Ⅰヨハネ2章18~29節 「キリストにとどまりなさい」

きょうは、「キリストのうちにとどまりなさい」というテーマでお話しします。ヨハネは1章5節で「神は光であり、神には全く闇がない」と語り、この神を信じ、神の光の中を歩む者とはどのような者なのかを示しました。それは第一に自分の罪を悔い改め、御子イエスの血によって罪をきよめていただくことでした(1:9)。もし自分に罪がないと言うなら、その人は自分を欺いているのであって、その人のうちには真理はありません。しかし、もし私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての罪から私たちをきよめてくださいます。これが光を歩む者の土台、ベースです。

 

第二のことは兄弟を愛するということでした(2:10)。もし私たちが神を知っているというなら神の命令を守るはずです。その命令とは何でしょうか。その命令とは兄弟を愛するということです。目に見える兄弟を愛することができなくて、どうして目に見える神を愛することができるでしょうか。自分の兄弟を愛している人は光の中にとどまり、その人のうちにはつまずきがありません。

 

そして第三のことは、前回の箇所で学びましたが、世を愛してはならないということでした(2:15)。もし世を愛しているなら、その人のうちに御父の愛はありません。なぜなら、だれも二人の主人に仕えることはできないからです。神を愛する者は、神に心を傾けなければならないのです。

 

そしてきょうのところには、光の中を歩むクリスチャンが警戒しなければならないことが教えられています。それは「反キリスト」です。世の終わりが近くなると選民を惑わそうと多くの反キリストが現れますが、そのような者に惑わされないように気を付けなければなりません。どうすればいいのでしょうか。キリストのうちにとどまっているということです。きょうはこのことについて三つのことをお話ししたいと思います。

 

Ⅰ.今は終わりの時(18-21)

 

まず18節から21節までをご覧ください。18節をお読みします。

「幼子たち、今は終わりの時です。反キリストが来るとあなたがたが聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。それによって、今が終わりの時であると分かります。」

 

ヨハネはここで「幼子たち」と呼びかけています。前回のところでヨハネは、この手紙の読者たちにそれぞれの霊的段階に分けて、「子どもたちよ」「父たちよ」「若者たちよ」と呼びかけましたが、ここでは「幼子たち」と呼びかけています。これは霊的に幼いというよりも、すべてのクリスチャンに対して語られていると理解して良いでしょう。この時ヨハネは100歳近くに達していたと思われますが、そんな長老ヨハネからすべてのクリスチャンに向けて家族のような親しみを込めて語りかけられているのです。

 

その内容は何というと、今は終わりの時であり、多くの反キリストが現れているということでした。それによって今が終わりの時であることがわかります。イエス様はマタイの福音書24章の中で、世の終わりの前兆、しるしについて預言されましたが、その中の一つにこの反キリストが現れることを上げました。4節、5節です。

「そこでイエスは彼らに答えられた。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、「わたしこそキリストだ」と言って、多くの人を惑わします。」(マタイ24:4-5)

世の終わりには多くの反キリストが現れます。これが世の終わりの前兆の一つなのです。そしてヨハネの時代にはすでにこの反キリストが現れていました。それはどういうことかというと、今がその終わりの時であるということです。

 

でもちょっと待ってください。イエス様がこのように言われたのは今から二千年前ですよね。でもまだ世の終わりは来ていないじゃないですか。世の終わりだと言うのであれば、もうとっくの昔に来ているはずじゃないですか。それっておかしくないですか?いい質問ですね。でもそのように言われるのは、この「終わりの時」とは何かをよく理解していないからです。一口に「時」と言ってもいろいろな時があります。まず個人的な「時」があります。今年は就職の時だという人がいれば、昨日は結婚式がありましたが、結婚の時だという人もいますし、マイホームを建てる時だという人もいます。また会社や政治の世界にも時があります。多くの人はそうした自分の時に心が奪われ、もう一つの大切な時があることを忘れています。それは神の時です。神の計画全体の中で今がどのような時なのかということを見失ってはなりません。神は天地万物を創造された時からキリストが再臨され新しい天と新しい地を創造される時までの計画を持っておられ、その時を進めておられるのです。

 

