ヨハネの福音書11章1~16節「神の栄光のために」

きょうは、「神の栄光のために」というタイトルでお話しします。皆さんはいったい何のために生きておられるでしょうか。これがわからないと、私たちの人生は無味乾燥なものになり、生きてはいても死んだようなものになってしまいます。逆に、このことがわかるとたとえ苦難があってもそれを乗り越えることができ、むしろそのことを通しても神の栄光が現されるようになるのではないでしょうか。

きょうは、このことについて三つのことをお話しします。第一のことは、私たちが苦しみに会うとき、主は最善を成してくださると信じ、すべてを主にゆだねなければならないということです。

第二のことは、その苦しみは何のためにあるのでしょうか。それは神の栄光のためです。すべてのことが神の栄光のためであると信じなければなりません。

そして、第三のことは、それはあなたの信仰の成長のためです。神はあなたの信仰の成長のためにそうした苦難を用いられるのです。

 

Ⅰ.神のみこころにかなった願い(1-3)

 

まず、1~3節をご覧ください

「さて、ある人が病気にかかっていた。ベタニアのラザロである。ベタニアはマリアとその姉妹マルタの村であった。このマリアは、主に香油を塗り、自分の髪で主の足をぬぐったマリアで、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。姉妹たちは、イエスのところに使いを送って言った。「主よ、ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」

 

ある人が病気にかかっていました。ベタニアという村に住んでいたラザロという人です。この人はマリアとその姉妹マルタの兄弟でした。このマリアは、「主に香油を塗り、自分の髪で主の足をぬぐったマリアとあるように、主を深く愛していた人でした。そのマリアの兄弟ラザロが病んでいたのです。

 

その時、マルタとマリア姉妹は、このことを伝えるために主イエスのところに使いを送りました。というのは、その時イエスはユダヤ人たちの手を逃れ、ヨルダンの川向こう、かつてバプテスマのヨハネがバプテスマを授けておられた場所に滞在しておられたからです。ベタニアからはその所までは、徒歩で約1日かかりました。マルタとマリアは、そのイエスのところに使いを送ってこう言いました。「主よ、ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」(3)

 

どういうことでしょうか。何と麗しい信仰でしょうか。このような時普通なら何と言うでしょう。「主よ、あなたが愛しておられるラザロが病気です。お願いですから早く来て、癒してください。私たちはあなたをこよなく愛し、あなたのためならば何でもしました。それはあなたが誰よりもご存知なはずです。今こそあなたが応えてくださる番です。お願いです。助けてください。」そう言うのではないでしょうか。つまり、自分の願うようにイエスに動いてもらおうと、必死になってイエスを納得させようとするのです。それが信仰だと思っているわけです。でも彼女たちは自分の思いや願いを押し付けたり、自分たちの信仰の正当性を訴えてイエスに動いてもらおうとしたのではなく、ただ事実だけを申し上げたのです。なぜでしょうか。それは神のみこころが成ることが最善であると信じていたからです。これが信仰です。信仰とは自分の思いが成ることではなく、神のみこころがなること、神のみこころに焦点を合わせることです。もちろん、自分の願いを申し上げることが間違っているのではありません。イエスは、「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」(ルカ7:9)と言われました。「だれでも、求める者は手に入れ、探す者は見出し、たたく者には開かれます。」(ルカ7:10)熱心に求めることは大切なことです。しかし、それは私たちの思い通りになるということではなく、あくまでも私たちが良いものを求めるなら、ということです。良いものとは何でしょうか。それは神のみこころです。

「何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。」(Ⅰヨハネ5:14)

これが、私たちの神に対する確信です。であれば、私たちは自分の思いや考えを主に押し付けるのではなく、神のみこころが何であるかを求め、それが成るように祈らなければなりません。そのためには聖書を通して神のみこころを悟ることが大切で、そうでないと、自分の常識や正義感、あるいは人間の尺度で、これが神のみこころだと勝手に決めつけてしまうことになるからです。

 

ここでマルタとマリアはイエスのところに使いを送り、「主よ、ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」と言いました。それだから、どうしてくださいとか、どうするのが当然ですといった押し付けがましいことは一切言いませんでした。ただ事実だけを伝えたのです。もちろん、一刻も早く来てほしいという思いはあったでしょう。しかし、いつ、どのようにして癒してくださるのかは主の御手の中にあるのであって、主が成してくださることが最善であるという信仰があったのです。

