エズラ記10章

 今回は、エズラ記の最後の学びとなります。10章を開いてください。

 Ⅰ.シェカンヤの提案(1-4)

まず、1~4をご覧ください。「10:1 エズラが神の宮の前でひれ伏して、涙ながらに祈り告白しているとき、男や女や子どもの大会衆がイスラエルのうちから彼のところに集まって来た。民は涙を流して激しく泣いた。10:2 そのとき、エラムの子孫の一人エヒエルの子シェカンヤが、エズラに言った。「私たちは、自分たちの神の信頼を裏切り、この地の民である異国人の女を妻にしました。しかし、このことについてイスラエルには今なお望みがあります。10:3 今、私たちは自分たちの神と契約を結び、主の勧告と、私たちの神の命令を恐れかしこむ人々の勧告にしたがって、これらの妻たちと、その子どもたちをみな追い出しましょう。律法にしたがってこれを行いましょう。10:4 立ち上がってください。このことはあなたの肩にかかっています。私たちはあなたに協力します。勇気を出して、実行してください。」

エズラが神の宮の前でひれ伏し、涙ながらに祈り告白しているとき、男や女や子どもの大会衆がイスラエルのうちから彼のところに集まって来ました。彼らもまた激しく泣いていました。そのとき、エラムの子孫の一人でエヒエルの子のシェカンヤが、エズラにこう言いました。「私たちは、自分たちの神の信頼を裏切り、この地の民である異国人の女を妻にしました。しかし、このことについてイスラエルには今なお望みがあります。今、私たちは自分たちの神と契約を結び、主の勧告と、私たちの神の命令を恐れかしこむ人々の勧告にしたがって、これらの妻たちと、その子どもたちをみな追い出しましょう。律法にしたがってこれを行いましょう。立ち上がってください。このことはあなたの肩にかかっています。私たちはあなたに協力します。勇気を出して、実行してください。」(2-4)

彼は、自分たちは神の信頼を裏切りこの地の民である異国人の女を妻にしたが、まだ望みがあると言いました。もし神と契約を結び、主の勧告と、主を恐れかしこむ人々の勧告にしたがい、異教徒の妻と子どもたちを追放するなら、きっと神が受け入れてくださるから、立ち上がり、勇気を出して、律法にしたがってこれを実行しましょうと、提案したのです。

これは、家族の間に、また民の間に亀裂をもたらすことになりますから、簡単に実行できるようなことではありませんでした。事実、26節を見ると、これを提言したシェカンヤの父エヒエルも異国人の女を妻にしていました。その他にも同じエラム族から何人かの者が異国人の女を妻にしていました。ですから、それを実行することは彼自身にとっても苦しいことでしたが、それを承知の上で彼はそのようにエズラに提言したのです。なぜ彼はそのような提言をしたのでしょうか。これこそが律法にしたがった解決法であり、エズラがそのように決断するなら、律法を重んじる人たちはそれを支持すると確信していたからです。もちろん、彼自身もその痛みを受け入れる覚悟が出来ていました。

しかし、これが本当に神の御心に叶ったことかどうかは、よく吟味しなければなりません。というのは、Ⅰコリント7:10~16でパウロは、離婚に関する教えの中で次のように言っているからです。

「7:10 すでに結婚した人たちに命じます。命じるのは私ではなく主です。妻は夫と別れてはいけません。7:11 もし別れたのなら、再婚せずにいるか、夫と和解するか、どちらかにしなさい。また、夫は妻と離婚してはいけません。7:12 そのほかの人々に言います。これを言うのは主ではなく私です。信者である夫に信者でない妻がいて、その妻が一緒にいることを承知している場合は、離婚してはいけません。7:13 また、女の人に信者でない夫がいて、その夫が一緒にいることを承知している場合は、離婚してはいけません。7:14 なぜなら、信者でない夫は妻によって聖なるものとされており、また、信者でない妻も信者である夫によって聖なるものとされているからです。そうでなかったら、あなたがたの子どもは汚れていることになりますが、実際には聖なるものです。7:15 しかし、信者でないほうの者が離れて行くなら、離れて行かせなさい。そのような場合には、信者である夫あるいは妻は、縛られることはありません。神は、平和を得させようとして、あなたがたを召されたのです。」

