メッセージ

エレミヤ49章1~6節「アンモン人についての預言」

 2025年07月19日(土)

ネヘミヤ記1章

 2025年07月15日(火)

エレミヤ48章1~47節「モアブについての預言」

 2025年07月05日(土)

エズラ記10章

 2025年07月02日(水)

エズラ記9章

 2025年06月17日(火)

エレミヤ47章1~7節「ペリシテ人についての預言」

 2025年06月05日(木)

エズラ記8章

 2025年06月03日(火)

エズラ記7章

 2025年05月20日(火)

エレミヤ46章1~28節「エジプトについての預言」

 2025年05月16日(金)

エレミヤ49章1~6節「アンモン人についての預言」

今日は、アンモン人について語られた主のことばから学びたいと思います。アンモン人は前回のモアブ人同様、イスラエルの親類にあたります。アブラハムの甥であるロトの二人の娘によって生まれた子どもです。姉の子がモアブで、妹の子がアンモンです。そのアンモン人に対して、主は何と言われたのでしょうか。

Ⅰ.モレクではなく主イエスを王として(1)

まず、1節をご覧ください。「49:1 アンモン人について。【主】はこう言われる。「イスラエルには子がいないのか。世継ぎがいないのか。なぜ、ミルコムがガドを所有し、その民が町々に住んでいるのか。」」

どういうことでしょうか。まず、地図をご覧ください。

(引用:バイブルラーニング、ブログ)

アンモン人の地は、ヨルダン川の東側、モアブの地のすぐ上にありました。そこは元々イスラエル12部族の1つであるガド族に割り当てられていた地でしたが、紀元前722年にアッシリアによって北イスラエルが滅ぼされると、アンモン人はひょっこりとその地に侵入しそこを占領して定住するようになりました。1節の「イスラエルには子がいないのか。世継ぎがいないのか。なぜ、ミルコムがガドを所有し、その住民が町々に住んでいるのか」というのは、そのことが背景にあります。つまり、どうしてガドの所有地をアンモン人たちは自分のものとしたのかという意味です。

どうして彼らはガドが所有していた地を所有するようになったのでしょうか。先ほども申し上げたように、彼らはロトの子孫です。かつてソドムが滅ぼされた時彼らの先祖ロト一家はアブラハムの必死のとりなしによって救出されたのですから、アンモン人にとってイスラエル人は「いのちの恩人」であったはずです。それなのに彼らはガドに侵入しこれを奪い取りました。どうして彼らはそのようなことをしたのでしょうか。

それは彼らがそのような考え方を持っていたからです。1節の後半には、「なぜ、ミルコムがガドを所有し、その民が町々に住んでいるのか」とあります。「ミルコム」とは「モレク」のこです。ミルコムもモレクも同じです。アンモン人の神ですね。下の欄外には、別訳で「彼らの王」となっていますが、それは、この「モレク」がヘブル語の「メレク」から派生した言葉だからです。「メレク」には「王」という意味があるので、別訳では「彼らの王」となっているわけです。第3版はそのように訳しています。「なぜ、彼らの王がガドを所有し」となっています。なぜ、彼らの王がガドを所有したのでしょうか。なぜなら、彼らはそのような神を信じていたからです。それがミルコム、モレクです。「モレク」は快楽の神です。雄牛の頭を持った青銅の像が手を突き出した形で立っていました。モレク礼拝をする者たちは、その手の上に子どもを載せ、下から火をたいていけにえとしたのです(レビ記18:21)。どうしてそんなことをするのかというと、それが最大のささげものだからです。最大の犠牲をささげるなら最大の幸福を得ることができると考えたのです。様々なわざわいからも守られます。祝福が与えられる。まさに家内安全、商売繁盛です。そのために平気で我が子を焼き殺すのです。犠牲にします。それがモレクの神です。そして手の上に載せられた子どもは熱くて泣き叫ぶわけですが、その叫び声を消すためにモレクの祭司たちは太鼓をたたき続けました。その音が鳴り響いている間、参拝者が神殿娼婦と性的な儀式を行うためです。実におぞましいです。それはあなりにもおぞましいので、イスラエルはモレクを礼拝してはならいと堅く禁じられていました。レビ記18章21節にこうあります。

「また、自分の子どもを一人でも、火の中を通らせてモレクに渡してはならない。あなたの神の名を汚してはならない。わたしは【主】である。」

これはモレク礼拝のことです。彼らが約束の地カナンに入るとき、その地の風習であるモレク礼拝をまねてはならないし、彼らの掟に従って歩んではならないと、禁じられていたのです。もしそれをまねて、彼らの掟に従って歩むなら、彼らのようになるからです。

だからイスラエル12部族の1つガド族がアッシリアによって滅ぼされるとそれを見た彼らは、自分たちの先祖がアブラハムのとりなしによって救われたとか、そんなことはどうでもよかったのです。彼らの関心は自分たちにとって利益になることは何かということでした。それがミルコム(モレク)だったのです。彼らはただ自分たちにとっての快楽を求め、そのためには子どもさえも犠牲することも厭わなかったのです。恐ろしいです。

人は何を信じるか、だれに従うかによってその行動が決まります。モレクを信じるなら、ミルコムを王とするなら、モレクのようになり、主イエスを信じるなら、主イエスのようになります。あなたは何を信じていますか。だれを王にしていますか。だれに従っていますか。

自分の快楽のためなら子どもを犠牲にしも構わない、自分が快楽を得られるのなら、地位や名声を得られるなら、豊かな暮らしができるなら子どもを犠牲にすることも厭わないという考え方は、何もアンモン人だけに限ったことではありません。現代の私たちにも言えることです。たとえば、子どもをかぎっ子にするのはその一つではないでしょうか。子どもよりも仕事です。家族のため、生活のためと言いながら、もっと良い生活がしたい。貯金もしたいし、旅行もしたい。ブランド品も買いたいし、もっと刺激もほしいし。子どもをどこかに預ければいいというのはまさに現代のモレク礼拝ではないでしょうか。勿論、色々な事情があるのはわかります。神様はそれを十分知っておられます。だから神様のあわれみがあるのは確かです。でもそういうことを大義名分にして、本当は自分の快楽を求めているとしたら、それはモレク礼拝だと言っているのです。主はそれを忌み嫌っておられるのです。自分の子どもを一人でも、火の中を通らせてモレクに渡してはならないと。あなたの神の名を汚してはならないと。

このミルコム、モレク礼拝は私たちクリスチャンとは関係ないと思っている方もおられると思いますが、そうではありません。実はモレク礼拝は神の民であるクリスチャンにもはびこっているのです。たとえば、Ⅰコリント10章14節には、「ですから、私の愛する者たちよ、偶像礼拝を避けなさい。」とありますが、なぜ偶像礼拝を避けるようにとパウロが書き送ったのかというと、そこに偶像礼拝をしている人がいたからです。それは実際に偶像を拝むということだけではありません。コロサイ3章5節には「ですから、地にあるからだの部分、すなわち、淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝です。」とあります。貪欲は偶像礼拝です。主のみ教えから離れ、この世のものを貪るなら、それ自体が偶像礼拝なのです。私たちはだれも自分がまさか偶像礼拝をしているなんて思っていないでしょう。毎週日曜日は欠かさず礼拝に出席し、奉仕もしています。献金もちゃんとささげている。クリスチャンとしての自分の義務はちゃんと果たしているとみんな思っています。でも日曜日以外はどうでしょうか。霊的なことは神様に従います。でも仕事においては、プライベートなことにおいては従うわけにはいきません。そんなことをしていたらビジネスが成り立たない。だからこの世の慣わしに従います。そういう人が多いのではないでしょうか。神のことばよりも自分の快楽を求めているのです。それは現代のモレク礼拝です。その結果、神の祝福を失っているのです。

ここに出てくるイスラエル12部族の1つのガド族ですが、アンモン人によって支配される前にどうして彼らはその地に住むようになったのかをご存知ですか。そのいきさつは民数記32章に書いてあるので後でご覧いただけたらと思いますが、エジプトを出て約束の地に向かっていたイスラエルが、ヨルダン川を渡っていよいよ約束の地に入ろうとしたときその地にやって来ました。そしてその地を見渡すとそこには牧草地が広がっていました。ですから、多くの家畜を持っていたルベン族とガド族、マナセの半部族にとって非常に魅力的な場所に見えたのです。それで彼らはヨルダン川の向こうまで行かないでこの地に留まろうと考えました。そしてそのことをモーセに告げると、モーセはカンカンになって怒りました。「何を言っているんだ!あなたがたの兄弟たちはこれからヨルダン川を渡って戦いに行くというのに、あなたがたはここにとどまるというのか。どうして彼らの意気をくじいて、主が与えてくださった地へ渡らせないようにするのか」と。
  すると彼らは、「わかりました。じゃこうしましょう。私たちはイスラエルの子らを約束の場所に導き入れるまで、先頭に立って戦います。でも子どもたちはここにとどまります。そして約束の地で主がその敵を御前から追い払われたら自分たちはここに戻って来て、ここに住みます。いいでしょう?」それでモーセは納得し、それならいいだろうということで、彼らはこの地を相続することになったのです。

しかし、結果はどうなったでしょうか。北イスラエル王国の10部族が真っ先にアッシリアに滅ぼされることになってしまいました。その中にルベン族、ガド族、マナセの半部族がいたのです。どうして彼らが真っ先に滅ぼされてしまったのかというと、その地は異教の影響を受けやすかったからです。異教の影響を受けて霊的に堕落してしまったのです。神の約束のことばを信じないで目に見えるところに従って生きるなら、私たちも彼らと同じ運命をたどることになります。

大切なことは何を信じているのか、だれを王にしているのか、だれに従っているのかということです。ただイエス様を信じていますと言うだけでなく、そのイエス様のことばに聞き従うことが求められているのです。あなたの王はだれですか。だれに従っていますか。快楽の神モレク(ミルコム)ではなく、あなたの救い主イエスを王として、イエスのことばに聞き従わなければなりません。

Ⅱ.主に拠り頼め(2-5)

主はそのようなアンモン人に対して、さばきを宣言されます。2~3節をご覧ください。「49:2 それゆえ、見よ、その時代が来る。──【主】のことば──そのとき、わたしはアンモン人のラバに戦いの雄たけびを聞かせる。そこは荒れ果てた廃墟となり、その娘たちは火で焼かれる。イスラエルがその跡を継ぐ。─【主】は言われる─49:3 ヘシュボンよ、泣き叫べ。アイが荒らされたから。ラバの娘たちよ、わめけ。粗布をまとえ。嘆いて囲い場の中を走り回れ。ミルコムが、その祭司や首長たちとともに、捕囚として連れて行かれるからだ。」

「ラバ」はアンモンの首都(現在のヨルダンの首都アンマン)です。意味は「偉大な」です。そんな偉大なラバも敵の攻撃を受け、廃墟となります。「ヘシュボン」は、実際はアンモンの町ではなくモアブにある町です。48章45節にはモアブの町として登場しました。それがここに出てくるのは、この町がモアブとアンモンの国境にあったからでしょう。そのヘシュボンは泣き叫ぶようになります。「アイ」はイスラエルのアイとは別の町です。それがどこにあったのかはわかりません。もしかすると、このアイとう名前ですが、「荒れ果てた」という意味があるので、実際には町の名前ではなく荒れ果てた地という意味なのかもしれません。「ラバ」の娘たちも嘆きながら喪に服することになります。すなわち、アンモンの町々は徹底的に滅ぼされるということです。そして「ミルコム」が、その祭司や首長たちとともに捕囚として連れて行かれることになります。いったいなぜ彼らは神にさばかれることになったのでしょうか。

4~5節をご覧ください。「49:4 背信の娘よ、おまえの谷には水が流れている。なぜ、その谷を誇るのか。おまえは自分の財宝に拠り頼んで言う。『だれが私のところに来るだろう』と。49:5 見よ。わたしは四方からおまえに恐怖をもたらす。──万軍の【神】、主のことば──おまえたちはみな散らされて、逃げる者を集める者もいない。」

  「背信の娘よ」とは、ラバの娘たちのことです。英語の訳では「backsliding daughter」となっています。Backslidした人、背教者、離脱者という意味です。いつの時代にもいます。約束の地に入ったかと思ったら一歩後退して彷徨っているという人が。そのような人は同じ傾向を持っています。それは肉的であるということです。持ち物を誇ろうとします。ここには「おまえの谷には水が流れている。なぜ、その谷を誇るのか」とあります。

  「ラバ」は水が豊かなところとして知られていました。Ⅱサムエル記12章27節には、「水の町」と呼ばれています。水の都です。中東で水が流れている所というのは、最もリッチなところです。原油がコンコンと湧き出るようなオイルマネーで潤っている国といったイメージです。彼らは水の資源を誇っていました。水が豊かであるということはそこからもたらされる産物が豊富であるということです。野菜であれ、果物であれ、家畜であれ、何であれ、水があって育まれ、豊かなものを産出するからです。

  彼らは「谷」も誇っていました。その地形が軍事的に働いて自然の要塞になっていたからです。誰も攻めて来ることはできない。ですから、水と谷は経済的な豊かさと軍事的な安定をもたらしていたのです。それで彼らは自分たちの財宝に拠り頼んでいました。神を必要としていませんでした。彼らが求めていたのはただミルコム(モレク)だけでした。いかにおかしく、おもしろく生きるか、ただそれだけだったのです。どこかの国に似ているのではないでしょうか。水は水道の蛇口をひねれば出てきます。公園の水道の水はただです。当たり前のようですが、中東では考えられないことです。日本もアンモンと同じように、いろいろなものを誇りとしています。経済大国として自分の財宝を誇れ、それに拠り頼んでいます。貯金があるから安心して生きられる。そういう節があります。銀行に預金が1円もなかったらどうでしょうか。一気に不安になります。不安にならないのは、そこにちゃんとお金が入金されてあるからです。そういう意味では私たちもアンモンのように、無意識のうちに神よりもお金に拠り頼んでいるところがあります。私たちがどこから安心感を得ているかを忘れてしまっています。勿論、お金も神様から与えられるものです。でもそこに一円も残高がなかったら、それでもあなたは神様に信頼して、安心できるでしょうか。財宝のすべてを失ったとしても、家を失っても、それでも安心ですと言えるでしょうか。あなたは何を誇っていますか。アンモン人のように自分の財宝に拠り頼むのではなく、神に拠り頼みましょう。

  5節には「見よ。わたしは四方からおまえに恐怖をもたらす。」とあります。「四方から」とは東西南北からという意味です。もう逃げ場がありません。バビロンの王ネブカドネツァルの侵略によって、徹底的に滅ぼされるのです。彼らはアッシリアの侵略でガドが捕囚の民として連れ去られた空いた所に入って来ました。でも今度は自分たちがバビロンによって滅ぼされ、すべてが奪われて、捕囚の民となって行くのです。それは彼らが自分たちの財宝に拠り頼んだからです。

  2005年、イギリスのジョン・ブラントリックという62歳の男性が病院を相手に「ガンと誤診されて、全財産を処分した責任を取って欲しい」と訴訟を起こしました。以前、この男性が黄疸のために病院に行くと、すい臓がんのため余命6ヶ月と宣告されました。絶望した彼は、せめて残りの人生を豊かに過ごそうと仕事を辞め、毎日最高級のホテルを泊まり歩き、高級料理を食べ、各地を旅行して回りました。ところが1年後、体に異変がないことに気付いた彼が再び病院を訪れると、すい臓がんではなく、単なるすい臓の炎症であることがわかったのです。飛び上がるほど喜んだのも束の間、すぐに絶望に打ちのめされました。誤診は彼の倹約生活を完全に変えてしまい、最後に残った30万ポンドの家も債務返済のため競売にかけられていたのです。

このように、誤った判断はとんでもない結果をもたらします。黒いものを白いと言い、白いものを黒いと言うのは誤ったことです。みことばを無視して自分の考えを主張することほど、危険で愚かなことはありません。それは私たちにも言えることです。聖書がどんなに「これが道だ、これに歩め」と語っても、それを受け入れないで自分の考えに固執するなら、やがてこのような結果を招くことになるのです。

Ⅲ.回復の約束(6)

最後に、6節をご覧ください。「49:6 その後、わたしはアンモン人を回復させる。─【主】のことば。」」

ここには回復の預言が語られています。「その後」とは、神のさばきによる苦しみがあって後に、です。主はアンモン人を回復させます。モアブ人に対してもそうでしたが、アンモン人も同じです。神はご自分に敵対し自分を誇ったアンモンに対して激しいさばきを宣告されましたが、それで終わりではありません。その後に彼らを回復させるのです。アンモン人の救いを告げるのです。これはほんとうに慰めではないでしょうか。というのは、どんなに神に敵対しても、悔い改めて神に立ち返るなら、神はそのすべての罪を赦し、回復してくださるからです。それはアンモン人だけではありません。それは私たちに対する約束でもあります。私たちもアンモンのように神から離れ自分を誇るような者ですが、そのことに気付いて主に立ち返るなら、主はその罪を赦し、すべての悪からきよめてくださるのです。

このアンモン人の地は、新約時代ではデカポリスと呼ばれた地域です。もうアンモンという地名は消えていました。完全に忘れられていたのです。でもそこへイエス様が宣教に行かれました。マタイ4章25節にはこうあります。

「こうして大勢の群衆が、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、およびヨルダンの川向こうから来て、イエスに従った。」

デカポリス、ここにかつてアンモン人が住んでいました。そのデカポリスから大勢の群衆がやって来て、イエス様に従ったのです。それはこのデカポリスにイエス・キリストを信じて救われた人がいたということです。

マルコ5章には、あの有名な多くの悪霊に取り憑かれていたゲラサ人が、イエス様によって悪霊から解放された話がありますが、そのゲラサとはどこにあるかというとデカポリス地方です。この男が救われたとき、彼はイエス様にお伴したいと申し出ましたが、イエス様はそれをお許しにならないで、こう言われました。

「あなたの家、あなたの家族のところに帰りなさい。そして、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを知らせなさい。」(マルコ5:19)

「あなたの家、あなたの家族のところ」とはデカポリスです。そこにはあなたの家がある。家族もいる。そこに帰って、主があなたをどんなにあわれんでくださったか、どんなに大きなことをしてくださったのかを知らせなさい。それがあなたのミッションだ、それがあなたの使命だと言われたのです。彼はイエス様以外に、新約聖書に出てくる最初の宣教師として遣わされて行きました。

私たちもかつてはゲラサ人でした。神に逆らうことをして、まるで悪霊に取り憑かれたような生活をしていました。でもイエス様によってそこから解放され、この男のように、神がどんなに大きなことをしてくださったのか、どんなにあわれんでくださったのかを知らせる者とされたのです。そこへ行きなさいと主は言われます。そのためにあなたは置かれているのだと。

このようにして今から2,600年前にエレミヤによって語られたアンモン人に対する回復の約束は、イエス様によって真っ先に成就しました。そしてこれはあまり知られていないことですが、かつてのアンマンの地は現代のヨルダンの地域ですが、ヨルダンにもたくさんのクリスチャンが存在しています。たくさんの人が救われているのです。イスラムの過激派によって激しい迫害の中にあるため肩身の狭い生活を余儀なくされていますが、ヨルダンに住むたくさんのアラブ人が救われているのです。それはここに預言されていることの成就でもあります。かつて神に背き、自分を誇っていたアンモン人は神のさばきを宣告され、その預言の通り滅ぼされその名が消えてしまうほど忘れられていましたが、そんな彼らも主イエスによって救われ、回復することができました。それは私たちも同じです。あなたはアンモンです。ギルアデ、ゲラサ、デカポリス、ヨルダンです。そのアンモンは必ず回復するのです。あなたも神に背信の娘よと呼ばれ、神に忘れられたかのような存在だったかもしれませんが、神は決してあなたを忘れることはありません。あなたは神に覚えられています。必ず回復するのです。その神の深いご計画を信じて、神のみこころに歩ませていただきましょう。自分を誇る生活から主に拠り頼む者となりましょう。

