエス様との関係をより身近に感じさせてくれます。聖書はまさに恋なすびなのです。

また、教会での交わりもそうです。私たちがバプテスマを受けてクリスチャンになると、どこからか信仰を捨てるようにとか、少なくともあまり熱心にならないようにというプレッシャーと受けることがあります。そうした中にあっても動揺しないでしっかりと希望を告白するために、あるいは、信仰から出てくる愛と善行を促すように励まし合うために、教会に集まる必要があります。それはただ習慣として集まるというだけでなく、集会が心の習慣の一部となるような積極的な関わり方が求められるのです。そうでないと、信仰から離れてしまうことになるからです。教会での交わりはまさに恋なすびであり、イエス様との関係をより親密にするために必要なものなのです。

他にどのようなものがあるでしょうか。静かな場所で祈ることもそうでしょう。イエス様のことばを思いめぐらして祈るとき、イエス様の麗しさ、その愛に満たされます。信仰の良書を読むのもいいです。特に、信仰に生きた人たちの証は、私たちの信仰を励ましてくれます。バイブルスタディー祈祷会に参加することも大切です。バイブルスタディーに参加することで、それまで気付かなかったことに気付かされます。

昨年8月にスタートしたC-BTEのクラスは、先週基本原則シリーズⅠを終了しました。基本原則シリーズⅠでは、クリスチャンライフのベーシックなことを学びますが、参加している数人の兄弟から、この学びがなかったらただ教会の礼拝に出席して、与えられた奉仕をして終わりということになっていたのではないかと思います、と言うのを聞いて、この学びを継続してきてよかったなぁと思いました。まさにこうした学びも恋なすびです。

私たちには恋なすびが必要です。イエス様との関係を親密にするためのものを蓄えておきたいと思います。

Ⅱ.花婿を導いた花嫁(8:1-3)

次に、8章1~3節をご覧ください。これも花嫁のことばです。1節には、「ああ、もし、あなたが私の母の乳房を吸った私の兄弟のようであったなら、私が外であなたに会ってあなたに口づけしても、だれも私を蔑まないでしょうに。」とあります。どういうことでしょうか。

この「口づけ」とは、あいさつとして交わされる軽い口づけのことです。しかし中東では、今でもそうですが、男女が公に人々の前で口づけを交わすことはできませんでした。それが許されたのは家族の間柄に限られていたのです。中東では、女性が外に出る時は覆いを付けなければならず、外に出て異性と一緒にいることができたのは、唯一血のつながった兄弟だけだったのです。ですから花嫁はここで、もしあなたが私の母の乳房を吸った私の兄弟のようであったなら、外であなたに会って口づけしても、だれにも蔑まれないのに、と言っているのです。つまり、花婿に対する愛情の表現には限界があるということです。もっと自由に、もっとあからさまに、もっと強く花婿に対する愛を表したいと切に願っているのです。

皆さんはどうでしょうか。この花嫁のように花婿イエスをもっと愛したいと願っておられるでしょうか。もっと自由に、もっと豊かに、もっと親密に愛を表したいと強く願っているでしょうか。確かに、教会にいる時は大きな声で賛美することができます。涙して祈ることもできるでしょう。でも家に帰ったらどうでしょうか。クリスチャンは自分だけという家庭も少なくありません。そうなると、夫やこどもたちの前で祈ったりするのを躊躇してしまうかもしれません。職場ではどうでしょうか。クリスチャンばかりの職場だったら何でもないことでも、ノンクリスチャンが圧倒的に多いところでは教会の話やイエス様の話をするのをはばかってしまいます。そんな中でももっとイエス様を賛美したい、もっとイエス様と交わりたい、もっとイエス様のすばらしさを伝えたいと願っているならどんなにすばらしいことでしょうか。それほどまでにイエスに夢中で、イエスの愛に捉えられる者になりたいです。

2節には「私はあなたを導いて、私を育ててくれた母の家にお連れして、香料を混ぜたぶどう酒、ざくろの加重をあなたに飲ませて上げましょう。」とあります。

「私を育ててくれた母の家」とは、花嫁の実家のことです。花嫁にとって実家は、あまりいいイメージがありませんでした。1章6節を見ると、そこは兄弟たちにこき使われた所であり、顔が浅黒くなるまでぶどうの番人をさせられたところです。ですから、できればあまり近づきたくなかったはずです。しかし、その実家にお連れして、香料を混ぜたぶどう酒と、ざくろの果汁を飲ませて上げたいと言っているのです。なぜでしょうか。そこは花婿と出会った思い出の場所だからです。かつて花婿を見失ったとき、花嫁が彼を見付けたのもこの実家の近くでした。ですから、母の家はもう嫌なところではなくなったのです。そこは花婿と出会うことができたすばらしい場所という思いを抱くことができるようになりました。

