エレミヤ41章1~18節「みこころを知り、みこころに従う」

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きょうは、エレミヤ書41章からお話します。タイトルは、「みこころを知り、みこころに従う」です。この41章は、前回お話した40章からの続きとなっています。

前回は、エレミヤがバビロンの王の親衛隊長ネブザルアダンから、あなたが行ってよいと思う、気に入ったところへ行きなさいと言われまたが、エルサレムの貧しい民の間に住むことを選択したことを見ました。なぜなら、それが神から彼に与えられた使命、神のみこころだったからです。また、総督ゲダルヤは、ユダに残された民に「カルデア人に仕えることを恐れてはならない。この地に住んで、バビロンの王に仕えなさい。そうすれば、あなたがたは幸せになる。」と言いました。なぜなでしたか?それが神のみこころだったからです。

しかし、そんなゲダルヤでしたが、アンモン人の王によって遣わされたイシュマエルによる暗殺計画を見破ることができませんでした。彼は霊的、信仰的に優れていましたが実際的な面で弱いところがあったのです。ですから、神のみこころに従うためには、それを妨げようとする悪魔の策略に対してしっかりと対処するために、御霊の武具を身にまとい備えていなければなりません。

今回は、その続きです。神のみこころを知り、みこころに従うためにはどうしたら良いのでしょうか。

 Ⅰ.高慢は破滅に先立つ(1-10)

まず、1~10節をご覧ください。3節までをお読みします。

41:1 ところが第七の月に、王族の一人、エリシャマの子ネタンヤの子イシュマエルは、王の高官と十人の部下とともに、ミツパにいるアヒカムの子ゲダルヤのもとに来て、ミツパで食事をともにした。41:2 ネタンヤの子イシュマエルと、彼とともにいた十人の部下は立ち上がって、シャファンの子アヒカムの子ゲダルヤを剣で打ち殺した。イシュマエルは、バビロンの王がこの地の総督にした者を殺した。41:3 ミツパでゲダルヤと一緒にいたすべてのユダの人たちと、そこに居合わせたカルデア人の戦士たちを、イシュマエルは打ち殺した。」

1節の「ところが」とは、イシュマエルが総督ゲダルヤを暗殺しようとしているという知らせをカレアハの子がヨハナンがゲダルヤに伝えたにもかかわらず、ゲタルヤはそれを本気にするどころかヨハナンこそ偽りを語っていると言って受け入れなかったことを受けてのことです。ところが、第七の月に、王族の一人、エリシャマの子ネタンヤの子イシュマエルが、王の高官と10人の部下とともに、ミツパにいたゲダルヤのもとにやって来ると、彼を剣で打ち殺してしまいました。これは、あらゆる面で忌むべきことでした。
  第一に、ここに「第七の月」とありますが、これは今の暦で言うと10月に当たります。この第七の月には、ユダヤでは仮庵の祭りをはじめ、さまざまな祭りが行われる月です。そういう最も聖なる月に暗殺が行われたのです。
  それだけではありません。ここには「ミツパで食事をともにした」とあります。それは食事の席で行われました。イシュマエルの一行はゲダルヤのもてなしを受けていたのです。中東では食事をともにするというのは、親しい交わりを持つことを意味していました。ですから、ゲダルヤはまさかイシュマエルがアンモン人の王に雇われて反乱を起こすなんて想像もできなかったでしょう。しかし、イシュマエルはその食事の席でゲダルヤを打ち殺したのです。これは本当に卑劣な行為です。
  殺されたのはゲダルヤだけでなく、彼とそこに一緒にいたすべてのユダの人たちと、そこに居合わせたカルデアの戦士たちも含まれていました。いったいなぜイシュマエルはこのような反乱を起こしたのでしょうか。

