ヨハネの福音書5章1~18節「ベテスダと呼ばれる池で」

ヨハネの福音書から学んでおりますが、きょうから5章に入ります。きょうは、イエス様がベテスダと呼ばれる池で38年間も病気で横になっていた人をいやされた出来事から学びたいと思います。

 

Ⅰ.良くなりたいか(1-9a)

 

まず1節から9節前半までをご覧ください。

「その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があり、五つの回廊がついていた。その中には、病人、目の見えない人、足の不自由な人、からだに麻痺のある人たちが大勢、横になっていた。そこに、三十八年も病気にかかっている人がいた。イエスは彼が横になっているのを見て、すでに長い間そうしていることを知ると、彼に言われた。「良くなりたいか。」病人は答えた。「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます。」イエスは彼に言われた。「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」すると、すぐにその人は治って、床を取り上げて歩き出した。」

 

1節には、「その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。」とあります。この「ユダヤ人の祭り」が何の祭りであったのかはわかりません。しかし、ユダヤ人が「祭り」という場合、それは過越しの祭りを意味していたので、おそらく過越しの祭りであったと考えられます。もしそうであったとすれば、イエス様が公生涯に入られてエルサレム上られたにのは、これが2回目となります。4章54節に、「イエスはユダヤを去ってガリラヤに来てから、これを第二のしるしとして行われた。」とありますが、最初にエルサレムからガリラヤに来られ、第二のしるしとして王室の役人の息子を癒されました。その後、イエスは再びこのユダヤ人の祭りがあって、エルサレムに上られたのです。

 

エルサレムには、羊の門の近くに、へブル語でベテスダと呼ばれる池がありました。「ベテスダ」とは「あわれみの家」という意味です。その池には五つの回廊がついていました。回廊とは、建物や中庭を囲むように巡らされた屋根付き廊下のことです。このベテスダの池にはその回廊が五つついていました。そしてそこに病人、目の見えない人、足の不自由な人、からだが麻痺している人たちが大勢、横になっていました。なぜなら、その池の水が時々動き、その時に、真っ先にこの池に入った人は、どのような病気でもいやされる、という言い伝えがあったからです。

 

きょうの聖書の箇所を見ると、4節が抜けているのに気付いた方おられるかと思いますが、下の脚注を見ると、異本に3節後半と4節として、次の一部または全部を加えるものもあるとして、そのことが説明されてあります。つまり、「彼らは水が動くのを待っていた。4 それは、主の使いが時々この池に降りて来てみずを動かすのだが、水が動かされてから最初に入った者が、どのような病気にかかっている者でも癒されたからである。」ということです。この箇所は、多くの有力な写本には載っていないので、本文には含まれていませんが、当時、このような噂が広がっていたのでしょう。「溺れる者わらをもつかむ」ということわざがありますが、大勢の病人が一縷(いちる)の望みを置いて、そこにやって来ていたのです。

 

そこに、38年も病気にかかっている人がいました。彼の病気がどのような病気だったのかはわかりませんが、7節で、彼が、「水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます。」と言っているのを見ると、からだの機能が麻痺する病気だったのではないかと思います。それにしても38年ですよ。38年といったら本当に長い年月です。それは人生の半分、否、人生のほとんどと言っても過言ではないでしょう。彼はその期間を病気のために費やしてきたのです。そして今、神のあわれみを求めてここにいたのです。

 

そこにイエス様が来られると、イエス様は彼が横になっているのを見て、すでにそれが長い間そうしていることを知って、何と言われたでしょうか。イエス様は、「良くなりたいか」と言われました。「良くなりたいか」って、良くなりたいからここにいるのではないですか。病人ならだれでも良くなりたいと思うのは当然のことです。そんなことを言うとはちょっと失礼ではないかとさえ感じます。ではなぜイエス様はこのように言われたのでしょうか。それは、その後の彼の答えを見るとわかります。

 

7節を見ると、彼は「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます。」と答えています。この病人はイエス様から「良くなりたいか」と言われたとき、「はい、良くなりたいです。」と答えませんでした。彼は良くなりたいと答えたのではなく、どうして良くなれないのかの理由を述べただけでした。すなわち、水がかき回されたとき、池の中に自分を入れてくれる人がいないということ、そして、行きかけると、もうほかの人が先に下りて行くということでした。つまり、彼は最初からあきらめていたのです。病気がいやされることなどありえないし、そんなことは無理だ、と思っていました。ですから、イエス様はこの病人に「良くなりたいのか」と言われたのです。それは、本当に良くなりたいと思っているのか、そのことを本気で願っているのかということです。彼がイエス様から「良くなりたいか」と言われたとき、「もちろん、そうです」とすぐに答えることができなかったのは、そのような思いが、とっくの昔に失せていたからなのです。たとえそのような気持ちがあったとしても、「このままでいた方が楽だ」という思いが彼のどこかにあったかもしれません。このまま病気でいた方が人々から施しを受けながら生きていくことができるけれども、もし治ってしまったら、今度は自分の力で生きていかなければならない。病気以外の様々な問題に直面することもあるだろう。ですから、病気が治ることで生活が変わることに少なからず不安があったのです。それで、無意識のうちに「自分には無理だ」、「誰も助けてくれないから」ということを口実に、そのままの状態にとどまっていようとしたのです。

