伝道者の書5章10~20節「幸せな人」

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きょうは、伝道者の書5章後半から、「幸せな人」というタイトルでお話しします。20節に、「こういう人は、自分の生涯のことをあれこれ思い返さない。神が彼の心を喜びで満たされるからだ。」とあります。どういう人が、自分の生涯のことをあれこれ思い返さないのでしょうか。どういう人が、神によって心を喜びで満たされる人なのでしょうか。私たちはいつも自分の生涯のことをあれこれ思い返しては、心を煩わせることがあるのではないでしょうか。しかし聖書は、「こういう人は」神によって心を喜びで満たされると言っています。それはどういう人なのでしょうか。きょうは、このことについてご一緒に考えたいと思います。

 

Ⅰ.どんな境遇にあっても満足することを学ぶ人(10-12)

 

第一に、どんな境遇にあっても満足することを学ぶ人です。10~12節までをご覧ください。「金銭を愛する者は金銭に満足しない。富を愛する者は収益に満足しない。これもまた空しい。 財産が増えると、寄食者も増える。持ち主にとって何の成功だろう。それを目で眺めているだけだ。働く者は少し食べても多く食べても、心地よく眠る。富む者は満腹しても、安眠を妨げられる。」

 

「金銭を愛する者は金銭に満足しない。富を愛する者は収益に満足しない。」金銭を愛することへの警告です。金銭そのもの、富そのものは決して悪いものではありません。仕事をする時に、その労働の対価として与えられる恵みを感謝し、喜びを味わうことは自然なことです。ところが、その富を愛することが様々な災いをもたらすことになると、聖書は教えています。その一つが金銭に満足しない、収益に満足しないということです。いくら富を蓄えても、それで満足することがありません。いつも、まだ足りない、まだ足りない、もっともっと、と欲しがるのです。欲張り、貪欲です。そのことからわかることは、富によっては決して「満足」を買うことはできないということです。商売の利益、銀行の利子、株の配当、株の売買益など、これら一切がさらに欲望をかきたてるのです。

 

この「金銭」と訳されたことばは、へブル語では「銀」ということばです。ですから、新共同訳ではこれを「銀を愛する者は銀に満足することがない。」と訳しているのです。銀に満足しなかった人はだれですか。そう、イエス様を裏切ったイスカリオテのユダです。彼は銀貨30枚でイエス様を売り渡しました。彼は銀貨を愛していました。弟子たちの会計係として金入れを預かっていましたが、そこからいつも銀貨を盗んでいたのです。そして、遂には銀貨30枚のために自分の主であったイエスを売り渡してしまいました。それで彼は満足したでしょうか。いいえ、最後に彼はその銀貨を神殿に投げ込むと、出て行って首を吊って死んでしまいました。銀貨を愛する者は銀貨に満足しないのです。

 

Ⅰテモテ6:10には、「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは金銭を追い求めたために、信仰から迷い出て、多くの苦痛で自分を刺し貫きました。」とあります。また、へブル13:5には、「金銭を愛する生活をせずに、今持っているもので満足しなさい。主ご自身が「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と言われたからです。」とあります。大切なのは金銭を愛することではなく、今持っているもので満足することです。確かに、「生活に不安がある」状態では満足を得られないかもしれません。かといって、不安から解放されれば満足できるかというとそうでもないのです。なぜなら、真の満足はどれだけ持っているかとか、どのような境遇にあるかによって決まるのではなく、どのような心を持っているかによって決まるからです。

 

古代ペルシャに古くから伝わる伝説です。昔、神様が「幸せの鍵」を、お作りになられました。これを一生懸命捜して見つけた人に「幸せの扉」を開けさせたいと考えたのです。
そこで「幸せの鍵」をどこに隠すかという話になりました。天使たちがいろいろアイデアを出し合いました。
「高い山の上がいいんじゃないか」「地の深い所にしよう」「深い海の底はどうか」しかし、どのアイデアもいま一つでした。誰でも見出せるけれど、なかなか見つけられない所はないのか。
そして、とうとう理想的な場所を見つけ出しました。それは「人間の心の中」に隠すことでした。

 

そうです、幸せの鍵は私たちの心の中に眠っているのです。それを掘り出して、用いる人が豊かな人生を歩むことができます。そのことをパウロはピリピ人への手紙の中でこう言っています。「乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満足することを学びました。私は、貧しくあることも知っており、富むことも知っています。満ち足りることにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。 私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。」(ピリピ4:11-13)

