Ⅱテモテ1章1~7節 「神の賜物を燃え立たたせよ」

きょうから、第二テモテから学びたいと思います。この手紙は、パウロが書いた最後の手紙です。使徒の働き28章30節を見ると、パウロはローマで自費で借りた家に満二年間住み、たずねて来る人たちをみな迎えて、大胆に、少しも妨げられることなく、神の国を宣べ伝えることができましたが、その後彼は釈放されてスペインまで出かけて行きました。しかし、ローマに戻って来た彼は再び捕えられ、今度はローマの地下牢に入れられました。それは岩を掘ったような所で、全く陽の光が入らない劣悪な環境にありました。そこで彼は打ち首にされるのを待っていたのですが、そのような中にあって彼はエペソの教会で牧会していたテモテに手紙を書き送るのです。それはテモテが牧会で疲れ果て、弱っていたからです。教会には違った教えをしたり、果てしのない空想話や系図などに心が奪われている人たちがいました。また、テモテを見下げる高慢な者やことばの争いをする病気にかかっている人たちがいて、その対応にとても苦慮していたのです。そんなテモテを励ますためにパウロは、この手紙を書いたのです。

その内容については既に第一の手紙で見てきましたが、ここにはもっと力強い励ましがなされています。1章6節をご覧ください。ここには、「それですから、私はあなたに注意したいのです。私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。」とあります。先ほど申し上げたように、この時テモテはかなり不安と恐れがあり、おくびょうになっていました。それで彼は、神から与えられた賜物を用いないでいたのです。そこでパウロはテモテに注意を与えました。パウロが按手をもってテモテのうちに与えられた神の賜物をくすぶらせるようなことがないように、それを再び燃え立たせるように、と勧めたのです。なぜなら、神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊だからです。いったいどうしたら不安と恐れを克服し、神から与えられた賜物を燃え立たせることができるのでしょうか。きょうはこのことについて三つのことをお話したいと思います。

Ⅰ.いのちの約束が与えられている(1-2)

まず1節と2節をご覧ください。「 神のみこころにより、キリスト・イエスにあるいのちの約束によって、キリスト・イエスの使徒となったパウロから、 愛する子テモテへ。父なる神および私たちの主キリスト・イエスから、恵みとあわれみと平安がありますように。」

ここでパウロは、「神のみこころにより、キリスト・イエスにあるいのちの約束によって、キリスト・イエスの使徒となったパウロから、」と言っています。彼が使徒となったのは自分でそのようになろうと思ってなったのではなく、神のみこころによってであるというのです。すべては神のみこころによるのです。このことがわかっていれば不平不満や自己憐憫に陥ることはありません。テモテにとってエペソでの牧会は困難を極めるものでしたが、それもまた神のみこころによるのです。神のみこころによるということがわかれば、そうした困難も必ず乗り越えることができます。むしろ、感謝することさえできるのです。

また、パウロはここで、キリスト・イエスにあるいのちの約束によって、使徒となったと言っていますが、これはどういうことでしょうか。これは、キリスト・イエスにある永遠のいのちの約束によってということです。イエス・キリストを信じる者には永遠のいのちが約束されています。このことを信じているなら、いったい何を恐れる必要があるでしょうか。いったいなぜ私たちは目の前のことで右往左往するのでしょうか。それは、この地上のことがすべてだと思っているからです。でも天を見上げるなら、私たちに与えられている永遠のいのちの約束のゆえに、この地上のすべての困難に勝利することができるのです。

Ⅱコリント4章16節から18節を開いてください。ここには、「16 ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。17 今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。18 私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」とあります。パウロはここで、「今の時の軽い患難は」と言っています。本当は軽くなどありませんでした。かなりヘビーだったはずです。それなのに今の時の患難を軽い患難と言えたのは、やがてもたらされる永遠の栄光がどれほど重いものであるかを知っていたからです。救い主イエス・キリストを信じる者には、この重い永遠の栄光が約束されているのです。それは人の手によらない天にある永遠の家です。確かに今、この地上にあって肉体の中にいる間は、様々な重荷を負ってうめいていますが、やがてこの肉体が滅びる時がやって来ます。その時イエス・キリストにある者は、天にある永遠の家に入るのです。

パウロはこれを額面通り受け入れていました。ですから、どんなことがあろうとも動じることがなかったのです。四方八方から苦しめられても、窮することがなく、途方に暮れても、行きづまることがなく、迫害されても、見捨てられることなく、倒されても、滅びませんでした。なぜでしょうか?死んでも生きるいのち、永遠のいのちが与えられるということを信じていたからです。