では、その神の計画全体の中で「今」はどのような時なのでしょうか。ヨハネはここで「今は終わりの時です」と告げています。「終わり」とは「最後」という意味です。すなわち、今は神のご計画全体の中で最終段階にさしかかっている時なのです。新約聖書では、この「終わりの時」を二つの意味で用いています。第一に、キリストが生まれてから再臨されるまでの全期間という意味です。キリストが初めに来られた時から、この終わりの時はすでに始まっているということです。もう一つの理解は、そうした中でも特にキリストの再臨がごく近い時を指しているということです。この場合キリストがいつ来られても不思議ではありません。ここでヨハネが用いているのはこの第二の意味においてです。ヨハネがこのように言ってからすでに二千年が経とうとしています。そういう意味では、時は刻一刻と世の終わりが近づいていることは確かなことだと言えます。いったいどうしてそのように言えるのでしょうか。

 

ヨハネはここでその理由を次のように述べています。それは、多くの反キリストが現れているからです。「反キリスト」とは何でしょうか。「反キリスト」とはギリシャ語で「アンティ・クリストス」と言いますが、意味はキリストに反抗する者、キリストに取って代わる者です。聖書ではこの「反キリスト」という言葉が、三つの種類で用いられています。第一に、終わりの時に現れる一人の反キリストのことです。この反キリストについてはダニエル書9章27節、11章31節、12章11節に言及されていますが、世の終わりに現れてエルサレムの神殿を冒し、常供のささげ物を取り払い、荒らす忌まわしいものを据えると言われています。イエス様もマタイ24章15節で、この「荒らす忌むべきもの」について言及しました。

 

第二に、これは反キリストの霊のです。Ⅰヨハネ4章3節を見ると、ここに「イエスを告白しない霊はみな、神からのものではありません。それは反キリストの霊です。」これは一人の反キリストのことではなく、ありとあらゆるところに活発に働いている反キリストの霊です。古くはイスラエルが奴隷であった時のエジプトの王ファラオに、あるいは、紀元前5世紀にペルシャの王アハシュエロスに仕えていたハマンもそうです。彼は、ペルシャにいた全ユダヤ人の抹殺を計画しました。あるいは近代では皆さんもご存知でしょう第二次世界大戦の時に600万人ものユダヤ人を虐殺したアドルフ・ヒトラーもその一人です。彼らはイエスを告白しないばかりか、キリストに反抗し、神が選ばれし民の虐殺を試みました。なぜこのようなことをしたのでしょうか。それは反キリストの霊が働いていたからです。

 

しかし、ここで言われている「反キリスト」というのはこれら二つの意味とは違います。ここで言われている「反キリスト」とは、偽預言者たち、偽教師たちのことです。それはここに「多くの反キリスト」と複数形で書かれてあることからもわかります。具体的にはイエス・キリストの神性を否定する者たちのことです。イエス・キリストは神と等しい方ではない。イエス・キリストは神に造られた存在であって、神に劣る存在だと教えていた者たちです。前回もお話ししたように当時はグノーシス主義という教えがはびこっていました。その教えの特徴は「霊肉二元論」でした。つまり、霊は善で、肉体は悪であるという考えです。このような考えに立ちますと、肉体を持っておられたイエスが神であるはずがないということになります。そこでイエスはもともと人間だったがバプテスマのヨハネからバプテスマを受けた時にキリストの霊が下り神のようになったが、十字架につけられる直前にその霊がキリストから離れて行ったので、その結果、人間イエスだけが十字架の苦しみを受けたにすぎないというようなまやかしを吹聴していたのです。

 

初代教会は常に戦いの中にありました。コリントの教会は道徳的な問題があり、ガラテヤの教会は救いの問題がりました。また、テサロニケの教会はキリストの再臨の問題が論争の中心でした。ペテロの第一の手紙では苦難の問題が強く打ち出されていました。そして今ヨハネが取り扱っているのはエペソの教会を中心とする小アジアの教会が抱えていたキリスト論でした。そしてそれは真理の根幹にかかわる大きな問題でした。

 

そしてそれは彼らばかりでなく、現代の私たちの教会も抱えている戦いでもあります。なぜなら、今は終わりの時だからです。多くの反キリストが現れて、神の民を惑わそうとしているのです。ですから、私たちは今がどのような時(時代)なのかを見分け、これにきちんと対処していかなければなりません。クリスチャンはただ熱心でまじめであればそれでよいのではありません。今がどのような時であるのかを見分け、真理であられるキリストにしっかりととどまっていなければならないのです。それによってキリストが約束してくださったもの、永遠のいのちを受け継ぐことができるからです。

 

Ⅱ.反キリストの特徴(19-25)

 

では、この「反キリスト」とはどのような者たちなのでしょうか。19節から25節までのところに、この反キリストについて二つの特徴が述べられています。一つは、反キリストは教会を去って行った者たちであるということです。19節をご覧ください。

