Ⅱサムエル記22章

 Ⅱサムエル記22章に入ります。これは、ダビデの賛歌です。彼が晩年になり、自分の生涯をふりかえり、そこに主がおられたことを知り、主を讃美している歌です。この歌は、詩篇18篇とほとんど同じです。ここに書かれたものが原型で、それが礼拝用に一部修正されて詩篇18篇になったものと思われます。

 Ⅰ.祈りに答えてくださる主(1-7)

 まず、1~7節をご覧ください。「1 主がダビデを、すべての敵の手、特にサウルの手から救い出された日に、彼はこの歌のことばを主に歌った。2 彼は言った。「主よ、わが巌、わが砦、わが救い主よ、3 身を避ける、わが岩なる神よ。わが盾、わが救いの角、わがやぐら、わが逃れ場、わが救い主、あなたは私を暴虐から救われます。4 ほめたたえられる方、この主を呼び求めると、私は敵から救われる。5 死の波は私を取り巻き、滅びの激流は私をおびえさせた。6 よみの綱は私を取り囲み、死の罠は私に立ち向かった。7 私は苦しみの中で主を呼び求め、わが神に叫んだ。主はその宮で私の声を聞かれ、私の叫びは御耳に届いた。」

これは、主がダビデを、すべての敵の手、特にサウルの手から救い出された日に、彼が主に歌った賛歌です。

2~4節の中でダビデは、九つの神の性質を挙げ、それゆえに神を称えています。それは主は巌であり、砦、救い主、巌なる神、砦、救いの角、やぐら、逃れ場、そして救い主であるということです。特に注目していただきたいことは、これらの神の性質を挙げる前に、「わが巌」とか「わが砦」とあるように、必ず「わが」という語が付けられていることです。つまり彼は単に神がそのような方であると知っていたというだけでなく、自分の体験として知っていたということです。それほど身近な存在として感じていたのです。使徒パウロは2コリント1章10節でこのように語っています。「神は、それほど大きな死の危険から私たちを救い出してくださいました。これからも救い出してくださいます。私たちはこの神に希望を置いています。」パウロも、自分の経験として、神は救い主であると知っていました。だから、これからも救い出してくださると信じることができ、この神に希望を置くことができたのです。私たちに必要なのは、私たちの神がどのような方であるかを体験として知ることです。そして、この方に身を避けることです。そのことによって神をもっと身近な存在として感じ、この神に望みを置くことができるようになります。

次にダビデは、答えられた祈りを思い起こして、神をたたえています。5~7節です。「5 死の波は私を取り巻き、滅びの激流は私をおびえさせた。6 よみの綱は私を取り囲み、死の罠は私に立ち向かった。7 私は苦しみの中で主を呼び求め、わが神に叫んだ。主はその宮で私の声を聞かれ、私の叫びは御耳に届いた。」

ダビデは何度も絶望を経験してきました。ここにはそれを4つの言葉で表現しています。それは「死の波」、「滅びの激流」、「よみの綱」、「死の罠」です。つまり、死の恐怖におののくこともが何度もあったということです。しかし、その苦しみの中で彼が主を呼び求めると、主はその宮で彼の祈りを聞かれ、助け出してくださいました。

どんな信仰の偉人であっても、例外なしに信仰の試みに会います。皆さんはハドソン・テーラーという信仰の偉人を知っていますか?ハドソン・テーラーは、チャイナ・インランド・ミッション(中国奥地宣教教会)の創設者として知られています。また、自らも宣教師として中国に出かけ、そこで大きな働きをしました。そんなテーラーも、宣教活動のきびしさの中で挫折し、落ち込むことがありました。

毎日、罪と失敗におののきながら力不足を感じていました。「強い信仰を持つにはどうすればいいのだろうか」と考えていたとき、英国にいる友人のマッカーシーから手紙が届きました。彼は、テーラーが悲嘆に暮れていることも知らずに、こう書いて来ました。

「ハドソン、信仰を強めるためには、どうしたらよいのかと考えたことはないか。この間、祈っていて示されたことを分かち合おうと思う。我々は、信仰を強めようとして、つい頑張って努力しようとするが、そうではない。努力するのではなく、真実なお方に寄りかかること。これが信仰を強くする秘訣なんだ。」

神が友人の手紙を通して語ってくださったようでした。この手紙によって信仰の神髄に触れたテーラーは、「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。」(2テモテ2:13)というみことばを思い出し、再び信仰の高嶺に向かって登り始めることができたのです。

私たちも、今までに主が私たちの祈りに答えってくださったことを思い起こし、主に感謝し、主の御名をたたえましょう。それが将来を力強く生きる秘訣です。これまであなたを支えてくださった神は、これからもあなたを支え続けてくださいます。「ほめたたえられる方、この主を呼び求めると、私は敵から救われる。」のです。

 Ⅱ.ケルビムに乗って来られる主(8-16)

次に、8~16節までをご覧ください。「8 地は揺るぎ、動いた。天の基も震え、揺れた。主が怒られたからだ。9 煙は鼻から立ち上り、その口から出る火は貪り食い、炭火は主から燃え上がった。10 主は、天を押し曲げて降りて来られた。黒雲をその足の下にして。11 主は、ケルビムに乗って飛び、風の翼の上に自らを現された。12 主は、闇をご自分の周りで仮庵とされた。水の集まり、濃い雲を。13 御前の輝きから、炭火が燃え上がった。14 主は天から雷鳴を響かせ、いと高き方は御声を発せられた。15 主は矢を放って、彼らを散らし、稲妻を放って、かき乱された。16 こうして、海の底が現れ、地の基があらわにされた。主のとがめにより、その鼻の荒い息吹によって。」

ここには、主がダビデの祈りに答えて自然界に介入され、敵を打ち破られた様子が記されてあります。8節には、「地がゆるぎ、動いた。天の基も震え、揺れた。」とあります。主が怒られたからです。その主の怒りがどのようなものであったのかが、16節までずっと説明されています。

しかし、これは単に主が自然界に介入されダビデを救い出したというだけでなく、将来主が再臨される時に起こることを預言しているのです。たとえば、10節には「主は、天を押し曲げて降りて来られた。黒雲をその足の下にして。」とあります。また、11節には「主は、ケルビムに乗って飛び、風の翼の上に自らを現された。」とあります。これも主が再臨される時のことです。というのは、黙示録19:11にもその時のことが預言されていますが、それと同じ内容となっているからです。黙示録19:11には「また私は、天が開かれているのを見た。すると見よ、白い馬がいた。それに乗っている方は「確かで真実な方」と呼ばれ、義をもってさばき、戦いをされる。」とあります。この記述からキリストは白い馬に乗って来られると一般的に考えられていますが、これは文字通りの白い馬のことではなく、実はこのケルビムのことです。このケルビムについてはエゼキエル書1章にその姿が描写されていますが、その姿は人間のような姿をしていた、とあります。しかし、四つの顔と四つ翼を持っていたとあります(エゼキエル:5-6)。何とも言えない姿ですが、これがケルビムです。そういえば、イスラエルが幕屋を作るようにと神から示されたとき、契約の箱を覆う「宥めの蓋」の両端に、このケルビムを作るようにとありました。その二つのケルビムは両翼を上の方に広げ、向かい合うようにし、宥めの蓋の方を向くようにしました(出エジプト記25:17-22)。そこに神のことばであられるキリストがおられるからです。主はそのケルビムの間からご自身のことばを語られたのです。ですから、これらのケルビムはキリストに仕える天使なのです。そして、キリストはやがてこのケルビムの翼の上に自らを現わされるのです。

そしてキリストがケルビムに乗って再び来られるとき、神に敵対する者たちを厳しくさばかれるのです。それが13~16節にある描写です。「御前の輝きから、炭火が燃え上がった。主は天から雷鳴を響かせ、いと高き方は御声を発せられた。主は矢を放って、彼らを散らし、稲妻を放って、かき乱された。こうして、海の底が現れ、地の基があらわにされた。主のとがめにより、その鼻の荒い息吹によって。」

つまり、神が今までダビデのためになされた解放のみわざは、将来神がキリストを信じる者たちのためにしてくださる解放のわざの「型」となっているのです。神はダビデが死の苦しみにあった時そこに介入して彼を救い出されたように、この歴史に介入され、ご自身の民であるクリスチャンを完全に解放してくださるのです。新約の時代に生きている私たちは、過去から学び将来を確信するという特権が与えられています。キリストに信頼する者たちの勝利は保証されていることを覚え、キリストの再臨を確信して、信仰をもって今の時を生きていこうではありませんか。

 Ⅲ.義に報いてくださる方(17-25)

 次に、17~25節をご覧ください。「17 主は、高い所から御手を伸ばして私を捕らえ、大水から、私を引き上げられました。18 主は、力ある敵から私を救い出されました。私を憎む者どもからも。彼らは私より強かったのです。19 私のわざわいの日に彼らは立ちはだかりました。けれども、主は私の支えとなられました。20 主は私を広いところに連れ出し、私を助け出されました。主が私を喜びとされたからです。21 主は、私の義にしたがって私に報い、手のきよさにしたがって顧みてくださいました。22 私は主の道を守り、私の神に対して悪を行いませんでした。23 主のすべてのさばきは私の前にあり、主の掟から、私は遠ざかりませんでした。24 私は主に対して全き者。自分の咎から身を守ります。25 主は私の義にしたがって顧みてくださいました。御目の前の、私のきよさにしたがって。」

ここでダビデは、再び自分の時代に戻り、主がどのようにして自分を救ってくださったのかを語っています。まず主は、高い所から、御手を伸ばして捕らえ、大水から、彼を引き上げてくださいました。高い所とは、主がおられる天のことを指しています。そこから彼のいるところに下ってくださり、御手を差し伸べて彼を捕らえてくださったのです。

