Ⅱペテロ3章14~18節 「キリストの恵みと知識において成長しなさい」

これまでペテロの手紙から学んできましたが、きょうはその最後の勧めとなります。ペテロはこの手紙の最初のところで、私たちの主イエスを知ることによって、恵みと平安がますます豊かにされると言いました。また、主イエスの、神としての御力は、いのちと平安に関するすべてのことを私たちに与えてくれると言いましたが、終わりのところでもそのことを繰り返して語り、この手紙を閉じます。それは、私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい、ということです。

 

Ⅰ.しみも傷もない者として御前に出られるように(14-16)

 

まず14節から16節までをご覧ください。14節をお読みします。

「ですから、愛する者たち。これらのことを待ち望んでいるのなら、しみも傷もない者として平安のうちに神に見出していただけるように努力しなさい。」

 

「ですから」とは、この前のところで勧められてきたことを受けてのことです。ペテロはこの前のところでどんなことを勧めてきたのでしょうか。彼は、主の日、すなわち終わりの日にどんなことが起こるのかを述べました。10節では、主の日は、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます、とあります。しかし13節、神はそれに代わる新しい天と新しい地を用意しておられます。それは正義の住む新しい天と地です。そこは神ご身がともに住んでおられるところで、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださいます。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもありません。以前のものが、もはや過ぎ去ったからです。イエス・キリストの血によって罪赦され、義と認められた人はみな、この新しい天と新しい地に住むようになるのです。私たちは、神の約束に従って、この正義の住む新しい天と新しい地に住むようになるのです。私たちは今これを待ち望んでいます。「ですから」です。つまり、ここでペテロは、どのような態度で主の来臨を待ち望むべきなのかを教えているのです。

 

そのふさわしい態度としての第一のことは、「しみも傷もない者として平安のうちに神に見出していただけるように努力しなさい」ということです。

「しみ」とは、汚れがないこと、聖いということです。また、「傷」とは、非難されるところがないという意味です。きよい生活を追い求めることは主の再臨を待ち望むクリスチャンにとってふさわしい態度です。この言葉は2章13節でも使われていました。そこでは偽教師たちに対して、彼らはしみや傷のような者だと言われていました。彼らは貪欲であり、好色であり、高ぶっていました。大きなことを言って誇るのです。神の前に汚れたことを平気で言っていたばかりか、そのようなことをして神の民を惑わし、破滅に導いていました。しかし、イエス・キリストを信じて新しく生まれたのであれば、イエス様がいつ戻って来てもいいように備えていなければなりません。どのように備えたらいいのでしょうか。「わたしが聖であるから、あなたがたも聖でなければならない」とあるように、私たちを召してくださった聖なる方にならって、私たちも、あらゆる行いにおいて聖なる者でなければなりません。

 

ではそのためにどうしたらいいのでしょうか。ペテロは第一の手紙2章1,2節でこのように勧めました。

「ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」

そのためにはまず捨てなければならないものがありました。何ですか?すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口です。そして、純粋なみことばの乳を慕い求めなければなりません。それによって成長し、救いを得るためです。そうすれば、キリストのような聖い人に変えられていきます。

 

クリスチャンは、そのようにしみや傷のない者として御前に出られるように励まなければなりません。旧約聖書には神に受け入れられるいけにえについて記されてありますが、それはしみや傷のないものでした。同じように、私たちも神へのささげとしてしみや傷のないものでなければなりません。これこそ深い平安をもって御前に出られる秘訣なのです。

 

