ローマ人への手紙1章1~7節 「この福音のために」

きょうからしばらくローマ人への手紙からご一緒に学んでいきたいと思います。あるアメリカ人のアルコール中毒患者が、どうしても酒を断ち切ることができず、病院で二ヶ月以上治療を受けました。その治療期間が終わって退院した帰りに、ある酒場の前を通りかかりました。雀が精米所の前を通り過ぎることができないように、その人に酒の誘惑が強力に襲いかかってきて、そこを通り過ぎることができなくなってしまいました。ところがそのすぐそばに、2ドル30セントで牛乳飲み放題の「牛乳バイキング」の店がありました。そこでこの人はそのお店に入って、満腹になるまで牛乳を飲んで出てきました。そして再び酒場の前を通りかかったときには、もうお酒の誘惑は全く無くなっていました。簡単に通り過ぎることかできたのです。牛乳でお腹が一杯になったからです。

これから学ぼうとしているローマ人への手紙全体のテーマは福音の力です。このアルコール中毒の患者が牛乳に満たされたことでアルコールに勝利したように、私たちは福音の力によって勝利ある人生を送ることができるのです。なぜなら、福音には力があるからです。福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力」(1:16)です。この福音をよく理解し、この福音に堅く立ち、福音によって生きるなら、私たちはみこころにかなった歩みをすることができるのです。

きょうはこの神の福音について三つのことをお話したいと思います。まず第一に、パウロの召命感です。パウロは、この福音のために選び分けられ、使徒として召されたという確信をもっていました。第二のことはこの福音の内容です。それは御子に関することですとあるように、イエス・キリストのことです。そして第三のことは、この福音がもたらされた目的です。それは、あらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためでした。それは、この福音であるイエス・キリストによってのみできるということです。

Ⅰ.神の福音のために選び分けられたパウロ(1)    まず第一に、パウロの召命感について見ていきたいと思います。1節をご覧ください。

「神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ。」

新約聖書の中にあるパウロの手紙は全部で十三ありますが、このローマ人への手紙は、その中でもきわめてユニークな手紙です。パウロのほかの手紙はすべて、彼が自分で伝道したか、あるいはパウロの弟子たちが伝道して生まれた教会に宛てて書かれた手紙ですが、このローマ人への手紙だけはそうではないからです。おそらくあのペンテコステの時に回心した人たちがローマに帰って伝道し、そういう人たちによって生まれていたのでしょう。ですから彼らとは一度も会ったことがありませんでしたし、全く面識がありませんでした。それではなぜパウロはローマの教会に手紙を書き送る必要があったのでしょうか。それは、このローマ教会が福音によってしっかりと立っていてほしかったからです。この手紙の後半の方、15章を見ると、どうもパウロはイスパニヤ、今のスペインですね、そこまで行って伝道しようと願っていたようです。その伝道を彼らに担ってほしいと考えていたのです。そのためには彼がローマに行って福音の奥義を語って教え、彼らの信仰を養育するのが一番ですが、今はそれができませんでした。パウロがこの手紙を書いたのは彼が第三次伝道旅行でコリントを訪れ、そこに三ヶ月間滞在した時でしたが、この後で彼はマケドニヤの諸教会から集めた献金をエルサレムに持って行かなければならなかったのです。ローマに行くことも大切なことですが、今は献金を携えてエルサレムに行くことの方がもっと重要なことだったからです。そこで彼はケンクレヤという隣町の女執事フィベにこの手紙を託して届けさせたのです。その手紙の最初のところで彼は、まだ一度も会ったことのないローマのクリスチャンたちに対して、「神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ」と自分を紹介したのです。

「神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ」という表現は、きわめて珍しい言い方です。皆さんがまだ一度も会ったことのない人に手紙を書き送る時に、このような言い方をするでしょうか。ここにはパウロの強い思いと確信がにじみ出ていると思います。それは、自分は福音宣教のために選ばれ、召し出され、存在しているという確信です。だからこそ彼は使徒の働き20章24節のところにあるように、「神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、自分の命は少しも惜しいとは思いません。」と言うことができたのです。これが彼の献身の原動力だったのです。

皆さん、なぜ私たちはこの世に存在しているのでしょうか。私たちは何の目的もなく、意味もなく、ただ偶然に生まれてきたのでしょうか。そうではありません。神様に偶然などあり得ないからです。神様は一羽の雀が地に落ちるのも知っておられ、二十万本以上あると言われている私たちの髪の毛の数まで知っておられる方です。その神様は、私たちひとりひとりの人間に、その人生の目的なり、計画を持っておられるのです。それは何かというと、神の福音を宣べ伝えることです。福音をあかしすること、それが私たちに対する神のみこころなのです。イエス様を信じるすべての人は救いを得ていますが、なぜ神様は私たちをこの地上に置いてくださったのかというと、そこには目的があるからです。その目的とは神の福音を宣べ伝えることなのです。この目的をしっかりと握りしめている人は、どんな誘惑にも決して揺らぐことがありません。そして確信をもって献身することができるのです。この目的意識こそが、人を生かすのです。