ネヘミヤ記1章

 今日からネヘミヤ記の学びに入ります。

 Ⅰ.エルサレムの状況(1-3)

まず、1~3をご覧ください。「1:1 ハカルヤの子ネヘミヤのことば。第二十年のキスレウの月に、私がスサの城にいたときのことであった。1:2 私の兄弟の一人ハナニが、ユダから来た数人の者と一緒にやって来た。私は、捕囚されずに残された逃れの者であるユダヤ人たちについて、またエルサレムのことについて、彼らに尋ねた。1:3 彼らは私に答えた。「あの州で捕囚を生き残った者たちは、大きな困難と恥辱の中にあります。そのうえ、エルサレムの城壁は崩され、その門は火で焼き払われたままです。」」

ハカルヤの子ネヘミヤのことばです。ハカルヤとは誰なのかはよくわかっていません。「第二十年」とは、アルタクセルクセス王の治世の第二十年ということです。これは紀元前445年か ら444年にかけてとなります。私たちはこれまでエズラ記を学んできましたが、ペルシャの王キュロスの勅令によって総督ゼルバベルの指導のもと第一回目のエルサレム帰還が行われたのが紀元前538年です。そして神殿を再建したのが紀元前516年でした。そして祭司であり学者でもあったエズラのもと第二回目の帰還を果たしたのがその57年後の紀元前458年でした。ですから、これはその時からまだ13年しか経っていませんでした。事実、ネヘミヤ記の後半部分には、エズラが民衆の前で律法を読み上げる場面が出てきますが、エズラとネヘミヤはほぼ同時代の人なのです。

「キスレウ」の月は今の11月下旬から12月上旬にかけての時期です。ですから、これは紀元前445年の12月頃のことではないかと思われます。この時ネヘミヤはスサの城にいました。「スサ」とは、ペルシャの首都で、宮殿があった場所です。ということは、彼はペルシャの高官として仕えていたということです。1章11節には「私は王の献酌官であった」とありますが、この時ネヘミヤは王の献酌官として仕えていたのです。献酌官とはぶどう酒と料理の毒見をする人ですが、それは王から相当の信頼がないとなれませんでした。つまり、彼は王にとって右腕のような存在だったのです。

そんな彼のもとに、兄弟の一人ハナニが、ユダから来た数人の者と一緒にやって来ました。この「私の兄弟の一人」とは実際の兄弟のことなのか、それとも広い意味での兄弟のことなのかははっきりわかりません。新改訳聖書第3版では「私の親類の一人」と訳していますが、英語の訳はすべて「one of my brothers」となっています。ネヘミヤが彼のことをわざわざ「私の兄弟」と呼んでいるのは、彼が実際の兄弟だったからではないかと思います。というのは、この後の7章2節で、ネヘミヤは彼を高い地位に就かせていますが、その時も彼のことを「私の兄弟」と呼んでいるからです。いずれにせよ、兄弟ハナニがユダから来た数人の者と一緒にスサの城にいたネヘミヤのところにやって来たとき、ネヘミヤは彼らにエルサレムの状況と、そこにいるユダヤ人たちについて尋ねたのです。

本物のユダヤ人は、決してエルサレムのことを忘れることはないと言われています。ネヘミヤは本物のユダヤ人でした。ただユダヤ人であるというだけでなく、いつも同胞のことを思い、彼らがどのように過ごしているかを知りたいと思ったのです。

それは本物のクリスチャンにも言えることです。本物のクリスチャンはいつも神と教会のことを思い、愛する兄弟姉妹のために祈ります。自分だけの信仰ではありません。そこにはいつも神を慕い求める思いと、神の家族である教会のための祈りがあるのです。

すると彼らはネヘミヤにこう答えました。「あの州で捕囚を生き残った者たちは、大きな困難と恥辱の中にあります。そのうえ、エルサレムの城壁は崩され、その門は火で焼き払われたままです。」

どういうことでしょうか。エルサレムは今、大きな困難の中にあるということです。「大きな困難」と訳されたことばは、「悲惨」という意味のことばです。また「恥辱」と訳されたことばは、「身を切るような」とか「突き通す」という意味のことばです。つまり、エルサレムは敵の攻撃によって突き刺されるような状態であったということです。そのうえエルサレムの城壁は崩され、その門は火で焼き払われたままになっていました。城壁は、当時の社会において非常に重要な位置を占めていました。というのは、生きることは敵からの攻撃から自分たちを守ることを意味していたからです。その城壁が焼き払われていたのです。エルサレムは本当に悲惨な状態にあったのです。

Ⅱ.ネヘミヤの応答(4)

それを聞いたネヘミヤはどうしましたか。4節をご覧ください。「このことばを聞いたとき、私は座り込んで泣き、数日の間嘆き悲しみ、断食して天の神の前に祈った。」

これを聞いたネヘミヤは、座り込んで泣き、数日間嘆き悲しみ、断食して天の神の前に祈りました。この反応はエズラが示した反応とよく似ています。エズラはエルサレムの民が異国人の女を妻にしているということを聞いたとき、神の宮の前でひれ伏し、涙ながらに祈り告白しました(エズラ9:3)。ネヘミヤも同じです。彼もエルサレムの窮状を聞いたとき、その場に座り込んで泣き、断食して祈りました。

ネヘミヤの優れていた点は、このような問題に直面したとき、その問題を神の下に持って行った点です。もし私たちがネヘミヤの立場だったらどうでしょうか。「いったいどうしてこんなことになったのか」「どうすればいいんだろう」と悶々として右往左往するのではないでしょうか。しかしネヘミヤは違います。彼はそれをまず神の下に持って行きました。

しかもここには「断食して」とあります。断食は、心に痛みと悲しみがある時にそれを表現するものです。断食がユダヤ人の一般的な習慣になったのは、バビロン捕囚の時であった言われています。彼らは、エルサレムの崩壊、神殿の焼失、ゲダルヤの暗殺(エレミヤ41:2)を記念して、断食をするようになりました。それはユダヤ人たちが自らの献身を示すための習慣となったのです。ネヘミヤは自分が苦難を体験したわけではありませんでしたが、彼は帰還民たちの苦難を自分のものとして受け止め、祈ったのです。それは宮廷での心地良い生活を拒否して、自らを帰還民の立場に置いたということです。それこそ、とりなしの祈り手に必要な心構えです。そのような祈りを、天の神が聞いてくださらないわけがありません。

Ⅲ.ネヘミヤの祈り(4-11)

では、ネヘミヤはどのように祈ったでしょうか。5~11節に彼の祈りのことばが記されてあります。「1:5 「ああ、天の神、【主】よ。大いなる恐るべき神よ。主を愛し、主の命令を守る者に対して、契約を守り、恵みを下さる方よ。1:6 どうか、あなたの耳を傾け、あなたの目を開いて、このしもべの祈りを聞いてください。私は今、あなたのしもべイスラエルの子らのために、昼も夜も御前に祈り、私たちがあなたに対して犯した、イスラエルの子らの罪を告白しています。まことに、私も私の父の家も罪を犯しました。1:7 私たちはあなたに対して非常に悪いことをして、あなたのしもべモーセにお命じになった、命令も掟も定めも守りませんでした。1:8 どうか、あなたのしもべモーセにお命じになったことばを思い起こしてください。『あなたがたが信頼を裏切るなら、わたしはあなたがたを諸国の民の間に散らす。1:9 あなたがたがわたしに立ち返り、わたしの命令を守り行うなら、たとえ、あなたがたのうちの散らされた者が天の果てにいても、わたしは彼らをそこから集め、わたしの名を住まわせるためにわたしが選んだ場所に連れて来る。』1:10 これらの者たちこそ、あなたがその偉大な力と力強い御手をもって贖い出された、あなたのしもべ、あなたの民です。1:11 ああ、主よ。どうかこのしもべの祈りと、喜んであなたの名を恐れるあなたのしもべたちの祈りに耳を傾けてください。どうか今日、このしもべに幸いを見させ、この人の前で、あわれみを受けさせてくださいますように。」そのとき、私は王の献酌官であった。」

彼はまず、「ああ、天の神、主よ。」(5)という呼びかけで始まっています。どうしてネヘミヤはこのように呼び掛けたのでしょうか。それは神が天におられるということだけでなく、彼が信じていた神は天の神であったからです。つまり、この天地を創られた創造主であり、そのすべてを支配しておられる万軍の主であるからです。そうです、彼がそのように祈ったのは、天の神にとって不可能なことは一つもないと信じていたからなのです。自分の力では帰還民とエルサレムの状況を変えることはできません。しかし、神にはどんなことでもおできになります。なぜなら、神は天の神であられるからです。この方はこの天と地を創られた方、全能者です。その方にとっておできにならないことは何一つありません。自分はその神に祈っているのだと。エレミヤもこれと同じ祈りをしています。エレミヤはこう祈りました。「『ああ、【神】、主よ、ご覧ください。あなたは大いなる力と、伸ばされた御腕をもって天と地を造られました。あなたにとって不可能なことは一つもありません。」(エレミヤ32:17)。ネヘミヤは、この神が「天の神、主」であって、主はご自身を愛し、ご自身の命令を守る者には、契約を守り、恵みを下さる方であると、神の真実に訴えたのです。 すばらしいですね。私たちがこのような問題を聞いたらどう思うでしょう。それは難しいとすぐにあきらめてしまうのではないでしょうか。しかし、天の神なら何でもできると、それを神の御前に持って行くことが大切なのです。

毎週火曜日の夜、家内はIさんという方に英語を教えています。この方は家内が小学校で英語を教えていた時そこで教頭をしておられた方なのでお互いによく知っている方ですが、イエス様のことをなかなか証することができませんでした。というのは、退職後、彼女は充実した老後の生活を送っていたからです。

しかし、その日の朝家内と二人で彼女に良い証が出来るようにと祈ると、不思議なことがありました。クラスが始まる1時間ほど前に彼女から電話があり、台風で大雨のためクラスをお休みしますとのことでした。携帯を切ってしばらくすると再び家内に電話がありました。「パッと先生、『神は愛なり』ってどういう意味ですか。」彼女の亡くなったご主人の親友から、97歳で亡くなったお母さまが毛筆で「神は愛なり」と書かれた短冊をもらったのですが、ちょっと気になったので教えてほしいと思いました。」と。

驚きました。その日の朝に彼女のために祈ったばかりだったので、彼女からそのようなことを尋ねられるとは思わなかったからです。家内は「では、主人に代わります。主人の方がよくお伝えできると思いますので」と私に代わってくれたので、その意味についてお話させていただきました。Iさんは興味を持って聞いてくださり、次にお会いする時にもっとお話を聞かせてほしいと言われました。

Iさんに証するのは難しいなと思っていましたが、天の神にとってできないことは一つもありません。天の神は私たちの祈りを聞かれ、97歳で亡くなられたクリスチャンのおばあちゃんが書かれた短冊を用いて彼女の心を動かしてくださったのです。

電話を切った後で、「次回お会いした時に神の愛についてもっと理解してもらえるように、三浦綾子さんが書かれた「塩狩峠」をプレゼントしようと、家内と話し合いました。

次にネヘミヤは、イスラエルの罪を告白しています。6~7節です。「6どうか、あなたの耳を傾け、あなたの目を開いて、このしもべの祈りを聞いてください。私は今、あなたのしもべイスラエルの子らのために、昼も夜も御前に祈り、私たちがあなたに対して犯した、イスラエルの子らの罪を告白しています。まことに、私も私の父の家も罪を犯しました。7 私たちはあなたに対して非常に悪いことをして、あなたのしもべモーセにお命じになった、命令も掟も定めも守りませんでした。」

ここでネヘミヤは、イスラエルの罪を告白しています。しかし、彼は単にイスラエルの罪を告白しただけではなく、それを自分のこととして受け止めて告白しました。ネヘミヤは、「私も、私の父の家も罪を犯しました」と言っています。このように自分も含めて罪を告白するのは、エズラも同じでした(エズラ9:6-15)。しかも彼は、「昼も夜も御前に祈り」と言っています。その祈りは1回ポッキリの祈りではありませんでした。昼も夜も祈り続ける継続した祈りだったのです。ねばり強い祈りでした。

さらに彼は8~9節ではこのように祈っています。「1:8 どうか、あなたのしもべモーセにお命じになったことばを思い起こしてください。『あなたがたが信頼を裏切るなら、わたしはあなたがたを諸国の民の間に散らす。1:9 あなたがたがわたしに立ち返り、わたしの命令を守り行うなら、たとえ、あなたがたのうちの散らされた者が天の果てにいても、わたしは彼らをそこから集め、わたしの名を住まわせるためにわたしが選んだ場所に連れて来る。』」

どういうことですか。ネヘミヤは主に、「どうか、あなたのしもべモーセにお命じになったことばを思い起こしてください。」と祈りました。「思い起こしてください」とは、忘れていたことを思い出してくださいということではありません。約束どおりに行動を起こしてくださいという嘆願です。つまり彼は神の約束の成就を求めて祈ったのです。というのは、主はモーセを通してこのように約束してくださったからです。すなわち、もしイスラエル民が不信の罪を犯すなら、彼らは捕囚の地に連れ去られる(レビ26:27-33,申命記28:64)が、もし悔い改めて主に立ち返るなら、エルサレムに帰還することができる(申命記30:1-5)ということです。

そしてネヘミヤは、この民こそ主がモーセを通して語られた約束の民であると訴えるのです。10節です。「これらの者たちこそ、あなたがその偉大な力と力強い御手をもって贖い出された、あなたのしもべ、あなたの民です。」なぜなら、イスラエルの民は、主が大いなる力をもって贖われた主のしもべ、主の民だからです。

その上でネヘミヤは、自分の願いを神の前にさらけ出します。11節です。「ああ、主よ。どうかこのしもべの祈りと、喜んであなたの名を恐れるあなたのしもべたちの祈りに耳を傾けてください。どうか今日、このしもべに幸いを見させ、この人の前で、あわれみを受けさせてくださいますように。」

ネヘミヤは、エルサレムにいる帰還民のために具体的な行動を起こしたいと思っていました。でもそのためには、彼が仕えているペルシャの王の許可が必要です。「この人の前で」とは、王の前で」という意味です。そのとき彼は王の献酌官をしていました。それはとても重要な任務だったので、簡単にそのための許可が得られることは考えられませんでした。ですから彼はそのための許可を王から得ることができるようにと祈ったのです。それが「この人の前で、あわれみを受けさせてくださいますように」という祈りです。

これは利己的な祈りではありません。神の御業が前進していくためのものです。神のみこころにかなう祈りをするなら、神は聞いてくださるということ、それこそ神に対する私たちの確信です。私たちもそれが神のみこころにかなった祈りかどうかを吟味し、そうであるなら、大胆に願い求めるべきです。

それにしてもネヘミヤはエルサレムの惨状を聞いたとき、すぐに行動に移しませんでした。先ほども申し上げたように、彼はそれをまず神の御前に持っていきました。ここにリーダーとはどのようにあるべきかを教えられます。私たちはどちらかというとすぐに行動を起こしたいという衝動にかられますが、そのためにはまず祈らなければなりません。

チャールズ・スウィンドルが書いた「今求められる教会のリーダーシップ」という著書の中で、リーダーはなぜ祈りを最優先にしなければならないのか4つの理由が記されてあります。

第一に、祈りは待つことを教えます。祈りと仕事を同時に手がけることはできません。祈り終わるまで行動を控えざるを得ません。祈りは私に事態を神に任せることを強要し、結果として私を待たせることになります。

第二に、祈りは私の視野をはっきりさせます。南カリフォルニアは海岸であるため、朝方には視野が悪くなることがよくあります。しかし、そのうち太陽が朝の霧を消散させるのです。祈りも同じです。あなたがある事態に直面した時、最初は霧を通して見るように、ぼんやりと見ているでしょう。祈りはその霧を消散させるのです。そのため視野ははっきりしてきて、あなたは神の目を通して見ることができるようになります。

第三に、祈りは私の心を平静にします。思い煩うことと祈ることを同時にすることなどできません。それは気づかいを取り除き、代わりに静かな霊を私のうちに入れます。私たちがひざまずいて祈る時、そのひざでけり上げるようなことは不可能です。

第四に、祈りは私の信仰を活性化します。祈った後は、神を信頼することがいっそう容易になります。それにひきかえ、祈らない時は何と狭量で消極的、しかも批判的でしょう。祈りは信仰の火つけ役になるのです。(p45-46)

私たちはとかく祈りよりも先に、何かしなければならないという衝動にかられますが、まず神の前に祈ることによって、私たちの視野がはっきりと見えるようになり、心に深い平安と確信が与えられ、より神に信頼できるようになります。私たちに求められているのは祈ることなのです。祈りは不可能を可能にします。なぜなら、そこに全能の神の御手が動くからです。私たちが祈るとき、神は私たちができないことを成し遂げてくださいます。問題に直面したとき、ネヘミヤは神にすぐさま助けを求めました。問題と対峙した時にネヘミヤがとった対応は、ひざまずいて祈るという姿勢だったのです。

エレミヤ48章1~47節「モアブについての預言」

エレミヤ書48章に入ります。46章から諸国の民に対する預言が語られていますが、今回はモアブについての預言です。地図を見ていただくと分かりますが、モアブ人の地は死海の東側、今日のヨルダンの南側にありました。

(引用:新生宣教団、「聖書『ルツ記』を読み解く」)

モアブ人のルーツは、アブラハムの甥のロトにまで遡ります。アブラハムと一緒に父の家、カルデヤのウルを離れカナンにやって来た彼らは、神様の祝福によって家畜が増えました。すると互いのしもべの間で争いが起こったので、アブラハムはロトに好きな場所を選んでそこに住むように言うと、彼は東の低地を選び、そこにあったソドムという町に定住しました。しかし、そこは極めて罪が重かったため、主はソドムを火と硫黄の雨によって滅ぼされましたが、アブラハムの必死のとりなしによってロトはその中から救い出されました。そのロトと二人の娘によって生まれたのがモアブとアンモンです。姉の子がモアブで、妹の子がアンモンです。ですから、モアブはイスラエルとは遠い親戚にあたるのです。彼らはイスラエルと同じように祝福を受け継ぐべきでしたが、自らその祝福から離れて行ってしまいました。そして、たびたびイスラエルに侵入しては彼らに敵対したのです。そのモアブに対する預言です。

Ⅰ.モアブの高ぶり(1-25)

まず、1~25節までをご覧ください。6節までをお読みします。「48:1 モアブについて。イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。「わざわいだ、ネボ。これは荒らされた。キルヤタイムも辱められ、攻め取られた。その砦は辱められ、打ちのめされた。48:2 もはやモアブの誉れはない。ヘシュボンは、これに悪事を企んでいる。『行って、あの国民を絶ち滅ぼし、無き者にしよう』と。マデメンよ、おまえも黙らされる。剣がおまえの後を追っている。48:3 ホロナイムから叫び声がする。『暴行だ。大いなる破滅だ』と。48:4 モアブは打ち破られる。その幼き者たちは叫び声をあげる。48:5 まことに、ルヒテの坂は嘆きの中にあり、彼らは泣きながら上る。ホロナイムの下り坂では、痛々しい破滅の叫びが聞こえる。48:6 逃げて、自分自身を救え。荒野の中の灌木のようになれ。」

1節には、「わざわいだ、ネボ。これは荒らされた。キルヤタイムも辱められ、攻め取られた。」とあります。「ネボ」とか「キルヤタイム」とは、モアブの町々のことです。元々そこはイスラエル12部族の1つであるルベン族に与えられた町でした(民数記32:37~38)が、後にモアブ人が占領したため、モアブの町となったのです。つまり、彼らは神の民イスラエルに敵対したのです。そんなネボやキルヤタイムは辱められ、攻め取られ、打ちのめされることになります。さらに、「ヘシュボン」、「マデメン」、「ホロナイム」、「ルヒデ」といった町々も滅ぼされることになります。いったい何が問題だったのでしょうか。