1節には、このイシュマエルについて「王族の一人」と紹介していますが、これは、彼がダビデの家系であったことを表しています。ダビデ王の家系ある自分こそユダを統治するにふさわしい人物であるのに、ゲダルヤがその立場に立っていることを受け入れられなかったのです。また、2節には「バビロンの王がこの地の総督にした者」とありますが、ゲダルヤのことをわざわざこのように紹介しているのは、彼がバビロンの王によって立てられた総督であることを強調するためです。すなわち、イシュマエルの中にバビロンに対する敵対心があったことを表しているのです。そうです、イシュマエルが総督ゲダルヤを殺したのは、バビロンの支配下で営まれる政治を正当なものとして受け入れることができなかったからです。彼はそれらを不当な統治であるとみなし、これを排除しようとしたのです。それは、その後に起こる第二の事件を見てもわかります。4~10節をご覧ください。

「41:4 ゲダルヤが殺された次の日、まだ、だれもそれを知らなかったとき、41:5 シェケム、シロ、サマリアから八十人の者がやって来た。彼らはみな、ひげを剃り、衣を引き裂き、身に傷をつけ、穀物のささげ物や乳香を手にして、【主】の宮に持って行こうとしていた。41:6 ネタンヤの子イシュマエルは、彼らを迎えにミツパを出て、泣きながら歩いて行った。そして、彼らに出会ったとき、「アヒカムの子ゲダルヤのところにおいでください」と言った。41:7 彼らが町の中に入ったとき、ネタンヤの子イシュマエルと、彼とともにいた部下たちは、彼らを殺して穴の中に投げ入れた。41:8 彼らのうちの十人がイシュマエルに、「私たちを殺さないでください。私たちには、小麦、大麦、油、蜜など、畑に隠されたものがありますから」と言ったので、彼は、彼らをその仲間とともに殺すのをやめた。41:9 イシュマエルが、ゲダルヤの指揮下にあった人々を打ち殺し、その死体すべてを投げ入れた穴は、アサ王がイスラエルの王バアシャに備えて作ったものであった。ネタンヤの子イシュマエルはそれを、殺された者で満たした。41:10 イシュマエルは、ミツパにいた民の残りの者たち、すなわち王の娘たち、および親衛隊の長ネブザルアダンがアヒカムの子ゲダルヤに委ねた、ミツパに残っていたすべての民を捕らわれの身とした。ネタンヤの子イシュマエルは彼らを捕囚にして、アンモン人のところに渡ろうとして出発した。」

次の日のことです。まだ、だれもそれを知らなかったとき、 シェケム、シロ、サマリアから80人の者が主の宮にささげ物をささげるために、やって来ました。「それ」とは、イシュマエルがゲダルヤを殺害したことです。シェケム、シロ、サマリアといった町々は、北王国イスラエルにある町です。そこはかつて偶像礼拝の中心地でしたが、B.C.722年にアッシリアによって滅ぼされると、そこにユダヤ人とアッシリア人の混血の民サマリア人が生まれ、独自の宗教が始まりました。それにもかかわらず、中には真の神、ヤハウェを信じるユダヤ人たちが残されていて、エルサレムの神殿に上って礼拝をささげていたのです。彼らはエルサレムが破壊されたことを知りながら、なおもそこで礼拝をささげようとしてやって来たのです。5節に、ひげを剃り、衣を引き裂き、身に傷をつけとあるのは、深い悲しみを表しています。神殿が焼失してからしばらく経っていましたが、彼らは秋に行われる祭りを、神に対する悔い改めの日にしようとしたのです。動物のいけにえを持っていなかったのは、それをささげる場所がなかったからです。北王国イスラエルに、このような真の神、ヤハウェを信じる神の民が残されていたことは驚きですね。おそらく南ユダ王国のヒゼキヤ王やヨシヤ王によって行われた宗教改革の影響が残っていたのでしょう。神を求める人はだれもいないと思えるような今日にあっても、私たちの知らないところで、神はこうした残りの民を備えておられるということを知ることは大きな励ましです。

