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前回は36章から、エホヤキムが神のことばを暖炉の火で焼き尽くしたという出来事を通して、神のことばは絶対に滅びることはないということを学びました。今回は37章全体から、南ユダの王ゼデキヤと預言者エレミヤの生き方から、「ただ神を恐れて」というタイトルでお話します。
Ⅰ.ゼデキヤ王の祈り(1-10)
まず1~10節をご覧ください。「1 ヨシヤの子ゼデキヤは、エホヤキムの子エコンヤに代わって王となった。バビロンの王ネブカドネツァルが彼をユダの地の王にしたのである。2 彼も、その家来たちも、民衆も、預言者エレミヤによって語られた【主】のことばに聞き従わなかった。:3 ゼデキヤ王は、シェレムヤの子ユカルと、マアセヤの子、祭司ゼパニヤを預言者エレミヤのもとに遣わして言った。「どうか、私たちのために、私たちの神、【主】に祈ってください。」:4 エレミヤは民のうちに出入りしていて、まだ獄屋に入れられてはいなかった。5 また、ちょうど、ファラオの軍勢がエジプトから出て来たので、エルサレムを包囲中のカルデア人は、そのうわさを聞いて、エルサレムから引き揚げたときであった。6 そのとき、預言者エレミヤに次のような【主】のことばがあった。7 「イスラエルの神、【主】はこう言われる。わたしに尋ねるために、あなたがたをわたしのもとに遣わしたユダの王にこう言え。『見よ。あなたがたを助けに出て来たファラオの軍勢は、彼らの地エジプトへ帰り、8 カルデア人が引き返して来て、この都を攻め取り、これを火で焼く。9 【主】はこう言われる。あなたがたは、カルデア人は必ず私たちのところから去る、と言って、自らを欺くな。彼らが去ることはないからだ。10 たとえ、あなたがたが、あなたがたを攻めるカルデアの全軍勢を討ち、そのうちに重傷を負った兵士たちだけが残ったとしても、彼らはそれぞれ、その天幕で立ち上がり、この都を火で焼くようになる。』」」
ヨシヤの子ゼデキヤは、エホヤキムの子エコンヤに代わって南ユダの王となりました。彼は南ユダ最後の王となります。この後でエルサレムはバビロンによって完全に陥落することになります。彼もバビロンに連れて行かれ、そこで死を迎えることになりますが、その最後の王がこのゼデキヤです。彼は正統的な王位継承者ではありませんでした。エホヤキムの子エコンヤが在位わずか3か月でバビロンに捕え移されたので、彼に代わってユダを治めさせるためにバビロンの王によって擁立されたのです。いわゆるバビロンによって任命された操り人形、傀儡王にすぎなかったわけです。彼がユダを治めていた時代がどのようなものであったかは、2節に総括されています。ご一緒に読みましょう。
「彼も、その家来たちも、民衆も、預言者エレミヤによって語られた主のことばに聞き従わなかった。」
ゼデキヤ王がユダを治めていた間は、彼も、その家来たちも、民衆も、誰も、預言者エレミヤによって語られた主のことばに聞き従いませんでした。どういう点で彼らは聞き従わなかったのでしょうか。それは、エレミヤが語る神のことばを受け入れなかったという点においてです。エレミヤはゼデキヤ王をはじめその家来たちや民衆に、バビロンに降伏することが神のみこころであると語ったのに、彼らはその言葉に従わず、自分を王に立てたバビロンの王ネブカドネツァルに反旗を翻したのです。彼らはどのようにバビロンに逆らったのでしょうか。この後のところを読むとわかりますが、この時エジプトのフェラオの軍勢がエジプトを出て来てバビロン軍と戦おうとしていましたが、彼らの中にはそのエジプトと手を結んでバビロンを倒すようにとゼデキヤに圧力をかける者たちがいたのです。実際、エジプト軍はバビロンに対抗するためにユダをはじめパレスチナ諸国に同盟を呼び掛けていました。そのような呼び掛けに応じて、ゼデキヤはついにバビロンに反旗を翻したのです。それなのに彼は3節でエレミヤのもとに使いを遣わしてこう言いました。
「どうか、私たちのために、私たちの神、主に祈ってください。」