それは私たちにも言えます。私たちにも実家のようなところがあります。別に実家が悪い所という意味ではありませんよ。彼女の場合はそれが実家であったというだけのことですが、そのようにいじめられたり、意地悪されたり、侮辱されたり、こき使われたりと、あまり良いイメージを持つことかできない場所があるということです。しかし、そんなところでも、イエス様と出会うなら、そこは最高の場所となります。

その実家である母の家に導いて、そこにお連れして、香料を混ぜたぶどう酒、ざくろの果汁の果汁をあなたに飲ませて上げましょうというのです。えっ、逆じゃないですか。そこに導いて、ぶどう酒やざくろの果汁を飲ませてくれるのは花婿の方ではないのですか。これまでもずっとそうでした。いつも花婿が花嫁を導いてくださいました。花嫁が花婿を導くなんておこがましいことです。でもここでは花婿が導いているのではなく、花嫁が導いてと言っています。花嫁が花婿を母の家にお連れしたいと言っているのです。どういうことでしょうか。

確かに、私たちはイエス様に導かれている者です。私たちが救いに導かれたのもそうです。それはイエス様の導きによるものであり、一方的な恵みです。しかし、同時に、私たちもイエス様を導いている面があるのです。たとえば、イエス様は大宣教命令の中で、「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイ28:19-20)と言われましたが、「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」と言われたイエス様は、同時に、「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」と言われました。つまり、私たちが出て行くところには、いつもイエス様が共におられるのです。言い換えると、クリスチャンがイエス様をお連れするという面があるということです。それはイエス様に何か指図するということではなく、イエス様が喜んでくださるところにお連れするということです。花嫁がお連れしたかったのは、彼女を育ててくれた母の家でした。そこで香料を混ぜたぶどう酒と、ざくろの果汁を飲ませて差し上げたかったのです。

「香料を混ぜたぶどう酒」とは、究極の喜びを表しています。「香料」は祈りの象徴、「ぶどう酒」は喜びの象徴です。祈りに喜びが混ぜ合わされているというのは、あるいは、喜びに祈り混ぜ合わされているというのは、ただの喜びではなく究極の喜びであるということです。それは尽きることがない喜びです。揺らぐこともなく、失われることもありません。そのような喜びを花婿に差し上げましょう、と言っているのです。

ヨハネの手紙第三1章3節にはこうあります。「兄弟たちがやって来ては、あなたが真理に歩んでいることを証ししてくれるので、私は大いに喜んでいます。実際、あなたは真理のうちに歩んでいます。」

この手紙は、当時エペソの教会の長老であったヨハネが書いた手紙ですが、ここで彼は、「兄弟たちがやって来て、あなたがたが真理に歩んでいることを証ししてくれるので、私は大いに喜んでいます」と言っています。彼にとっての喜びは、クリスチャンが真理に歩んでいるということでした。それはヨハネに限ったことではなく、牧師であればみんなそうです。クリスチャンが真理に歩んでいること、信仰に堅く立っているということを聞くことほど大きな喜びはありません。それは大牧者であられるイエス様も同じです。イエス様が喜んでくださることは、私たちが真理のうちに歩むことです。そのようなものを飲ませてさしあげることかできます。

それは、ざくろの果汁にも言えることです。よくスーパーに行くとざくろのジュースが置いてありますが、ざくろは強い抗酸化力があるので、ガンや腎臓病の予防に効果的だと言われています。また、美白化粧品にも使用されるエラグ酸を含むので、くすんだ肌を美白肌へと導いてくれるそうです。それは疲れたからだを癒す効果がある最高の飲み物でした。それを飲ませい差し上げましょう、というのです。それはどれほど花婿を爽やかな気持ちにさせることができたでしょうか。こうしたものをイエス様にささげることができるのです。

これまで私たちは、イエス様から何かをしていただくことしか考えられなかったかもしれませんが、でも私たちが霊的、信仰的にステップアップしていく中で、今度はイエス様に差し上げることができるようになってきます。イエス様にとって喜びとなるもの、イエス様にとってすがすがしく、爽やかにさせるものをささげることができるのです。そのためには、まず自分自身をささげたいですね。なぜなら、イエス様が求めておられるのはお金でも、時間でも、労力でもでもなく、私たち自身であるからです。つまり、献身するということです。それがイエス様にとって最もうれしいことであり、喜んでくれることなのです。花嫁が花婿に自分をささげるように、キリストの花嫁である私たちは、花婿であるキリストに自分をささげたいと思うのです。