パウロは、どんな境遇にあっても満ち足りることを学んだと言っています。貧しさの中でも、富んでいても、そのような境遇が彼の幸せを奪うことはありませんでした。なぜなら、彼はイエス・キリストを知っていたからです。イエス・キリストによってどんな境遇にあっても満ち足りることを学んでいたのです。金銭を愛する者は金銭に満足しません。富を愛する者は収益に満足しないのです。これもまた空しいことです。しかし、イエス・キリストにあるなら、どんな境遇にあっても満足することかできます。これは幸いなことではないでしょうか。

 

11節をご覧ください。「財産が増えると、寄食者も増える。持ち主にとって何の成功だろう。それを目で眺めているだけだ。」
財産が多くなると、それをあてにして群がる者たちが現われるということです。そのために出費が増え、財産の所有者はその恩恵に与ることができません。彼にできるのは、せいぜい預金通帳の数字を目で眺めていることくらいです。これもまた空しいことです。

 

12節には、「働く者は少し食べても多く食べても、心地よく眠る。富む者は満腹しても、安眠を妨げられる。」とあります。働く者が少し食べても多く食べても、心地よく眠ることができるのは、心配がないからです。貧乏人は失うものがないので怖いものがありません。株価が上がろうが下がろうが関係ないのです。でも財産がある人はそういうわけにはいきません。満腹しても、心配事が山のようにあるため、安眠することができないのです。彼は床の中で、資産の運用のことや、税金の支払い、財産が盗まれるのではないかと不安になり、よく眠ることができません。皆さん、寝る前にいろいろ考えない方がいいでよ。考えると眠れなくなりますから。というか、皆さんは考える必要もないようですね。でも、そんなに持っていなくても、もっと増やそうと貪欲になると眠れなくなりますよ。

 

以前、関西に住んでおられる方から電話で相談がありました。その方は、自分のおこずかいの中から株を始めたのですが、前年に大失敗をして大きな損失を出してしまい、どうしたら良いものかと夜も眠れないというのです。それで、お金ではなくもっと大切なものを持つといいですよと言うと、後日、こんなメールがきました。

「お金より大事なものって、結局何なのでしょうか・・・?大きなお金を失ってまで気づく大事な事はあるのでしょうか。今朝目をつけていて、でも買わなかった株が、今日一日で10万円以上上がっていて、買っておけばよかったと、まだ思ってしまい、、、昨年の失敗をいい教訓に、これから慎重に銘柄を選んだり、頑張れば少し取り戻すことはできるのではないかと、少し思いますが、時間はとられます。今、損をしたままやめてしまっても、このあとの人生、そういうものが見つかると思っていいのでしょうか?もし、分かりやすい言葉で、それが何か教えていただけるのであれば、教えていただきたいと思いまして、大変厚かましいのですが、メールをさせていただきました。本当に申し訳ありません。」

 

この方は寝ても覚めても株なのです。株のことが気になって仕方がないのです。それで、星野富弘さんの「いのちよりも大切なもの」という詩を送りました。

「命がいちばんだと思っていたころ 生きるのが苦しかった。
いのちより大切なものがあると知った日 生きているのが嬉しかった」

短い詩ですが、とても大切なことが教えられると思うのです。「いのち」とは肉体のいのちのことです。そのいのちがいちばん大切だと思っていたころは、生きるのが苦しかった。でも、そのいのちよりも大切なものがあると知った日、生きるのが嬉しくなった。いのちよりもたいせつなものとは何でしょうか。それはイエス・キリストです。イエス・キリストにあるいのち、永遠のいのちのことです。それがあると知った日、生きるのが嬉しくなりました。そうしたものに執着しなくてもよくなったからです。神が与えられたいのちに生きればいい、そう思うと生きるのが嬉しくなります。

 

すると、彼女からメールがありました。「よく分かりました。頑張って、教会に通ってみたいと思います。星野さんがイエス・キリストに出会われていたことも知りませんでした。詩集も読んでみます。」

