Ⅱ列王記23章

 Ⅱ列王記23章から学びます。

 Ⅰ.ヨシヤ王の宗教改革(1-27)

まず、1~3節をご覧ください。「1 王は使者を遣わして、ユダとエルサレムのすべての長老たちを彼のところに集めた。2 王は、ユダのすべての人々、エルサレムのすべての住民、祭司と預言者、および下の者から上の者まで、すべての民とともに【主】の宮に上り、【主】の宮で見つかった契約の書のことばをすべて彼らに読み聞かせた。3 それから王は柱のわきに立ち、【主】の前に契約を結び、【主】に従って歩み、心を尽くし、いのちを尽くして主の命令と証しと掟を守り、この書物に記されているこの契約のことばを実行することを誓った。民もみなこの契約に加わった。」

ヨシヤの宗教改革が続きます。彼は使者を遣わして、ユダとエルサレムのすべての長老たちを集めました。そして、ユダのすべての人々とともに主の宮に上り、主の宮で見つかった契約の書のことばをすべて彼らに読み聞かせました。ここで重要なことは、彼はユダの長老たちだけでなく、ユダのすべての人々に契約の書のことばを聞かせたことです。彼はユダのすべての民がみことばを聞く必要があると強く感じたのです。牧師、役員、リーダーだけでなく、教会のすべての人がみことばを聞かなければなりません。教会の中心は神のみことばなのです。それなのに、教会は神のみことばを聞くよりも、どうしたら居心地の良い教会でいられるかを求める傾向があります。教会が教会であるために必要なことは、ただ神のみことばを聞き、それに従うことなのです。

ヨシュアはユダのすべての民に契約の書を読み聞かせるだけで終わりませんでした。彼は、主の宮の柱のわきに立ち、主の前に契約を結び、主に従って歩み、心を尽くし、いのちを尽くして主の命令と証と掟を守り行うことを誓いました。すると民もみなこの契約に加わりました。

次に、4~14節をご覧ください。「4 王は大祭司ヒルキヤと次席祭司たち、および、入り口を守る者たちに命じて、バアルやアシェラや天の万象のために作られた祭具をことごとく【主】の神殿から運び出し、エルサレムの郊外、キデロンの野でそれらを焼き、その灰をベテルへ持って行った。5 彼はまた、偶像に仕える祭司たちを取り除いた。ユダの王たちが任命して、ユダの町々やエルサレム周辺の高き所で犠牲を供えていた祭司たちである。バアルや太陽や月や星座や天の万象に犠牲を供える者たちも取り除いた。6 彼はまた、アシェラ像を【主】の宮からエルサレム郊外のキデロンの谷に運び出し、それをキデロンの谷で焼いた。それを粉々に砕いて灰にし、その灰を共同墓地にまき散らした。7 さらに、【主】の宮の中にあった神殿男娼の家を打ち壊した。そこでは、女たちがアシェラ像のために覆いを織っていた。8 彼はユダの町々から祭司たちをみな連れて来て、祭司たちが犠牲を供えていたゲバからベエル・シェバに至るまでの高き所を汚し、門にあった高き所を打ち壊した。それは町の長ヨシュアの門の入り口にあり、町の門に入る人の左側にあった。9 高き所の祭司たちは、エルサレムの【主】の祭壇に上ることはなかったが、その兄弟たちの間で種なしパンを食べていた。10 彼はベン・ヒノムの谷にあるトフェトを汚し、だれも、自分の息子や娘に火の中を通らせてモレクに献げることのないようにした。11 それから、ユダの王たちが太陽に献納した馬を、【主】の宮の入り口、前庭にある宦官ネタン・メレクの部屋のそばから取り除き、太陽の車を火で焼いた。12 王は、ユダの王たちがアハズの屋上の部屋の上に造った祭壇と、マナセが【主】の宮の二つの庭に造った祭壇を、そこから外して打ち壊し、砕いた。そうして、その灰をキデロンの谷に投げ捨てた。13 王は、エルサレムの東、破壊の山の南にあった高き所を汚れたものとした。これは、イスラエルの王ソロモンが、シドン人の忌むべき女神アシュタロテ、モアブの忌むべき神ケモシュ、アンモン人の忌み嫌うべき神ミルコムのために築いたものであった。14 また、石の柱を打ち砕き、アシェラ像を切り倒し、その場所を人の骨で満たした。」

それから、ヨシヤ王は大祭司ヒルキヤと次席祭司たち、および、入口を守る者たちに命じて、バアルやアシェラや天の万象のために作られた器物をことごとく主の本堂から運び出させ、エルサレムの郊外、キデロンの野でそれを焼き、その灰をベテルへ持って行かせました(4節)。彼はまた、偶像に仕える祭司たちも取り除きました(5節)。さらに、アシェラ像を主の宮からエルサレム郊外のキデロンの谷に運び出し、それらをキデロンの谷で焼きました(6節)。それを粉々に砕いては灰にし、その灰を共同墓地にまき散らしました。灰を共同墓地にまき散らすという行為は、その偶像を完全に使い物にさせなくするということです。さらに、主の宮の中にあった神殿男娼の家を打ち壊しました(7節)。さらに彼は、ユダの町々にあった高き所を打ち砕きました(8節)。ゲバからベエル・シェバに至るまでとは、ゲバというのはユダの北端にある町であり、ベエル・シェバは南端の町ですから、ユダ全体を行き巡って、ということです。そこにある高き所を打ち壊したのです。また、ベン・ヒノムの谷にあるトフェテを汚し(10節)、だれも、自分の息子や娘に火の中を通らせてモレクに献げることのないようにしました。それから、ユダの王たちが太陽に献納した馬を、主の宮の入り口、前庭にある宦官ネタン・メレクの部屋のそばから取り除き、太陽の車を火で焼きました(11節)。

彼は歴代の王たち(アハズ、マナセ、ソロモン、ヤロブアム)が作った異教の祭壇(12節)、エルサレムの東、破壊の山の南にあった高き所を汚れたものとしました(13節)。これは、イスラエルの王ソロモンが、シドン人の忌むべき女神アシュタロテ、モアブの忌むべき神ケモシュ、アンモン人の忌み嫌うべき神ミルコムのために築いたものでした。彼は偶像礼拝を初めに導入させたソロモン王の時の偶像にまでさかのぼって、改革をしようとしたのです。また、石の柱を打ち砕き、アシェラ像を切り倒し、その場所を人の骨で満たしました(14)。人の骨で満たしたとは、もう礼拝物として使用できないようにしたということです。

ヨシヤ王の宗教改革は徹底していました。こうしたことを行うにはかなり勇気が要ったことと思います。長年の伝統や遺物になっていたものを徹底的に破壊したのですから。それは彼が主のみことば通りに実行しようとしたからです。確かにヨシヤの目的は崇高なものでした。でもそれを実現する手段が必ずしも知恵あるものだったとは言えません。というのは、彼は説得や崇高な人格がもたらす影響力によってではなく、暴力的な方法によって偶像礼拝を一掃しようとしたからです。外からの強制では、内面を変えることはできません。心の一新のためには、神のあわれみと、聖霊の働きが必要なのです。

ヨシヤ王の宗教改革は北王国のサマリアにまでも及びました15~20節をご覧ください。「15 さらに彼は、ベテルにある祭壇と、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムが造った高き所、すなわち、その祭壇も高き所も打ち壊し、さらに高き所を焼いて粉々に砕いて灰にし、アシェラ像も焼いた。16 ヨシヤが振り向くと、山の中に墓があるのが見えた。そこで彼は人を遣わしてその墓から骨を取り出し、それを祭壇の上で焼き、祭壇を汚れたものとした。かつて、神の人がこのことを預言して叫んだ【主】のことばのとおりであった。17 ヨシヤは言った。「あそこに見える石碑は何か。」すると、町の人々は彼に答えた。「ユダから出て来て、あなたがベテルの祭壇に対してされたこれらのことを預言した神の人の墓です。」18 王は言った。「そのままにしておけ。だれも彼の骨を移してはならない。」そこで人々は彼の骨を、サマリアから出て来たあの預言者の骨と一緒にそのままにしておいた。19 ヨシヤはまた、イスラエルの王たちが造って主の怒りを引き起こした、サマリアの町々の高き所の宮もすべて取り除き、彼がベテルでしたのと全く同じことを、それらに対しても行った。20 彼は、そこにいた高き所の祭司たちをみな、祭壇の上で屠り、その祭壇の上で人の骨を焼いた。こうして、彼はエルサレムに帰った。」

北イスラエルと言えば、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムが造った金の子牛礼拝が有名ですが、彼はその祭壇も高き所も打ち壊し、粉々に砕いて灰にし、アシェラ像も焼きました。

16節には、ヨシヤが振り向くと、山の中に墓があるのが見えたとあります。そこで彼は人を遣わしてその墓から骨を取り出し、それを祭壇の上で焼き、祭壇を汚れたものとしました。これは約350年前、ヤロブアムに対して神の人が預言した言葉の成就でした。ユダから来た神の人は、ヨシヤという実名まで挙げて、この祭壇が汚されることを宣言したのです(1列王13:2)。その神のことばが、その通りに成就しました。

