きょうは、ヨハネの福音書3章22節から30節までの箇所から、「主役はキリスト」というタイトルでお話しします。
Ⅰ.ヨハネの弟子たちのいらだち(22-26)
まず22節から26節までをご覧ください。
「その後、イエスは弟子たちとユダヤの地に行き、彼らとともにそこに滞在して、バプテスマを授けておられた。
一方ヨハネも、サリムに近いアイノンでバプテスマを授けていた。そこには水が豊かにあったからである。人々はやって来て、バプテスマを受けていた。ヨハネは、まだ投獄されていなかった。
ところで、ヨハネの弟子の何人かが、あるユダヤ人ときよめについて論争をした。彼らはヨハネのところに来て言った。「先生。ヨルダンの川向こうで先生と一緒にいて、先生が証しされたあの方が、なんと、バプテスマを授けておられます。そして、皆があの方のほうに行っています。」」
「その後」とは、ニコデモとの会話の後で、のことです。イエスは弟子たちとユダヤの地に行き、彼らとともにそこに滞在して、バプテスマを授けておられました。それがどこであったかのかははっきりわかりませんが、おそらくヨルダン川でのことでしょう。というのは、26節に、「先生。ヨルダンの川向うで先生と一緒にいて、先生が証しされたあの方が、なんと、バプテスマを授けておられます。」とあるからです。おそらく、ヨハネがいた所からそう遠くない場所でイエスはバプテスマを授けておられたのだと思います。
一方ヨハネはというと、サリムに近いアイノンという所でバプテスマを授けていました。そこには水が豊かにあったからです。その頃はまだ、ヨハネは投獄されていませんでした。ヨハネはこの後でガリラヤの領主であったヘロデ・アンティパスに捕らえられ投獄されますが、まだ捕らえられていなかったので、バプテスマを授けていたのです。
ですから、その頃はイエスとバプテスマのヨハネの双方がバプテスマを授けていました。これは、どういうことでしょうか?それはちょうどリレーのバトンの受け渡しのようです。ヨハネは旧約聖書の最後の預言者でした。彼において旧約の時代は終わります。旧約聖書の主な役割は、キリストが来られることを予め前もって告げることでした。そのキリストが来られたのです。ですから、ヨハネの働きが終わって、ヨハネが指し示していたキリストの働きが今まさに始まろうとしていました。そのバトンがキリストへと渡されようとしていたのです。
ところが、ヨハネの弟子たちはそのことが理解できませんでした。それで彼らはヨハネのところに来て、こう言いました。26節、「先生。ヨルダンの川向うで先生と一緒にいて、先生が証しされたあの方が、なんと、バプテスマを授けておられます。」
バプテスマのヨハネが、以前ヨルダン川でバプテスマを授けていた時は、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川の全地域から人々がやって来ました。その中には、パリサイ人やサドカイ人も大勢いれば、ローマの兵士たちもいました。ところが、バプテスマのヨハネが主イエスのことを、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。」(1:29)と言ってあかしし始めると、人々はどんどん彼から離れて行き、イエスの方について行くようになりました。彼らは、それがおもしろくなかったのです。
ある註解者は、この時のヨハネの弟子たちの心境をこのように推察しています。
「ヨハネの弟子たちは、多くの者がイエスのもとに行くのを見て、いらだちを覚えたのであろう。ヨハネの使命が、イエスを指し示すことであることは百も承知していたはずなのに、『皆があの方のほうに行きます』という言葉から想像できるように、人の波が大きくイエスの方に移っていくのを見た時、弟子たちは切ない気持ちになったのであろう。そして、その切ない気持ちはいらだちへとふくれあがっていったに違いない。ヨハネの弟子たちの心の中にはイエスに対するねたみの思いが湧き上がってきたのではないだろうか。人が離れていくのを寂しいと思う気持ちが雪だるま式にふくれあがり、やがてねたみへと変わっていったのである。人間の争いのほとんどは、この感情を震源地としているのである。イエスを十字架につけたのも、ユダヤの指導者たちのねたみのせいであったと他の福音書には記されている。」
この時のヨハネの弟子たちの心境がよく表されているのではないでしょうか。人間の争いのほとんどは、この感情を震源地としているのです。すなわち、人をねたむ心こそが、人間の争いの原因なのです。
先日祈祷会で士師記12章から学びましたが、エフタに詰め寄ったエフライム人の問題もここにありました。彼らはアンモン人に勝利したエフタに詰め寄ってこう言い増した。「なぜ、あなたは進んで行ってアンモン人と戦ったとき、一緒に行くように私たちに呼びかけなかったのか。」(士師記12:1)