まあ、頑張って行く必要もありませんが、その方にとって教会は初めての所ですから敷居が高かったんでしょうね。頑張って行ってみます。

すると、しばらくしてメールがありました。「おかげさまで、近くの教会に昨日で3回目行かせていただきました。星野富弘さんの本も、図書館で数冊読み、感動しました。その中で奥様との出会いや家族の方々の優しさにも感動しました。
今朝、突発的に全部の持ち株を処分してしまったのは、昨日も残っている資金で株を買い、少し下がると怖くなって売り、1万6000円の損を出し、懲りずに今朝も買った株が下がりだし・・
その株を売ると同時に、持ち株全部、衝動的に処分したわけなのですが、その時、昨日も今日も、失敗を重ね、「これでもまだやめないのか」「これでもまだ分からないのか」って、ふと神様に言われているような気がして、本当に衝動的に全部売ってしまいました。全く、まだ売るつもりもやめるつもりもなかったのに、です。
1月からも、買っては小さな損をする、を繰り返していて、「これでもまだ懲りないのか」って、あまりの失敗続きに、失敗を重ねるたびそう言われているような気がなんとなくしていました。考えすぎでしょうか?神様がこれほどの大きな損失を出さないと分からない私を正してくださったのでしょうか?
とにかく、そう思って、これからは、だんだん生活と私自身の心を改善させていくよう、努力したいと思います。」

 

その後、どうなったかはわかりませんが、近くの教会に通い、そこでいのちよりもたいせつなもの、イエス・キリストのいのち、永遠のいのちを得ることができたらと願っていますが。金銭を愛する者は金銭に満足しません。富を愛する者は収益に満足しないのです。そのような人は満腹してよく眠ることができません。むしろ、すべてを豊かに与えてくださる神に感謝し、イエス・キリストと共にあることこそ、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣であることを覚え、そこに目を留めたいと思うのです。

 

Ⅱ.なくならない食物のために働く人(13-17)

 

ここで教えられる幸せの第二の鍵は、なくなる食物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食物のために働く人です。13~17節をご覧ください。まず13節と14節をお読みします。「私は日の下に、痛ましいわざわいがあるのを見た。所有者に守られていた富が、その所有者自身に害を加えることだ。その富は不運な出来事で失われ、息子が生まれても、その者の手もとには何もない。」

 

「痛ましいわざわい」とは、単なる悪しきことというレベルではなく、恐ろしい悪、決定的な打撃のことです。金持ちがいかに心を労し、富を守ろうとしても、その富が所有者自身に害を加えることがあります。たとえば、突然不幸な出来事が襲って、その富が一挙に失われ、子どもに残してやる財産すら無くなってしまうとかです。私たちは時々そのようなことを耳にします。株価や市場の暴落によって、持っていた財産の価値がなくなってしまったというニュースを。そのようにニュースに触れるたびに、できれば多くの財産を持っていたいと思う反面、経済って本当に怖いなあと思い知らされます。明日どうなるかなんてだれにもわからないのですから。伝道者自身、金持ちが突然の不幸に襲われ、一夜にして貧困のどん底に投げ込まれるのを目撃したのでしょう。このような経験から、伝道者は、次のような結論に導かれるのです。15,16節です。「母の胎から出て来たときのように、裸で、来たときの姿で戻って行く。自分の労苦によって得る、自分の自由にすることのできるものを、何一つ持って行くことはない。これも痛ましいわざわいだ。出て来たときと全く同じように去って行く。風のために労苦して何の益になるだろうか。」

 

人はこの世に裸で生まれてきました。同じように、この世を去る時何一つ携えて行くことはできません。それがこの世の定めなのです。にもかかわらず、人はこの地上生涯においてその富を蓄積するために労苦するわけです。これも痛ましいわざわいです。それはまさに風のために労苦するようなものです。何の益もないのです。

 

そればかりではありません。17節には、「しかも、人は一生、闇の中で食事をする。多くの苛立ち、病気、そして激しい怒り。」とあります。どういうことでしょうか。これは夜中、ごはんを食べる話ではありません。その一生は、多くの苛立ち、病気、そして激しい怒りが伴うということです。それが闇の中で食事をするということです。

ここで伝道者が警告しているのは、神を信じないで、自分のために労苦する一生の空しさです。13節には「日の下に」ということばがありますが、それは、神様抜きの、神様無しの、神を除外したという意味です。神を除外して自分のために富を得ようとあくせく働くことがもたらす悲劇とはこのようなものであるというのです。

 

しかし、日の上には、喜びと楽しみがあります。その人の一生は、闇の中で食事をするのではなく、光の中で食事をするようになります。主イエスは言われました。「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙示録3:20)

