きょうは、「涙を流されるイエス」というタイトルでお話します。聖書の中には、イエスが笑われたという表現は一度も出ておりませんが、涙を流されたというのは、三回出てきます。ルカ19:41とへブル5:7とここです。どうして主イエスは涙を流されたのでしょうか。それは、マルタやマリアやそこにいた人たちの悲しみに同情されたからです。主イエスは、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように試みに会われました。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づくことができるのです。きょうは、このあわれみ深いイエスについて三つのことをお話ししたいと思います。第一のことは、イエスは私たちを呼んでおられるということです。
Ⅰ.あなたを呼ばれるイエス(17-22)
28~32節をご覧ください
「マルタはこう言ってから、帰って行って姉妹のマリアを呼び、そっと伝えた。「先生がお見えになり、あなたを呼んでおられます。」マリアはそれを聞くと、すぐに立ち上がって、イエスのところに行った。イエスはまだ村に入らず、マルタが出迎えた場所におられた。マリアとともに家にいて、彼女を慰めていたユダヤ人たちは、マリアが急いで立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、ついて行った。マリアはイエスがおられるところに来た。そしてイエスを見ると、足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」
ラザロが死んで四日経っていました。イエスが来られたことを聞いたマルタは、すぐに出迎えに行きました。一方、マリアは、イエスが来られたと聞いても、家に座っていました。あまりにも悲しくて立ちあがれなかったのかもしれません。イエスを出迎えに行ったマルタが、「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」と言うと、イエスは「あなたの兄弟はよみがえります」と言われました。マルタは、終わりの日に、よみがえることは知っていますと答えると、主はあの有名なみことばを語られました。
「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことはありません。」(25-26)
すると彼女はイエスに「はい、主よ。私は、あなたが世に来られる神の御子キリストであると信じております。」と答えました。彼女は確かにイエスが旧約聖書で預言されていたメシアであると信じていましたが、それ以上の方として受け入れることはできませんでした。つまり彼女はイエスを神の子として信じていましたが、また、そういう意味では彼女も救われ永遠のいのちを受けていましたが、同時にそれがこの世におけるさまざまな問題においても実際に解決をもたらす力があるということを理解していなかったのです。彼女の信仰には欠陥というか、不完全な要素がありました。
マルタは、そのように言うと、自分の家に帰って姉妹のマリアを呼び、そっと伝えました。「先生がお見えになり、あなたを呼んでおられます。」(28)マリアはそれを聞くと、すぐに立ち上がって、イエスのところに行きました。「すぐに立ち上がって」という言葉は、ギリシャ語ではエゲイローという語ですが、眠りから覚めるという意味があります。5:21には、「死人をよみがえらせ」とありますが、この「よみがえらせ」という言葉がエゲイローです。12:1にも「そこには、イエスが死人からよみがえらせたラザロがいた」とありますが、この「よみがえらせた」も「エゲイロー」です。イエスの呼びかけは、死んでいたような彼らの霊を呼び覚ましました。あなたはどうでしょうか?あなたの腰は重くなっていないでしょうか?眠ったままになってはいませんか?マリアはそれを聞くとすぐに立ち上がりました。それほどに彼女はイエスを愛していたというか、信頼していたことがわかります。私たちもイエスさまの呼びかけにすぐに応答する者となりたいですね。
30節をご覧ください。イエスはまだ村に入らず、マルタが出迎えた場所にいました。なぜイエスは村に入らなかったのでしょうか?それはマルタと個人的な時間を持ちたかったからです。村に入ってしまうとそのような時間を持つことができないと思われたのでしょう。28節にも、マルタは、イエスがマリアを呼んでおられることを「そっと伝えた」とありますが、それはこのためでしょう。すぐに大勢の人々が集まって来るのを望まなかったのです。ところが、結果的にはそのようにはなりませんでした。31節を見ると、「マリアとともに家にいて、彼女を慰めていたユダヤ人たちは、マリアが急いで立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、ついて行った。マリアはイエスがおられるところに来た。」とあります。「彼女を慰めていたユダヤ人たち」とは、多くの親戚たちや、親しい友人たちのことです。そして当時ユダヤには「泣き女」と呼ばれる人たちがいました。泣くことを職業にしていた人たちです。そういう人たちものいました。ですから、そういう人たちすべてのことです。イエスは、こういう人たちを振り払ってできるだけ個人的に、静かな時間を持ちたいと思われたのです。しかし、この人たちは、マリアが急いで立ち上がって出て行くのを見て墓に泣きに行くのだろうと思い、ついて行きました。