17節と18節をご覧ください。ここにもⅠ列王記13章の預言の成就が見られます。あの神の人がユダに帰るときに、主から、どこも寄り道をしてはいけないと命じられていましたが、ベテルに住む老預言者が彼をだまして、自分の家に連れて来ました。けれども、この不従順によって神の人は獅子に殺されましたが、その老預言者は彼の死を悲しみ、同じところに自分も埋葬されることを望みました。その神の人の墓です。その預言の通りに、彼の骨はサマリアから出てきたあの老預言者と一緒にそのままそこに置かれます(Ⅰ列王13:31-32)。

19,20節には、「ヨシヤはまた、イスラエルの王たちが造って主の怒りを引き起こした、サマリアの町々の高き所の宮もすべて取り除き、彼がベテルでしたのと全く同じことを、それらに対しても行った。彼は、そこにいた高き所の祭司たちをみな、祭壇の上で屠り、その祭壇の上で人の骨を焼いた。」とあります。高き所で偶像礼拝を導いていた祭司たちをみな祭壇の上で屠り、その祭壇の上で人の骨を焼いた。すなわち、死刑にしました。

ヨシヤの宗教改革は実に徹底していました。しかし、ここで少し疑問に残るのは、彼はなぜユダの宗教改革にとどまらず北イスラエルの宗教改革まで行ったのかということです。また、当時北イスラエルはアッシリヤの支配にあったのに、どうして彼はこれを行うことができたのかということです。これについては、モーセの律法には、北イスラエルも南ユダの区別はなく一つのイスラエルとして語られているのですから、みことばの通りにしようとすれば北イスラエルの改革を行おうとするのも当然のことだったのでしょう。

それにしても、アッシリヤの支配下の中で彼はどのようにしてこのような改革を実行することができたのでしょうか。それは、歴史はすでに、アッシリヤからバビロンに移っていたからです。バビロンが大きくなり、アッシリヤが小さくなっていきます。実に、ヨシヤの存命中に、アッシリヤはバビロンとの戦いに敗れ、紀元前612年その首都ニネベが滅びます。ですから、この地域におけるアッシリヤの支配がかなり弱められていたのです。

21~23節をご覧ください。ヨシヤ王の宗教改革のクライマックスは、過ぎ越しの祭りの復活でした。「21 王は民全体に次のように命じた。「この契約の書に記されているとおり、あなたがたの神、【主】に、過越のいけにえを献げよ。」22 実に、さばきつかさたちがイスラエルをさばいた時代以来、イスラエルの王たちとユダの王たちのどの時代にも、このような過越のいけにえが献げられたことはなかった。23 ただ、ヨシヤ王の第十八年に、エルサレムでこの過越のいけにえが【主】に献げられただけであった。」

ヨシヤは、イスラエルの国民的な霊的生活の要であった、過越の祭りを復活させました。「さばきつかさたちがイスラエルをさばいた時代」とは、士師の時代のことです。それ以来、過越の祭りが全く行われなかったということではなく、確かにそれからも行われてはいましたが、その重要な祭りが軽視されていたということです。ヨシヤは士師記に登場したどの王たちよりも厳密に、モーセの律法の命令に従って過越しの祭りを守ろうとしたのです。

どうして彼はこれほどの宗教改革を行うことができたのでしょうか。24節と25節に、その理由が述べられています。「24 さらにヨシヤは、霊媒、口寄せ、テラフィム、偶像、それに、ユダの地とエルサレムに見られるすべての忌むべき物も除き去った。こうして、彼は祭司ヒルキヤが【主】の宮で見つけた書物に記されている律法のことばを実行した。25 ヨシヤのようにモーセのすべての律法にしたがって、心のすべて、たましいのすべて、力のすべてをもって【主】に立ち返った王は、彼より前にはいなかった。彼の後にも彼のような者は、一人も起こらなかった。

聖書の記者は、「ヨシヤのようにモーセのすべての律法にしたがって、心のすべて、たましいのすべて、力のすべてをもって【主】に立ち返った王は、彼より前にはいなかった。彼の後にも彼のような者は、一人も起こらなかった。」と彼を評価しています。それはヨシヤが神との契約の書と出会ったからです。彼が王になってから18年間、契約の書に出会うまで、宮の偶像は放置されたままでした。しかし、契約の書を読むことで、それが罪であることを悟らされたのです。主のことばに心を開く時に聖霊が働くからです。心から悔い改め、主の御心に応じようとするところに、新しいいのちのわざが生じます。悔い改めの連続が、私たちの新しい信仰生活を形作ることになるのです。

Ⅱ.それにもかかわらず(26-27)

次に、26~27節をご覧ください。「26 それにもかかわらず、マナセが引き起こした主のすべての怒りのゆえに、【主】はユダに向けて燃やした激しい怒りを収めようとはされなかった。27 【主】は言われた。「わたしがイスラエルを除いたのと同じように、ユダもわたしの前から除く。わたしが選んだこの都エルサレムも、わたしの名を置くと言ったこの宮も、わたしは退ける。」

ヨシヤ王の徹底した宗教改革にも関わらず、主はなぜユダに向けて燃やされた激しい怒りを収めようとされなかったのでしょうか(26節)。それは、マナセが引き起こした罪があまりにも大きかったからです。それに対する主のすべての怒りのゆえに、主はユダに向けて燃やした激しい怒りを収めようとしませんでした。どういうことですか? マナセが引き起こした罪があまりにも大きかったので、民はもはや悔い改めることさえできなない状態まで来ていたということです。ヨシヤは最善を尽くしましたが、もはや一人の王のリバイバルによって回復できるような状態ではなかったのです。それで主はイスラエルを除いたのと同じように、ユダもご自身の前から取り除くと宣言されたのです。これは具体的にはバビロンに滅ぼされるということです。バビロン捕囚という出来事です。

これは丁度今礼拝の説教でエレミヤ書を学んでいるのでわかりますが、それさえも神の計画の中にあることでした。それはわざわいではなく、平安を与える計画であり、将来と希望を与えるものだったのです。なぜなら、そのことによって彼らは真に悔い改め、その先にある回復を見るようになるからです。それは終末に起こることの預言でもあります。「こうしてイスラエルはみな救われる」(ローマ11:26)とありますが、どのようにしてイスラエルはみな救われるのでしょうか。「こうして」です。彼らが悔い改めないで主を拒絶し続けることで、世の終わりに7年間の大患難が襲うことになります。その苦難の中で彼らは再臨のメシヤこそ、自分たちの先祖たちが突き刺して殺したナザレのイエスであることを知り、胸をたたいて悔い改めるようになります。こうして、イスラエルはみな救われるのです。そして、「あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたの神となる。」(エレミヤ30:22)という神との約束が実現することになるのです。誰がそのようなことを考えることができるでしょうか。そのようなことは誰も考えることなどできないことです。しかし、神はできるのです。神は私たち人間と約束されたことは必ず守られる方だからです。

もともと人間が良いことをしたからといって、神は罪の結果を帳消しにすることはありません。人間が良いことをすれば神は喜び、悪いことをすれば悲しまれる、ということはあるでしょう。でも神は人間の態度に一々左右されながら歴史を導かれるお方ではありません。むしろご自身の最終計画を進められる中で、人間のありようをご覧になり、介入し、あわれみを注がれる方なのです。神が終末の裁きの計画を変えることはありません。しかし滅びに向かう人類の歩みの中で、個々の悔い改めがなされる時に、そこにあわれみを注ぎ、祝福を注いでくださるのです。だからといって、私たちは何もしなくても良い、ということではありません。ヨシヤのように心からへりくだり、心を尽くして主に仕えることができます。その中で、もう修復不能と思われるような中で、神は回復の希望をもたらしてくださるのです。あなたはもう一度建て上げられるのです。

Ⅲ.主のことばに対する柔軟さ(28-30)

最後に、28~30節を見て終わります。ここには、ヨシヤのもう一つの特筆すべき出来事が記されてあります。それは、彼が神のことばに逆らって自らの命を落としたという出来事です。

「28 ヨシヤについてのその他の事柄、彼が行ったすべてのこと、それは『ユダの王の歴代誌』に確かに記されている。29 彼の時代に、エジプトの王ファラオ・ネコが、アッシリアの王のもとに行こうと、ユーフラテス川を目指して上って来た。そこで、ヨシヤ王は彼を迎え撃ちに行ったが、ファラオ・ネコはメギドで彼に出会った際、彼を殺した。30 ヨシヤの家来たちは、彼の遺体を戦車に載せ、メギドからエルサレムに運んで、彼の墓に葬った。その国の民は、ヨシヤの子エホアハズを選んで油を注ぎ、彼の父に代えて王とした。」

ヨシヤの時代に、エジプトの王ファラオ・ネコが、アッシリアの王のもとに行こうと、ユーフラテス川を目指して上って来時のことです。彼はファラオ・ネコを迎え撃ちに出て行くと、メギドで彼に出会ったファラオ・ネコは、彼を殺したのです。なぜ彼はそのような終わり方をしたのでしょうか。

この戦いは、BC609年頃、エジプトの王ファラオ・ネコが、カルケミシュでバビロンの王ナボポラッサルとの戦いのために出て来た時のことです。ヨシヤは、バビロン軍に挑戦しようとその途上にあったネコの軍隊を迎撃しようとした。Ⅱ歴代誌を読むと、エジプトの王ネコは目標はユダではなくバビロンなのだから、この戦いから手を引くようにとヨシヤに警告をしていました(35:21)。それなのにどうして彼はそこから手を引かなかったのか?神のみこころを第一とするヨシヤが、どうして「神の御口から出たネコのことばに聞こうとしなかった」(Ⅱ歴代35:22)のでしょうか?