7節をご覧ください。ここには「おまえは自分が作ったものと財宝に拠り頼んだので、おまえも捕らえられ、ケモシュはその祭司や首長たちとともに、捕囚となって出て行く。」とあります。彼らは、自分たちが作ったものと財宝に拠り頼みました。現代でもそうですが、ある程度預金とか財産があると安心するように、彼らは豊かな経済力を自分たちの安定と繁栄の保証と考えたのです。ケモシュとは彼らの偶像神ですが、快楽と豊穣の神です。彼らはそのケモシュに仕えました。しかし、そのようなものが恒久的な安定をもたらしてくれるでしょうか。そのような国はやがて滅ぼされることになります。荒らす者が侵略して捕らえられ、偶像とともに捕囚となって出て行くことになのです。

この「荒らす者」とは誰のことなのかはっきりしたことはわかりませんが、おそらくバビロンのことでしょう。というのは、バビロンはB.C.586年にエルサレムを破壊すると、その5年後に今度はモアブを攻撃することになるからです。バビロンがこれらの町に入って来て彼らを捕らえ、捕囚の地へと引き連れて行くようになるのです。町は一つも逃れることはできません。谷は滅び失せ、平地は根絶やしにされるのです。いったいどうすれば良いのでしょうか。

9節には「モアブに翼を与えて、飛び去らせよ。その町々は住む者もなくて荒れ果てる。」とあります。このような神のさばきのもとでは、そこから逃れるしかありません。ですからモアブに翼を与えて、飛び去らせよ、と言われているのです。

モアブに対する攻撃は徹底的にしなければなりません。10節の「主のみわざおろそかにする者は、のろわれよ。その剣をとどめて血を流さないようにする者は、のろわれよ。」とは、そういう意味です。それは主の御業であり主がそのようになさるのだから、徹底的に成し遂げなければなりません。それをおろそかにしてはいけません。それをおろそかにする者はのろわれることになると、バビロンに警告されているのです。そんな神のさばきから逃れることができる者がいるでしょうか。

11~13節をご覧ください。「48:11 モアブは若いときから安らかであった。彼はぶどう酒の澱の上によどみ、桶から桶へ空けられたこともなく、捕囚として連れて行かれたこともなかった。それゆえ、その味はそのまま残り、香りも変わらなかった。48:12 それゆえ、見よ、その時代が来る──【主】のことば──。そのとき、わたしは彼に酒蔵の番人たちを送る。彼らは彼を桶から移し、彼の桶を空にして、壺を砕く。48:13 モアブは、ケモシュのゆえに恥を見る。イスラエルの家が、彼らが拠り頼むベテルのゆえに恥を見たように。」

どういうことでしょうか。彼らは自分たちの安定した状態であることを誇っていました。自分たちは他国の侵略によって捕囚として連れて行かれたことは一度もないと。確かにモアブの歴史を見ると、彼らは安定していました。他の国によって侵略されたことは、これまで一度もありませんでした。11節の「モアブは若い時から安らかであった。」というのは、そのことを示しています。

エレミヤはそれをぶどう酒作りにたとえているのです。それが11節で言われていることです。「彼はぶどう酒の澱の上によどみ、桶から桶へ空けられたこともなく、捕囚として連れて行かれたこともなかった。それゆえ、その味はそのまま残り、香りも変わらなかった。」
  ぶどう酒を同じ桶で保存すれば、酒かすによって味がよくなりますが、違う桶に移せば味が変わってしまいます。彼らは他の桶に移されたことがないので、醸造された上質のぶどう酒のようだと誇っていたのです。彼らは捕囚という厳しい現実を経験したことがありませんでした。

しかし主は、そんな彼らのうぬぼれを砕かれると宣言されました。12節と13節です。「それゆえ、見よ、その時代が来る──【主】のことば──。そのとき、わたしは彼に酒蔵の番人たちを送る。彼らは彼を桶から移し、彼の桶を空にして、壺を砕く。48:13 モアブは、ケモシュのゆえに恥を見る。イスラエルの家が、彼らが拠り頼むベテルのゆえに恥を見たように。」
  その日モアブ人たちは、ケモシュ(偶像神)に信頼したことを恥じるようになります。それはかつてイスラエルがヤロブアムによってベテルに置かれた金の子牛の像に信頼を置いたことを恥じたのと同じです。国が経済的に豊かになり、政治的に安定していることも重要ですが、そうした豊かさによっていつしか高慢になり、霊的堕落に陥ることがあるとしたら本末転倒です。そういうことがないようにしっかりと肝に銘じなければなりません。

しかし、これは現代の私たちにも言えることではないでしょうか。戦後80年、日本は平和な時代を過ごしてきました。経済的な発展も遂げてきました。生活が苦しいとは言っても普通に生きていれば食べていけないことはほとんどありません。たとえそうでなくても国がある程度の生活を保障してくれます。確かに尖閣諸島や青島の問題はありますが、まさか戦争になるとは誰も思っていないでしょう。ある程度の蓄えがあれば何とか生きていける。神様、仏様に頼らなくてもケモシュがいるから大丈夫だと、みんな平々凡々と生きているわけです。神様がいなければ生きていけないといった必死さはありません。まるでモアブのようです。

ヨハネの黙示録に、主がアジアにある七つの教会に書き送った手紙がありますが、その中でラオディキアの教会に宛てて次のように言われました。「3:15 わたしはあなたの行いを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。3:16 そのように、あなたは生ぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしは口からあなたを吐き出す。3:17 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、足りないものは何もないと言っているが、実はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることが分かっていない。3:18 わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買い、あなたの裸の恥をあらわにしないために着る白い衣を買い、目が見えるようになるために目に塗る目薬を買いなさい。3:19 わたしは愛する者をみな、叱ったり懲らしめたりする。だから熱心になって悔い改めなさい。3:20 見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」

ラオディキアの教会の問題は何でしたか。彼らは、自分は富んでいる、豊かになった、足りないものは何もないと言っていましたが、自分の本当の姿が見えていなかったことです。本当はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることが分かっていませんでした。そのため彼らは、熱くもなく、冷たくもありませんでした。そんな彼らに主が言われたことはこうでした。熱いか、冷たいかであってほしい。そしてそのために、自分の目が見えるように目に塗る目薬を買いなさい、と言われたのです。黙示録3章20節のみことばは、そのような背景で語られたことばでした。

「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」

主はそんなあなたの心のドアを叩いておられます。その音が聞こえるでしょうか。聞こえたらドアを開けてください。そうすれば主はあなたの心の中に入ってあなたとともに食事をし、あなたも主とともに食事をするようになります。それが本当の幸いです。そのためには、へりくだって主を求めなければなりません。私たちが強くなったり高くなったりするときは、弱くなり低くなる知恵を学ぶ必要があるのです。

尊敬するある牧師がこう言われました。「成熟したクリスチャンとは、主がいなければどうすることもできないクリスチャンです」
  皆さん、これが主に信頼するということです。クリスチャンは人の目には派手でもなく、見えるところにおいては弱々しく映るかもしれませんが、神さまの目では最も安定した人です。なぜなら、万軍の主が共におられるからです。そのためには、私たちの心の目が開かれなければなりません。そして、自分はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることに気付いたら、熱心に悔い改めなければならないのです。主がいなければどうすることもできませんと、必死に主を求め、主に拠り頼まなければなりません。それが成熟したクリスチャンなのです。

Ⅱ.モアブのために泣かれた主(26-45)

次に、26~45節をご覧ください。30節までをお読みします。「48:26 彼を酔わせよ。【主】に対して高ぶったからだ。モアブは、へどを吐き、彼も笑いものとなる。48:27 イスラエルは、おまえにとって笑いものではなかったのか。それとも、おまえが彼のことを語るたびに彼に向かって頭を振っていたのは、彼が盗人の間に見つけられたためか。48:28 モアブの住民よ。町を見捨てて岩間に住め。穴の入り口のそばに巣を作る鳩のようになれ。48:29 われわれはモアブの高ぶりを、──彼は実に高ぶる者──その傲慢、その高ぶりを、その誇り、その慢心を聞いた。48:30 わたしは彼の不遜さを知っている。──【主】のことば──その自慢話は正しくない。その行いも正しくない。」

すでに見たように、モアブが滅ぼされた最大の理由は、彼らが高ぶったからです。26節には、「彼に酔わせよ。主に対して高ぶったからだ。モアブは、へどを吐き、彼も笑いものとなる。」とあります。27節にあるように彼らは、先に滅ぼされたイスラエルを笑いものにしていました。他の国の悲劇を知ることは、自らの国のあり方を学ぶチャンスだったのに、モアブはそこから何も学ばなかったばかりかユダを笑いものにしたのです。

主はそんなモアブの高ぶりを見抜かれ、その高慢さを指摘されました。「わたしは彼の不遜さを知っている。」と。自分を正しいとする態度は、自分に足りないことがあっても、その足りないところを見えなくしてしまいます。結果、何も学ぶことができません。ですから私たちはいつも謙虚になって自分の足りなさを認め、いつも十字架の恵みに拠りすがらなければなりません。また、自分でできるようなことであっても神の助けを求め、いつも謙遜な態度で神に拠り頼むべきです。さらに隣人に対して(さげす)むようなことをせず、逆に仕えることによって、神の愛とあわれみを示していくべきです。それなのにモアブは、主に対して高ぶりました。それゆえ、主はモアブの高ぶりを砕かれるのです。バビロンという国を用いて、徹底的に滅ぼされます。

ところが31節を見ると、不思議なことが書かれてあります。そのモアブのために、主は泣き叫ぶ、とあるのです。「それゆえ、わたしはモアブのために泣き叫び、モアブ全体のために叫ぶ。人々はキル・ヘレスの人々のために嘆く。」
  どういうことでしょうか。そんなモアブなど滅ぼされて当然なのに、主はそんな彼らのために泣いておられる。モアブが滅ぼされることを悲しんでおられるのです。それがぶどうの木のたとえで表わされていることです。32~33節をご覧ください。

「48:32 シブマのぶどうの木よ。わたしはヤゼルの涙にまさり、おまえのために泣く。おまえのつるは伸びて海を越えた。ヤゼルの海に達した。そして、おまえの夏の果物とぶどうの収穫を、荒らす者が襲った。48:33 モアブの果樹園から、その地から、喜びと楽しみが取り去られる。わたしは石がめから酒を絶えさせた。喜びの声をあげてぶどうを踏む者もなく、ぶどう踏みの喜びの声は、もはや喜びの声ではない。」

シブマとヤゼルは、ぶどうの栽培で有名なモアブの町です。そのシブマとヤゼルが涙に濡れるのです。そのぶどうの枝は死海を越え、ヤゼルのほとりにまで達しました。それなのに、荒らす者がやって来て、ぶどうの収穫を略奪するからです。人々に喜びをもたらすはずのぶどうの収穫が無くなってしまうということです。もはや彼らは喜びの声をあげることができません。そこにあるのはぶどう踏みの声ではなく、悲とみの嘆きの声です。主はそのことを嘆いておられるのです。36節には、「わたしの心は、モアブのために笛のように鳴る」とあります。主は笛が鳴るようにモアブのために嘆かれるのです。なぜでしょうか。

神は、ひとりも滅びることを願っておられないからです。たとえ傲慢で、高ぶっていたモアブでさえ、彼らが悔い改めて救われることを願っておられたからです。これが主の思い、主の心です。

でも私たちは違うでしょう。たとえば、もしこれまであなたに嫌な思いをさせてきた、大変な思いをしてきた、あの人のせいで私は本当に苦しんできたという人が辛い思いをしていたらどうでしょう?気持ちいいんじゃないですか。スカッと爽やかコカ・コーラです。それが人間の本性です。でも神様はそのような方ではありません。神様はそれがたとえその人の自業自得でしたことであってもその不幸を悲しまれ、涙を流されるのです。

このモアブという民族はイスラエルと遠い親戚であったことはお話した通りですが、その中でも特にモアブ人ルツがボアズと結婚したことによってダビデの祖父のオベデが生まれたことは特筆すべき点です。なぜなら、ダビデにもこのモアブ人の血が流れていたことになるからです。そして、それはその子孫である救い主イエス・キリストの中にも、このモアブ人の血がわずかばかり流れていたことになるのです。そうしたモアブ人が滅びることを、神はとても悲しまれたのです。よく「断腸の思い」ということばがありますが、断腸の思いとは、腸がちぎれるほど、悲しくつらい思いのことです。まさに神は滅んでいく人間の姿を、断腸の思いで見ておられるのです。腸がずたずたにちぎれるような悲しい思いで見ておられる。

あなたには、この神の思いが届いていますか。その目の涙が見えるでしょうか。主はモアブだけでなく、あなたのためにも泣いておられます。あなたが神に背いて苦しみの中にあるとき、病気や人間関係で疲れ果て苦しんでいるとき、主も泣いておられるのです。そのために、十字架で死んでくださいました。

「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)

あなたは、それほどまでに愛されているのです。であれば、あなたは、あなたをこれほどまでに愛しておられる主のもとに立ち返り、そこで主の慰めと励まし、癒しを回復と受けるべきではないでしょうか。

Ⅲ.モアブの回復(40-47)

最後に、40~47節を見て終わりたいと思います。ここでは神によってさばかれるモアブの嘆きが、3つのたとえによって表現されています。まず、鷲のたとえです。40~42節をご覧ください。「48:40 まことに、【主】はこう言われる。「見よ。敵が鷲のように襲いかかり、モアブに対して翼を広げる。48:41 町々は攻め取られ、要害は取られる。その日、モアブの勇士の心は、産みの苦しみにある女の心のようになる。48:42 モアブは滅ぼし尽くされて、民でなくなる。【主】に対して高ぶったからだ。」
  敵が鷲のように襲いかかり、モアブに対して翼を広げます。この敵とはバビロンのことです。バビロンが鷲のようにモアブに襲いかかるので、モアブは滅ぼし尽くされることになります。

二つ目のたとえは、恐怖と落とし穴と罠という三つのわざわいによるさばきです。43節と44節です。「48:43 モアブの住民よ、おまえを恐怖と落とし穴と罠が襲う。─主のことば─48:44 その恐怖から逃げる者は穴に落ち、穴から這い上る者は罠に捕らえられる。わたしがモアブに彼らの刑罰の年を来させるからだ。─主のことば─」
  モアブに襲うのは、恐怖と落とし穴と罠という三つのわざわいです。恐怖から逃れた者は落とし穴に落ち、穴から這い上がる者は罠に捕らえられます。どうやってもこのさばきから逃れることはできません。モアブは完全に滅びることになるのです。

そしてもう一つは、ヘシュボンの詩です。45~46節です。「48:45 ヘシュボンの陰には、逃れる者たちが力尽きて立ち止まる。火がヘシュボンから、炎がシホンのうちから出るからだ。それは、モアブのこめかみと、騒がしい子どもの頭の頂を焼く。48:46 ああ、モアブ。ケモシュの民は滅びる。おまえの息子は捕らわれの身となり、娘は捕虜になって連れ去られるからだ。」
  これは民数記21章29節でも語られたことですが、ここでもう一度引用されています。それは、モアブに下る神のさばきが完全であることを示すためです。そして、この預言は東の方からアラビア人たちが攻めて来た時に成就することになります。エゼキエル25章8~11にあるとおりです。

「25:8 【神】である主はこう言われる。「モアブとセイルは『見よ、ユダの家は異邦の民と変わらない』と言った。25:9 それゆえ、わたしはモアブの山地の町々、その国の誉れであるベテ・ハ・エシモテ、バアル・メオン、キルヤタイムの町々をことごとく開け放ち、25:10 アンモン人と一緒に東の人々に渡してその所有とし、国々の間でアンモン人が記憶されないようにする。25:11 わたしがモアブにさばきを下すとき、彼らは、わたしが【主】であることを知る。」アンモン人と一緒に東の人々に渡してその所有とし、国々の間でアンモン人が記憶されないようにする。」

これはモアブ人に対して語られていることです。「モアブとセイルは『見よ、ユダの家は異邦の民と変わらない』と言ったので、主はこのモアブとセイルをアンモン人と一緒に東の人々に渡してその所有とし、国々の間で記憶されないようにする、と言われたのです。モアブに対する神の預言は、完全に成就することになります。

しかし47節を見ると、彼らに対する預言はこれで終わっていないことがわかります。その続きがあります。それは、主はこのモアブの民を回復するという宣言です。ご一緒に読みましょう。「しかし終わりの日に、わたしはモアブを回復させる。─主のことば。」

モアブに対するさばきと回復のメッセージは、結局、ユダの民に間接的な慰めをもたらしました。神が異邦人のモアブを捕囚から解放されるなら、自分たちも必ず回復することになるからです。これは慰めではないでしょうか。主はあなたをご自身の救いに招いてくださいました。その神の賜物と召命は変わることがありません。どんなことがあっても、あなたは必ず回復することになるのです。一時的に苦難の中に置かれることがあっても、やがて必ずそこから回復する時がやって来るのです。ここに真の希望があります。これが神の計画なのです。

「わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている─【主】のことば─。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」(エレミヤ29:11)

ですから、もしあなたが今困難と苦しみの中にいるなら、落胆せずこの希望を見上げてください。あなたは必ず回復するのです。だからどんなことがあっても、どんな状況に陥ってもあきらめないでください。神から離れている自分、罪を悔い改めて、神に立ち返ってください。そして神とともに歩ませていただこうではありませんか。それが私たちにとっての幸いの道、主があなたに願っておられることなのです。

エズラ記10章

 今回は、エズラ記の最後の学びとなります。10章を開いてください。

 Ⅰ.シェカンヤの提案(1-4)

まず、1~4をご覧ください。「10:1 エズラが神の宮の前でひれ伏して、涙ながらに祈り告白しているとき、男や女や子どもの大会衆がイスラエルのうちから彼のところに集まって来た。民は涙を流して激しく泣いた。10:2 そのとき、エラムの子孫の一人エヒエルの子シェカンヤが、エズラに言った。「私たちは、自分たちの神の信頼を裏切り、この地の民である異国人の女を妻にしました。しかし、このことについてイスラエルには今なお望みがあります。10:3 今、私たちは自分たちの神と契約を結び、主の勧告と、私たちの神の命令を恐れかしこむ人々の勧告にしたがって、これらの妻たちと、その子どもたちをみな追い出しましょう。律法にしたがってこれを行いましょう。10:4 立ち上がってください。このことはあなたの肩にかかっています。私たちはあなたに協力します。勇気を出して、実行してください。」

エズラが神の宮の前でひれ伏し、涙ながらに祈り告白しているとき、男や女や子どもの大会衆がイスラエルのうちから彼のところに集まって来ました。彼らもまた激しく泣いていました。そのとき、エラムの子孫の一人でエヒエルの子のシェカンヤが、エズラにこう言いました。「私たちは、自分たちの神の信頼を裏切り、この地の民である異国人の女を妻にしました。しかし、このことについてイスラエルには今なお望みがあります。今、私たちは自分たちの神と契約を結び、主の勧告と、私たちの神の命令を恐れかしこむ人々の勧告にしたがって、これらの妻たちと、その子どもたちをみな追い出しましょう。律法にしたがってこれを行いましょう。立ち上がってください。このことはあなたの肩にかかっています。私たちはあなたに協力します。勇気を出して、実行してください。」(2-4)

彼は、自分たちは神の信頼を裏切りこの地の民である異国人の女を妻にしたが、まだ望みがあると言いました。もし神と契約を結び、主の勧告と、主を恐れかしこむ人々の勧告にしたがい、異教徒の妻と子どもたちを追放するなら、きっと神が受け入れてくださるから、立ち上がり、勇気を出して、律法にしたがってこれを実行しましょうと、提案したのです。