どういうことでしょうか。日頃、エレミヤのことばには耳を貸そうともしていなかったのに、バビロン軍がエルサレムを包囲すると、溺れる者、藁を掴むで、苦しい時の神頼みに走ったのです。しかし、それはあまりにも身勝手な要求でした。日頃、神のことばに従がおうとしないで自分勝手な生活をしていながら、自分にとって都合が悪くなると、神様、助けてくださいと祈るのはあまりにも虫のいい話だからです。確かに「私のために祈ってください」と願うこと自体は悪いことではありません。それはへりくだっていなければできないことだからです。私は長い間、なかなかそのように言うことができません。自分で何とかすると思っていたからです。しかし、度重なる病を通して、また、個人的な問題を通して自分にはもう無理だとギブアップしたとき、心から「私のために祈ってください」と言えるようになりました。ですから、今は少しへりくだっているのです。まあ、こういうふうに言うこと自体高慢なんですけれども。ですから、祈ってくださいとお願いすること自体は問題ではないのですが、もっと大切なことがあるのです。それは神様との関係です。神様とどのような関係を持っているのかということです。神のことばに留まっているかどうかということです。それに聞き従っているかどうかということです。主イエスはこう言われました。
「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。」(ヨハネ15:7)
私たちの祈りが聞かれる条件は何ですか。どうすれば祈りが聞かれるのでしょうか。あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、です。そうすれば、神はそれをかなえてくださいます。そうでないのに、ただ苦いし時の神頼みのように祈っても、神は聞いてくださることはありません。なぜなら、神はうわべを見られるのではなく、心を見られるからです。ヘブル11章6節にはこうあります。
「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」
信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であるということを、信じなければなりません。あなたの人生において何らかの問題を抱えた時だけでなく、あるいは危機に陥った時だけでなく、どんな時でも神がおられることと、神を求める者には報いてくださるということを信じなければなりません。つまり、神を信じ、神を愛し、神のことばに従い、神のみこころに生きるということが求められているのです。今、ディボーションで箴言を呼んでいますが、箴言の言葉で言うなら、神の知恵を求めるということです。神の知恵とは何ですか。それは、神を恐れることです。箴言1章7節にこうあります。
「主を恐れることは知恵の初め。愚か者は知恵と訓戒を蔑む。」
主を恐れることが知恵の初めです。その教えを受け入れ、その命令を私たちのうちに蓄え、それに従って生きること。これが神の知恵です。それがなければどんなに祈ったとしても、その祈りが聞かれることはありません。
ゼデキヤはどうでしたか。彼は預言者エレミヤによって語られた主のことばに聞き従いませんでした。それなのに彼は祭司ゼパニヤをエレミヤのもとに遣わして、「どうか、私たちのために、私たちの神、主に祈ってください。」と懇願しました。そのような祈りが聞かれるはずがありません。あまりにも虫のいい話です。彼の信仰はどちらかというと他人任せでした。自分から神の前に出ることもしませんでした。いや、できなかったのでしょう。神のことばに従っていませんでしたから。神様に顔向けできるような心境ではなかったのでしょう。だから、だれか他の人に祈ってもらうことによってそれを叶えようと思ったのです。そういうことが私たちにもあります。自分のような者が祈っても神様は聞いてくれないから、牧師さん、祈ってもらえませんか・・・。言われた方も大変です。誰が祈っても同じだからです。問題は誰が祈るかということではなく、祈るその人が神を信じ、神を愛し、神のことばに従い、へりくだって神の前に出ているかどうかです。もしその人が神を信じ、へりくだって神を愛し、神に従っているなら、神は必ず聞いてくださいます。大切なのは、神に祈るという行為とか形ではなく、神を愛し、神に従っているかどうかという中身なのです。神との関係です。その上でもし神に従っていないということが示されたなら、悔い改めて神に立ち返らなければなりません。そうすれば、神はあなた罪を赦し、すべての悪からあなたをきよめてくださいます。その時あなたは神の愛と赦しを受け取り、神との関係を回復することができます。あなたがどんな罪を犯したとしても。その上で祈らなければなりません。それが聖書があなたに約束していることです。それが十字架と復活の御業を通して主イエスが成し遂げてくださったことです。
「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた。」(エレミヤ31:3)
