ヨハネの福音書1章6~8節、19~34節「ヨハネの証し」

今日は、ヨハネの福音書1章6節から8節、19節から34節までの箇所から、「光について証しする人」」というタイトルでお話ししたいと思います。

ヨハネは、この福音書を書いた目的を20章31節でこのように述べています。すなわち、「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。」

それでヨハネは、前回の箇所でイエスが信じるに値する方であることのいくつかの理由を述べました。それは、イエスが初めから神とともにおられた神でありこの天地万物を造られた創造主であるということ、そして、この方にはいのちがありました。それは人の光であって、その光は闇の中に輝いています。どんな闇をも打ち破ることができるのです。

 

そして、きょうのところでは、バプテスマヨハネの証言を取り上げています。きょうは、このヨハネの証言からイエスが神の子キリストであるということを、ご一緒に学びたいと思います。

 

Ⅰ.光について証しするために来たヨハネ(6-8)

 

まず、6節から8節までをご覧ください。

「神から遣わされた一人の人が現れた。その名はヨハネであった。この人は証しのために来た。光について証しするためであり、彼によってすべての人が信じるためであった。彼は光ではなかった。ただ光について証しするために来たのである。」

 

ここに登場する「ヨハネ」とはこの福音書を書いているヨハネではなく、別のヨハネ、バプテスマのヨハネのことです。彼は、イスラエルの人々が悔い改め神に従って生きるようにとヨルダン川でバプテスマを授けていたので、バプテスマのヨハネと呼ばれていました。

 

このヨハネが登場した時代は、沈黙の時代と呼ばれていました。旧約聖書の最後の預言者はマラキですが、そのマラキが登場してからイエス様が登場するまでの約四百年間は、預言者らしい預言者はほとんど登場していませんでした。その期間の出来事は聖書に全く記録されていないので、沈黙の時代と呼ばれていたのです。  しかし、四百年が経ってその沈黙を破るかのように、一人の預言者が登場しました。それがバプテスマのヨハネです。彼は、荒野に住み、らくだの毛の衣を着て、腰には革の帯を締め、野密といなごを食べていたので、もしかするとこの人がキリストではないかと人々から思われていました。というのは、彼の格好と生活のスタイルは、昔の預言者そのものだったからです。

 

そのバプテスマのヨハネに対して、この福音書を書いているヨハネは何と言っているかというと、こうです。7節と8節です。

「この人は証のために来た。光について証するためであり、彼によってすべての人が信じるためであった。彼は光ではなかった。ただ光について証しするために来たのである。」

 

彼は光(キリスト)ではありませんでした。ただ光について証するために来たのです。26節と27節には、「私は水でバプテスマを授けていますが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。その方は私の後に来られる方で、私にはその方の履き物のひもを解く値打ちもありません。」と言っています。人々からキリストではないか、光ではないかと思われていた人が、「私にはその方の履き物のひもを解く値打ちもない」と言うとしたら、人々は、果たしてこれから来られる方は、どれほど偉大な方なのだろうと思ったに違いありません。人々の目は自然と、今まさに現れようとしていたイエス・キリストに向かって熱く注がれたことでしょう。

 

これがバプテスマのヨハネに与えられていた使命でした。彼は光ではありませんでした。ただ光について証しするために来たのです。つまり光の先駆者にすぎなかったのです。太陽が昇ると月がその光の中に消えていくように、キリストが来られると、バプテスマのヨハネは消えていくのです。それはバプテスマのヨハネが、「あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」(ヨハネ3:30)と言ったとおりです。彼は光ではありませんでした。ただ光について証するために来たのです。それが彼に与えられていた使命であり、目的、役割だったのです。

 

皆さんは、何ために生まれてきましたか。そして、今、何のために存在しているのでしょうか。その答えがここにあります。それは、光について証しするためです。これがバプテスマのヨハネが来た目的であり、私たちすべての人に与えられている目的でもあります。私たちは光について証しするために来たのです。その証しによってすべての人が光を信じるために遣わされているのです。その方法はいろいろあるでしょうが、目的は一つです。それはキリストを証しすることです。

 

1640年代にまとめられた小教理問答書に「ウエストミンスター小教理問答書」というものがあります。これはプロテスタントの偉大な教理の宣言であるとみなされているものです。