主イエスの招きに応じて心の戸を開き、主イエスを心の中に迎えるなら、主がその人の中に入ってその人とともに食事をし、その人もまた彼とともに食事をします。苦痛も、病気も、怒りも、嘆きもありません。闇の中で食事をするのではなく、光の中で食事をするようになるのです。神の聖霊があなたに臨み、あなたのすべての罪が赦され、あなたは神の子とせられ、神との親しい交わりを持ちことができます。あなたの一生は、良いもので満たされるのです。

 

ですから、大切なのは何のために働くのかということです。あなたは、何のために働いていますか。なくなる食べ物のためにあくせくと働いてはいないでしょうか。イエス様は言われました。「なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。それは、人の子が与える食べ物です。この人の子に、神である父が証印を押されたのです。」(ヨハネ6:27)

富のために労苦するなら、その富がわざわいをもたらすことになります。それは風のために労苦するようなものです。何の益にもなりません。そのような人の一生は、苛立ちであり、病気であり、激しい怒りです。闇の中で食事をするようなものです。けれども、日の上には喜びがあります。神が共におられるからです。富のためではなく、神のために、なくなる食物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きましょう。それこそ、人の子が与えてくださる食べ物なのです。

 

Ⅲ.主の恵みを数える人(18-20)

 

ですから、結論は何かというと、幸せな人とは神が与えてくださる恵みを数え、それを喜び楽しむ人であるということです。18~20節をご覧ください。「見よ。私が良いと見たこと、好ましいこととは、こうだ。神がその人に与えたいのちの日数の間、日の下で骨折るすべての労苦にあって、良き物を楽しみ、食べたり飲んだりすることだ。これが人の受ける分なのだ。実に神は、すべての人間に富と財を与えてこれを楽しむことを許し、各自が受ける分を受けて自分の労苦を喜ぶようにされた。これこそが神の賜物である。こういう人は、自分の生涯のことをあれこれ思い返さない。神が彼の心を喜びで満たされるからだ。」

 

「見よ。私が良いと見たこと、好ましいこととはとは、こうだ」とは、伝道者がこれまで語って来たことを受けての結論です。それは、神によって与えられた日々の生活を楽しむということです。そうすれば、何が起こっても、人生の喜びを奪い去られることはありません。人生は短いのだから、神によって与えられているものを思う存分楽しむのが、最善の策であるというのです。このような思想は、2:24や3:13にもありましたが、伝道者はここでそのことを繰り返して語っているのです。繰り返して語っているというのは、それだけ重要なことであるということです。なぜこのことが重要なのでしょうか。それは、神がどのような方であるかを示しているからです。そうです、神は私たちに必要なものを与え、これを楽しむことを許してくださる方なのです。18-20節には、「神」の名が4回も出てきていますが、いずれの場合も、「神」は「与える方」として表現されています。

 

19節には、「実に神は、すべての人間に富と財を与えてこれを楽しむことを許し、各自が受ける分を受けて自分の労苦を喜ぶようにされた。これこそが神の賜物である。」とあります。何が神の賜物なのでしょうか。これこそ神の賜物です。神は食べたり飲んだりするだけでなく、すべての人間に富と財を与えてこれを楽しむことを許し、各自が受ける分を受けて自分の労苦を喜ぶようにされました。これこそが神の賜物なのです。

 

伝道者はここで、神というものを強く意識し、また、これを読む者に神から与えられた人生がどれほどすばらしいものであるかに目を向けさせているのです。であれば、私たちはこのことを理解し、自分が神よって受ける分を喜ぶことが求められています。そういう人は、自分に与えられた労苦(仕事)を、自分にゆだねられたものとして楽しむことができるようになりますが、そうでないと、自分の置かれた境遇を嘆き、文句タラタラ言いながら生きることになってしまいます。本当に不思議ですね。同じ境遇でも一方はそれを感謝して、前向きに受け止めることができる人がいれば、一方ではいつも周りの人と自分を比較して、自分に無いものに目を留めて失望したり、不平不満に陥っている人がいます。いったいその違いはどこにあるのでしょうか。それは神によって与えられた賜物を、自分の分としてしっかり受け止めることができるかどうかです。

 

新聖歌172番に「望みも消え行くまでに」という賛美があります。

1. 望みも消え行くまでに 世の嵐に悩むとき 数えてみよ 主の恵み 汝(な)が心は安きを得ん
数えよ 主の恵み 数えよ 主の恵み 数えよ 一つずつ 数えてみよ 主の恵み