二つの理由が考えられます。第一のことは、これは主のあわれみによるということです。覚えておられますか、主の宮で律法の書が見つかった時、彼は心を痛めて主の前にへりくだり、自分の衣を引き裂いて、主の前で泣いたのを。その時主もまた彼の願いを聞き入れると言って、次のように言われました。22章20節です。

「それゆえ、見よ、わたしはあなたを先祖たちのもとに集める。あなたは平安のうちに自分の墓に集められる。あなたは自分の目で、わたしがこの場所にもたらす、すべてのわざわいを見ることはない。』」彼らはそれを王に報告した。」

ユダの罪があまりにも大きいので、もはや主は彼らに対する激しい怒りを収めようとはされませんでした。それがバビロン捕囚です。主はヨシヤに対して、彼が主の前にへりくだり、自分の衣を引き裂いて、主の前で泣いたので、主がこの場所、エルサレムにもたらすすべてのわざわいを見ることがないようにしてくださったのです。ヨシヤがエジプトの王ファラオ・猫との戦いで死んだのはB.C.609年のことでしたが、ユダがバビロンによって捕囚とされた出来事は、その後大きく分けて3回にわたって行われました。B.C.605年、B.C.597年、B.C.586年です。ですから、ヨシヤはこのみことばの約束のとおり、自分の目でエルサレムにもたらされるすべてのわざわいを見ることなく死ぬことができました。これは主のあわれみによるのです。

もう一つの理由は、神のことばに対する受け止め方の問題です。確かに彼は徹底的に神のことばに従いました。しかし、神のことば、聖書通りにいきさえすればよいというのではありません。聖書を読み、主が語られることを聞くことが大切なのです。いうなら、彼の問題は聖書信仰という立場よりも、主の御言葉に対する柔軟さが欠落していたということです。聖書どおりに生きさえすればよいというのではありません。大切なのは、聖書を読み主が語っておられることを聞き、そのことばに応答して生きることなのです。

エレミヤ30章12~24節「あなたの傷を癒される主」

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今日は、エレミヤ書30章後半から、「あなたの傷を癒される主」というタイトルでお話します。イスラエルは、何度も神に背く罪を犯し、神から懲らしめの罰を受け、そこで苦しみを味わいます。それは近い将来においてはバビロン捕囚という出来事のことであり、遠い未来においてはヤコブの苦難と呼ばれる世の終わりに起こる7年間の患難時代のことを指しています。しかし、神はそんなヤコブ、イスラエルを見捨てることなく、赦し、救い出してくださるとおっしゃられました(30:7)。神は懲らしめを与えますが、彼らを滅ぼし尽くされることはありません。罪ゆえに大きな痛みや傷、苦しみを与えられますが、その後には赦しと救いを用意してくださるのです。いったい神はどのようにしてそれを行われるのでしょうか。

今日の箇所には、その方法が明確に記されています。それは、彼らの中から出る権力者、その支配者によってです。21節には、「わたしは彼を近づけ、彼はわたしに近づく。いのちをかけてわたしに近づく者は、いったいだれか。」とあります。いのちをかけて神に近づく者はだれでしょうか。そうです、それは神の御子イエス・キリストです。エレミヤはここで命をかけて神に近づき、民の受けるべき罰を担ってくださる方を預言しているのです。イエス・キリストによって私たちのすべての罪咎は赦され、赦しと救いを受けることができるのです。今日は、私たちのすべての傷を癒してくださる主イエス・キリストの救いについてご一緒に考えたいと思います。

Ⅰ.癒されがたい傷(12-17)

まず、12~17節をご覧ください。「12 まことに【主】はこう言われる。「あなたの傷は癒やされがたく、あなたの打ち傷は痛んでいる。13 あなたの訴えを擁護する者もなく、腫れものに薬を付けて、あなたを癒やす者もいない。14 あなたの恋人たちはみな、あなたを忘れ、あなたを尋ねようともしない。わたしが、敵を打つようにあなたを打ち、容赦なくあなたを懲らしめたからだ。あなたの咎が大きく、あなたの罪が重いために。15 なぜ、あなたは自分の傷のために叫ぶのか。あなたの痛みは癒やされがたい。あなたの咎が大きく、あなたの罪が重いために、わたしはこれらのことを、あなたにしたのだ。」

この「あなた」とは、ヤコブ、イスラエルのことです。主は彼らにこう言われました。「あなたの傷は癒やされがたく、あなたの打ち傷は痛んでいる。あなたの訴えを擁護する者もなく、腫れものに薬を付けて、あなたを癒やす者もいない。」彼らの痛みは、癒されがたいものでした。14節の「あなたの恋人たち」とは、イスラエルと同盟関係を結んでいた周辺諸国のことです。そうした同盟国もヤコブを救うことはできませんでした。彼らはヤコブを忘れ、尋ねようともしません。彼らの傷をいやすことができないのです。なぜなら、それは普通の傷ではないからです。14節後半に「わたしが、敵を打つようにあなたを打ち、容赦なくあなたを懲らしめたからだ。」とあるように、それは主が与えたものだからです。彼らの咎が大きく、彼らの罪が重いからです。つまり、それは罪から来る傷、罪から来る病であったのです。ローマ6:23に「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」とある通りです。それは、罪から来る報酬なのです。罪から来る傷はだれも癒すことができません。それは死をもたらすだけです。「しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」しかし、イエス・キリストを信じるなら、永遠のいのちが与えられます。この永遠のいのちは、あなたの恋人が癒すことができない傷や病すら癒すことができるのです。
  それが17節で言われていることです。「まことに、わたしはあなたの傷を治し、あなたの打ち傷を癒やす。─主のことば─まことに、あなたは『捨てられた女』、『尋ねる者のないシオン』と呼ばれた。」

主は「わたしはあなたの傷を治し、あなたの打ち傷を癒やす。」と言われます。主があなたの傷を治し、あなたの打ち傷を癒されます。あなたの傷を癒すことができる人は誰もいません。精神科医でも無理です。そこで処方される薬も癒すことはできません。勿論、肉体的な病気であれば神は薬を用いて癒すこともできますが、ここで言われている傷はそういう傷ではなく罪から来ているものなので、人には癒すことができないのです。それは神にしかできないことです。罪を赦すことができるのは神にしかできないからです。

マルコの福音書2章に、中風の人の癒しについて書かれてあります。友人たちが彼をイエスの下に連れて来たときイエスはこの人に何と言われましたか?「子よ、あなたの罪は赦された」と言われたんです(マルコ2:5)。彼は罪の赦しを求めて来たのではありません。彼は中風を癒してもらうために来ました。それなのにイエス様は「あなたの罪は赦された」と言われたのです。なぜでしょうか?罪を赦すことができるのは神しかいないからです。神以外にだれも罪赦すことはできません。罪を赦すことができる方は神であり、中風を癒すことなど何でもないことだからです。だからイエスは、彼らに罪が赦される信仰があるのを見て、そのように言われたのです。あなたを罪から救うことができるのは、あなたを永遠の滅びから救うことができるのは、イスラエルの救い主、私たちの主イエス・キリスト以外にはいないのです。

ですから、使徒4章12節にはこうあるのです。「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」
  「この方」とは、イエス・キリストのことです。イエス・キリスト以外には、だれによっても救いはありません。この方以外には、イスラエルの同盟国であろうと、イスラエルが慕った偶像であろうと、この世のあらゆる国家権力であろうと、いかなる富であろうと、あなたを救うことはできないのです。私たちが救われるべき名としては、人間には与えられていなからです。イエス・キリストだけが救われるべき唯一の道であり、真理であり、いのちです。イエス・キリストを通してでなければ、だれ一人、父のみもとに行くことはできません。

いったいなぜ主はヤコブ、イスラエルを癒してくださるのでしょうか。17節後半をご覧ください。ここに「─主のことば─まことに、あなたは『捨てられた女』、『尋ねる者のないシオン』と呼ばれた。」とあります。それは彼らが「捨てられた女」、「尋ねる者のないシオン」と呼ばれたからです。どういうことですか?これは、彼らの絶望的な状況を見た者たちあざけって言ったことばです。確かに、主はヤコブの罪のゆえに懲らしめを与えられますが、滅ぼし尽くすことはなさいません。だから、異邦人たちが神の選びの民を見下しているのを見て、決して黙っておられることはないのです。彼らの傷を治し、打ち傷を癒され、立ち上がらせてくださるのです。