3節をご覧ください。ここには「ああ、あの方の左の腕が私の頭の下にあって、右の腕が私を抱いてくださるとよいのに。」とあります。これも2章6節で語られていたことの繰り返しです。あの方の左の腕が私の頭の下にあるとは、左の腕でがっちりと支えているというイメージです。そして右の腕が私を抱いてくださるとは、優しく抱きしめているというイメージです。ちょうど母親が赤ちゃんを抱っこしている姿です。それは確かな保護と細やかな愛情を表現しています。あなたが危険に陥らないようにがっちりと支えていてくれます。あなたがつまずいて倒れそうになった時、主は力強い御手をもって支えていてくださるのです。

あなたはそのようなイエス様の愛情を感じているでしょうか。包み込むような優しい愛情を受けているでしょうか。イエス様の腕が、文字通りあなたをしっかり支えているということを覚えていてください。イエス様がおられるなら寂しくありません。もう何も怖くはないのです。あなたの下には永遠の腕があるからです。ここに真の満たしと安心感を得ることができます。あなたにとってイエス様がそのような方であるかどうかをもう一度考えてほしいと思います。

Ⅲ.揺り起こしたり、かき立てたりしないでください(4)

最後に、4節をご覧ください。「エルサレムの娘たち。私はあなたがたにお願いします。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛がそうしたいと思うときまでは。」

これも花嫁のことばです。ここで花嫁はエルサレムの娘たちにお願いしています。「揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛がそうしたいと思うときまでは。」と。これは2章7節と3章5節にもありました。振り返ってみましょう。2章7節には、「エルサレムの娘たち。私は、かもしかや野の雌鹿にかけてお願いします。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛がそうしたいと思うときまでは。」とありました。また、3章5節にも、「エルサレムの娘たち。私は、かもしかや野の雌鹿にかけてお願いします。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛がそうしたいと思うときまでは。」とありました。それがここでもう一度繰り返して言われているのです。

なぜ繰り返して言われているのでしょうか。2章7節で説明した時にもお話しましたが、この繰り返しによって一つの場面を締めくくっているからです。ですから、8章5節から、また新しい場面を迎えることになります。それはこの雅歌全体のクライマックスです。しかし、それだけでなく、実は、このことがとても大切なことだからです。その大切なことを思い起こしてほしかったのです。

私たちは大事なことでもすぐに忘れてしまいます。喉元(のどもと)過ぎれば熱さを忘れるで、どんなに大事な教訓でも、喉元を過ぎるとそれがどんなに熱かったのかを忘れてしまいます。思い起こす必要があります。だから繰り返して語られているのです。「ああ、これは本当に大事なことでした。」と思い起こさせているのです。その内容はどんなことかというと、「揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛がそうしたいと思う時までは。」です。これは直訳すると、「あなたがたは揺り起こしたり、かき立てたりして、私の愛を目覚めさせないでください。私が良いと思う時までは。」となります。私が良いと思う時までは、私がそうしたいと思う時までは、揺り起こしたり、かき立てたりしないで、そっとしておいてくださいとお願いしているのです。

このエルサレムの娘たちはたびたび登場していますが、彼女たちの存在は本当に有難いものです。その度に何かを気付かせてくれます。たとえば、5章9節では花嫁が花婿を見失ったとき、彼女は必至になって花婿を捜すも見つからなかったとき、このエルサレムの娘たちにお願いして、一緒に捜してください、そしてあの方を見付けたら、あの方に言ってください。私は愛に病んでいる、と。

するとこのエルサレムの娘たちは言いました。「いったいあなたにとって花婿はどんな存在なんですか、ほかの親しい者たちより何がまさっているのですか。」と。それで花嫁はハッとして、花婿のすばらしさを思い起こし、その存在のすばらしさを告白しました。「あの方のすべてがいとしい。これが私の愛する方、これが私の恋人です。」いわば、彼女の思いを引き上げてくれたわけです。有難いことです。

しかし、そのような存在であるがゆえに、時にはお節介とも思われる言動をすることがありました。それで花嫁は「ちょっと待ってください、私は静かに考えたいのです。私がそうしたいと思う時まで、私の心を揺り動かしたり、かき立てたりしないでください。」とお願いしているのです。花嫁は、花婿との愛の関係をどれほど大切にしているかがわかります。事ある度に花婿との関係を思い起こしては、花婿との関係を大事にしているのです。彼女の成長ぶりが伺えます。

事ある度にイエス様との関係を思い起こすこと、これは私たちにも求められていることです。あなたにとってイエス様はどのような存在でしょうか。あなたとイエス様との関係はどうでしょうか。あなたにとってイエス様との関係が何よりも大切となっているでしょうか。イエス様との関係がどうなのかを、私たちも事ある度に思い起こし、キリストの愛に目覚めるように祈りたいと思います。