これは、家族の間に、また民の間に亀裂をもたらすことになりますから、簡単に実行できるようなことではありませんでした。事実、26節を見ると、これを提言したシェカンヤの父エヒエルも異国人の女を妻にしていました。その他にも同じエラム族から何人かの者が異国人の女を妻にしていました。ですから、それを実行することは彼自身にとっても苦しいことでしたが、それを承知の上で彼はそのようにエズラに提言したのです。なぜ彼はそのような提言をしたのでしょうか。これこそが律法にしたがった解決法であり、エズラがそのように決断するなら、律法を重んじる人たちはそれを支持すると確信していたからです。もちろん、彼自身もその痛みを受け入れる覚悟が出来ていました。

しかし、これが本当に神の御心に叶ったことかどうかは、よく吟味しなければなりません。というのは、Ⅰコリント7:10~16でパウロは、離婚に関する教えの中で次のように言っているからです。

「7:10 すでに結婚した人たちに命じます。命じるのは私ではなく主です。妻は夫と別れてはいけません。7:11 もし別れたのなら、再婚せずにいるか、夫と和解するか、どちらかにしなさい。また、夫は妻と離婚してはいけません。7:12 そのほかの人々に言います。これを言うのは主ではなく私です。信者である夫に信者でない妻がいて、その妻が一緒にいることを承知している場合は、離婚してはいけません。7:13 また、女の人に信者でない夫がいて、その夫が一緒にいることを承知している場合は、離婚してはいけません。7:14 なぜなら、信者でない夫は妻によって聖なるものとされており、また、信者でない妻も信者である夫によって聖なるものとされているからです。そうでなかったら、あなたがたの子どもは汚れていることになりますが、実際には聖なるものです。7:15 しかし、信者でないほうの者が離れて行くなら、離れて行かせなさい。そのような場合には、信者である夫あるいは妻は、縛られることはありません。神は、平和を得させようとして、あなたがたを召されたのです。」

ここには、たとえ相手が未信者の夫、あるいは妻であっても、離婚してはいけないとあります。なぜなら、信者でない夫は妻によって聖なるものとされており、また、信者でない妻も信者である夫によって聖なるものとされているからです。もちろん最初から、不信者とつりあわぬくびきをともにすべきではありません(Ⅱコリント6:14)が、もし結婚したのであれば、相手に合わせてこの世の流れに従うのではなく、しっかりと信仰に立ち、忍耐強く家族の救いのために祈らなければなりません。相手が一緒にいることを承知している限り、離婚してはいけないのです。これが神のみこころです。事実、異邦人の妻であってもイスラエルの神を信じるようになれば、追放されることはありませんでした。ルツはそうでしょう。彼女はモアブ人でありながらボアズの妻として受け入れられました。そしてやがてその子孫から救い主イエスが生まれることになるのです。ですから、一概に異国人だから追放するというのは神が願っていることではありません。ではなぜここで異国人の妻を追い出すようにと言われているのでしょうか。

3つの理由が考えられます。第一に、これが捕囚から帰還した直後の時であったということです。出エジプト記34:15-16には、「その土地の住民と契約を結ばないようにしなさい。彼らがその神々を求めて姦淫を行い、その神々にいけにえをささげるとき、あなたを招き、あなたはそのいけにえを食べるようになる。あなたが彼らの娘を自分の息子にめとると、彼女たちがその神々と姦淫を行い、あなたの息子たちを誘ってその神々と姦淫を行わせるようになる」。と警告されていましたが、こうした状況下では、その土地の住民と契約を結ぶことが容易だったと思われます。そういう状況下では、より厳しい対応が求められたのです。

もう一つの理由は、こうした帰還民の中には、生活の豊かさを求めてユダヤ人の妻と離縁し、異邦人の女性と結婚したという事実があったので、エズラはそうした不法な離婚の取り消し、あくまでも神のみこころを第一に求めた結果の措置だったのではないかということです。

そしてもう一つの理由は、このユダの民の中からやがてメシヤが生まれてくるからです。エズラ、ネヘミヤの後約400年の中間時代を経て、約束されたメシヤが誕生するにあたり、メシヤを生み出すことになる民族の霊性の回復が必要だったのです。

いずれにせよ、こうした箇所に接するとき、ただその言葉を適用するというのではなく、聖書全体から神の御心をバランスよく理解し実行するという慎重さが求められます。

Ⅱ.エズラの応答(5-8)

それに対して、エズラはどのように応答したでしょうか。5~8節をご覧ください。「エズラは立ち上がり、祭司、レビ人、全イスラエルの長たちに、この提案を実行するよう誓わせた。すると彼らは誓った。10:6 エズラは神の宮の前を去って、エルヤシブの子ヨハナンの部屋に行った。そこに行って、パンも食べず、水も飲まずにいた。捕囚から帰って来た人々の不信の罪を嘆き悲しんだのである。10:7 そして、通達がユダとエルサレムに出された。それは、捕囚から帰って来た者はみなエルサレムに集合するように、というものであり、10:8 また、三日のうちに来ない者はみな、指導者たちや長老たちの決定にしたがってその全財産を聖絶され、さらにその人は、捕囚から帰って来た人々の会衆から除名される、としていた。」

エズラはその提案に応答し、行動を開始しました。彼は祭司、レビ人、全イスラエルの長老たちに、この提案を実行するように誓わせると、彼らは誓いました。一方エズラはどうしたかというと、彼は神の宮を去って、エルヤシブの子ヨハナンの部屋に行きました。そこに行って、捕囚から帰って来た人々の不信の罪を嘆き悲しんだのです。パンも食べず、水も飲まずにいました。すなわち彼は、断食して祈ったのです。

そして、ユダとエルサレムに通達が出されました。それは、捕囚から帰って来た者はみな3日以内にエルサレムに集合しなければならないというものでした。もし3日のうちに来なければ、その者の全財産は没収され、捕囚から帰って来た人々の会衆から除名されました。いったいなぜエズラはそこまで厳格にこれを実行したのでしょうか。それは、イスラエルの民に霊的覚醒を促すためでした。これがモーセの律法なのだということを、これまでただ漠然と受け止めていた彼らにはっきり示そうとしたのです。エズラがこれほどの権威を発揮できたのは、あのアルタクセルクセス王の勅令があったからでしょう。7:26には、「あなたの神の律法と王の律法を守らない者には、だれに対しても、死刑でも、追放でも、財産の没収でも、投獄でも、その判決を厳格に執行せよ。」とありました。

こうした霊的覚醒は、罪を認め、罪から遠ざかることによって生まれるものです。このような危機感は、信仰が眠っているような私たちにも必要なことではないでしょうか。

Ⅲ.悔い改めたユダの民(9-44)

それに対して、ユダの民はどのように応答しましたか。9~44節までご覧ください。9節にはこうあります。「10:9 ユダとベニヤミンの男はみな、三日のうちにエルサレムに集まって来た。それは第九の月の二十日であった。こうして、すべての民は神の宮の前の広場に座り、この件で、また大雨のために震えていた。」

それで、ユダとベニヤミンの男はみな、三日のうちにエルサレムに集まって来ました。それは第九の月の20日のことでした。第九の月とは、今の暦では11月~12月にあたりますが、イスラエルでは雨季です。すべての民は神の宮の前の広場に座りましたが、大雨のため、また自分も裁かれるのではないかという処罰を恐れてか、震えていました。かなりの緊張感が伝わってきます。

するとエズラは、立ち上がって彼らに言いました。10~11節です。「あなたがたは神の信頼を裏切った。異国人の女を妻にし、イスラエルの罪過を増し加えた。だから今、あなたがたの父祖の神、【主】に告白して、そのみむねにかなったことをしなさい。この地の民、異国人の女たちから離れなさい。」

エズラはここで二つのことを言っています。一つは、彼らは神の信頼を裏切ったという事実です。どのように神の信頼を裏切ったのかというと、異国人の女を妻にして、です。それは神のみこころではありませんでした。

もう一つのことは、だから今、それを主に告白して、みむねにかなったことをするようにということです。つまり、その罪を告白して、神に立ち返るようにということです。それは具体的にどういうことかというと、みむねにかなったことをすることです。このケースでは、異国人の女から離れるということです。ただ口先だけの悔い改めは意味がありません。実際に行動で示すこと、すなわち、罪から離れることが求められるのです。そうすれば、主は赦してくださいます。Ⅰヨハネ1章9節に、「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」とあるとおりです。

それに対して民はどのように応答しましたか?12節をご覧ください。全会衆は大声をあげて答えました。「必ずあなたの言われたとおりにします」。しかし、民は大勢いて、大雨の季節であるので、それを一日や二日でできるようなことではありません。もう少し時間を与えてほしいと言いました。具体的には14節にあるように、それぞれの町の長老たち、さばき人たちに監督役になってもらい、もしその町にそれにあたる者がいたら、彼らと一緒に出頭するようにさせたいということでした。賢いですね。それぞれの町の指導者ならば、そこに住む女たちがイスラエルの神を礼拝しているか、偶像礼拝をしているのかをよく知っているからです。

しかし、これに反対した人が4人いました。アサエルの子ヨナタンとティクワの子ヤフゼヤです。彼らはメシュラムとレビ人シャベタイの支持を得てとありますから、この2人も反対したことがわかります。なぜ彼らは反対したのでしょうか。なぜなら、彼らも異国の女を妻にしていたからです(10:29)。しかし、捕囚から帰って来た人々は、その提案どおりにしました。すなわち、自分たちの罪を告白し、悔い改めて、その罪から離れたのです。

こうして彼らはこの件を調べるために第十の月の一日に検討を始め、それは第一の月の一日まで続きました。第一の月とは、今の暦では3月にあたります。すなわち、この調査のために3か月を要したということです。それだけ問題が広範囲に及んでいたということ、数多くの人たちが外国人をめとっていたのです。

そのリストが18~44節に記されてあります。リストにあげられた名前は、祭司たち、レビ人たち、一般人の順で記されてあります。まず、祭司たちの名前です。18~22節をご覧ください。「10:18 祭司の子らのうちで異国人の女を妻にした者が分かった。エホツァダクの子ヨシュアの息子たちと、その兄弟たちのうちのマアセヤ、エリエゼル、ヤリブ、ゲダルヤであった。10:19 彼らはその妻を離縁すると誓い、自分たちの罪過のために、雄羊一匹を代償のささげ物として献げた。10:20 イメル族のうちでは、ハナニとゼバデヤ。10:21 ハリム族のうちでは、マアセヤ、エリヤ、シェマヤ、エヒエル、ウジヤ。10:22 パシュフル族のうちでは、エルヨエナイ、マアセヤ、イシュマエル、ネタンエル、エホザバデ、エルアサ。」

17人の祭司たちが、この罪を犯していました。彼らは、妻を離縁するという誓いをしてから、それぞれ罪過のためのささげものをしました。

  次に、レビ人たちの名前が記されてあります。23~24節です。「10:23 レビ人のうちでは、エホザバデ、シムイ、ケラヤすなわちケリタ、ペタフヤ、ユダ、エリエゼル。10:24 歌い手のうちでは、エルヤシブ。門衛のうちでは、シャルム、テレム、ウリ。」

  10人のレビ人がこの罪を犯していました。その中には歌うたい1人と門衛3人が含まれていました。

 そして最後に一般のイスラエル人です。25~43節です。ここには84人の名前が記されてあります。「10:25 一般のイスラエル人のうち、パルオシュ族のうちでは、ラムヤ、イジヤ、マルキヤ、ミヤミン、エルアザル、マルキヤ、ベナヤ。10:26 エラム族のうちでは、マタンヤ、ゼカリヤ、エヒエル、アブディ、エレモテ、エリヤ。10:27 ザト族のうちでは、エルヨエナイ、エルヤシブ、マタンヤ、エレモテ、ザバデ、アジザ。10:28 ベバイ族のうちでは、ヨハナン、ハナンヤ、ザバイ、アテライ。10:29 バニ族のうちでは、メシュラム、マルク、アダヤ、ヤシュブ、シェアル、ラモテ。10:30 パハテ・モアブ族のうちでは、アデナ、ケラル、ベナヤ、マアセヤ、マタンヤ、ベツァルエル、ビヌイ、マナセ。10:31 ハリム族のうちでは、エリエゼル、イシヤ、マルキヤ、シェマヤ、シメオン、10:32 ベニヤミン、マルク、シェマルヤ。10:33 ハシュム族のうちでは、マテナイ、マタタ、ザバデ、エリフェレテ、エレマイ、マナセ、シムイ。10:34 バニ族のうちでは、マアダイ、アムラム、ウエル、10:35 ベナヤ、ベデヤ、ケルフ、10:36 ワンヤ、メレモテ、エルヤシブ、10:37 マタンヤ、マテナイ、ヤアサイ。10:38 バニ、ビヌイ、シムイ、10:39 シェレムヤ、ナタン、アダヤ、10:40 マクナデバイ、シャシャイ、シャライ、10:41 アザルエル、シェレムヤ、シェマルヤ、10:42 シャルム、アマルヤ、ヨセフ。10:43 ネボ族のうちでは、エイエル、マティテヤ、ザバデ、ゼビナ、ヤダイ、ヨエル、ベナヤ。」

 44節には、彼らの妻たちの中には、すでに子を産んだ者もいたと記されてあります。子どもが生まれていた夫婦にとっては、離縁はさらに辛いものとなったでしょう。このように家を追われることになった妻と子どもがどうなったかについては、何も書かれていませんが、彼らには必要な物質的援助が与えられ、自分たちの出身地に戻って行ったことでしょう。

このようにエズラ記は、彼の宗教改革で閉じます。このエズラ記全体から教えられることはどんなことでしょうか。それは、神の恵みの御手が私たちとともにあるなら、私たちはあらゆるわざわいから救い出されるということです。それはエズラ記だけでなく、聖書全体を通して神が語っておられることです。

先日、福島で牧師按手式があり、そこでエレミヤ1章からエレミヤの召命からお話をさせていただきましたが、そこでも同じことが記されてあります。「1:7 主は私に言われた。「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすすべてのところへ行き、わたしがあなたに命じるすべてのことを語れ。1:8 彼らの顔を恐れるな。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。─主のことば。」」(エレミヤ1:7-8)

若かろうと老いていようと、才能があろうとなかろうと、口が重いかとか軽いかといったことは牧師にとって全く関係ありません。大切なのは、神がともにおられるかどうかということです。神がともにおられるなら、神があらゆる窮地から救い出してくださいます。これが、すべての祝福の源なのです。

であれば、私たちに求められていることは、神がともにおられることです。もし私たちの歩みが神のみむねにかなわなければ悔い改めなければなりません。それは単に口先で罪を告白するということではなく、神が喜ばれる方向に転換することです。そうすれば、主はともにいてくださいます。まさにエズラの宗教改革は、それを求めていたのです。私たちも自分自身を点検し、もし神のみむねにかなわない点があるなら悔い改めて神に立ち返りましょう。そしていつも神がともにおられることを第一に求めていきたいと思います。神があなたとともにいて、あなたをすべてのわざわいから救い出してくださいますように。

エズラ記9章

  エズラ記9章から学びます。

 Ⅰ.イスラエルの民の罪(1-4)

まず、1~4節をご覧ください。「 9:1 これらのことが終わって後、つかさたちが私のところに近づいて来て次のように言った。「イスラエルの民や、祭司や、レビ人は、カナン人、ヘテ人、ペリジ人、エブス人、アモン人、モアブ人、エジプト人、エモリ人などの、忌みきらうべき国々の民と縁を絶つことなく、 9:2 かえって、彼らも、その息子たちも、これらの国々の娘をめとり、聖なる種族がこれらの国々の民と混じり合ってしまいました。しかも、つかさたち、代表者たちがこの不信の罪の張本人なのです。」 9:3 私はこのことを聞いて、着物と上着を裂き、髪の毛とひげを引き抜き、色を失ってすわってしまった。 9:4 捕囚から帰って来た人々の不信の罪のことで、イスラエルの神のことばを恐れている者はみな、私のところに集まって来た。私は夕方のささげ物の時刻まで、色を失ってじっとすわっていた。」

1節の「これらのことが終わった後」とは、エズラ一行が無事にエルサレムに到着し、主への全焼のいけにえを献げ、アルタクセルクセス王から預かった命令書を、王の太守たちとユーフラテス川西方の総督たちに渡した後のことです。これらのことが終わった後、イスラエルの指導者たちがエズラのもとに近づいてきて、イスラエルに蔓延している罪について告げました。彼らはゼルバベルとともに帰還していた人たちです。そこで指導者としての地位を確立していたのでしょう。彼らはエズラがエルサレムにやって来たことを知り、イスラエルの中で行なわれている罪について告げたのです。エズラが律法の専門家であり霊的指導者であったことから、エズラに告げれば何らかの解決が得られるのではないかと期待したのだと思います。

その罪とはどんなことかというと、異教徒との結婚に関することでした。イスラエルの民、祭司、レビ人が、カナン人、ヒッタイト人、ペリジ人、エブス人、アンモン人、モアブ人、エジプト人、アモリ人といった異国の忌み嫌うべき習慣と縁を絶つことなく、かえって、彼らも息子たちも、これらの国々の娘を妻とし、聖なる種族がもろもろの地の民と混じり合っていたのです。モーセの律法には、雑婚が禁じられていました(出エジプト34:11~16、申7:1~4)。なぜなら、異教徒との結婚が、偶像をもたらすことになるからです。その最大の失敗例がソロモンです。1列王記11:3~5にはこうあります。

「11:3 彼には七百人の王妃としての妻と、三百人のそばめがあった。その妻たちが彼の心を転じた。11:4 ソロモンが年をとったとき、その妻たちが彼の心をほかの神々のほうへ向けたので、彼の心は、父ダビデの心とは違って、彼の神、【主】と全く一つにはなっていなかった。 11:5 ソロモンはシドン人の神アシュタロテと、アモン人のあの忌むべきミルコムに従った。」

ソロモンは多くの妻やそばめを持つことで、ほかの神々に心を向けてしまいました。彼はシドン人の神アシュタロテと、アモン人のあの忌むべきミルコムに従ったのです。イスラエルの民は聖なる民です。そうした異教徒から分離して生きることが求められていましたが、彼らはそれを無視していたのです。

このことを聞いたエズラはどうしたでしょうか。3節をご覧ください。彼はこのことを聞くと、衣と上着を引き裂き、髪の毛とひげを引き抜いて、茫然として座り込んでしまいました。これは深い悲しみと怒りを表しています。それは、イスラエルの民が捕囚として引かれて行く原因となったことでした。あれほど痛い思いをしてもまだわからないのかというあきらめにも近い思いを抱いたのでしょう。エズラは言葉を失い、夕方のささげ物の時刻、これは午後3時ですが、茫然としてそこに座りこんでいたのです。まさに茫然自失の状態だったのです。

隣人に対して寛容であることは大切なことですが、罪に対して寛容であることは危険なことです。信者が未信者と結婚することを禁じているのは人種差別からではなく、信仰的な理由からです。未信者の妻をめとった者は、次第に妻の宗教を受け入れるようになるからです。その結果、偶像礼拝を自分の中に持ち込むことになり、神様との関係が阻害され、神から離れてしまうことになります。そうなれば、自分たちは何のために存在しているのかさえ見失ってしまうことになります。神のみこころは、私たちが聖い者であることです。Ⅰペテロ1:15~16には、「1:15 あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。1:16 それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない」と書いてあるからです。」」とあります。私たちはそのために救われたのです。それなのに霊的に妥協するあまり、いつしかこの世の流れにすっぽりと浸り、神からも信仰からも離れていくのです。