それは私たちにも言えることです。私たちも自分の罪とか咎のゆえに神から懲らしめを受けることがあるかもしれません。それは癒されがたく、時として絶望を感じることもあるでしょう。でも私たちの神はヤコブを見捨てることなく彼らの傷を治し、打ち傷を癒されたように、あなたの罪を赦し、あなたの傷を癒してくださいます。あなたを救ってくださるのです。Ⅱコリント4章8~9節にこうある通りです。「私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰まることはありません。迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。
  私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰まることはありません。迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。ボクシングの試合では相手のパンチを食らってノックダウンすることがありますが、でも試合はそれで終わりません。ノックアウトされるまで続きます。まさに、私たちの信仰はそうです。ノックダウンすることはあってもノックアウトすることはありません。これがイエス・キリストを信じる者に与えられている約束です。神が私たちに立てておられる計画はわざわいではなく平安を与える計画であり、将来と希望を与えるためのものです。29:11にありますね。この「あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」ということばは、最後は希望だという意味です。皆さん、イエス・キリストを信じる者に与えられている最後は希望なのです。その約束をしっかり握りしめていなければなりません。これが私たちに求められている信仰です。絶望と思える中にあっても、真心から主に信頼し、パウロが持っていた確信を持ち続けていただきたいと思うのです。

Ⅱ.ヤコブの回復(18-22)

次に、18~22節をご覧ください。「18 ─【主】はこう言われる─見よ。わたしはヤコブの天幕を回復させ、その住まいをあわれむ。都はその丘の上に建て直され、宮殿はその定められている場所に建つ。19 彼らから、感謝の歌と、喜び笑う声が湧き上がる。わたしは人を増やして、減らすことはない。わたしが尊く扱うので、彼らは小さな者ではなくなる。20 その子たちは昔のようになり、その会衆はわたしの前で堅く立てられる。わたしはこれを圧迫する者をみな罰する。21 その権力者は彼らのうちの一人、その支配者はその中から出る。わたしは彼を近づけ、彼はわたしに近づく。いのちをかけてわたしに近づく者は、いったいだれか。──【主】のことば──22 あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。」」

ここにも、近い将来における預言と遠い未来における預言が二重の預言になって語られています。「見よ。わたしはヤコブの天幕を回復させ、その住まいをあわれむ。都はその丘の上に立て直され、宮殿はその定められている場所に建つ。」とは、近い将来においてはバビロン捕囚からの解放のことであり、遠い未来においては、寄留者となって全世界に散らされているイスラエルの民が、約束の地に帰還するようになることを預言しています。

「ヤコブの天幕」とは、一時的な住まいのことを指しています。バビロンでの彼らの生活は、まさに天幕生活でした。それはキャンピングをしているようなものです。キャンピングと聞くと、いいなぁ、のんびりできて、と思うかもしれませんが、それが毎日続くとしたらどうでしょう。たまったもんじゃありません。不自由ですよ。ゆったりとお風呂にはいっていることさえできません。でも、祖国に帰って自宅に住むと、やっぱり我が家はいいなあ、落ち着くなあということになるわけです。彼らは祖国に帰り、廃墟となった場所に都を建て直し、宮殿はその定められていた場所に建つようになります。人の数も増え、大いに繁栄するようになります。

これは遠い未来のことで言うなら、全世界に散らされていたユダヤ人がイスラエルに帰還することを預言しています。そして、私たちが生きているこの時代にこの預言が実現します。そうです、世界中に散らされていたユダヤ人が1800年代後半からイスラエルに帰還するようになり、ついに1948年5月14日にイスラエルという国として国連で承認されることになったんですね。そのこともこの預言の中に含まれています。

しかし、それはこれから後のこと、世の終わりに起こることの預言でもあります。それは、私たちがこの肉体という地上の幕屋を脱ぎ捨て、天から与えられる幕屋を着ることです。パウロはⅡコリント5章1~2節でこのように言っています。「たとえ私たちの地上の住まいである幕屋が壊れても、私たちには天に、神が下さる建物、人の手によらない永遠の住まいがあることを、私たちは知っています。私たちはこの幕屋にあってうめき、天から与えられる住まいを着たいと切望しています。」

この「地上の住まいである幕屋」とは、私たちの肉体のことです。私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされますとあるように、外なる人は日々衰えていきます。また、自分がしたいことではなく、したくない悪を行ってしまうという不自由さ、生きづらさというものがあります。でもそれがいつまでも続くのではありません。私たちはやがてこの地上の幕屋を脱ぎ捨て天から与えられる住まいを着るのです。それは人手によらない永遠の住まいです。決して衰えることはありません。病気になることもなく、障害を負うこともなく、老いることもなく、罪を犯すこともない完全なからだをいただくのです。そこは永遠の住まいで、感謝の歌と、喜び笑う声が沸き上がります。それが「天国」です。そこへいつか私たちは帰ることになるのです。その預言です。

  そのような祝福へと導いてくださるのはだれでしょうか。21節をご覧ください。「その権力者は彼らのうちの一人、その支配者はその中から出る。わたしは彼を近づけ、彼はわたしに近づく。いのちをかけてわたしに近づく者は、いったいだれか。─主のことば─」
  これは、メシヤ預言です。イスラエルの民に約束された祝福は、メシヤを通して与えられます。「その支配者はその中からでる」とあるように、メシヤはイスラエルの中から出ると言われています。これは近未来の預言では、バビロン捕囚からの解放された後に現れる権力者であり、支配者のことで、具体的にはダビデ王家の「ゼルバベル」という総督と、彼をサポートする「大祭司ヨシュア」のことです。彼らのことについては、エズラ記やゼカリヤ書に記録されてあるので、後で読んで確認しておいてください。

でも遠い未来のことで言うと、これはダビデの子イエス・キリストのことを指しています。それはここに「わたしは彼を近づけ、彼はわたしに近づく。いのちをかけてわたしに近づく者は、いったいだれか。」とあることからもわかります。神に近づくことができるのは祭司と呼ばれる人たちだけでが、イエス・キリストはその祭司としてご自身のいのちをかけて神に近づいてくださいました。へブル4章15~16節をご覧ください。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」
  「私たちの大祭司」とは、イエス・キリストのことです。キリストは私たちに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように試みを受けられました。それは私たちの弱さを知っておられるということです。ですから、私たちの最も身近な存在として、どんな時でも寄り添ってくださることができるのです。あなたの気持ちを誰よりも理解してくださる方、あなたよりももっと深い闇の中にまで下りて行ってくださったお方です。ですから、あなた以上に苦しまれた方、あなた以上に理不尽な扱いをされました。人から裏切られ、友からも裏切られました。全世界が彼の敵となりました。そして最後は十字架にかけられ死なれたのです。何一つ罪を犯さなかったのに。文字通り、イエスはいのちをかけてくださったのです。この方が私たちの大祭司としてとりなしてくださるので、私たちは大胆に恵みの御座に近づくことができるのです。ですから、神の裁きや懲らしめにおびえることなく、主によって救われた喜びと平安の中で生きることができるのです。

このメシヤ、イエス・キリストを通して彼らは悔い改めて神に立ち返り、神の救いを受けようになるのです。それが22節にあることです。「あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。」
  これは神と神の民との契約です。神を信じる者は、神の民となります。そして、神が私たちの個人的な神となってくださいます。これが神との関係です。これがキリスト教です。キリスト教は宗教ではありません。キリスト教は神との関係なんです。この契約を結んだ者がクリスチャンです。この契約を結んだ者がイスラエルの民でした。これは個人的には神がアブラハムと結ばれたものです。しかし、イスラエルがエジプトを出てシナイ山までやって来たとき、神はイスラエルの民と結ばれました。しかし、この契約は彼らの罪によって一方的に破棄されてしまいました。その結果、契約に違反して自らの身に呪いを招いてしまったのです。でも、神は彼らを見捨てられませんでした。神様は最初からわかっていたのです。どんなに契約を結んでも裏切られるということを。でも神様は絶対に約束を破ることはなさいません。最後まで誠実に守られるのです。そしてその壊れた関係を修復するために、私たちに出来ないことをしてくださいました。それがイエス・キリストです。神はそのひとり子イエス・キリストをこの世に送り、その契約違反の罪をこの方に負わせて、十字架につけてくださったのです。未だかつてだれも見たこともない、聞いたこともない驚くべき方法によって、神は人類に救いの道を与えてくださったのです。私たちはそのことによって救われたのです。

それが世の終わりに実現することになります。キリストが再臨される時、イスラエルの民は、自分たちの先祖が突き刺した者を見て激しく嘆き、主に立ち返るようになるのです。そのことがゼカリヤ12章10節と黙示録1章7節にこう預言されてあります。
  「わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと嘆願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見て、ひとり子を失って嘆くかのように、その者のために嘆き、長子を失って激しく泣くかのように、その者のために激しく泣く。」(ゼカリヤ12章10節)
  「見よ、その方は雲とともに来られる。すべての目が彼を見る。彼を突き刺した者たちさえも。地のすべての部族は彼のゆえに胸をたたいて悲しむ。しかり、アーメン。」(黙示録1章7節)
  キリストが再臨される時、全世界の人々がこの方を仰ぎ見るようになりますが、ユダヤ人にとっては、それは特に驚愕の出来事になります。それは、自分たちのために戦ってくださっている、自分たちが待ち望んでいた主、ヤハウェは、実は先祖たちが突き刺したナザレ人イエスだったということを知るようになるからです。そして、彼らは胸をたたいて悲しみ、悔い改めて神に立ち返るようになります。イスラエルのすべての人たちがイエスを救い主として信じ受け入れるようになるのです。こうして、神の約束が成就することになります。その約束とは、「こうして、イスラエルはみな救われるのです。」(ローマ11:26)という約束です。それがこの「あなたがたは私の民となり、わたしはあなたの神となる」という約束です。いったいだれがこのようなことを考えることができるでしょう。こうしてイスラエルはみな救われるのです。彼らと約束された契約が実現することになるのです。

