きょうは「本当のユダヤ人」というタイトルでお話したいと思います。パウロは1章の後半部分から、人間の罪について語ってきました。それは神を知っていながらも、その神を神としてあがめようとしないばかりか、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心が暗くなって、してはならないようなことをするようになったということです。そうした人間の不敬虔と不義とに対して、神の怒りが天から啓示されるようになりました。 では、一方のユダヤ人はどうかというと、彼らはそうした異邦人を見下し、裁いていましたが、実は彼らも、そのようにさばきながら、自分たちもそれと同じようなことを行っていたのです。彼らは神に選ばれた民であることを良いことに、その特権と恵みに甘んじて、多少の問題があっても神は大目に見てくれるだろうと錯覚していたのです。そうしたユダヤ人たちに対してパウロは、そんなにこと断じてない、神はえこひいきなどしない方であり、その終わりの日に、その人の行いに応じて報いをお与えになられると言ったのです。
きょうのところはその続きでありますが、このところにもユダヤ人の罪が暴露されています。パウロはこれまでもユダヤの罪を取り上げて語ってきましたが、それまではあからさまに「ユダヤ人は・・」という言い方をしないで、「すべて他人をさばく人よ」(2:1)とか、「艱難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも・・」(2:9)というように、一般化して語ってきました。しかし、ここからははっきりとそれがユダヤ人に対してであるということがわかるように名指しでその罪を指摘し、彼らがどういう点で間違っていたのかを示すのです。すなわち、彼らは自分たちは神に選ばれたユダヤ人だと自負してはいるが、本当のユダヤ人ではないということです。では本当のユダヤ人とはどういう人のことを言うのでしょうか。
きょうはこのことについて三つの点でお話したいと思います。まず第一のことは、ユダヤ人たちの誇り、プライドについてです。第二のことは、そうしたユダヤ人たちの問題についてです。ですから第三のことは、本当のユダヤ人というのは外見上のユダヤ人のことではなく、心から神に従って生きる人たちのことであるということです。
Ⅰ.ユダヤ人たちの誇り(17-20)
まず第一に、ユダヤ人たちの誇りについて見ていきましょう。17~20節までをご覧ください。
「もし、あなたが自分をユダヤ人ととなえ、律法を持つことに安んじ、神を誇り、 みこころを知り、なすべきことが何であるかを律法に教えられてわきまえ、また、知識と真理の具体的な形として律法を持っているため、盲人の案内人、やみの中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だと自任しているのなら、」
ここにはユダヤ人たちの誇りがしるされてあります。彼らの誇りは中途半端なものではありませんでした。なぜなら、第一に、彼らには律法が与えられていたからです。神様は彼らに啓示をなさり、みことばを下さり、他の多くの民族にみこころを証する使命を下さいました。第二に、18節にあるように、みこころを知り、なすべきことが何であるかを律法によって教えられわきまえていました。ユダヤ人たちは、神様からみことばが与えられていただけでなく、そのみことばによって教訓を受けていました。彼らは小さな頃からみことばの養育を受けていて、成人式を行う12歳前には、すでにモーセ五書といって聖書の最初の五つの書を暗記していたほどです、神様のみことばによって考え、判断する訓練が小さい頃から身に付いていたのです。他の人が外側しか見れない時でも、ユダヤ人だけは本質を見ることができました。それはそうした神のことばによって訓練されているからです。ノーベル賞受賞者の23%がユダヤ人だと言われていますが、それはまさに、幼いときからみことばによって訓練を受けてきたことによる祝福なのです。小さい時からみことばによって訓練されるということはすばらしいことなのです。よく「私はクリスチャンホームに生まれ育って息苦しかった」と言われる方がいますが、とんでもない、それは最も大きな祝福なのです。ユダヤ人は神から律法が与えられ、幼い頃からそれを学んできたので、神様のみこころは何か、なすべきことが何であるかを知っていたのです。それゆえに彼らは、そうしたことを知らない霊的盲人の案内人、やみの中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だと自認していたのです。