皆さん、イエス・キリストを信じ、キリストの中にある者は、死んでも生きるということを知っていますか。クリスチャンは、確かに肉体は滅びますがその霊は決して死ぬことはありません。クリスチャンにとって死は引っ越しをするようなものです。この地上から天国への引っ越しです。そこはこの地上よりもはるかにすばらしい所です。以前ハワイのマウイ島に行った時、「ああ、こんなところに引っ越して来られたらなぁ」と思いましたが、天国はハワイどころではないのです。それとは比較にならない、もっとすばらしい所です。それは天にある永遠の御国です。そこでやがてキリストが再臨される時、朽ちることがない霊のからだをいただき、永遠に主を賛美し、主をほめたたえることができるのです。この肉体は疲れたり、病気になったり、罪を犯したりと、本当に不完全でうめき苦しむことが多いですが、やがて与えられるからだは朽ちることのない、完全なからだです。それをいただくのです。だから、クリスチャンにとって死は楽しみで、楽しみで仕方ないのです。勿論、この地上の家族との一時的な別れの寂しさはありますが、やがて天で再会できるということがわかっているので、その悲しみも乗り越えることができるのです。クリスチャンにとって死は、栄光の天国への入り口にすぎません。この地上での最後の一息は、天国での最初の一息につながるのです。この地上で最後に息をつく時、その直後に息をするのは天国です。この地上で最後に目を閉じた時、次の瞬間に目を開けて見るのはイエス様の御顔なのです。そこはもうパラダイスです。だから、早く天国に行きたいと思うのは自然のことなのです。パウロが、むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています、という気持ちがよくわかります。このいのちの約束がすべてのクリスチャンに与えられているのです。

いったいなぜ私たちはこの世のことにそんなに執着しているのでしょうか。もっといい生活がしたい、もっとリッチで、もっと楽で、もっと快適な、何一つ不自由のない生活がしたい。より健康で、より美しく、より楽しい生活がしたい。勿論、そう思って悪いわけではありませんが、でもそれに執着しすぎると、あまり捕らわれすぎると、いたずらにそこに時間とお金と労力を空費してしまうことになります。しかし、私たちはこの世のいのちだけではなく、永遠のいのちが与えられているということを知るなら、もはやそうした生き様にこだわる必要はありません。この時パウロはローマの地下牢に閉じ込められていましたが、たとえそのような劣悪な環境に置かれていても、心から主に感謝することができました。それは永遠のいのちの約束を信じていたからです。すべては神のみこころであり、生きるも死ぬもすべては神の御手の中にあります。そして、死んでも生きるいのちが与えられているということを知れば、それもまた益であると神にゆだねることができるのです。生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。だからクリスチャンは何も悩む必要がないのです。この世に生かされていること自体が感謝であり、死んでもハレルヤです。だって天国に行くことがわかっているのですから。パウロはこのことをテモテに伝えようとしたのです。

Ⅱ.夜昼、祈られている(3-4)

第二のことは祈りです。3節と4節をご覧ください。「 私は、夜昼、祈りの中であなたのことを絶えず思い起こしては、先祖以来きよい良心をもって仕えている神に感謝しています。 私は、あなたの涙を覚えているので、あなたに会って、喜びに満たされたいと願っています。」

パウロは、夜昼と、テモテのことを絶えず思い起こして祈っていました。日が入らない地下牢ですから、いつ夜で、いつ昼なのかわからなかったかもしれませんが、とにかく、彼はテモテのためにいつも祈っていました。クリスチャンにとって何が励ましになると言って、とりなしの祈り以上の励ましはありません。パウロは、テモテの性格も、また置かれた状況もよく知っていたので、おきまりの祈りではなく、神の助けを求めて、心から祈ることができました。たとえ牢獄にいても、たとえ鎖につながれていても、祈ることはできました。このようなパウロの個人的な祈りは、しかも、夜昼と24時間、いつも思い出して祈る祈りは、テモテにとってどれほど大きな励ましであったことでしょう。

今はもう天国に行きましたが、1979年に家内が来日した時、家内を遣わした時にアメリカの教会の牧師だったキースター先生は、いつも私たちのことを覚えて祈っていました。キースター先生が退職して数年後のことですが、ヨセミテの近くにあるオーカーストという町がありますが、その町に住んでいたキースター先生の家を訪ねたことがありました。その時、キースター先生はボロボロになった1枚の用紙を持って来て、「この祈りの課題で答えられたことがありますか。他に祈ることがありますか。」と言いました。それは家内がその数年前に作った祈りのリクエストでした。キースター先生はその紙に書かれて祈りのリクエストを見て朝晩と祈ってくれていたのです。どれだけ祈られていたかは、そのボロボロになった1枚の紙が物語っていました。それまで私は、自分が頑張って伝道していると思っていましたが、それを見た時、そうじゃないということに気付かされました。そうではなく、こうした祈りに支えられて、一つ一つの神のみわざがなされたんだと思い、本当に慰められました。