Ⅲ.神に立ち返れ(23-24)

ですから、第三のことは、神に立ち返れ、ということです。23~24節をご覧ください。「23 見よ。【主】のつむじ風が憤りとなって出て行く。渦巻く暴風が悪者の頭上に荒れ狂う。24 【主】の燃える怒りは、去ることはない。主が心の思うところを行って、成し遂げるまでは。終わりの日に、あなたがたはそれを悟る。」

24節に「終わりの日に」とあるので、ここでも世の終わりの患難時代のことが語られていることがわかります。それは、キリストを拒絶する者に対する神の怒りが注がれる時です。ヤコブの苦難と呼ばれているものです。それがここでは「主のつむじ風」とか、「渦巻く暴風」ということばで表現されています。これらは、終末にイスラエルの民を襲う患難の激しさを描写しています。主の燃える怒りは、去ることはありません。主が心の思うことを行って、成し遂げるまでは。つまり、その暴風は途中で止むことなく、主が命じたことを最後まで成し遂げるということです。患難時代がいかに困難なものであるかがわかります。しかし、神の怒りの目的は、イスラエルを滅ぼすことではなく、イスラエルを悔い改めに導くことでした。それが、「終わりの日に、あなたがたはそれを悟る。」とあることです。そして、31章1節の、「そのとき、主のことば、わたしはイスラエルのすべての部族の神となり、彼らはわたしの民となる」ということです。これは22節でも語られたことですが、ここでもう一度語られています。実はこの31章1節のことばは30章に含まれます。つまり、そのとき、イスラエルは神の懲らしめの意味を悟り、主に立ち返るようになるということです。つまり、神の怒りの目的が、イスラエルの霊的な回復であったことが明らかになるのです。それは預言者ホセアが預言していることでもあります。「1 さあ、【主】に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、癒やし、私たちを打ったが、包んでくださるからだ。2 主は二日の後に私たちを生き返らせ、三日目に立ち上がらせてくださる。私たちは御前に生きる。3 私たちは知ろう。【主】を知ることを切に追い求めよう。主は暁のように確かに現れ、大雨のように私たちのところに来られる。地を潤す、後の雨のように。」(ホセア6:1-3)

このことから言えることは、私たちの人生において遭遇する患難、苦難は、危機であると同時に主に立ち返るチャンスの時でもあるということです。ですから、今もし苦難に会っているなら、それを通して神が何を語っておられるのかを聞かなければなりません。その苦難がチャンスに変えられるように祈らなければなりません。あなたが神に立ち返り神との関係の回復を望むなら、神はいくらでもやり直しの機会を与えてくださいます。回復を与えてくださるのです。「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。」(Ⅰコリント10:13)
  この脱出の道こそ、悔い改めて、神に立ち返ることです。そうするなら、神はあなたとの関係を修復してくださり、燃える神の怒りから、あなたも救われるのです。今がそのとき、今が恵みの時、今が救いの日です。そのとき、あなたは神の怒りではなく、神の赦しと救いをいただき、あなたの傷も完全に癒されることになるのです。

Ⅱ列王記22章

 

 Ⅱ列王記22章から学びます。

 Ⅰ.ユダの王ヨシヤ(1-7)

まず、1~7節をご覧ください。「1 ヨシヤは八歳で王となり、エルサレムで三十一年間、王であった。彼の母の名はエディダといい、ボツカテ出身のアダヤの娘であった。2 彼は【主】の目にかなうことを行い、父祖ダビデのすべての道に歩み、右にも左にもそれなかった。3 ヨシヤ王の第十八年に、王は、メシュラムの子アツァルヤの子である書記シャファンを【主】の宮に遣わして言った。4 「大祭司ヒルキヤのもとに上って行き、【主】の宮に納められていた金、すなわち、入り口を守る者たちが民から集めたものを彼に計算させよ。5 彼らが【主】の宮で工事をしている監督者たちにそれを手渡すようにせよ。そして、監督者たちは、神殿の破損の修理をするために、【主】の宮で工事をしている者たちにそれを渡すようにせよ。6 大工、建築する者、石工に渡し、神殿の修理のための木材や切り石を買わせよ。7 ただし、彼らの手に渡した金の精算がなされる必要はない。彼らは忠実に働いているからである。」」

マナセ、アモンと続いた悪王の次に王となったのはヨシヤです。彼の母の名はエディダといい、ボツカテの出のアダヤの娘でした。彼は8歳で王となり、エルサレムで31年間治めました。彼が8歳で王に就いたのは、彼の父親のアモンが家来の謀反によって殺されたからです。そこでまだ8歳でしかなかったヨシヤが王として立てられたのです。

彼の特筆すべき点は、彼が主の目にかなうことを行い、父祖ダビデのすべての道に歩み、右にも左にもそれなかったという点です。南王国ユダには、アヒヤやセゼキヤのような善王がいましたが、その中でも彼はかつてないほどの善王、ユダの王たちの中でも最善の王と称せられるほどでした。彼は父祖ダビデのすべての道に歩、右にも左にもそれませんでした。彼の信仰は、それほど徹底していたのです。

ヨシヤは、その治世の18年、すなわち、彼が26歳の時に神殿の修理に着手します。それは単に神殿が老朽化したからということではなく、祖父マナセと父アモンによって神殿が荒らされていたからです。主のための器具は取り壊され、代わりに、偶像礼拝のための器具や祭壇、偶像などが持ち込まれていました。そのため破損がひどくなっていたのです。

彼はそのために必要な献金を集めると、それを、工事をしている者たちに渡し、神殿の修理に必要な木材や切り石を購入させました。しかし、彼らの手に渡した金の清算、すなわち会計報告を要求することはありませんでした。彼らが忠実に働いていたからです。このようにすることで、工事の進捗状況は一段と進んだはずです。彼は年が若くても、どうすれば人は動くのかをよく理解していました。

南王国ユダでは、これまでアサ、ヨシャパテ、ヒゼキヤの3人が宗教改革を行いましたが、ヨシヤが行った宗教改革は最大のものでした。彼は彼以前の誰よりも、徹底した改革を行ったのです。彼がこのような宗教改革を行うことができたのは、彼が主の目にかなうことを行い、父祖ダビデの道に歩み、右にも左にもそれなかったからです。私たちも主のみことばを握りしめ、主に信頼して歩むなら、主がその業を祝福してくださいます。

Ⅱ.律法の書の発見(8-13)

次に、8~13節をご覧ください。「8 そのとき、大祭司ヒルキヤは書記シャファンに、「【主】の宮で律法の書を見つけました」と言った。そしてヒルキヤがその書物をシャファンに渡したので、彼はそれを読んだ。9 書記シャファンは王のもとに行って、王に報告した。「しもべたちは、神殿にあった金を取り出して、これを【主】の宮で工事している監督者たちの手に渡しました。」10 さらに書記シャファンは王に告げた。「祭司ヒルキヤが私に一つの書物を渡してくれました。」シャファンは王の前でそれを読み上げた。11 王は律法の書のことばを聞いたとき、自分の衣を引き裂いた。12 王は祭司ヒルキヤ、シャファンの子アヒカム、ミカヤの子アクボル、書記シャファン、王の家来アサヤに次のように命じた。13 「行って、この見つかった書物のことばについて、私のため、民のため、ユダ全体のために、【主】を求めよ。私たちの先祖たちがこの書物のことばに聞き従わず、すべて私たちについて記されているとおりに行わなかったために、私たちに向かって燃え上がった【主】の憤りが激しいからだ。」

「そのとき」、大祭司ヒルキヤが主の宮で律法の書を発見しました。これは申命記の一部であったと考えられています。恐らく、モーセ五書だったものをマナセ王かアモン王が破壊したため、神殿に残されたのはそのうちの一部の申命記だったのではないかと思われます。

大祭司ヒルキヤはそれを読むと、それを書記のシャファンに渡して読むようにと勧めました。それを呼んだシェファンはどれほど驚いたことでしょうか。彼はすぐに王のもとに行って、王に報告しました。そしてそれをヨシヤ王の前で読み上げると、それを聞いたヨシヤ王は自分の衣を引き裂きました。これは、深い悔い改めを示す行為です。彼は、自分たちがとんでもない罪を行なってきたことに気づいたのです。そこには、イスラエルが主に背いて偶像礼拝を行なうならばどうなるか、すなわち、主の憤りとのろいが来るということが書かれてあったのでしょう。彼はそのモーセの預言が、まさに自分の世代で起ころうとしていることに気づいたのです。ということはどういうことかというと、確かにヨシヤ王は主の目にかなうことを起こってはいましたが、それはどちらというと感覚的なもの、感覚的な信仰であったということです。自分では主の目にかなったことを行っていると思ってはいましたが、実際に律法の書のことばを聞いたとき、自分の行いがそれとはかけ離れたものであることに気付いたのです。

そのようなことが私たちにもあります。自分では主の目にかなったことを行っていると思っていても実際には主のみこころからかけ離れているということが。信仰において重要なのは感覚的に従うのではなく、主のみことばを聞いて、それに従うことです。そして、もし主のみこころから離れていると気づいたなら、悔い改めて神に立ち返ることです。

