Ⅰサムエル記17章41~58節

今回は、サムエル記第一17章後半から学びます。イスラエルの陣営に炒り麦とパン、そしてチーズを届けるように父エッサイから依頼されたダビデは、戦地でペリシテ人の巨人ゴリヤテが、イスラエル人を脅しているのを見ました。それを見たイスラエルの人々は、脅えて戦う意欲を失っていましたが、ダビデは「この無割礼のペリシテ人は何なのですか。生ける神をそしるとは。」と言って、信仰によって立ち向かいました。

 

Ⅰ.石投げを手にして(31-40)

 

まず、31~40節までをご覧ください。

「31 ダビデが言ったことは人々の耳に入り、サウルに告げられた。それで、サウルはダビデを呼び寄せた。32 ダビデはサウルに言った。「あの男のために、だれも気を落としてはなりません。このしもべが行って、あのペリシテ人と戦います。」33 サウルはダビデに言った。「おまえは、あのペリシテ人のところへ行って、あれと戦うことはできない。おまえはまだ若いし、あれは若いときから戦士だったのだから。」34 ダビデはサウルに言った。「しもべは、父のために羊の群れを飼ってきました。獅子や熊が来て、群れの羊を取って行くと、35 しもべはその後を追って出て、それを打ち殺し、その口から羊を救い出します。それがしもべに襲いかかるようなときは、そのひげをつかみ、それを打って殺してしまいます。36 しもべは、獅子でも熊でも打ち殺しました。この無割礼のペリシテ人も、これらの獣の一匹のようになるでしょう。生ける神の陣をそしったのですから。」37 そして、ダビデは言った。「獅子や熊の爪からしもべを救い出してくださった主は、このペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます。」サウルはダビデに言った。「行きなさい。主がおまえとともにいてくださるように。」38 サウルはダビデに自分のよろいかぶとを着けさせた。頭に青銅のかぶとをかぶらせて、それから身によろいを着けさせたのである。39 ダビデは、そのよろいの上にサウルの剣を帯びた。慣れていなかったので、ためしに歩いてみた。ダビデはサウルに言った。「これらのものを着けては、歩くこともできません。慣れていませんから。」ダビデはそれを脱いだ。40 そして自分の杖を手に取り、川から五つの滑らかな石を選んで、それを羊飼いの使う袋、投石袋に入れ、石投げを手にし、そのペリシテ人に近づいて行った。」

 

ダビデが言ったことはサウルの耳に入り、彼はサウルに呼び寄せられました。そこでダビデが言ったことは、自分が出て行って、あのペリシテ人と戦うということでした。当然、サウルはダビデのことばを受け入れることはできませんでした。なぜなら、ダビデはまだ若く、戦いの経験もなかったからです。一方、ゴリヤテは若い時から戦士でした。いわゆる百戦錬磨です。そんな相手にどうやって戦うというのでしょう。無理だ、できない、というのがサウルの反応でした。

 

それに対してダビデはこう言いました。34節から36節までです。「34しもべは、父のために羊の群れを飼ってきました。獅子や熊が来て、群れの羊を取って行くと、35 しもべはその後を追って出て、それを打ち殺し、その口から羊を救い出します。それがしもべに襲いかかるようなときは、そのひげをつかみ、それを打って殺してしまいます。36 しもべは、獅子でも熊でも打ち殺しました。この無割礼のペリシテ人も、これらの獣の一匹のようになるでしょう。生ける神の陣をそしったのですから。」

そして、こう言いました。「獅子や熊の爪からしもべを救い出してくださった主は、このペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます。」(37)

何という信仰でしょうか。彼はすでに主にあって戦ってきました。その戦いは、父の羊の群れを守るために、獅子や熊と戦いうというものでしたが、相手が獅子でも熊でも自分に襲いかかるようなときは、そのひげをつかみ、その口から羊を救い出しました。けれども、今回の戦いは、生ける神の陣をそしった無割礼のペリシテ人ゴリヤテとの戦いです。主が助けてくださらないわけがありません。獅子や熊の爪から救い出してくださった主は、このペリシテ人の手からも必ず救い出してくださいます。

ほんとうに、見上げた信仰です。ダビデは敵の大きさとか、強さなどを全く見ませんでした。彼が見たのは、これまでずっと自分を支え、救い出してくださった、真実な力ある主ご自身でした。人を見たら罠にかかります。しかし、主に信頼するものは守られます。

 

イエス様を乗せ舟でガリラヤ湖を渡っていた弟子たちが、突然、激しい嵐にあい、湖で転覆しそうなとき、彼らがパニックを起こしたのはなぜでしょうか。それは彼らが嵐の大きさに目を奪われてしまい、そこに嵐を静めることのできるお方がいることを見なかったからです。私たちの神、主は、どんな嵐をも静める力を持っておられる方です。この方が私たちともにおられるのです。であれば、何を恐れる必要があるでしょうか。私たちが見なければならないのは目の前の嵐ではなく、その嵐を静めることができる神ご自身なのです。

 