あなたはこの神の愛と赦しを受け取りましたか。永遠の愛をもって神はあなたを愛してくださいました。真実の愛を尽くし続けてくださいました。ですから、この愛を受け取り、悔い改めて神に立ち返ってください。そして神のことばに聞き従ってください。そうすれば、神は必ずあなたの祈りを聞いてくださいます。新約聖書のヤコブ書にはこうあります。
「ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。」(ヤコブ5:16、第三版)
義人の祈りは働くと、大きな力があります。義人とはどういう人ですか。義人とは清く、正しく、美しい人のことではありません。また、良い行いをしている立派な人でもありません。義人とは互いに自分の罪を言い表し、神の赦しと救いを受け入れた人のことです。すなわち、自分の罪を悔い改め、救い主イエス・キリストを信じ、神のことばに従って生きている人のことです。そのような義人の祈りは働くと、大きな力があるのです。
ゼデキヤはそうではありませんでした。彼は神のことばにとどまっていませんでした。それなのに彼は、「私たちのために、私たちの神に祈ってください。」と言いました。そのような祈りが聞かれることはありません。
このゼデキヤ王の約100年前にヒゼキヤという王がいましたが、これがヒゼキヤと決定的に違う点でした。ゼデキヤとヒゼキヤでは名前はとてもよく似ていますが、中身は全く違います。ヒゼキヤの時代はバビロンではなくアッシリアという国がエルサレムを包囲するという同じような状況下に置かれましたが、彼はゼデキヤと違いどんなに敵に脅されても屈することをしませんでした。そして、自分の衣を引き裂き粗布を身にまとって主の宮に入って行くと、主の前に祈りました。これは深い悔い改めを表す行為です。そして、当時の預言者であったイザヤにとりなしの祈りを要請したのです(Ⅱ列王18:13)。するとどのような結果になったでしょうか。イザヤは神からのことばを彼に伝えました。Ⅱ列王19章6~7節です。
「6 イザヤは彼らに言った。「あなたがたの主君にこう言いなさい。『【主】はこう言われる。あなたが聞いたあのことば、アッシリアの王の若い者たちがわたしをののしった、あのことばを恐れるな。7 今、わたしは彼のうちに霊を置く。彼は、あるうわさを聞いて、自分の国に引き揚げる。わたしはその国で彼を剣で倒す。』」
そのことばの通り、その夜の内に主の使いがアッシリア軍を撃ち、アッシリアの陣営で18万5千人を打ち殺しました。つまり、彼の祈りは聞かれたのです。だれがこのようなことを想像することができたでしょうか。これが主のなさることです。主はへりくだって主の前に悔い改め、主に信頼し、主に従う者を決して蔑ろにすることはなさいません。私たちの思いをはるかに超えて、ご自分の愛する者ために働いて御業を成してくださるのです。
しかし、ゼデキヤ王はそうではありませんでした。彼はこのようになることを期待していたのでしょうが、事態はそのようには動きませんでした。ユダを助けるためにエジプトから出て来たファラオの軍勢によってバビロン軍は一時的にエルサレムから引き揚げるが、その後引き返して来て、この都を攻め取り、これを火で焼くようになる、と言われました。ゼデキヤの祈りは聞かれなかったのです。ヒゼキヤは神を恐れ、神に信頼し、へりくだって神のことばに聞き従ったのに対して、ゼデキヤはあくまでも自分の考えや思いを優先して、神のことばには聞き従わなかったからです。
すべてのことは神のみこころにかかっているのです。虚しい望みにすがって自らを欺いてはなりません。自分の思いを優先すれば、結局滅んでしまうことになります。大切なのは、自分の思いではなく、神のみこころに従うことです。それは神のことばである聖書に従って生きることです。そうすれば、神はあなたの祈りを聞いてくださり、あなたに神の御業を現わしてくださるのです。
「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。」(Ⅰヨハネ5:14)
あなたは自分の思い通り、期待通りになることを願って、ひどく失望したことはありませんか。期待することは大切なことですが、もっと大切なことは、神に従うことです。神との関係です。それが神のみこころにかなう願いなのかどうかということです。今、神のみこころに従わせるべきあなたの思い、あなたの期待は何ですか。困難の中で、ゼデキヤのように自分の思いが優先することがないように、まず神の国と神の義を第一に求めましょう。それが、私たちが祈りをささげるときに持つべき心なのです。
