Ⅱテモテ2章20~26節 「尊いことに用いられる器」

きょうは、「尊いことに用いられる器」というタイトルでお話します。2章の前半の所でパウロは、エペソの教会で牧会していたテモテを励ますために、キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい、と勧めました。また、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえられたイエス・キリストを、いつも思っていなさい、とも勧めました。なぜなら、テモテの問題がどのようなものであれ、すべての解決の鍵はイエス・キリストにあるからです。キリストがどのような方であるのかを思い出すなら、どのような苦しみの中にあったとしても、必ずそれに耐えることができるからです。

そしてパウロは先週のところで、何の益にもならず、聞いている人々を滅ぼすことになるような、ことばについての論争などしないように、神の御前で厳しく命じるようにと言いました。そうした論争は人を建て上げるどころか、人を滅ぼすことになるからです。実際にエペソの教会にはそういう人たちがいました。ヒメナオとかピレトといった人たちです。彼らの話は癌のように広がっていました。癌がからだ全体を蝕んで滅ぼしてしまうように、そうした話はキリストのからだである教会を蝕んでいくことになるのです。

それにもかかわらず、神の不動の礎は堅く置かれています。神の不動の礎とは教会のことでした。たとえ神の教会にそういう話が起こっても、神の教会は決して揺り動かされることはありません。なぜなら、教会は神のものであり、神はご自身に属する者を知っておられるからです。そうした人たちは不義から離れます。だから教会はいろいろな問題や攻撃に遭うことがありますが、決して揺らぐことはないのです。決して揺らぐことがない神のことばの上に堅く立っているからです。教会は、神の不動の礎なのです。であれば、私たちはどうあるべきなのでしょうか。それがきょうのテーマです。であれば私たちは、そうした不義から離れなければなりません。そして、神に用いられる器にならなければなりません。いったいどうしたらそのような器になることができるのでしょうか。

Ⅰ.尊いことに用いられる器(20-21)

まず20節と21節をご覧ください。

「大きな家には、金や銀の器だけでなく、木や土の器もあります。また、ある物は尊いことに、ある物は卑しいことに用います。ですから、だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。」

「大きな家」とは何でしょうか。それは教会のことです。大きな家には金や銀の器だけでなく、木や土の器など、あらゆる種類の器があるように、教会にもいろいろな器があります。いろいろな人たちがいるのです。また、尊いことのために用いられる器もあれば、卑しいことのために用いられる器もあります。たとえば、金や銀でできた高価な器は食べる時に使われるだけでなく、装飾品としても用いられます。それは高価なものだからです。食器という領域を超えているわけです。もちろん、食器としても使われますが、そうした飾り物としても使われるのです。

それとは違ってごみ箱とか残飯入れは卑しいことのために用いられます。だから大抵の場合は外のベランダとか、台所の隅の目立たないところに置かれるのです。家の中にはいろいろな器がありますが、ある物は尊いことのために、またある物は卑しいことに用いられるのです。それと同じように、教会にもあらゆる器がありますが、すべてが同じように用いられるかというとそうではなく、あるものは尊いことのために用いられ、ある物は卑しいことのために用いられるのです。

では、それを分ける基準は何でしょうか。どのような人が尊いことのために用いられ、どのような人が卑しいことのために用いられるのでしょうか。それはその人がどれだけ賜物や能力を持っているかということとは関係ありません。また、その人がどのような奉仕をしているかということとも関係ないのです。それは、その人がどれだけ汚れから離れて、自分自身をきよめるかということによって決まります。21節をご覧ください。ここには、「だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。」とあります。

皆さん、想像してみてください。たとえば、ここにとても高価なワイングラスがあるとしましょう。しかし、それがどんなに高価なグラスであっても、そのグラスの底にカビが生えていたらどうでしょう。それでも飲めるという人は少ないのではないでしょうか。また、どんなに豪華な器でも、ごみがいっぱい溜まっているとした使うことができません。使うためにはその器が汚れていないことが必要なのです。きれいでなければなりません。それが第一の条件です。ましてお客さんに出す時などはなおさらのことです。それは神の働き人であるクリスチャンも同じです。どんなに賜物があっても、どんな能力が高くても、聖くなければ神に用いられることはできません。神に用いられる尊い器とは、自分自身をきよめて、これらのことから離れなければならないのです。