「大水」とは比喩的な表現で、数々の苦難を指しています。そのようにして主は、力ある敵から彼を救い出してくださったのです。そして、広いところへ連れ出し、彼を助け出されました。「広いところ」とは、安全な場所、安心できる場所のことです。そこへ連れ出してくださったのです。

これが、私たちの主イエスがなしてくださることです。ローマ8章31節で、「では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」とあります。神が私たちの味方であるなら、だれも私たちをキリストにある神の愛から引き離すことはできません。主があなたのためにしてくださった数々の守りと救いのみわざを思い出し、ダビデの賛歌に合わせて主にほめ歌を歌いましょう。

21節~のところをご覧ください。ダビデは、「主は、私の義にしたがって私に報い、手のきよさにしたがって顧みてくださいました。」と言っています。また22節では「私は主の道を守り、私の神に対して悪を行いませんでした。」と言っています。23節では「私は主の道を守り、私の神に対して悪を行いませんでした。」と言っています。24節では「私は主に対して全き者」とまで言っています。それゆえに主は、彼を顧みてくださったというのです。

どういうことでしょうか。ご存知のように、彼は数々の罪を犯しました。バテ・シェバとの姦淫やウリヤの殺害などはその最たるものです。それはダビデだけではなく、すべての人に言えることです。すべての人は罪を犯したので神からの栄誉を受けることができず・・・(ローマ:23)とあるように、イエス様以外だれも自分が全き者であると言える人はいません。それなのに彼はここで自分は主の道を守り、神に対して悪を行わなかったと言っているのです。そして、その義に従って、主は自分に報いてくださったというのです。

これは彼が全く罪を犯さなかった完全な人であったということではありません。ダビデはもちろん、その生涯の中で数々の罪を犯しました。失敗も多くしました。けれどもそうした個々の罪や失敗ではなく、全生涯を通じて彼はいつも主に喜ばれる歩みを目指し、義と聖を追い求め、罪と悪から身を守ろうとしました。主を愛していたからです。そのことが、「私の義」という言葉に現われているのです。ですから、罪を犯したとき彼は熱心に悔い改めたのです。

これは私たちにも言えることです。ダビデのように生涯主を愛し、主に喜ばれる生活を求めて生きる人には、その義にしたがって顧みてくださいます。確かに私たちは不完全な者で、日々罪を犯す者ですが、その罪を悔い改め、その全生涯の中で主に喜ばれる歩を目指し、義と聖を追い求め、罪と悪から遠ざかるなら、主はその義に報いて顧みてくださるのです。

Ⅳ.すべて主に身を避ける者の盾(26-31)

次に、26~31節までをご覧ください。「26 あなたは、恵み深い者には恵み深く、全き者には全き方。27 清い者には清く、曲がった者にはねじ曲げる方。28 苦しむ民を、あなたは救われますが、御目を高ぶる者に向け、これを低くされます。29 主よ、まことにあなたは私のともしび。主は私の闇を照らされます。30 あなたによって、私は防塞を突き破り、私の神によって、城壁を跳び越えます。31 神、その道は完全。主のことばは純粋。主は、すべて主に身を避ける者の盾。」

神が人間にどのような報いを与えてくださるかは、人間が神に対してどのような態度を取るかによって決まります。それが、恵み深い者には恵み深く、全き者には全き、清い者には清く、曲がった者にはねじ曲げる方」という聖句の意味です。

ダビテは神をさまざまなものにたとえて御名をほめたたえています。29節には「主よ、まことにあなたは私のともしびで、主は私の闇を照らされます。」とあります。主は「ともしび」であられます。私たちに方向性を示し、歩むべき道を示してくださる方なのです。

また、30節には「あなたによって、私は防塞を突き破り、私の神によって、城壁を跳び越えます。」とあります。「防塞」とか「城壁」とは戦いをイメージしていることばですが、さまざまな苦難や困難と解釈することができます。つまり、主は私たちに防塞を突き破り、城壁を跳び越える力を与えてくださるということです。私たちは神の力によってさまざまな困難に勝利することができるのです。

また、主は、すべて主に身を避ける者の盾です。31節に「神、その道は完全。主のことばは純粋。主は、すべて主に身を避ける者の盾。」とあります。どのようにして主に身を避けるのでしょうか。完全で、純粋な主のことばに信頼して、です。それは主ご自身が完全で、純粋であることを表しています。

私たちの人生には、自分の力だけではどうすることもできないような試練がやってきます。そのような時に必要なのは信仰によって超自然的な力を受け、それを武器として戦うことです。その武器とは、エペソ6章にある神が備えておられる武具のことですが、中でも御霊の剣である神のことばを取らなければなりません。神のことばは純粋であり、すべて主に身を避ける者の盾なのです。日々、主のことばである聖書を読み、祈りと信仰によって主からの語りかけに従順に歩むなら、自分の思いをはるかに超えた主の力に満たされることができます。

Ⅴ.神は力強い砦(32-46)

次に32~46節までをご覧ください。「32主のほかに、だれが神でしょうか。私たちの神のほかに、だれが岩でしょうか。33 神は私の力強い砦。私の道を全きものとされます。34 主は、私の足を雌鹿のようにし、高い所に立たせてくださいます。35 戦いのために私の手を鍛え、腕が青銅の弓も引けるようにされます。36 あなたは御救いの盾を私に下さいます。あなたの謙遜は私を大きくします。37 あなたは私の歩みを広げられ、私のくるぶしはゆるみません。38 私は、敵を追ってこれを根絶やしにし、絶ち滅ぼすまでは引き返しませんでした。39 私が彼らを絶ち滅ぼし、打ち砕いたので、彼らは立てず、私の足もとに倒れました。40 あなたは、戦いのために私に力を帯びさせ、向かい立つ者を、私のもとにひれ伏させました。41 あなたは、敵が、私を憎む者どもが私に背を見せるようにされました。私は彼らを滅ぼしました。42 彼らが主に目を留めても、救う者はなく、答えもありませんでした。43 地のちりのように、私は彼らを打ち砕き、道の泥のように、粉々に砕いて踏みつけました。44 あなたは、民の争いから私を助け出し、国々のかしらとして保たれました。私の知らなかった民が私に仕えます。45 異国の人々は私にへつらい、耳で聞くとすぐ、私に聞き従います。46 異国の人々は打ちしおれ、砦から震えて出て来ます。」

このような神がほかにいるでしょうか。私たちの神のほかに、だれが岩でしょうか。主は力強い砦です。私たちの道を全きものに、まっすぐにしてくださいます。主は、私たちの足を雌鹿のようにし、高いところに立たせてくださいます。「雌鹿のように」とは、崖をぴょんぴょん飛び跳ねて、高い所に登っていく様を表しています。それは戦いに勝利するための資質でもあります。35節の「戦いのために私の手を鍛え」とありますが、それも同じです。それによって青銅の弓も引けるようになります。

ダビデが御救いの盾をいただいたのは、主の恵みによるものでした。36節にある「あなたの謙遜は私を大きくします」と言っているのはそのことです。主は人の姿を取ってこの地に下ってくださるほど謙遜であられたので、ダビデは救いを受けることができました。

37節には「あなたは私の歩を広げられ」とありますが、これは大またで歩けるようになったという意味です。つまり、自由に行動できるようになったということです。

私たちも主イエスの謙遜を思い起こしましょう。キリストは神であられる方なのに神としてのあり方を捨てることはできないとは考えないで、自分を卑しくし、しもべの姿をとられ、自らを低くして、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。その謙遜のゆえに、私たちは救いを受けることができたのです。何という恵みでしょうか。

そればかりではありません。37~43節には、ダビデは敵を追ってこれを根絶やしにし、彼らを打ち砕いたので、彼らは立てず、ダビデの足もとに倒れました。これは主が戦いのためにダビテを強くし、ダビデに立ち向かう者たちを、彼の足もとにひれ伏させてくださったからです。その結果、敵は道の泥のように踏みつけられるだけでした。

また44~46節には、ダビデが異国の国々をも治める権威を得たことが記されてあります。これらのことはすべて主の恵みによってなされたことでした。

Ⅵ.ほむべきかな、わが岩(47-51)

最後に47~51節を見て終わります。「47主は生きておられる。ほむべきかな、わが岩。あがむべきかな、わが救いの岩なる神。48 この神は私のために、復讐する方。諸国の民を私のもとに下らせる方。49 神は、敵から私を携え出される方。あなたは、向かい立つ者から私を引き上げ、不法を行う者から私を救い出してくださいます。50 それゆえ、主よ、私は国々の間であなたをほめたたえます。あなたの御名をほめ歌います。51 主は、ご自分の王に救いを増し加え、主に油注がれた者ダビデとその裔に、とこしえに恵みを施されます。」」

最後にダビデは、「主は生きておられる。ほむべきかな、わが岩。あがむべきかな、わが救いの岩なる神」と力一杯主をほめたたえています。私たちの主は死んだ神ではありません。生きておられる神です。生きていて、私たちを敵の手から救い出してくださる方なのです。

それゆえ、ダビデは国々の間で主をほめたたえています。主の御名をほめ歌うのです。私たちも同じです。私たちの主は生きておられます。生きていて、私たちを不法を行う者から救い出してくださいます。主こそ、わが神、わが岩、わが救いの岩です。それゆえ、私たちも国々の間で主をほめたたえるのです。

主は、預言者ナタンを通してダビデに与えた契約を守り、とこしえに恵みを施される方です。ダビデは、「主は、ご自分の王に救いを増し加え、主に油注がれた者ダビデとそのすえに、とこしえに恵みを施されます。」と言っています。そのダビデのすえとして誕生するのが、主イエスです。