なぜって、以前エフタがアンモン人と戦ったとき、彼らに助けを求めたのに、彼らは助けてくれなかったからです。それなのに、今ごろになって不平を漏らし、戦いを挑んでくるなんて、筋が違います。それは彼らの中に高ぶりとエフタに対するねたみがあったことが問題でした。
パウロは、コリントの教会に宛てて書いた手紙の中で、彼らは御霊の人ではなく、まだ肉の人だと言っています。なぜなら、彼らの間にはねたみや争いがあったからです。それである人は「私はパウロにつく」と言い、別の人は「私はアポロに」と言っていたのです。アポロとは何ですか。またパウロとは何ですか。彼らは、あなたがたが信じるために用いられた奉仕者であって、主がそれぞれに与えられたとおりのことをしたのです。「私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。」(Ⅰコリント3:6-7)
あなたにはこのような思いはないでしょうか。私たちは、すぐに人と自分を比較してはねたみを抱いてしまいます。自分よりもほかの人の方が優れているのを見ると、あるいは、ほかの人がうまく行っているのを見ると、その人が妬ましくなるのです。しかし、それはただの人、つまり、イエスを知らない人と同じです。そうした思いはただ争いを引き起こすだけで、そこからは何も良いものが生まれてきません。ですから、もしあなたの中にこうした思いがあるならば、イエス様に赦していただきながら、神の御霊によって聖めていただかなければなりません。
Ⅱ.自分の立場をわきまえる(27-28)
次にそうした弟子たちの訴えに対して、バプテスマのヨハネがどのように答えているかを見てみましょう。27節と28節をご覧ください。
「ヨハネは答えた。「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることができません。『私はキリストではありません。むしろ、その方の前に私は遣わされたのです』と私が言ったことは、あなたがた自身が証ししてくれます。」
「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることができません。」とは、どういう意味でしょうか?人々がキリストの方に行くのは、神がそうさせておられるからであるということです。それなのに、ねたみを抱くことがあるとしたら、その神の主権を侵害すことになります。私たちは、どんな場合でもそこに神の御手があることを認めなければなりません。
それは私たちの生死に関しても言えることでしょう。たとえば、私たちの家族の中に障害のある子どもが生まれてくると、なかなかそれを受け入れることができないかもしれません。そのことで親は自分を責め続けるでしょう。しかし、そこに神の御手があると信じ、神が与えてくださったものであると受け止めるなら、その苦しみから解放されるでしょう。
それは自分のいのちについても同じことが言えます。人は自分の死が近づいて来るとなかなかそれを受け入れることができません。そのためにもがき苦しむのです。しかし、クリスチャンは違います。クリスチャンは、自分の人生すら自分のものではなく、自分がこの世に生かされているのは、神が自分にいのちを与えてくださったからであると受け止めているので、そして、この世での使命を果たし終える時、神はこの世のすべての苦しみから解放して、もっとすばらしい天の御国に入れてくださるということを信じているので、安らかに死を迎えることができるのです。
今、さくら市ミュージアムで「青木義雄と内村鑑三」展をやっておりますが、昨日はその記念講演として内村鑑三の人と信仰についての講演会がありました。講師が、黒川知文先生と言って、私の神学校の時の講師だったので、講演を聞きに行きました。内村鑑三の信仰に改めて感動しました。
何に感動したのかというと、その講演の中で内村鑑三が愛娘のルツ子さんを天に送るのですが、その告別式で内村鑑三がこのように言ったことです。「今日はルツ子の葬儀ではなく、結婚式であります。私は愛する娘を天国に嫁入りさせたのです」そして、墓地に埋葬する際には、一握りの土をつかみ、その手を高く上げ、甲高い声で「ルツ子さん、万歳!」と大勢の参列者の前で叫んだのです。後に東大の総長となった矢内原忠雄は、当時19歳でしたが、この叫びを聞いて雷に撃たれたような衝撃を受けたと言っています。
なぜ内村鑑三がこのように言うことができたのか。それは彼の中にキリストの再臨信仰があったからです。かなわち、キリストが再臨されるとき、キリストにあって死んだ者の復活があり、生ける者の携挙があると堅く信じて動かなかったからです。その時から、彼の再臨運動が一層熱を帯びていくわけです。そして、各地での聖書講義には平均で800人もの人々が集まったと言われています
17歳で札幌農学校に入学した彼は、キリストとの出会うわけですが、26歳の時にアメリカのアマースト大学でシーリー学長との出会いによって真の救いの体験をすると、このルツ子さんの死という試練を乗り越えて、死んでも復活する再臨信仰に至り、このように言うことができたのです。