どのようにしてキリストの来臨を待ち望んだらいいのでしょうか。第二のことは、主の忍耐は救いであると考えることです。15節の前半のところに、「また、私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい」とあります。どういうことでしょうか。このことについては、すでに3章前半のところで述べました。主の再臨の約束を聞いても、ある人たちはなかなか信じられませんでした。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」(3:4)と言ってあざける者たちがいたのです。しかし、彼らは見落としていました。当時の世界が水によって、洪水に覆われて滅びたように、いつまでも同じままであるということはありません。主の御前では一日は千年のようであり、千年は一日のようです。時間的な感覚が全く違うだけです。私たちも小さい頃は一日が長く感じられましたが、年をとればとるほど、一日があっという間に過ぎ去って行きます。ですから、主は、ある人たちが遅いと思っているように、その約束のことを遅らせているのではありません。それは、ひとりも滅びることがないように、すべての人が救われて真理を知るようになるために、主が忍耐しておられるからなのです。ペテロはそのことをここで繰り返して語っているのです。

 

考えてみると、私たちも救われるまでには随分時間がかかったのではないでしょうか。すぐに信じたという人もいるでしょうが、中にはかなり葛藤しながら、激しい抵抗を繰り返して、やっと信じることができたという人もいます。いろいろなパターンがあります。それでも主は私たちが救われるために忍耐してくださいました。私たちが悔い改めて、主に立ち返ることができるように忍耐して待っていてくださいました。だから私たちは救われて、今こうして主を賛美し礼拝することができるのです。もし10を数えるまで決断しなければ救われないと言われたら、信じられなかったかもしれません。私たちが救われたのは主のあわれみと忍耐によるのです。このことを覚えておくようにというのです。なぜなら、このことを覚えることで、私たちも主と同じ思いを持つことができるからです。すなわち、主がまだ再臨しておられないのは忍耐しておられるからであって、主はひとりも滅びることを願わず、すべての人が救われて真理を知るようになることを願っておられるのです。このように主の忍耐は人々の救いのためであることを覚え、私たちも忍耐をもって福音宣教に励まなければなりません。

 

15節の後半と16節をご覧ください。この主の再臨を確証するものとしてペテロは、パウロの手紙を示し、パウロもこのことを語っていると述べています。「このこと」とは何でしょうか。主の再臨のことです。今ペテロが書き送っている人たちはポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤ、ビデニヤといった小アジヤ地方の教会の人たちですが、ここはかつてパウロが伝道した地でもありました。主が再臨するということはそのパウロも語っていたことであり正しい教えなのです。それなのに、中には聖書の教えを曲解して、自分自身に滅びを招くような人たちがいました。どういう人たちですか。16節には「無知な、心の定まらない人たち」とあります。「無知」とは、聖書の知識が無い人のことで、「心の定まらない人」とは、知識はあっても心の迷いやすい人、霊的に不安定な人のことを指しています。彼らは聖書の文脈を無視して、自分たちに都合がいいように解釈していました。ペテロはここで、「その中には理解しにくいところがあります」と言っています。聖書の中には確かに理解しにくいところもあります。たとえば、前回お話しした携挙の教えなどはそうでしょう。イエス様が来臨される時、イエス様を信じている人は死んだ人も生きている人も一挙に引き上げられ、空中で主と会うようになるという約束です。これはなかなか信じにくいことです。しかし、聖書はそのように約束しておられます。なぜなら、「神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。」(Ⅰテサロニケ5:9)

これが神の約束です。現実的には考えられないことですが、神はこのように約束してくださいました。それなのに彼らはそんなことが起こるはずがないと言って否定し、自分自身に滅びを招くようなことをしていたのです。

 

また、パウロが神の恵みと、信仰による義を強調するために、「罪が増し加わるところに、恵みがあふれる」(ローマ5:20-21)と言いましたが、彼らはその言葉も曲解して、「ああ、パウロはもっと罪を犯すべきだと言っている」と非難したり、「何をしても許されるんだからもっと罪を犯してもいいんだ」と、それを口実にして好きな勝手なことをしいる者たちもいました。とんでもないことです。

 

確かに聖書は理解しにくいところはありますが、そうした箇所を曲解して、自分自身に滅びを招くようなことがないように注意すべきです。このようにして主を待ち望まなければなりません。