私たちの信じる神は、契約を守ってくださる方です。なんと素晴らしいことでしょうか。それゆえ、ダビデのように、私たちも主にほめ歌を歌おうではありませんか。

エレミヤ1章1~10節「エレミヤの召命」

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 今日からエレミヤ書に入ります。エレミヤは、1節にあるように、「ベニヤミンの地、アナトテにいた祭司の一人、ヒルキヤの子」でした。アナトテは、エルサレムの北東約4キロに位置する寒村です。昔から祭司たちが住み、祭司の村として知られていました。エレミヤは、その祭司の一人ヒルキヤの子として生まれました。すなわち、彼は子供のときから神に対する敬虔な態度を培われ、神の律法をよく学んでいたということです。

 このエレミヤに主のことばがありました。それはユダの王、アモンの子ヨシヤの時代のことで、その治世の第十三年のことでした。ヨシヤは8歳で王として即位したので、その治世の13年というのは、ヨシヤが21歳の時であったことがわかります。それはB.C.627年のことでした。その年にエレミヤに主のことばがあったわけです。

それはさらに、ユダの王、ヨシヤの子ゼデキヤの第十一年の終わりまで、すなわち、その年の第五の月にエルサレムの民が捕囚としてバビロンに連行される時まで続いたとあります。いわゆるバビロン捕囚です。捕囚の民としてバビロンに連れて行かれたという出来事です。それはB.C.586年のことですから、エレミヤの預言者としての活動は、B.C.627年からB.C.586年までの、実に41年間であったということになります。長いですね。

 彼が預言者として活動していた時期はどのような時であったかというと、イスラエルの歴史において最も暗黒な時代であった言えるでしょう。霊的にも、道徳的にも、社会的にも堕落しており、その結果、バビロンという国に捕囚の民として連れて行かれることになったのですから。エレミヤが預言者として活動を始めた時はヨシヤ王の時代でした。彼は非常に善い王様で、父アモンによってもたらされた偶像を神殿から廃棄し、祭司ヒルキヤによって発見されたモーセの書を民の前で朗読するなどして宗教改革に取り組み、イスラエルの民を神に立ち返らようとしました。

しかしそれは長くは続かず、イスラエルは再び主に背き、元の状態に戻ってしまったのです。3節にヨシヤの子エホヤキムとありますが、彼は神のことばをストレートに語るエレミヤを鬱陶(うっとう)しく思い、激しく弾圧しました。その結果、エルサレムはバビロンの王ネブカデネザルによって陥落し、ついにはエルサレムの民がバビロンに連行されて行かれることになってしまったのです。これがバビロン捕囚という出来事です。

聖書には年代として覚えておきたいいくつかの出来事がありますが、その一つがこのB.C.586年のことです。ちなみに、他に覚えておきたい出来事、年代としては、たとえばアブラハムが神に示された地に出て行けということばを受けて、告げられたとおりに出て行ったという出来事があります。創世記12章にありますが、それはB.C.2,000年頃のことです。それから、モーセがイスラエルの民をエジプトから解放した出来事、出エジプトですね、これはB.C.1,400年頃のことです。さらに今祈祷会でちょうどやっているところですが、ダビデがイスラエルとユダを統一して王国を築いた出来事、これはB.C.1,000年頃のことです。また、その子ソロモンによってイスラエルが分裂した出来事、これはB.C.931年のことです。そしてイスラエルの分裂後、北イスラエル王国がアッシリヤによって滅ぼされた出来事、B.C.722年です。そしてこの南ユダ王国がバビロンによって捕囚の民となった出来事です。これを以ってエルサレムの民はバビロンに連れて行かれ、そこで70年の時を過ごすことになるのです。

その時の最後の王がゼデキヤでした。彼は両目をえぐられて、バビロンに連行されました。この出来事は、イスラエルの歴史において一大転機となります。かつてイスラエルがエジプトの奴隷として430年間囚われていたように、70年間他国に支配され、奴隷の民として過ごすことになったからです。最終的にそれは、罪の奴隷として罪の支配の中にあった私たちを救ってくださるイエス・キリストの救いにつながっていくのです。エレミヤはまさにこのバビロン捕囚を預言し目撃する人物として神から遣わされたのです。

それは本当に嘆かわしい出来事でした。その中でエレミヤは涙をもって、神のことばを語り続けました。エレミヤが「涙の預言者」と呼ばれる所以はここにあります。それは、ユダヤ人の宗教指導者と対峙し、激しい言葉を使いながら涙を流されたイエス様の姿でもあります。「エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者よ。わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。それなのに、おまえたちはそれを望まなかった。」(マタイ23:37-38)

そしてそれは、神に背を向けて自分勝手に生きている現代の私たちに対する神の叫び、神の心でもあります。私たちは、このエレミヤを通して語られる神のことばを私たちに対する神からの涙のメッセージとして受け止め、神のみこころは何かを学び、神のみこころに歩む者でありたいと願わされます。

 Ⅰ.エレミヤの召命(4-5)

 では、エレミヤが預言者として召された出来事を見ていきましょう。4節と5節をご覧ください。「次のような主のことばが私にあった。「わたしは、あなたを胎内に形造る前からあなたを知り、あなたが母の胎を出る前からあなたを聖別し、国々への預言者と定めていた。」」

 すごいことばですね。エレミヤは、生まれる前から預言者として定められていました。彼は祭司の子どもとして生まれたので祭司として召されていたというのならわかりますが、祭司としてではなく預言者として定められていました。預言者とは、言葉を預かると書きますが、文字通り神の言葉を預かり、それを語る人のことです。

 それは彼が母の胎内に形造られる前からのことでした。神は彼を、胎内に形造られる前から知っておられました。この「知る」ということばは、へブル語で「ヤーダー」と言います。皆さんは「ヤーダー」と言わないでください。神に知られているということはすばらしいことなのですから。あなたも生まれる前から神に知られていました。この「知る」ということばは、夫が妻を知るという時に使われることばで、夫婦の性的関係を持つ時に用いられることばです。それほど親密なレベルで知っているということです。ただ情報として知っているというだけでなく、本当に親密なレベルで人格的に、経験的に知っているのです。そのように神はあなたのすべて知っておられるのです。あなたが胎内に形造られる前から。

そして母の胎を出る前から、国々への預言者として定めておられました。この時点で彼はそのことを知りませんでした。しかし、時至って彼はそのことを知ることになります。10章23節で彼はこう告白しています。「主よ、私は知っています。人間の道はその人によるのではなく、歩むことも、その歩みを確かにすることも、人によるのではないことを。」

人間の道とは人の一生のことですが、人の一生はその人によって決まるのではなく、神の御手の中にあり、神によって定められているのです。皆さんもまさか自分がクリスチャンになってここにいるようになるなんて考えたこともなかったでしょう。だれも知りません。でも神はすべてのことを知っておられます。そして、その歩みを確かなものにしてくださるのです。

 それは私たちも同じです。私たちがクリスチャンになることは、私たちが生まれる前から、神によって定められていたことなのです。エペソ1章4節には、「すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。」(エペソ1:4)とあります。私たちは、生まれる前から、いや、世界の基が据えられる前から、クリスチャンになるように選ばれていたのです。このようになるようにと定められていたのです。

このようなことを申し上げると、中には私はロボットではない。一人の人格を持った人間であり、何をするかといった選択の自由が与えられているのであって、定められていたというのはおかしいと言う方がおられます。しかし、そうした選択さえも予め定められているのであって、私たちがどこにあってもキリストを信じるように導かれていたのです。ですから今皆さんがここにいるのも決して偶然ではないのです。

私は18歳の時に今の妻と出会い、クリスチャンになりました。どうして妻に出会ったのかを考えても本当に不思議だなぁと思います。全く考えられないことでした。しかし、今になって思うことは、エレミヤが、「主よ、私は知っています。人間の道はその人によるのではなく、歩むことも、その歩みを確かにすることも、人によるのではないことを。」と告白したように、すべてが主の導きによるものであったということです。綾小路きみまろの「あれから40年!」というフレーズが有名ですが、私のあれから40年も、まさに主の導きによるものであったと実感するのです。決して「偶然」ではなかった。そうです、人の一生は生まれる前からすでに神のみ手にあり、その使命は定められているのです。

ある夕方、ひとりの大学教授が机に向かって翌日の講義の準備をしていました。家政婦が置いていった書類や手紙に目を通しながら、不要なものをくずかごに捨て始めたとき、ある雑誌が目に留まりました。それは、彼の事務所に誤って配達された雑誌でした。それが床に落ちたとき、たまたまその雑誌の中の「コンゴ伝道の必要性」という記事が載ったページが開いたのです。教授は何とはなしにその記事を読み始めると、そのとき、このことばが彼の心をとらえました。

「コンゴでの必要性は大きい。中央コンゴの北部、ガボン州を担当する人がいない。この記事を書きながら、わたしはこう祈っている。主イエスは、このために召された人物の上に、すでにその目を注いでおられる。今こそ神がその人物の上に手を置き、私たちを助けるために彼をこの地に派遣してくださるように。」

雑誌を閉じた教授は、その日の日記に書き記しました。「私の探求は終わった。」

彼はコンゴに身をささげることにしました。この教授の名前はアルバート・シュバイツァーです。この小さな記事は、他人宛ての雑誌の中に潜んでいたものでした。その雑誌が、誤ってシュバイツァーの郵便受けに入れられていたのです。さらに、家政婦が偶然にもそれを教授の机の上に置きました。そして偶然にも教授がその記事のタイトルに気付きました。まるでタイトルの方が彼の目に飛び込んで来たかのようでした。

シュバイツァー博士は、人道主義的な分野で、20世紀を代表する偉大なひとりとなりました。彼の功績は、人類の歴史上、ほとんど他に類を見ないほどのものです。これは偶然に起こったのでしょうか。いや、これは神の摂理によるのです。(Dan Betzer 「Preaching Today.com」)