それは生死に関することだけでなく、私たちの人生のすべてにおいて言えることです。人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることができません。今、私たちに起こっているすべてのことが神によって与えられているものであると受け止められるなら、すべての心のいらだちから解放されるでしょう。たとえ人が自分のところから他の人のところへ移って行くようなことがあったとしても、それが天から与えられたことであると受け止めるなら、すべてを神にゆだねることができるのです。
バプテスマのヨハネの場合はどうだったでしょうか。彼は28節でこのように言っています。「私はキリストではありません。むしろ、その方の前に私は遣わされたのです』と私が言ったことは、あなたがた自身が証ししてくれます。」
彼は、自分に与えられている立場がどのようなものであるかを、よく自覚していました。自分がどのような者であるかが分からない人は、とかく傲慢になります。パウロはコリントの教会の人たちに対してこう言っています。「いったいだれが、あなたをほかの人よりもすぐれていると認めるのですか。あなたには、何か、人からもらわなかったものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。」(Ⅰコリント4:7)
これはどういうことかというと、彼らが持っているものはすべて神からもらったものなのに、どうしてもらったものでないかのように誇るのかということです。彼らは、自分がどこから出発したのかを忘れていました。罪と汚れの中から、神の一方的な恵みによって、キリストの十字架の贖いによって救われたのに、そして、その神の恵みとして御霊の賜物が与えられたのに、あたかも自分の力で得たかのように錯覚していたのです。ですから、「あの人は、なぜ、自分たちのように神に仕えていないのか」と批判していたのです。それは彼らが、自分たちがどのような者であるのかを忘れていたからです。
自分を誇る人の多くは、この点がよくわかっていません。頭がよいということにしても、努力できるということにしても、ある種の才能を持っているということにしても、どれもすばらしいことですが、しかし、どれ一つとして自分の力で得たものではないのです。それらはみな与えられたものなのです。そういうことが分かってくると、自分の分もまたおのずと分かってくるのではないでしょうか。
バプテスマのヨハネは、自分に与えられていたものをよく自覚していました。「私はキリストではありません。むしろ、その方の前に私は遣わされたのです。」私はそういう者でしかないのです。だから、人々があの方の方へ行ったとしても、何の問題もありません。むしろ、それが本望です、と言うことができたのです。
謙遜ということは、口で言うのはやさしいことですが、実際にそれを行うということは、決してやさしいことではありません。特に、いかに人を蹴り落として自分が上に立つかを求めているこの競争社会の中に生きている私たちにとっては、本当に難しいことです。しかし、そのような中にあっても真に謙遜に生きるコツは、このバプテスマのヨハネのように自分に与えられた立場をわきまえ、そこに生きることなのです。
Ⅲ.主役はキリスト(29-30)
では、主役は誰でしょうか。主役はキリストです。バプテスマのヨハネはそのことを29節と30節でこのように言っています。
「花嫁を迎えるのは花婿です。そばに立って花婿が語ることに耳を傾けている友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。ですから、私もその喜びに満ちあふれています。あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」
バプテスマのヨハネは、続けて弟子たちに語っています。「花嫁を迎えるのは花婿です。そばに立って花婿が語ることに耳を傾けている友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。ですから、私もその喜びに満ちあふれています。」
ヨハネはここで自分のことを、結婚式における花婿の友人にたとえています。花婿の友人とは、ベストマンとかブライズメイトのことです。日本ではベストマンとかブライズメイトのいる結婚式はあまり見られませんが、アメリカの結婚式ではよく見られます。というか、ほとんどの結婚式におります。彼らの役割は何かというと花嫁や花婿を引き立て、彼らを助け、彼らが結婚して、喜びの生活に入れるようにすることです。あくまでも結婚式の主役は花嫁であり、花婿です。その主役である花嫁を引き立て、そばに立って耳を傾け、大いに喜んでいるのが花婿の友人なのです。間違っても、自分が出すぎてはいけません。バプテスマのヨハネはここで、自分はその花婿の友人であり、花婿であられるキリストの声を聞いて喜びに満ち溢れていると告白しているのです。