「これらのこと」とは何でしょうか。その前にヒメナオとかピレトといった人たちのことが書かれてありました。彼らは真理からはずれてしまい、ある人々の信仰をくつがえすような、それを聞いている人たちを滅ぼすようなことを教えていました。すなわち、人々を建て上げるのではなく滅ぼすようなこと、人々が信仰から離れて不敬虔に深入りして、真理から離れていくようなことのことです。そうしたことは器を汚すことです。そうした不義から離れるなら、あなたは尊いことのために用いられる器になれるのです。

そのことを預言者イザヤはこう述べています。イザヤ書52章11節です。「去れよ。去れよ。そこを出よ。汚れたものに触れてはならない。その中から出て、身をきよめよ。の器をになう者たち。」神の民であったイスラエルは、神の一方的な恵みによって救われました。彼らは義の衣という美しい衣を着せていただいたのです。そんな彼らに求められていたことはどんなことかというと、汚れから去ることだったのです。それが「去れよ。去れよ。そこを出よ。」という呼びかけでした。あなたはバビロンから救われて美しい衣を着せられたのだから、そのちりを払い落とし、かせをふりほどかなければなりません。そして、そこを出て、汚れたものに触れてはならない。その中から出て、身をきよめなければなりません。それが主の器をになう者たちなのです。

箴言25章4節にも、同じようなことが記されてあります。「銀から、かなかすを除け。そうすれば、練られて良い器ができる。」かなかすとは不純物のことです。どうしたら良い器ができるのでしょうか。かなかす、不純物を除くことです。そうすれば、寝られて良い器ができるのです。では、かなかすを取り除くとはどういうことでしょうか。

Ⅱ.きよい器になるために(22)

22節をご覧ください。

「それで、あなたは、若い時の情欲を避け、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。」

パウロはここで、神に用いられるきよい器になるために、避けなければならないことと追い求めるべきことを教えています。まず避けなければならないことは何でしょうか。若い時の情欲です。若い時の情欲とは肉体的な欲望のことだけでなく、それをはるかに越えた汚れの全般を含みます。バークレーはその注解書でこう言っています。

それは、性急であるという意味も含んでいる。すなわち、徐々に速度を速めることを知らず、あまり急ぐと、益よりもむしろ害になることに気づかないことである。 次に、自己中心を含んでいる。すなわち、自分の意見を抑えることができないことと、その表現が傲慢なことである。そして、自分以外の者の意見にもある優れた点を認め、共感し、理解することを知らぬことである。またさらに論争を好むことである。したがって議論が多く実行は少なくなる。夜を徹して語り明かしても、ただ未解決の問題をまき散らすだけである。また新しがり家である。ただ古いという理由だけである物を批判し、反面、ただ新しいとの理由だけである物を熱望する。体験の価値を低く評価し、昔の人々が信じてきたことに旧式の烙印を押す。」

若い時にはこうした感情に支配されやいものです。しかし、それは若い時だけに限りません。いくつになっても同じです。そうした汚れを避けなければなりません。いったいどのようにして若い人はそれを避けることができるのでしょうか。

詩篇119篇9節~11節には、こうあります。

「どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたのことばに従ってそれを守ることです。私は心を尽くしてあなたを尋ね求めています。どうか私が、あなたの仰せから迷い出ないようにしてください。
あなたに罪を犯さないため、私は、あなたのことばを心にたくわえました。
よ。あなたは、ほむべき方。あなたのおきてを私に教えてください。私は、このくちびるで、あなたの御口の決めたことをことごとく語り告げます。私は、あなたのさとしの道を、どんな宝よりも、楽しんでいます。」

どのようにして若い人は自分の道をきよく保つことができるのでしょうか。ここで詩篇の作者は、それは神のことばに従ってそれを守ることだと言っています。神のことばを心に蓄え、神のことばに従ってそれを守ることです。神のことばが心に満ちることが大切だというのです。なぜでしょうか。人は心にあることを話し、心にあるように行動するからです。だからあなたの心が何で満たされているかということが重要なのです。あなたの心が神のことばで満たされているなら、そのような態度に変わっていくからです。