Ⅱサムエル記19章

 きょうは、Ⅱサムエル記19章から学びます。

 Ⅰ.ダビデに対するヨアブの忠告(1-8)

 まず、1~8節をご覧ください。

「1そのようなときに、ヨアブに、「今、王は泣いて、アブサロムのために喪に服しておられる」という知らせがあった。

2 その日の勝利は、すべての兵たちの嘆きとなった。その日兵たちは、王が息子のために悲しんでいるということを聞いたからである。

3 兵たちはその日、まるで戦場から逃げて恥じている兵がこっそり帰るように、町にこっそり帰って来た。

4 王は顔をおおい、大声で、「わが子アブサロム、アブサロムよ。わが子よ、わが子よ」と叫んでいた。

5 ヨアブは王の家に来て言った。「今日あなたのいのちと、あなたの息子、娘たちのいのち、そして妻や側女たちのいのちを救ってくれたあなたの家来たち全員に、あなたは今日、恥をかかせられました。

6 あなたは、あなたを憎む者を愛し、あなたを愛する者を憎まれるからです。あなたは今日、隊長たちも家来たちも、あなたにとっては取るに足りないものであることを明らかにされました。今、私は知りました。もしアブサロムが生き、われわれがみな今日死んだなら、それはあなたの目にかなったのでしょう。

7 さあ今、立って外に行き、あなたの家来たちの心に語ってください。私は主によって誓います。あなたが外においでにならなければ、今夜、だれ一人あなたのそばにとどまらないでしょう。そうなれば、そのわざわいは、あなたの幼いころから今に至るまでにあなたに降りかかった、どんなわざわいよりもひどいものとなるでしょう。」」

8. 王は立って、門のところに座った。人々はすべての兵たちに「見なさい。王は門のところに座っておられる」と知らせた。兵たちはみな王の前にやって来た。一方、イスラエルは、それぞれ自分たちの天幕に逃げ帰っていた。」

イスラエルとの戦いにおいて息子アブサロムが死んだことを聞いたダビデは、その体を震わせて「わが子アブサロム。わが子、わが子アブサロムよ。ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに。アブサロム。わが子よ、わが子よ」(18:33)と泣き叫びました。そのため、その日の勝利は、すべての兵たちの嘆きとなってしまいました。それで兵たちはその日、まるで戦場から逃げて恥じている兵たちがこっそりと帰るように、自分たちがいたマハナイムに帰って行きました。

それを見たヨアブはダビデに激しく迫りました。4~7節までの内容です。ここでヨアブが言っていることは、王のしていることは、王とその家族のためにいのちがけで戦ってくれた人たちを侮辱することである。王は自分を憎む者を愛し、自分を愛する者を憎まれたのだから。そう思われても仕方がないことをしている。王は息子アブサロムだけが生き残り、彼の部下たちがみな死んだ方が良かったのか。すぐに出て行って、兵たちにねぎらいのことばをかけてやってほしい。そうでなければ、だれ一人として王のそばにはとどまらないだろう、というものでした。

それでダビテ王は立って、門のところに座り、ようやく民の前に姿を表し、ねぎらいのことばをかけました。

それにしても、この時のヨアブの態度とダビデの態度を比較してみると、その性質がよく表れています。ヨアブの態度は実に失礼で聞き苦しいものでした。王の命令に背いてアブサロムを殺したのは彼です。それなのに彼は、自分の不当な行為には一切触れず、自分たちの行動を認めないダビデ王に対して、辛辣なことばを浴びせたのです。どうしても忠告しなければならないと思ったのかもしれませんが、そのような場合でも敬意を払いつつ、穏かなことばで伝えるべきでした。もともと残忍な性質を持っていたヨアブには、王に対する畏敬の念がなかったのです。

それに対してダビデは、ヨアブの激しいことばに対して激怒することなく、その中にある意図を理解することかできました。ダビデの心には、ヨアブに対する怒りと憤りもあったでしょうが、彼はそれを内に秘めたまま、ヨアブのことばに応じて民の前に自分の姿を表しました。彼は「天の下には何事にも定まった時があり」というみことばの原則を実践したのです。

 Ⅱ.あたかも一人の人のように心を動かされたユダの人々(9-15)

次に、9~15節までをご覧ください。

「9イスラエルの全部族の間で、民はみなこう言って争っていた。「王が敵の手から、われわれを救い出してくださったのだ。われわれをペリシテ人の手から助け出してくださったのは王だ。ところが今、王はアブサロムのいるところから国外に逃げておられる。