2. 主の賜いし十字架を 担いきれず沈むとき 数えてみよ 主の恵み つぶやきなど如何であらん 数えよ 主の恵み
数えよ 主の恵み 数えよ 一つずつ 数えてみよ 主の恵み

3. 世の楽しみ 富 知識 汝が心を誘うとき 数えてみよ 主の恵み 天つ国の幸に酔わん 数えよ 主の恵み 数えよ
主の恵み 数えよ 一つずつ 数えてみよ 主の恵み

この賛美は、E.O.エクセルという人によって作られました。エクセルという人は、この歌の題を「Count your blessings」と名付けています。「Count your blessings」。文字通り、「あなたに賜った恵みを数えなさい」という意味です。望みも消えそうになるほどの この世の嵐に悩むとき 数えてみてください 主の恵みを。あなたの心は安らぎ得るでしょう。主から賜った十字架を担いきれず 心沈むようなとき 数えてみてください 主の恵みを。あなたの心からつぶやきなど消え去るでしょう。この世の楽しみ 富 知識が あなたの心を誘惑するとき 数えてみてください 主の恵みを。さながら天国のような心地に 心躍るでしょう。数えよ 主の恵み 数えよ 主の恵み 数えよ 一つずつ 数えてみよ 主の恵み。

 

魂に平安がなく、私たちの内に不平不満が絶えない原因は、問題が大きいからではありません。エジプトを脱出した後のイスラエルの民に呟きが絶えなかったのは、あの救いの御業を忘れてしまったからです。詩篇103:2には、「わがたましいよ 主をほめたたえよ 主がよくしてくださったことを何一つ忘れるな。」とあります。主が良くしてくださったことを何一つ忘れないこと、そうです、主が良くしてくださったことを一つ一つ数えて感謝すること、それが幸福の秘訣なのです。

 

毎年11月第四木曜日は、アメリカではサンクスギビングを迎えます。1620年9月16日、信教の自由を求め102名の人を乗せて英国のプリマスを出航した船は、66日間の航海の後11月21日にアメリカ東部マサチューセッツ州プリマスに到着しました。慣れない土地で、森の木を切り、丸太で家を建て生活を始めますが、多くの人は都会育ちで農業に慣れておらず、新天地での生活は困難を極めました。冬の半年間に約半数の人たちが飢えと寒さで死にました。春に親しくなったインディアンから、トウモロコシやえんどう豆、小麦、大麦などの種まきを教えてもらい、2度目の秋には沢山の収穫が与えられたことから、秋の収穫物を前にインディアンの友を招き、神の恵みに感謝して収穫感謝礼拝を行ったのです。あれから400年、アメリカ人はそのことを忘れないようにと、毎年盛大にこれをお祝いするのです。というわけで、私はアメリカ人ではありませんが、家内がどうしてもというので、今週はターキーを焼いて盛大にお祝いすることになっています。

 

それはアメリカだけてのことではなく、私たちの人生においても言えることです。食べたり、飲んだりすることは日常茶飯事です。普段、食事がことさら楽しいと感じることはないでしょう。しかしその日常の小さな幸いこそが「神の賜物」であり、「幸福」なのです。私たちの人生は神に与えられた短い人生の日々です。残りわずかな人生の日々に、汗をかいて労し、食事ができることは、なんと幸いなことでしょう。それを神の賜物として受け入れ、喜んで生きることが大切なのです。

 

20節をご覧ください。「こういう人は、自分の生涯のことをあれこれ思い返さない。神が彼の心を喜びで満たされるからだ。」

こういう人は、自分の生涯のことをあれこれ思い返しません。自分が不幸だとか、神は不公平だとか、人生は悲劇で満ちているとか、思わなくなるのです。つまり、自分の人生をくよくよ思わなくなるということです。なぜ?神が彼の心を喜びで満たされるからです。その人の心には、神が下さる喜びが満ちているからです。

結局のところ、私たちの幸いは自分にどれだけの富や財産があるかとか、どんな仕事をしているか、どのようにうまくいっているかということではなく、神によって心が喜びで満たされているかどうかで決まるのです。自分に与えられたすべてのものが神の賜物であると受け止め、これを喜び、楽しみましょう。こういう人は、自分の生涯のことをあれこれ思い返すことはしません。まことに幸いな人だと言えるのです。