ここには、たとえ相手が未信者の夫、あるいは妻であっても、離婚してはいけないとあります。なぜなら、信者でない夫は妻によって聖なるものとされており、また、信者でない妻も信者である夫によって聖なるものとされているからです。もちろん最初から、不信者とつりあわぬくびきをともにすべきではありません(Ⅱコリント6:14)が、もし結婚したのであれば、相手に合わせてこの世の流れに従うのではなく、しっかりと信仰に立ち、忍耐強く家族の救いのために祈らなければなりません。相手が一緒にいることを承知している限り、離婚してはいけないのです。これが神のみこころです。事実、異邦人の妻であってもイスラエルの神を信じるようになれば、追放されることはありませんでした。ルツはそうでしょう。彼女はモアブ人でありながらボアズの妻として受け入れられました。そしてやがてその子孫から救い主イエスが生まれることになるのです。ですから、一概に異国人だから追放するというのは神が願っていることではありません。ではなぜここで異国人の妻を追い出すようにと言われているのでしょうか。

3つの理由が考えられます。第一に、これが捕囚から帰還した直後の時であったということです。出エジプト記34:15-16には、「その土地の住民と契約を結ばないようにしなさい。彼らがその神々を求めて姦淫を行い、その神々にいけにえをささげるとき、あなたを招き、あなたはそのいけにえを食べるようになる。あなたが彼らの娘を自分の息子にめとると、彼女たちがその神々と姦淫を行い、あなたの息子たちを誘ってその神々と姦淫を行わせるようになる」。と警告されていましたが、こうした状況下では、その土地の住民と契約を結ぶことが容易だったと思われます。そういう状況下では、より厳しい対応が求められたのです。

もう一つの理由は、こうした帰還民の中には、生活の豊かさを求めてユダヤ人の妻と離縁し、異邦人の女性と結婚したという事実があったので、エズラはそうした不法な離婚の取り消し、あくまでも神のみこころを第一に求めた結果の措置だったのではないかということです。

そしてもう一つの理由は、このユダの民の中からやがてメシヤが生まれてくるからです。エズラ、ネヘミヤの後約400年の中間時代を経て、約束されたメシヤが誕生するにあたり、メシヤを生み出すことになる民族の霊性の回復が必要だったのです。

いずれにせよ、こうした箇所に接するとき、ただその言葉を適用するというのではなく、聖書全体から神の御心をバランスよく理解し実行するという慎重さが求められます。

Ⅱ.エズラの応答(5-8)

それに対して、エズラはどのように応答したでしょうか。5~8節をご覧ください。「エズラは立ち上がり、祭司、レビ人、全イスラエルの長たちに、この提案を実行するよう誓わせた。すると彼らは誓った。10:6 エズラは神の宮の前を去って、エルヤシブの子ヨハナンの部屋に行った。そこに行って、パンも食べず、水も飲まずにいた。捕囚から帰って来た人々の不信の罪を嘆き悲しんだのである。10:7 そして、通達がユダとエルサレムに出された。それは、捕囚から帰って来た者はみなエルサレムに集合するように、というものであり、10:8 また、三日のうちに来ない者はみな、指導者たちや長老たちの決定にしたがってその全財産を聖絶され、さらにその人は、捕囚から帰って来た人々の会衆から除名される、としていた。」

エズラはその提案に応答し、行動を開始しました。彼は祭司、レビ人、全イスラエルの長老たちに、この提案を実行するように誓わせると、彼らは誓いました。一方エズラはどうしたかというと、彼は神の宮を去って、エルヤシブの子ヨハナンの部屋に行きました。そこに行って、捕囚から帰って来た人々の不信の罪を嘆き悲しんだのです。パンも食べず、水も飲まずにいました。すなわち彼は、断食して祈ったのです。

そして、ユダとエルサレムに通達が出されました。それは、捕囚から帰って来た者はみな3日以内にエルサレムに集合しなければならないというものでした。もし3日のうちに来なければ、その者の全財産は没収され、捕囚から帰って来た人々の会衆から除名されました。いったいなぜエズラはそこまで厳格にこれを実行したのでしょうか。それは、イスラエルの民に霊的覚醒を促すためでした。これがモーセの律法なのだということを、これまでただ漠然と受け止めていた彼らにはっきり示そうとしたのです。エズラがこれほどの権威を発揮できたのは、あのアルタクセルクセス王の勅令があったからでしょう。7:26には、「あなたの神の律法と王の律法を守らない者には、だれに対しても、死刑でも、追放でも、財産の没収でも、投獄でも、その判決を厳格に執行せよ。」とありました。