それからパウロはここで悪を避けるだけでなく、良いことを追い求めるようにと勧めています。その良いこととは何でしょうか。ここには4つのことが書かれています。それは義と信仰と愛と平和です。 まず義です。義と正しいということです。これはイエス・キリストを信じて罪から救われ、義と認められることではなく、義と認められたクリスチャンが追い求めなければならないことです。それは不正ではなく正義のことなのです。クリスチャンはいつも正義を求めなければなりません。

第二のことは、信仰です。信仰とは、神に信頼することです。神のみことばを聞いたら、神に信頼して、それに従わなければなりません。そうすることによって信仰が強められ、成長していくことができるからです。多くの場合、信仰が弱っている時というのは、神のことばをあまり聞いていない時です。あるいは聞いているようでも、実際には聞いていない場合がほとんどです。自分の思いや考えが優先して、神に従うことができないのです。

イエス様は種まきのたとえを語られました。ある人が種を蒔いたら、それぞれ道ばた、岩地、いばらの中、そして良い地に落ちました。道ばたに落ちた種はどうなったでしょうか。烏が来て食べてしまったので美を結ぶことができませんでした。岩地に蒔かれた種も、土がなかったのですぐに芽を出しましたが、日が上ると、焼けて、根がないため枯れてしまいました。いばらの中に蒔かれた種も、いばらが伸びて、ふさいでしまったので、実を結ぶことができませんでした。しかし、良い地に聞かれた種は、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びました。良い地に蒔かれた種、それはみことばを聞くと、それを悟り、そのみことばに従って生きる人のことです。神に信頼する人は、何倍もの実を結ぶのです。

次にクリスチャンが追い求めなければならないのは、愛です。愛とは何でしょうか。有名なⅠコリント13章にはこうあります。「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」(13:4-7)

私たちは、生まれながらにしてこのような性質を持っていません。これは神の愛、アガペーの愛であり、自己犠牲の愛、与える愛です。神はこの愛を、ご自身の御子を十字架につけて死なせることによって表してくださいました。ここに愛があるのです。だから教会には十字架があるのです。ローマ時代に処刑の道具だった十字架が、いったいなぜ教会に掲げられているのでしょうか。ここに愛があるからです。クリスチャンはこの神の愛を知り、この愛を受けました。でもそれで十分かというとそうではなく、今度はこの愛に生きる者でなければなりません。それはクリスチャンが生涯にわたって追い求めていかなければならないことなのです。

第四のことは、平和です。平和とは神との正しい関係によってもたらされたが、人との交わりにおいて保つべき一致であり、調和であり、ハーモニーのことです。神のことばを聞き、それに従って生きるなら、そこには必ず平和がもたらされます。そうでないと、そこには平和はなく、むしろ混乱や争いが生じるのです。

ピリピ4章8~9節を開いてください。ここにはこう書かれてあります。「最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。あなたがたが私から学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。どうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださるのでしょうか。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判のよいこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することに心を留めることによってです。ただ留めるだけでなく、それを実行しなければなりません。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。

あなたは尊いことに用いられる器になりたいでしょうか。神に用いられる器になりたいですか。もしそのように願っておられるのなら、悪を避け、このようなものに心を留めなければなりません。そしてそれを実行しなければなりません。そうすれば、平和の神がともにいてくださるのです。

しかし、ここにはもう一つ大切なことが教えられています。それは、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、ということです。クリスチャンはこれらのものを決して一人で追い求めるのではありません。きよい心で主を求める人たちとともに、追い求めるのです。それはキリストの共同体であり、神の家族である教会とともにという意味です。クリスチャンは一人になることを求め、自分の仲間から遠ざかってはいけません。その方が何の摩擦も生じないので楽かもしれませんが、聖書では「共に」ということが強調されているのです。その喜び、その力、支えを、その交わりの中に見出さなければなりません。

イギリスの伝道者であったジョン・ウェスレーはこう言いました。「人は友人を持っていなければならない。さもなければ作らなければならない。だれも独りでは天国に行けないからである。」これは含蓄のあることばではないでしょうか。「人」という漢字を見てもわかるように、人は互いに支え合って生きているわけです。独りで生きることはできません。それはクリスチャンの信仰生活も同じで、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなければならないのです。

Ⅲ.争いを避ける(23-26)