さて、彼らが主の宮にやって来たということを聞いたイシュマエルはどうしたでしょうか。6節を見てください。彼は彼らを迎えにミツパを出て、泣きながら歩いて行ったとあります。それは彼らを騙すための演技でした。そして彼らに出会ったとき彼はゲダルヤの家に誘い込み、彼らを殺してしまいました。何と残虐な行為でしょうか。しかし、彼らのうちの10人が「殺さないでください」と懇願し、小麦、大麦、油、蜜などの提供を約束すると、彼らを殺しませんでした。それでイシュマエルはミツパに残っていたすべての民を捕虜にして、アンモン人のところに渡そうとして出発したのです。彼はゲダルヤを殺害しただけでなく、主を礼拝するために北からやって来た人たちを虐殺したのです。いったいなぜ彼はこんな酷いことをしたのでしょうか。また、なぜ聖書はこの出来事を事細かにここに書き記しているのでしょうか。

多くの学者は、それはこのイシュマエルの残虐な人間性を示すためであったと考えていますが、そのことを示すためにわざわざこの出来事を記録したのでしょうか。それで他の学者は、これは彼の貪欲さを示すためであった考えています。それは8節に、彼らのうちの10人がイシュマエルに小麦とか、大麦、油、蜜などの提供を約束すると、彼は殺すのを止めたとあるからです。確かにそのような理由もあったでしょうが、もっと深い理由があったのではないかと思います。というのは、ただやみくもに通りがかりの人を虐殺したとは考えにくいからです。であれば、その理由とは何でしょうか。

それは、政治的、宗教的な理由です。なぜゲダルヤがエルサレムを治めなければならないのか。エルサレム神殿が破壊されたのに、なぜエルサレムで礼拝をささげなければならないのかということです。エルサレムを治めるのはダビデの家系である自分ではないのか。それなのにバビロンの王はゲダルヤを総督として立てた。そんなの断じて許せないし、認めることなどできない。だからイシュマエルはアンモン人の王と結託してゲダルヤを暗殺したのです。だからイシュマエルはサマリアからやって来た巡礼者一行を虐殺したのです。彼は、自分の先祖ソロモンが建てた神殿以外で行われる礼拝を受け入れることができなかったのです。彼はただやみくもに通りがかりの人を殺したわけではありません。バビロンの支配下で営まれる政治や宗教はすべて偽りであるとみなし、これを排除しようとしたのです。

強いて言うならば、彼は神のみこころを受け入れることができなかったのです。これらのことは、それを拒絶しようという思いから出た行為だったのです。というのは、神のみこころは何でしたか?神のみこころは、彼らがこの地に住んでバビロンの王に仕えることだったからです。40章9節を振り返ってみましょう。ここには、「ガルデア人に仕えることを恐れてはならない。この地に住んで、バビロンの王に仕えなさい。そうすれば、あなたがたは幸せになる。」とあります。どうすれば、幸せになりますか?この地に住んで、バビロンの王に仕えるなら、幸せになります。それが神のみこころだったのに、彼はそれを受け入れることができませんでした。「なぜ、バビロンに仕えなければならないのか」、「なぜ異邦人の言いなりにならなければならないのか」、「神は勝利を与えてくださるはずじゃないか。だから最後まで戦うべきではないか。それをしないのは不信仰だ。」と。ですからこれは彼が単に残虐な人間だからとか、貪欲な者であったということを示しているのではなく、神のみこころに従おうとしなかった頑なさが、このような事件を引き起こしたということを示しているのです。このように、イシュマエルの行動の動機というものを、神との関係、宗教的な点に求めてこそ、これらの出来事の本当の原因が見えてくるのです。

それはイシュマエルに限ったことではなく、私たちにも言えることではないでしょうか。私たちも自分の中で受け入れられないことがあると、イシュマエルのような気持ちになることがあります。