「彼らは私たちの中から出て行きましたが、もともと私たちの仲間ではなかったのです。もし仲間であったなら、私たちのもとに、とどまっていたでしょう。しかし、出て行ったのは、彼らがみな私たちの仲間でなかったことが明らかにされるためだったのです。」

 

「私たちの中から」とは「教会の中から」という意味です。反キリストの特徴は教会から出て行った者たちであるということです。もともと私たちの仲間ではなかったのです。もし仲間であったら出て行くことはなかったでしょう。とどまっていたはずです。しかし、彼らが出て行ったのは、私たちの仲間ではなかったということが明らかにされるためでした。

 

でも誤解しないでください。ここで言われている「私たち」すなわち「教会」とはこのような一個一個の教会(地域教会)のことではなく、キリストのからだとしての教会、つまり、普遍的な教会ことです。もしこれが地域教会のことであったとしたら、私たちはほとんど反キリストになってしまいます。信仰を持ってからずっと同じ教会にとどまっているという人は少ないからです。しかし、ここで言っているのはそういうことではなく、キリスト教は間違っているとキリスト教信仰に反抗し、どのキリストの教会にも属さない人たちのことです。信仰告白の異なる者がどうして神の家族であり得ましょう。たとえどんなに人間的に親しくてもそれで神の家族になるわけではありません。キリスト教信仰において一致しなければ、結局、教会を去って行くことになります。それは彼らが私たちの仲間ではなかったことが明らかにされるためです。世の終わりにはこのようにして光と闇とが明らかにされていくのです。

 

第二の特徴は、22節と23節に記されてあります。それは、イエスがキリストであることを否定する者たちであるということです。

「偽り者とは、イエスがキリストであることを否定する者でなくてだれでしょう。御父と御子を否定する者、それが反キリストです。だれでも御子を否定する者は御父を持たず、御子を告白する者は御父を持っているのです。」

イエス・キリストは100%まことの神であり、100%まことの人であられましたが、ヨハネはここで特にキリストの神性を否定する者、キリストは神ではないと主張する者こそ反キリストであると強調しています。

 

キリスト教の三大異端として知られているエホバの証人、モルモン教、統一協会などにはいずれもこの二つの特徴がみられます。彼らはもともと教会の中にいましたが教会を出て、自分たちの独自のグループを作りました。その特徴はイエスがキリストであるということを否定していることです。

たとえば、エホバの証人は、正式には「ものみの塔聖書冊子協会」と言いますが、1884年にアメリカのチャールズ・ラッセルという人によって始められました。彼はもともと長老派の教会に通っていたクリスチャンです。9歳の時に母親を亡くすと自宅近くの組合教会に行くようになりますが、そこで聖書の教えと自分の考えが合わないため納得できないと、教会を出て独自の教理を作りました。

たとえば地獄の教理です。神が人をさばくなんてありえない、とても恐ろしいことだと、地獄の教理を否定したのです。また、イエス・キリストが神である考えられないと、三位一体の教えも否定しました。ではイエスとは何なのか。イエスはエホバなる神が創造された天使長ミカエルです。この天使長のミカエルが人間イエスになって万物を創造したというのです。つまり、イエスはエホバによって創造された被造物にすぎないというのです。彼らもイエスを信じていると言います。しかし、彼らが信じているイエスとは神としてではなく、天使長ミカエルが人間になったイエスが十字架で死なれたことを信じているのです。それは聖書の教えを逸脱しているのですが、反対に彼らは既成の教会こそ間違っていると、攻撃してくるのです。

 

モルモン教も同じです。モルモン教は正式には「末日聖徒イエス・キリスト教会」と言いますが、名前だけでは一般のキリスト教会と区別ができないほど非常に紛らわしいですね。私がまだ教会に行き始めた頃、郵便局で二人のアメリカ人に声をかけられました。彼らは自分たちがクリスチャンだというので、私はうれしくなって「そうですか、私もそうです。」と言うと、「今度ぜひ教会に来てください」と誘われたので、「わかりました。ぜひ行きたいと思います」と案内の記された名刺をいただいたのですが、帰ってから家内に話したら、「それは教会じゃない。モルモンです」と言われ、「そうか、危なかったな。行かなくてよかった」と思いました。もしあの時ホイホイと着いて行ったら、今ごろモルモン教の伝道師になっていたかもしれません。

 