 

しかし、それはこの病人だけではありません。それは、私たちにも言えることです。たとえば、今の生活を変えたいと思っていても本当に変えたいのかというとそうではなく、「どうせ無理ですよ」「解決することなんてできるはずがない」と半ばあきらめていることということがあるのではないでしょうか。あるいは、良くはなりたいけれども、「このままでいた方が楽だ」という思いが、良くなりたいという思いにブレーキをかけていることがあるのです。

 

武庫之荘福音自由教会の大橋秀夫先生は、これをサーカスの象にたとえました。ある動物園の象の鎖が解けたというニュースを聞きました。幼稚園の園児が動物園に遠足に行って、その象さんを見たときに、重い鎖でつながれていました。しかも、その鎖は1.5mぐらいしかありませんでした。それで幼稚園の子どもたちが帰ってから、園長先生に、「象さんかわいそう」という手紙を書いたのです。動物園の方ではそれで数千万円の予算を割いて園舎を改造し、象の鎖を解いてあげたというわけです。

そのニュースを聞いた大橋秀夫先生は、一つのことを思い出しました。それはサーカスの象のことです。サーカスの象も鎖につながれているのですが、動物園の象と違って、コンクリートで固められた杭につながれていません。なぜならば、サーカスの象は、旅から旅へと移動するので、たいがいは、象の力ならば簡単に抜けてしまうような木の杭とか、鉄の杭につながれているだけなのです。それなのに、サーカスの象は、なぜ逃げないのでしょうか。その答えはこうです。子どもの時に、子どもの時の象なので、小象の時ですね。その小象の時から絶対に抜けないような鎖につながれているんです。そうすると、大きくなっても、この鎖を結んだ杭は抜けない、と思ってあきらめてしまうのだそうです。これが象の飼育係のコツなのでしょうか。一回でも抜くことに成功すると、これは抜けると思ってしまうんだそうです。ですから、小象の時に絶対に抜けない杭につないでおくのです。(「成長する人、しない人」P31~32)

 

私たちも、この象と同じように、自分の中に「できない」という思いが働いて、最初からあきらめていることがでるのではないでしょうか。イエス様はそんな私たちに「良くなりたいか」と問うておられます。私たちは、もっと良くなりたいと思っています。しかし、そこに「でも」という言葉が続くのです。「でも、私は受験に失敗した」「でも私にはそんな能力なんてない」「結婚生活もうまくいかなかった」と、自分で自分に鎖をかけてしまうことがあるのです。あのサーカスの象のように。

 

しかし、イエス様はこの鎖を解き放つことができます。大切なのは、私たちが本気で良くなりたいと願うかどうかです。イエス様は、私たちが求めていないのに無理矢理何かをすることはなさいません。イエス様は、まず私たちが自分の状態を知り、そこから解放されることを本当に求めているかどうかに気づかせることによって、生き生きした人生を歩ませようにされるのです。

 

この病人の場合はどうだったでしょうか。8節と9節をご覧ください。

「イエスは彼に言われた。「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」すると、すぐにその人は治って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日は安息日であった。」

 

「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます。」と答えた病人に対して、イエス様は、「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」と命じられました。すると、その人はどうなったでしょうか。その人はすぐに治って、床を取り上げて歩き出すことができました。象の鎖が引きちぎれた瞬間です。彼は38年間も自分を縛っていた問題から解放されたのです。

 

しかし、このところをよく見ると、彼がいやされるために、彼がイエス様を信じたということは一言も書かれていません。確かに、彼はイエス様のことばに応答して自分の足に力を入れて歩き出すことができたのでしょうが、そのためにイエス様を信じたといったことは全く書かれていないのです。それがイエス様であることすらわかりませんでした。それがイエス様であると分かったのは、後で彼が宮に行って、再びイエス様と出会った時です。それまではわかりませんでした。これはどういうことでしょうか。

 