エレミヤは、自分は神から召されたのだという強い確信がありました。これが、いかなる困難に遭遇しても、それを乗り越えることができた理由です。神は、エレミヤが誕生する前から彼を預言者として選んでおられました。これは私たちにも言えることです。あなたは、自分が神から選ばれた者であることを知っていましたか。神が選んでくださったのであれば、最後まで必ず責任をもってくださいます。あなたは何も心配いりません。何も思い悩む必要はないのです。あなたに必要なのは、永遠の昔から神によって知られ、生まれる前から聖別され、神の栄光のために定められていると信じることなのです。

 Ⅱ.エレミヤの応答(6-8)

 次に、この神の召しに対するエレミヤの応答を見たいと思います。6~8節をご覧ください。「私は言った。「ああ、神、主よ、ご覧ください。私はまだ若くて、どう語ってよいか分かりません。」主は私に言われた。「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすすべてのところへ行き、わたしがあなたに命じるすべてのことを語れ。彼らの顔を恐れるな。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。主のことば。」私は言った。「ああ、神、主よ、ご覧ください。私はまだ若くて、どう語ってよいか分かりません。」」

 神の召命に対するエレミヤの応答は、「私はまだ若くて、どう語ってよいかわかりません」というものでした。この時エレミヤが何歳だったのかははっきりわかりませんが、預言者として立つにはまだ若いと言っていることから、恐らく20代前半位だったのではないかと思われます。そんな若者がどうやって語れというんですか。そんなの無理です、できるわけがありませんと、答えたのです。もしかすると彼は、祭司の子として生まれたこともあって、預言者として召されることにためらいがあったのかもしれません。あるいは、彼の時代からさかのぼること100年前に現れて神のことばを大胆に語った預言者イザヤと比較して、自分にはとてもそんな力はないと思ったのかもしれません。いずれにせよ、自分にはできませんと答えました。

それに対して、主は何と言われたでしょうか。7節をご覧ください。「主は私に言われた。「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすすべてのところへ行き、わたしがあなたに命じるすべてのことを語れ。」

「まだ若い、と言うな」、これは言い訳するな!ということです。できない理由をあげたらきりがありません。自分は若くて未熟な者です。まだ訓練が十分ではありません。自分は預言者としては不適格です。しかし、そのような言い訳は一切必要ありません。というのは、神がエレミヤを預言者として召されたのは、彼に能力があったからではなく、また、知識や経験があったからでもなく、神がそのように選ばれたのだからです。従って、彼に求められていたことは何かというと、能力や知識や経験があるということではなく、ただ神に従うことでした。神が遣わされるところであればどんなところでも行き、神が命じられたことであればそれをその通りに語ることです。すなわち、神のことばに忠実であることです。この預言者の資格について元東大総長の矢内原忠雄は、聖書講義の中で次のように言っています。

「預言者の資格は年令や人生の経験によるのではなく、素直に神の示されたものを見、語られることを聞き、命じられた言葉を告げる真実な心と純粋な信仰にあります。・・預言者は神の言葉を聞いて、これに加えることなく、また減らすことなく、そのまま純粋に伝えることを任務とするため、素直で真実な性格を要求され、人の顔を恐れない勇気を必要とします。」(矢内原忠雄、「聖書講義」8:580)

まさにその通りです。たとえ若かろうと老いていようと、才能があろうとなかろうと、口が重いとか軽いとかということとは全く関係なく、神の預言者に求められているのは、神の言葉を聞き、それをそのまま伝えることです。ですから、預言者に求められることは素直で真実であることなのです。また、人の顔を恐れない勇気です。ですから、8節に次のように勧められているのです。「彼らの顔を恐れるな。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。──主のことば。」」

 エレミヤの問題は、人の顔を恐れていたことでした。しかし神はいつもエレミヤとともにあって救い出してくれるから、人の顔を恐れるなと言われたのです。箴言29章25節には、「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。」とあります。人を恐れるとわなにかかります。しかし、主に信頼する者は守られます。どんなに強い確信をもっていても、失望する時は必ずやって来ます。そんな時エレミヤは、神との絶えざる交わりを通して、新しい力を得ていかなければならなかったのです。

あなたはどうですか。人の顔を恐れていませんか。恐れは、私たちの行動を束縛します。しかし、「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。」(Ⅰヨハネ4:18)とあるように、神の完璧な愛の前に、恐れは一瞬にして締め出されます。大切なのは、神様とともに歩むことです。

「リビングライフ」というディボーションガイドの古いものを見ていたら、数年前に天に召された韓国のオンヌリ教会のハ・ヨンシュ先生の「愛する人を慕うように」というタイトルの詩を見付けました。
「苦しみ自体は問題ではありません。神様がともにおられないことが問題です。苦痛がのろいではありません。神様がともにおられないことがのろいです。神様は神の人と毎日、毎時間、ともにおられる方です。
神様がともにおられると、恐れはありません。失敗しても、病気になっても問題ではありません。死さえも恐れなくなります。主とともにいると、すべてがうまくいきます。すべてがうまくいくとは、すべてのことがともに働いて益となるということです。苦しみが去っていくのではなく、苦しみを打ち破って、勝ち抜く力を持つことです。
「神様が私たちとともにおられる」と思うだけで、すべての責任を神様が取ってくださるような気がします。
それをまた別の視点で見て、「私たちが神様とともにいる」と考えると、私たちは神様を忘れてはならないということになります。たとえ苦痛や悩みがあっても、私たちの中には神様がおられます。一日を神様ともに始めてください。そして、一日中ともに行動してください。いつも神様のことを考えてください。神様のことを考えることが、神様とともに行動することです。それは私たちの特権です。
(ハ・ヨンジュ、「愛する人を慕うように」リビングライフ2010年4月号)

すばらしいですね。神とともにいるなら、恐れは全くありません。死さえも恐れなくなるというのはすごいことです。私たちにとって最も重要なのは、この神とともにいることです。神とのつながりを通して、日々新しい力を受けようではありませんか。人の顔を恐れないで、神に信頼しましょう。

Ⅲ.エレミヤの使命(9-10)

第三に、エレミヤに与えられた使命です。9~10節をご覧ください。「そのとき主は御手を伸ばし、私の口に触れられた。主は私に言われた。「見よ、わたしは、わたしのことばをあなたの口に与えた。見なさい。わたしは今日、あなたを諸国の民と王国の上に任命する。引き抜き、引き倒し、滅ぼし、壊し、建て、また植えるために。」」

そのとき主は御手を伸ばし、エレミヤの口に触れられました。これは、イザヤが召命を受けたときの状況に似ています(イザヤ6:7)。それは彼の口がきよめられたことを表しています。それは、神のことばを語るのにふさわしい者となったということです。そんなエレミヤに対して主が言われたことは、「見よ、わたしは、わたしのことばをあなたの口に与えた。」ということでした。それは、何を話そうかと自分で考えたり、自分で編み出す必要はないということです。神が与えてくださったことばを語るだけでいいのです。預言者とは「言葉」を「預かる」と書きますが、文字通り神の言葉を預かって語る人のことです。自分がどう思うか、どう考えるかということではなく、神が語れと言われることを語ればいいのです。それは聖書に書いてありますから、聖書のことばを語るだけでいいのです。神は、その語るべきことばさえも与えてくだいます。

忘れもしません。私は1983年5月29日の日曜日の礼拝から、ほとんど毎週休みなしで語り続けてきました。それは私たちが結婚した翌日のことでよく覚えています。その前日の土曜日に結婚式を挙げて新婚旅行に行きましたが、翌日は家に戻って来て礼拝をスタートしました。あれから38年。まあよく喋ること、お父さんは口から生まれて来たんじゃないかとよく娘に言われますが、そんなことはありません。私は生まれた時から口が重く、口べたなんです。できれば、貝のように口を閉ざし、ずっと黙っていたいと思っているくらいなんで。誰も信じないかもしれませんが本当です。ただⅡテモテ4章2節の「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」のみことばを読んだとき、「ああ、時が良くても悪くても」語らなければならないと思いました。その使命感だけでずっと語り続けています。できれば、もっと流暢に、もっとおもしろく、もっと感動的な話ができたらなぁと思うこともありますが、そんなの関係ありません。預言者である牧師にとって必要なことはいかに上手に話をするかではなく、主が語れと言われたことを忠実に語ることだからです。何を話すのか、どのように話すのかは全く関係ないのです。語るべきことばは、主が与えてくださいますから、そのことばをストレートに語るだけでいいのです。それが私たちにゆだねられている使命なのです。

では、主がエレミヤに語られたのはどんなことだったでしょうか。10節をご覧ください。ここには、「見なさい。わたしは今日、あなたを諸国の民と王国の上に任命する。引き抜き、引き倒し、滅ぼし、壊し、建て、また植えるために。」とあります。

これはどういうことかというと「破壊」と「建設」です。「さばき」と「回復」です。エレミヤが神のことばとしてイスラエルの民に語ったことは、イスラエルの滅亡の預言と、悔い改めのメッセージでした。罪の悔い改めがなければ、神の赦しと回復はありません。まず引き抜き、引き倒し、滅ぼし、壊します。しかし、それで終わりではありません。主はそこからまた建て、植えられるのです。引き抜かれることがありますが、また植えられます。壊すことがありますが、また建て直してくださいます。言い換えるなら、もしあなたが今、引き抜かれ、引き倒されているような状況に置かれているなら、それはやがて植えられるために必要な過程を通されているということです。その中でこそあなたは悔い改め、やがて植えられることになるからです。ここに真の回復と希望があります。真の回復と希望は、こうした罪の悔い改めの結果もたらされるものであって、それを避けてはならないのです。