Ⅱ.たとえ誤解されても(11-16)
次に、11~16節をご覧ください。「11 カルデアの軍勢がファラオの軍勢のゆえにエルサレムから引き揚げたとき、12 エレミヤは、エルサレムから出て行き、ベニヤミンの地に行った。民の間で割り当ての地を受け取るためであった。13 彼がベニヤミンの門に来たとき、そこにハナンヤの子シェレムヤの子の、イルイヤという名の当直の者がいて、「あなたはカルデア人のところへ落ちのびるのか」と言い、預言者エレミヤを捕らえた。14 エレミヤは、「違う。私はカルデア人のところに落ちのびるのではない」と言ったが、イルイヤは聞かず、エレミヤを捕らえて、首長たちのところに連れて行った。15 首長たちはエレミヤに向かって激しく怒り、彼を打ちたたき、こうして書記ヨナタンの家の牢屋に入れた。そこが獄屋になっていたからである。16 エレミヤは丸天井の地下牢に入れられ、長い間そこにいた。」
カルデアの軍勢、すなわちバビロンの軍勢がファラオの軍勢のゆえにエルサレムから引き揚げたときとは、エジプト軍の進撃でエルサレムを包囲していたバビロン軍が一時的に撤退したときのことです。そのとき、エレミヤはエルサレムを出て、ベニヤミンの地に行きました。どうして彼はベニヤミンの地へ行ったのでしょうか。12節には「民の間で割り当ての地を受け取るためであった」とあります。これは既に32章で見たように、彼が従兄弟のハナムエルから買い戻したアナトテにある畑の割り当て地を決めるためだったのでしょう。アナトテの地はベニヤミン族の領地にありましたから。
しかし、彼がベニヤミンの門のところまで来たとき、そこにイルイヤという名の当直の者がいて、彼によって捕らえられてしまいました。それは、エレミヤがバ「ビロンに投降しなさい」と語っていたからです。それで彼はエレミヤがバビロンに逃亡するのではないかと疑われたのです。
エレミヤは、「違う。私はカルデア人のところに落ちのびるのではない。」と否定しましたが、受け入れられず、結局、彼は捕らえられて、首長たちのところに連れて行かれ、投獄されてしまいました。そこは丸天井の地下牢であったとあります。丸天井の地下牢とは、元々貯水槽のために造られたものですが、神のさばきによって雨が降らなかったために泥に覆われた劣悪な環境になっていました。エレミヤは長い間そこに監禁されることになったのです。
この時、エレミヤはどんな気持ちだったでしょう。もうやるせないというか、悔しいというか、苦しいというか、絶望的だったのではないかと思います。十分な審議や取り調べもされずに、誤解されて地下牢に入れられてしまったのですから。
こういうことが私たちにもあります。エレミヤのように投獄されるようなことはないにしても、あなたが職場や友人に自分が教会に行っているということを告げようものなら、あなたは精神的に問題があるのかとか、そんな献金をたくさん取れられるような所に出入りしていて危ないと思われるかもしれません。しかし、主イエスはこう言われました。
「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」(マタイ5:10)
神の働きをしていて誤解され、不当に扱われることがあったとしても、義のために迫害され者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。エレミヤは義のために迫害されても、うそや偽りを言って自分を欺くことをしませんでした。それゆえ地下牢に閉じ込められてしまいましたが、そこにはだれも奪うことができない神から与えられる恵みと平安がありました。彼はそれを味わうことができたのです。
こんな証を聞いたことがあります。ある中国人が福音を伝えたことで監獄に入れられました。彼は自分のような足りない者が福音を伝えて投獄されたことは光栄だと喜び、その監獄の中で大声で賛美して、福音を伝えました。すると多くの囚人たちがイエス・キリストに立ち返りました。これを見た看守長は、福音を伝えられないように彼を独房へと移しました。しかし、今度は邪魔されなくてよいと言って、昼も夜も大きな声で賛美しました。結局、看守長は「この人はもうどうにもできない」と彼を釈放しました。釈放後、苦しみを受けたことは大きな感謝だったと言って、以前よりさらに一生懸命に福音を伝える者となりました。