昨年も自殺者が3万人を越えました。これで10年以上毎年3万人以上が自殺していることになります。その予備軍を入れたら、その数はものすごい数字になるでしょう。どうしてそんなに多くの方が自殺するのでしょうか。人生の目的がわからないからです。人は明確な目的があればあるほど喜びと使命感がわいてくるのです。人が自殺するのは人生に意味がなく、それが虚無的に感じらるからなのです。虚無感というのはたとえすぐに人を殺さなくても、日ごとに人を蝕んでいきます。その反対に目的意識は人にいのちをもたらし、人を強くするのです。

たとえば、先日、「この日本人がスゴイらしい」というテレビ番組で、核廃絶を世界に訴えた二重被爆者、山口彊(つとむ)さんの生涯が紹介されました。山口さんは1945年8月6日、会社の出張先の広島で被爆し、さらに8月9日、故郷の長崎でも被爆された二重被爆者です。それで左耳の聴力を失い、急性白血病となり、原爆の後遺症に苦しめられますが、被爆に対する偏見や差別などから自分が被爆者であることを隠していました。しかし妻と息子を亡くしたことがきっかけで、自分の命はいったいなぜ生きながらえているのか?自分がここに存在しているのはいったい何のためなのかを考えるようになりました。そして、それはこの核の恐ろしさを世界に訴えるためではないかと、自分が二重被爆者であることを公表するわけです。そして90歳になってからアメリカへ行き、ニューヨークの国連本部で反核、世界平和について訴えたのです。それから被爆をテーマにした映画を観てみたいと、「アバター」で有名な映画監督のジェームズ・キャメロンに手紙を書き送るのです。  すると2008年12月22日に、がんで長崎の病院に入院していた山口さんのもとに、このジェームズ・キャメロン監督がやって来て、やがて核廃絶をテーマにした映画を作ると約束したのです。その映画は「The Last Train from Hiroshima :The Survivors Look Back」というノンフィクションの著書を元にした映画で、この山口さんの体験が重要な部分を占めている映画です。  それにしても90を過ぎてから国連で訴えたり、ジェームズ・キャメロンに手紙を書き送ったりという知恵と力はどこから来たのでしょうか。それは、自分が生きているのはこのためであるという使命感からなのです。その使命感が山口さんを動かしたのです。それは私たちも同じです。

パウロは、自分が神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたという確信を持っていました。明確な目的意識があったのです。それが彼の生きる原動力だったのです。パウロはそのような召命感を持っていたので、すべてのことを犠牲にしても福音のために献身していきたいという思ったのです。それは私たちも同じです。私たちもこの福音のために選び分けられ、このことのために召され、今ここに存在しいるのだということがわかるとき、すべてのことを犠牲にしても、福音のために献身していくことができるようになるのです。

Ⅱ.福音はイエス・キリスト(2-4)

では、その福音とはどのようなものなのでしょうか。第二のことは、その福音の内容についてです。2~4節までをご覧ください。

パウロは自己紹介をしたのち、この手紙の受取人であるローマにいるすべての聖徒たちへ、すなわち7節に進むはずでしたが、ちょっと横道にそれて、とうとうこの手紙の中心主題である神の福音について語り始めました。彼としては、それが言いたくて、言いたくて、ムズムズしていたのでしょう。人は頭にあることを話します。食べ物のことばかり話す人は、いつも食べ物のことばかり考えているからです。人は頭で考え、心で思っていることを話すからです。私は24時間いつも教会のことばかり考えているので、いつも教会のことばかり話します。頭のてっぺんを押されても、横っ腹をつつかれても、足の裏をくすぐられても、その口から出てくるのは「教会」のことです。パウロが考え、パウロが思っていたことは、神の福音のことでした。彼はいつも福音のことばかり考えていたので、自己紹介からその受取人について書き記す間に、横道にそれてしまったのです。それほど彼は福音に心が捕らえられていたのです。しかし、ここではすべてを語りません。食事でいうなら前菜のようなもので、フルコースのメニューのわずかなものだけちらつかせて、フルコースへの関心をかき立てようとしているのです。では、その神の福音とはどのようなものなのでしょうか。