10 われわれが油を注いで王としたアブサロムは、戦いで死んでしまった。あなたがたは今、王を連れ戻すために、なぜ何もしないでいるのか。」

11 ダビデ王は、祭司ツァドクとエブヤタルに人を遣わして言った。「ユダの長老たちにこう告げなさい。『全イスラエルの言っていることが、ここの家にいる王の耳に届いたのに、あなたがたは、なぜ王をその王宮に連れ戻すことをいつまでもためらっているのか。

12 あなたがたは、私の兄弟、私の骨肉だ。なぜ王を連れ戻すのをいつまでもためらっているのか。』

13 アマサにも言わなければならない。『あなたは私の骨肉ではないか。もしあなたが、ヨアブに代わってこれからいつまでも、私の軍の長にならないなら、神がこの私を幾重にも罰せられるように。』」

14 すべてのユダの人々は、あたかも一人の人のように心を動かされた。彼らは王のもとに人を遣わして、「あなたも家来たちもみな、お帰りください」と言った。

15 王は帰途につき、ヨルダン川までやって来た。一方、ユダの人々は、王を迎えてヨルダン川を渡らせるためにギルガルに来た。」

アブサロムが死んだ後、イスラエルの全部族の間で、言い争いが起こりました。自分たちをペリシテ人の手から救い出してくれたのはダビデ王なのに、その王が国外に逃亡しているということがあって良いのか。自分たちが油を注いだアブサロムは死んでしまった。ダビデ王を連れ戻すのに、何を躊躇しているのか、というものでした。

イスラエル人たちが、ダビデをエルサレムに連れ戻す話が、ダビデの耳に入りました。そこでダビデは、祭司ツァドクとエブヤタルに人を遣わして、ユダの人々に、自分を連れ戻すようにと促します。ユダの人々は、ダビデの近親者だったからです。また、アブサロムに手を下したヨアブに代えてアマサを将軍に取り立てると約束しました。アマサは、アブサロム軍についていた将軍でした。そのアマサを自分たちの軍の将軍に登用するというのです。そのように決断するのはかなりの危険が伴うことでしたが、そのようにすることによって、自分には報復する意図がないことを示そう思ったのでしょう。また、これ以上、ヨアブの力が及ぶことがないようにしたかったのかもしれません。

これを聞いたユダの人たちは、どのように思ったでしょうか。14節には、「あたかも一人の人のように心を動かされた」とあります。「一人の人のように」とは、「全員一致で」ということです。全員一致で王を迎えることにしたのです。そして、ヨルダン川まで迎えに出てきました。それでダビデ王はヨルダン川を渡るためにギルがるまでやって来たのです。

このダビデのやり方には目を見張るものがあります。彼は力づくでエルサレムに帰還することもできましたがそうすることをせず、あくまでも全イスラエルの人たちの心が整えられ、彼らから招かれるような形で帰還したのです。それはイエス様にも見られる態度です。イエス様は、戸の外に立って、たたかれる方です。無理やり戸を開けて入って来られるのではなく、との外に立ってたたかれます。そして、だれでもその戸を開けるなら、その中に入り、彼とともに食事をし、彼もイエス様とともに食事をするようになります。私たちも時に土足で人の心の中に入り込もうとすることがありますが、その前に戸の外に立ってたたくという配慮が求められます。そして、その人の心の準備ができたところで、中に入って食事をする。つまり、親しい交わりの時を持たせていただくという心構えが求められます。

 Ⅲ.ダビデ王を出迎える人々、見送る人々(16-43)

 最後に、16~43節をご覧ください。ここには、ダビデを出迎える人々と見送る人々のことが記されてあります。まず、16~23節です。ここには、バフリム出身のベニヤミン人、ゲラの子シムイのことが記されてあります。

16 バフリム出身のベニヤミン人、ゲラの子シムイは、ダビデ王を迎えようと、急いでユダの人々と一緒に下って来た。

17 彼は千人のベニヤミン人を連れていた。サウルの家のしもべツィバも、十五人の息子、二十人の召使いを連れて、王が見ている前でヨルダン川に駆けつけた。

18 そして、王の家族を渡らせるため、また王の目にかなうことをするために、渡しを整えた。ゲラの子シムイはヨルダン川を渡って行き、王の前に倒れ伏して、

19 王に言った。「わが君、どうか私の咎を罰しないでください。王様がエルサレムから出て行かれた日に、このしもべが犯した咎を、思い出さないでください。王様、心に留めないでください。

