出エジプト記10章

出エジプト記10章から学びます。まず、1節から11節までをご覧ください。まず6節までをお読みします。

 

Ⅰ.息子や孫に語って聞かせるため(1-6)

 

「主はモーセに言われた。「ファラオのところに行け。わたしは彼とその家臣たちの心を硬くした。それは、わたしが、これらのしるしを彼らの中で行うためである。また、わたしがエジプトに対して力を働かせたあのこと、わたしが彼らの中で行ったしるしを、あなたが息子や孫に語って聞かせるためである。こうしてあなたがたは、わたしが主であることを知る。」モーセとアロンはファラオのところに行き、彼に向かって言った。「ヘブル人の神、主はこう言われます。『いつまで、わたしの前に身を低くするのを拒むのか。わたしの民を去らせ、彼らがわたしに仕えるようにせよ。もしあなたが、わたしの民を去らせることを拒むなら、見よ、わたしは明日、いなごをあなたの領土に送る。いなごが地の面をおおい、地は見えなくなる。また、雹の害を免れてあなたがたに残されているものを食い尽くし、野に生えているあなたがたの木をみな食い尽くし、 あなたの家とすべての家臣の家、および全エジプトの家に満ちる。これは、あなたの先祖も、またその先祖も、彼らがこの土地にあった日から今日に至るまで、見たことがないものである。』」こうして彼は身を翻してファラオのもとから出て行った。」

 

第8の災いです。それはいなごをエジプトに送るというものです。1匹や2匹のいなごではありません。それは地の面をおおい、地が見えなくなるほどの量のいなごです。先の雹の害を免れた植物も、このいなごの大群によって食い尽くされます。それは野に生えている草木だけでなく、ファラオの家とすべての家臣の家、および全エジプトの家に満ちるようになります。それは、エジプトがこれまで見たことがないようなものです。

 

この災いが下る警告が与えられる前に、主はモーセにこの災いがもたらされる目的を語ります。1節と2節です。「それは、わたしが、これらのしるしを彼らの中で行うためである。また、わたしがエジプトに対して力を働かせたあのこと、わたしが彼らの中で行ったしるしを、あなたが息子や孫に語って聞かせるためである。こうしてあなたがたは、わたしが主であることを知る」ためです。これまでは、イスラエルの神、主のような方が地のどこにもいないことを、エジプト人が知るようになるためでしたが、ここには新たな目的が加えられています。それは、主がエジプトに対して行われたことをイスラエル人が息子や娘に語って聞かせるためです。

 

これはとても大切なことです。イスラエルがエジプトから出て行って、約束の地へ導かれ、そこに住んで何十年、何百年経った後も彼らの霊的指導者たちは、この出来事を語って聞かせました。彼らの神がどれほど偉大な方であるのかは、かつてエジプトに430年もの間囚えられていた彼らの先祖たちをそこから解放してくださった方であるということによって示してきたのです。いわばそれは、イスラエル人たちのアイデンティティーであったのです。つまり、奴隷の状態から解放してくださりご自分の所有とされた主が自分たちの神である、ということです。何百年も後になっても、このことを思い出してもらうために、主は、パロたちの心のかたくなにし、災いを起こされたのです。

 

それは私たちも同じです。主は私たちが神の民であることを思い起こさせるために、一つのことを行うようにと命じられました。何でしょうか。それは聖餐式です。それは主が私たちを罪の奴隷から解放するために十字架で死んでくださったことを覚えるためです。パウロはこう言っています。

「すなわち、主イエスは渡される夜、パンを取り、感謝をささげた後それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。食事の後、同じように杯を取って言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」(Ⅰコリント11:23-25)

私たちがどんなことをしても自分の力では成し得なかったことを主が成し遂げてくださいました。主は私たちの罪の身代わりとなって十字架にかかり、血を流し、肉を割かれることによって、救いの御業を成し遂げてくださいました。このことを思い起こすために聖餐式を行うのです。私たちは主が私たちの罪を赦すために成し遂げられたこの十字架の御業を、私たちの息子や娘、孫たちに語って聞かせなければなりません。

 

モーセを通して語られた主の警告に対して、ファラオはどのように応答したでしょうか。7節から11節をご覧ください。

「家臣たちはファラオに言った。「この男は、いつまで私たちを陥れるのでしょうか。この者たちを去らせ、彼らの神、主に仕えさせてください。エジプトが滅びるのが、まだお分かりにならないのですか。モーセとアロンはファラオのところに連れ戻された。ファラオは彼らに言った。「行け。おまえたちの神、主に仕えよ。だが、行くのはだれとだれか。」モーセは答えた。「若い者も年寄りも一緒に行きます。息子たちも娘たちも、羊の群れも牛の群れも一緒に行きます。私たちは主の祭りをするのですから。」ファラオは彼らに言った。「私がおまえたちとおまえたちの妻子を行かせるようなときには、主がおまえたちとともにあるように、とでも言おう。だが、見ろ。悪意がおまえたちの顔に表れている。 そうはさせない。さあ、壮年の男子だけが行って、主に仕えよ。それが、おまえたちが求めていることではないか。」こうして彼らはファラオの前から追い出された。」