その第一の設問にはこうあります。「人の主な目的は何ですか。」皆さん、考えたことがありますか?これを言い換えるとこうなるでしょう。「あなたは何のために生きていますか」何のために生きていますかって、食うためですとか、生きるためです、といった声が聞こえてきそうですが、答えはこうです。「人の主な目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです 。」

 

すばらしい答えです。これが、私たちが造られた主な目的です。私たちは生まれてから死ぬまでに、力を尽くして立ち向かうべき様々な課題が与えられます。勉強や育児、仕事など、課題は尽きることがありません。

けれども、その時々の課題に身をすり減らし、ベルトコンベアーで運ばれるようにいつの間にか死という終着点に辿り着くのであれば、それは本当に空しい一生ではないでしょうか。

また現代では、様々な課題を抱えた老後の生活も長いのです。その時々の課題だけが生きる目的であるならば、長い老後の生活は何の意味もなくなってしまいます。  人間として生きている限り、生き甲斐のある人生を送るためには、どんな時も変わらない「人の主な目的」を知る必要があります。それが、神の栄光を現し、永遠に神を喜ぶことです。

 

どうしたら神の栄光をあらわすことができるでしょうか。二つあります。一つは、こうして賛美や祈り、礼拝、証し、教会での奉仕といった信仰生活によってです。もう一つは、私たちの生活全体そのものによってです。言うならば、私たちの置かれている場所は神によって遣わされている場であり、神の栄光を現す場であるということです。いったい私たちはなぜそれぞれの場所に遣わされているのでしょうか。それは「この方」を証しするためです。私たちはそのために遣わされているのであり、私たちの証しによってすべての人が信じることを神様は願っておられるのです。

 

皆さんは、「クリスチャン」という言葉を聞くと、何を思い浮かべるでしょうか。もともと「クリスチャン」というのは、「キリストさん」という意味のあだ名です。

使徒の働き11章26節には、このように記されています。「弟子たちは、アンティオキアで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。」  アンティオキアはエルサレムの北、シリヤにありますが、パウロやバルナバはそこにあった教会から世界宣教へと遣わされました。弟子たちは、このアンティオキアに来て初めて、キリスト者と呼ばれるようになりました。なぜこのように呼ばれるようになったのかというと、彼らが口を開けば「キリスト」「キリスト」と言っていたからです。どこを切ってもキリストなので、「キリストさん」と呼ばれるようになったのです。それだけ彼らはキリストに夢中だった、キリスト信仰が板についていたということです。彼らはそのように生きていました。それが彼らの生き方だったのです。

 

先日の祈祷会にIさんというクリスチャンの方が参加されました。祈祷会の終わりに小さなグループに分かれてお祈りの時を持っているのですが、たまたま同じグループになったので一緒にお祈りをさせていただいました。お祈りの後で、「ところで、Iさんはどのようにしてクリスチャンに導かれたのですか」と尋ねると、彼女がこう言われました。

「私は、小さい時に小学校の校門のところで宣教師の人たちが聖書の紙芝居をしているのを見ていたので、あまり聖書に違和感がありませんでしたが、中学校、高校、大学と進んで行く中でそういう世界とは無関係な日々を過ごしていました。けれども、大学を卒業後職場で行き詰ったとき、同じクラスの中にクリスチャンという人が三人いることがわかったのです。思い返すと、その人たちはクリスチャンだということで教授からいろいろな嫌がらせ受けていましたが、そのような中でも明るく、親切に、みんなと接していました。それを思い出して自分も教会に行くようになったんです。」

「どうやってその人たちがクリスチャンだとわかったんですか。」と尋ねると、「それは風の便りで・・」と答えられました。

風の便りで彼らがクリスチャンだということがわかり、それで彼女も教会に行くようになりました。それは、風の便りで伝わってくるくらい、彼らがよく証ししておられたということでしょう。それこそクリスチャンの特徴です。

 

私たちもどこを切ってもキリストが出てくるような、キリストについて証しするために来たということをしっかりと覚えながら、それぞれの場所に遣わされていきたいものです。

 

Ⅱ.ヨハネの証し(1:19-28)

 