使徒パウロもピリピで投獄されたことがありました。でもそのような苦難を受けることを恐れませんでした。なぜなら、その苦難を通して福音があらゆるところに証しされることを知っていたからです。ピリピ1章13節、14節で彼は、自分がキリストのゆえに投獄されたことによって、ローマの親衛隊全員と、ほかのすべての人たちに明らかになり、兄弟たちの大多数は、主にあって確信が与えられ、恐れることなく、ますます大胆に御言葉を語るようになりました。つまり、そのことが、かえって福音の前進に役立つことになったのです。彼の願いは、どんな場合でも恥じることなく、今もいつものように大胆に語り、生きるにしても死ぬにしても、彼の身によってキリストがあがめられることだったのです。
「私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。」(ピリピ1:21)
かつて長谷川義信先生が説教の中で、どこを切っても金太郎飴が出てくるように、どこを切ってもイエス・キリストが出てくるような生き方をしなさいと説教で勧められたことがありましたが、まさにそのように生きていたのです。 私たちもそうありたいですね。それは、神はすべてのことを働かせて益としてくださるということを信じて疑わない信仰から生まれます。
どのような困難があろうとも、どんな病に襲われても、どうしてこういうことが起こるのかと思えるような状況に置かれても、確かにキリストは生きておられる、そして今も私と共におられる、私の人生を導いて、私をご自身の栄光の姿へと変えておられるということを聖霊によって受け入れるなら、だれもあなたから喜びと平安を奪うことはできません。誤解されればされるほど、困難な状況に直面すればするほど、悲しみが多ければ多いほど逆に信仰が強められ、さらに主に拠り頼み、主をほめたたえ、主を賛美する者へと変えられていくのです。
Ⅲ.ただ神を恐れて(17-21)
最後に、17~21節をご覧ください。「17 ゼデキヤ王は人を遣わして、彼を召し寄せた。王は自分の家で彼にひそかに尋ねて言った。「【主】から、おことばはあったか。」エレミヤは「ありました」と言った。そして「あなたはバビロンの王の手に渡されます」と言った。18 エレミヤはゼデキヤ王に言った。「あなたや、あなたの家来たちや、この民に対して、私にどんな罪があったというので、私を獄屋に入れたのですか。19 あなたがたに対して『バビロンの王は、あなたがたとこの地を攻めに来ない』と言って預言していた、あなたがたの預言者たちは、どこにいますか。20 今、わが主君、王よ、どうか聞いてください。どうか、私の願いを御前に受け入れ、私を書記ヨナタンの家へ帰らせないでください。私がそこで死ぬことがないようにしてください。」21 ゼデキヤ王は命じて、エレミヤを監視の庭に入れさせ、都からすべてのパンが絶えるまで、パン屋街から毎日パン一つを彼に与えさせた。こうして、エレミヤは監視の庭にとどまっていた。」
丸天井の地下牢に入れられたエレミヤは、長い間そこにいました。少なくとも、数週間から数か月が経過していたことでしょう。するとある日、ゼデキヤは人を遣わしてエレミヤを召し寄せ、自分の家でひそかに彼に尋ねて言いました。「主から、何かおことばがあったか。」この「ひそかに」というのが彼の特徴でした。彼はいつもひそかに行動していました。どうして彼はひそかに尋ねて言ったのでしょうか。それは彼がエルサレムの民や首長たち、そして側近たちを恐れていたからです。もしエレミヤが神からことばがあった、それはバビロンに服しなさいということだったと告げようものなら、彼らから危害を受けるかもしれないと恐れたのです。彼は王であり自由の身でありながら、その心には平安がありませんでした。いつも人を恐れていたからです。しかし、エレミヤはそうではありませんでした。彼は獄屋につながれ自由を奪われていましたが平安がありました。神を恐れていたからです。「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。」 (箴言 29:25)とある通りです。神を恐れるのか、人を恐れるのかです。神に背を向け、神から離れて歩むのか、それとも神とともに歩むのかの違いです。人にどう思われるかを判断基準にするのでなく、御言葉を判断基準にして行く時、神はその心に深い平安を与えてくださるのです。
不安におののきながら質問するゼデキヤに対して、エレミヤはこう答えました。「ありました」。それを聞いたゼデキヤは、「おう、どういう内容か」と興奮したことと思います。しかし、その内容は、これまでエレミヤが語ってきたことと全く変わらないものでした。それは17節にあるように、「あなたはバビロンの王の手に渡されます。」ということでした。そんなことを言ったらゼデキヤ王は喜ばないということがわかっていても、あるいは、たとえ獄屋につながれているような状態でも、それでもゼデキヤにおもねることなく、真実だけを語ったのです。