 

ルカ10:38~42には、イエスが彼らの家に来られたとき、彼らがイエスをもてなした時の様子が記されてあります。妹のマリアは、主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていましたが、姉のマルタはどうだったかというと、そんな妹の姿にイライラして、イエス様のところに来てこう言いました。「主よ。妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、おっしゃってください。」

するとイエス様は何と言われたでしょうか。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良い方を選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」(ルカ10:41-42)

 

あなたは、いろいろなことを思い煩って、心を乱していませんか。しかし、どうしても必要なのはわずかです。いや一つだけです。それは何でしょうか。それは、主のみことばを聞くことです。こうした信仰は、みことばに聞き入ることから生まれてくるのです。

 

私たちの人生にも、愛する者が病気になることがあります。自分でもどうしたらよいのかわからない問題に直面することがあります。そのような時どうしたら良いのでしょうか。私たちはどうしても自分の思いが先走り、「主よ、こうしてください」とか、「ああしてください」と言うようなことがありますが、大切なのは、主が成されることが最善であると信じてすべてを主にゆだねることなのです。

 

Ⅱ.神の栄光のために(4-6)

 

第二のことは、苦難の目的です。いったい私たちの人生に、どうしてさまざまな苦難が起こるのでしょうか。それは、神の栄光のためです。4~6節をご覧ください。

「これを聞いて、イエスは言われた。「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けることになります。」イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。しかし、イエスはラザロが病んでいると聞いてからも、そのときいた場所に二日とどまられた。」

 

ラザロが病気であると聞いたイエスは、「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けることになります。」と言われました。彼女たちが「あなたが愛しておられる者が病気です」と伝えたのは、すぐに助けに来てほしいという思いがあったのは明らかです。でもイエスは彼女たちが願ったとおりには行動されませんでした。「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。」と言われたのです。イエスがそのように言われたのは、マルタとマリアを、そしてラザロを愛しておられたからです。しかし、イエス様は、そのことを聞いてもすぐに出発しなかったばかりか、そこになお2日もとどまられました。愛しておられたのに、なぜそこになお2日もとどまられたのでしょうか。愛しておられたのであれば直ぐにでも駆け付けて癒してやろうとするのが普通です。それなのになぜなおもそこに2日もとどまられたのか。それはラザロが死ぬのを待つためです。新改訳聖書第3版には、この「しかし」を「そのようなわけで」と訳しています。「そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた。」これを常識的に読むと、イエス様は彼らを愛しておられたので、ラザロが死ぬまで何も行動を起こさなかったとなります。どういうことでしょうか。

それを解く鍵は、4節のイエス様のことばにあります。「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。」すなわち、イエス様は、行動を起こすべき神の時を待っておられたのです。

 

私たちの人生には、私たちが願ったとおりにならないことがたくさんあります。そのような時でも、神は最善以外のことをなさらないという確信を持っていなければなりません。すべてのことが神の栄光のために動いているからです。

 

同じ保守バプテスト同盟の婦人伝道師で、かつて山形で伝道された陶山節子先生のお話を聞いたことがあります。陶山先生は、1941年のある日、東京のある橋の上に立っていました。死のうと思っていたのですが、出来ませんでした。陶山先生は波乱万丈の人生を送っていました。夫は神奈川県の重要な政治家でしたが、結核でなくなりました。30代にして、未亡人となったのです。6年間の結婚生活は、意地悪な姑に悩まされる日々でした。たとえば、姑が風呂に入るときは、着物の中で一番良いものを着て姑の背中を流すように強要されました。それは、戦況が暗さを増していく頃のことでした。

陶山先生は横浜で育ち、恵まれた環境の中、大学にも進み、英語も流暢に話せ、将来有望な人でしたが、その時は何もかもが失われたかのように見えました。

しかし、何とかその暗い年月を乗り越え、やがて戦後、多くの宣教師たちが希望を携えて日本に押し寄せてきました。陶山先生はあちらこちらで、彼らの説教の通訳や翻訳で忙しくなりました。そんなある日、ある説教者の祈りを通訳し、自分が涙で出来た水たまりの中に立っていると気が付いたのです。そこで彼女はイエス様に出会ったのでした。