ある有名な映画女優が、仕事と遊びに忙しくて、家をあけてばかりいました。家には十代後半の娘がひとり、お手伝いさんといっしょに暮していました。それでも自分が母親だということは自覚していた母親は、その娘の誕生日に、旅先のローマからすばらしい花びんを送ったのです。ところがその花びんが届くと、娘はそれを床の上に投げつけて言いました。「私がほしいのは花びんじゃない。ママなのよ!」母親から離れてしまった子供は、たとえどんなにすばらしいものをたくさん持っていたとしても不幸です。ちょうど同じように、私たちは自分を創ってくださった神から離れては、どんなに財産があっても、地位が高くても、また名誉を与えられていても、本当に幸福にはなれないのです。(羽鳥順二著、「初めて聖書を開く人のための12のステップ」P48)

私たちもこの映画女優のような仕方で、幸福を得ようしてはいないでしょうか。神から離れたままでは真の幸福を得ることはできません。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄光を受けることができず・・・」(ローマ3:23)とあります。神から離れているという事実がわからないで、どうやって神のもとに帰ることができるでしょうか。言い換えるなら、自分が罪人であるという自覚がなければ、きよい神を知ることができないということです。先ほどの矢内原忠雄氏はこう言っています。「望遠鏡を用いないで天文学の研究をすることが愚かであるように、自分自身の罪を通さずに神を見ようとする者はおろかなことである。」

また、宗教改革者のカルヴァンも「人間の罪深さを知らないで、どうしてきよい神を知ることができようか」と言っています。そうです、私たちが自分は罪人だと気づいた時、次の聖書のことばの意味がよくわかるようになるのです。

「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(ローマ3:23-24)

真の回復は、破壊から始まります。真に植えられることは引き抜くことから始まるのです。罪の自覚と悔い改めなしには、真の赦しはありません。救いと希望はないのです。ですから主はエレミヤに、破壊と建設、さばきと回復のメッセージを語るようにと言われたのです。これが、私たちが語るべき福音のメッセージです。破壊的な働きは人からは好まれません。だれも聞きたくないからです。それで涙することもあるでしょう。でも、真の救いは罪の悔い改めから始まるということを覚えて、この福音のメッセージを語り続けましょう。「まだ若い」と言わないでください。主があなたを遣わすどんなところへでも行き、主があなたに命じるすべてのことを語ってください。彼らの顔色を恐れるな。主があなたとともにいて、あなたを救い出してくださるからです。

Ⅱサムエル記21章

 Ⅱサムエル記21章に入ります。

 Ⅰ.3年間続いた飢饉(1-6)

 まず、1~6節をご覧ください。「1 ダビデの時代に、三年間引き続いて飢饉が起こった。それで、ダビデは主の御顔を求めた。主は言われた。「サウルとその一族に、血の責任がある。彼がギブオン人たちを殺戮したからだ。」2 王はギブオン人たちを呼び出し、彼らに話した。このギブオンの人たちは、イスラエル人ではなくアモリ人の生き残りで、イスラエル人は彼らと盟約を結んでいた。だが、サウルはイスラエルとユダの人々への熱心のあまり、彼らを討とうとしたのである。3 ダビデはギブオン人たちに言った。「あなたがたのために、私は何をすべきであろうか。私が何をもって宥めを行ったら、主のゆずりの地が祝福されるだろうか。」4 ギブオン人たちは彼に言った。「私たちと、サウルおよびその一族との間の問題は、銀や金のことではありません。また、私たちがイスラエルのうちで人を殺すことでもありません。」ダビデは言った。「私があなたがたに何をしたらよいと思うのか。」5 彼らは王に言った。「私たちを絶ち滅ぼそうとした者、私たちを根絶やしにしてイスラエルの領土のどこにも、いさせないように企んだ者、6 その者の息子の七人を私たちに引き渡してください。私たちは主が選ばれたサウルのギブアで、主のために彼らをさらし者にします。」王は言った。「引き渡そう。」」

この21~24章までは、ダビデの晩年について記されてあります。1節には、ダビデの時代に、3年間引き続いて飢饉が起こった、とあります。カナンの地では雨は神の祝福を、飢饉は神のさばきを表していました。それで何かおかしいと、ダビデは主の御顔を求め、主に伺いを立てました。すると主の答えがありました。それは、「サウルとその一族に、血の責任がある。彼がギブオン人たちを殺戮したからだ。」ということでした。このことについてはここに触れられているだけでサムエル記には記録されていないので、実際にどの出来事を指して言われているのかわかりませんが、おそらく、サウルが周囲の敵と戦っているときにギブオン人らをも次々と殺戮したのではないかと思われます。しかしヨシュア記9章3節以下には、ヨシュアはこのギブオン人たちと契約を結んだことが記されてあります。ギブオン人たちはイスラエルがエリコとアイに対して行ったことを聞くと、遠い国からやって来たかのように装い、盟約を結ぶことを求めたのです。それは彼らがイスラエルの属国となってイスラエルに仕える代わりに、彼らを生かしておくというものでした。それでヨシュアは彼らと和を講じ、彼らを生かしておく盟約を結んだのです(ヨシュア9:15)。後で彼らは近くの者たちで、自分たちのたた中に住んでいるということがわかっても、主にかけて誓ったことなので、彼らを殺すことはしませんでした。それなのにサウルはこの契約を破り、ギブオン人を殺戮し、その地を汚してしまったのです。

それは許されることではありません。それでダビデはギブオン人たちを呼び出し、問題の解決に乗り出します。「あなたがたのために、私は何をすべきだろうか。何をもって宥めを行ったら、主のゆずりの地が祝福されるか」と。

すると彼らは、この問題は金銭で解決できるようなことではないこと、また、そのことで復讐して、イスラエル人を殺すことでもない、と答えました。ではどうすれば良いのか。彼らは言いました。5、6節です。「私たちを絶ち滅ぼそうとした者、私たちを根絶やしにしてイスラエルの領土のどこにも、いさせないように企んだ者、その者の息子の七人を私たちに引き渡してください。私たちは主が選ばれたサウルのギブアで、主のために彼らをさらし者にします。」

何だ、イスラエル人を殺すことではないと言いながら、殺そうとしているんじゃないですか。「さらし者にする」と言っているのですから。でもここで注目していただきたいのは、彼らは決して復讐心からこれを要求しているのではないということです。問題は、神の前でその契約が破られ、その結果約束の地が汚されてしまったことです。

民数記35章33節にこうあります。「あなたがたは、自分たちのいる土地を汚してはならない。血は土地を汚すからである。土地にとって、そこで流された血は、その血を流した者の血以外によって宥められることはない。」

「あなたがた」とは、イスラエル人たちのことです。主は彼らに、自分たちのいる地を汚してはならないと命じられていたのに、サウルはこの戒め破り汚してしまいました。それゆえに、彼らの土地は汚れたものとなってしまったのです。そこで流された血は、その血を流した者以外によって宥められることはなかったのです。それでダビデはそれに同意し、彼らをギブオン人に引き渡すことにしたのです。

この箇所を見ると、ある人は主エジプト記20章5節にある「父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、」と関連させ、先祖の罪の報いが子孫に及ぶと考える人がいますがそう意味ではありません。エゼキエル書18章20節に、エゼキエル書18章20節に「罪を犯した者は、その者が死に、子は父の咎について負い目がなく、父も子の咎について負い目がない。正しい者の義はその者に帰し、悪者の悪はその者に帰する」とある通りです。確かに先祖が犯した罪の悪影響をその子孫が受けることはありますが、その子孫が罪の負い目を受けることはないのです。

では、ここでサウルの罪のためにその子孫の血が宥めるとはどういうことなのでしょうか。それはイエス・キリストの十字架の犠牲です。この血に対して血をもって贖うという方法は、イエス・キリストの十字架を指し示していたのです。私たちの罪に対する神の呪いも、イエス様の血の犠牲がなければ宥められることはありません。私たちの罪の解決は、ただイエス様の血によってもたらされるのです。そのことを示していたのです。

 Ⅱ.天からの雨(7-14)

次に、7~14節までをご覧ください。「7 王は、サウルの子ヨナタンの子メフィボシェテを惜しんだ。それは、ダビデとサウルの子ヨナタンの間で主に誓った誓いのためであった。

8 王は、アヤの娘リツパがサウルに産んだ二人の息子アルモニとメフィボシェテ、それに、サウルの娘メラブがメホラ人バルジライの息子アデリエルに産んだ五人の息子を取って、9 彼らをギブオン人の手に渡した。彼らは、この者たちを山の上で主の前に、さらし者にした。これら七人は一緒に倒れた。彼らは、刈り入れ時の初め、大麦の刈り入れの始まったころ殺された。10 アヤの娘リツパは、粗布を手に取って、それを岩の上に敷いて座り、刈り入れの始まりから雨が天から彼らの上に降るときまで、昼には空の鳥が、夜には野の獣が死体に近寄らないようにした。11 サウルの側女アヤの娘リツパのしたことはダビデに知らされた。12 ダビデは行って、サウルの骨とその息子ヨナタンの骨を、ヤベシュ・ギルアデの者たちのところから持って来た。これは、ペリシテ人がサウルをギルボアで討った日に、二人をさらし者にしたベテ・シャンの広場から、ヤベシュ・ギルアデの者たちが盗んで行ったものであった。13 ダビデはサウルの骨とその息子ヨナタンの骨をそこから携えて上った。人々は、さらし者にされた者たちの骨を集めた。14 彼らはサウルとその息子ヨナタンの骨を、ベニヤミンの地のツェラにあるサウルの父キシュの墓に葬り、すべて王が命じたとおりにした。その後、神はこの国の祈りに心を動かされた。」

