出エジプト記24章

出エジプト記24章から学びます。エジプトから救い出されたイスラエルの民に対して主は、「もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。

あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。」(19:5-6)と言われました。その神の声、神のことばとは何か。それが20章から23章まで語られた十戒めとそれに付加された定めです。神との契約における次のステップは何でしょうか。それは、イスラエルの民の応答です。もしそれに同意すれば、彼らは神との契約関係に入ることになります。

 

Ⅰ.遠く離れて伏し拝め(1-3)

 

まず、1節から3節までをご覧ください。  「1 主はモーセに言われた。「あなたとアロン、ナダブとアビフ、それにイスラエルの長老七十人は、主のもとへ上って来て、遠く離れて伏し拝め。2 モーセだけが主のもとに近づけ。ほかの者は近づいてはならない。民はモーセと一緒に上って来てはならない。」3 モーセは来て、主のすべてのことばと、すべての定めをことごとく民に告げた。すると、民はみな声を一つにして答えた。「主の言われたことはすべて行います。」  主はモーセに、彼とアロン、それにナダブとアビフ、それにイスラエルの長老70人と、主のもとに上って来て、遠く離れて伏し拝むようにと言われました。アロンはモーセの兄で、大祭司でした。ナダブとアビフはアロンの息子たちです。彼らも祭司でした。また、イスラエルの長老70人というのは、イスラエルをさばくために立てられたリーダーたちです。モーセ1人では250万人から300万人とも言われるイスラエルの民を治めるのは困難なので、神はモーセとともに民を治めるリーダーたちを立てられたのです。それがモーセの姑イテロによって与えられた助言でした。彼らを連れて主のところに上り、遠く離れて伏し拝むようにと言われたのです。

 

なぜ遠く離れて伏し拝まなければならなかったのでしょうか。それは、主は聖なる方であり、人間はだれ一人として近づくことができなかったからです。もし近づこうものなら、罪と汚れのためにたちまちに殺されてしまうことになります。19章には主が民全体の目の前でシナイ山に降りて来るという出来事が記されてありますが、その山に触れる者は、だれでも必ず殺されなければなりませんでした(19:12)。そして、主が山から降りて来られた時、シナイ山全山に煙が立ち上り、激しく震えました。主は、それほど聖い方であり、だれも近づくことができない方なのです。

 

しかし、モーセだけは近づくことができました。神はモーセに、「主のもとに近づけ」と命じられました。ほかの者は近づくことはできません。ただモーセだけが近づくことを許されたのです。それで、モーセは、主のすべてのことばと、すべての定めをことごとく民に告げました。

すると、民はみな声を一つにして答えました。「主の言われたことはすべて行います。」彼らとしては、本気でそう思ったのでしょう。しかし、それはあまりにも浅はかで、軽いものでした。主が言われたことをすべて行うなどできるはずがありません。洗礼式の中で誓約を行いますが、その中には「あなたは、聖霊の恵みに信頼し、キリストのしもべとして、ふさわしく生きることを願いますか。」とか、「あなたは、自分の最善を尽くして、教会の礼拝を守り、教会員としての務めを果たし、あかしの生活をすることを願いますか」とあります。そこで「行いますか」ではなく「願いますか」とあるのは、それを完全に行うことはできないからです。できないけれども、そのように願うのです。

しかし、イスラエルの民は「主が言われたことをすべて行います」と答えました。彼らは自分たちの弱さや限界を理解していませんでした。もし律法が要求していることを正しく理解していないと、形式的な信仰に陥ってしまうことになります。イエス様の時代になって、イエス様が律法学者やパリサイ人たちを激しく糾弾されたのはそのためです。彼らは自分では神の律法を行っているつもりでしたが、それは中身のない形だけのものでした。そうした律法学者やパリサイ人たちの形式的な信仰の芽は、すでにこの時点で存在していたと言えます。メシアとして来られたイエス様は、こうした彼らの律法の解釈を正そうとされました。

 

こうした形式的な信仰は、私たちにも見られることがあります。しかし、主が求めておられることはこうした形式的な律法主義ではなく、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、主を愛することです。私たちは神の聖さを知り、そこに自分の限界を悟りながら、主の恵みに拠り頼んで、心から主を愛する者でありたいと思います。それは、私たちの内側に真実な信仰と愛の実質が伴うことなのです。

 

2.契約の血(4-8)

 