では、ヨハネはどのように証ししたのでしょうか。次に、その内容について見たいと思います。1章19節から28節をご覧ください。ここには彼の証しが゛のようなものであったかが記されてあります。

「さて、ヨハネの証しはこうである。ユダヤ人たちが、祭司たちとレビ人たちをエルサレムから遣わして、「あなたはどなたですか」と尋ねたとき、ヨハネはためらうことなく告白し、「私はキリストではありません」と明言した。彼らはヨハネに尋ねた。「それでは、何者なのですか。あなたはエリヤですか。」ヨハネは「違います」と言った。「では、あの預言者ですか。」ヨハネは「違います」と答えた。

それで、彼らはヨハネに言った。「あなたはだれですか。私たちを遣わした人たちに返事を伝えたいのですが、あなたは自分を何だと言われるのですか。」

ヨハネは言った。「私は、預言者イザヤが言った、『主の道をまっすぐにせよ、と荒野で叫ぶ者の声』です。」

彼らは、パリサイ人から遣わされて来ていた。彼らはヨハネに尋ねた。「キリストでもなく、エリヤでもなく、あの預言者でもないなら、なぜ、あなたはバプテスマを授けているのですか。」

ヨハネは彼らに答えた。「私は水でバプテスマを授けていますが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。その方は私の後に来られる方で、私にはその方の履き物のひもを解く値打ちもありません。」

このことがあったのは、ヨルダンの川向こうのベタニアであった。ヨハネはそこでバプテスマを授けていたのである。

 

19節の「ユダヤ人たち」とは、国家的、宗教的に権威を持っていた人たちのことです。そうした人たちが、エルサレムから祭司やレビ人たちを遣わして、彼にこのように尋ねさせたのです。

「あなたはどなたですか」なぜこのように尋ねたのかというと、ヨハネが非常に大きな影響力を持っていたからです。イスラエルの全土から人々が彼のところにやって来てバプテスマを受けていました。彼の説教は力強く、人々は悔い改め、神に立ち返りました。ですから、多くの人々が、もしかしたら、この人がキリストではないかと思っていたのです。それで、指導的な立場にあったユダヤ人たちが、祭司とレビ人を遣わして、はたしてそうなのかどうか尋ねさせたのです。

 

その質問に対してヨハネとどのように答えたでしょうか。彼はためらうことなく告白して、こう言いました。20節、「私はキリストではありません。」

それでは何者なのか。彼らはヨハネに尋ねました。21節です。「あなたはエリヤですか」

エリヤというのは、旧約聖書に出てくる代表的な預言者で、後に来られるキリストの先駆者でもありました。旧約聖書の最後の部分に、こう書かれてあります。「見よ。わたしは、主の大いなる恐るべき日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、この地を聖絶の物として打ち滅ぼすことのないようにするためである。」(マラキ4:5-6)

ん?この預言を見る限り彼はエリヤではないのですか?彼は主の前に遣わされ、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせるわけですから。しかし、彼は「違います」と答えました。確かに、その役割についてはそうなのですが、それはイエスを信じる人たちにとってはそうであるということであって、そうでない人たち、すなわち、イエスを拒んだ宗教的指導者たちにとってはそうではありません。それは、マタイ11章14節のイエス様の言葉からわかります。イエス様はこう言われました。「あなたがに受け入れる思いがあるなら、この人こそ来るべきエリヤです。」

ですから、確かに主が来られる前触れをするという点ではエリヤなのですが、どんなに彼がエリヤであってもそれを受け入れない人たちにとっては、そうではないのです。それでヨハネは、「違います」と答えたのです。

 

それでは彼はだれなのか?彼らは続いて尋ねます。「では、あの預言者ですか。」「あの預言者」とは、モーセが語った預言者のことです。申命記18章15節で、モーセはこのように言いました。「あなたの神、主はあなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のような一人の預言者をあなたのために起こされる。あなたがたはその人に聞き従わなければならない。あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない。」ですから、「あの預言者」というのは、モーセのような預言者のことです。モーセのように神からのメッセージをそのまま語る預言者のことです。しかし、ここでは単なるモーセのような預言者のことではなく、やがて神から遣わされる神の御子イエスのことを指していました。つまり、モーセがイスラエルをエジプトから救い出したように、人々を罪から救う救い主のことです。ですから、これはメシヤ預言だったのです。これに対しても、ヨハネは否定しました。