マリアはイエスのおられるところに来るとどうしましたか?彼女はイエスを見ると、足もとにひれ伏して言いました。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」どこかで聞いたことのあることばです。そうです、これは21節でマルタがイエスに言ったことばと全く同じです。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」マルタが言ったことばが山彦(やまびこ)のようにこだましています。なぜマリアは同じセリフを言ったのでしょうか?言ったというよりも自然に出て来たのでしょう。それは、マルタとマリアがイエスを待っている間ずっと同じことばを繰り返していたからです。これが人間の性です。言葉使いとか、口癖というものは、実に感染していきます。すぐに周囲に影響をもたらすのです。ですから、皆さんは普段付き合っている人と同じように話すようになるのです。あなたが「疲れた、疲れた」と言っていると、あなたの子供たちも「疲れた、疲れた」と言うようになります。夫婦もよく似てきます。同じ時間を共有しているからです。そうやって互いに影響を及ぼしているわけです。
かなり前のことですが、家内の母親がアメリカから来日した時のことです。二女の英語の発音を聞いてびっくりしました。あまりもひどい。どうしてそんなにひどいのかと思ったら、私の発音にそっくりだというのです。考えてみたら娘が小さかった時、何とか英語ができるようにと一生懸命に英語で話しかけていました。それが悪かった。私の発音にそっくりになってしまいました。それ以降、なるべく良い発音ができるように私は一切話さないようにしました。貝のように堅く口を閉ざしたのです。それでも娘の発音はずっとひどかったらしいです。小さい時の耳はその通り覚えているんですね。だから、何に触れるかはとても重要なことです。
パウロは、コリント第一15:33で、「惑わされてはいけません。「悪い交際は良い習慣を損なう」のです。」と言っています。これは真実です。友だちが悪ければ、良い習慣がそこなわれます。
マルタとマリアは、弟のラザロの容態が悪くなるにつれ、主はいったいどこへ行ってしまったのか、私たちのメッセージを受け取らなかったのだろうか、それを聞いて、何ともお思いになられなかったのでしょうか、早く来てくれれば何とかなるのにと、ずっと言い合っていたのです。
友達が悪ければ、良い習慣が損なわれます。いつもすねてばかりいて、いぶかしそうにしている人、不平不満と苦々しい思いを持った人、不機嫌な人たちといると、それがあなたにも移ります。だから、だれと付き合うかというのは大切なことなのです。勿論、重荷を負っている人とは関わらない方がいいと言っているのではありません。否定的な人とは一切交わらない方がいいと勧めているのではありません。ただ長い付き合いとなる人間関係において、信仰の言葉を語り、神を愛し、神に信頼している人たちと共に時間を過ごすなら、そのような人になっていくということを覚えておくことは大切なことです。うちの夫はいつも否定的で、時間があったら上司の悪口しか言わないけど、別れるわけにもいかないし、どうしたら良いかという人もいるかもしれません。大丈夫です。そういう時は、イエス様と一緒に過ごす時間を多くしてください。その上で一緒にいれば、イエス様の影響を受けるようになるでしょう。
マリアは、マルタとの生活の中で否定的な思いに感染していました。でもイエスを見たとき、彼女はその足もとにひれ伏しました。この「ひれ伏す」という言葉は「礼拝する」ということです。通常は、王様や高貴な人に対してしか、このような態度を取りません。マリアは、イエスを神の子と信じていたので、ひれ伏したのです。これはすばらしい態度です。この後12章に入ると、イエスが過越しの祭りの時に再びこのベタニアに来られた時のことが記されてありますが、おそらくらい病人シモンの家でのことでしょう。人々が食卓に着いていた時イエスのもとにやって来て、非常に高価なナルドの香油をイエスに注ぎ、それを髪の毛でそれをぬぐい、その足に口づけしました。その時も彼女は主の足もとにひれ伏しました。彼女はいつも主の足もとにひれ伏しています。順境の時でも、逆境の時でも、主の足もとにひれ伏しました。ある人たちは順境の時にはイエスと時を過ごしても、逆境になったとたんに身を引いてしまうという人がいます。自分の思い通りにならなかったり、辛いこと、苦しいことがあると、怒りと失望と困惑によって、主から離れてしまうのです。なぜこんなに時間をかけてまで教会に行かなければならないのか、それだったら家で寝ながらユーチューブを観ていた方がいい・・・と。