先日、ある牧師から電話がありました。その牧師は臨床心理の専門家と協力して心が病んでいる方を助けてあげたいといろいろな情報を発信しているのですがなかなか思うように広がらないので、どうしたら良いかアドバイスしてほしい、ということでした。そんなに親しい方ではないのになぜ私に電話をしてきたのか不思議に思いましたが、ずっと話を聞いていると電波の関係であまりよく聞き取れないこともありましたが鉄砲のように話し続けて止まらないので、聞いていてホトホト疲れ果ててしまいました。一生懸命に説明しようとしているのはわかりますが、そもそも私は人の心を癒すのは神ご自身と神のことばによるのであって、人間の科学や哲学は癒すことはできないと考えているので、「ごめんない。私はすこし体調を崩していることもあって休養しているので、お手伝いしていることはできません。」と丁重にお断りすると、今度はそのことについて突いてくるのです。「先生、信仰はどうしたんですか。そういう時だからこそ信仰が問われているんですよ。信仰は頭だけでなくその実践が大切なんですから」と。
  私はそのことばを聞きながらこう思いました。「この牧師は一生懸命なのはわかるけれど一生懸命になりすぎて回りが見えなくなっているんだなぁ」と。だから、そうでない状況を受け入れることができないのです。

これがこの世に対してですと、顕著にみられます。どうして自己中心の塊みたいな夫に仕えなければならないのか、どうして未信者の上司の言うことを聞かなければならないのか、どうして不信者の政治家が作ったこの世の制度に従わなければならないのかと。皆さん、どうしてですか。どうして神を信じていないこの世の言うことを聞かなければならないのですか。それは、聖書にそう書かれてあるからです。ローマ13章1~2節にはこうあります。

「13:1 人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです。13:2 したがって、権威に反抗する者は、神の定めに逆らうのです。逆らう者は自分の身にさばきを招きます。」

これが、聖書が教えていることです。たとえそれが未信者であっても、人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです。したがって、権威に反抗する者は、神の定めに逆らっているのであって、そのような者は自分の身にさばきを招くことになるのです。

これがイシュマエルの問題でした。これが私たちの問題でもあります。その結果、イシュマエルのように人を殺すようなことはしなくとも、自分の考えに固執するあまり、いつまでも神のみこころに立つことができないでいることがあるわけです。神のみこころに従うというよりも、あくまでも自分の思いを通したいのです。あたかも自分が神になったかのような錯覚をしてしまうのです。これは本当に危険なことです。箴言16章18節に、「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。」とある通りです。

この世は、上へ、上へと、人を追い越していくようにと駆り立てますが、聖書は、キリストが十字架にかかった後によみに下られたように、低いところに下ることの祝福を教えています。つまずき倒れたその先に、自分が知らなかった世界を見出すこともあるのです。水が高い所から低い所に注がれるように、神の恵みも高い所から低い所に注がれるのです。大切なことは神を認め、神のみこころに従うことです。それが謙遜であるということです。神の前になぜと問う前に、みこころが天で行われるように地でも行われますように、私の人生にも行われますようにと祈らなければなりません。

Ⅱ.主のはかりごとだけが成る(11-15)

次に、11~15節までをご覧ください。

「41:11 しかし、カレアハの子ヨハナンと、彼とともにいた軍のすべての高官たちは、ネタンヤの子イシュマエルが行ったすべての悪を聞くと、41:12 部下をみな連れて、ネタンヤの子イシュマエルと戦うために出て行き、ギブオンにある大池のほとりで彼を見つけた。41:13 イシュマエルとともにいたすべての民は、カレアハの子ヨハナンと、彼とともにいるすべての高官を見て喜んだ。41:14 こうして、イシュマエルがミツパから捕らえて来た民のすべては身を翻し、カレアハの子ヨハナンの側についた。41:15 ネタンヤの子イシュマエルは、八人の者とともにヨハナンの前から逃れ、アンモン人のところへ行った。」