ダビデの話を聞いて納得したサウルは、ダビデを代表戦士として戦場に送ることに同意しました。ダビデの熱意に並々ならぬものを感じたのでしょう。それでサウルは自分のよろいかぶとと剣を与えました。しかし、武具に慣れていなかったダビデは、ためしに歩いてみましたが、まともに歩くことができなかったので、「これらのものを着けては、歩くことができません。」と言って、脱ぎました。そして自分の杖を手に取り、川から5つの滑らかな石を選び、それを羊飼いの使う袋、投石袋に入れ、石投げを手にして、ゴリヤテに近づいて行くことにしました。ここに教訓があります。つまり、借物では、戦うことができないということです。それがどんなに立派な武具でも人のもので戦うことはできないのです。自分の武器で戦わなければなりません。人にはみなそれぞれに合った戦い方があります。そのやり方で戦わなければ実力を発揮することができないのです。また、それが仮にどんなに質素なものであっても、自分の武器こそが最高に用いられます。むしろ武器が貧弱であればあるほど、勝利した時に神の御名が称えられることになります。あなたの武器は何ですか。主の御名の栄光のために、自分の武器を取り、信仰をもって戦おうではありませんか。

 

Ⅱ.万軍の主の御名によって(41-47)

 

次に、41節から47節までをご覧ください。

「41 そのペリシテ人は盾持ちを前に立て、ダビデの方にじりじりと進んで来た。42 ペリシテ人は、ダビデに目を留めて彼を見つめ、彼を蔑んだ。ダビデが血色の良い、姿の美しい少年だったからである。43 ペリシテ人はダビデに言った。「おれは犬か。杖を持って向かって来るとは。」ペリシテ人は自分の神々によってダビデを呪った。44 ペリシテ人はダビデに言った。「さあ、来い。おまえの肉を空の鳥や野の獣にくれてやろう。」45 ダビデはペリシテ人に言った。「おまえは、剣と槍と投げ槍を持って私に向かって来るが、私は、おまえがそしったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かう。46 今日、主はおまえを私の手に渡される。私はおまえを殺しておまえの頭を胴体から離し、今日、ペリシテ人の軍勢の屍を、空の鳥、地の獣に与えてやる。すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るだろう。47 ここに集まっているすべての者も、剣や槍がなくても、主が救いをもたらすことを知るだろう。この戦いは主の戦いだ。主は、おまえたちをわれわれの手に渡される。」

 

ペリシテ人ゴリヤテが盾持ちを前に立て、ダビデの方に近づいて来ると、ダビデに目を留め、彼を見つめて、蔑みました。ゴリヤテにとっては拍子抜けでした。紅顔の美少年が、しかも羊の番の格好でやってきたからです。そんなダビデにゴリヤテが言いました。「おれは犬か。」当時、「犬」ということばは人を侮辱することばとしても使われました。そして、自分の神々によってダビデをのろいました。自分たちの神々とは、ダゴンの神のことです。ダゴンとは、魚の下半身に人間の上半身をもった姿をしている神で、「魚の偶像」だとも「穀物の神」だともいわれており、豊穣の神としてペリシテ人に拝まれていました。その神々の名によってのろったのです。

 

一方、ダビデはどうだったでしょうか。彼はゴリヤテに、「45おまえは、剣と槍と投げ槍を持って私に向かって来るが、私は、おまえがそしったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かう。46 今日、主はおまえを私の手に渡される。私はおまえを殺しておまえの頭を胴体から離し、今日、ペリシテ人の軍勢の屍を、空の鳥、地の獣に与えてやる。すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るだろう。47 ここに集まっているすべての者も、剣や槍がなくても、主が救いをもたらすことを知るだろう。この戦いは主の戦いだ。主は、おまえたちをわれわれの手に渡される。」(45-47)と言いました。ゴリヤテは、剣と槍と投げ槍をもって向かってくるが、ダビデの武器は、万軍の主の御名でした。彼は、この戦いが主の戦いであることを認識していたのです。つまり、これがペリシテ人の偶像とイスラエルの神との戦いであるということです。そして、主は必ず勝利を与えてくださいます。その結果、ゴリヤテの体は頭と胴体が切り離され、ペリシテ人の軍勢の屍は、空の鳥、地の獣の餌食となります。そして、すべての国は、イスラエルに神がおられるということを知ることになります。

 

詩篇20:7には、「ある者は戦車をある者は馬を求める。しかし私たちは私たちの神、主の御名を呼び求める。」とあります。まさにダビデの戦いがこれでした。彼は戦車や馬ではなく、主の御名を呼び求めました。万軍の主の御名によって戦ったのです。私たちに求められているのはこれでしょう。科学が進歩すると、あたかもそれがすべてであるかのように思われがちな現代にあって、実はそうしたものが逆に社会を混乱させていることも事実です。昭和、平成、令和と時代が進んでくる中で、どんなにITが進歩してきても、かえって社会がおかしくなってきたということを多くの人が感じているのではないでしょうか。ある者は戦車を、ある者は馬を求めますが、しかし私たちが求めるのは、私たちの神、主の御名なのです。これに勝る武具はありません。

 