 

Ⅱ.自分自身の堅実さを失わないように(17)

 

第二のことは、自分自身の堅実さを失わないように、よく気をつけなさいということです。17節をご覧ください。

「ですから。愛する者たち。あなたがたは前もってわかっているのですから、不道徳な者たちの惑わしに誘い込まれて、自分自身の堅実さを失わないよう、よく気をつけなさい。」

ペテロはここで、こうした不道徳な者たちの惑わしに誘い込まれて、自分自身の堅実さを失うことがないようによく気をつけなさいと、警告しています。自分自身の堅実さを失わないようにとはどういうことでしょうか。ペテロはここで、救いを失わないようにと言っているのではありません。本当に救われたのであれば救いを失うことはありません。ヨハネの福音書10章28節には次のようにあります。

「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。」

ですから、イエス様を信じて永遠のいのちを与えられた者は、決してそれを失うことはないのです。では堅実さを失うことがないようにとはどういうことでしょうか。それは、信仰に堅く立たなくなってしまうことがないようにということです。悪い曲がった教えを聞くとだんだんそうなってしまいます。ちょうど私たちの健康と同じです。いつもジャンクフードばかり食べていると体は維持しているようでも、体の中は確実に蝕まれていきます。不健康になって体全体が弱くなってしまうのです。それは霊的にも言えることで、曲がった教えを聞き続けていると、やがて不健康になっていきます。主を求めているようでも的がはずれていたり、信仰が弱くなってしまうことがあるのです。自分では主に従っているようでも実際には自分のため、自分の欲望に従って生きているということがあるのです。信仰が形骸化し、救いの確信を失ってしまうこともあります。罪が赦されているということさえ忘れてしまう。救われているはずなのに、救われていないような生き方をしていることがあるのです。

 

だからペテロは偽預言者に気をつけるようにと警告したのです。私たちが人に惑わされないために何が必要でしょうか。真理のことばである神のみことばを聞き、そこにしっかりと立ち続けることです。神のことばが私たちを救い、私たちを成長させます。だから神のことばにしっかりととどまり続けなければなりません。神のことばにとどまることによって、聖なる生き方をする敬虔な人になることができるからです。いつ主が戻って来てもいいように、平安のうちに御前に出ることができるのです。

 

Ⅲ.主イエスの恵みと知識において成長しなさい(18)

 

最後に、18節をご覧ください。

「私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。イエス・キリストに栄光が、今も永遠の日に至るまでもありますように。」

 

この手紙におけるペテロの最後の勧めは、「私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。」ということでした。これが、ペテロが伝えたかったメッセージです。彼はもうすぐこの世を去って主のみもとに行くことを知っていました。そんな彼が心配していたことは自分のことではなく、彼が去って行った後で教会の中に凶暴な狼が入り込み、人々を惑わすことでした。どうしたらそうした者たちに惑わされないで、信仰に堅く立ち続けることができるのでしょうか。それはイエス・キリストの恵みと知識において成長することによってです。

 

ペテロはまずイエス・キリストの恵みにおいて成長しなさいと言っています。恵みにおいて成長するとはどういうことでしょうか。恵みとは、受けるに値しない者がただ受けることです。神は恵み深い方ですから、すべてのものをただで私たちに与えてくださいました。何を与えてくださったでしょうか。

 

まず神は私たちすべての人に自然の恵みを与えてくださいました。神は良い人にも悪い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださいます。もし太陽が上らなかったらどうなるでしょうか。もし雨が降らなかったらどうなるでしょう。植物は成長せずやがて枯れてしまいます。それは植物だけでなく動物も、私たち人間にも言えることです。生きていくことさえできなくなります。いのちあるものはすべて自然の恵みを受けて生きているのであって、これがなかったら生きていくことはできません。

 