 

それで彼らはヨハネに言いました。「あなたはだれですか。・・・あなたは自分を何だと言われるのですか。」

するとヨハネはこう言いました。23節です。ご一緒に読みましょう。

「「私は、預言者イザヤが言った、『主の道をまっすぐにせよ、と荒野で叫ぶ者の声』です。」

どういうことですか?これは、イザヤ書40章3節の御言葉からの引用です。彼はこの御言葉を引用して、自分に与えられている使命がどのようなことであるかを述べたのです。それは、キリストが来られる前に、人々の心をまっすぐにして、神に立ち返らせるために荒野で叫ぶ声にすぎない、ということです。

これは、当時、王がある地方を通るときに前もってその地方にやってくる人のことです。王が来る前にやって来て、王が通る道をまっすぐにします。石が転がっていたら取り除けて、くぼみがあったからそれを埋めます。こうして、王が通る準備をしたのです。

 

かつて福島で国体が行われた時、道路がすばらしく整備されたことがありました。こんなところにと思われるところにも、片側二車線のすばらしい道路ができました。それはその道を天皇陛下が通られるからです。そのためでこぼこ道は平らに舗装され、曲がった道もまっすぐなりました。天皇陛下が通る前にやって来て道路を整備したからです。ヨハネも同じです。彼は、預言者イザヤの書に書いてあるように、キリストの前に遣わされ、主の道を用意し、主が通られる道をまっすぐにするという使命が与えられていたのです。

 

それにしても、彼は、自分のことを「荒野で叫ぶ者の声」と言いました。「ことば」ではなく「声」です。なぜ「声」だと言ったのでしょうか?あくまでも「ことば」はキリストであられるからです。この書の最初にこうありましたね。「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」

彼は「ことば」ではありませんでした。あくまでも、「ことば」について証しする声でしかなかったのです。

ここに、人がわきまえなければならない立場があります。ヨハネは、「私は王なるキリストを指し示す声にすぎない。大切なのは私ではなく、神のことばであられるキリストだ」と言っているのです。

 

作者不明ですが、このような詩があります。

私ではなく、キリストがあがめられ、愛され、高められますように。

私ではなく、キリストが見られ、知られ、聞かれるように。

私ではなく、キリストがすべての行動の中にいますように。

私ではなく、キリストがすべての思いと言葉の中にいますように。

私ではなく、キリストが謙遜で静かな働きの中にいますように。

私ではなく、キリストがつつましく熱心な労苦の中にいますように。

キリスト、キリストだけです!

 

見栄や、見せびらかせがあってはいけない。

キリスト、キリストだけが魂を集めてくださる方です。

キリスト、キリストだけが遠からず私のビジョンを満たされるでしょう。

すばらしい栄光を私はすぐに見るでしょう。

キリスト、キリストだけが私のすべての願いを満たすのです。

キリスト、キリストだけが私のすべてとなられるのです。

 

私たちは、しばしばイエス様よりも自分が評価されることを求めることがあります。しかし、バプテスマのヨハネは、ただキリストだけがあがめられることを願いました。

 

それは彼の26節と27節のことばからもわかります。ここもご一緒に読んでみましょう。

「ヨハネは彼らに答えた。「私は水でバプテスマを授けていますが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。その方は私の後に来られる方で、私にはその方の履き物のひもを解く値打ちもありません。」

つまり、ヨハネは、「私よりもはるかに偉大な権威を持っておられる方があなたがたの中に来ておられる。私は、ただその方の到来を知らせている声にすぎないのであって、私にはその方の履き物のひもを解く値打ちもない」というのです。

 

当時、家の主人のくつのひもを解いていたのはその家のしもべたちでした。しかしヨハネは、そのくつのひもを解く値打ちもない者、値しない人間であると告白したのです。なぜなら、自分はただの人にすぎないが、この方は神の子であられるからです。

 

彼がこのように証しすることで、人々のキリストに向かって注がれる思いは、どれほど大きなものだったかと思います。ただキリストだけがあがめられますように!ヨハネの証しは、このキリストだけがクローズアップされるものだったのです。