 

モーセを通して語られた主のことばに対して、決してファラオに反対することのない家臣たちが、必死になってファラオに訴えています。

「この男は、いつまで私たちを陥れるのでしょうか。この者たちを去らせ、彼らの神、主に仕えさせてください。エジプトが滅びるのが、まだお分かりにならないのですか。」

家臣たちは、これまでの教訓から学んでいました。このままではエジプトが滅んでしまうという危機感を抱いていたのです。

 

それでファラオはどうしたかというと、モーセとアロンを連れ戻して言いました。「行け。おまえたちの神、主に仕えよ。だが、行くのはだれとだれか。」(8)ファラオもこのままではだめだと思い少しずつ譲歩し始めます。ここでは、行くのはいいが、だれが行くのか、と言っています。もちろん全員です。「若い者も年寄りも一緒に行きます。息子たちも娘たちも、羊の群れも牛の群れも一緒に行きます。私たちは主の祭りをするのですから。」(9)

 

するとファラオは、何と言いましたか。「悪いがおまえたちの顔に表れている。」と言って、子どもや祭司たちが行くことを許しませんでした。ただ壮年の男子だけが行って、主に仕えるようにと言ったのです。これはどういうことでしょうか。主の影響力が妻子たちまで及ぶことがないように、必死になって抵抗しているのです。このようなことがよくあります。未信者の親から、「あなたは子供まで教会に連れて行って、洗脳させちゃだめよ。」といった圧力をかけられたりすることがあります。けれども、自分だけでなく自分の息子や娘たちも主に従うことがみこころなのです。

 

Ⅱ.いなごの大群(12-20)
それで第8番目の災いが下ります。12節から15節までをご覧ください。

「主はモーセに言われた。「あなたの手をエジプトの地の上に伸ばし、いなごの大群がエジプトの地を襲い、その国のあらゆる草木、雹の害を免れたすべてのものを食い尽くすようにせよ。」モーセはエジプトの地の上に杖を伸ばした。主は終日終夜、その地の上に東風を吹かせた。朝になると東風がいなごの大群を運んで来た。いなごの大群はエジプト全土を襲い、エジプト全域にとどまった。これは、かつてなく、この後もないほどおびただしいいなごの大群だった。それらが全地の表面をおおったので、地は暗くなり、いなごは地の草と、雹の害を免れた木の実をすべて食い尽くした。エジプト全土で、木や野の草に少しの緑も残らなかった。」

 

それで主はモーセに、「あなたの手をエジプトの地の上に伸ばし、いなごの大群がエジプトの地を襲うようにせよ」と言われました。

すると、主は終日終夜、その上に東風を吹かせたので、朝になると東風がいなごの大群を運んで来ました。そして、エジプト全土を襲い、雹の害を免れた木の実をすべて食い尽くしたので、エジプト全土で、木や野の草に少しも緑が残りませんでした。

 

するとファラオは急いでモーセとアロンを呼んで言いました。「私は、おまえたちの神、主とおまえたちに対して過ちを犯した。どうか今、もう一度だけ私の罪を見逃してくれ。おまえたちの神、主に、こんな死だけは取り去ってくれるよう祈ってくれ。」(16)

これはどういうことですか?ここでも、これまでのパターンが繰り返されています。このような災害を見たファラオは悔い改めているように見えます。ここでは、「もう一度だけ私の罪を見逃してくれ」と言っていますが、これまで何度見逃してきたでしょうか。9:27にも「今度は私が間違っていた」と言いながら、小麦と裸麦が打ち倒されていないのを見ると、また心を頑なにしました。ここでも彼は同じことを繰り返しています。

 

するとモーセはファラオのところから出て、主に祈ります。すると主は風向きを変え、今度は非常に強い、海からの風、すなわち西からの風に変えていなごを吹き上げさせ、エジプト全土に一匹のいなごも残らないようにされました。しかし、主はファラオの心を再び頑なにされたので、彼はイスラエルの子らを去らせませんでした。いったいなぜここまで頑なになるのでしょうか。それは主がなされたことです。主がファラオの心を頑なにされたので、彼はイスラエルを行かせなかったのです。それはイスラエルの神、主の力を彼らに示すためでした。主の力がエジプト人だけでなく、イスラエルの民に対して、そして全世界に対し示されるためだったのです

 