おそらく、この世に存在する民族の中で、もっとも誇り高き民族はユダヤ人でしょう。彼らは、自分たちは神様から特別に選ばれた民であって、いつも世界の歴史の中心にいると考えていました。そういう選民意識の虜になっていたのです。そしてそうでない人たち、異邦人を一段低い者と見なしていました。それは異邦人を「犬」と呼んでいたことからもわかります。当時のラビと呼ばれていた教師たちが書いた文章を見ると、「なぜ神様はこの地に異邦人を置かれたのか?それは地獄の燃料のためだ」と記されているほどです。時折、ユダヤ人たちが真っ赤な色の奇妙な帽子をかぶっているのをテレビなどで見ることがありますが、この帽子は自分たちが神様の選民であるという身分表示だからなのです。この帽子にどれほどのプライドをもっていたかというと、戦争が起きても鉄かぶとの下にその帽子をかぶって行軍したほどです。
人はそれぞれ誇りを持って生きています。誇りを持っていない人などいません。みんな何らかの誇りを持って生きているのです。そして、正当な誇りというのは私たちの人生に益をもたらしてくれます。そのような誇りは、時には自信を与え、所属意識を持たせてくれるからです。私は保護司をしてますが、ちゃんとバッジと身分証明書があります。今まで一度たりとも使ったことがありませんが、なぜこんなものを作って渡すのかというと、それは所属意識を持たせるためなのです。保護師としての自覚と責任をしっかりと持ちましょうということなのでしょう。会社ではロゴのついて制服の着用を義務づけますが、それも所属意識を持たせるためです。このような正当な誇りは私たちの人生において良い役割をもたらしますが、しかしこのような誇りが、時として自分の果たす役割を邪魔したり、将来をダメにしてしまうことも少なくありません。 たとえば、過去の学歴や経歴を誇るあまりに、職場で少しでも気にくわない処遇を受けたりすると、「おれを誰だと思ってるんだ!」とか、「何でおれがこんなところで働いていなければならないんだ」といぶかり、すぐに会社を辞めてしまう人がおられるということを聞いたことがあります。それはこの誇りが邪魔をしているからなのです。自分の知ってる人がテレビにでも出ようものなら、「おれはあいつのことを知ってるが、昔は大した人間じゃなかったんだ」とか、「あいつは学生時代は全然勉強ではなかったのに」とかと言って、豪語したりするのです。じゃ本人はというと、そうしたプライドが邪魔をしてなかなか前に進めずもがき苦しんでいたりしているのです。
このような誇りはむなしいものであり、人を生かすものではなく殺します。プライドが強くなりすぎると病的な高慢に陥るのです。こういう誇りは何の助けにもならないどころか、人生をだめにしてしまうのです。まさにユダヤ人の誇りはむなしく、腐ったものでした。どういう点で、彼らの誇りは腐っていたのでしょうか。
Ⅱ.ユダヤ人たちの問題(21-24)
21~24節をご覧ください。ここには、「どうして、人を教えながら、自分自身を教えないのですか。盗むなと説きながら、自分は盗むのですか。姦淫するなと言いながら、自分は姦淫するのですか。偶像を忌みきらいながら、自分は神殿の物をかすめるのですか。律法を誇りとしているあなたが、どうして律法に違反して、神を侮るのですか。これは、「神の名は、あなたがたのゆえに、異邦人の中でけがされている」と書いてあるとおりです。」とあります。
彼らの問題は、神から律法が与えられ、何をすべきかを知っていながら、それを行っていなかったことです。人に盗むなと説いておきながら盗み、姦淫するなと言いながら姦淫し、偶像を忌み嫌いながら、神殿のものをかすめ取っていたのです。律法を誇りとしていながら、その律法に違反していたわけです。
これは、イエス様を長い間信じているクリスチャンの問題にも通じます。よく「あなたはイエス様を信じているんですか」と尋ねると、「うちの父親は牧師でです」という人がおられます。「そうじゃなくて、あなたはイエス様を信じているんですか」と聞き直すと、「親戚にクリスチャンが多いんです」とかとチンプンカンプンな答えをされる方がおられるのです。「そうでゃなくて、あなたはどうなんですかということを聞いてるんです。あなたはイエス様を信じているんですか」すると、「信じていない」と答えます。これが問題です。このような人は、イエス・キリストの十字架の血潮を信じて救われているのではありません。親戚にどれだけクリスチャンがいるかとか、両親が熱心なクリスチャンであるかどうかで、その人が救われるのではありません。私たちが救われるのは、イエス・キリストを信じているかどうかなのであって、そのような外見上のことが問題なのではないのです。
ユダヤ人たちが持っていた最高の誇りは、自分たちがアブラハムの子孫であるということでした。しかし、そんな彼ら対してイエス様は次のように言われました。ルカの福音書3章8節です。
「それならそれで、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。『われわれの父はアブラハムだ』などと心の中で言い始めてはいけません。よく言っておくが、神は、こんな石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。」