こうした霊的覚醒は、罪を認め、罪から遠ざかることによって生まれるものです。このような危機感は、信仰が眠っているような私たちにも必要なことではないでしょうか。

Ⅲ.悔い改めたユダの民(9-44)

それに対して、ユダの民はどのように応答しましたか。9~44節までご覧ください。9節にはこうあります。「10:9 ユダとベニヤミンの男はみな、三日のうちにエルサレムに集まって来た。それは第九の月の二十日であった。こうして、すべての民は神の宮の前の広場に座り、この件で、また大雨のために震えていた。」

それで、ユダとベニヤミンの男はみな、三日のうちにエルサレムに集まって来ました。それは第九の月の20日のことでした。第九の月とは、今の暦では11月~12月にあたりますが、イスラエルでは雨季です。すべての民は神の宮の前の広場に座りましたが、大雨のため、また自分も裁かれるのではないかという処罰を恐れてか、震えていました。かなりの緊張感が伝わってきます。

するとエズラは、立ち上がって彼らに言いました。10~11節です。「あなたがたは神の信頼を裏切った。異国人の女を妻にし、イスラエルの罪過を増し加えた。だから今、あなたがたの父祖の神、【主】に告白して、そのみむねにかなったことをしなさい。この地の民、異国人の女たちから離れなさい。」

エズラはここで二つのことを言っています。一つは、彼らは神の信頼を裏切ったという事実です。どのように神の信頼を裏切ったのかというと、異国人の女を妻にして、です。それは神のみこころではありませんでした。

もう一つのことは、だから今、それを主に告白して、みむねにかなったことをするようにということです。つまり、その罪を告白して、神に立ち返るようにということです。それは具体的にどういうことかというと、みむねにかなったことをすることです。このケースでは、異国人の女から離れるということです。ただ口先だけの悔い改めは意味がありません。実際に行動で示すこと、すなわち、罪から離れることが求められるのです。そうすれば、主は赦してくださいます。Ⅰヨハネ1章9節に、「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」とあるとおりです。

それに対して民はどのように応答しましたか?12節をご覧ください。全会衆は大声をあげて答えました。「必ずあなたの言われたとおりにします」。しかし、民は大勢いて、大雨の季節であるので、それを一日や二日でできるようなことではありません。もう少し時間を与えてほしいと言いました。具体的には14節にあるように、それぞれの町の長老たち、さばき人たちに監督役になってもらい、もしその町にそれにあたる者がいたら、彼らと一緒に出頭するようにさせたいということでした。賢いですね。それぞれの町の指導者ならば、そこに住む女たちがイスラエルの神を礼拝しているか、偶像礼拝をしているのかをよく知っているからです。

しかし、これに反対した人が4人いました。アサエルの子ヨナタンとティクワの子ヤフゼヤです。彼らはメシュラムとレビ人シャベタイの支持を得てとありますから、この2人も反対したことがわかります。なぜ彼らは反対したのでしょうか。なぜなら、彼らも異国の女を妻にしていたからです(10:29)。しかし、捕囚から帰って来た人々は、その提案どおりにしました。すなわち、自分たちの罪を告白し、悔い改めて、その罪から離れたのです。

こうして彼らはこの件を調べるために第十の月の一日に検討を始め、それは第一の月の一日まで続きました。第一の月とは、今の暦では3月にあたります。すなわち、この調査のために3か月を要したということです。それだけ問題が広範囲に及んでいたということ、数多くの人たちが外国人をめとっていたのです。

そのリストが18~44節に記されてあります。リストにあげられた名前は、祭司たち、レビ人たち、一般人の順で記されてあります。まず、祭司たちの名前です。18~22節をご覧ください。「10:18 祭司の子らのうちで異国人の女を妻にした者が分かった。エホツァダクの子ヨシュアの息子たちと、その兄弟たちのうちのマアセヤ、エリエゼル、ヤリブ、ゲダルヤであった。10:19 彼らはその妻を離縁すると誓い、自分たちの罪過のために、雄羊一匹を代償のささげ物として献げた。10:20 イメル族のうちでは、ハナニとゼバデヤ。10:21 ハリム族のうちでは、マアセヤ、エリヤ、シェマヤ、エヒエル、ウジヤ。10:22 パシュフル族のうちでは、エルヨエナイ、マアセヤ、イシュマエル、ネタンエル、エホザバデ、エルアサ。」