一方他の人たちは、逆境になると教会に駆け込みますが、問題が解決すると、そのとたん教会から去って行きます。いわゆる駆け込み寺ですね。しかし、マリアは、順境の時も、逆境の時も、いつもイエスの足もとにひれ伏しました。これが重要です。いったいどうしたら、マリアのようにイエスと親密な関係を築くことができるのでしょうか。その答えはシンプルです。イエスさまの足もとにひれ伏せばいいのです。イエスさまの足もとにひれ伏して、共に過ごす時間を持てばいい。そうすれば、あなたも主イエスと親密な関係を持つことができ、主イエスから多くの影響を受け、主イエスのようになることができるのです。
イエスさまは、あなたを呼んでおられます。あなたを取り巻く人たちの中からあなたを呼んでおられるのです。それが教会です。教会とは、ギリシャ語でエクレシアと言いますが、意味は「呼び出された者たちの群れ」です。私たちは、主イエスによって呼び出された者たちです。それは、私たちが行って、実を結ぶためです。(ヨハネ15:6)主イエスの言葉は、あなたの死んだような心をよみがえらせてくれます。ですから、どうか、この主イエスの声を聞き、主イエスの足もとに行ってください。そしてイエスの足もとにひれ伏して、イエスの言葉を聞きましょう。そうすれば、あなたがたとえこの世でさまざまな声を聞いて影響を受け、疲れ果て、悩み、苦しんでいても、イエス様の言葉によってよみがえることができます。あなたがすべきことは、主イエスの言葉を聞いて、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行き、イエスの足もとにひれ伏すことなのです。
Ⅱ.あなたの涙をご覧になられるイエス(33-35)
次に33~35節をご覧ください。イエスさまはあなたを呼ばれますが、ただ呼ばれるだけでなく、あなたの涙をご覧になられ、深くあわれんでくださいます。
「そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、言われた。「彼をどこに置きましたか。」彼らはイエスに言った。「主よ。来てご覧ください。」イエスは涙を流された。」
イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になられると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じられました。この「泣く」という言葉は、原語のギリシャ語では「クライオ」という語です。意味は大声で泣くとか、号泣する、泣きじゃくるです。特に、悲しみや痛みを表現する時に用いられます。彼らはなぜ泣いていたのでしょうか。彼らの心に死の悲しみが重くのしかかっていたからです。彼らには、イエスが死に打ち勝つ力があることを信じることができませんでした。死んだら終わりという現実に打ちのめされていたのです。イエスはそんな彼らの姿を見て、霊の憤りを覚え、心を騒がして、「彼をどこに置きましたか」と言われたのです。
「霊の憤りを覚える」とはどういうことでしょうか。イエスはなぜ霊の憤りを覚えれたのでしょうか。いくつかの理由が考えられます。一つは、彼らの不信仰に対する憤りです。彼らはイエスに死に打ち勝つ力があることを認めることができませんでした。「あなたの兄弟はよみがえります」と言っても、だれも信じられなかった。まあ、当然と言えば当然かもしれません。死んだ人がよみがえるなんて考えられないことですから。それで嘆き悲しんでいました。すばらしい良い知らせをまともに受け止めることができませんでした。喜びの知らせがもたらされているのに喜べないばかりか、嘆き悲しんでいまのです。その不信仰さ、かたくなさを憤っておられたのでしょう。。
第二の理由は、愛するラザロの命を奪った死に対する憤りです。へブル2:14には、この死の力を持つ者は悪魔であるとあります。イエスはその悪魔という死の力に憤っておられるのです。
第三の理由は、もっとより深い次元で、人類に死をもたらした罪の現実に対する憤りです。罪がもたらしたもの、それは死です。病もそうです。すべての問題の根源はこの罪です。誤解しないでください。もし皆さんが今病気だからといって、それが罪を犯したことで引き起こされたということではありません。そうではなく、最初の人アダムとエバが罪を犯したことで、私たちはみな生まれながらに罪を持っているということです。その罪が病を引き起こしているのです。だから、人は例外なく病気になるし、肉体的に死ぬわけです。それは最初の人アダムとエバによって全人類にもたらされた罪の結果なのです。もしアダムとエバが罪を犯さなかったら人は病気になることはなかったし、死ぬこともありませんでした。ですから、イエスはその罪に対して憤っておられたのです。