それで彼はどうしましたか?彼は、祭司ヒルキヤとシャファンの子アヒカム、ミカの子アクボル、書記シャファン、王の家来アサヤを呼び、主のみこころを求めるように次のように命じました。

「行って、この見つかった書物のことばについて、私のため、民のため、ユダ全体のために、主を求めよ。私たちの先祖たちがこの書物のことばに聞き従わず、すべて私たちについて記されているとおりに行わなかったために、私たちに向かって燃え上がった主の憤りが激しいからだ。」(13)

ヨシヤ王は、先祖たちの時代から律法の書に記された主のことばが無視されてきたことを知り、主の裁きが下ることを恐れました。そして自分のために、また民のために、主の憤りと怒りとが取り去られるようにと願ったのです。

ヨシヤは、律法の書に記された神のことばを一度聞いただけで、すぐに宗教改革に着手しました。今の時代、私たちには聖書全巻が与えられていても、それに聞き従おうとしないことが多くあります。ヤコブ1章23~25節には、「みことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で眺める人のようです。眺めても、そこを離れると、自分がどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめて、それから離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならず、実際に行う人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。」とあります。みことばは鏡のようなものです。みことばを聞いてもそれを行わなければ、自分の顔がどのような顔だったか忘れてしまいます。けれども、みことばを求め、そこから離れず、それを行う人は、その行いによって祝福されます。それは、自分にどのような変化がもたらされたかがわかるほどです。

ヨシヤのすばらしいかった点は、この点です。彼はいつも神のみことばを求め、それをすぐに実践しました。実に彼の信仰は、このみことばに裏付けられた、みことばに基づいたものだったのです。

Ⅲ.マナセの子アモン(14-20)

最後に、14~20節をご覧ください。「14 そこで、祭司ヒルキヤ、アヒカム、アクボル、シャファン、アサヤは、女預言者フルダのもとに行った。彼女は、ハルハスの子ティクワの子である装束係シャルムの妻で、エルサレムの第二区に住んでいた。彼らが彼女に伝えると、15 彼女は彼らに答えた。「イスラエルの神である【主】はこう言われます。『あなたがたをわたしのもとに遣わした人に言え。16 【主】はこう言われる。見よ。わたしは、ユダの王が読み上げた書物のすべてのことばどおりに、この場所とその住民の上にわざわいをもたらす。17 彼らはわたしを捨て、ほかの神々に犠牲を供え、自分たちのすべての手のわざで、わたしの怒りを引き起こした。こうして、わたしの憤りはこの場所に燃え上がり、消えることはない。』18 【主】を求めるためにあなたがたを遣わしたユダの王には、こう言いなさい。『あなたが聞いたことばについて、イスラエルの神である【主】は、こう言われる。19 あなたは、わたしがこの場所とその住民について、これは恐怖のもととなり、ののしりの的となると告げたのを聞いた。そのとき、あなたは心を痛めて【主】の前にへりくだり、自分の衣を引き裂いてわたしの前で泣いたので、わたしもまた、あなたの願いを聞き入れる──【主】のことば──。20 それゆえ、見よ、わたしはあなたを先祖たちのもとに集める。あなたは平安のうちに自分の墓に集められる。あなたは自分の目で、わたしがこの場所にもたらす、すべてのわざわいを見ることはない。』」彼らはそれを王に報告した。」

そこで彼らは、女預言者フルダのもとに行きました。当時、エルサレムには、エレミヤやゼパニヤ、ハバククおといったすぐれた預言者たちがいましたが、彼らはその中で女預言者フルダを選んだのです。なぜ彼女が選ばれたのかはわかりません。彼女の夫が祭司の衣装係のシャルムという人であったことも関係あるかもしれません。彼女は、よほど信頼されていたのでしょう。

フルダは王の使者たちに主のことばを伝えました。それは、この場所、すなわちエルサレムとその住民にわざわいをもたらされるということです。それはユダの民が主を捨て、ほかの神々に犠牲を供え、主の怒りを引き起こしたからです。その罪に対する神の憤りが消えることはありません。

けれども、主のみこころを求めたヨシヤには、以下のことばが伝えられます。19~20節です。「あなたは、わたしがこの場所とその住民について、これは恐怖のもととなり、ののしりの的となると告げたのを聞いた。そのとき、あなたは心を痛めて主の前にへりくだり、自分の衣を引き裂いてわたしの前で泣いたので、わたしもまた、あなたの願いを聞き入れる─主のことば─。それゆえ、見よ、わたしはあなたを先祖たちのもとに集める。あなたは平安のうちに自分の墓に集められる。あなたは自分の目で、わたしがこの場所にもたらす、すべてのわざわいを見ることはない。』」彼らはそれを王に報告した。」

ヨシュアは個人的に神のあわれみを受けるようになります。そのあわれみとは、彼が生きている間は神の裁きを免れるというものです。この神のさばきとは何を指しているのかというと、バビロンがユダを攻めてきて、ユダの民がバビロンに捕え移されることです。彼が生きている間はこの裁きはくだりません。なぜなら、ユダとエルサレムに対する神の裁きを聞いたとき、彼が心を痛めて主の前にへりくだり、自分の衣を引き裂いて主の前で泣いたからです。それで主は彼の願いを聞き入れてくださったからです。

この約束の通り、彼はバビロンの王ネブカドネツァルが最初にエルサレムを攻める前に死にます。バビロンの王ネブカドネツァルが最初にエルサレムを攻めたのは前605年ですが、彼はその前の前609年に死に、墓に葬られました。彼は平安のうちに自分の墓に集められたのです。それは、彼が主のみことばに基づいて主を求めたからです。ここがヨシヤの素晴らしかった点です。

ところで、このヨシヤ王は12章に登場したヨアシュ王と似ている点があります。ヨシヤは8歳で王となると、エルサレムで31年間治めましたが、一方、ヨアシュは7歳で王になると、エルサレムで40年間ユダを治めました。どちらも神殿の修繕作業を行いました。ヨアシュも主のみこころにかなうことを行いました。しかし、明らかに違う点があります。それは、ヨシヤはいつも主のみこころを求め、父祖ダビデのすべての道に歩み、右にも左にもそれなかったのに対して、ヨアシュは、祭司エホヤダが彼を教えた間はいつも主の目にかなうことを行いましたが、エホヤダが死ぬと、主のみこころからそれて行った点です。いったいどうしてヨアシュは主のみこころからそれ、ヨシヤはそれなかったのでしょうか。それは、ヨアシュは祭司エホヤダに支えられた信仰だったのに対して、ヨシヤは主のみことばに裏付けられた信仰であったからです。ヨシヤは主の神殿を再建したのみならず、再建途中に律法の書を見つけると、彼はそれを読み、悔い改め、神のみことばに従おうと努力しました。ただ教えられたとおりにするだけのヨアシュと、教えられたみことばを自らの生活に取り入れ、それを実践しようとしたヨシヤには、違いがあったのです。

大切なのは、神のみことばに対する姿勢です。神のみことばが、私たちの心を照らし、私たちに罪を示す時に、これを素直に受け入れる、あるいは神のみことばが私たちの心を照らし、みこころを示されるなら、それを素直に受け入れ、それを実際に行うかどうかということです。あるいは、神のみことばが私たちの心を照らし約束を語るならば、その約束に信頼してみことばに応答するかどうかです。ヨシヤにあってヨアシュになかったものはまさにこのことだったのです。 それは私たちにも言えることです。私たちの信仰も誰かに支えられてではなく、自ら神のみことばを読み、みことばを土台として生きるものでなければなりません。そして読んだみことばを素直に受け入れ、そのみことばに信仰をもって応答するなら、ヨシヤのような祝福がもたらされるのです。

エレミヤ30章1~11節「だが、ヤコブはそこから救われる」

今日は、エレミヤ書30章からお話します。今日のメッセージのタイトルは、「だが、ヤコブはそこから救われる」です。7節から取りました。ここには「だが、彼はそこから救われる」とあります。「そこから」とは、その前に「それはヤコブには苦難の時」とあるように、苦難から救われるということです。ヤコブ、イスラエルは、その日大いなる苦難を受けますが、彼らはそこから救われるのです。それは私たちクリスチャンへの約束でもあります。私たちも患難を受けますが、そこから救われるのです。何という慰めに満ちた約束でしょうか。

前回もお話したように、エレミヤ書は29章から33章までが全体の中心部、まさに心臓部に当たる箇所となります。29章10節には、バビロンに七十年が満ちるころ、主はユダの民、イスラエルを顧みて、いつくしみを施し、彼らを祖国に帰らせるとありましたが、この30章には、それが具体的にどのようになされるのかが語られます。

Ⅰ.その時代が来る(1-3)

まず、1~3節をご覧ください。「1 【主】からエレミヤにあったことばは、次のとおりである。2 イスラエルの神、【主】はこう言われる。「わたしがあなたに語ったことばをみな、書物に書き記せ。3 見よ、その時代が来る──【主】のことば──。そのとき、わたしはわたしの民イスラエルとユダを回復させる──【主】は言われる──。わたしは彼らを、その父祖に与えた地に帰らせる。彼らはそれを所有する。」」