ダビデは、サウルの子ヨナタンの子メフィボシェテを引き渡すことを惜しみました。それは、ダビデとヨナタンの間で主に誓った誓いのためです(Ⅰサムエル20:14~16)。ダビデはそのヨナタンとの契約において、ヨナタンの子らを生かすことを約束していました。ダビテは、そのヨナタンとの誓いを重んじていたのです。

それで彼は、サウルのそばめでアヤの娘リツパがサウルに産んだ二人の息子アルモニとメフィボシェテと、サウルの娘メラブがメホラ人バルジライの息子アデリエルに産んだ5人の息子を、ギブオン人の手に渡しました。アヤの娘リツパは、サウルの死後将軍アブネルと通じたという過去がありました(3:7~8)。また、サウルの娘メラブはダビデの妻になる予定でしたが、アデリエルの妻になってしまったという経緯がありました(Ⅰサムエル18:17-19)。

これら7人は、大麦の刈り入れが始まったころに殺されました。アヤの娘リツパは、荒布を手に取って、それを岩の上に敷いて座り、昼は空の鳥が、夜は野の獣が死体に近寄らないように守りました。猛禽と野獣の被害から遺体を守ったのです。刈り入れの始まりは4月、雨季は10月です。その約半年間、彼女はずっと遺体を守ったのです。神の怒りをなだめるために差し出した自分の愛する二人の息子の死は、彼女にとってどれほど悲しく辛いことだったでしょう。それは私たちの神も同じです。ここに神の痛み、悲しみが表されています。「神は、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛さそれた。それは、御子を信じる者が一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16) 神は私たちの罪のために、そのひとり子イエスを与えてくださいました。その神の悲しみはいかばかりかと思うのです。しかし、そのひとり子によって神の怒りは完全に宥められたのです。それは、御子を信じる者が一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためだったのです。

そのことがダビデに知らされると、ダビデはヤベシュ・ギルアデに行って、そこに葬られていたサウルとヨナタンの骨を持って来て、さらし者にされた者たちの骨と一緒に、ベニヤミンの地のツェラにあるサウルの父キシュの墓に葬りました。これらのことはすべて、神を喜ばせました。ここに「その後、神はこの国の祈りに心を動かされた。」とある通りです。ダビデは、神との関係がしっかりしていました。自分が罪を犯しているのに、祈りを聞いてくださるわけがないことを、知っていたのです。それで罪を悔い改め、問題の解決のためにギブオン人の敵意を取り除き、和解したことで、主が祈りに答えてくださったのです。

あなたは神との平和がありますか。イエス・キリストが宥めとなってくださいました。その犠牲によって神との平和を得ることができます。ローマ5章1節に、「こうして、私たちの信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」とあります。私たちのちもイエス・キリストによって神との平和を持つことができます。その時神様は私たちの祈りに答えて心を動かされ、天から雨を降らせてくださるのです。

 Ⅲ.ダビデを助けた家来たち(15-22)

 最後に15~22節をご覧ください。「15 ペリシテ人が再びイスラエルに戦いを仕掛けたことがあった。ダビデは自分の家来たちを連れて下り、ペリシテ人と戦ったが、ダビデは疲れていた。16 ラファの子孫の一人であったイシュビ・ベノブは、「ダビデを討つ」と言った。彼の槍の重さは青銅で三百シェケル。そして彼は新しい剣を帯びていた。17 ツェルヤの子アビシャイはダビデを助け、このペリシテ人を打ち殺した。そのとき、ダビデの部下たちは彼に誓って言った。「あなたは、もうこれから、われわれと一緒に戦いに出ないでください。あなたがイスラエルのともしびを消さないために。」18 その後のこと、ゴブで再びペリシテ人との戦いがあった。そのとき、フシャ人シベカイは、ラファの子孫のサフを打ち殺した。19 ゴブでペリシテ人との戦いが再びあったとき、ベツレヘム人ヤイルの子エルハナンは、ガテ人ゴリヤテを打ち殺した。ゴリヤテの槍の柄は、機織りの巻き棒のようであった。20 再びガテで戦いがあったとき、手の指、足の指が六本ずつで、合計二十四本指の闘士がいた。彼もラファの子孫であった。21 彼はイスラエルをそしったが、ダビデの兄弟シムアの子ヨナタンが彼を打ち殺した。22 これら四人はガテのラファの子孫で、ダビデとその家来たちの手にかかって倒れた。」

ギブオン人との和解が果たせた後、ペリシテ人がイスラエルを攻めてきました。ペリシテ人は、イスラエルとの戦いに敗れイスラエルに従属する形になっていましたが、反逆の機会を伺う度に戦いを仕掛けてきたのです。ダビデは自分の家来たちを連れて、ペリシテ人と戦いに行きましたが、かなり疲れていました。武器を持って戦うには歳を取りすぎていたのです。

この戦いで、ラファの子孫の一人イシュビ・ベノブは、「ダビデを打つ」と言いました。彼の子孫は巨人で有名な人たちで、あのゴリヤテもそうでした。つまり、彼はゴリヤテの親族だったのです。そのとき、ダビデを救ったのが甥のアビシャイです。アビシャイはダビデを助け、このペリシテ人を打ち殺しました。そのとき、ダビデの部下たちはダビデに、もうこれからは戦いの前線に出ないようにと懇願しました。ここで彼らは「あなたがイスラエルのともしびを消さないために」と言っています。まさに、ダビデの存在こそ、イスラエルのともしびそのものだったのです。

このところは教えられますね。「何をなすべきか」は重要なことですが、それ以上に重要なことは「いかにあるべきか」ということです。人々はダビデが戦果を挙げるよりも、そこにいてくれることをより望んでいたのです。私も「いつでも夢を」と、いつまでも最前線に立って主のために奮闘していきたいと願っていますが、それが必ずしも良いことかどうかは別です。もっと重要なのは、自分の存在そのものです。自分の存在が周りの人たちのともしびを燃やし続けているかどうかということです。あなたの存在はどうでしょうか。周りにどのような影響を与えているでしょうか。考えてほしいとい思います。存在していることに価値があると評価されるような人生を目指したいものです。

その後もペリシテ人との戦いが続きます。その後ゴブでペリシテ人と戦ったときは、フシァイ人シベカイが、ラファの子孫のサフを打ち殺しました。また、再びゴブで戦いがあったときには、ベツレヘム人ヤイルの子エルハナンが、ガテ人ゴリヤテを打ち殺しました。実際にはゴリヤテではなく、ゴリヤテの兄弟ラフミのことです。彼はゴリヤテのように巨人で、槍の柄は、機織りの巻き棒のようでしたが、その巨人を打倒したのです。

また、再びガテで戦いがあったときには、何と手の指と足の指がそれぞれ6本ずつ、合計24本の闘士がいました。彼もラファの子孫でした。彼はイスラエルをそしったりしましたが、ダビデの兄弟シムアの子のヨナタンが彼を打ち殺しました。

これら4人のラファの子孫は、イスラエルに攻めて来ましたが、ダビデの家来たちの手にかかって倒れました。このようにして、ダビデは弱まっていましたが、その家来たちが見事にペリシテ人の巨人らを倒すことができたのです。ダビデは自分の下で仕えている家来たちに助けられ、敵に勝利することができたのです。

パウロは若き伝道者テモテに、教える能力がある忠実な人たちにゆだねなさい、と言いましたが、私たちも自分にできることには限界があります。やがて働くことができない日がやって来ます。しかし、ダビデの家来たちのように、彼を助ける存在がいれば大丈夫です。私たちが最前線で戦うことも重要ですが、その働きを担うことができるように後継者を育てることも重要なのです。私たちはなかなか自分の働きをゆだねることができない弱さを持っていますが、むしろそのような人たちにゆだねることでさらに主の働きが力強く前進していくことを覚え、後継者の育成に力を注いでいくことに力を注いでいきたいと思います。

雅歌8章1~14節「主イエスよ、来てください」

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 雅歌からの最後のメッセージです。雅歌の最後の最後は、「私の愛する方よ、急いで来てください。」という花嫁のことばで終わっています。聖書の一番最後はヨハネの黙示録ですが、その最後も同じです。花婿であるキリストに対する花嫁のことば、キリストの花嫁であるである教会のこのことばで終わっています。「主イエスよ、来てください。」(黙示録22:20)

ここに、私たちの見るべき目標があります。私たちはどこに向かって走るのか、何のために走るのかを知ることはとても重要なことです。聖書はそれを、主イエス・キリストを待ち望むことであると言っているのです。使徒パウロもこのように言っています。

「しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。」(ピリピ3:20-21)

彼の生きる目標は何だったのでしょうか。それは天の御国でした。そこから主イエスが救い主として再び来られるのを待ち望んでいたのです。なぜなら、そのとき主イエスは私たちの卑しいからだを、栄光に輝くキリストのからだと同じ姿に変えてくださるからです。これが花嫁である教会、私たちクリスチャンの究極の目標です。

この地上にあっては艱難があります。様々な災害があれば病気もあります。私たちはその度に悩み、苦しみ、最後にはその生涯を終えるのです。であれば、いったいどこに生きる意味があるというのでしょうか。私たちは何のために生きるのでしょうか。それはこの地上を越えた天の御国、キリストの再臨を待ち望むことにあるのです。私たちも「主イエスよ、来てください。」という再臨の信仰をもって主を待ち望まなければなりません。

 Ⅰ.私は城壁、その乳房はやぐらのよう(8-10)

今日の御言葉を見ていきましょう。まず8~10節をご覧ください。「私たちの妹は若く、乳房もない。私たちの妹に縁談のある日には、彼女のために何をしてあげようか。もし彼女が城壁だったら、その上に銀の胸壁を建ててあげよう。彼女が戸だったら、杉の板でおおってあげよう。私は城壁、私の乳房はやぐらのよう。そのために、私はあの方の目には平安をもたらす者のようになりました。」