この意味は、血統など信じないで、心から神様を信じなさいということです。皆さん、今なおこのような外見上のものに頼って、誤った確信を持っている方がおられるのです。しかし、大切なのはそうした血筋や父母の信仰ではなく、自分自身がイエス様を信じているかどうかです。ヨハネの福音書1章13節に、
「この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」
とあります。イエス様を信じ聖霊によって証印を押されるまでは、どんな人であっても救いを得ることはできないのです。父母の信仰の遺産をよく受け継ぐなら、それは自分の財産になります。それはいくらでも誇れるでしょう。「私の家は三代にわたって主に仕え、今も熱心に仕えている。」これはすばらしい恵みです。しかし、その血統に頼り、信仰の中身がないとしたら問題です。ユダヤ人たちは盗むなと言いながら盗み、姦淫するなと言いながら姦淫し、偶像を忌み嫌うと言いながら偶像崇拝のようなことをしていたのです。中身がありませんでした。彼らの宗教は外見だけの宗教だったのです。
今はすべての権威が崩れ行く時代です。ある家で、あまりにも勉強しない息子に父親がこう言いました。「おい。少しくらいは勉強したらどうだ。リンカーンはおまえの年で独学で弁護士になったんだぞ」すると息子は何と言ったでしょうか。「何言ってんだよ。リンカーンはお父さんの年に大統領になったんだよ」。訓戒を与えようとする父親に対して、あんたなんかにそんなこと言われたくないと言って反発するのです。何が問題なのでしょうか。中身がないことです。口先だけで生きていることです。親が本気になってその生き方を見せるときだけ、語ることばに力を持つのです。これは親だけでなく学校の教師でも誰でも、人を指導する立場にあるすへての人に言えることでしょう。子どもたちに、「神様のみことばは重要だ」と何百回言っても、自分がそのみことばに生きていなければ力がありません。子どもたちは両親が何を重んじているかをちゃんと見ているのです。教会学校の聖書クイズで一番になったと報告しても、親は特に反応はしないでしょう。しかし、学校のテストで成績が一番になったと聞いたら、もう大騒ぎです。友達や親戚中に話して回るのではないでしょうか。そうすると知らず知らずのうちに子どもの心に、「お父さんとお母さんは、神様を信じて従うことが一番大切だとは言うけれども、実際は学校の成績が一番になることを喜ぶんだな!」と思うようになるのです。そして、礼拝や教会のことは放っておいてもいいから、学校で一番になって両親を喜ばせなくちゃという意識が宿るようになるのです。私たちが何を言うかではなく、どのように行うかという実際の生き方が子どもたちに植え付けられるのです。
重要なのは聖書をどれだけ知っているかということではありません。重要なのは、それをどれだけ行っているかです。その生き方なのです。ユダヤ人は神から律法が与えられ、神のみこころは何なのか、何をなすべきなのかということを知っていながら、あるいはそれを教えていながら、自分ではそれを行っていませんでした。それが問題だったのです。そのようにして彼らは、「神の名は、あなたがたのゆえに、異邦人の間でけがされている」というみことばのとおりになってしまいました。
Ⅲ.本当のユダヤ人とは(25-29)
ではどうしたらいいのでしょうか。ですから第三のことは、心から神を信じ、御霊によって生きましょうということです。25~29節をご覧ください。
「もし律法を守るなら、割礼には価値があります。しかし、もしあなたが律法にそむいているなら、あなたの割礼は、無割礼になったのです。もし割礼を受けていない人が律法の規定を守るなら、割礼を受けていなくても、割礼を受けている者とみなされないでしょうか。また、からだに割礼を受けていないで律法を守る者が、律法の文字と割礼がありながら律法にそむいているあなたを、さばくことにならないでしょうか。外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。」
パウロはここで、割礼の問題を取り上げています。割礼とは、男子の性器の先端の皮を切り取ることです。それは神の民であるユダヤ人のしるしであり、救いのしるしでした。割礼のない者は地獄に行くと、ユダヤ教のラビたちが教えていました。それほど、割礼は、ユダヤ人たちにとって重要なものだったのです。その割礼についてパウロはここで何と言っているでしょうか。パウロはこう言うのです。割礼を受けているかいないかが重要なのではなく、律法を守っているかどうかが重要なのだ・・・と。すなわち、外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではない。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人なのであり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼なのです。どういうことかというと、信仰というのは、内面性が重要であるということです。信仰が堕落すると、外的、儀式的なことが強調されるようになり、それに力を入れ始めるようになるのです。しかし、信仰において重要なのはその内容であって、御霊によって、心から神を信じ、神に仕えていく生き方なのです。