主はエレミヤに、「わたしがあなたに語ったことばをみな、書物に書き記せ。」と言われました。書き記す内容は、主がエレミヤに語ったすべてのことばです。それはエレミヤ書全体を指しますが、特に30章と31章の内容となります。そして、その中心的な内容がこの3節のことばです。「見よ、その時代が来る──【主】のことば──。そのとき、わたしはわたしの民イスラエルとユダを回復させる──【主】は言われる──。わたしは彼らを、その父祖に与えた地に帰らせる。彼らはそれを所有する。」

ここでは、「見よ、その時代が来る」とか「そのとき」ということばが強調されています。新改訳第3版では、どちらも「その日」と訳しています。このように、聖書に「その時代」とか「その日」という表現がある時は、未来のことを預言する時に使われています。つまり、ここでは山が何重にも重なって見えるように、バビロン捕囚からの回復と同時に世の終わりに起こることが二重の預言として語られているのです。神はエレミヤに近い将来に起こることだけでなく、遠い未来に起こることも見せてくださいました。近い将来に起こることとは、70年間のバビロン捕囚からの解放のことです。彼らはバビロン捕囚から解放され、神がその父祖に与えた地に帰ることができるようになります。そればかりか、遠い未来においては、全世界に離散したイスラエルの民が祖国に帰還し、そこを所有するようになるというのです。

ここには「イスラエルとユダ」とあります。当時イスラエルは統一国家ではなく、北と南に分かれていました。北王国イスラエルと南王国ユダです。この時、北王国イスラエルは既にアッシリヤ帝国によって滅ぼされていました。B.C.722年のことです。それで北王国イスラエルの民はアッシリヤの捕囚となったり、周辺の国々に避難して行きました。いわゆる離散の民となったのです。これを何というかというと「ディアスポラ」と言います。「離散の民」です。その後、バビロンという新興国が起こりアッシリヤ帝国を呑み込むと、今度はそのバビロンが南王国ユダを滅ぼしました。しかし、ユダの人たちはバビロン捕囚となっても70年後には必ず祖国に帰れると預言されていて、それがB.C.539年に実現します。しかし、北イスラエルの民はアッシリヤによって滅ぼされて以来、世界中に散らされたままになっていますが、その北イスラエルの民も祖国に帰るようになるというのです。

果たして、それが実現することになります。いつですか?ここには「その日」とあります。それは驚くことなかれ、今私たちが生きているこの時代に起こったのです。1948年5月14日に、イスラエルは国連によって独立国家として認められたのです。それは1900年ぶりの奇跡でした。A.D.70年にローマ帝国の属国となっていたイスラエルは、ローマの激しい迫害によって国を失うと、世界中に散らされて行きました。それで北イスラエルだけでなく南ユダも離散の民となるのです。しかし、1800年代後半頃から世界中に離散していたイスラエルの民が急速に戻り始めると、これをシオニズム運動と言いますが、第一次世界大戦でトルコが負けイギリスの統治下に置かれ、第二次世界大戦を経て奇跡的に国として再興を果たすのです。信じられないことが起こりました。1900年の時空を超えて、神は再びイスラエルとユダを祖国に帰らせたのです。それは世界中の誰もが目を疑うような出来事でした。1900年もの間世界中に散らされていた民族が、再び祖国を取り戻したというような話など聞いたことがありません。でもそれが実際に起こったのです。それはどういうことかというと、今は世の終わりの時でもあるということです。

マタイ24章には、世の終わりにはどのようなことが起こるのかその前兆となることを、イエスが弟子たちに話されましたが、世の終わりになると、戦争や戦争のうわさを聞くようになると言われました。飢饉と地震が起こります。偽預言者が大勢現れて、多くの人を惑わします。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えます。もうこれだけでも、現代が世の終わりに限りなく近いことがわかります。でも、イエスは、このようなことが起こってもうろたえないようにしなさいと言われました。そういうことは必ず起こりますが、まだ終わりではないからです。世の終わりの前には世界中に散らされた選びの民が再び集められるようになるからです。

ですから、イエスはこう言われたのです。「人の子は大きなラッパの響きとともに御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで四方から、人の子が選んだ者たちを集めます。」(マタイ24:31)
  「選びの民」とはイスラエルの民のことです。世の終わりになると、神は選びの民であるイスラエルを集められます。これはエレミヤ書29章と30章で預言されていることです。そのことがここで預言されているのです。ですから、32節にこう言われているのです。「いちじくの木から教訓を学びなさい。枝が柔らかくなって葉が出てくると、夏が近いことがわかります。」(マタイ24:32)
  いちじくの木は、イスラエルのシンボルです。そのいちじくの木の枝がやわらかくなって葉が出てくるということは、イスラエルが復興するということです。そのようになると夏が近いことがわかります。夏とは、いちじくの実を収穫する時、すなわち、イエスが再び来られる時のことです。その前にイスラエルの民が再び集められるのです。これらのことをすべて見たら、人の子が戸口まで近いことを知りなさいと、言われたのです。それが起こったのです。1948年に。ということは、もうイエスの再臨、世の終わりがすぐそこまで来ているということです。世の終わりのカウントダウンが始まったのです。私たちはそういう時代に生きているのです。

でも、まだイエスは再臨していないじゃないですか。あれからもう70年が経っていますよ。それなのにそれが実現してないのは、聖書には誤りがあるということですか?あるいは、聖書は信頼に値しない書物であるということですか?そうではありません。本来であれば、もういつ来てもいいのです。ただ、そうされなかったというだけです。それは一重に神が忍耐しておられるからです。神はひとりも滅びることを願わず、すべての人が救われて真理を知るようになることを願っておられるからです。もしその時にイエスが再臨されすべての悪を一掃されたとしたらどうでしょう。ここにいる多くの人たちは救われなかったでしょう。でも神はひとりも滅びることを望んでおられないので、未だに時を延ばしておられるのです。しかし、それはいつまでも続くものではありません。それはもうギリギリのところまで来ています。それがまだ来ていないというだけのことです。もうすぐ起こります。神のことばはすべて必ず実現するからです。神の民イスラエルとユダは回復し、父祖たちに与えた地に帰り、それを所有するようになるのです。今はどんなに荒れ果てていても、必ず回復するのです。

これは慰めではないでしょうか。それが私たちにも与えられている約束です。神が私たちに立てている計画はわざわいではなく平安を与える計画であり、将来と希望を与えるためのものです。最後は希望なのです。必ず回復の時が来ます。この約束を信じて、神とそのことばに希望を置く者でありたいと思います。

Ⅱ.ヤコブには苦難の時(4-7a)

次に、4~7a節をご覧ください。「4 【主】がイスラエルとユダについて語られたことばは次のとおりである。5 まことに【主】はこう言われる。「恐れてわななく声を、われわれは聞いた。『恐怖だ。平安がない』と。6 さあ、男に子が産めるか、尋ねてみよ。なぜ、わたしは勇士がみな産婦のように腰に手を当てているのを見るのか。また、どの顔も青ざめているのを。7 わざわいだ。実にその日は大いなる日、比べようもない日。それはヤコブには苦難の時。だが、彼はそこから救われる。」

ここには、その時どんなことが起こるかが書かれてあります。それが「ヤコブの苦難」です。ここも二重の預言になっています。「その日」とか「大いなる日」とあるからです。聖書においてこのことばが使われる時は、例外なしに終末時代を指しています。これは近い将来においてはバビロン捕囚によって成就しますが、遠い未来においては世の終わりの患難時代に起こることを指しています。

その日には大いなる患難が襲ってきます。5節には「恐れてわななく声」とか「恐怖だ。平安がない声」とありますが、それはまさにそのことを表現しています。男に子が産めるはずがないのに「男に子が産めるか、尋ねてみよ」とあるのは、男が産婦のように産みの苦しみをするようになるということです。私は痛風の痛みしか経験したことがありませんが、人間にとって最も激しい痛みは子どもを出産する時の痛み、産みの苦しみだそうです。その日には、男も激痛で腰に手を当て、顔が青ざめるようになります。実にその日は大いなる日で、他に比べようもない日なのです。前代未聞の日です。それはバビロン捕囚の比どころではありません。もっと恐ろしい、もっと激しい苦難が襲うようになるのです。それが世の終わりに起こる患難時代です。それがここでは「ヤコブには苦難の時」と言われています。ヤコブとはイスラエルのことです。イスラエルは世の終わりに激しい患難時代を通るようになるということです。それはバビロン捕囚のように苦痛が伴うものですが、それとも比較できないほどの苦痛、まさに陣痛のように激しい痛みが伴うのです。ゼカリヤ書によると、「その三分の二は断たれ、死に絶え、三分の一がそこに残る」(ゼカリヤ13:8)と言われています。これは反キリストの迫害によって世界中のユダヤ人の三分の二が死に絶えるということです。第二次世界大戦時に、あのヒトラーによって約600万人のユダヤ人が虐殺されましたが、それは全世界のユダヤ人の三分の一でした。ですから、それ以上の患難が襲うということです。私たちはあのホロコーストの悲劇を知っています。あれほど恐ろしいことがあるかと思うほど恐ろしいことですが、世の終わりにもたらされる患難はそれ以上のもの、もっと恐ろしい患難です。それがユダヤ人を襲うことになるのです。これが黙示録6~19章に描かれている内容です。黙示録6章16~17節には、それがあまりにもひどい患難なので、地の王たち、高官たち、金持ちたち、力ある者たち、すべての奴隷と自由人が、洞窟と山の岩間に身を隠し、山々や岩に向かってこう叫ぶほどです。
「私たちの上に崩れ落ちて、御座に着いておられる方の御顔と、子羊の御怒りから私たちを隠してくれ。神と子羊の御怒りの、大いなる日が来たからだ。だれがそれに耐えられよう。」