イシュマエルの行為に対して、カレアハの子ヨハナンは黙っていませんでした。ヨハナンは、40章でイシュマエルによる暗殺計画を総督ゲダルヤに伝えた人物です。ゲダルヤの死後、ユダに残された将校たちのリーダーになっていた彼は、部下を連れてイシュマエルのあとを追い、ギブオンで彼に追いつくと、捕らわれていた人々は、この時とばかりにヨハナンの側についたので、イシュマエルは生き残っていた自分の部下8人とともにヨハナンの前から逃げ、アンモン人のところへ行きました。

イシュマエルは、ミツパにいたすべての民をとりこにしてアンモンに向かいながら、すべてがうまくいっていると感じたことでしょう。しかし、神は彼の悪い行いをカレアハの子ヨハナンと将校たちを用いて、討ち破られたのです。箴言19章21節に、「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る。」とあります。どんなに人が計画を立てても、主のはかりごとだけが成ります。神のみこころにかなわない計画は絶対に成功しません。表面的には順調に進んでいるかのように見えても、神がともにおられないならば、成功することはないのです。しかし、それがどんなに苦しくても自分に対する神の計画ならば、こんなはずではなかったと思うような出来事や試練に遭遇することがあっても、それは必ず成し遂げられます。むしろ、そのような経験さえも神に出会ったり、大きな祝福に導かれるために用いてくださるのです。

私は18歳の時、ある宣教師と出会い、教会に導かれ、神様に出会いました。ある日曜日の朝、私が自転車で教会へ行こうとしたら、母が私に言いました。
「とみちゃん、どこに行くの?」
 どこに行くのって教会に行くので、「ん、教会だよ。」と言うと、
「あんまり深入りしらんなよ」
と言いました。でも、いつしか深入りしてしまいました。
  その4年後に、その宣教師と結婚すると教会開拓に導かれました。あれから40年余、いろいろなことがありましたが、振り返ってみると、これが神様の計画だったんだなぁと、つくづく感じます。確かに辛いことや苦しいこともありました。その方が多かったかもしれない。時には辞めたいなあと思うこともありました。でもそのような経験を通して、もっと深く神を知ることができました。「あんまり深入りしらんなよ」と言った母も救われ、65歳の時に洗礼を受けました。どれだけの方々が救われたでしょうか。こんな小さな者を用いて、神様はいくつかの教会も生み出してくださいました。多くの奇跡も体験させていただきました。何よりも神の子としての特権が与えられ、永遠に神とともに生きるいのちが与えられました。これほどすばらしい人生を歩めるのは本当に幸いだと思います。マルチン・ブーマーは、「人生は出会いで決まる」と言いましたが、そのような出会いが与えられたことを感謝しています。それが、神の計画だったんです。もしそれに従わなかったら、今頃どうなっていたか想像することもできません。

私たちには多くの計画がありますが、しかし、主のはかりごとだけが成ります。ならば、私たちに求められていることは、主のはかりごと、主の計画に歩ませていただくことです。あなたに対する神様のご計画は何ですか。それがあなたの思いと違っても、こんなはずじゃなかったと思うようなこともあっても、神はすべてのことを働かせて益としてくださると信じて、あなたに対する神の計画を祈り求め、その道を歩ませていただこうではありませんか。それは人それぞれ違いますが、たとえそれが自分の思いと違っても、「これが道だ。これに歩め」と言われる主の御声を聞き従いたいと思うのです。

Ⅲ.恐れないで主に拠り頼む(16-18)

ですから第三のことは、何も思い煩わないで、神にすべてをゆだねましょうということです。16~18節をご覧ください。

「41:16 ネタンヤの子イシュマエルがアヒカムの子ゲダルヤを打ち殺した後、カレアハの子ヨハナンと、彼とともにいたすべての高官たちは、ネタンヤの子イシュマエルから取り返したすべての残りの民、すなわちギブオンから連れ帰った勇士たち、戦士たち、女たち、子どもたち、および宦官たちを連れて、ミツパから41:17 エジプトに行こうとして、ベツレヘムの傍らにあるゲルテ・キムハムへ行き、そこにとどまった。41:18 バビロンの王がこの地の総督としたアヒカムの子ゲダルヤを、ネタンヤの子イシュマエルが打ち殺したため、カルデア人を恐れたからである。」