「―この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもので、御子に関することです。御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、 聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。」

それは旧約聖書の預言者たちを通してずっと昔から約束されていたもので、御子に関することです。この御子は、「肉によればダビデの子孫として生まれ、聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神に御子として示された方」です。「肉によれば」というのは人間的に見ればという意味です。つまり、人間的に見れば、この御子は旧約聖書の預言に記されてあるとおりに、ダビデの子孫としてお生まれになられたということです。旧約聖書の預言のとおりに生まれた方です。すなわち、まことの救い主であられるということです。それだけではありません。聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方です。つまりキリストは十字架で死なれましたが、その死から復活されることによってご自身が神であることを証明されたのです。「この方が死につながれていることなどあり得ないからです。」(使徒2:24)つまり、この方は旧約聖書のメシヤの預言の通りに生まれた方であり、死者の中からよみがえられることによって、神の御子であるということをはっきりと示された方、私たちの主イエス・キリストのことなのです。私たちは、この主イエス・キリストによって罪から救われ、喜びと感謝の中を生きることができるのです。これが福音です。いや、このお方こそ福音なのです。

皆さん、福音とは、決して観念やイデオロギーではありません。この生きておられる主イエス・キリストとの交わりなのです。この方にかたく結びついているときのみ、私たちはいのちにあふれた生活をすることができるのであって、それがなかったら福音とは言えないのです。パウロが信じていた福音とは、そのように自らが体験していたものであり、確かな力であり、いのちだったのです。16節のところで彼が、「福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」と言っているのはそういうことです。福音は力なのです。

イエス様は、ピリポ・カイザリヤというところで弟子たちに、「人々はわたしのことを何と言ってるか?」とお尋ねになられました。すると弟子たちは、「ある人は預言者だと言い、ある人はエリヤ、また別の人はほかの預言者だと言っています」と答えました。するとイエス様は何と言われたでしょうか。イエス様はこのように言われたのです。「では、あなたがたはわたしを誰だと言うのか?」他の人々の主張はそのくらいにして、それではあなたがたはわたしを誰だというのかと、彼ら自身の告白を求められたのです。  すると弟子の一人のペテロが言いました。「あなたこそ、生ける神の御子キリストです。」(マタイ16:16)するとイエス様は、ペテロを称賛し、「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです」と言われました。イエス様はほかの人が何と言っているかではなく、あなたは何と言うか、あなた自身の告白を聞くことを願っておられるのです。

しかし、私たちは自分の告白をしません。「ある人の話ですが、イエスを信じると救われるらしいです」とか、「ある人の話ですが、祈ると答えられるそうです」と言うのです。これは福音宣教ではありません。福音宣教とは、自分が見たこと、聞いたこと、体験したことを証することなのです。「イエスが力です。十字架が救いの力です。祈りは必ず答えられます。イエス様だけが唯一の望みです。」とはっきり言えなければならないのです。そのように言える自分の信仰、証がなければなりません。私が信じているイエス様、私が信じている福音、私が体験した福音を証しなければなりません。それが力の源なのです。福音には力があるので、みことばをそのまま読むだけでもすばらしい力がありますが、もっと力があるのはそのみことばを実際に味わっていることを証することです。福音はイエス・キリストであり、単なる観念ではなく、力だからです。

Ⅲ.このキリストによって(5-7)

最後に、このようにパウロがローマの教会に福音を宣べ伝えた目的とその手段についてを見て終わりたいと思います。5-7節をご覧ください。

「このキリストによって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためです。あなたがたも、それらの人々の中にあって、イエス・キリストによって召された人々です。―このパウロから、ローマにいるすべての、神に愛されている人々、召された聖徒たちへ。私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があなたがたの上にありますように。」

パウロは自己紹介をしながら、横道というか、福音そのものについて少し触れましたが、巧みに話を元に戻し、差出人から宛先へと進めていきます。今ここで紹介した福音の本質とはイエス・キリストであるという話から、このキリストによって、自分が使徒としての務めを受けたのだと結びつけていくのです。ここには「恵みと使徒の務め」とありますが、これは、「恵み、すなわち使徒の務め」という意味で、「使徒の務めという恵み」ということです。パウロは福音そのものである主イエス・キリストによって、この尊い務めをいただいたのです。では、それはいったい何のためでしょうか。それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためです。「信仰の従順」とは何でしょうか。「信仰の従順」ということばは、ギリシャ語では「信仰、つまり神への従順」となっています。ですから信仰の従順とは、信仰の内容である神に従う生活のことなのです。パウロが使徒の務めという恵みを受けたのは、あらゆる国の人たちがこの福音を信じ、神の用意してくださった救いを受け入れることによって、神に従う生活ができるようにするためだったのです。それはパウロだけではありません。「あなたがたも」、すなわち、ローマのクリスチャンたちも同じです。いや私たちも同じなのです。なぜなら、私たちも、イエス・キリストによって召された者だからです。私たちも神に愛され、召された者として、パウロのように、あらゆる国の人々に信仰の従順をもたらしていかなければならないのです。どうやってそれができるのでしょうか。ここに「このキリストによって」とあります。「このキリスト」とは、神の福音そのもののことです。ですからこれは、神の福音によってということになります。神の福音によって私たちは、あらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすことができるのです。それは決して人間の力や方策によってではないのです。