Ⅲ.闇(21-29)

 

それで主はどのようにされたでしょうか。それで主は次の災いを下されます。それは闇の災いです。21節から29節までをご覧ください。

「主はモーセに言われた。「あなたの手を天に向けて伸ばし、闇がエジプトの地の上に降りて来て、闇にさわれるほどにせよ。」モーセが天に向けて手を伸ばすと、エジプト全土は三日間、真っ暗闇となった。人々は三日間、互いに見ることも、自分のいる場所から立つこともできなかった。しかし、イスラエルの子らのすべてには、住んでいる所に光があった。ファラオはモーセを呼んで言った。「行け。主に仕えるがよい。ただ、おまえたちの羊と牛は残しておけ。妻子はおまえたちと一緒に行ってもよい。」モーセは言った。「あなた自身が、いけにえと全焼のささげ物を直接私たちに下さって、私たちが、自分たちの神、主にいけにえを献げられるようにしなければなりません。私たちの家畜も私たちと一緒に行きます。ひづめ一つ残すことはできません。私たちの神、主に仕えるために、家畜の中から選ばなければならないからです。しかも、あちらに着くまでは、どれをもって主に仕えるべきか分からないのです。」しかし、主がファラオの心を頑なにされたので、ファラオは彼らを去らせようとはしなかった。ファラオは彼に言った。「私のところから出て行け。私の顔を二度と見ないように気をつけろ。おまえが私の顔を見たら、その日に、おまえは死ななければならない。」モーセは言った。「けっこうです。私はもう二度とあなたのお顔を見ることはありません。」」

 

第9番目の災いです。今度は何の警告もなく、一方的にさばきを宣言されました。それは、「あなたの手を天に向けて伸ばし、闇がエジプトの地の上に降りて来て、闇にさわれるほどにせよ。」というものでした。それでモーセが手を天に向けて伸ばすと、エジプト全土が三日間、真っ暗になりました。光は神が創造されたものの中で一番初めに造られたものです。その光がないというのは、人間の生存に関わる問題です。人は真っ暗闇の中におかれると、数時間で精神的におかしくなってしまうと言われています。あの3.11の後でしばらく計画停電がありました。夜でも電気が使えないのです。それで電池式のランタンとか蝋燭で対応しなければなりませんでしたが、でんきが使えないとパニックになってしまいます。その苦しみをエジプト人はそれを三日間、味わいました。しかし、イスラエルの子らのいたところには光がありました。

 

するとファラオはどうしたでしょうか。彼はモーセを呼んでこう言いました。「行け。主に仕えるがよい。ただ、おまえたちの羊と牛は残しておけ。妻子はおまえたちと一緒に行ってもよい。」(24)

今度は、妻子は連れて行ってもよいが羊と牛は残しておくようにと言いました。ここに新たな妥協案が示されました。ファラオがこのように言ったのは、自分たちの羊や牛が、すでに死んでしまったからです。ですから、イスラエルが牛や羊までも連れて行ったら、エジプトには何も残らないことになってしまいます。それはできないと、ファラオは頑なに牛と羊だけは残しておくようにと言ったのです。

 

するとモーセはその申し出を拒否しました。なぜなら、あちらに行くまでは、どれをもって主に仕えるべきかわからないからです。あちらとは荒野のことです。そこで神から律法が与えられることで、どの家畜を主にささげたら良いかが示されます。それまではわかりません。だから、全部連れて行くと言ったのです。

 

それを聞いたファラオの心は再び頑なになりました。それでファラオは彼らを去らせようとはしませんでした。交渉が決裂したのです。そして、お互いに顔を合わせないようにしました。これ以降、両者が顔を合わせることは二度とありません。それでファラオは暗闇の中を歩むことになります。もっと恐ろしいさばきが彼を襲うことになります。これだけでも気が狂いそうになるのに、もっと恐ろしいさばきが彼らを襲うことになります。

 

このように神に背を向けるなら、暗闇の中を歩むようになります。しかし、神に従うなら、いかなる闇の中にあっても、光の中を歩むようになります。それは主の栄光の輝きです。イザヤ書60:1-3には、「起きよ。輝け。まことに、あなたの光が来る。主の栄光があなたの上に輝く。見よ、闇が地をおおっている。暗黒が諸国の民を。しかし、あなたの上には主が輝き、主の栄光があなたの上に現れる。国々はあなたの光のうちを歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。」とあります。それは主イエス・キリストに従う者にもたらされる光です。主イエスはこう宣言されました。

「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」(ヨハネ8:12)

主イエスは世の光です。イエス様に従う者は、決して闇の中を歩むことがありません。いのちの光を持つのです。あなたは闇の中を歩んでいませんか。世の光であられるイエス様を信じて、光の中を歩む者となりましょう。