カレアハの子ヨハナンを中心に、残されたわずかな数の民は思案します。このままでは自分たちはバビロンに疑われ、再び攻撃を受けるのではないかと。なぜなら、バビロンによって総督として立てられたゲダルヤを殺したイシュマエルを取り逃してしまったのですから。そこで彼らが考えたことは、エジプトに一時避難することでした。そこで彼らはミツパからベツレヘムの傍らにあるゲルテ・キムハムへ行き、そこにとどまりました。「ゲルテ」とは「宿場」という意味です。ですから、新共同訳では「ベツレヘムに近いキムハムの宿場にとどまった。」と訳しているのです。

でも、それは主のみこころではありませんでした。なぜなら、昔からイスラエルの民には、エジプトに下ることが禁じられていたからです。たとえば、出エジプト14章13節には、「モーセは民に言った。「恐れてはならない。しっかり立って、今日あなたがたのために行われる【主】の救いを見なさい。あなたがたは、今日見ているエジプト人をもはや永久に見ることはない。」とありますし、申命記17章16節には、「ただし王は、決して自分のために馬を増やしてはならない。馬を増やすために民をエジプトに戻らせてはならない。【主】は「二度とこの道を戻ってはならない」とあなたがたに言われた。」とあります。かつて奴隷として捕えられていたエジプトに帰ることは、出エジプトという神の恵みにあずかりながら、古いエジプトの生活に戻ることであり、神のみこころに反することだったのです。それなのになぜ、彼らはエジプトに行こうとしたのでしょうか。それは18節にあるように、カルデア人を恐れたからです。ゲダルヤを殺したイシュマエルを取り逃がしてしまったことで自分たちが疑われ、再び攻撃されることを心配したのです。

皆さん、恐れや不安があると正しい判断や決定を下すことができません。不安は前をさえぎる黒い雲のようなものです。不安な心は神から与えられるものではなく、自分の思いから出てきます。神とともに歩む人は神が与えてくださる平安の中で、神のみこころに歩むことができるのです。

カレアハの子ヨハナンは有能な将校でした。政治的な判断に優れ、物事の動きを洞察する力がありました。しかし、そんな彼にも欠けているものがありました。それは信仰です。神のみこころはエレミヤが預言したように、この地に住んで、バビロンの王に仕えなさいということでしたが、彼はそれを受け止めることができませんでした。自分たちが疑われるのではないかと心配し、その仕打ちを受けることを恐れて、そこから逃れる道を考えたのです。

私たちにもそういうことがあるのではないでしょうか。困難に直面した時、まだ起こっていなことをあれこれと想像して不安になることがあります。そんな時私たちに求められていることは、自分たちの知恵でそれを解決しようとするのではなく、まず神の御前にひれ伏し、自分自身を点検し、悔い改めて、主のみこころを求めて祈ることです。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたかたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

19世紀のアメリカの伝道者W・D・コールは、「平安、天から臨む平安、その愛の波が、とこしえにわがたましいを覆いますように。」と言いました。神から与えられる平安こそ、恐れや困難の中にあっても神のみこころを正しく知り、みこころに従うことができる原動力なのです。

あなたが恐れていることは何ですか。何を心配していますか。それを永遠の避け所である神のもとに持って行き、神に知っていただきましょう。神に拠り頼みましょう。そうすれば、神があなたのことを心配してくださいます。そして、あなたの理解をはるかに超えた神の平安で、あなたの心と思いを守ってくれます。そして主のみこころを悟り、みこころに従うことができるようになるのです。ですから、最後にまとめとして、ピリピ人への手紙4章6~7節を読んで終わりたいと思います。

「4:6 何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。4:7 そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」

混乱と恐れが襲ってくる時には、永遠の避け所である主のもとへ行き、神に拠り頼むことができますように。それがみこころを知り、みこころを行うために私たちにも求められていることなのです。