第三に、クリスチャンが尊いことのために用いられるために注意しなければならないもう一つのことは、争いを避けなさいということです。23節をご覧ください。ここには、「愚かで、無知な思弁を避けなさい。それが争いのもとであることは、あなたがたが知っているとおりです。」とあります。「愚かな思弁」とは、中身のないただ単なる観念的な話のことですが、このような話からは論争しか生れず、何の益にもたらされません。それはただ聞いている人々を滅ぼすだけなのです。エペソの教会には、このような話が癌のように広がっていました。しかし、主のしもべが争ってはいけません。主のしもべにとってふさわしい態度とは、すべての人に優しくし、よく教え、よく忍び、反対する人たちを柔和な心で訓戒することです。

第一に、すべての人に優しくしなければなりません。争うのではなく、優しくすることがクリスチャンの取るべき態度です。大抵の場合、言い争っている時はお互いに感情的になっているので、そのような状態からは良い結果は生まれてきません。でも優しくし、穏やかな態度で、穏やかなことばで接すると、相手の気持ちも穏やかになり、場合によっては、相手に聞く耳を持たせる場合もあります。

箴言15章1節には、「柔らかな答えは憤りを静める。しかし激しいことばは怒りを引き起こす。」とあります。売り言葉に買い言葉ではなく、たとえ相手が感情的になっても、穏やかな態度で、柔らかなことばで返すなら、相手の憤りを静めることもあるのです。ですから、争うのではなく、むしろ、すべての人に対して優しくしましょう。私たちが目指しているのは、そういう教会です。

次に、よく教えることです。言い争うのではなく、みことばからよく教え、よく学ぶのです。真理とは何なのか、神の御心は何か、何が良いことで神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなければなりません。それは時間がかかるように見えるかもしれませんが、確かな道に歩むための、いちばん確実で、一番近い道なのです。

そして次は、よく忍びです。よく忍耐することです。特に、自分につらく当たる人には忍耐が必要です。これは口で言うのは簡単ですが、実際の場面では本当に難しいことです。攻撃する人には仕返しをしたくなるからです。それが人間の自然な姿です。けれども神の子どもとされたクリスチャンは、「自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め」ではなく、自分の敵を愛し、迫害する者のために祈らなければなりません。

もう一つのことは、反対する人たちを柔和な心で訓戒しなさい、ということです。訓戒するというのは正すということです。しかし怒って正すのではなく、柔和な心で正さなければなりません。上から目線でではなく、柔和な心で、謙遜な心で正さなければなりません。そうすれば、氷のような冷たく堅く閉ざされた心も、キリストの愛の温かさで溶かされることでしょう。

なぜ、主のしもべはこのような態度を取らなければならないのでしょうか。25節の後半をご覧ください。ここにはこうあります。「もしかすると、神は彼らに悔い改めの心を与えて真理を悟らせてくださるでしょう。」そして26節にも、「それで、悪魔に捕えられて思うままにされている人々でも、目ざめてそのわなをのがれることがあるでしょう。」とあります。つまり、その人が生きている間に救いに導かれるかもしれないからた゜というのです。「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。」(Ⅰテモテ2:4)だから、私たちもできるだけ忍耐し、神のみこころにかなった態度をとるようにと努めなければならないのです。

パウロは2章10節で、「ですから、私は選ばれた人たちのために、すべてのことを耐え忍びます。」と言いました。救われるようにと神に選ばれている人たちがいるのです。その人たちが救われるために、パウロが耐え忍びました。それは私たちも同じです。だれが救いに選ばれているかがわからないので、でも、確かにそのような人たちがいるのですから、その人たちがキリストにある救いにあずかり、とこしえの栄光を受けるようになるために忍耐しなければならないのです。すべての人に優しくし、よく教え、よく忍び、反対する人たちを柔和な心で訓戒するのです。悔い改めの心を与えてくださるのは神ですが、その悔い改めの心に導くのは神のしもべである私たちクリスチャンの働きなのです。このような人こそ、神に用いられる器です。神に用いられる器は、それがどれほど高価で、華やかであるかということとではなく、それがどれだけきれいであるかにかかっています。自分自身をきよめて、不義から離れるなら、その人は尊いことに用いられる器になるのです。

あなたは神に用いられる器でしょうか。あなたが避けるべきことは何ですか。また、あなたが追い求めるものは何でしょうか。主人であるキリストにとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるために、まず器を整えることから始めていきたいと思います。