悪魔は本当に巧妙ですね。今週の日曜日はどれほど多く方からメールをいただいたでしょうか。「きょうは用事があるので礼拝を休みます。あっ、来週も娘を部活に送っていかなければならないので行けません。ユーチューブで観ます。」「きょうは朝から旦那と喧嘩になり、家族で話し合うことになったのでお休みします。」勿論、どうしても来られない時もあるでしょう。でもそれはそれほど多くはないでしょう。問題は、この「聖でなければならない」という意味を理解してないことです。というのは、日曜礼拝は安息日ではありませんが、少なくても主が6日間で天と地にあるものを造られ7日目に休まれたので、これを聖なる日とするように定められたものです。この世とのいっさいの関わりを断ち、私たちを造り、私たちを罪から救ってくださった主を覚え、主を礼拝する日です。聖なる日です。よほどのことがない限り休むことは考えられません。私は心優しいので、そういう連絡をいただくとき何と返事したら良いか本当に悩みますが、牧師を打ちのめす一番良い方法はこれかもしれませんね。本当に忍耐が強いられます。いずれにせよ、私たちは自分がこの世に住みながら、この世のものではないことを常に思い出し、聖なる方にならって、聖なるものであることを求めていかなければならないのです。

Ⅱ.エズラの祈り(5-9)

茫然自失になり、打ちのめされていたエズラは、夕方のささげ物の時刻になって立ち上がり、主に祈ります。5~9節をご覧ください。「9:5 夕方のささげ物の時刻になって、私は気を取り戻し、着物と上着を裂いたまま、ひざまずき、私の神、【主】に向かって手を差し伸ばし、祈って、 9:6 言った。「私の神よ。私は恥を受け、私の神であるあなたに向かって顔を上げるのも恥ずかしく思います。私たちの咎は私たちの頭より高く増し加わり、私たちの罪過は大きく天にまで達したからです。9:7 私たちの先祖の時代から今日まで、私たちは大きな罪過の中にありました。私たちのその咎のため、私たちや、私たちの王、祭司たちは、よその国々の王たちの手に渡され、剣にかけられ、とりこにされ、かすめ奪われ、恥を見せられて、今日あるとおりです。 9:8 しかし、今、しばらくの間、私たちの神、【主】のあわれみによって、私たちに、のがれた者を残しておき、私たちのためにご自分の聖なる所の中に一つの釘を与えてくださいました。これは、私たちの神が私たちの目を明るくし、奴隷の身の私たちをしばらく生き返らせてくださるためでした。9:9 事実、私たちは奴隷です。しかし、私たちの神は、この奴隷の身の私たちを見捨てることなく、かえって、ペルシヤの王たちによって、私たちに恵みを施し、私たちを生かして、私たちの神の宮を再建させ、その廃墟を建て直させ、ユダとエルサレムに石垣を下さいました。」

エズラは、立ち上がると、衣を引き裂いたまま、ひざまずき、主に向かって手を伸べ広げて祈りました。彼はまず、イスラエルの民の罪を心から恥じています。なぜなら、その咎は増し、頭より高くなり、その罪過は大きく、天にまで達したからです。咎が頭よりも高いとか、罪過が天にまで達するというのは、神の御怒りを招かないでいられるような軽々しい罪ではない、ということです。ここで「罪」を「咎」とか「罪過」と言っていることに注目してください。「罪」とは知らないで犯すものですが、「咎」とか「罪過」は知りながら、もう罪であると十分に知識として与えられていながら、それでも犯す違反行為のことです。だからエズラは7節で、「私たちの先祖の時代から今日まで、私たちは大きな罪過の中にありました。」と言っているのです。「その咎のため、私たちや、私たちの王、祭司たちは、諸国の王たちの手に渡され、剣にかけられ、捕虜にされ、かすめ奪われ、面目を失って、今日あるとおりです。」と言っているのです。これはバビロン捕囚のことを指しています。どうして彼らにそのようなさばきに下ったのかというと、ほかの神々を礼拝し、神の御怒りを招いたからです。彼らはそのことを十分知っていました。それなのに彼らは、それと同じことを行っていたのです。バビロン捕囚はイスラエルの民をきよめるための神の懲らしめでしたが、それが何の効果もなかったのです。

であれば、何の弁解の余地もなく滅ぼし尽くされても致し方ないのに、主はそのあわれみによって、そこに逃れの者を残してくださり、ご自分の聖なるところに一本の杭を与えてくださいました。この「一本の杭」とは、着物や衣をかけておくための突き出た釘のことであるという理解から、聖なる所に自分たちの居場所があるという意味だと解釈する人もいますが、ここではもっと具体的に、神殿と町の再建のことを意味していると思われます。なぜなら、その後のところにそれを可能にさせたのも、神の恵みの業であると告白しているからです。彼らが奴隷の身分であるにもかかわらず、主はそんな彼らを見捨てることなく、かえって、ペルシャの王たちによって恵みを施し、彼らを生かして、彼らの神の宮を建て直させ、その廃墟を元に戻し、ユダとエルサレムに石垣をくださいました。本来なら滅びなければいけないのに、このようにやり直しを与えてくださっているとしたら、それは神の恵みとあわれみにほかありません。エズラはその神の恵みとあわれみを思い起こしているのです。

Ⅲ.Ⅲ.エズラの祈り②(10-15)

次に10~15節をご覧ください。「9:10 今、こうなってからは、何と申し上げたらよいのでしょう。私たちの神よ。私たちはあなたの命令を捨てたからです。9:11 あなたは、あなたのしもべ、預言者たちによって、こう命じておられました。『あなたがたが、入って行って所有しようとしている地は、そこの国々の民の、忌みきらうべき行いによって汚された汚らわしい地であり、その隅々まで、彼らの汚れで満たされている。9:12 だから、今、あなたがたの娘を彼らの息子にとつがせてはならない。また、彼らの娘をあなたがたの息子にめとってはならない。永久に彼らの平安も、しあわせも求めてはならない。そうすれば、あなたがたは強くなり、その地の良い物を食べ、これを永久にあなたがたの子孫のために所有することができる』と。9:13 私たちの悪い行いと、大きな罪過のために、これらすべてのことが私たちの上に起こって後、──事実、私たちの神、あなたは、私たちの咎の受けるべき刑罰よりも軽く罰し、このようにのがれた者を私たちに残してくださいました──9:14 私たちは再び、あなたの命令を破って、忌みきらうべき行いをするこれらの民と互いに縁を結んでよいのでしょうか。あなたは私たちを怒り、ついには私たちを絶ち滅ぼし、生き残った者も、のがれた者もいないようにされるのではないでしょうか。9:15 イスラエルの神、【主】。あなたは正しい方です。まことに、今日あるように、私たちは、のがれた者として残されています。ご覧ください。私たちは罪過の中であなたの御前におります。このような状態で、だれもあなたの御前に立つことはできないのに。」

主はそのあわれみによって彼らに一本の杭を与えられ、やり直しを与えてくださったのに、その機会をすべて台無しにしてしまった今、何も言うことができません。エズラは神に対して、自分たちは神の命令を捨てて、罪を犯したことを告白しています。その罪とは何でしょうか。それは雑婚の罪です。主は預言者たちによって、イスラエルが入って行って所有している地は、異国の汚れで汚れた地であり、忌み嫌うべき行いによって隅々まで汚れで満ちてしまった地であるから、彼らの娘をその地の息子に嫁がせてはならない、また、その土地の娘を彼らの息子の妻にしてはならないと命じておられました(レビ記18章、申命記7章)。それなのに彼らはその命令を破ったため、イスラエルの地に汚れと忌むべき習慣が持ち込まれてしまいました。

そのことのゆえに、様々なことが彼の上に起こりました。その最大のことがバビロン捕囚です。彼らはその土地から引き抜かれました。それにも関わらず神は彼らの咎に値するような刑罰を与えず、それよりも軽い罰を与え、逃れの者をこのように備えてくださいました。自分たち残された者がいる、ということです。

それなのに、再び主の命令を破って、忌み嫌うべき行いをするこれらの民と親戚関係に入るようなことがあるとしたら、ついにはその残りの者さえも、逃れの者もいないようにされるのではないでしょうか。エズラは、何か特別な要請をしたわけではありません。ただ自分たちの罪を認めて神の前にひれ伏しているだけです。彼は、神が啓示された御言葉に自分たちを照らし合わせ、その通りに自分たちを評価しているのです。

このように、主の御言葉を自分に都合の良いように一部の言葉だけを受け入れ、他の御言葉を退けたりせずに、書かれてあるとおりに自分を見つめることが大切です。そこに真の悔い改めと、罪への悲しみが生まれるからです。ヤコブが手紙の中でこう言いました。「あなたがたは、苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。(4:9-10)」

そして、エズラはこの祈りの中で、神のいくつかの性質を認めて告白しています。8節には「そのあわれみによって」とあります。主はあわれみ深い方です。また9節には「主は・・・恵みを施し」とあります。主は恵みを施してくださる方なのです。さらに14節には「あなたは怒って」とあります。主は怒られる方です。また15節には「あなたは正しい方です」とあります。エズラは、こうした神の属性を告白し、ご自身の契約のゆえに民にあわれみを示してくださいと祈ったのです。それは私たちも同じです。私たちもしばしば罪に陥ったり、様々な問題で苦しむことがありますが、どんなときでもこの神のご性質を思い起こし、神に信頼して祈らなければなりません。神は必ずその祈りを聞かれ、状況を変えてくださるからです。

最近、さくらチャーチの姉妹が白内障の手術を受けられたのですが、思うようにいかなかったのか、術後、片目がよく見えなくて落ち込んでおられました。それでもう一度かかりつけの眼科で診てもらったところ、硝子体出血であるということが判明し、もっと大きい病院で手術することになりました。そして月曜日に入院し、昨日手術をしたのですが、術後すぐに報告のメールが届きました。手術が無事終わったこと、そして、主がともにいてくださり、恐れることなく、お委ねすることができたと。

しかし、先週その姉妹からメールをいただいた時はかなり落ち込んでおられました。「牧師先生、こんばんは。右の目が見えないので眼科に行ってきました。硝子体出血との病名、明日自治医大にいくように言われました。結構やっかいな病気らしいですね。もう入院は絶対にしないと思っていましたが、またもや手術になりそうです。これもまた神のお計らい?悲しすぎます。詳しいことは明日お知らせします。いつも暗いことばかりですみません。」

このようなメールを頂いたら、皆さんならどのように応えますか?私は、硝子体出血で3度手術をしていますので、この姉妹の気持ちがよくわかるような気がします。でも、昨年命にかかわる大手術をされた姉妹にとって、また手術をすることに大きな不安を抱えておられたのでしょう。ですから、そのことを重々承知で、そのために主はあわれんでくださることを伝え、この主が完全に癒してくださると信じてお祈りしていますと、返信を差し上げました。そして日曜日の礼拝後に、教会の皆さんで心を合わせてお祈りをしたら、どこかふっきれたようなに安心しておられました。

そして、手術を終えた彼女はこう書き送ってくれました。「キラキラ輝く世界が見られるといいのですがあまり欲張りをせず、ほどほどがいいのでしょうか」よほど心に余裕が出てきたのでしょうね。ですから、私はこのような返信を差し上げました。「キラキラ輝く世界が見られるといいですが、ほどほどでもすごいことですよ。少しでも見えて生活できること自体が奇跡ですし、神様の恵みですから。」

私は自分の視力を失ってみて、つくづくそのように感じています。ですから、この姉妹への言葉は、自分自身に対する言葉でもあったのです。

大切なのは、主がどのようなお方なのか、主はあわれみ深く、恵み深い方であり、私たちの罪を贖ってくださった方、完全な癒し主であることを信じてお祈りすることです。私たちも日々予期せぬ出来事が起こり落ち込んだり不安になったりしますが、この真実な神のご性質にかけて祈る者でありたいと思います。そのとき、主は必ずその祈りに答えてくださり、あなたの状況を変えてくださるのです。

エレミヤ47章1~7節「ペリシテ人についての預言」

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エレミヤ書47章に入ります。46章から諸国の民に対する預言が語られていますが、今回はペリシテ人に対する預言が語られます。

 Ⅰ.ペリシテ人の破滅(1-5)

まず、1~5節までをご覧ください。1節をお読みします。「47:1 ファラオがガザを討つ前に、ペリシテ人について預言者エレミヤにあった【主】のことば。」

これは、ファラオがガザを討つ前に、ペリシテ人について預言者エレミヤにあった主のことばです。ファラオとはエジプトの王の称号です。そのファラオがガザを討つ前に、主はペリシテ人についてエレミヤに語っておられたのです。それはB.C.605年より前のことです。何度かお話していますが、その年、バビロンが台頭を恐れたファラオは、バビロンと戦うためにパレスチナに北上しました。そこでバビロン軍と戦うわけです。それはユーフラテス河畔のカルケミシュというところで行われた戦いなので、カルケミシュの戦いと呼ばれていますが、結果は、エジプト軍の惨敗でした。しかし、パレスチナに北上したエジプト軍は、ペリシテ人最大の都市ガザを討ちました。その前に、主がペリシテ人について語られたエレミヤに語られた預言がこれです。

それはどのような内容だったでしょうか。2~5節をご覧ください。「47:2 【主】はこう言われる。「見よ。北から水が上って来てあふれる流れとなり、地とそこに満ちているもの、町とその住民を押し流す。人々はわめき、地の住民はみな泣き叫ぶ。47:3 荒馬のひづめの音のため、戦車の響き、車輪のとどろきに、父親たちは気力を失い、子どもたちを顧みない。47:4 すべてのペリシテ人を破滅させる日、ツロとシドンを助ける生き残りの者すべてを断ち切る日が来たからだ。まことに【主】は、ペリシテ人を、カフトルの島の残りの者を破滅させる。47:5 ガザは頭を剃られ、アシュケロンは黙らされる。平地の残りの者よ、いつまで、おまえは身を傷つけるのか。」

2節にある「北から水が上って来て」とは、バビロン軍のことです。その水はあふれる流れとなって、地とそこに満ちているもの、町とその住民を押し流します。それは洪水のように襲ってきて、ペリシテの町々を呑み込むのです。すでにガザはエジプトの王ファラオによって討たれていましたが、今度はそのファラオを討ったバビロンによってすべての町が吞み込まれることになるのです。ですから、ペリシテ人はエジプトとバビロンのどちらからも攻め込まれて破滅することになります。まさにWパンチです。

その光景は、実に悲惨でした。3節には「荒馬のひづめの音のため、戦車の響き、車輪のとどろきに、父親たちは気力を失い、子どもたちを顧みない。」とあります。荒馬、戦車の音に、人々はわめき、地の住民はみな泣き叫ぶことになります。父親たちは気力を失い、自分の子どもたちを顧みる余裕さえありません。すべてのペリシテ人を破滅させる日が来たからです。

4節には、その日には生き残ってツロとシドンを助けようとする者もみな、断ち滅ぼされることになるとあります。ツロやシドンはペリシテの同盟国だったので、生き残って、彼らを助けようとするわけですが、助けようとしても助けることができないのです。ツロとシドンを助けようとする生き残りのすべての者もみな、断ち切られることになるからです。

また4節には「カトフルの島」という名称が出てきますが、これは地中海に浮かぶクレテ島のことです。そこがペリシテ人の出身地でした。彼らは元々そこに住んでいましたが、パレスチナの海岸地帯に移り住むようになったのです。ちなみに、パレスチナという地名は、このペリシテという名前に由来しています。パレスチナに移り住んだペリシテ人は、ユダヤ人と対立しながら現在のガザ地区のアラブ人となっていったのです。そのカフトルの島の残りの者を破滅させるというのは、ペリシテ人を根絶やしにするということです。

5節にある「ガザ」と「アシュケロン」は、ペリシテを代表する都市です。そのガザは頭を剃られ、アシュケロンは黙されることになります。それは深い悲しみと嘆きを表現しています。なぜそれほど深く嘆き悲しむことになるのでしょうか。徹底的に滅ぼされることになるからです。ペリシテ人はすべて滅び失せることになるということです。
 これが、ファラオがガザを討つ前に、ペリシテ人について主が預言者エレミヤに告げられたことばです。いったいなぜペリシテ人は、そのように破滅することになったのでしょうか。

Ⅱ.ペリシテ人が滅ぼされた理由(6-7)

6~7節をご覧ください。ここには、「47:6 「ああ。【主】の剣よ。いつまで、おまえは休まないのか。さやに納まり、静かに休め。」47:7 どうして、おまえは休めよう。【主】が剣に命じられたのだ。アシュケロンとその海岸──そこに剣を向けられたのだ。」とあります。
  ここには、それは主の剣だとあります。主が剣に命じたのでこのようになったのです。それは彼らが主のみこころに従わなかったからです。いったいどのような点で主のみこころに叶わなかったのでしょうか。

ここで、創世記12章1~3節を開きたいと思います。「12:1 【主】はアブラムに言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。12:2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。12:3 わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」

これはイスラエルの父祖アブラハムに対して主が語られたことばです。アブラハム契約と呼ばれているものです。それはアブラハムが主の命令に従い、自分の父の家を離れ、主が示す地へ行くなら、主は彼を祝福し、彼の名を大いなるものとするというものでした。3節には、「わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」とあります。この約束のとおり、神はアブラハムの子孫から出るメシヤによって、この約束を成就してくださいました。その方とはどなででしょうか。そうです、それはイエス・キリストです。神はこのイエスによって地上のすべての民族を祝福する、すなわち、救いに導くという計画を持っておられたのです。そのためにアブラハムは選ばれました。神はこの祝福の基として特別にアブラハムを選ばれたのです。このアブラハムを祝福する者は祝福され、呪う者は呪われることになります。これが聖書の原則なのです。しかし、ペリシテ人はこの原則に従いませんでした。神によって選ばれたアブラハムの民族、神の民を呪いました。それゆえ、神様から呪われることになったのです。もし彼らがイスラエルを祝福したのであれば、祝福されたでしょう。しかし、彼らはイスラエルに敵対し、絶えず攻撃しました。それゆえ、彼らは滅ぼされることになったのです。アブラハムを祝福する者は祝福され、呪う者は呪われるからです。

ここで地図をご覧ください。「ペリシテ人の地(新改訳聖書第三版、地図6)」

ペリシテ人について特筆すべきことは、彼らがどこに住んでいたかという点です。下の黒い楕円で囲まれた地域がペリシテ人の地です。ガザはその中にある赤い円で囲まれた町。その上は5節に出てきたアシュケロンです。ガザは今もイスラエルと戦闘状態にありますが、アシュケロンと合わせペリシテ人の5大都市の一つでした。ペリシテを代表する都市です。そのずっと上、北の方にある2つの黒い円で囲まれた町は、4節に出てきたツロとシドンです。このペリシテ人の地と隣り合わせにあるのがユダの地です。ペリシテの東側にある四角で囲まれた地域です。その右斜め上にあるのがエルサレムです。つまり、ペリシテ人の地はユダの地と隣り合わせにあったということです。もうほとんど入り混じっています。それで彼らは絶えずイスラエルに侵入してはイスラエルを支配しようとしたのです。イスラエルにとってはまさに「肉のとげ」のような存在だったのです。

旧約聖書を読むと、彼らに対する言及は古くはアブラハムの時代に遡りますが、顕著に出てくるのは士師記の時代です。今、さくらチャーチでは士師記を学んでいますが、サムソンが戦ったのがこのペリシテ人でした。その後もサムエル、サウル、ダビデの時代も彼らはイスラエルを悩まし続けます。最終的にダビデがペリシテ人を討ち、征服しました。ダビデが戦ったのはゴリヤテというペリシテ人の大男でした。1サムエル記17章4節によると、彼の身長は6キュビト半もありました。1キュビトは44.5cmですから、6キュビト半は289cmになります。ほんとかいな?と首をかしげたくなります。あのジャイアント馬場でさえ209cmでしたから、相当大きかったことがわかります。でもダビデはその巨人ゴリヤテを石投げ一つで倒しました。それでペリシテ人はイスラエルに屈することになったのです。ソロモンの時代になると、ペリシテ人は完全にイスラエルに仕えるようになります。しかし、B.C.931年にイスラエルが北と南に分裂するとペリシテ人は再び勢力を回復し、イスラエルを悩ますことになります。そんなペリシテ人を、神は徹底的に滅ぼされるのです。なぜでしょうか?神に選ばれた民に敵対したからです。アブラハムを祝福する者は祝福され、呪う者は呪われるからです。