恐らく、この三つの理由が複合的に絡み合ってのことだと思います。つまり、イエスは罪とその結果もたらされた死の現実に対して憤っておられたのであって、その罪と死の現実に勝利し、新しいいのちを与えるために来てくださったのに、それを信じようとしない不信仰に対して憤られたのです。
それでは「心を騒がせて」とはどういうことでしょうか。イエスはどんな時にも心を騒がせてはならないと言っておられるのに、ここではイエスご自身が心を騒がせておられます。この「心を騒がせる」というのは「タラッソ-」という言葉ですが、かき乱すとか、平静を失うという意味があります。感情を強く揺り動かされることです。ヨハネの福音書では何回も使われています。たとえば、5:4では「水を動かす」とありましたね。そして5:7では「かき回される」とありました。12:27には、「今わたしの心は騒いでいる」とあります。13:21では「心が騒いだ」とあります。イエスは何回も心が騒ぐことがあったのです。どうしてでしょうか?イエスは神だからどんなことにも動揺しないと思われるかもしれませんが、イエスは同時に100%人間でもあられました。血の通った私たちと同じ人間だったのです。つまり、感情を持っておられたのです。だから心の動揺を感じることもあったでしょうし、感情的に高ぶることもあったのです。心が乱されることもありました。へブル4:15-16にこうあります。
「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」
イエスは私たちの弱さを知っておられます。私たちの痛みを知っておられる。なぜなら、罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように試みに会われたからです。私たちは本当に心が病んでみないと、その人の気持ちはわかりません。肉体的にも病気になってみないと、本当の意味でその人の苦しみはわからないものです。しかし、イエスは私たちの痛み、苦しみ、悩みを知っておられます。私たちと同じ姿になってくださったからです。この方だけが、私たちに本当に同情できる方なのです。
そればかりではありません。35節をご覧ください。ここには、イエスがそんな彼らに深く同情されたというだけでなく、涙を流されたとあります。「イエスは涙を流された。」英語では、”Jesus wept” です。聖書の中で最も短い節です。ちなみに、日本語で最も短いのは、ルカ20:30の「次男も」です。英語では、キングジェームズ訳ですと、”And the second took her as wife, and he died childless.と少し長くなります。英語で一番短いのはこの箇所になります。まあ、どうでもいいことですが、ここで大切なことは、イエスは涙を流されたということです。ラザロが死んで、マリアが泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になられ、イエスも涙を流されました。
先ほども申し上げたように、イエスが涙を流されたのは聖書に三回出てきます。一回はルカ19:41で、主がエルサレムの都をご覧になった時です。やがてアルサレムが敵によって攻撃され、その町に住む子どもたちを地にたたきつけ、粉々に砕かれることを預言して涙を流されたのです。もう一つは、へブル5:7で、主が祈られた時です。「キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、その敬虔のゆえに聞き入れられました。」そして、もう一回がこの箇所です。どうして主はここで涙を流されたのでしょうか。文脈から見て、最も自然な解釈は、マルタとマリアやそこに来ていた人々の悲しみに同情されたからです。主はマルタやマリアがまもなくラザロの生き返りを見て喜ぶことを十分知っていながら、こうして悲しんでいる人々のために心を動かされ、涙を流されたのです。
このことを考えると、泣くことですね、それは決して信仰と矛盾しないことがわかります。日本では泣くことがどこか良しとされないところがあります。逆に、ひんしゅくをかったり、白い眼で見られるということがありますが、悲しみの表現として涙を流すということはむしろ自然なことであり、恥ずかしいことではありません。最近の研究では、このように涙を流すことはストレスの発散につながるとも言われています。でも注意しなければならないことは、このように悲しい時に泣くことは自然なことですが、自分が悲劇のヒロインであるかのように泣くことは、神を冒涜することにもつながりかねないので注意しなければなりません。自己憐憫の涙ですね。それは神中心ではなく、自分が中心となるからです。自分がいかに不幸で、惨めで、かわいそうであるのかを訴えて同情を引き寄せようとすることは、神を冒涜することにつながりかねません。しかし、悲しみを表すことは少しも悪いことではなく、むしろ自然なことであるということ、そして、私たちもそのように悲しんでいる人、苦しんでいる人を見て涙を流すほど、あわれみの心を持つことは大事なことなのです。それがイエスの心です。