 

私は今、こうして説教していますが、このような説教や証しは自分の体験談や自慢話をするのではありません。また、説教や証しを聞くというのは、証しする人のことを知るためではなくキリストを知るため、あるいは、キリストをより身近に感じるためにするのです。時々キリストよりもそれを話している人に注目が向けられて、肝心のキリストがどこかへ行ってしまうことがありますが、証しするというのはそういうことではないのです。聖書を通してキリストを人々に伝え、それを聞いた人々がキリストに心が向くようにするためなのです。それが証しの本来の目的です。ただキリストだけがあがめられますように!そう願いながら、私たちもキリストを証しする者でありたいと思います。

 

Ⅲ.神の子である証し(29-34)

 

第三に、ヨハネはキリストが単に偉大な方であるというだけでなく、この方が神の子、救い主であることを証ししました。29節から34節までをご覧ください。

「その翌日、ヨハネは自分の方にイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。 『私の後に一人の人が来られます。その方は私にまさる方です。私より先におられたからです』と私が言ったのは、この方のことです。私自身もこの方を知りませんでした。しかし、私が来て水でバプテスマを授けているのは、この方がイスラエルに明らかにされるためです。」

そして、ヨハネはこのように証しした。「御霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを私は見ました。私自身もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けるようにと私を遣わした方が、私に言われました。『御霊が、ある人の上に降って、その上にとどまるのをあなたが見たら、その人こそ、聖霊によってバプテスマを授ける者である。』私はそれを見ました。それで、この方が神の子であると証しをしているのです。」」

 

29節に、「その翌日、ヨハネは自分の方にイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。」とありす。その翌日とは、ユダヤ人たちから遣わされた祭司たちとレビ人たちの質問に答えた翌日のことです。ヨハネは自分の方にイエスが来られるのを見ました。すると彼は何と言ったでしょうか。彼はこう言いました。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。」ヨハネはなぜこのように叫んだのでしょうか?

 

当時、ユダヤの人にとって、「子羊」には特別な意味がありました。それは「過ぎ越しの子羊」を表していたからです。イスラエル人がエジプトで奴隷として苦しんでいたとき、神はモーセを遣わして、イスラエル人をエジプトから脱出させようとされました。イスラエル人を行かせまいとするエジプトの王パロに対し、神は十の災いをお下しになりましたが、十番目の災いは、人をはじめ、家畜に至るまで、エジプト中の初子という初子を殺すというものでした。ただし、子羊の血を取って二本の門柱とかもいに塗れば、主はその血を見て、災いを通り越してくださる、と約束されたのです。

それで、エジプト中の初子からすべての家畜の初子に至るまで死んでしまいましたが、神様が言われたとおり子羊の血を取って、それを二本の門柱とかもいに塗ったイスラエルの家だけはこの災害を免れました。

それ以来、イスラエル人は毎年この出来事を記念して「過越の祭り」を祝っているのです。ですから、「子羊」という言葉には、神の災いから救うものというイメージがあるのです。

 

また「子羊」という言葉には、罪を贖うというイメージもありました。神殿では毎日、人々の罪が贖われるために、罪のためのいけにえである子羊がささげられていました。子羊は、人々を罪から解放するためのいけにえだったのです。

 

ここでヨハネが「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。」と叫んだのは、こうした背景があってのことです。つまり、イエスこそ、私たちの罪を贖うための犠牲となって死なれる神の子羊である、ということです。

 

これが彼の証しでした。彼はキリストを信じれば病気が治るとか、心に平安が与えられるとか、商売が繁盛するとか、すべての願いが叶えられるとか、人生が豊かになると証言したのではなく、キリストは、私たちを罪から救ってくださる救い主であると証言したのです。勿論、イエス様を信じればすべての罪が赦され神との平和が与えられるわけですから、その結果、心に深い平安と喜びがもたらされるのは当然のことです。これまでは人の顔色ばかり気にしながら生きていたのが神を恐れて生きるようになるので、誠実な人となり、周りの人からも信頼され、仕事もうまくいくようになるでしょう。家族の中に喜びと楽しさがあふれるようになります。しかし、それはイエス様を信じた結果であって目的ではありません。私たちの人生の幸福の根源は罪が赦されることであって、それはこのキリストにあるということです。イエスこそ、世の罪を取り除く神の子羊であり、そのために永遠の昔から神によって備えられていた方だったのです。