ちょっと読んだだけでは何のことを言っているのかわかりにくい文章です。ここに「私たちの妹」とありますが、これまで妹のことについては全く触れられていませんでした。この妹とはだれのことなのか。花嫁の妹のことです。花嫁が妹のことを心配して、自分の兄たちと一緒に、妹が結婚するまでどうやって妹の純潔を守って上げることができるかと心配しているのです。これは霊的には未熟なクリスチャンのことを指しています。外からの攻撃に何の防備もできていないのです。

そんな花嫁の問いに対して、兄たちはこう答えます。9節です。「もし彼女が城壁だったら、その上に銀の胸壁を建ててあげよう。彼女が戸だったら、杉の板でおおってあげよう。」どういうことでしょうか。

「城壁」とは、自分たちの城を守る防壁のことです。また「胸壁」とは、その城壁に付いている砦のことです。その砦が付くことによって、より一層防備を固めることができます。すなわち、妹がどんな男も寄せ付けない強い意志を持っているなら、城壁の上にさらに胸壁を建てて、守りをしっかりと固めようと言っているのです。

一方、「彼女が戸だったら」どうでしょうか。「戸」というのは、家の中に何でも取り入れてしまう弱い心を表しています。すなわち、自分で心と体のドアを簡単に開けてしまう(もろ)さを持っている状態のことです。もし彼女が戸だったら、杉の板でおおってあげよう、つまり彼女を囲んで守ってあげよう、というのです。

あなたは城壁ですか、それとも戸ですか。私たちは城壁なのか戸なのかによって、その結果が決まります。主イエスとの関係を城壁のようにしっかりと守るなら、私たちは安心して過ごすことができます。それは10節に「私はあの方の目には平安をもたらす者のようになりました。」とあるように、主の目に平安をもたらすような存在となるからです。

しかし、逆にあなたが戸であるならば、すなわち、霊的貞潔を守らずに、来るものは拒まずで、何でも簡単に取り入れてしまうようであるなら、主イエスとの関係が損なわれ、主から離れてしまうことになります。ですから、私たちは城壁になるように心がけたいと思います。そうすれば主は必ずあなたを盤石にし、ますます強固にしてくださいます。

10節をご覧ください。「私は城壁、私の乳房はやぐらのよう。そのために、私はあの方の目には平安をもたらす者のようになりました。」

これは花嫁のことばです。彼女はここで、「私は城壁、私の乳房はやぐらのよう。」と言っています。つまり、私は強い意志で貞潔を守ってきたと言っているのです。キリストの花嫁である教会もそうでありたいですね。

イエス様はそのような教会は、「ハデスの門もそれには勝つことができません。」(マタイ16:17)と言われました。「それには」とは、岩の上にしっかりと建てられた教会のことです。「あなたは生ける神の子キリストです」と告白して止まない教会は、岩の上に建てられた家のように、どんな強敵が襲ってきてもビクともすることがありません。もしかするとあなたはそのように感じていないかもしれません。私はすぐに誘惑に負けてしまうような者で情けないなぁとか、ふがいないなぁと思っているかもしれませんが、しかし城壁があるなら大丈夫です。イエス・キリストという岩の上にしっかりと建てられているなら、主が必ず守ってくださるからです。

また、ここには「私の乳房はやぐらのよう。」とあります。この「乳房」とは、成熟を表しています。9節には妹の乳房についての言及がありましたが、妹の乳房はどうだったかというと、「乳房はない」とありました。すなわち、成熟していなかった、未熟だったというのです。それに対して、姉である花嫁の乳房はどうであるかというと、あるというだけでなく「やぐらのよう」と言われています。やぐらのように堅固であるということです。そのために花婿に、平安をもたらす者のようになったのです。

私たちもクリスチャンとして成長すればするほど、やぐらのように強い信仰を持つことができるようになります。そうなれば、花婿キリストに平安をもたらす者になることができるのです。どうしたらそのような者になることができるのでしょうか。

第一に、みことばを慕い求めることです。Ⅰペテロ2章1~2節にこうあります。「ですからあなたがたは、すべての悪意、すべての偽り、偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」

「霊の乳」とはみことばのことです。生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋なみことばの乳を慕い求めることです。そうすれば成長し、救いを得ることができます。

第二に、キリストのからだである教会に身を置くことです。使徒20章32節にはこうあります。「今私は、あなたがたを神とその恵みのみことばにゆだねます。みことばは、あなたがたを成長させ、聖なるものとされたすべての人々とともに、あなたがたに御国を受け継がせることができるのです。」

これはパウロのことばです。パウロはミレトの港にエペソの長老たちを集めて言いました。何が彼らを成長させ、御国を継がせることができるのか。「みことば」です。みことばが、あなたがたを成長させてくださいます。しかしその後にとても重要なことを語っています。それは、「聖なるものとされたすべての人々ともに」ということです。「聖なるものとされた人々」とは、クリスチャンのこと、すなわち、クリスチャンたちの群れである教会のことを指しています。そのようなすべての人々とともに、御国を受け継がせることができるのです。「いや、私は家で一人で聖書を読んでいるので大丈夫です」とか、「私は聖書のメッセージをインターネットで聞いています」という方もおられますが、それでは御国を継がせていただくことはできません。勿論、一人で聖書を読んだり祈ったりすることは大切なことです。でもそれで十分かというとそうではなく、私たちは常に「聖なるものとされたすべての人々」とともにあることが必要なのです。そうすれば、御国を継がせていただくことができます。やぐらのような乳房になることができるのです。これが、聖書が教えていることです。

第三に、神の与えてくださるすべての武具を身につけることです。エペソ6章10~11節にはこうあります。「終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。」

使徒パウロはここで、悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身につけなさいと勧めています。それはどんな武具なのかというと、腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはき、これらすべての上に信仰の盾を取らなければなりません。それによって、悪い者が放つ火矢を消すことができるからです。また救いのかぶとをかぶり、御霊の剣である神のことばを取らなければなりません。そしてどんなときにも御霊によって祈らなければなりません。そうすれば、悪い者が放つ火矢を消すことができるのです。

あなたはどうですか。神のすべての武具を身につけていますか。それは高いお金を払って勝ち取らなければならないというようなものではありません。イエス様を信じる者にはだれにでも備えられているものです。ただで受け取ることができます。問題は、あなたがそれに関心をもっているかどうかです。キリストの花嫁は城壁、乳房はやぐらのようです。私たちも神が備えてくださるすべての武具を身に着け、どんなに敵が攻撃して来てもビクともしない堅固なやぐらのように、成熟したクリスチャンになることを求めていきたいと思います。

Ⅱ.花婿の愛に応えて(11-13)

次に、11~13節をご覧ください。「ソロモンにはバアル・ハモンにぶどう畑があって、そのぶどう畑を、守る者たちに任せていた。それぞれは、そのぶどうの実に代えて銀千枚を納めることになっていた。私が持っているぶどう畑が私の前にある。ソロモンよ。あなたには銀千枚、その実を守る者には銀二百枚。庭の中に住む仲間たちは、あなたの声に耳を傾けている。私にそれを聞かせておくれ。」

これは花嫁のことばです。花婿ソロモンは、バアル・ハモンという所にぶどう畑を持っていました。それを農夫に貸して、ぶどうの収穫に代えて、それぞれに銀千枚を納めさせていたのです。いわゆる小作料ですね。

そして、花嫁自身もぶどう畑をもっていました。12節の「私」とは花嫁のことです。彼女はかつてぶどう畑で働く労働者でしたが、ソロモン王と結婚したことで、ソロモンの妻、妃となりました。しかし、なぜかここで彼女はソロモンに銀千枚を納め、そこで働く労働者たちには銀二百枚を支払うと言っています。でも彼女は小作人ではありません。彼女はソロモン王の妻です。王妃です。であれば、ソロモン王のものはすべて自分のもとでもあります。夫に支払う義務などないのです。私は妻の財布からは取りませんが、妻が支払ったものを支払うようなことはしません。妻のものは私のもの、私のものは私のもの・・・。しかも夫のソロモンは広大なぶどう畑をもっていましたから、妻からお金をもらうなんて必要もなかったのです。にもかかわらず、彼女は夫に銀千枚を支払うと言っているのです。また、その実を守る者には銀二百枚与えるというのです。どういうことでしょうか。

これは彼女がそうしなければならないという義務があったからではなく、彼女が自分からそうしたいと願っているのです。またその実を守る者とは、そのぶどう園で働く労働者のことですが、それは彼女の兄たちのことです。兄たちは自分をちゃんと育ててくれたのでその報奨金として、銀二百枚を与えたいと言っているのです。それは義務ではなく、彼女の心からの願いから出たことだったのです。

このことは、私たちの信仰生活においてもとても大切なことです。私たちもイエス様を信じてイエス様の花嫁となりました。それで今はこうしなければならないという律法から解放されて自由となりました。イエス様が律法から解放してくださったからです。私たちは今律法の下にではなく、恵みの下にいるのです。すべての律法や義務から解放されたのです。しかしそれは私たちが何をしてもいいということではなく、そこには責任が利根なうことを意味しています。その責任とは何でしょうか。それは、そのように解放してくださった主に感謝して生きるということです。そこには当然感謝と喜びが溢れ、それに応答したいという思いが生まれてくるからです。つまり律法はささげることを要求しますが、一方で、愛は自発的にささげることで応答するということです。この違いがわかるでしょうか。要求と応答は全く違うのです。

こうして私たちが主を礼拝しているのは、要求ではなく応答です。主が私たちを愛してくださったので、私たちはその愛に応答して主を礼拝したいのです。心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの主を愛しなさいという主の戒めを、愛の応答として実践したいのです。出エジプト記20章に、有名なモーセの十戒があります。その十戒の前提がこれなのです。「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した神、主である。」(出エジプト記20:2)