それは、この人類の歴史を見てもわかります。先日、いつも教会にお米を届けてくださる方が、「先生、最近、高原剛一郎先生が書かれた『世界は聖書で出来ている』という本が出版されたのでプレゼントします」と言ってわざわざ持って来られました。どれどれとめくって見たら、このことについて書かれてありました。詳細は触れませんが、過去500年の人類の歴史を見ると、世界の覇権を握った国々は、すべてユダヤ人を祝福した国だったというのです。それはスペインでありポルトガル、オランダ、イギリス、そしてアメリカです。これらの国の興隆と没落を振り返ると、そこにはこの原則が流れていたというのです。特に第一次世界大戦前後のイギリスと、第二次世界大戦後のアメリカを見るとよくわかります。ヨーロッパの辺境にある島国が、やがて「7つの海を支配する」大英帝国に成長した背景には、このようなユダヤ人への支援と協力があったからなのです。

また、戦後アメリカが超大国に成長した背景にも、第一次世界大戦後ヨーロッパで難民となったユダヤ人を受け入れたという事実がありました。アメリカに移住したユダヤ人たちは、背水の陣で生き残りをかけ、並外れた努力を重ねた結果、他のどの移民集団よりも短期間で成功を収め、金融、不動産、映画産業、マスコミ、医学、法律、自然科学、そして芸術、文化に至るまで、他を圧倒しました。第二次世界大戦後アメリカは、世界の超大国として君臨したのです。アブラハムを祝福する者は祝福され、呪う者は呪われるという聖書の原則が働いていたのです。

しかし、これは必ずしもユダヤ人という民族に限ったことではありません。それは私たちクリスチャンのことでもあるからです。いやむしろ霊的な意味では、私たちこそアブラハムの子孫、霊的イスラエルです。なぜなら、アブラハムの子孫から出るメシヤ、救い主なるイエス・キリストを信じたことで、神の民とされた者だからです。Ⅱペテロ2章9~10節にはこうあります。

「2:9 しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。2:10 あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。」

「あなたがた」とは、イエス・キリストを信じるようにと選ばれた人たちのことです。ペテロはそのように選ばれた人たちに対して、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民だと言っているのです。以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者であると言ったのです。そう、イエス・キリストを信じるようにと選ばれた私たちも、このアブラハムの子孫であり、真のイスラエルなのです。ですから、イエス・キリストを信じて救われたクリスチャンを祝福する者は祝福され、呪う者は呪われるのです。私たちは祝福すべきであって、呪うべきではありません。もし神に選ばれた者を呪うことがあるとしたら、ペリシテ人のように呪われることになります。なぜなら、アブラハムを祝福する者は祝福され、呪う者は呪われるからです。

以前、米沢の恵泉キリスト教会牧師の千田次郎先生からこんなお話を聞いたことがあります。それは、かつて全日本リバイバルミッションが盛んに行われていた頃のことですが、主催者の滝元明先生から、東北で決起集会をしたいので協力してほしいと要請があったそうです。しかし、千田先生はあまり乗り気ではありませんでした。というのは、伝道は大きな集会を開くことではなく、マタイ28章にあるように、あらゆる国の人々を弟子とすることだからです。そのために行って福音を宣べ伝え、バプテスマを授け、主が命じたことを守るようにみことばを教えなければなりません。必ずしも大きな伝道集会を開くことが必要ではない。そういう思いがありました。
  しかし、ある日御言葉を読みながら祈っていると、このことが示されたのです。「アブラハムを祝福する者を祝福し、呪う者を呪う」。そしてアブラハムとは誰だろうと思い巡らしていると、それは滝元先生ではないか。滝元先生は神によって選ばれた神の器だと。その滝元先生を祝福することこそ、神様が望んでおられることだと確信し、その働きの祝福を覚えて祈るようになったということでした。

私はそのお話を聞いたとき、すごいなぁと思いました。というのは、人は自分の考えと違うとなかなか受け入れることができないものですが、神のみこころを求めて祈る中で、たとえそれが自分の考えと違っても神のみこころなら従うということを実践されておられたからです。それこそ神様に喜ばれることであり、神様が祝福してくださる信仰だと思いました。私はまだそれほど長い信仰生活を送ってきたわけではありませんが、確信をもって言えることは、神の御言葉に従う者を神は豊かに祝福してくださるということです。それは霊的な面においても、精神的においても、肉体的な面においても、物質的においても、経済的においても、社会的な面においても、すべての面においてです。Ⅱ歴代16章9節に、「【主】はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」とある通りです。問題は、私たちの心が主の心と一つになっているかどうかです。もし一つになっているなら、主はそのような人々に御力をあらわしてくださいます。それはこの点においても言えることです。アブラハムを祝福する者は祝福され、呪う者は呪われるのです。

先日、私は64回目の誕生日を迎えましたが、この64年を振り返りながら、このような人生を与えてくださった主に感謝しました。なかなかないと思うんですよ。18歳で信仰に導かれ、22歳で伝道者として召され、以後42年にわたりイエス様一筋に仕えることができるなんて。私は長嶋茂雄さんにはなれなかったし、マイケル・ジョーダンにもなれなかったけど、キリストのしもべとしての歩みを続けることができました。それは一重に神様のあわれみでしかなかった。こんな者を神様はご自身の栄光のために選んでくださいました。


  しかしそのように祈りながら感謝していると、神様からの御声がありました。「違う」と。「えっ、どういうことですか」と尋ねると、主はこのように示されました。「確かに、わたしはあなたを選んだが、それ以上にパットを選んだのだ」と。「パットがアブラハムで、あなたはそのアブラハムに仕えるしもべにすぎない。」と。これはどういうことだろうと思い巡らしているうちに、「本当にそうだと思うようになりました。」

家内が宣教師として来日したのは1979年ですから、今から46年前になります。一般に、宣教師は母国のサポーターから献金を募り、何らかの宣教団体を通して遣わされてきますが、家内はそうしませんでした。献金を集めるのがあまり得意じゃないということもありましたが、何よりもそうすれば4年に一度デブテーションで戻らなければならなかったのですが、それを受け入れることができなかったからです。伝道の途中で1年間も空けることは宣教にとって大きな妨げになるのではないかと考えたのです。ですから彼女は宣教団を通してではなくセルフサポートといって、自分で働きながら宣教する道を選びました。それは自由に宣教ができるというメリットはありますが、老後のことを考えると厳しい選択でもありました。というのは、働きを終えて帰国する時、何の保障もないからです。でも彼女はアブラハムのように「あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい」との召しを受けたとき、それに従い、どこに行くのかも知らずに、ただ信仰によって来日しました。そこで私と出会って結婚に導かれたのです。それは老後の保障どころか、帰国の路が閉ざされることを意味していました。日本に骨を埋めることを覚悟したということです。それほどの覚悟で来たのは、神様が彼女を選ばれたからです。パットがアブラハムで私はそのしもべにすぎないと言われる主のことばの意味がわかるような気がしました。そういえば、来日したばかりの頃、彼女はよく言っていました。「私は口下手なのでモーセですが、あなたはよく喋るのでアロンだ」と。主はご自身の御業のためにモーセを選んだように、パットを選ばれたのです。
  であれば、私がすべきこと何でしょうか。このアブラハムを祝福することではないかと思ったのです。アブラハムを祝福する者は祝福されるからです。

それはパットだけでなく、神の民とされた私たちクリスチャンにも言えることです。私たちはお互いに神に選ばれた神の民なのです。であれば、祝福すべきであって呪ってはいけません。喜んでいる者とともに喜び、泣く者と一緒に泣く。互いに一つ心になり、思い上がることなく、むしろ身分の低い人たちに順応しなければなりません。そういう人を、神様は祝福してくださるからです。ペリシテ人はそうではありませんでした。イスラエルを祝福したのではなくイスラエルに敵対し、いつも戦いを挑みました。それゆえ、神から厳しい裁きを受けることになったのです。私たちはそういうことがないように、この御言葉に従わなければなりません。神に選ばれた神の民を、愛する兄弟姉妹を心から祝福しなければなりません。祝福すべきであって呪ってはいけないのです。

Ⅲ.主のみことばの剣(6-7)

第三のことは、だから神のことばに従いましょう、ということです。6~7節をもう一度ご覧ください。「47:6 「ああ。【主】の剣よ。いつまで、おまえは休まないのか。さやに納まり、静かに休め。」47:7 どうして、おまえは休めよう。【主】が剣に命じられたのだ。アシュケロンとその海岸──そこに剣を向けられたのだ。」

ここには単にペリシテがバビロンによって討ち破られたというだけでなく、その背後に神の力と支配があったことがわかります。6節は、平安がないことを嘆くペリシテ人の嘆きです。「ああ、主の剣よ。いつまで休まないのか。さやに収まり、静かに休め。」
  ここで注目していただきたいことは、エレミヤが「主の剣」と言っていることです。実際にはペリシテもエジプトと同様に、目に見えるところではバビロンの攻撃によって討ち破られたわけですが、エレミヤはその出来事の背後に、主の力と支配があることを認めていました。
  7節もそうです。「どうして、休めるだろうか。主が剣に命じられたのだ。」とあります。主が命じられたのだから、主がみこころを実現するまでは休むことはありません。彼らに求められていたことは、それが主の剣であると認め、主の前にへりくだり、主に従うことだったのです。ダゴンの神ではなくイスラエルの神、主に信頼することだったのです。

それはペリシテ人だけのことではありません。私たちにも言えることです。聖書には、文字通り武具としての剣だけでなく、主なる神が語られる「みことばの剣」について言及されています。へブル4章12節です。「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」

神のことばはそれほどまでに鋭いのです。人の心の奥深くに光を当て、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通します。心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。それは両刃の剣よりも鋭いのです。ですから、この神のことばによって罪が示されたのなら、「いたたっ!さやに収まり、静かに休め」と言うのではなく、私の罪のために十字架にかかり、救いを成し遂げてくださった主イエス・キリストの御前に進み出て、砕かれた、悔いた心をもって、罪の赦しを求めなければなりません。そして御言葉によって励まされ、慰められ、強められ、教えられ、助けられて、御国を継ぐ者とさせていただかなければならないのです。それがペリシテ人に対して語られた主のことばを通して教えられることです。神のことばに従いましょう。神のことばに従ってアブラハムを祝福しましょう。イスラエルを祝福しましょう。主にある兄弟姉妹を祝福しましょう。祝福すべきであって、呪ってはいけません。神のことばに生きるとき、必ずあなたも祝福の基となることができます。それこそ、あなたが世の光、地の塩としてこの世に遣わされている目的だからです。

エズラ記8章

エズラ記8章から学びます。

 Ⅰ.帰還者のリスト(1-14)

まず、1~14節をご覧ください。「8:1 アルタシャスタ王の治世に、バビロンから私といっしょに上って来た一族のかしらとその系図の記載は次のとおりである。8:2 ピネハス族からはゲルショム。イタマル族からはダニエル。ダビデ族からは、ハトシュ。8:3 ハトシュはシェカヌヤの孫。パルオシュ族からは、ゼカリヤと、系図に載せられた同行の者、男子百五十名。8:4 パハテ・モアブ族からは、ゼラヘヤの子エルエホエナイと、同行の男子二百名。8:5 ザト族からは、ヤハジエルの子シェカヌヤと、同行の男子三百名。8:6 アディン族からは、ヨナタンの子エベデと、同行の男子五十名。8:7 エラム族からは、アタルヤの子エシャヤと、同行の男子七十名。8:8 シェファテヤ族からは、ミカエルの子ゼバデヤと、同行の男子八十名。8:9 ヨアブ族からは、エヒエルの子オバデヤと、同行の男子二百十八名。8:10 バニ族からは、ヨシフヤの子シェロミテと、同行の男子百六十名。8:11 ベバイ族からは、ベバイの子ゼカリヤと、同行の男子二十八名。8:12 アズガデ族からは、カタンの子ヨハナンと、同行の男子百十名。8:13 アドニカム族からの者は最後の者たちで、その名はエリフェレテ、エイエル、シェマヤ、および彼らと同行の男子六十名。8:14 ビグワイ族からは、ウタイとザクルと、同行の男子七十名。」

エズラは、アルタクセルクセス王(第三版ではアルタシャスタ王)の第七年に帰還しました。(7:8)。ここには、その時エズラと一緒にバビロンからエルサレムに上って来た民のリストが記録されています。この時に帰還した民の数は、合計で1,772人でした。2章3~15節には、ゼルバベルとともに帰還したユダヤ人の数が記録されてあのますが、その時の帰還民の合計は、42,360人でしたから、それに比べると今回の期間に加わった人たちは、かなり少ない人数であったことがわかります。ほぼ10分の1にすぎません。しかし、数が問題ではありません。彼らはカナンの地に自らの未来があると信じて帰還した「イスラエルの残れる者」(レムナント)たちでした。「イスラエルの残れる者」とは、イスラエルの民全体の中にあって真の信仰を持っていた少数の人たちのことです。彼らは「真のイスラエル」、「霊的イスラエル」とも呼ばれる人たちです。真のイスラエルは、常に少数派です。それは、霊的イスラエルであるクリスチャンにも言えることです。今も真の信仰を持つ人たちは、この世の中では少数です。しかし、その事実に失望する必要はありません。神は少数の真実な信仰者たちを用いて、ご自身の計画を進めてくださるからです。

「祈りの人」という本を書いたE.M.バウンズは、その著書の中でこう言っています。「今日、教会に必要なことは、より多くの、より良い手段ではなく、また新しい組織や、より多くの新奇な方法でもない。ただ聖霊が用いたもうことのできる人である。それはすなわち、『祈りの人』である。祈りにおいて力ある人なのである。聖霊は方法をとおしてではなく、ただ人をとおしてのみ注がれる。聖霊は各種の手段の上にではなく、人に注がれるのである。また聖霊は計画にではなく、ただ人に、そうです、祈りの人に油を注がれるのだ。」

ですから、私たちはこの世の価値観に流されるのではなく、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良い事で、神に喜ばれ、完全であるのかをわきまえ知るために、心を新たにすることで、自分を変えていただかなければなりません。

Ⅱ.レビ人の募集(15-20)

次に、15~20節をご覧ください。「 8:15 私はアハワに流れる川のほとりに彼らを集め、私たちはそこに三日間、宿営した。私はそこに、民と祭司たちとを認めたが、レビ人をひとりも見つけることができなかった。8:16 それで、私はかしらのエリエゼル、アリエル、シェマヤ、エルナタン、ヤリブ、エルナタン、ナタン、ゼカリヤ、メシュラムと、教師エホヤリブ、エルナタンを呼び集め、8:17 彼らをカシフヤ地方のかしらイドのもとに遣わした。私は彼らにことばを授けて、私たちの神の宮に仕える者たちを連れて来るように、カシフヤ地方にいるイドとその兄弟の宮に仕えるしもべたちに命じた。8:18 私たちの神の恵みの御手が私たちの上にあったので、彼らはイスラエルの子、レビの子、マフリの子孫のうちから思慮深い人、シェレベヤと、その子たち、およびその兄弟たち十八名を私たちのところに連れて来た。8:19 また、ハシャブヤとともに、メラリの子孫のうちからエシャヤと、その兄弟と、その子たち二十名、8:20 および、ダビデとつかさたちにより、レビ人に奉仕するよう任命されていた宮に仕えるしもべたちのうちから、二百二十名の宮に仕えるしもべたちを連れて来た。これらの者はみな、指名された者であった。」

エズラ一行は、アハワに流れる川のほとりに彼らを集め、そこに3日間宿営しました。なぜなら、エズラが帰還民たちを確認したところ、そこにレビ人を見つけることができなかったからです。レビ人がいなければ、帰還した先で生活を建て直すことが困難になります。というのは、レビ人たちには2つの重要な役割があったからです。一つは、律法の教師として奉仕すること(レビ10:11、申命記33:10)、もう一つは、神殿で祭司たちを補助することです。もしレビ人がいなければ、この2つのことができなくなります。7章では、主の恵みの御手が彼とともにあったので、彼は4か月という短期間にエルサレムに上ることができたことを学びましたが、それは彼が主の律法を調べ、これを実行し、イスラエルで起きてと定めを教えようと心を定めていたからでした(7:10)。しかし、レビ人がいなければ、主の律法を教える人がいなくなります。それでは、神のことばの上に計画を進めていくことができないことになり、結果、こうした祝福を受けることができなくなります。ですから、レビ人を連れて行くことがどうしても必要だったのです。

それでエズラはそこに3日間宿営し、信頼できる11人を呼び集め、レビ人を集めるために彼らを遣わしました。17節には、カシフヤ地方のかしらイドについて、そこに居住しているレビ人たちに対して、どのように言えばよいかということまで指図しています。レビ人の募集は、それほどデリケートなテーマだったのです。

その結果、どうなったでしょうか。18節にあるように、彼らはマフリの子のうちから賢明な者18人と、メラリの子のうちから20人、合計38人のレビ人を連れて来ることができました。また、レビ人に奉仕するように任命されていた宮のしもべたちのうちから、220人のしもべたちを連れて来ることができました。それは彼らが優れていたからとういうよりも、神の恵みの御手が彼らの上にあったからです。これはエズラ記のテーマですね。神の恵みの御手が私たちの上にあってので・・。神の恵みの御手が彼らとともにあったので、彼らを用いてレビ人を連れて来ることができたのです。

ここで重要なことは、20節にあるように、「これらの者はみな、指名された者であった」という点です。どういうことでしょうか。口語訳ではここを、「これらの者は皆その名を言って記録された。」と訳しています。また、創造主訳聖書でも「彼らは皆、その名前を記録された。」と訳しています。つまり、これは、220名のレビ人たちが示した献身に対する敬意の表明だったのです。レビ人が自発的に帰還しなかったのは、エルサレムでの厳しい生活を想像することができたからです。しかし、この220名の者たちは、生活の保証よりも、主に仕える道を選びました。献身の道を歩む者の名は、主に覚えられているということです。献身者にとってこれほど大きな励ましはありません。

Ⅲ.アハワ川のほとりでの断食(21-30)

次に、21~30節をご覧ください。まず23節までをお読みします。「8:21 私はそこ、アハワ川のほとりで断食を布告した。それは、私たちの神の前でへりくだり、私たちのために、私たちの子どもたちと、私たちのすべての持ち物のために、道中の無事を神に願い求めるためであった。8:22 それは私が、道中の敵から私たちを助ける部隊と騎兵たちを、王に求めるのを恥じたからであった。実際、私たちは王に、「私たちの神の御手は、神を尋ね求めるすべての者の上に幸いを下し、その力と怒りは、神を捨てるすべての者の上に下る」と言っていたのである。8:23 そのため私たちはこのことのために断食して、自分たちの神に願い求めた。すると、神は私たちの願いを聞き入れてくださった。」

エズラは、エルサレムへの帰還にあたり、アハワ川のほとりで断食を布告しました。それは、彼らが神の前にへりくだり、道中の無事を願い求めるためです。というのは、彼は道中の敵から自分たちを助けるための部隊と騎兵たちを、アルタクセルクセス王に求めることを恥じたからです。それは彼が王に自分たちの神の御手は、神を尋ね求めるすべての者に幸いを下し、その力と怒りは、神を捨てるすべての者の上に下る」と言っていたからです。それなのに、もし王に護衛を要請したら、言っていることとやっていることが一致しないことになります。ちなみに、ネヘミヤの場合は、護衛が付きました。ですから、護衛を付けるか付けないかということが問題だったのではなく、そのように言ってしまった手前、そうせざるを得なくなったということです。しかしそれはエズラにとって大きな霊的チャレンジでした。21節にあるように、そのために彼らは断食して自分たちの神に願い求めると、神は彼らの願いを聞き入れてくださったということを体験することができたからです。護衛を付けてもつけなくても、大切なのは神の前にへりくだること、そして、神に信頼して祈ることです。そうすれば、神はその願いを聞いてくださる。これこそ、私たちの神に対する確信です。エルサレムに帰還するにあたり、これは彼らにとって大きな霊的準備となりました。