しかし、私たちが忘れてはならないことは、あのパウロよりももっと偉大なイエス・キリストが、私たちのために祈っていてくださるということです。ローマ人への手紙8章34節を開いてください。ここには、「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしてくださるのです。」とあります。イエス・キリストは、神の右の座に着いて、あなたのためにとりなしておられるのです。

またヘブル人への手紙7章24節と25節も開きたいと思います。ここには、「しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。25 したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」とあります。祭司とは、私たちに代わって神にとりなしをする人ですが、キリストは永遠に存在しておられる祭司として、今も生きて、私たちのために、とりなしてしておられるのです。

4節には、「あなたの涙を覚えているので」とあります。皆さん、イエス様はあなたの涙を覚えているのです。パウロがテモテのことをよく知っていたように、いやそれ以上にあなたのことをよく知っておられるイエス様が、あなたの涙を覚えて祈っていてくださるのです。

古代キリスト教の偉大な神学者にアウグスチヌスという人がいますが、彼は三十三歳で救われるまで、すさんだ生活をしていました。十代でアフリカに渡りマニ教という異端にはまると、二十歳にならないうちに同棲して子供が生まれました。それで心を痛めていたのはクリスチャンの母モニカです。彼女は息子のためにずっと祈りました。祈って、祈って、祈ったのです。そんなモニカを支えたのは、当時ミラノの司教だったアンブロシウスという人でした。彼は教父でしたが、涙して祈るモニカの姿を見てこう言いました。「安心して行きなさい。涙の子は決して滅びることはない。」その結果、彼は悔い改めて回心したのです。彼は三十三歳の年の四月に洗礼を受けましたが、母モニカはその年の秋に召されたのです。けれども、その母の祈りがあったからこそ、古代教会最大の聖徒、アウグスチヌスが誕生したのです。このときのことを振り返って、アウグスチヌスはその著「告白」の中でこう言っています。「母は涙を流して、夜も昼も私のために神に犠牲を捧げた。大地を濡らした、あふれるような母の涙は、私が洗礼を受けて濡れた時に、ようやく乾いたのだ。」

イエス・キリストは、あなたの涙を覚えておられます。あなたのことを十分知ったうえで、あなたのために今も祈っておられるのです。これほど大きな励ましはありません。「友よ歌おう」という賛美集の中に、「忘れないで」という歌があります。

「忘れないで いつもイエスさまは 君のことを みつめている
だからいつも 絶やさないで 胸の中の ほほえみを

だけどいつか 激しい嵐が 君のほほえみ 吹き消すでしょう
だからいつも 離さないで 胸の中の みことばを

忘れないで 悲しみの夜は 希望の朝に かわることを
だからすぐに とりもどして いつものきみの ほほえみを

どうかイエス様があなたのために祈っておられることを忘れないでください。そうすれば、あなたは勇気と力を受けて、どんな激しい嵐が襲ってきてもそれを乗り越え、心に喜びと平安を受けることができます。あなたがイエス様のみことばを離さないなら、悲しみの夜は希望の明日に変わるのです。

Ⅲ.純粋な信仰が与えられている(5-7)

第三のことは、純粋な信仰が与えられていることを思い起こすということです。5節をご覧ください。「私はあなたの純粋な信仰を思い起こしています。そのような信仰は、最初あなたの祖母ロイスと、あなたの母ユニケのうちに宿ったものですが、それがあなたのうちにも宿っていることを、私は確信しています。」

ここでパウロはテモテの信仰を思い起こしています。なぜパウロはテモテもの信仰を思い起こしているのでしょうか。なぜなら、その後の6節のところに「私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください」とあるように、彼の信仰を思い起こすことによって、彼に与えられた神の賜物を、再び燃え立たせるよう励ましたかったからです。そしてパウロはテモテの信仰を、「純粋な信仰」と言いました。この「純粋な信仰」は、Ⅰテモテ1章5節では「偽りのない信仰」と訳されています。テモテに与えられた信仰は偽りのない信仰、純粋な信仰、本物の信仰でした。だから、あなたはこの信仰に立たなければなりません。なぜなら、この信仰があなたの難儀を乗り越えさせてくれるからです。「初心忘れべからず」ということわざがありますが、私たちは信仰に歩む中で様々なおひれがついてしまい、いつしかこの純粋な信仰から離れてしまうことがあります。そして、ああでもない、こうでもないと不満の渦の中に埋没してしまうことがあるのです。純粋な信仰が、いつしか不純な信仰に陥ってしまうのです。しかし、純粋な信仰に立つなら、神に与えられた賜物を、再び燃え立たせることができます。周りの様々な声に振り回されるのではなく、ただ主から与えられた純粋な信仰に堅く立たなければならないのです。