20 このしもべは、自分が罪を犯したことを知っています。ご覧ください。今日、ヨセフのすべての家に先立って、わが君、王様を迎えに下って参りました。」

21 ツェルヤの子アビシャイは口をはさんで言った。「シムイは、【主】に油注がれた方を呪ったので、そのために死に値するのではありませんか。」

22 ダビデは言った。「ツェルヤの息子たちよ。あれは私のことで、あなたがたに何の関わりがあるのか。あなたがたが、今日、私に敵対する者になろうとするとは。今日、イスラエルのうちで人が殺されてよいだろうか。私が今日イスラエルの王であることを、私が知らないとでもいうのか。」

23 王はシムイに言った。「あなたは死ぬことはない。」王は彼にそう誓った。」

シムイは、ダビデがアブサロムから逃れているときにバフリムで出会った人物です。そのとき彼は、ダビデを口汚くののしり、石やちりを投げつけました(16:5)。そのシムイが今、ダビデ王を迎えようと、急いでユダの人々と一緒に下って来たのです。

彼は自らの行為を深く反省し、1000人のベニヤミン人を引き連れて、ダビデのもとに駆けつけました。そして、ダビデ王に、自分の咎を罰しないように、その咎を思い出さず、心に留めないようにと懇願しました。

すると、ツェルヤの子アビシャイは、主に油注がれた方を呪うなんて決して許されないことであって、死刑に処せられるべきであると主張しました。さあ、ダビデ王はどのような態度を取ったでしょうか。

22節と23節をご覧ください。彼は、アビシャイに、これは自分のことであってあなたには関係のないことであり、あなたは自分に敵対する者になろうとするのか。今日、イスラエルのうちで人が殺されてよいだろうか、と言って、シムイに「あなたは死ぬことはない。」と言って誓ったのです。いったいなぜダビデは彼を赦すことができたのでしょうか。

それは、ダビデの中に神を恐れる心と、平和を求める心があったからです。確か彼は罪を犯しましたが、彼は弁解することなくその罪を認め、告白しました。聖書には何と書いてありますか。これはダビデ自身が体験したことでもあります。詩篇32篇1~5節にはこうあります。

「1 幸いなことよその背きを赦され罪をおおわれた人は。

2 幸いなことよ主が咎をお認めにならずその霊に欺きがない人は。

3 私が黙っていたとき私の骨は疲れきり私は一日中うめきました。

4 昼も夜も御手が私の上に重くのしかかり骨の髄さえ夏の日照りで乾ききったからです。セラ

5 私は自分の罪をあなたに知らせ自分の咎を隠しませんでした。私は言いました。「私の背きを主に告白しよう」と。するとあなたは私の罪のとがめを赦してくださいました。セラ」

ダビデは、主がどのようなお方であるのかをよく知っていました。そして、彼自身がそれを体験しました。それゆえ、彼は自分に対して罪を犯した者であっても、その罪を認め、それを告白する者に対して、心から赦すことができたのです。

それは、ダビデが主と呼んだイエス様に見られる性質です。主イエスも罪人たちのために十字架の上で祈られました。「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは、自分で何をしているのかわからないのです。」と。そして、その主イエスの罪の赦しを経験した弟子のヨハネはこのように言いました。「もし私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(Ⅰヨハネ1:9)

それゆえ、大切なことは、自分には罪がないと言うのではなく、キリストのみことばの主権を認めて、罪を犯したことを言い表すことです。そうすれば、主は赦してくださいます。ダビデには、その心がありました。

次にダビデ王を迎えに出てきたのは、サウルの孫のメフィボシェテです。24~30節をご覧ください。

「24 サウルの孫メフィボシェテは、王を迎えに下って来た。彼は、王が出て行った日から無事に帰って来た日まで、自分の足の手入れもせず、ひげも剃らず、衣服も洗っていなかった。

25 彼が王を迎えにエルサレムから来たとき、王は彼に言った。「メフィボシェテよ、あなたはなぜ、私とともに来なかったのか。」

26 彼は言った。「わが君、王様。家来が私をたぶらかしたのです。このしもべは『ろばに鞍を置き、それに乗って、王と一緒に行こう』と言ったのです。しもべは足の萎えた者ですから。

27 彼がこのしもべのことを王様に中傷したのです。しかし、王様は神の使いのような方ですから、お気に召すようにしてください。

28 私の父の家の者はみな、王様から見れば、死刑に当たる者にすぎなかったのですが、あなたは、このしもべをあなたの食卓で食事をする者のうちに入れてくださいました。ですから、この私に、どうして重ねて王様に訴える権利があるでしょう。」