次に4節から8節までをご覧ください。

「4 モーセは主のすべてのことばを書き記した。モーセは翌朝早く、山のふもとに祭壇を築き、また、イスラエルの十二部族にしたがって十二の石の柱を立てた。5 それから彼はイスラエルの若者たちを遣わしたので、彼らは全焼のささげ物を献げ、また、交わりのいけにえとして雄牛を主に献げた。6 モーセはその血の半分を取って鉢に入れ、残りの半分を祭壇に振りかけた。7 そして契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らは言った。「主の言われたことはすべて行います。聞き従います。」8 モーセはその血を取って、 民に振りかけ、 そして言った。 「見よ。これは、これらすべてのことばに基づいて、主があなたがたと結ばれる契約の血である。 」」 それで、モーセは主のことばをことごとく書き記しました。そして翌朝早く、山のふもとに祭壇を築き、イスラエルの12の部族にしたがって12の石の柱を立てました。祭壇は、主の臨在の象徴であり、12の石の柱は、イスラエル12部族を象徴していました。 それはこの12部族が主と契約を締結した記念のしるしであるばかりか、主が彼らとともにいてくださるということの象徴でもありました。

 

それからモーセはイスラエルの若者たちを遣わしたので、彼らは全焼のささげ物を献げ、また、交わりのいけにえとして雄牛を主に献げました。そしてその血の半分を取って鉢に入れ、残りの半分を祭壇に振りかけました。どういうことでしょうか。これは血によって結ばれる契約であるということです。アブラハムが神と契約を結んだ時にも、血が流されました(創世記15:9-21)。

 

そして契約の書を取り、民に読んで聞かせると、彼らは「主の言われたことはすべて行います。聞き従います。」と言ったので、モーセは鉢にとったもう半分の血を、民に振りかけました。これは、主が彼らと結ばれる契約の血です。この血によって契約は結ばれ、効力を持ちます。祭壇に注がれた血は主に対するものであり、民に注がれた血は、民が神と結ばれたことを意味するものでした。これはどういうことかというと、神との契約の土台となるのは、いけにえの血であるということです。血を流すことがなければ、罪の赦しはありません。

この血は、キリストが十字架で流された血潮を予表していました。私たちはキリストの流された血の振りかけを受けたことによって、罪の赦しという神との契約を結ぶことができたのです。そのことを、へブル9:15-22でこのように説明してあります。

「15 キリストは新しい契約の仲介者です。それは、初めの契約のときの違反から贖い出すための死が実現して、召された者たちが、約束された永遠の資産を受け継ぐためです。16 遺言には、遺言者の死亡証明が必要です。17 遺言は人が死んだとき初めて有効になるのであって、遺言者が生きている間には、決して効力を持ちません。18 ですから、初めの契約も、血を抜きに成立したのではありません。19 モーセは、律法にしたがってすべての戒めを民全体に語った後、水と緋色の羊の毛とヒソプとともに、子牛と雄やぎの血を取って、契約の書自体にも民全体にも振りかけ、20 「これは、神があなたがたに対して命じられた契約の血である」と言いました。21 また彼は、幕屋と、礼拝に用いるすべての用具にも同様に血を振りかけました。22 律法によれば、ほとんどすべてのものは血によってきよめられます。血を流すことがなければ、罪の赦しはありません。」

初めの契約とは、このシナイ契約のことです。初めの契約も、血を抜きに成立したのではありません。モーセは、律法にしたがってすべての戒めを語った後で、子牛や雄やぎの血を取って、それを祭壇と契約の書に、そして民全体に振りかけたのです。それはキリストによってもたらされる新しい契約を指し示していたのです。

 

主イエスは同じ表現を用いて、最後の晩餐の席でこう言われました。「26 また、一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、神をほめたたえてこれを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」27 また、杯を取り、感謝の祈りをささげた後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。28 これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。」(マタイ26:26-28)

この杯は何を表していたのでしょうか。それは、多くの人のために、罪の赦しのために流される、主の契約の血です。この血の注ぎがなければ、罪の赦しはありません。しかし、主イエスがそのいけにえとなって死んでくださったことによって、その流された血の注ぎかけを受けたことで、私の罪は赦されたのです。

 

クリスチャンとは、このキリストの血による契約にサインをした人のことを言います。そのサインとは、キリストの血の注ぎかけを受けるということ、すなわち、キリストの十字架の贖いを信じるということです。あなたが信仰によってキリストの十字架の贖いを信じるなら、罪の赦しという神との契約を結ぶのです。

 

Ⅲ.神との平和(9-11)

 

9節から11節までをご覧ください。

「それからモーセとアロン、ナダブとアビフ、それにイスラエルの長老七十人は登って行った。10 彼らはイスラエルの神を見た。御足の下にはサファイアの敷石のようなものがあり、透き通っていて大空そのもののようであった。11 神はイスラエルの子らのおもだった者たちに、手を下されなかった。彼らは神ご自身を見て、 食べたり飲んだりした。」