ところで、そのようなテモテの純粋な信仰はどのようにして与えられたのでしょうか。ここには、「そのような信仰は、最初あなたの祖母ロイスと、あなたの母ユニケのうちに宿ったものですが、それがあなたのうちにも宿っている」とあります。そう、それは祖母ロイスと母ユニケのうちに宿っていたものですが、その信仰をテモテが継承したのです。おそらく、彼らはパウロが第一伝道旅行でルステラを訪問したとき、パウロが語った福音を聞いて信仰を持ったのでしょう。その信仰によって一家がしっかりと養われていたのです。それでパウロが第二回目にルステラを訪問したときに、テモテをその働きに加えました。テモテの母ユニケはユダヤ人でしたが、父はギリシャ人で異教徒でした。そのような中でもキリストの福音を大切にして生きていたのです。ロイスとは「感じのいい人」という意味で、ユニケとは「良い勝利」という意味です。テモテの家庭はイエス・キリストの福音によって感じのいい、良い勝利がもたらされた家庭でした。そこからこうした純粋な信仰が育まれていったのです。

こうしてみると、信仰の継承がいかに大切であるかがわかります。テモテのように純粋な信仰が育まれるために、家庭における信仰の在り方というものをもう一度見つめなおす必要があるのではないでしょうか。そして、こうした純粋な信仰が与えられているのですから、そこに立ち続けなければなりません。そうすれば、状況に振り回されることなく、神の助けと力を受けて立ち上がることができるのです。

6節をご覧ください。パウロはここで、「それですから、私はあなたに注意したいのです。」と言っています。「それですから」というのは、1節からの内容を受けてのことです。つまり、テモテにはイエス・キリストにある永遠のいのちが約束されているのですから、また、夜昼と祈られているのですから、そして、純粋な信仰が与えられているのですからということです。だから、神の賜物を、再び、燃え立たせなければなりません。再び、燃え立たせるということは、以前は燃えていたが、今は冷え切っていたということです。なぜ冷え切ってしまったのでしょうか。このことを忘れていたからです。そして、いつの間にか人間的になっていました。神の知恵、神の考えではなく、人間の考え、人間の思いで、人間の力で牧会を展開しようとしていたのです。これではどんなにキャベジンを飲んでも問題を解決することはできません。問題の真の解決はただ神によってもたらされるからです。神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。7節をご一緒に読みましょう。この神の霊によって、私たちは神の賜物を、燃え立たせ、大胆に、力強く、働くことができるのです。

あなたが恐れていることは何でしょうか。私たちにはいろいろな恐れがあります。仕事を失ったらどうしよう、健康を損なったらどうしよう、人間関係が壊れたらどうしよう、お金が無くなったらどうしよう、自分の評判が悪くなったらどうしよう、学校の単位を落としたらどうしよう、試験に落ちたらどうしよう・・・、本当にいろいろな恐れがあります。でも、こうした恐れは神から与えられた賜物を冷え切らせてしまうことになります。あなたが恐れなければならないのは、あなたのたましいをゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方です。この方を恐れなければなりません。そして、この方を恐れているなら、この地上の何をも恐れることはありません。パウロはローマ皇帝ネロを前にしても恐れませんでした。なぜなら、神が与えてくださったものを知っていたからです。それは、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。慎みというのは自制心という意味ですが、冷静な判断力のことです。ここでパウロは「神が私たちに与えてくださったものは」と言っています。私たちにというのは、パウロ自身も含めてのことです。パウロは、こうしたものが与えられているので、恐れなかったのです。

それは私たちにも言えることです。私たちにもこの力と愛と慎みとの霊が与えられています。だから、何も恐れる必要はありません。むしろ、上からの力を求め、ますます愛の炎が燃え上がるように祈りましょう。そして、そのすべての行動が冷静な知恵によって吟味しながら、神によって与えられた賜物を燃え立たせていきたいと思います。それが殉教を目の前にしたパウロが、どうしても伝えたかったことだったのです。