ネヘミヤは、バビロン捕囚からエルサレムに戻ってきたイスラエルの民に何をしたでしょうか。ネヘミヤ記8章を見ると、彼は、主がイスラエルに命じたモーセの律法の書を持って来るように、学者エズラにお願いしました。それを水の門の広場に集まっていた民に、夜明けから真昼まで、朗読したのです。その結果消滅していた仮庵の祭りが復活し、異邦人との婚姻が解消され、安息日を守る運動が徹底され、什一献金が行われるようになり、イスラエルに信仰の変革が起こっていったのです。これがウォーターゲートのリバイバルです。「水の門」ウォーターゲートでのリバイバルです。それはイスラエルが神のみことばに立ち返り、みことばに堅く立つことによってもたらされたものだったのです。。

それは使徒の働きの中に見られる初代教会も同じです。例えば、使徒の働き19章にはパウロがエペソで伝道した時のことが記されてありますが、彼らはパウロを通してみことばを伝えられるとすぐに、魔術を行っていた人々は魔術の本を集めて燃やしてしまいました。その額なんと銀貨5万枚、今の価値で300万円相当だったと言われています。それは彼らが神のみことばを聞いて、それを理解したからなのです。みことばを本当に理解すると、自然と、その行動にも変化が起こってくるのです。

1903年にウェールズで起こったリバイバルもそうでした。神様のみことばに対する覚醒が起こると、劇場や酒場が門を閉ざすようになりました。また工場の労働者たちが盗んだ品物を返しにやって来て、それが山のように積まれるようになったのです。なぜそういうことが起こったのかというと、いつもむちで虐待していた主人たちが、神の恵みを受けてからは慈しみ深くなり、ロバを抱いて涙する人までいたからです。神のみことばによって人々の内側が変革したことが、社会的な改革へとつながっていったのです。

1907年に今の北朝鮮の平壌(ピョンヤン)で起こったリバイバルもそうでした。みことばで目覚めた聖徒たちが日曜日になると一斉に仕事を休んだので、平壌の経済が麻痺してしまったのです。10%の聖徒たちが商店の門を閉めたので、平壌全体が日曜日の主日には一斉に休むようになったのです。クリスチャンが10%になると、社会全体に大きな影響を及ぼすようになるのです。

それまでは少し忍耐が必要です。日本では今のところクリスチャンの人口は全体の1%にも満ちていませんが、これが10%になると、社会全体を変革していく大きなうねりとなるのです。その鍵は何でしょうか。信仰の本質である神の福音です。神の福音に立ち返り、この福音にしっかりと立ち続けることであって、それ以外にはないのです。決して人間的な方法やプログラムによるものではありません。

猪(いのしし)が最も好んで食べる物はどんぐりだそうです。猪はどんぐりに目がなく、夢中になるのです。しかし猪は頭が悪いのか、どんぐりがなくなると、どんぐりが地面から出てくると思って地面を掘り返してしまうのです。もし私たちが猪のことばを知っているとしたら、そんな猪に何とことばをかけてやるでしょうか?「猪君。地面を掘ったってドングリは出て来ないよ。どんぐりは上から落ちてくるの。だからそんなにどんぐりを食べたければ、木の根元を打つか、枝を揺らさないと・・。」このように言ってやるのではないでしょうか。

同じです。コロサイ人への手紙3章1,2節には、「こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右の座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。」とあります。何か良い方法はないかと地面を掘ったりするのではなく、天にあるものを求めていかなければなりません。「天にあるものを求めなさい」それが私たちに求められていることなのです。

私たちはこの一年がそのような年でありますようにと祈ります。「このキリストによって」「この神の福音によって」皆さんの心が奮い立たせられる一年でありますように。いつもみことばに立ち返りながら、そこから恵みと力をいただいて、このすばらしい務めを全うしていくことができますように。この教会がこの福音に堅く立ち、キリストの恵みと力によって前進していく教会でありますように。