だから、それはもう律法ではないのです。主は「わたしの他に、ほかの神々があってはならない」とか「自分のために偶像を造ってはならない」「それらを拝んではならない」「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。」と仰せられましたが、それは主が彼らをエジプトの地、奴隷の家から導き出してくださったから、罪の奴隷の中から救い出し解放してくださったからです。つまり、この主の愛に対する応答としてなされる行為であるということです。だから、喜んで礼拝をささげたい、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして主を愛するのです。

聖書にはマグダラのマリヤという一人の女性のことについて記されてあります。彼女は最後まで主に従った女性たちの中の一人です。彼女はイエス様が十字架につけられた時もそこにいました。また埋葬の様子も見届け、そして、週の初めの日の明け方早く主イエスの亡骸がおさめられてあった墓に向かいました。そんなことをしたら捕まるかもしれないのに、そんなことをしたら処刑されるかもしれないのに、だれよりも先にイエスに会いたいという一心で墓に向かったのです。なぜでしょうか。

それは、主に愛されたからです。ルカの福音書を見ると、彼女は七つの悪霊に憑かれていたとあります(ルカ8:2)。七つの悪霊ですよ、一つの悪霊でも大変なのに、彼女は七つの悪霊に取り憑かれていました。それは完全にという意味です。聖書で「7」という数字は完全を表していますから。彼女は完全に悪霊に取り憑かれていたのです。その結果、ありとあらゆる罪に陥ってしまいました。自分でも何をしているのかわかりませんでした。誰も彼女を救うことができませんでした。しかし彼女はそこから解放されました。主が彼女から悪霊を追い出してくださったからです。主が彼女を救ってくださいました。それで彼女はそのイエスの愛に応えたかったのです。その結果彼女は、最後まで主に従って行ったのです。喜んで・・。

私たちも同じです。私たちもかつては神に背き、自分勝手に生きていた者でした。かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として不従順の子らの中に今も働いている悪霊に従って歩んでいました。その結果、何が何だかわからず、自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、神の御怒りを受けるような者でした。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの罪の中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。私たちが救われたのは恵みによるのです。アメージング・グレースです。それゆえに私たちは、このアメージング・グレースに応答して、心から主を愛する者でありたいと思うのです。

Ⅲ.私の愛する方よ、急いでください(14)

最後に14節をご覧ください。「私の愛する方よ、急いでください。かもしかのように、若い鹿のようになって、香料の山々へと。」

これも花嫁のことばです。ここで花嫁は花婿に言っています。「私の愛する方よ、急いでください。かもしかのように、若い鹿のようになって、香料の山々へと」。「かもしかのように」とか「若い鹿のように」とは、軽快に山を跳び越え、丘の上を跳ねて来る様を表しています。そのように来てくださいと言うのです。

これは、キリストの花嫁である私たち教会の祈りでもあります。Ⅰコリント16章22~24節をご覧ください。ここには、「主よ、来てください。主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。私の愛が、キリスト・イエスにあって、あなたがたすべてとともにありますように。」とあります。「主よ、来てください。」は、アラム語で「マラナ・タ」と言います。これは初代教会において生まれた祈りの言葉です。ペンテコステの出来事によって誕生した、アラム語を話すユダヤ人たちの群れである最初の教会で祈られていた祈りの言葉が、そのまま新約聖書の言葉となったのです。そういう意味でこの言葉は、初代の教会の信仰をよく表わしたものであると言えます。

「主よ、来てください」という意味のこの「マラナ・タ」が初代の教会においてしばしば祈られた大切な祈りであったということは何を意味するのでしょうか。それは、主イエス・キリストに「来てください」と祈ることが、初代教会の信仰の中心であったということです。それは主イエスご自身の約束に基づくことでした。マルコ13章24~27節に、主イエスが、この世の終わりについて語られたこのような言葉があります。

「しかしその日、これらの苦難に続いて、太陽は暗くなり、月は光を放たなくなり、星は天から落ち、天にあるもろもろの力は揺り動かされます。そのとき人々は、人の子が雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見ます。そのとき、人の子は御使いたちを遣わし、地の果てから天の果てまで、選ばれた者たちを四方から集めます。」

「人の子」とは主イエスご自身のことですが、世の終わりに、人の子であられるイエスが大いなる力と栄光を帯びてもう一度この世に来られ、選ばれた人たち、救いにあずかった者たちを呼び集め、神の国を完成して下さると約束して下さいました。

また使徒1章11節には、復活された主イエスが天に昇られた時、それを見ていた弟子たちに天使がこう言いました。「ガリラヤの人たち、どうして天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。」

主イエスがもう一度この世においでになることがこのように約束されているのです。これらの約束の言葉に支えられて、教会は、主イエスがもう一度来て下さること、即ち主イエスの再臨を待ち望んでいたのです。

したがって「マラナ・タ」ということばは、キリストの再臨によるこの世の終わりを待ち望む祈りなのです。「主よ、来てください」と言うと、「イエス様ちょっとここへ来て私を助けて下さい。今困っているこの問題を解決して下さい」という意味にとられがちですが、そういうことではありません。勿論私たちは日々の生活の中で、主イエスが聖霊の働きによって、目には見えなくても共にいて下さることを信じています。様々な具体的な問題、悩み苦しみにおいて私たちは、「主よ、私を助けて下さい、歩むべき道を示し、歩む力を与えて下さい」と祈ることができるし、主イエスはそこで人間の力を超えた恵みをもって導いて下さると信じています。しかしこの「マラナ・タ」という祈りは、主イエスの再臨によってもたらされる究極的な救いを待ち望む祈りだったのです。

そして、この祈りは新約聖書の一番最後のヨハネの黙示録22章20節にも出てきます。「これらのことを証しする方が言われる。「しかり、わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。」主イエスの恵みが、すべての者とともにありますように。」(黙示録22:20-21)

ここには「マラナ・タ」という言葉ではありませんが、同じ意味の祈りです。「主イエスよ、来てください」これが聖書の一番最後に書かれてあるのです。新約聖書はこの祈りをもって閉じられています。新約聖書の全体が、この祈りに向けて書かれていると言ってもよいでしょう。つまりこれが聖書の締めくくりとして、神様が一番強調したかったことなのです。「私の愛する方よ、急いでください。」「主イエスよ、来てください。」「マラナ・タ」

なぜこれが最も重要な祈りなのでしょうか。それは主イエスが再び来られるとき、罪によって壊滅状態になってしまったこの世を刷新してくださるからです。今の世の中を見てください。昨年からのコロナ感染によって全世界が悲鳴を上げています。いつまで続くのか、どこまで続くのか、みんな不安になっています。アメリカと中国の緊張関係はどうでしょう。いつ戦争に発展するかわかりません。今度世界戦争が起こったら核戦争となり、取り返しがつかないことになってしまいます。世界の環境はどうでしょうか。今イギリスでCOP26が行われていますが、世界がひとつとなって取り組むべき課題として、この気候変動対策があげられています。このような問題は永遠に続きます。私たちの生活はどうでしょうか。悩みや苦しみは絶えることはありません。一難去ってまた一難です。いったいどこに希望があるのでしょうか。罪によって汚されたこの世には、どこにも希望はありません。

しかし、ここに希望があります。それはイエス・キリストです。主イエスが来られるとき、主はすべてを新しくしてくださいます。私たちをご自身と同じ栄光のからだに変えてくださいます。これが私たちの究極的な希望なのです。私たちに必要なのは、コロナ感染や自然災害、戦争の不安に脅えることではなく、またそれを人間の力によって解決しようとすることではなく、そうした努力をしつつも、この世界を創造された方、万物の支配者であられる神に立ち返ることです。神の救いを待ち望むことなのです。それが「マラナ・タ」「主よ、来てください。」という祈りなのです。

「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」(伝道者の書12:13)

その上で、主の再臨を待ち望むのです。そうすれば、主がこの世界を刷新し、完全な御国をもたらしてくださいます。真の平和を与えてくださるのです。

明日、教会でインド人のルイバ・ラムチャンという方の葬儀が行われます。かつてアジア学院で働いておられた奥様とテモテ先生がお知り合いであったことから、そして、ルイバさんご自身がインドで熱心なバプテスト教会の信者さんであったことから、ここでやってほしいとの依頼があったのです。私は生前のルイバさんとお会いしたことがありませんが、インドで農業をしながら人々に貢献したいと、アジア学院で農業を学び、また南那須にある養豚場で研修を受けて帰国後、インドで十数年間村の開発に尽力しました。しかし、数年前に咽頭がんを発病しインドのニューデリーの病院で治療していましたが、日本で治療した方がいいのではないかと4年前に再入国して治療を続けていました。

召天される数時間前に奥様とのビデオ通話でルイバさんのことをお聴きしました。それによると、ルイバさんは神がともにいてくださるので大丈夫と言っているとのことでした。毎日聖書を読み、神に祈り、すべてを神にゆだねているとのことでした。ご主人は熱心なクリスチャンでインドのバプテスト教会に通っていたので、神がともにおられることを感謝しているとおっしゃっておられました。もう大きくなられた3人のお子様を残して天国に行かれるのは残念なことだったでしょう。結婚されるまで生きていたかったに違いありません。しかしルイバさんにとっての何よりの希望、それは主がともにいてくださるということだったのです。

皆さんの希望は何ですか。どこに希望があるのでしょうか。私たちにはいろいろな希望がありますが、これこそ究極的な希望です。主イエスよ、来てください。マラナ・タ。キリストの花嫁である私たちクリスチャン、教会にふさわしい祈り、それは「マラナ・タ」、主よ、来てくださいという祈りなのです。これが、雅歌を通して神が私たちに伝えたかったことなのです。