イエスが涙を流されると、ユダヤ人たちはこう言いました。「ご覧なさい。どんなにラザロを愛しておられたことか。」彼らは素直にイエスの愛をそこで感じ取ったわけです。あなたはこの愛を感じ取っておられますか。そして、悲しんでいる人、苦しんでいる人に対して、イエスのように、あわれみの心を持っておられるでしょうか。イエスは、あなたの悲しみをご覧になられます。そして、そのために心を動かせ、涙を流しておられるのです。私たちもイエスからあわれみと恵みをいただいて、同じように悲しみの中にある人たちにあわれみ深い者とさせていただきたいと思います。
この後で賛美する「いつくしみ深き」は、歌われている讃美歌の一つで、教会では礼拝ではもちろんのこと、葬儀や結婚式においてもよく歌われる有名な賛美歌の一つです。
この歌の歌詞を書いたのは、ジョゼフ・スクラビンという19世紀のアイルランド人ですが、彼の生涯は、この世的には全く恵まれないものでした。大学卒業後に事業を営みますが、結婚式を目前にして婚約者を湖の事故で亡くし、事業も破産します。その後アイルランドからカナダに渡り、大学で教鞭を取りながら、不幸な人や貧しい方たちへの奉仕活動にその生涯を献げました。そんな活動の中で出会った女性と婚約するものの、その女性も結核を患い、帰らぬ人となるのです。彼は1度ならず2度までも愛する婚約者を失いました。世をはかなみ、自分の人生をどれほど呪ったことでしょうか。神を恨んでも仕方がないと思えるような状況の中で、彼は郷里のアイルランドで病に苦しむ母を慰めるために、この讃美歌を書いたのです。神を呪いたくなるほどの試練と苦悩を味わいつつ、彼は「苦しむ自分を励まし、力づけてくれたキリストを母に伝えたい」そんな思いがこの歌詞の中には込められています。
- いつくしみ深き 友なるイエスは 罪、咎、憂いを とり去りたもう
心の嘆きを 包まず述べて などかは下(おろ)さぬ 負える重荷を
- いつくしみ深き 友なるイエスは 我らの弱きを知りて 憐れむ
悩み悲しみに 沈めるときも 祈りにこたえて 慰めたまわん
- いつくしみ深き 友なるイエスは 変わらぬ愛もて 導き給う
世の友我らを捨て去る時も 祈りに応えて いたわりたまわん
イエスはあなたを深く愛しておられます。あなたの苦しみ、嘆きのすべてをご存知であられるのです。ですから、このイエスにすべての重荷を置いて、なぐさめとあわれみをいただき、同じように苦しんでいる人たちに対して慰めを与える者となりたいと思うのです。
Ⅲ.主のあわれみを感じて(36-37)
ですから、第三のことは、この主のあわれみに応答しましょうということです。36節と37節をご覧ください。「ユダヤ人たちは言った。「ご覧なさい。どんなにラザロを愛しておられたことか。」しかし、彼らのうちのある者たちは、「見えない人の目を開けたこの方も、ラザロが死なないようにすることはできなかったのか」と言った。」
イエスが涙を流されたのを見たユダヤ人たちは、「ご覧なさい。どんなにラザロを愛しておられたことか。」と言いましたが、しかし、彼らのうちのある者たちは、「見えない人の目を開けたこの方も、ラザロが死なないようにすることはできなかったのか」と言いました。つまり、このように主のあわれみを素直に感じ取る人々もいましたが、そうでない人もいたということです。このような人は、いつでも悪意を持っている人であって、批判の目を持って見てばかりいる人です。
あなたは、この二つのタイプのうち、どちらでしょうか。あわれみ深いイエスが目の前にいても、それを認めようとしない、ねじけた心は、下向きに置かれた器のように、どんなに雨が降ってもそれを受け止めることができません。上向きの器にしか雨水はたまらないのです。それと同じように、主に対して心を閉ざしている人は、下向きの心の人です。しかし心が主に向いている人には、主の恵み、あわれみが十分注がれます。あなたの心はどちらに向いているでしょうか。「私はこれを心に思い返す。それゆえ、私は言う。「私は待ち望む。主の恵みを。」実に、私たちは滅び失せなかった。主のあわれみが尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。「あなたの真実は偉大です。」」(哀歌3:21-23)主のあわれみは尽きることがありません。それは朝毎に新しいのです。あなたも、この尽きない主のあわれみを感じ取り、ぜひこの恵みの中に生きる者となろうではありませんか。