 

ヨハネは、「その方は私にまさる方です。私より先におられたからです。」と言いました。この「先におられた」というのは、先に生まれたということではなく、初めからおられたということです。つまり、永遠の初めからおられたということ、永遠の神であるということです。その方こそイエス・キリストであると言っているのです。

 

ヨハネはこの方のことを知りませんでした。バプテスマのヨハネは、イエスの従兄弟に当たりますから、面識がなかったということではありません。面識はありました。しかし、見識がなかったのです。見識というのは、物事の本質を見通すことです。ヨハネはイエスの従兄弟としてイエスのことを知っていましたが、その本質がわからなかったのです。イエスが神の子キリストであることを知らなかったのです。

 

このことが、私たち一人一人にも問われています。イエス様のことを聞いているかもしれません。しかし、イエスが神の子キリストであるということ、この方が私たちを罪から救ってくださる方であるということを知っているかというと、意外に知らないということがあります。

 

いったい彼はどのようにして知ったのでしょうか。32節をご覧ください。「そして、ヨハネはこのように証しした。「御霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを私は見ました。」

神の御霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見たのでわかったのです。なぜなら、水でバプテスマを授けるようにと彼を遣わされた方が、彼にこう言われたからです。33節、「『御霊が、ある人の上に降って、その上にとどまるのをあなたが見たら、その人こそ、聖霊によってバプテスマを授ける者である。』」彼はそれを見たのです。それで彼は、この方こそ神の子であると証ししたのです。

 

これは何を表しているのかというと、イエス様のバプテスマの出来事です。イエス様は、バプテスマを受けるためにヨハネのところにやって来ました。勿論、ヨハネは罪のないキリストがバプテスマを受けるなんてとんでもないと断るのですが、そのときイエスが、「今はそうさせてもらいたい。このようにして正しいことをすべて実現することが、わたしたちにふさわしいのです。」(マタイ3:15)と言われたので、ヨハネはイエスが言われたとおりにしました。

するとどうでしょう。イエスがバプテスマを受けて、すぐに水から上がられると、天が開け、神の御霊が鳩のようにイエスの上に降られるのを見たのです。それで彼は、この方こそ、神の子キリストだと確信したのです。そのことです。ヨハネはそれを見ました。それで、この方が神の子であると証ししているのです。

 

皆さんはどうでしょうか。皆さんは、それを見たでしょうか。この方の上に、神の御霊が降られたのをご覧になられたでしょうか。確かに、ヨハネのようにそのことを以前から聞いていたかもしれません。しかし、実際にこの方の上に神の御霊が降られるのを見ていないかもしれません。この方が、私たちを罪から救ってくださる方であるということを確信しなければなりません。水でバプテスマを受けているかもしれませんが、聖霊のバプテスマを受けなければなりません。聖霊のバプテスマとは、イエスを信じて、新しく生まれ変わることです。

 

ニコデモとの会話の中でイエス様がこう言われました。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれければ、神の国に入ることはできません。肉によって笑まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」」(ヨハネ3:5-6)

 

この方こそ、聖霊によってバプテスマを授けることができる方です。この聖霊のバプテスマを受けておられるでしょうか。聖霊のバプテスマを受けること、つまり、キリストを信じて心に受け入れることで、すべての罪が赦され、神の聖霊があなたの心に住まわれるようになります。そして、この聖霊に支配され、満たされると、キリストの香り放つようになります。その結果、主が共におられるという確信が与えられ、聖霊の実である愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制が実っていきます。イエス様は、そのような人生の変革をもたらしてくださいます。それはこの方のことを聞いたことがあるというだけでなく、この方の上に御霊が降られるのを見たからです。この方が私たちを罪から救ってくださり、聖霊によってバプテスマを授けてくださったからなのです。

 

ヨハネはこのことを証ししました。私たちも罪から救われた者としてこのことを証ししましょう。ヨハネの「声」が荒野に響き渡ったように、あなたの「声」があなたの周りにキリストの恵みの声となって響き渡っていきますように。