英語が話せたおかげで、いくらでも仕事の機会はやってきました。マッカーサー元帥のGHQ総司令部から雇用の話がきたことさえありました。しかしその時、彼女はジョセフ・ミーコという宣教師夫妻に出会います。彼らは山形県の奥地にある、まるで世の中の流れに取り残されたようなへんぴな場所に引っ越そうとしているところでした。そこは東京とはずいぶん違った場所でした。

陶山先生は、神様の導きを感じていました。しかし、それは大きな変化を意味していました。それでも、彼女は一歩踏み出すために大変な選択をします。生活の安定と数々のビジネスチャンスを捨てて、何の保証もないまま、おそらく霊的には日本で最も暗い東北で、ミーコ宣教師夫妻の開拓伝道を助けることを申し出たのです。

山形での努力は、国内では最も実を結んだ教会開拓の歩みとなりました。10年間で、12にも及ぶ教会が次々に生まれました。またその他にも、幼稚園が数件、女性の聖書研究会が28グループ、数えきれないほどの子供の聖書クラブ、しかもある日の日曜学校には、450人以上の子供たちが参加したのです。

陶山先生は、様々な地域で多くの人々の救いに関わったと同時に、山形の教会の霊的祖母として知られています。1993年には、その傑出した奉仕と、日本の伝道における歴史的影響力の故に、日本福音功労者賞を授与されました。2000年に行われた陶山先生の葬儀は、勝利に満ちたものとなり、メサイヤのハレルヤコーラスの合唱で最高潮に達したと言われています。

このような栄光はどのようにしてもたらされたのでしょうか。それは、夫を結核で失い、30代にして未亡人となるという苦しみの中から生まれたのです。陶山先生は、ご主人の癒しのためにどれほど祈られたことでしょう。まだその時にはイエス様と出会っていませんでしたが、その死によって宣教師の通訳の仕事へと導かれ、その中からミーコ先生との出会いが与えられました。そして、信仰によって一歩踏み出したとき、神様はそこに大いなるみわざをなされたのです。

 

苦しみは、できれば避けて通りたいとものですが、神様はその苦しみを通してご自身の栄光を現そうとしておられるのです。そうです、その病気は死で終わるものではなく、神の栄光が現されるためのものなのです。ですから、主が私たちの祈りにすぐに答えてくださらないということがあっても、あるいは、私たちが願ったとおりに応えてくださらないことがあっても、それはイエス様があなたを愛しておられないからではなく、むしろ愛しておられるからであって、また、主は、ご自身の栄光のために、私たちが考えている以上に、もっとすばらしい方法で解決を与えてくださるからであると、信仰によって受け止めなければなりません。主は愛する者の信仰の成長を願い、時にはそこに障害物を置かれることがあるからです。

 

Ⅲ.あなたがたが信じるため(7-16)

 

第三のことは、それはあなたがたが信じるためであるということです。7~16節をご覧ください。7節と8節にはこうあります。

「それからイエスは、「もう一度ユダヤに行こう」と弟子たちに言われた。弟子たちはイエスに言った。「先生。ついこの間ユダヤ人たちがあなたを石打ちにしようとしたのに、またそこにおいでになるのですか。」

それから、どうなったでしょうか。それからイエスは、「もう一度ユダヤに行こう」と弟子たちに言われました。「それから」とは、そのときいた場所になお二日とどまられてからです。すると、弟子たちは驚いて、イエス様に言いました。「先生。ついこの間ユダヤ人たちがあなたを石打ちにしようとしたのに、またそこにおいでになるのですか。」「ついこの間」というのは、あの宮きよめの祭りの時のことを指しています。その時、ユダヤ人たちはイエス様を殺そうとしました。なぜなら、イエス様が「わたしと父とは一つです」(10:30)と言って神を冒涜したと考えたからです。それでイエスは彼らの手を逃れ、ヨルダン川の向こう側にやって来ていたのですが、そのユダヤにもう一度行こうと言われたので、弟子たちは驚いたのです。

 

それに対してイエス様は何と言われたでしょうか。9節と10節をご覧ください。「昼間は十二時間あるではありませんか。だれでも昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。しかし、夜歩けばつまずきます。その人のうちに光がないからです。」どういうことですか。ユダヤ人は、1日12時間を昼の時間と考えていました。この時間は太陽が照らしているので、倒れたり、躓いたりすることはありません。しかし、夜になると働くことができません。光がないからです。この「夜」とは、イエスが十字架につけられる時のことを指しています。つまり、イエスはご自分が死ぬ時はまだ来ていないので、ユダヤに行っても殺されることはないと言われたのです。