次に、24~30節をご覧ください。「8:24 私は祭司長たちのうちから十二人、すなわち、シェレベヤとハシャブヤ、および彼らの同僚十人を選り分けた。8:25 そして、王、顧問たち、高官たち、および、そこにいたすべてのイスラエル人が献げた、私たちの神の宮への奉納物である銀、金、器を量って、彼らに渡した。8:26 私は銀六百五十タラント、百タラント相当の銀の器、および金百タラントを量って、彼らに渡した。8:27 また、一千ダリク相当の金の鉢二十、さらに、金のように高価な、光り輝く見事な青銅の器二個を彼らに渡した。8:28 それから私は彼らに言った。「あなたがたは【主】の聖なるものである。この器も聖なるものである。この銀と金は、あなたがたの父祖の神、【主】に対する、進んで献げるものである。8:29 あなたがたは、エルサレムの【主】の宮の部屋で、祭司長たち、レビ人たち、イスラエルの一族の長たちの前で重さを量るまで、寝ずの番をしてそれらを守りなさい。」8:30 祭司とレビ人たちは、重さを量った銀、金、器を、エルサレムの私たちの神の宮に持って行くために受け取った。」

エズラは、12人の祭司長たちを選び、ペルシャの王、顧問たち、高官たちと、そこにいたイスラエル人が神の宮の奉納物としてささげたものを量って、彼らに渡しました。それは相当の金と銀の量でした。それは28節にあるように、神のために聖別されたものです。ですから、聖なる祭司たちによってエルサレムに運ばれる必要があったのです。エルサレムに運ばれたら最初の量がそのまま運ばれたかどうか、再計算がなされます。ですから、とても重要な任務であったわけです。その重要な任務を護衛なしで遂行することは、かなり危険なことでした。そのために護衛を付けたから安心ということはなかったでしょう。そこにはへりくだって神のご加護を求める必要がありました。ですからエズラは断食を布告し、祈りを呼びかけたのです。主の御手が私の上にあったという表現は、この営みから来ているのです。祈り、そして祈りに基づいて行動し、一歩一歩神を意識しながら、主を認めながら歩むのです。そうした祈りを神が聞き入れてくださらないわけがありません。こうして彼らの帰還の旅が守られたのです。

Ⅳ.エルサレム到着(31-36)

さあ、エルサレムに帰還した彼らはどうしたでしょうか。31~36節をご覧ください。「8:31 私たちはエルサレムに行こうと、第一の月の十二日にアハワ川を出発した。私たちの神の御手が私たちの上にあり、その道中、敵の手、待ち伏せする者の手から私たちを救い出してくださった。8:32 こうして私たちはエルサレムに着いて、そこに三日間とどまった。8:33 四日目に銀と金と器が私たちの神の宮の中で量られ、ウリヤの子の祭司メレモテの手に渡された。彼とともにピネハスの子エルアザルがいて、彼らとともに、レビ人である、ヨシュアの子エホザバデとビヌイの子ノアデヤがいた。8:34 すべてが数えられ、量られた。そのとき全重量が書き留められた。8:35 捕囚の人々で、捕囚から帰って来た者は、イスラエルの神に全焼のささげ物を献げた。すなわち、全イスラエルのために雄牛十二頭、雄羊九十六匹、子羊七十七匹、罪のきよめのささげ物として雄やぎ十二匹を献げた。これはすべて【主】への全焼のささげ物であった。8:36 それから、彼らは王の命令書を、王の太守たちとユーフラテス川西方の総督たちに渡した。この人たちはこの民と神の宮に援助を与えた。」

こうしてエズラたちはエルサレムに行こうと、第一の月の12日にアハワ川を出発しました。すると、神の御手が彼らの上にあり、その道中、敵の手、待ち伏せしている者の手から救い出してくださったので、彼らは無事にエルサレムに着くことができました。バビロンからエルサレムまでは厳しい長旅のはずですが、エズラは旅の詳細については一切触れず、ただ「私たちの神の御手が私たちの上にあり」と述べているだけです。彼にとっては、これが旅の要約なのです。「私たちの神の御手が私たちの上にあり・・・その道中、敵の手から救い出してくださった」。これがすべてなのです。私たちのこの地上の旅も、このように告白する旅でありたいですね。

エルサレムに到着すると、彼らはそこに3日間とどまり、4日目にバビロンから運んで来た銀と金と器類は目減りがないかどうか再計量され、祭司たちの手に渡されました。

捕囚の人々で、捕囚から帰って来た者は、イスラエルの神に全焼のささげ物を献げました。すなわち、全イスラエルのために雄牛12頭、雄羊96匹、子羊77匹、罪のきよめのささげ物として雄やぎ12匹です。雄牛12頭は、イスラエル12部族のためです。その他のいけにえは神殿奉献の時と同じものです(エズ6:17)が、数は減っています。これは神への献身を表すためのいけにえです。

さらに、王の命令書を、その地に派遣されていた王の高官たちに渡しました。目的は、帰還民の扱いに関して、王の意向を反映させるためです。その結果、なんと異邦人である彼らが、神殿での礼拝のために援助を与えたのです。これがこの箇所のクライマックスです。まさに神の御手が彼らの上にあったので、異邦人の王の心までも動かしてくださったのです。私たちの人生もこうありたいものです。神は、ご自身に信頼を置く者に恥をかかせるような方ではありません。ただ神の御手が共にあるように祈り求め、神のみこころに歩む者でありたいと思います。

エズラ記7章

  エズラ記7章から学びます。

 Ⅰ.律法に通じている学者エズラ(1-6)

まず、1~6節をご覧ください。「7:1 これらの出来事の後、ペルシアの王アルタクセルクセスの治世に、セラヤの子エズラという人がいた。セラヤはアザルヤの子、順次、ヒルキヤの子、7:2 シャルムの子、ツァドクの子、アヒトブの子、7:3 アマルヤの子、アザルヤの子、メラヨテの子、7:4 ゼラフヤの子、ウジの子、ブキの子、7:5 アビシュアの子、ピネハスの子、エルアザルの子、このエルアザルは祭司のかしらアロンの子である。7:6 このエズラがバビロンから上って来たのである。彼はイスラエルの神、【主】がお与えになったモーセの律法に通じている学者であった。彼の神、【主】の御手が彼の上にあったので、王は彼の願いをすべてかなえた。」

1節には「これらの出来事の後」とあります。「これらの出来事」とは、1~6章までに記されてある内容を指します。具体的には、ゼルバベル主導の下に行われた神殿再建工事のことです。ゼルバベルや大祭司ヨシュアは反対者の妨害に遭いながらも、ハガイやゼカリヤといった預言者たちが語る神のことばによって励まされ、神殿再建工事を完成させました。紀元前516年のことです。これらの出来事の後、ペルシャの王アルタクセルクセス王(新改訳第三版ではアルタシャスタ王)の治世に、エズラがバビロンから帰還します。これが第二次エルサレム帰還です。それは7節にあるように、アルタクセルクセス王の第七年のこと、紀元前458年のことでした。ですから、エズラがエルサレムに帰還したのは神殿再建工事が完成してから実に57年後のことでした。ということは、エズラ記6章と7章の間には、約57年の空白期間があるということになります。ちなみに、エステル記の出来事はアハシュエロス王(クセルクセス1世)の治世の時のことなので、エズラ記6章と7章の間の出来事です。

ここにはエズラについて紹介されていますが、彼はセラヤの子で、順次遡っていくと、彼は祭司のかしらアロンの子孫であることがわかります。つまり彼は祭司だったのです。なぜここに系図を書き記したのかというと、そのことを証明したかったからです。というのは、1章61~63節にはゼルバベルの指導の下エルサレムに帰還した民の中に祭司の子孫たちがいましたが、自分たちの系図書きを探しても見つからなかったため、祭司職を果たすことができなかったからです。その資格がないとみなされたからです。ですから、彼が祭司であることを証明するために、このように系図を書き記す必要があったわけです。

このエズラがバビロンから上って来たのです。6節には、彼は単に祭司であったというだけでなくモーセの律法に精通した学者であったとあります。どういうことでしょうか。新しいエルサレムの再建にあたっては、ゼルバベルや大祭司ヨシュアの強力なリーダーシップがありましたが、その土台はモーセの律法、すなわち、神のことばであったということを示しているのです。神殿再建という神の働きは、神のことばという霊的土台の上に成されたということです。それは今日の教会にも言えることです。教会のすべての活動は祈りとみことばという土台の上に築き上げられなければなりません。その中心は何でしょうか。礼拝です。毎週日曜日の礼拝を通して神のことばが語られ、そのみことばに祈りをもって応答していくことによって、従っていくことによって教会は建て上げられていくのです。これが教会の本質的なことであって、これを抜きに教会が建て上げられることはありません。

今週の礼拝に、久しぶりにOさん家族が来会されました。今回来られたのは、1歳4か月の息子さんを見せたいからということでしたが、実はもう一つの目的がありました。それは、現在通っておられる教会をどうしたら良いか聞くためでした。Oさんはその教会に行って3年しか経っていませんが、集っておられる十数人の方々はご高齢の方で、牧師も働きながらの牧会なので疲れもあり、月2回の礼拝はOさんが説教の時間にC-BTEのテキストから教えているのだそうです。どうやらその教会の牧師はOさんを後継者にどうかと考えておられるようですが、自分はすどうしたら良いかとアドバイスを求めて来られたのです。土曜日に一緒に昼食を食べてから夕方までずっと話が止まりませんでした。大切な奥様息子さんを傍で遊ばせながら。私はずっとお話を聞いていて、一つのことだけ伝えました。それは礼拝を大切にするようにということです。他の活動ができなくても、礼拝だけはしっかり準備するようにと。たとえば、その教会では毎年シンガポールからチームを招いて伝道しているそうですが、それによって教会に繋がった人がいるかというとそうではなく、一時的なイベントで終わっていました。それが悪いということではなく、そうしたことも素晴らしいことですが、でももっと重要なことはそれが何の上に立っているかということです。それがみことばの上に立っていないと、元も子も無くなってしまいます。そう言うと、「えっ、えっ、どういうことですか?」と質問したので、はっきり伝えました。「日曜日の説教はみことばを通して神様が語られるのであって、C-BTEのテキストをやるときではない。それは礼拝の後で学ぶものですよ。毎週の礼拝でみことばがしっかりと語られ、一人一人が祈りの中でそのみことばに応答することによって教会は建て上げられていくんですよ」と。すると、わかったような、わからないような感じで宿泊のため那須の教会に行き、翌日の礼拝に出席されました。

礼拝が終わると、Oさんが私のところに来てこう言いました。「先生、わかりました。神のみこころに生きるということがどういうことなのかが。そういうふうにしたいです。帰って向こうの牧師と相談してみます。」

何がわかったのかわかりませんが、少なくても礼拝が重要であるということ、そして教会の土台はこのみことばと祈りなのだということがわかったのだと思います。

そのような働きを、神が祝福してくださらないわけがありません。6節をご覧ください。ここには「彼の神、主の御手が彼の上にあったので、王は彼の願いをすべてかなえた」とあります。この「王」とは、ペルシャの王アルタクセルクセス(アルタシャスタ)王のことですが、神のことばを土台として進められたエルサレムの再建工事には神の御手がともにあったので、異教の王であったアルタクセルクセス王がすべての願いをかなえてくれるほど祝福されたのです。

Ⅱ.エルサレムに到着したエズラ(7-10)

次に、7~10節をご覧ください。「7:7 アルタクセルクセス王の第七年に、イスラエル人の一部、および祭司、レビ人、歌い手、門衛、宮のしもべの一部が、エルサレムに上って来た。7:8 エズラは王の第七年の第五の月にエルサレムに着いた。7:9 すなわち、彼は第一の月の一日にバビロンを出発した。彼の神の恵みの御手は確かに彼の上にあり、第五の月の一日に、彼はエルサレムに着いた。7:10 エズラは、【主】の律法を調べ、これを実行し、イスラエルで掟と定めを教えようと心を定めていた。」

ゼルバベルらがエルサレムに帰還したときのように、この時も祭司やレビ人、歌い手、門衛、宮のしもべなど、神殿で奉仕する人たちが一緒にエルサレムに帰還しました。エズラが到着したのは、アルタクセルクセス王の治世の第七年の第五の月の一日です。これは先ほども申し上げたように紀元前458年のことです。9節に「彼は第一の月の一日にバビロンを出発した」とあるので、この旅はちょうど4か月かかったことになります。それは今の暦でいうと7~8月にあたりますが、それは暑くて厳しい旅であったことが想像できます。バビロンから北に向かい、ユーフラテス川を越えて、ダマスコからエルサレムに南下するルートを取れば、約1,600キロの距離です。それを徒歩で、しかも、いけにえのための家畜や金や銀などの貴重品も携えてやって来たことを考えると、驚くほどの短期間であったことがわかります。どうして彼らはそんなに短期間に来ることができたのでしょうか。それは9節にあるように、「彼の神の恵みの御手が確かに彼の上にあった」からです。このことは6節にもありました。「主の御手が彼の上にあったので、王は彼の願いをすべてかなえた。」それは彼らに体力、気力、動力があったからで北のではなく、神の恵みの御手が彼らの上にあったので、彼らは4か月という短期間でエルサレムに到着することができたのです。

それは具体的にどういうことでしょうか。それは10節にあるように、「エズラは、【主】の律法を調べ、これを実行し、イスラエルで掟と定めを教えようと心を定めていた。」ということです。これが、神の恵みの御手がエズラの上にあった理由です。彼は、主の律法を調べ、その学んだことを実行し、他の人たちに神の律法、すなわち、神のことばを教えようと、心を決めていました。これが祝福されたミニストリー、祝福された教会形成、祝福されたクリスチャンライフの秘訣です。私たちはいろいろな計画を立て、それを実行するための準備をしますが、それを成功へと導くのは、神の恵みの御手なのです。それはまさに詩篇1篇1~3節にみられる水路のそばに植わった木のようです。時が来れば実がなり、その葉が枯れることはありません。その人は何をしても栄えます。なぜ? 主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさんでいるからです。主の教えを愛し、神のみこころを行おうと、心を定める人には、神の恵みの御手が確かにあり、神がご自身の御業を行ってくださるのです。

Ⅲ.アルタクセルクセス王の手紙(11-28)

第三に、11~28節をご覧ください。11節には「アルタクセルクセス王が、祭司であり学者であったエズラに与えた手紙の写しは次のとおりである。このエズラは、【主】の命令のことばと、イスラエルに関する主の掟に精通していた。」とあります。これはアルタクセルクセス王が、エズラに与えた手紙の写しです。おそらく、エズラがアルタクセルクセス王に民の帰還の許可を申し出ていたのでしょう。その申し出に対して、アルタクセルクセス王が許可を与えると同時に、エズラに対して驚くべきことを伝えています。その内容がここに紹介されているのです。

それはまず、13節にあるように、イスラエルの民、その祭司、レビ人のうち、だれでも自分から進んでエルサレムに上って行きたいと者は、エズラと一緒に行ってよいということでした。
次に、14節にあるように、エルサレムにおいてエズラに託された役割は、神の律法に従って、ユダとエルサレムを調査することであったということです。 さらに、15~16節にあるように、エズラを信頼して、王とその顧問たちの献金と、バビロン全州でエズラが得たすべての金銀を、イスラエルの民や祭司たちが神の宮のためにささげた物と合わせて、携えて行かなければなりませんでした。
また17節にあるように、エズラはその献金で、動物のいけにえや穀物のささげ物、注ぎのぶどう酒を買い求め、それを神の宮に献げなければなりませんでした。
さらに、残りの金、銀の使い方については、彼らが良いと思うことは何でも、神のみむねに従って使うことができました (18)。
また、主の宮で礼拝のために渡された用具は、主の宮のために用いることができました。 (19)
そのほか、彼らが神の宮のために必要なもので、どうしても支出しなければならないものは、王室の金庫からそれを支出することができました(20)。
また、エルサレムを担当する役人は、エズラが求めることには全面的に協力しなければならないということ(21節)。すなわち、銀は百タラントまで、小麦は百コルまで、ぶどう酒は百バテまで、油も百バテまで、塩は制限なしです(22節)。さらに、25~26節にあるように、裁判官の任命権や律法に関する教育などをエズラにゆだねなければなりませんでした。

すごいですね。私も気配り牧師と呼ばれていて比較的細かい方ですが、アルタクセルクセス王は気配り王だったのかもっと細かに指示しています。なぜ、これほどまでの権威がエズラに与えられたのでしょうか。それは23節にあるように、天の神の御怒りが王とその子たちの国に下るといけないからです。すなわち、アルタクセルクセス王はイスラエルの神こそまことの神であり、この神に逆らうとどうなるかということを理解していたのです。かつてアブラハムに神が、「あなたを祝福するものを祝福し、あなたをのろうものをのろう」と言われましたが、それがいかに実現したかを、目の当たりにしていたのでしょう。天の神は、異教の王の心さえ変えることができる偉大な方なのです。

その手紙を受け取ったエズラはどうしたでしょうか。27~28節をご覧ください。彼は心から主に感謝をささげました。「7:27 私たちの父祖の神、【主】がほめたたえられますように。主はエルサレムにある【主】の宮に栄光を与えるために、このようなことを王の心に起こさせ、7:28 王とその顧問と、王の有力な高官すべての前で私に恵みを得させてくださった。私の神、【主】の御手が私の上にあったので、私は奮い立って、一緒に上るイスラエル人のかしらたちを集めることができた。

ここでエズラは、「私たちの父祖の神、主がほめたたえられますように。」と祈っています。この言葉によって、エズラが仕えていた神は彼の父祖の神であったことを表明しています。すなわち、アブラハム、イサク、ヤコブの神であり、モーセに律法を与えた神です。さらに、ペルシャの王にこのような心を起こさせ、王とその顧問と、王の有力な高官たちの好意を自分たちに向けさせてくださったのはその神であり、エルサレムにある主の宮に栄光を与えるためであったと告白したのです。彼は、自分が優れた者だから王たちの好意を勝ち取ることが出来たと自らを誇ることもできたのに、そうはしませんでした。すべてが神の御業であると認め、その神をほめたたえたのです。私たちも成功した時には自分の力を誇るのではなく、神によってなされたと認め、神に感謝し、神をほめたたえるべきです。

さらに彼は、「私の神、【主】の御手が私の上にあったので、私は奮い立って、一緒に上るイスラエル人のかしらたちを集めることができた。」と祈っています。イスラエル人のかしらたちを集めることは容易なことではありませんでした。それが出来たのは、一重に神の御手が彼とともにあり、彼の心を奮い立たせてくださったからだと、神をほめたたえているのです。彼はすべてのことは神の御手が彼の上にあったので成し遂げることができたと告白したのです。私たちも主の御手が私の上にあったので、私はこのこと、あのことを成すことが出来たと告白し、神をほめたたえ、神に栄光を帰する者でありたいと思います。

エレミヤ46章1~28節「エジプトについての預言」

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今日は、エレミヤ書46章全体から学びます。44章までにおいて、エレミヤ書におけるユダの民とエルサレムに対する預言は終わりました。そして前回の45章では、エレミヤの書記をしていたバルクに対する励ましのメッセージが語られました。ここからは、諸国に民に対する預言が語られます。エレミヤは預言者としての召命を受けたとき、ユダの民に対する預言だけでなく、国々への預言者としても召されていました。1章5節にはこうあります。 
 「わたしは、あなたを胎内に形造る前からあなたを知り、あなたが母の胎を出る前からあなたを聖別し、国々への預言者と定めていた。」
  それが、ここから終わりまで続くわけです。その最初がエジプトに対する預言です。そしてそれはペリシテ、モアブ、アンモン、エドムと続き、最後にバビロンに対して語られます。それは人の目には偉大で力強く見えるこうした国々も、実は、主なる神様の主権と支配によって成り立っていることを示すためです。私たちはとかく、信仰や教会に関すること以外においては、神様はあまり関わっていないかのように思いますが実はそうではなく、この世のすべての領域において神様は主権をもって働いておられるのです。その神様の働きをご一緒に見ていきたいと思います。