そればかりでなく、神は特別な恵みを与えてくださいました。それが救いの恵みです。罪のゆえに神にさばかれても仕方ないような私たちが、そのさばきを受けないようにとご自分の御子をこの世に遣わし、この方が十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられることによって、この方を信じる者はだれもさばかれることがないようにしてくださいました。これが聖書の言う救いです。私たちの人生にはいろいろな救いがありますね。金魚すくいからどじょうすくい、エビすくいやカニすくいまでいろいろあります。病気が癒されること、貧乏からの解放、人間関係のトラブルの解決など、本当にいろいろな問題がありますが、聖書のいう救いとは、それらすべての苦しみの根源である罪からの救いです。それは私たちが何かをしたからではありません。私たちがいい人だからでもないのです。真面目に生きたからでもないのです。神が私たちを愛し、私たちの罪のためにご自身の御子を遣わし、十字架にかかって死なれ、三日目によみがえってくださることによって、その救いの御業を成し遂げてくださいました。私たちはその神の御業を信じるだけで救われました。これが恵みです。私たちは罪の中に死んでいたのですから、自分では何もすることができません。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪の中に死んでいた私たちを、キリストともに生かしてくださいました。私たちが救われたのは恵みによるのです。

 

ですから、あなたが過去の罪を帳消しにするために何かをしなければならないということはありません。あなたの過去の罪が、いや過去の罪だけでなく現在の罪も、またこれから犯すであろう罪もすべて赦されるのは、神がしてくださったこの贖いの御業を信じることによってなのです。イエス・キリストをあなたの罪からの救い主として信じるなら、あなたは救われるのです。

 

これは恵みではないでしょうか。この神の恵みがすべての人に提供されています。

「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水が流れ出るようになります。」(ヨハネ7:37-38)

この救いはすべての人に提供されています。しかし、それはすべての人が自動的に救われるということではありません。クリスチャンホームに育ったから救われるとか、教会に行ったことがあるから救われるというのでもはないのです。教会と何らかの関係を持っていれば救われるというのでもありません。イエス・キリストを自分の罪からの救い主として信じる人だけが救われます。ですから、イエス様を救い主として信じた人はみな罪が赦されたのです。

 

しかし、神の恵みはこれだけではありません。神の恵みは、このように信じて救われた者が、霊的に成長していく上でももたらされます。救われるのは神の恵みによりますが、霊的に成長するのも神の恵みによるのです。それはちょうど畑の中に種が蒔かれるようなものです。畑の中に蒔かれた種は自然の恵みの中で成長していくように、私たちもキリストの中にいるなら霊的に成長し続け、多くの実を結ぶことができるのです。

 

イエス様はこのことをぶどうの木のたとえで説明してくださいました。ヨハネ15:4~5をご覧ください。

「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」

 

キリストを離れては何もすることができません。恵みを離れては成長することはできないのです。しかし、キリストにとどまるなら多くの実を結びます。この方は恵みとまことに満ちた方です。あなたが実を結ぶことができるようにと、神がこの方に接ぎ木してくださいました。ですから、この方から離れては実を結ぶことはできないのです。実を結ぶためにはこの方にとどまっていなければなりません。「私は信じます」と言ってもこの方から離れてしまうと、せっかく実を結ぶことができるように神が接ぎ木してくださったのに、実を結ぶことができなくなってしまいます。実を結ぶ方法はたった一つ、それはキリストにとどまっていることです。私はよく質問を受けることがあります。それは、「こんな私でも成長しますか」です。答えはYes!です。あなたがキリストにとどまるなら、キリストがあなたを成長させてくださるからです。

 

私たちがキリストを信じた時神の子とされ、神の性質が種となって与えられました。種は成長していきます。ですから、私たちもキリストにとどまるなら霊的に成長していきます。私たちの性質がキリストの性質に変えられていくのです。

 