 

イエスがこのように話されると、ラザロについてこのように言われました。「わたしたちの友ラザロは眠ってしまいました。わたしは彼を起こしに行きます。」(11)聖書では、しばしば人が死んだ時「眠った」と表現することがあります。しかし、弟子たちにはその意味が理解できませんでした。それで彼らはイエスに言いました。「主よ。眠っているのなら、助かるでしょう。」彼らはイエスの語られたことばの意味を理解できませんでした。

それでイエスは彼らにこう言われました。14節と15節です。「ラザロは死にました。あなたがたのため、あなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。」(14-15)

ここでイエスはラザロが病気になったとき、ご自分がベタニアのラザロのところに居合わせなかったことを喜んでいると言いました。なぜなら、もしそこにいたなら、すぐにでも飛んで行くことができたので彼は癒されたことでしょうが、こんなに遠く離れているわけですからそのようにすることができません。結果、ラザロは死んでしまいました。しかし、ラザロが死んだので彼にいのちを与え、彼を生き返らせることで、もっと大きな主のみわざを行うことができるからです。それはラザロが癒されるよりももっとすごいことでした。主はそのような計画を持っておられたのです。ですから、そこに居合わせなかったことを喜んでいると言ったのです。

 

しかし、この箇所を注意してよく見てみると、イエスはここで「わたしはラザロが死んだことを喜んでいる」とは言っていません。イエスが言われたのは、「わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます」ということでした。しかもそれはマルタとマリアとラザロためにではなく、「あなたがたのため、あなたがたが信じるため」です。どういうことかというと、イエスは、ひとりひとりが苦しんだり、悲しんだり、死んだりするのをご覧になって喜んでおられるのではないということです。そうではなく、ある人々の苦しみを通して、多くの人が信仰の益を受け、祝福されるのを望んでおられるということです。ここでは「あなたがたが信じるためには」とはそのことです。あなたがたとはだれのことですか。そうです、弟子たちのことであり、私たち一人一人のことです。弟子たちが信じるためには、本当に多くの時間がかかりました。その弟子たちの信仰の教育のためには、このことが必要だったのです。だから、イエスはその場に居合わせなかったことを喜んでいると言われたのです。

 

案の定、デドモと呼ばれるトマスは、そんなイエスの思いを全く理解することができませんでした。そして仲間の弟子たちに、「私たちも行って、主と一緒に死のうではないか。」と言いました。だから、違うというのに・・・。なかなか理解できませんでした。しかし、それはトマスだけではなく、他の弟子たちも同じでした。他の弟子たちも、やがて主が逮捕された時には、主を捨てて逃げ去ってしまいます。

 

でも、私たちはそんな彼らを決して笑うことはできません。というのは、私たちもこのトマスが言ったようなことを、大まじめに言うようなことがあるからです。主のみこころとはかなり違ったことを言ってしまうことがあります。ですから、私たちは、まだまだイエス様の心を心とするには遠い者ですが、私たちが主のみこころに歩めるようになるために、主は私たちに試練を与えておられるということを覚え、謙虚な心で、主のみこころに従っていきたいと思うのです。

 

ニューヨークのリハビリテーションセンターの壁に掲げられている一患者の詩です。これは「病者の祈り」という題名がつけられている有名な詩です。この詩を読むと、この詩人が神のみこころをしっかりと受け止めていたことがわかります。

 

大事を成そうとして 力を与えてほしいと神に求めたのに 慎み深く従順であるようにと 弱さを授かった
より偉大なことができるように 健康を求めたのに よりよきことができるようにと 病弱を与えられた
幸せになろうとして 富を求めたのに 賢明であるようにと 貧困を授かった
世の人々の賞賛を得ようとして 権力を求めたのに 神の前にひざまずくようにと 弱さを授かった
人生を享楽しようと あらゆるものを求めたのに あらゆるものを喜べるようにと 生命を授かった
求めたものは一つとして与えられなかったが 願いはすべて聞き届けられた

神の意にそぐわぬ者であるにもかかわらず 心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた

私はあらゆる人々の中で 最も豊かに祝福されたのだ

 

私たちもなぜこのようなことが・・と思うようなことがありますが、私たちの人生に起こる一つ一つのことが神の栄光のために用いられていることを知り、すべてを主にゆだね、ますます主のみこころに歩ませていただきたいと思います。