このことについては、イエスご自身も語られました。マタイ24章15~21節をご覧ください。「15 それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす忌まわしいもの』が聖なる所に立っているのを見たら──読者はよく理解せよ──16 ユダヤにいる人たちは山へ逃げなさい。17 屋上にいる人は、家にある物を取り出そうとして下に降りてはいけません。18 畑にいる人は上着を取りに戻ってはいけません。19 それらの日、身重の女たちと乳飲み子を持つ女たちは哀れです。20 あなたがたの逃げるのが冬や安息日にならないように祈りなさい。21 そのときには、世の始まりから今に至るまでなかったような、また今後も決してないような、大きな苦難があるからです。」
  これがエレミヤ書で言われている「ヤコブの苦難」です。それはこれまで経験したことがないような、また今後も決して経験しないような大きな苦難です。ユダヤ人たちが反キリストによって迫害されるからです。なぜ彼らが迫害されるのかというと、ユダヤ人は反キリストを絶対に拝まないからです。反キリストは自分を現人神であると宣言するのですが、ユダヤ人は真の神以外を拝まないので迫害されるのです。ここに「荒らす忌むべきものが聖なるところに立っているのを見たら」とありますが、それはこの7年間の患難時代のちょうど半分、1260日、3年半が経った時のことです。反キリストはユダヤ人のためにエルサレムに神殿を建てるので、ユダヤ人たちはすっかり騙されて彼をメシヤだと信じるのですが、3年半が経ったとき彼は神殿の最も聖なるところに立ち、「我こそ神である」と宣言するようになります。その時になってユダヤ人たちは自分たちが騙されたことに気付くのですが時すでに遅しで、激しい迫害を受けるようになるのです。それがこのヤコブには苦難の時のことです。

その時には山に逃げるようにと言われています。この「山」とは、旧約聖書では「ボツラ」と呼ばれている山で、現在の「ペトラ」という町のことだと考えられています。ここは今、世界遺産になっています。岩だらけで何もない場所ですが、「逃れの町」としての役割を担ってきたところです。そこは岩だらけで、難攻不落の天然の要塞となっています。イスラエルの民はそこでかくまわれることになります。その間に反キリストは逃げないユダヤ人を追い回し、迫害して虐殺するのです。それが世界のユダヤ人の全人口の三分の二に相当するのです。他の三分の一は山に逃れて助かります。ここに「逃げるのが冬や安息日にならないように祈りなさい」とあるのは、冬は雨期なのでぬかるんで歩けないからです。また、安息日というのは、旅行が許されていないので、歩ける距離が律法で決まっていたからです。

この患難時代は、それほど苦しい時です。それはまさに出産の時の激しい痛み、いやそれ以上の苦痛です。ヤコブ、イスラエルはそこを通るようになります。しかし、イエス・キリストを信じる者はこの患難を受けることはありません。イエス・キリストが私たちの岩であり、隠れ場であり、避け所であり、砦、大盾となって、私たちを匿ってくだるからです。「いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。」(詩篇91:1)とある通りです。

主はその前に再臨され、ご自身を信じる者を引き上げてくださいます。これを「携挙」と言います。主が天から下って来られます。そしてまず、キリストにあって死んだ人が墓からよみがえり、次に、生き残っているクリスチャンが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。これがⅡテサロニケ4章16~17節で言われていることです。もし引き上げられなければ大変なことになります。それはあなたが重い思いからではありません。あなたが主イエスを信じなかったからです。これはもう死にたいと思うくらい苦しい患難です。でもこの患難時代の前に携挙が起こり、私たちはそこから救われるのです。これがⅠテサロニケ5章9節で約束されていることです。ご一緒に読みましょう。「神は、私たちが御怒りを受けるようにではなく、主イエス・キリストによる救いを得るように定めてくださったからです。」
  神は、私たちが御怒りを受けるようにではなく、主イエス・キリストによる救いを得るように定めてくださいました。この御怒りとは、この患難時代にもたらされる苦難のことです。私たちは主イエス・キリストによって、神の御怒りから救われるように定められているのです。ですから、恐れることはありません。

Ⅲ.だが、彼はそこから救われる(7b-11)

第三に、だが、彼はそこから救われます。7節後半~11節をご覧ください。「7bだが、彼はそこから救われる。8 その日になると──万軍の【主】のことば──わたしはあなたの首のくびきを砕き、あなたのかせを解く。他国人が再び彼を奴隷にすることはない。9 彼らは彼らの神、【主】と、わたしが彼らのために立てる彼らの王ダビデに仕える。10 わたしのしもべヤコブよ、恐れるな。──【主】のことば──イスラエルよ、おののくな。見よ。わたしが、あなたを遠くから、あなたの子孫を捕囚の地から救うからだ。ヤコブは帰って来て、平穏に安らかに生き、脅かす者はだれもいない。11 わたしがあなたとともにいて、──【主】のことば──あなたを救うからだ。わたしが、あなたを追いやった先のすべての国々を滅ぼし尽くすからだ。しかし、あなたを滅ぼし尽くすことはない。ただし、さばきによってあなたを懲らしめる。決してあなたを罰せずにおくことはない。」」

だが、ヤコブには希望があります。それはヤコブには苦難の時ですが、彼はそこから救われることになるからです。その様子が8節以降に語られています。「その日になると─万軍の【主】のことば─わたしはあなたの首のくびきを砕き、あなたのかせを解く。他国人が再び彼を奴隷にすることはない。」
  その日、主は反キリストをさばき、ヤコブを解放されます。他国人が再び彼らを奴隷にすることはありません。彼らは彼らの神、主と、わたしが彼らのために立てる彼らの王ダビデに仕えるようになります(9)これはどういうことかというと、千年王国で復活したダビデとともにイスラエルを統治するようになるということです。

10節をご覧ください。ヤコブは、散らされた先の国々から約束の地に帰還し、そこで安らかに住まうようになります。ヤコブ、イスラエルは、何度も神に背く罪を犯し、神から懲らしめの罰を受け、そこで苦しみを味わいますが、滅ぼし尽くされることはありません。その罪のゆえに大きな痛みや傷、苦しみを味わったあとには、赦しと救いを用意しておられるのです。なぜ?なぜなら、神がそのように約束してくださったからです。

11節をご覧ください。ここには、「わたしがあなたとともにいて─主のことば─あなたを救うからだ。わたしが、あなたを追いやった先のすべての国々を滅ぼし尽くすからだ。しかし、あなたを滅ぼし尽くすことはない。ただし、さばきによってあなたを懲らしめる。決してあなたを罰せずにおくことはない。」とあります。これもすばらしい約束です。確かに、ヤコブは主に背き自分勝手な道に歩んだので、主は決して彼らを罰せずにおくことはしませんが、だからと言って滅ぼし尽くすことはありません。それはヤコブには苦難の時ですが、その苦難は母鳥が心地よい巣をわざと壊し、雛鳥たちを何もない空間に落とすことによって雛鳥が高く飛ぶことを学ぶことができるようにするように、ご自分の民を懲らしめるために与えるのです。
  ですから、彼らが滅ぼし尽くされることはありません。神はこの約束に基づいて、大きな痛みや苦しみを味わった後に、赦しと救いを与えてくださるのです。神は約束を守られる方です。もしイスラエルが滅びたり、国が完全に失われることがあるとしたら、それは約束違反をしたことになりますが、神はそういう方ではありません。神はご自身の約束に基づいて、イスラエルを滅ぼし尽くすことは絶対になさらないのです。逆に、イスラエルに敵対する者は滅ぼし尽くされることになります。

そして世の終わりに、これが成就することになります。ゼカリヤ12章10節を開いてください。ここには、「わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと嘆願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見て、ひとり子を失って嘆くかのように、その者のために嘆き、長子を失って激しく泣くかのように、その者のために激しく泣く。」とあります。これはどういうことかというと、ヤコブの苦難を通して悔い改めたイスラエルが、信仰を持って再臨のイエスを迎えるようになるということです。
「こうして、イスラエルはみな救われるのです。」(ローマ11:26)
  だから、イスラエルの平和のために祈らなければなりません。イスラエルの救いがイエスの再臨の条件となっているからです。

だれが、こんなことを考えることができるでしょうか。主のご計画は、人間の思いをはるかに超えています。イスラエルは自分たちの罪ゆえに神から懲らしめを受けますが、それはヤコブには苦難の時です。でも、彼はそこから救われます。それは私たちも同じです。私たちも神に背くことで神から懲らしめを受けますが、その懲らしめを通して神に立ち返り、悔い改めてイエス・キリストを受け入れることによって、そこから救われることになります。

ですから、恐れないでください。おののかないでください。主があなたとともにいて、あなたを救い出してくださるからです。患難の先にある希望を見上げ、主イエスを信じ、主とともに歩む決断をしようではありませんか。あなたの上に、主が恵みと哀願の霊を注いでくださいますように。その霊によって主を仰ぎ見て、主が与えておられる約束を受け取ることができますように。