このモルモン教の創設者はジョセフ・スミスという人ですが、彼もまたクリスチャンホームで育ちました。しかし、彼が14歳の時に神から啓示を受けたと言います。「すべての既成の教会は間違っているし、どの教会に行ってもならない」というものでした。それで彼は教会を出て、自分たちの独自のグループを作りました。それがモルモン教会です。彼は独自に与えられた啓示を「モルモン経」としてまとめ、聖書と同等の権威あるもの、いや聖書よりももっと正確に神の御旨を知ることができるものと主張しました。その教えの特徴は神論にあります。聖書は、神はただおひとりで、とこしえからとこしえまで神であり、全知全能で遍在されると教えていますが、モルモン教では、これとは違い、神は、かつて「ある地球」に住み、他の神の支配下にあって、死を免れない人間であった、と教えています。 生死を味わった人間として、神は進歩することができ、完全な者へと達し、そのあと自らの努力で神へと昇栄した、というのです。わけがわからないですね。ですから、モルモン教の教理によると、人もまた信仰の研鑽を積み、地上でモルモン教会の戒め、儀式に対して従順であることによって神々となることができる、と言います。イエス・キリストについては、天父エローヒムが生み出した旧約聖書のエホバであり万物を創造したと教えます。いずれにせよ、モルモン教でもイエスは神によって創られた神だと主張しています。

もちろん、このような教理ですから、正統派の教会にとどまることはできず、1830年4月6日、ジョセフ・スミスが24歳のとき、ニューヨーク州でモルモン教会を設立することになります。彼は神ご自身がモルモン教会を「地上における唯一まことの生ける教会」と指定したと宣言しました。モルモン教会だけが唯一まことの教会だと主張し、既成の教会を否定したのです。

 

また、統一協会もそうです。統一協会は、正式には「世界キリスト教統一神霊協会」と言います。「協会」は「教会」ではなく「協会」です。創設者の文鮮明も初めは熱心なクリスチャンでした。でもクリスチャンホームで育てば自動的にクリスチャンになるというのではなく、中には異端的な教えをもってカルトを作るような者も現れます。彼も初めは長老派の教会に属し、日曜学校でも教えていました。しかし16歳の時にイエス・キリストが彼の目の前に現れ、「わたしが果たせなかった神の御旨を、あなたが代わりに担ってもらいたい」と懇願したので、最初は恐れ多いと断るも、何度も何度も懇願されたので、「わかりました。私があなたのやり残した仕事を担いましょう。」と引き受けることにしました。1954年のことです。

その教えの特徴は、キリストを否定するところにあります。イエス・キリストは祭司ザカリヤとマリヤの間に誕生した不倫の子どもだと言います。イエスは創造目的を完成した人間にすぎず、だれでも努力によってその域まで達することができる。したがって、イエスは創造目的を完成した人間として神性を持っていましたが、神ご自身ではないし、神にはなりえません。イエス・キリストの十字架の贖いは不完全だったので、神が再臨のキリストを地上に送り、地上に天の御国建設の使命を託したというのです。その再臨のメシヤ、キリストこそ文鮮明だというのです。

 

何ともデタラメな教理ですが、こういう教えを信じる人たちもいるんですね。彼らに共通していることは、彼らは教会を去って行った者たちであるということと、イエスがキリストであることを否定する者たちであるということです。でも世の終わりが近くなると彼らだけでなく、こうした惑わす者たちがたくさん現れるようになります。「私こそキリストだ」と言って、多くの人を惑わすのです。ですから、私たちは惑わされることがないように気を付けなければなりません。どうしたらいいのでしょうか。

 

Ⅲ.キリストにとどまりなさい(26-29)

 

ですから、第三のことは「キリストのうちにとどまりなさい」ということです。26節から29節までをご覧ください。

「私はあなたがたを惑わす者たちについて、以上のことを書いてきました。しかし、あなたがたのうちには、御子から受けた注ぎの油がとどまっているので、だれかに教えてもらう必要はありません。その注ぎの油が、すべてについてあなたがたに教えてくれます。それは真理であって偽りではありません。あなたがたは教えられたとおり、御子のうちにとどまりなさい。さあ、子どもたち、キリストのうちにとどまりなさい。そうすれば、キリストが現れるとき、私たちは確信を持つことができ、来臨のときに御前で恥じることはありません。あなたがたは、神が正しい方であると知っているなら、義を行う者もみな神から生まれたことが分かるはずです。」

 

ヨハネはこの惑わす者たちについて、書いてきました。それは彼らがこうした反キリストの教え、偽りの教えに惑わされることなく、真理にとどまることによってです。24節には、「あなたがたは、初めから聞いていることを自分のうちにとどまらせなさい。」とあります。「もし初めから聞いていることがとどまっているなら、あなたがたも御子と御父のうちにとどまります。」