これこそヨハネが彼の弟子たちに求めたことでした。そして、これはすべてのクリスチャンにも求められていることです。クリスチャンはみなこの花婿であられるキリストの友人であり、あくまでも主役はキリストなのです。このことを忘れてはいけません。というのは、謙遜はこのことをわきまえることから得られるものだからです。つまり謙遜は、謙遜になろうと努力することによって獲得できるようなものではなく、キリストとの正しい関係にあることによってもたらされるものであるということです。キリストはこのように言われました。
「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11:28-30)
どうすれば、たましいに安らぎが来るのでしょうか。キリストのくびきを負って、キリストから学ぶことによってです。なぜなら、キリストは柔和でへりくだっているからです。ですから、このキリストのくびきを負って、キリストから学ぶなら、たましいに安らぎを得ることができるのです。くびきとは、牛や馬など二頭の家畜をつなぐ棒のことですが、普通は牛や馬の頸部に取り付けられます。つまり、このくびきを負って、キリストとつながれているなら、私たちも柔和で、へりくだった者になることができるということです。
私たちは、花婿に仕える友人のように、花婿であるキリストを喜び、キリストに仕える者です。そして、花婿が花嫁と結ばれることによってその役目を果たし終えるように、キリストによって成し遂げられた救いの御業が全世界に宣べ伝えられ、多くの人々が救われて、世の終わりに天において子羊の婚宴が開かれることを待ち望みつつ、主に仕えて行く者なのです。
来週はM兄とT姉のバプテスマ式が行われますが、それはまさに花婿であられるキリストとの結婚式でもあります。やがて世の終わりにキリストとの婚宴が開かれる時、そこに招かれることでしょう。それはキリストの喜びであり、私たちの喜びでもあります。なぜなら、私たちは花婿のそばに立って、花婿が語ることに耳を傾け、花婿の声を聞いて大いに喜んでいる者だからです。それが私たちの喜びでもあるのです。
最後のところでヨハネは、「あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」と言っています。これこそクリスチャンとしての最大のあかしです。「私が盛んになり、あの方は衰えなければなりません。」ではなく、「あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」それでいいのです。それが私たちの人生であり、私たちの喜びだからです。
パウロは、コリント人への手紙の中で、「私たちは自分自身を宣べ伝えているのではなく、主なるイエス・キリストを宣べ伝えています。私たち自身は、イエスのためにあなたがたに仕えるしもべなのです。」(Ⅱコリント4:5)と書きましたが、それはまさにこのことでした。私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるイエス・キリストを宣べ伝えるのです。あくまで主役はキリストなのです。そのことを忘れないでください。
今日からアドベントが始まりました。クリスマスの12月25日と言えば、冬至のころです。一年で一番夜が長い時期です。それから少しずつ昼が長くなっていきます。キリストがいよいよ光り輝き、栄光をお受けになられるのです。それに対して、バプテスマのヨハネは半年早く誕生しました。これはあくまでもそのように定められたということであって、実際のキリストの誕生日はいつなのかははっきりわかりません。ただわかっていることは、その半年前にバプテスマのヨハネが誕生したということです。ということは、クリスマスが12月25日とすれば、彼の誕生は6月24日となります。6月24日は夏至のころで、それから次第に昼が短くなっていきます。これは極めて象徴的であると言えるのではないでしょうか。バプテスマのヨハネは、この方をあかしさえすれば、それでこの世における使命は終わり、消えていくのです。まさに彼の人生は、「あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」でした。
それは、私たちの人生も同じです。私たちの人生は、この方をあかしさえすれば、それでいいのです。それが本望です。それでこの世における使命は終わり、消えていくべき者にすぎないのです。私たちは、この神の定めを本当に理解しているでしょうか。それが本当に分かると、私たちの心は真の自由を得ることができます。私たちもこのバプテスマのヨハネから学び、彼のような生涯を送らせていただきましょう。あくまでも主役はキリストです。この方が盛んになり、私は衰えていかなければなりません。この方の声を聞いて大いに喜びましょう。キリストの心を心とする者、それが花婿であるキリストの友なのです。