私たち夫婦は、よく「似てますね」と言われることがあります。えっ、ウソでしょ。顔は似てないし、性格も行動も全然違います。私がうさぎなら家内は亀です。こんな二人ですからどう見ても似てるはずがないのですが、「似てますね」と言われることがあるのです。何が似ているのかなぁと冷静に考えてみてもやはり似てないのです。それでも似ているところがあるとしたら考え方ではないかと思います。いつも一緒にいて同じ価値観を共有し、同じ目標に向かって歩んでいるうちに、いつの間にか似た者同士になっていくのです。

これはイエス様との関係においても同じです。いつもキリストにとどまり、キリストと交わることで、キリストに似た者に造り変えられていくのです。これがクリスチャンの門表です。

 

そして霊的に成長していくと行いも少しずつ聖められていきます。悪から離れ、道徳的にきよくされ、謙遜にされていきます。神の恵みを知れば知るほど自分の罪深さを知るからです。それまでは自分ほどいい人はいないと思っていたのに、自分ほど謙遜な人はいないと高ぶっていたのに、神の恵みを知れば知るほど神の前にへりくだるようになり、他の人を自分よりもすぐれた者と思うようになります。その結果、人間関係も平和になっていきます。

 

さらに恵みによって忍耐力も身についていきます。キリストを知るまではすぐに怒っていました。自分の気に入らないことがあるとすぐに雷のように怒っていたのに、キリストを知れば知るほどだんだんキリストの性質に変えられていくので柔和になっていきます。試練が来てもそれを耐え忍ぶようになるのです。また恵みによって今まで許せなかった人も許すことができるようになるのです。

 

このように、キリストにとどまるなら霊的に成長し、キリストの性質へとだんだん変えられていきます。すべては神の恵みです。私たちは神の恵みによって救われ、恵みによって成長し、神の恵みによって変えられていくのです。

 

ペテロはこの神について何と言ったかを思い出してください。Ⅰペテロ5章10節で、彼はこう言いました。

「あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあって永遠の栄光の中に招いてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらの苦しみの後で回復させ、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。」

みなさん、神はどのような方ですか?神はあらゆる恵みに満ちた方です。すなわち、あなたがたをキリストにあって選び、その永遠の栄光の中に招き入れてくださった方です。その神が、しばらくの苦しみの後で回復させ、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。不動の者としてくださるというのは、霊的大人にしてくださるということです。神は私たちをどのように霊的大人にしてくださるのでしょうか。しばらくの苦しみを通った後です。試練を通してです。苦難を通され、その後で回復させられることによって、私たちの信仰が強くされていきます。その結果、信仰に堅く立つことができるようになるのです。試練が来ると揺らぎそうになりますが、自分がどこに属しているかがはっきりわかるので、もっと神に信頼するようになります。問題が起こらないと、私たちは自分でやれると思ってしまいます。でも問題が来ると自分ではどうしようもないということがわかるので、しっかりと信仰に立とうとします。試練は私たちを弱くするのではなく、逆に私たちを強くします。そして恵みによって不動の者としてくださいます。あらゆる恵みに満ちた神がそのようにしてくださいます。これが聖書の約束です。台風が来ると木がしっかりと根を張るように、私たちの人生に試練が来ると、しっかりとキリストに根を張ることができるようになるのです。

 

先日、中国からOさんのお母さんとお友達が来て一緒に食事をしました。その中で中国の教会の話題となったとき、最近の指導者の体制によって中国の家の教会が厳しい統制に敷かれますねと言うと、彼らは口をそろえて言いました。「いいえ、それは感謝なことです。そのような苦難が私たちの信仰を強くします。もし家の教会が分散しても、私たちはもっと神様に祈ります。そして、いつそうなってもいいように準備しています。」

まさにこのみことばを生きているのです。問題があるから不平不満を言うのではなく、その問題が自分たちを強めると信じて、神に感謝しているのです。同じ問題でも一方ではつぶやき、一方では感謝する。この違いはどこから来るのでしょうか。神のみことばへの信頼です。彼らはただ単純にみことばを信じ、それを自分の生活の中に適用しているのです。