 

このヨハネの手紙におけるキーワードの一つは、この「とどまる」ということです。イエスがキリストであることを否定しないために必要なことは、私たちが初めから聞いていることにとどまることです。初めから聞いていることとは何でしょうか。それは「真理」です。20節と21節をご覧ください。ここには27節と同じことが書かれてあります。つまり、私たちには「聖なる方からの注ぎの油」があるので、みな真理を知っているのです。

 

ここに「知っている」ということばが繰り返して出てきます。この「知っている」ということばはこれまで出てきた「知る」ということばとは違うギリシャ語が使われています。これまで出てきた「知る」ということばはギリシャ語で「ギノスコー」ということばでしたね。それは表面的にではなく深く知るということでした。知的な面だけでなく体験的に知るということです。しかし、ここで使われている「知っている」ということばはギリシャ語で「オイラー」という語で、これは直感的に知るという意味です。パッと見ただけでわかります。瞬間的に物事の本質を判別することができるという意味です。ですから、異端的な教えを聞くとそれが間違っているということが直感的にわかるのです。何が、どのように違うのかを説明することはできないかもしれませんが、何か違うということが直感的にわかるのです。ピンときます。なぜでしょうか?20節にあるようにも私たちには「聖なる方からの注ぎの油」があるからです。この「注ぎの油」については27節にも繰り返して書かれてあります。「聖なる方からの注ぎの油」とは何でしょうか。それは聖霊のことです。すなわち、私たちには聖霊が注がれているので、聖霊が私たちに真理を教えてくれるのです。ヨハネの福音書には、この方は「真理の御霊」と言われています。「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます。御霊は自分から語るのではなく、聞いたことをすべて語り、これから起こることをあなたがたに伝えてくださいます。」(ヨハネ16:13)この注ぎの油が、すべてについてあなたに教えてくれるのです。ですから、エホバの証人の教えを知らなくても、モルモン教の教えがわからなくても、統一協会の教えを知らなくても、ピンときます。それが違うということが直感的にわかるのです。ちょっと聞いただけで、「あっ、違う」とパッとわかる。「ちょ」「ピン」「パッ」です。

 

ですから、キリスト教の三大異端について詳しく学ばなくてもいいし、学ぶ必要もありません。私たちに必要なのは真理にとどまることです。本物に触れることです。本物を知れば、すぐに偽物を見分けることができます。銀行の行員さんは手で触っただけで偽札がわかると言います。なぜなら、いつも本物に触れているからです。ですから本物を知れば偽物がわかります。私たちは聖なる方からの注ぎの油があるので、真理を知っています。大切なのは、この真理にとどまることです。私たちの問題はこの真理から離れてしまうことです。自分の置かれた状況に振り回されたり、人のことばに影響されて、真理から離れてしまうのです。

 

信仰の父と称されているアブラハムでさえ神が約束した地に入ることができたのに、そこにききんがあったとき、エジプトに下って行ってしまいました。それは神のみこころではありませんでした。神のみこころはそこにとどまっていることでた。それなのに彼はとどまっていることができませんでした。かぜでしょうか。神ではなく問題を見たからです。自分の生活が脅かされるのではないかと心配して、神に信頼することができなかったからです。彼にとって必要なのは神のことばに信頼し、そこにとどまっていることだったのです。

 

それは私たちにも言えることです。私たちも真理を信じています。しかし、自分の予期せぬことが起こったり、どうしようもない問題の渦に巻き込まれたりするとき、神のことばにとどまることができず、そこから離れてしまうことがあります。私たちは、初めから聞いていることを自分のうちにとどまらせなければなりません。もしそこにとどまっているなら、私たちも御子と御父のうちにとどまることができます。これこそ、御子が私たちに約束してくださったもの、永遠のいのちです。

 

イエス様はこのことをぶどうの木と枝の関係にたとえて、こう言われました。

「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」(ヨハネ15:4-5)

 

さあ、子どもたち、キリストのうちにとどまりなさい。そうすれば、キリストが現れるとき、私たちは確信を持つことができ、来臨のときに御前で恥じることはありません。世の終わりが近くなると多くの反キリストが現れて、私たちの信仰を惑わし、私たちは揺れに揺れますが、しかし、終えし得られたとおり、御子のうちに、キリストのうちにとどまりましょう。これこそ終わりの時に生きる私たちクリスチャンの歩みなのです。