これは、ヨハネが記す7つのしるしの第三番目のしるしです。「しるし」とは証拠としての奇跡のことです。イエス様がメシヤであることをユダヤ人たちに証明するためのものです。この「しるし」においては、その人に信仰があるかどうかは問われないということです。むしろ治してくださった方がどのような方であるのかが重要です。ですから、ここには彼がどれだけイエス様を信じたかということよりも、イエス様が彼をどのようにいやされたのかに力点が置かれているのです。すなわち、このいやしにおいては、徹頭徹尾、イエス様が主導権を握っておられたということです。イエス様の方からベテスダと呼ばれる池に行かれ、イエス様の方から38年も病気にかかっておられる人をご覧になら、イエス様の方から近づいて行かれました。そして、イエス様の方から「良くなりたいか」と言われたのです。彼は自分にはできない理由をいろいろ並べましたが、それでもイエス様はあわれみをもって「床を取り上げて歩きなさい」と言って彼をいやされました。そうです、すべてはイエス様の一方的なあわれみによるのです。この池が「ベテスダ」という名前であったのもそのためです。「ベテスタ」とは「あわれみの家」という意味です。イエス様はあわれみ深い方です。イエス様は、その深いあわれみをもって私たちをいやすことができる救い主なのです。

 

Ⅱ.もう罪を犯してはなりません(9b-14)

 

次に9節後半から15節までを見ていきたいと思います。

「ところが、その日は安息日であった。そこでユダヤ人たちは、その癒やされた人に、「今日は安息日だ。床を取り上げることは許されていない」と言った。しかし、その人は彼らに答えた。「私を治してくださった方が、『床を取り上げて歩け』と私に言われたのです。」彼らは尋ねた。「『取り上げて歩け』とあなたに言った人はだれなのか。」しかし、癒やされた人は、それがだれであるかを知らなかった。群衆がそこにいる間に、イエスは立ち去られたからである。後になって、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。「見なさい。あなたは良くなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないと、もっと悪いことがあなたに起こるかもしれない。」

 

38年間病気だった人は治って、宮にいました。これは、ユダヤ教の神殿のことです。おそらく彼は、自分の床を家に運び、すぐに神殿に上って行って、神に感謝をささげようとしたのでしょう。しかし、そこで一つの問題が起こりました。それは、その日が安息日であったということです。10節には、「そこでユダヤ人たちは、その癒やされた人に、『今日は安息日だ。床を取り上げることは許されていない』と言った。」とあります。

なぜこれが問題だったのかというと、彼らは安息日に床を取り上げてはならないと思っていたからです。どういうことかというと、確かにモーセの十戒には安息日に関する規定がありますが、それは、「安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。」(出エジプト20:8)というものでした。六日間働いて、すべての仕事をしなければなりませんでした。しかし、七日目は、主の安息の日です。この日にはいかなる仕事もしてはなりません。問題はこの「いかなる仕事」とは何かということです。彼らはそれを厳しく守るために安息日にしてはならない39項目からなる労働のリスト挙げていました。そして、その中に「どんなものでも運搬してはならない」という決まりがあったのです。ここでユダヤ人が問題にしたのはそれです。つまり、安息日に人をいやしたことが問題だったのではなく、安息日に床を取り上げて運んだことが問題だったのです。全くナンセンスです。彼らは安息日律法の文言に捉われ、その安息日律法が本来目指していた精神を見失っていました。

 

そこで彼は答えました。11節、「私を治してくださった方が、『床を取り上げて歩け』と私に言われたのです。」すると今度は、そんなことを言ったのは誰かと、問い正しました。しかし、いやされた人は、それがだれであるかを知らなかったので、答えることができませんでした。群衆がそこにいる間に、イエスは立ち去っておられたからです。

 

しかし、後になって、イエスは宮の中で彼を見つけると、こう言われました。14節です。「見なさい。あなたは良くなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないと、もっと悪いことがあなたに起こるかもしれない。」

どういうことでしょうか。これを読むと、罪を犯すと、病気が再発してもっと悪くなるよと脅しているかのように感じるかもしれませんが、これはそういうことではありません。確かに、飲み過ぎで肝臓が悪くなったら、お医者さんはその人に、「これからは飲み過ぎに注意してください。そうでないともっと悪くなりますよ」と言うかもしれません。それに、当時は、病気の原因は罪を犯したからだと考えられていたので、そのように思うのも無理もなかったかもしれません。しかし、イエス様がここで言われたのはそういう意味ではなく、神との関係における罪のことでした。つまり、「もう罪を犯してはなりません」というのは、どんな罪も、どんな悪いことも一切してはならないということではなく、故意に神に背を向け、神との関係を自ら拒絶することがないようにということだったのです。私たちは罪を犯さずには生きて行けません。罪を犯さないように努力することは大切なことですが、もっと大切なことは、自分が罪を犯すような弱い者であることを認め、神の前に日々悔い改めて生きることです。つまり、神の恵みとあわれみに生きることなのです。