 

それからモーセとアロン、ナダブとアビフ、それにイスラエルの長老70人は登って行きました。何のためでしょうか。神と共に食事をし、交わりを持つためです。ここには、「彼らはイスラエルの神を見た」とあります。神を見たとは言っても、神の姿を見たわけではありません。彼らが見たのは、神の臨在に伴う神の栄光でした。それは宝石のように輝いていました。御足の下にはサファイアの敷石のようなものがあり、透き通っていて大空そのもののようでした。神は聖なる方なので、だれも近づくことができません。まして、神を見るなどもってのほかです。神を見たなら死ぬというのが、イスラエル人の一般的な認識でした。しかし、神は彼らに手を下されませんでした。彼らは特別の恵みをいただいたのです。なぜなら、彼らの罪は赦され、聖められたからです。そればかりではありません。彼らは神を見て、食べたり飲んだりしました。親しい交わりを持つことができました。これは和解のいけにえ、交わりのいけにえを共に食べたということです。

 

これは、主の晩餐を表していました。主の晩餐は、主との新しい契約に入れていただいた者が、キリストの死を記念し、その再臨を覚えるために、私たちに与えられたものです。それは罪が赦された者が、主との親しい交わりを持つことを表しています。私たちはキリストの十字架の贖いによって、父なる神と交わることができるようになりました。それはキリストの血による新しい契約です。神との交わりを与えてくださった主に感謝しましょう。

 

Ⅳ.主のみことばを聞くために(12-18)

 

最後に、12節から18節までをご覧ください。

「12 主はモーセに言われた。 「山のわたしのところに上り、そこにとどまれ。わたしはあなたに石の板を授ける。 それは、彼らを教えるために、 わたしが書き記したおしえと命令である。 」13 そこで、モーセとその従者ヨシュアは立ち上がり、モーセは神の山に登った。14 彼は長老たちに言った。「私たちがあなたがたのところに戻って来るまで、私たちのために、ここにとどまりなさい。 見よ、 アロンとフルがあなたがたと一緒にいる。訴え事のある者はだれでも彼らのところに行きなさい。」15 モーセが山に登ると、雲が山をおおった。16 主の栄光はシナイ山の上にとどまり、雲は六日間、山をおおっていた。七日目に主は雲の中からモーセを呼ばれた。17 主の栄光の現れは、 イスラエルの子らの目には、 山の頂を焼き尽くす火のようであった。18 モーセは雲の中に入って行き、山に登った。そして、モーセは四十日四十夜、山にいた。」

 

主はモーセに、「山のわたしのところに上り、そこにとどまれ。」と言われました。それは、神から石の板を受けるためです。それは、主がイスラエルの民を教えるために、主ご自身が下記記された教えと命令です。

 

そこで、モーセとその従者ヨシュアが立ち上がり、モーセが神の山に登りました。ヨシュアは一緒に行きましたが頂上までではなく、途中で待機していました。モーセは、自分がいなくなった後をアロンとフルに任せました。彼らは、アマレクとの戦いの時に、モーセの両手を支えた人たちです(出17:12)。

モーセが山に登ると、どのようになったでしょうか。まず雲が山をおおいました。主の栄光はシナイ山の上にとどまり、雲は6日間、山をおおいました。そして7日目に、主はモーセを呼ばれました。山のふもとにいたイスラエルの民の眼には、主の栄光の現れは、山の上の頂を焼き尽くす火のようでした。モーセは雲の中に入って行き、そこで40日40夜、いました。その間彼は、断食していたことがわかります。申命記9:9には、「私が石の板、すなわち、主があなたがたと結んだ契約の板を受け取るために山に登ったとき、私は四十日四十夜、山にとどまり、パンも食べず水も飲まなかった。」とあるからです。それはモーセにとっても、決して楽な時間ではなかったでしょう。どうしてこれほどの時間がかかったのでしょうか。そこで主がご自身の教えを語られるからです。彼は主なる神との交わりの中で、神の声を聞き、それを民に伝えなければなりませんでした。その神の御声を聞かなければならなかったのです。

 

神の御声を聞くということは、楽なことではありません。時間がかかります。時にはこの時のモーセのように断食して聞くということもあるかもしれません。ですから、主のみことばを聞くためには、私たちも聖別して、忍耐をもって聞かなければならないのです。しかし、そのようにして主の御声を聞くなら、そこに主の栄光が現れるでしょう。主との交わりの中でこそ主の栄光を受け、真に輝いて生きることができるのです。あなたは、どのように主のみことばと取り組んでいますか。毎日の忙しい生活の中であなたの手と足を止め、山の中に入って行き、そこで主の御声を聞く時をしっかりと持ってください。