17人の祭司たちが、この罪を犯していました。彼らは、妻を離縁するという誓いをしてから、それぞれ罪過のためのささげものをしました。

  次に、レビ人たちの名前が記されてあります。23~24節です。「10:23 レビ人のうちでは、エホザバデ、シムイ、ケラヤすなわちケリタ、ペタフヤ、ユダ、エリエゼル。10:24 歌い手のうちでは、エルヤシブ。門衛のうちでは、シャルム、テレム、ウリ。」

  10人のレビ人がこの罪を犯していました。その中には歌うたい1人と門衛3人が含まれていました。

 そして最後に一般のイスラエル人です。25~43節です。ここには84人の名前が記されてあります。「10:25 一般のイスラエル人のうち、パルオシュ族のうちでは、ラムヤ、イジヤ、マルキヤ、ミヤミン、エルアザル、マルキヤ、ベナヤ。10:26 エラム族のうちでは、マタンヤ、ゼカリヤ、エヒエル、アブディ、エレモテ、エリヤ。10:27 ザト族のうちでは、エルヨエナイ、エルヤシブ、マタンヤ、エレモテ、ザバデ、アジザ。10:28 ベバイ族のうちでは、ヨハナン、ハナンヤ、ザバイ、アテライ。10:29 バニ族のうちでは、メシュラム、マルク、アダヤ、ヤシュブ、シェアル、ラモテ。10:30 パハテ・モアブ族のうちでは、アデナ、ケラル、ベナヤ、マアセヤ、マタンヤ、ベツァルエル、ビヌイ、マナセ。10:31 ハリム族のうちでは、エリエゼル、イシヤ、マルキヤ、シェマヤ、シメオン、10:32 ベニヤミン、マルク、シェマルヤ。10:33 ハシュム族のうちでは、マテナイ、マタタ、ザバデ、エリフェレテ、エレマイ、マナセ、シムイ。10:34 バニ族のうちでは、マアダイ、アムラム、ウエル、10:35 ベナヤ、ベデヤ、ケルフ、10:36 ワンヤ、メレモテ、エルヤシブ、10:37 マタンヤ、マテナイ、ヤアサイ。10:38 バニ、ビヌイ、シムイ、10:39 シェレムヤ、ナタン、アダヤ、10:40 マクナデバイ、シャシャイ、シャライ、10:41 アザルエル、シェレムヤ、シェマルヤ、10:42 シャルム、アマルヤ、ヨセフ。10:43 ネボ族のうちでは、エイエル、マティテヤ、ザバデ、ゼビナ、ヤダイ、ヨエル、ベナヤ。」

 44節には、彼らの妻たちの中には、すでに子を産んだ者もいたと記されてあります。子どもが生まれていた夫婦にとっては、離縁はさらに辛いものとなったでしょう。このように家を追われることになった妻と子どもがどうなったかについては、何も書かれていませんが、彼らには必要な物質的援助が与えられ、自分たちの出身地に戻って行ったことでしょう。

このようにエズラ記は、彼の宗教改革で閉じます。このエズラ記全体から教えられることはどんなことでしょうか。それは、神の恵みの御手が私たちとともにあるなら、私たちはあらゆるわざわいから救い出されるということです。それはエズラ記だけでなく、聖書全体を通して神が語っておられることです。

先日、福島で牧師按手式があり、そこでエレミヤ1章からエレミヤの召命からお話をさせていただきましたが、そこでも同じことが記されてあります。「1:7 主は私に言われた。「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすすべてのところへ行き、わたしがあなたに命じるすべてのことを語れ。1:8 彼らの顔を恐れるな。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。─主のことば。」」(エレミヤ1:7-8)

若かろうと老いていようと、才能があろうとなかろうと、口が重いかとか軽いかといったことは牧師にとって全く関係ありません。大切なのは、神がともにおられるかどうかということです。神がともにおられるなら、神があらゆる窮地から救い出してくださいます。これが、すべての祝福の源なのです。

であれば、私たちに求められていることは、神がともにおられることです。もし私たちの歩みが神のみむねにかなわなければ悔い改めなければなりません。それは単に口先で罪を告白するということではなく、神が喜ばれる方向に転換することです。そうすれば、主はともにいてくださいます。まさにエズラの宗教改革は、それを求めていたのです。私たちも自分自身を点検し、もし神のみむねにかなわない点があるなら悔い改めて神に立ち返りましょう。そしていつも神がともにおられることを第一に求めていきたいと思います。神があなたとともにいて、あなたをすべてのわざわいから救い出してくださいますように。