レビ記14章33~57節

きょうは、レビ記14章33節から終わりまでのところから学びたいと思います。14章前半のところには、どうしたらツァラアトの人がきよめられるのかについて教えられていましたが、ここには、どうしたら家がツァラアトからきよめられかについて教えられています。家がツァラアトからきよめられるというのは変です。ですから、ツァラアトは「らい病」と訳せないのです。これはらい病を含むあらゆる汚れを指している言葉だからです。ですから、衣服がツァラアトになる場合もあるし、このように家がツァラアトになる場合もあります。この場合のツァラアトとは、一種のカビのことです。

1.家にツァラアトの患部が生じたら(33-47)

まず33~36節までをご覧ください。もしその家の所有者が、祭司に、家にツァラアトの患部が現れたと言って、報告するときは、祭司はその患部を調べる前に、その家をあけるように命じなければなりませんでした。それは、この家にあるすべてのものが汚れることがないためです。つまり、家にある家具とかを外に出さなければならなかったのです。

次に、37~42節です。祭司がその患部を調べて、もしその患部がその家の壁に出ていて、それが緑がかっていたり、または赤みを帯びたくぼみがあって、その壁よりも低く見えたなら、祭司はその家から入口のところに出て来て、七日間その家を閉ざしておかなければなりませんでした。これは皮膚にツァラアトの患部のある人と同じように、その患部が広がるか広がらないかを調べるためです。

七日目に祭司が調べて、もしその患部が家の壁に広がっていたら、祭司はその患部の石を取り出し、町の外の汚れた場所に投げ捨てなければなりませんでした。このように石を取り出すのは、イスラエルの家が石で出来ていたからです。また、その家の内側の回りを削り落とし、その削り落とした土も、町の外の汚れた場所に捨てなければなりませんでした。そして別の石を取って、前の石の代わりに入れ、また別の石を取って、その家を塗り直しました。そこまで徹底します。これは13章に衣服にツァラアトの患部がついた時にはどうしたら良いかということを学びましたが、それと同じです。衣服の場合はその部分をちぎり取ったり、火で焼いたりしましたが、家の場合も、そのところをちぎり取るかのように石を取り出して捨て、そこに代わりに別の石を入れたのです。

43~45節をご覧ください。「もし彼が石を取り出し、家の壁を削り落とし、また塗り直して後に、再び患部が家にできたなら、祭司は、入って来て調べ、そして、もし患部が家に広がっているなら、それは家につく悪性のツァラアトであって、その家は汚れている。その家、すなわち、その石と材木と家の土全部を取りこわす。またそれを町の外の汚れた場所に運び出す。」

祭司が家にはいって行って、その患部が家の中に広がっているなら、それは家につく悪性のツアラアトであって、その家は汚れています。したがって、その家全部を取り壊さなければなりませんでした。

46節を見てください。その家が閉ざされている期間中にその家にはいる者は、夕方まで汚れました。その家で寝る者は、その衣服を洗わなければなりませんでしたし、その家で食事をする者も、その衣服を洗わなければなりませんでした。その家の持ち主は、隔離されている7日間生活しなければならないわけですから、その家の中で過ごさなければなりません。けれども、その中に入る人は、一日の間汚れ、また、衣服を洗わなければいけません。そのカビが移ってしまうかもしれないからでしょう。

 こうして家の中がきよめられなければいけないこと、祭司はその家に入って調べることについて述べられていますが、いったいこれはどんなことを教えているのでしょうか。エペソ3章17節を開いてください。

「キリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。」

 つまり、この家は、キリストが住まわれる私たちのからだを象徴していたのです。私たちのからだ、あるいは心の中に汚れがあるとき、そこに主はお住みになることができません。主は聖なる方であって、罪も、しみも、しわも、そのようなものが何一つない方です。ですから、そのような汚れがあるところに住むことはできないのです。とても居心地が悪いでしょう。というか、それ以前に水と油のように相いれることはありません。

 そこで、主は大祭司として、私たちの心の中を探られます。私たちの中に汚れた部分はないか、私たちがまだ主に明け渡していないことはないかを探られ、それをご自分にゆだねるようにと言われるのです。そうでなければ、きれいにすることができません。私たちは、主がお住みになることができる家を持っているでしょうか。主がお住みになることができないような、恥ずかしいものを私たちの心のうちに持っていないでしょうか。主に自分の心を探っていただく必要があります。そして、もしそのようなものがあれば、すべて取り除かなければならないのです。

 2.贖い(48-57)

 次に、その家がきよめられた時の教えです。49~53節をご覧ください。祭司が入って来て調べ、もしその家が塗り直されて後、その患部が家に広がっていないなら、祭司は、その家をきよいと宣言します。その患部が直ったからです。

 そこで祭司は、その家をきよめるために、小鳥二羽と杉の木と緋色の撚り糸とヒソプを取り、その小鳥のうちの一羽を土の器の中の湧き水の上でほふります。杉の木とヒソプと緋色の撚り糸と、生きている小鳥を取って、ほふられた小鳥の血の中と湧き水の中にそれらを浸し、その家に七たび振りかけます。祭司は小鳥の血と湧き水と生きた小鳥と杉の木とヒソプと緋色の撚り糸とによって、その家をきよめ、その生きている小鳥を町の外の野に放ちます。こうして、その家のための贖いをします。そのようにして、その家はきよめられるのです。

 これは前回学んだように、イエス・キリストの十字架の血による贖いと復活を表しています。イエス・キリストの十字架の血によって汚れが贖われ、きよめられます。そして、キリストが死からよみがえられたように、私たちもキリストの新しいいのちによみがえります。すなわち、キリストにつぎあわされ、キリストと一つにされることによって、私たちは汚れからきよめていただくことができるのです。私たちがきよめられるには、主イエスの十字架の血潮以外にはないのです。

 そして54~57節です。「以上は、ツァラアトのあらゆる患部、かいせん、衣服と家のツァラアト、はれもの、かさぶた、光る斑点についてのおしえである。これは、どんなときにそれが汚れているのか、またどんなときにそれがきよいのかを教えるためである。これが、ツァラアトについてのおしえである。」

これが、ツァラアトについての教えです。このように教えられている理由は、どんなときに汚れているのか、きよいのかを教えるためでした。私たちの肉体が滅びるとき、果たして私たちは神のおられる天国に入れていただくことができるでしょうか。その時私たちはツァラアトに冒された者のように汚れているでしょうか、それとも、きよめられた者となっているでしょうか。主イエスを信じ、その十字架の血によって罪が贖われた者はきよめられています。天の御国に受け入れられますが、イエスを信じない人はツァラアトに冒されているので、「汚れている。汚れている。」と叫ばなければなりません。そのような人は天国に入ることはできず、また、カビが消えない衣服や家のように燃やされ、打ち壊されます。けれども、イエス・キリストの十字架の死と復活によって、私たちはきよめられた人は、栄光の御国に入れられるのです。

 私たちは、主が来られるその時まで、このキリストのうちにとどまり、きよさを全うしていきたいと思います。日々の歩みの中で犯した罪について、ツァラアトに冒された人と同じように主の前に出て行きましょう。また、心を探られることを恐れず、かえって主に調べてもらうように願いましょう。主は私たちの大祭司です。医者です。私たちを罪からきよめ、傷をいやすために来られたのです。