29 王は彼に言った。「あなたはなぜ、自分のことをまだ語るのか。私は決めている。あなたとツィバとで地所を分けるのだ。」

30 メフィボシェテは王に言った。「王様が無事に王宮に帰られた後なら、彼が全部取ってもかまいません。」」

ダビデはメフィボシェテに会うなり、「あなたはなぜ、私とともに来なかったのか。」と尋ねました。するとメフィボシェテは、家来が自分をたぶらかしたので、行くことが出来なかったと弁明しました。この家来とはツィバのことです。ツィバはメフィボシェテをたぶらかしたばかりか、彼のことを中傷しました。何のことか言うと、16章1~4節にあった出来事のことです。ダビデがアブサロムから逃れて山の頂から少し下ったとき、このツィバがダビデの前に表れて、メフィボシェテが「きょう、イスラエルの家は、私の父の王国を私に返してくれる。」と言ったと嘘をついたのです。そのことを怒ったダビデは、メフィボシェテの地所や財産はみなあなたのものだと」と判断を下しました。けれども、それは早まった判断でした。それは全くの嘘だったからです。ツィバがメフィボシェテのことを中傷していたのです。

しかし、これまでのダビデの好意に対して、メフィボシェテは何も言える立場ではありませんでした。ダビデは彼をあわれみ、本当に良いことをしてくれました。メフィボシェテからすれば、ダビデは神の使いのような存在でした。それゆえ、何も訴える権利などないので、ダビデ王の好きなようになさそってください、と言いました。

それに対してダビデは何と言ったでしょうか。29節です。ダビデはメフィボシェテの真実な姿とツィバの偽りとを見抜き、地所を全部ツィバと二分するようにと言いました。これもちょっと不思議な感じもします。メフィボシェテが言っていることが本当なら、ツィバは偽り者であり、処刑されて当然ではないかと思いますが、二分するようにと言っているからです。おそらくダビテは、たとえそれが嘘であっても神の前で約束したことであれば、すべてを取り消すことはできないと考えたのでしょう。また、ツィバが相当実力を持っていると感じ、彼の反感を買うような事態にならないように配慮したのかもしれません。それは17~18節を見てもわかります。彼は、ダビデを迎えるために自分の息子や召使を連れて、ダビデのもとに駆けつけています。そして、王と家族の目にかなうようにと、渡しを整えています。ツィバは相当ずる賢いところがありましたが、ある面で誠意をもってダビデに仕えています。

それに対してメフィボシェテはこう言っています。30節です。「王様が無事に王宮に帰られた後なら、彼が全部取ってもかまいません。」これがメフィボシェテの真実な姿でした。彼は、ダビデがエルサレムに戻り、民を治めることを自分のこと以上に喜んだのです。私たちもこのような心を持ちたいですね。

バプテスマのヨハネにも、このような性質がありました。彼はキリストが来られたときこのように告白しました。「花嫁を迎えるのは花婿です。そばに立って花婿が語ることに耳を傾けている友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。ですから、私もその喜びに満ちあふれています。あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」(ヨハネ:29-30)私たちも、ただイエス様の栄光が崇められる生活を求める者でありたいと願わされます。

次にダビデを出迎えたのは、ギルアデ人バルジライです。31~40節をご覧ください。

「31 一方、ギルアデ人バルジライはロゲリムから下って来た。そして、ヨルダン川で王を見送るために、王とともにヨルダン川まで進んで来た。

32 このバルジライは、たいへん年をとっていて八十歳であった。彼は王がマハナイムにいる間、王を養っていた。非常に裕福な人だったからである。

33 王はバルジライに言った。「私と一緒に渡って行ってください。エルサレムの私のもとで、あなたを養います。」

34 バルジライは王に言った。「王様とともにエルサレムへ上って行っても、私はあと何年生きられるでしょう。

35 私は今、八十歳です。私に善し悪しが分かるでしょうか。しもべは食べる物も飲む物も味わうことができません。歌う男や女の声を聞くことさえできません。どうして、この上、しもべが王様の重荷になれるでしょう。

36 このしもべは、王様とともにヨルダン川をほんの少しだけ進んで参りましょう。王様は、そのような報酬を、どうしてこの私に下さらなければならないのでしょう。

37 このしもべを帰らせてください。私は自分の町で、父と母の墓の近くで死にたいのです。ご覧ください。ここに、あなたのしもべキムハムがおります。彼が、王様と一緒に渡って参ります。どうか彼に、あなたの良いと思われることをなさってください。」