しかし、それはユダヤ人だけのことではありません。私たちもややもするとこうしたユダヤ人たちと同じような傾向に陥ってしまう危険性があるのではないでしょうか。たとえば、洗礼を受けさえすれば救われるといった考えです。洗礼を受けることは大切なことです。なぜなら、それは神のみこころだからです。しかし、洗礼を受けるということが天国に行けるという保証ではないのです。「信じてバプテスマを受ける者は、救われます」(マルコ16:17)と聖書にあるように、信じることが重要なのです。それは継続を表しています。信じ続けること、何があってもイエス様にとどまり、イエス様に従って歩んで行きますという決心です。すなわち、信仰の内面性なのです。心の中まで見通される神の前に立ち、へりくだって神を仰ぎ、神を慕い求め、神のみこころにかなった歩みをしていきたいと願う心です。その時、その誉れは、人からではなく、神から来るのです。
アメリカにロバート・ファンクさんというアメリカ最大の牧畜業を営んでおられる方がおられます。この方はプロのホッケーチームのオーナーもしておられる方ですが、とても熱心なクリスチャンです。しかし、最初から熱心だったのかというと、そうではありません。 この方はお母さんがクリスチャンであったことから、小さい頃からいつも教会に連れて行かれました。ところが学校を卒業してビジネスに入ったとたんに、仕事が忙しくなって教会に行かなくなってしまいました。それでも彼は、20年以上も教会に通っていたのだから、自分ではクリスチャンだと思っていました。そして、聖書のこともよく知っていると自慢していたのです。 そんなある日、仕事の仲間に誘われてビリー・グラハムという有名な伝道者の集会に出かけて行きました。その集会には何万人も集まって来るので普通の建物ではなく、野球場で行われていました。何万人という多くの人々の中の一人として、彼は聖書の話なら大抵知っているという思いで聞いていたのです。 ところが、ビリー・グラハムの語る一つ一つの言葉が、彼の心に新鮮な響きをもって響いてきました。そして、自分は今までクリスチャンだと思っていたけれども、もしかすると違うのではないかと思うようになりました。というのは、ビリー・グラハムが次のように言われたからです。 「本当の信仰とは、何年教会に通っているとか、聖書をどれだけ知っているかということではなく、生ける神と個人的な関係が築かれているかどうです。」 そのとき彼は考えました。神様との個人的な関係?考えてみたら、自分は何年も教会に行って、聖書のこともよく知っているけれども、神様と個人的な関係を持っているだろうか?もしそれが本当の信仰だと言うのなら、自分にはそれがないのではないか・・・と。そして、何千人の人たちともに、イエス・キリストを主として信じて受け入れ、イエス・キリストを中心とした生き方が始まったのでした。
Ⅱコリント5章17節に、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られたものです。」というみことばがあります。この「だれでもキリストのうちにあるなら」ということばを、モファットという聖書学者は、「だれでもキリストに信頼するなら」と訳しています。つまり、たとえクリスチャンでも、キリストに信頼しないなら、キリストに信頼することを忘れていたら、新しく造られたものとしての人生を歩むことはできないのです。「新しく造られた者」とは、十字架につけられたイエス・キリストを信じて、神の子として新しく生まれることであり、その御霊によって、御霊に信頼して、日々、生ける神と個人的な関係を持って歩む人のことなのです。どんなにみことばを知って、暗唱していても、そのみことばにあるように、イエス様を信じ、御霊に従って、謙遜に歩む者でなければ意味がないのです。
大切なのは、新しい創造です。それこそ真のイスラエルなのです。どうか、自分の知識、経験、能力といった外見だけのむなしい誇りを捨てて、イエス・キリストを信じ、その御霊によって、日々、神に従って歩んでください。そのとき、主が驚くべきみわざを成してくださることでしょう。この基準に従って進む人こそ神のイスラエル、本当のユダヤ人なのです。神はこのような人を求めておられるのです。