 Ⅰ.何ということか、この有様は(1-12)

まず、エジプトについての預言です。1~12節をご覧ください。1節と2節をお読みします。「46:1  諸国の民について、預言者エレミヤにあった【主】のことば。46:2 エジプトについて、すなわちユーフラテス河畔のカルケミシュにいたエジプトの王ファラオ・ネコの軍勢について。ユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの第四年に、バビロンの王ネブカドネツァルがこれを打ち破った。」

ユダの王、ヨシヤの子のエホヤキムの第四年とは、前回の45章にもありましたが、B.C.605年のことです。その年にバビロンの王ネブカドネツァルがエジプトの王ファラオの軍勢と戦ってこれを打ち破りました。これはユーフラテス河畔のカルケミシュという町で起こった戦いなので、カルケミシュの戦いと呼ばれています。バビロンはアッシリアと戦ってその首都ニネベを打ち破ると、その後アッシリアの残党がこのカルケミシュに移ったので、それを追ってカルケミシュに向かいました。しかし、そのバビロンの台頭を恐れたエジプトがバビロンに戦いを挑んだのです。それがこのカルケミシュでの戦いです。結果はエジプトの惨敗でした。その時の様子が3節以降に描かれています。

「46:3 「盾と大盾を整えて、戦いに向かえ。46:4 騎兵たちよ、馬に鞍をつけて乗れ。かぶとを着けて配置につけ。槍を磨き、よろいをまとえ。46:5 何ということか、この有様は。彼らはおじ惑い、うしろに退く。勇士たちは打たれ、うしろも振り向かずに逃げ去る。恐怖が取り囲んでいる。──【主】のことば──46:6 足の速い者も逃げられない。勇士たちも逃れられない。北の方、ユーフラテス川のほとりで、彼らはつまずき倒れる。46:7 ナイル川のように湧き上がり、奔流のように逆巻くこの者はだれか。46:8 エジプトは、ナイル川のように湧き上がり、奔流のように逆巻く。彼は言う。『湧き上がって地をおおい、町も住民も滅ぼそう。』46:9 馬よ、進め。戦車よ、走れ。勇士たちは出陣せよ。盾を取るクシュ人、プテ人、弓を引くルデ人よ。46:10 その日は、万軍の【神】、主の日、敵に復讐する復讐の日。剣は食らって満ち足り、彼らの血に酔う。北の地、ユーフラテス川のほとりでは、万軍の【神】、主に、いけにえが献げられる。46:11 おとめである娘エジプトよ、ギルアデに上って乳香を取れ。多くの薬を用いても無駄だ。おまえには癒やしがない。46:12 国々は、おまえの恥辱のことを聞く。おまえの哀れな叫び声は地に満ちる。勇士が勇士につまずき、ともに倒れるからだ。」

5節には、「何ということか、この有様は。彼らはおじ惑い、うしろに退く。勇士たちは打たれ、うしろも振り向かずに逃げ去る。恐怖が取り囲んでいる。─【主】のことば─」とありますが、このことばにエジプトの悲惨な状況が映し出されています。彼らはおじ惑い、うしろに退きます。勇士たちは打たれ、うしろも振り向かずに逃げ去ることになるのです。恐怖が彼らを囲むからです。エジプトを代表するのはナイル川ですが、彼らはかつてナイル川のように湧き上がり、地をおおうほどの勢力があると言って誇っていましたが、バビロン軍に敗北し、哀れな叫び声が地に満ちることになります。有志が有志につまずき、ともに倒れるのです。いったい何が問題だったのでしょうか。

10節をご覧ください。ここには「その日は、万軍の【神】、主の日、敵に復讐する復讐の日」とあります。これは主が敵に復讐する日なのです。どういうことでしょうか。それは単にバビロン軍との戦いというのではなく、主が成された主との戦いなのです。主との戦いですから、エジプトがどんなに強くても勝てるはずがありません。その戦いの背後には、偉大な主の御手が働いているからです。

ところで、この「敵に復讐する日」とは何を指しているのでしょうか。何に対する復讐なのでしょうか。多くの学者は、これはこの戦いの4年前(B.C.609年)に、ユダの王のヨシヤがエジプトの王ファラオ・ネコに殺されるという事件があったのですが、それに対する復讐ではないかと考えています。しかしここではもっと広い意味での復讐、エジプトが神に対して行った傲慢な態度に対する復讐であったと見た方が良いと思います。というのは、ここから諸国の民に対する預言が語られるわけですが、それをずっと見ていくとどの国々に対しても共通している三つのことが取り上げられているからです。一つは、そうした国々は自分の財産や軍事力など、物質的な力に拠り頼んでいたという点です。二つ目のことは、彼らは天地の創造主ではない、偶像の神々を拝んでいたという点です。そして三つ目のことは、イスラエルやユダに対して敵対したということです。エジプトの場合は、ヨシヤ王を殺したということがその中に含まれますが、それだけでなくこうした国々は他の点でも神に敵対しました。そのことに対する復讐なのです。

7節には、エジプトの軍隊はナイル川のように湧き上がり、奔流のように逆巻いていたとあります。皆さん、「奔流」ってわかりますか? ゴーゴーと音をたてて激しく流れる川のことです。それは恐ろしさを感じるほどです。それだけ勢いがあるということです。それは全地を覆うほどの勢いです。8節には、「エジプトは、ナイル川のように湧き上がり、奔流のように逆巻く。彼は言う。『湧き上がって地をおおい、町も住民も滅ぼそう。』」とあります。それは全地をおおい、町も住民も滅ぼし尽くすほどの勢いなのです。

しかしいくら強力な軍事力を誇り、この世を支配するほどの勢力があっても、それらのすべては神様のご支配の中にあることを覚えておかなければなりません。神様がエジプトに病を下せば、どれほど効き目のある薬を使っても何の役にも立ちません。神様が低くすれば、国々の中では辱めを受けることになるのです。国や民族を栄えさせたり衰えさせたりするのは神様であられるからです。ですから、自分の人生がどれほど栄えているようなときでもへりくだり、逆にどれほど低い位置に置かれているようなときでも落胆せず、神に信頼しなければなりません。最近、アメリカの大統領が各国に相互関税を科したことで世界経済が混乱に陥りましたが、自国民を守ることは大切なことですが、自分たちの力を誇り、世界中の国々を自分たちに従わせようとする言動は、厳に慎まれなければならないということがわかります。聖書に「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。」(箴言16:18、新改訳第3版)とあるように、そのような国は、やがて滅びていくことになるからです。「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与える。」(ヤコブ4:6)とあるとおりです。

あなたはどうですか。すべてのことがうまくいっていると思うとき、へりくだって神の主権を認めているでしょうか。逆にうまくいかず辛い中にあるとき、落胆せずに神を信頼していますか。「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主は あなたの道をまっすぐにされる」(箴言3:6)あなたがどこにいても、すべての道で主を認めましょう。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにしてくださいます。

また、それは同時に、神の御心に反してエジプトというこの世と同盟を結ぼうとしたユダの民に対する復讐でもあったと言えます。彼らは主なる神ではなくエジプトに頼り、エジプトに下って行きました。そのユダの不従順に対する報復でもあったのです。神様に頼らず、この世とその力に頼るとき、神様は彼らが頼るものを滅ぼされるのです。この世の力、この世の富、この世の権力に頼ることは、崩れる城壁の上に立っていることと同じことなのです。私たちが頼るべきお方はすべてを支配しておられる主だけです。ただ生を見上げ、主に拠り頼みましょう。

Ⅱ.その名を万軍の主という王のことば(13-26)

次に、13~26節までをご覧ください。エジプトに対するさばきことばが続きます。13節には「バビロンの王ネブカドネツァルが来て、エジプトの地を討つことについて、主が預言者エレミヤに語られたことば。」とあります。12節までには、B.C.605年のカルケミシュの戦いにおいてエジプトがバビロンに敗北する様子が預言されていましたが、ここには、エルサレムが陥落後、これはB.C.586年ですが、その後バビロンの王ネブカドネツァルが来て、エジプトを打つことについての預言が記されてあります。

14節には、「エジプトで告げ、ミグドルで聞かせ、メンフィスとタフパンヘスで聞かせて言え。」とありますが、それは、エジプトはもちろんのこと、ミグドル、メンフィス、タフパンヘスといったエジプトが支配していた都市にもバビロンの勢力が及ぶということです。

15節には「なぜ、お前の雄牛は押し流されるのか。それは踏みとどまり得ない。主が彼を突き倒されたからだ。」とありますが、「おまえの雄牛」とは、偶像のことです。バビロンによって、エジプトが頼りとしていた雄牛の像が押し流されて立てなくなるという意味です。ここでは、偶像の空しさが露呈されているのです。

また19節には「メンフィスは荒れ果て、焼かれて住む者もいなくなるからだ。」と、メンフィスもエジプトに住む娘にたとえられていますが、そうした美しい娘のようなメンフィスは荒れ果て廃墟となり、住む人が誰もいなくなるというのです。

20節の表現はおもしろいですね。「エジプトは、かわいらしい雌の子牛。しかし北からアブが襲って来る。」とあります。「かわいらしい雌の子牛」とはエジプトのことです。そして「北から襲って来るアブ」とはバビロンのことを指しています。アブであるバビロンが北からやって来て、雌の子牛であるエジプトを刺すというのです。アブないです。これは、バビロンの軍勢がエジプトを襲い征服するという比喩的表現です。

22節もおもしろいです。「彼女の声は逃げ去る蛇の音のようだ。敵が軍勢を率い、木こりのように、斧を持って入って来るからだ。」とあります。「彼女の声」とは敗走するエジプト軍が立てる音ですが、それが逃げ去る蛇の音のようだというのです。敵であるバビロン軍が木こりのように斧を手に持ち、森の木々を切り倒すように、エジプト人を切り倒すからです。そのようにエジプトはバビロンによって辱められ、彼らの手に渡されることになるのです。

問題は、なぜそのようなことになるのかということです。15節に戻ってください。3行目にこうあります。「主が彼を突き倒されたからだ」。また26節にもこうあります。「わたしは彼らを、そのいのちを狙う者たちの手に、バビロンの王ネブカドネツァルの手とその家来たちの手に渡す。」
 これは主ご自身がなさることなのです。私たちは歴史の中で起こったことや今、この時起こっていることについて、なぜこんなことになったのかとその原因を分析したり考えたりしますが、実は、そうした出来事の背後には主の御手があるのです。そこにも主が働いておられるということです。このことは、私たちをより謙虚にさせてくれるのではないでしょうか。すべてのことは主の御心のままに導かれているのです。すべてのことです。それが良いことであっても悪いことであっても。それは、そこにすべてのことを働かせて益としてくださるという主ご自身のご計画があるからです。それがどういうことなのか私たちにはわからなくても、そこに主が働いておられることを認め、その主にすべてをゆだねることが、私たちも想像もできないほどの神様の栄光が現わされていくことにつながっていくのです。

今週も聖書の学びとお祈り会がありますが、前回学んだエズラ記6章には、バビロン捕囚から帰還したユダの民が預言者ハガイとゼカリヤが語る神のことばに励まされて神殿再建を始めたわけですが、そぐに妨害が入ったとありました。その地の総督タテナイやシェタル・ボゼナ、その同僚たちの妨害に遭って工事が難航するわけです。彼らはペルシャの王ダレイオスに書状を送って、キュロス王からの命令が下った事実を調べてほしいと訴えました。すると、ダレイオス王はエクバタナというところで一つの巻物を発見し、そこに確かにキュロス王によって命令が下されたことを確認し、タテナイたちに神の宮の工事をそのままやらせておくようにと命じただけでなく、何とその宮の完成のために、彼らが取り立てた税金の中からその費用を支払って、間違いなくそれが完成するようにせよ、と命じたのです。まさに災い転じて福となる、です。タテナイたちは立てなくなってしまいました。彼らのそうした妨害のお陰でユダの民はますます確信が与えられ、必要も満たされて、ダレイオス王の第6年についに神の宮を完成させることができたのです。いったいどうしてこのようなことが起こったのでしょうか。聖書はこう告げています。

「これは、主が彼らを喜ばせ、またアッシリアの王の心を彼らに向けて、イスラエルの神である神の宮の工事にあたって、彼らを力づけるようにされたからである。」(エズラ6:22)

それは主が成されたからです。その背後に主が働いておられたのです。すべては主のご計画によるのです。

「神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。」(ピリピ2:13)

であれば、私たちはそこに主の御手があることを認め、主が働かれ、事を行わせてくださることを信じなければなりません。

それがこの46章18節で言われていることです。ここには、「わたしは生きている。­その名を万軍の主という王のことば ­」とあります。どういうことですか。ここには3人の王の名前が出ています。バビロンの王と、エジプトの王、そしてもう1人、万軍の主という王です。バビロンの王とはだれですか。ネブカドネツァルです。ではエジプトの王は誰でしょうか。ファラオ・ネコです。しかし、それだけではありません。ここにはもう一人の王がおられます。それは万軍の主という王です。それは、神の御座の右で全世界を治めておられる王の王であられる主イエス・キリストです。バビロンの王ネブカドネツァルは、神の道具となってエジプトを攻撃するために用いられました。エジプトの王ファラオの名声と権威は一時天に届く勢いでしたが、今や彼の時代は過ぎ去りました。しかし、万軍の主という名前の王は、バビロンの王ネブカドネツァルを用いてエジプトを打ち、エジプトの王や将軍、兵士たちを退けました。この方こそ王の王、主の主であられる方なのです。この方が、これらすべてのことをなされるのです。私たちは、神の御座で全世界を治めておられる万軍の主という王であられるイエスを信じて、この方に拠り頼まなければなりません。

あなたの人生の王は誰ですか。イエス様だけがあなたを救うことができます。イエス様だけがあなたに神の国をもたらすことができるまことの王なのです。

Ⅲ.ヤコブよ、恐れるな(27-28)

ですから第三のことは、恐れるな、ということです。27~28節をご覧ください。「46:27 わたしのしもべヤコブよ、恐れるな。イスラエルよ、おののくな。見よ。わたしがあなたを遠くから、あなたの子孫を捕囚の地から救うからだ。ヤコブは帰って来て、だれにも脅かされずに平穏に安らかに生きる。46:28 わたしのしもべヤコブよ、恐れるな。──【主】のことば──わたしが、あなたとともにいるからだ。わたしは、あなたを追いやった先のすべての国々を滅ぼし尽くす。しかし、あなたを滅ぼし尽くすことはない。ただし、さばきによってあなたを懲らしめる。決してあなたを罰せずにおくことはない。」

エジプトに対するさばきを語られた後で主は、イスラエルに回復のメッセージを語られます。それは27節にあるように、彼らの子孫を捕囚の地から救い出すという約束です。神様は全世界をさばいても、ご自身の選びの民を必ず救われます。神の救いの御業は、さばきと並行してなされるのです。それは1枚の紙の両面のような関係です。エジプトはさばかれますが、イスラエルは回復の恵みにあずかるということが、対照的に語られているのです。エジプトは滅ぼし尽くされても、イスラエルが滅ぼし尽くされることはありません。だから恐れるなと。エジプトに対する激しい神様のさばきの預言の中で、イスラエルに対する慰めのことばが語られているのはこのためです。この世はさばかれることはあっても、神の契約の民は必ず救い出されるのです。31章3節にこうあります。

「主は遠くから私に現れた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた。」

これが神様の愛です。神様の愛は永遠の愛なのです。永遠の愛とは、いつまでも、です。それは止まることがありません。神の愛はどんなことがあっても止まることがないのです。あなたがどんなに堕落しようとも、取り返しのつかないような罪を犯しても、ずっと愛してくださいます。あなたの状態とは関係ありません。あなたがどんなに堕ちても、だれもあなたを受け入れなくても、神の愛は永遠にあなたに注がれているのです。それはあなたが優れているからではありません。あなたが良い人だからでもない。それはただ神があなたを愛されたからです。

この愛を信じている人は、どん底からも這い上がることができます。どんな傷でも癒されます。どんな失敗もやり直すことができます。この愛を信じるなら、この愛を見つけるなら、この愛に生きるなら、必ず立ち上がることができるのです。イスラエルもバビロン捕囚という憂き目に遭いましたが、この愛によってもう一度回復することができる。いい言葉ですね。「回復」。英語では「restoration」と言います。もう一度神に立ち返り、やり直すことができる。この神の愛に応えるチャンスが、あなたにも与えられているのです。

このみことばを読んだ後、もしあなたが神様のみことばは真理であると信じているなら、神様はイスラエルを見捨てられないようにあなたを見捨てないということを信じなければなりません。そして「恐れるな」、「おののくな」と言われる神様のことばに信頼しなければならないのです。どんなにエジプトにさばきが下っても、あなたは恐れてはならないのです。なぜなら、主があなたとともにおられるからです。

それが28節で約束されていることです。「わたしが、あなたとともにいるからだ」。この主があなたとともにおられます。だったら何を恐れる必要があるでしょうか。それなのに恐れたり、心配しているとしたら、それはあなたがこの神のことばを信じていないということです。ただ頭だけで信じているだけです。救い主であり、全能者であられる主が私の人生にも働いておられるということを信じなければなりません。主は私たちのたましいだけでなく、私たちの人生も救ってくださいます。病んだ心も肉体もいやしてくださいます。さまざまな生活の問題にも答えを与えてくだいます。それなのに、熱心に教会に通い神様を信じていると言いながら、神様がいないかのような生き方をしているとしたら、それは観念的に信じているだけであって、実際の生活において神様が生きて働いておられることを信じられないのです。口では主は全能者であると言いながら、実際には「でも、さすがにこれは無理でしょ」とか思っているわけです。

主はイスラエルの歴史において働かれ、バビロンの王ネブカドネツァルを用いてエジプトをさばかれ、イスラエルに懲らしめを与えただけでなく、その中から救い出してくださいました。そしてやがてそこから救い主イエス・キリストをこの世に送ってくださいました。そして十字架と復活を通して救いの御業を成し遂げてくださいました。その主がこのように約束してくださいました。

「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)

主は今も生きておられます。今も生きてあなたとともにおられ、あなたの人生のただ中に働いておられるのです。あなたが成功しても失敗しても、健康な時も病気の時も、主はあなたとともにおられます。であれば、何を恐れる必要があるでしょう。その名を万軍の主という王がともにおられるなら、私たちは失望落胆する必要はないのです。

ただ、一つのことを覚えておかなければなりません。それは28節の最後にあるように、懲らしめはあるということです。「ただし、さばきによってあなたを懲らしめる。決してあなたを罰せずにおくことはない。」
 神様は、あなたとともにいて、あなたを救ってくださいますが、あなたが犯した罪については懲らしめを与えられます。それはあなたを滅ぼすためではなく、あなたを聖めるためです。懲らしめを喜ぶ人はいないでしょう。しかし、懲らしめがもたらす結果を喜ぶことはできます。その結果とは回復と聖めだからです。へブル12章11節にこうあります。

「すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。」

すべての懲らしめや訓練は、その時は喜ばしいものではなく、かえって苦々しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。回復と聖めがもたらされます。それによって、主は私たちを栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられてくださるのです。それこそクリスチャンとしての本望です。ですからそこに希望を置き、たとえ現状が苦しくてもそこから逃げないで、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競争を、忍耐をもって走り続けていこうではありませんか。