38 王は言った。「キムハムは私と一緒に渡って行けばよい。私は、あなたが良いと思うことを彼にしよう。あなたが私にしてほしいことは何でも、あなたにしてあげよう。」

39 こうして、民はみなヨルダン川を渡り、王も渡った。王はバルジライに別れの口づけをして、彼を祝福した。それで、バルジライは自分の町へ帰って行った。

40 それから、王はギルガルへ進み、キムハムも王とともに進んだ。ユダのすべての民とイスラエルの民の半分が、王とともに進んだ。」

バルジライは、ダビデ王を出迎えたのではなく、見送るためにヨルダン川まで住んできました。このバルジライについては、17章27節にあります。彼はダビデたちがエルサレムを逃れてマハナイムに逃れたとき、アモン人ショビやマルキとともにダビデのもとに支援物資を持ってきました。その後も彼は、ずっとダビデとその部下たちを養い続けました。彼は非常に裕福な人でしたが、その自分の莫大な富を、ダビデたちに使ってもらいたいと思ったのです。自分のためではなく、人の益のために財産を用いました。「天に宝を積みなさい」と主イエスが言われたのに通じるものがあります。

そのバルジライに、ダビデは、ぜひ一緒に来てほしい、エルサレムのもとで彼を養いたいと申し出ましたが、彼はダビデの申し出を断りました。たいへん年をとっていたからです。彼は80歳になっていました。そのような者が行ったとしても、王の重荷になるだけです。そんなことはしたくない、自分は自分の町で、父と母の近くで死にたい。しかし、彼のしもべキムハムがいるので、ダビデにとって良いと思いことを、彼にしてほしいと言いました。

結局ダビデは彼の気持ちを受け入れ、キムハムを連れて行くことにし、バルジライには分かれの口づけをして、彼を祝福したので、彼は自分の町へ帰って行きました。

このバルジライは、死への備えが出来ていました。彼は自分の町で、自分の父と母の墓の近くで死にたいと言っています。使徒パウロⅡテモテ4章8節でこう言っています。「あとは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。その日には、正しいさばき主である主が、それを私に授けてくださいます。私だけでなく、主の現れを慕い求めている人には、だれにでも授けてくださるのです。」

私たちも、しっかりと死に備えた生き方をしていきたいと思います。バルジライは、ダビデに与えた以上のものを、ダビデから提供されていました。それと同じように、私たちが主イエスの御前に立つとき、義の栄冠という、この地上で与えたはるかにすばらしい祝福にあずかる者となるのです。

最後に、41~43節をご覧ください。

「41 するとそこに、イスラエルのすべての人が王のところにやって来て、王に言った。「われわれの同胞、ユダの人々は、なぜ、あなたを奪い去り、王とその家族に、また王とともにいるダビデの部下たちに、ヨルダン川を渡らせたのですか。」

42 ユダのすべての人々はイスラエルの人々に答えた。「王は、われわれの身内だからだ。なぜ、このことでそんなに怒るのか。いったい、われわれが王の食物を食べたとでもいうのか。王が何かわれわれに贈り物をしたとでもいうのか。」

43 イスラエルの人々はユダの人々に答えて言った。「われわれは、王のうちに十の分を持っている。だからダビデにも、あなたがたよりも多くを持っている。なぜ、われわれをないがしろにするのか。われわれの王を連れ戻そうと最初に言い出したのは、われわれではないか。」しかし、ユダの人々のことばは、イスラエルの人々のことばより激しかった。」

ダビデは、ヨルダン川を渡り、西岸のギルガルへ進みました。ユダのすべての民とイスラエルの民の半分がともに進みました。

そのとき、イスラエルのすべての人がダビデのもとにやって来て、抗議しました。それは、ユダの人々が自分たちに相談なしでダビデ王をエルサレムに戻そうとしているということに対してでした。つまり、自分たちが無視されているということです。

それに対して、ユダの人々は反論します。ダビデは自分たちの身内だから親しく付き合うのは当然だと。同族関係を強調するユダの人々に対して、イスラエルの人々は10の部族という数の大きさと、王を連れ戻そうと最初に行ったのは自分たちだと、時間的優位性を主張しました。かくして、この論争は、激しい論争へと発展していきました。声が大きかったのは、ユダの人々の方でした。

しかし、ダビデにとっては、どちらも神の民です。しかし、往々にしてこのような醜い争いが教会の中でも起こることがあります。コリントの教会のように、私はパウロにつく、私はペテロにつく、いやバルナバに、いや私だけがキリストにつく者だ、と仲間割れをするのです。けれども、まことの主である王であるイエス・キリストは、そのように自分たちの優位性を誇るようなお方ではありません。私たちは、キリストの体の一部にすぎず、大切なのは頭であられるキリストの心に従うことです。たとえ自分に言い分があると思えるような時でも、キリストにある愛と柔和と謙遜をもって互いに仕え合わなければなりません。箴言15章1節には、「柔らかな答えは憤りを鎮め、激しいことばは怒りをあおる。」とあります。激しいことばではなく、柔らかな答えをもって憤りを静める、そんな者にさせていただきたいと思います。