 

そうでないと、もっと悪いことが起こるかもしれないからです。この「もっと悪いこと」とは何でしょうか。これをこの罪との関係で考えるなら、これは肉体的な面だけでなく霊的な面も含めてのことであるのがわかります。つまり、もしあわれんでくださった神様に背を向けて生きるようなことがあるならば、今までの38年間の不自由な生活以上に、もっと悪いこと、すなわち、彼の人生から平安や安息が失われてしまうことになるかもしれないということです。ローマ6章32節に、「罪からくる報酬は死です。」とあるように、永遠に神との交わりから断たれてしまうことにもなりかねません。もしそのようなことがあるとしたら、からだは良くなったとしても、それ以上に不自由な者、最悪な結果になってしまいます。そうならないように、いつも神様に信頼し、感謝して生きるように、と言われたのです。

 

Ⅲ.ベテスダの池、イエス・キリスト(15-18)

 

最後に16から18節を見て終わりたいと思います。

「その人は行って、ユダヤ人たちに、自分を治してくれたのはイエスだと伝えた。そのためユダヤ人たちは、イエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。」そのためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っていただけでなく、神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされたからである。」

 

ベテスダの池でいやされた人は、自分が誰によっていやされたのかを知ると、ユダヤ人たちに、自分を治してくれたのはイエスだと伝えました。それを聞いたユダヤ人たちは、イエスを迫害し始めます。それは、イエスが安息日の律法を破ったからです。そればかりではありません。イエスを殺そうとするようになりました。それは、イエス様が「わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです」と言って、ご自分を神と等しくされたからです。

 

この神をご自分の父と呼んだということですが、それは、イエス様がご自分を父なる神と等しい位置に置かれたということです。少なくとも、当時のユダヤ人たちはそのように理解していました。つまり、イエス様はご自分がメシヤであり、神と等しい者であると宣言されたのです。それでユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになったのです。

 

ヨハネが、第三のしるしとしてこの奇跡を取り上げた理由はここにあります。つまり、この38年も病気で横になっていた人をいやすことによって、イエスこそメシヤであられるということ、イエスこそ救い主であられるということを示そうとされたのです。これがわからなければ、どんなに律法を守っているようであっても全く意味がありません。なぜなら、律法が指し示していたのはこのイエス・キリストであったからです。律法は良いものですが限界があります。それは私たちに罪を示し、救いが必要であることを悟らせるものです。パウロはガラテヤ書の中で、律法はキリストのものに導く養育係だと言っているのはそのためです。しかし、ここに律法が指し示していた、しかも律法の要求を完全に満たした救いが現れました。それがイエス・キリストです。神の救いは自分の努力や力によってもたらされるのではなく、ただイエス・キリストによってもたらされます。このベテスダの池での出来事は、そのことを示していたのです。

 

このベテスダの池には五つの回廊がついていましたが、ある人たちは、この五つの回廊は、モーセ五書と呼ばれる律法を表していたと考えています。モーセ五書とは、創世記から申命記までの五つの書です。モーセが書いたのでモーセ五書と呼ばれています。その回廊にベテスダの池がありました。それは、この場所が神のあわれみを受けるためには、五つの回廊に象徴される律法の戒めをきちんと守らなければならない」ということを示していたというのです。それはこの律法と恵みとの関係から考えるとあながち間違いであるとは言えません。その回廊にいた人の中で、自分の力で救われた人がいたでしょうか。だれも律法を完全に守ることができる人などいないのです。

しかし、ここに律法とは別の、しかも律法によって証しされた救いがあります。それがイエス・キリストです。キリストはメシヤとしてこの世に来てくださり、神のあわれみを表してくださいました。「起きて、床を取り上げて歩きなさい」と言われ、罪の中に伏せていた人をいやしてくださいました。私たちを罪から救うことができるのは、ただ神の恵み、神の子イエス・キリストの他にはいないのです。

 

ですから、この38年間も病気だった人がいやされた出来事は、私たちが律法の世界に留まるのではなく、自分の努力や力に頼るのではなく、キリストの言葉に信頼し、その言葉に従って新しい歩みを始めなさい、という招きだったのです。なぜなら、キリスト様こそあわれみの家、ベテスダの池そのものであられるからです。

 

イエス様は、あなたの罪と汚れをきよめる泉であり、あなたをあわれみ、あなたをいやす泉、ベテスダの池そのものです。この池で、あなたも罪の赦しときよめを受けませんか。心とからだのいやしを受けてください。そのために必要なのは、「掟、床を取り上げて歩きなさい」と言われる主イエスのことばを信じて、それに従うことです。キリストのあわれみは、尽きることがないからです。