それに対して、ゼデキヤの預言者たちはどうでしたか。彼らは19節にあるように、「バビロンの王は、あなたとこの地を攻めに来ない。」とゼデキヤが安心するようなことを語っていましたが、バビロンによってエルサレムが包囲されると、彼らは一目散にどこかへ逃げて行ってしまいました。彼らは偽りの言葉を語っていただけでなく、その行動も、忠誠心もすべて偽りだったのです。
箴言にこんなことばがあります。「友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。」(箴言17:17)
このことで、本当の友は誰だったのかが明らかになりました。本当の友はゼデキヤの預言者たちではなく、エレミヤ本人であったということが明らかにされたのです。エレミヤはエルサレムが滅ぼされた後もそこに続けて、残りのユダヤ人と一緒に暮らすことを選び、そして彼らがエジプトに下ったときも彼らと一緒にいました。ユダヤ人はエレミヤの言葉を嫌い偽預言者の言葉を好みましたが、最後まで一緒にいてくれたのはエレミヤでした。エレミヤこそ、神の真実な愛を持った本当の友だったのです。
ですから、人の言葉には気を付けなければなりません。その時は調子がいいことを言っても、すぐに手のひらを反すかのような行動を取るからです。いつもコロコロ変わるのです。ですから、たとえそれがあなたにとって耳ざわりの良い言葉であっても、心地よい言葉であっても、それが真理であるとは限らないのです。パウロは「教えの風に吹き回されたり、もてあそばれたりすることなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらなるキリストに向かって成長するのです。」と言っています。この世には様々な教えの風が吹いていますが、そうした教えに注意しなければなりません。真理を語る人が、真実の愛を持っているのです。
先日、エホバの証人の方が来られて「これ読んでください」と1枚のトラクトを渡してくれました。そのトラクトのタイトルは「世の中これからどうなる?」というものでした。1つ選ぶとしたら・・・ ・良くなっていく ・悪くなっていく ・どちらとも言えない
とても興味のあるタイトルですね。「世の中これからどうなる?」皆さん、世の中これからどうなりますか?そのトラクトには、「あなたには将来と希望がある」(エレミヤ31:17)のみことばを引用して、こんな希望があると書かれてありました。
・楽しくてやりがいのある仕事ができるようになる。
・病気や災害で苦しむことがなくなる。
・家族や友達といつまでも幸せに暮らせる。
この希望が実現するためには、実現させる力、すなわち神が必要であること。もう一つは、実現させたいという気持ちを持つこと。神様は世の中の悪いことを全部なくすと約束している。
皆さん、どう思いますか。本当に聖書はそのように言っているでしょうか。そうではありません。そのトラクトに書いてあることは主イエスが再臨した後にもたらされる千年王国においてのことであって、それまでこの世が良くなることはありません。もっと悪くなります。これが聖書が言っていることです。表向きは心地よいことばであっても、それが真理でなかったら滅びに向かうことになってしまいます。真理を語る人が、真実の愛を持っているのです。
このエレミヤの真実な訴えに対して、ゼデキヤは命じて、エレミヤを監視の庭に入れさせ、都からすべてのパンが絶えるまで、パン屋街から毎日パン一つを彼に与えさせました。こうしてエレミヤは監視の庭にとどまることになりました。死の危険を身に覚えた地下牢の獄屋から、監視の庭での監禁生活を続けることになったのです。真実に生きるエレミヤを、神が守ってくださったのです。
あなたはどうでしょうか。こんなことを言えば嫌われてしまうのではないかと、人を恐れてひそかに語っていませんか。それともエレミヤのように、相手が王であろうと誰であろうと、たとえ相手が喜ばないとわかっていても、その人におもねることなく、真実の言葉を語っているでしょうか。「友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。」
これを実行したのはエレミヤでした。私たちも真実の愛に生きるものでありたいと思います。それは人を恐れ、おもねるような心からではなく、神を恐れ、神と共に歩む真実な心から生まれるのです。