パウロはエペソ人への手紙で、「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。」(6:12)と言っています。ダビデは自分の戦いが、剣や盾のような物質的なものによる戦いなのではなく、霊の戦いであることを認識していました。私たちの戦いも同じです。血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、天にいるもろもろの悪霊に対するものなのです。このことに気付いているかどうかです。自分がいま直面している問題が、物理的、肉体的なものではなく、霊的なものであることに気付き、それに対抗できるように、また、一切を成し遂げて堅く立つことができるように、神のすべての武具を取らなければなりません。それが真理であり、正義、平和の福音、信仰、救い、御霊の剣である神のことば、そして祈りなのです。すなわち、万軍の主の御名による戦いなのです。

 

Ⅲ.ダビデの勝利(48-58)

 

その結果、どうなったでしょうか。48節から58節までをご覧ください。

「48 そのとき、そのペリシテ人はダビデの方に近づき始めた。ダビデは、すばやく戦場を走って行き、ペリシテ人に立ち向かった。49 ダビデは手を袋の中に入れて、石を一つ取り、石投げでそれを放って、ペリシテ人の額を撃った。石は額に食い込み、彼はうつぶせに地面に倒れた。50 ダビデは、石投げと石一つでこのペリシテ人に勝ち、このペリシテ人を撃って、彼を殺した。ダビデの手に剣はなかったが。51 ダビデは走って行ってペリシテ人の上に立ち、彼の剣を奪ってさやから抜き、とどめを刺して首をはねた。ペリシテ人たちは、自分たちの勇士が死んだのを見て逃げた。52 イスラエルとユダの人々は立ち上がり、ときの声をあげて、ペリシテ人をガイの谷間に至るまで、そしてエクロンの門まで追った。それでペリシテ人は、シャアライムの道に、ガテとエクロンに至るまで、刺し殺されて倒れていた。53 イスラエル人はペリシテ人追撃から引き返して、ペリシテ人の陣営を略奪した。54 ダビデは、あのペリシテ人の首を取ってエルサレムに持ち帰った。しかし、武具は自分の天幕に置いた。55 サウルは、ダビデがあのペリシテ人に向かって出て行くのを見たとき、軍の長アブネルに言った。「アブネル、あの若者はだれの息子か。」アブネルは言った。「王様、お誓いしますが、私は存じません。」56 そこで、王は命じた。「あなたは、あの少年がだれの息子かを調べなさい。」57 ダビデがペリシテ人を討ち取って帰って来たとき、アブネルは彼をサウルの前に連れて来た。ダビデはペリシテ人の首を手にしていた。58 サウルは彼に言った。「若者よ、おまえはだれの息子か。」ダビデは言った。「あなたのしもべ、ベツレヘム人エッサイの息子です。」

 

ペリシテ人ゴリヤテがダビデの方に近づいて来ると、ダビデはすばやく戦場を走って行き、ゴリヤテに立ち向かいました。彼は手を袋の中に入れ、石を一つ取り出すと、それを石投げの中に入れ、それを放って、ゴリヤテの額に命中させました。すると石は額に食い込み、ゴリヤテはうつぶせに地面に倒れました。完全武装していたゴリヤテも、顔だけは隠すことができませんでした。ダビデはゴリヤテのところに走って行くと、彼の上に立ち、彼の剣を奪ってさやから抜き、とどめを刺して首をはねました。ダビデは、石投げと石一つでこのペリシテ人ゴリヤテに勝ったのです。ペリシテ人たちは、自分たちの勇士が死んだのを見ると逃げ出しましたが、追って来たイスラエル人に打たれたので倒れ、空の鳥や野の獣のえじきとなりました。ダビデは、ゴリヤテの首を取ってエルサレムに持ち帰りましたが、武具は自分の天幕に置きました。

 

サウルは、将軍アブネルにダビデのことを尋ねています。それは、あのペリシテ人を倒した者には自分の娘を与え、その父の家には税を課さないと約束していたからです。彼は自分の将来の婿がどのような人物なのかを知ろうとしたのでしょう。しかし、アブネルはダビデについて詳しいことを知りませんでした。そこでアブネルがサウルの前に連れて来ると、ダビデはペリシテ人の首を手にしていました。

 

サウルはダビデに、「若者よ、おまえはだれの息子か」と尋ねました。だれの息子かって、もう何度も彼のそばで竪琴を弾いては、彼にわざわいをもたらす霊を静め、穏やかにしてきたではありませんか。それなのに、お前はだれの息子かと聞くのは変です。実のことろ、彼はダビデを音楽療法士として知ってはいましたが、さほどの関心を示していなかったのです。

 

新約聖書を見ると、イエス様も同じであったことがわかります。ナザレ人たちがイエスにつまずいたのは、彼らがあまりにもイエスの近くにいたからです。サウルはダビデがあまりにも近くにいたので、その賜物と人物を見抜くことができませんでした。私たちも主のみわざがあまりにも近くで行われているために、その祝福が見えなくなっていることがあります。そういうことがないように、いつも自分のそばで働いておられる主の恵みを数えて感謝しようではありませんか。