そういえば、2年前に私たちが家の教会を訪れた時、どの家の集会も2時間位の内容でしたが、そのうちの1時間半は、一人15分くらいのみことばの証でした。それが6人で1時間半です。あとは賛美と祈りが30分、全体で2時間の集会でした。次から次にみことばを証する人がいます。「事前にだれが証するか決まっているのですか」と聞くと、全然決まっていないと言います。みんな単純にみことばを生きているだけです。

たとえば、このときもOさんのお母さんはご病気で、1月に入院して退院したばかりなので日本に来るかどうか悩んだそうですが、このみことばが与えられたので全く心配していないと言いました。

「そういうわけで、肉体にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。」(Ⅱコリント5:9)

すごい信仰です。自分のいのちも、健康も、すべて主にゆだねきっています。もしそれで死ぬようなことがあったとしてもそれもまた益だというのですから。ですから、あらゆる恵みに満ちた神が、私たちをしばらくの苦しみの後で完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださるとみことばにあるので、そのように受け止め、心配しません。すべてを神にゆだねるのです。

 

皆さん、私たちの神は恵みの神です。あらゆる恵みに満ちた方です。この恵みに満ちた神が、私たちをしばらくの苦しみの後で完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。この神の恵みにおいて成長させていただきましょう。あなたを救いに導いてくださった神は、恵みをもって成長させ、堅く立たせ、不動の者としてくださいます。

 

ペテロはここでもう一つのことを言っています。それは恵みだけでなく知識においても成長もしなさいということです。知識において成長するはどういうことでしょうか。もちろん、知識とは神のことばである聖書の知識のことです。だれか有名な先生の本を通してキリストの知識を得るのではありません。そんなことをしたら、その人が考えるキリスト像になってしまい、聖書そのものが教えるキリスト像ではなくなってしまいます。ですから、キリストについての正しい知識を聖書から得なければなりません。

 

どうやったら得ることができるのでしょうか。聖書の言う「知る」というのは、個人的にそれを深く体験することです。頭だけで知る知識ではなく、心の中で個人的な体験としてイエス・キリストを知ることです。先ほどお話しした中国のクリスチャンたちのように、みことばに生きることです。与えられたみことばを、祈りを通して自分の生活にどのように適用できるのかを思いめぐらし、それを実践するのです。そのようにして神との交わりが深められていきますと体験としてキリストを知ることができます。そしてこのようにしてキリストを知れば知るほど、霊的に健全に成長していくことができます。

 

ペテロは、キリストの恵みと知識において成長しなさい、と言いました。霊的に成長することが、私たちが偽りの教えや道徳的に堕落することから守ってくれます。そうでないと倒れてしまいます。それはちょうど自転車のようです。自転車は前に進んでいる時は倒れませんが、止まったら倒れてしまいます。これは霊的にも同じことで、私たちはキリストの恵みと知識において成長し続けなければなりません。そうでないと倒れてしまいます。ずっとそこに立っていることができなくなるばかりか、後退することになってしまうからです。キリストにとどまり、キリストのことばに聞き従うなら、確実に成長していきます。なぜなら、これは神の恵みによるからです。あなたの努力によってできなく、神の恵みによって神が成長させてくださいます。

 

あなたは成長していますか。成長したいと願っていますか。どこか自分の中でブレーキをかけていることはないでしょうか。自分はこのままでいいと、開き直っていませんか。そこに立ち止まっていると結局倒れてしまいます。あなたに求められていることは成長することなのです。キリストの恵みと知識において成長しなさい。

 

この手紙を書いたペテロも結構失敗しました。しかし、神の恵みにとどまることによって神の赦しを体験し、最後までキリストに従い通すことができました。私たちも神の恵みによって成長させていただきましょう。そして、このキリストに、栄光が、今も永遠の日に至るまであるように祈りましょう。