Ⅱサムエル記9章

 サムエル記第二9章から学びます。

 Ⅰ.ヨナタンとの契約のゆえに(1)

 まず、1節をご覧ください。「ダビデは言った。「サウルの家の者で、まだ生き残っている人はいないか。私はヨナタンのゆえに、その人に真実を尽くしたい。」

 主はダビデとともにおられたので、ダビデが行く先々で、彼に勝利を与えられました。主は周囲のすべての敵から彼を守り、安息を与えてくださいました。ダビデもまた、そのようにして与えられた全イスラエルを、主のさばきと正義によって治めていました。

 そのような時ダビデは、サウルの家の者で、まだ生き残っている人はいないか、と尋ねました。それは、ダビデが親友ヨナタンと結んだ契約のゆえです。彼はヨナタンに真実を尽くしたいと思ったからです。その契約とはⅠサムエル記20章12~17節にある内容ですが、ヨナタンは自分の父サウルがダビデを殺さないというのを聞いていたのに、実際はそうでないのを見て、もしサウルがダビデを殺そうとしているのを知ったなら、そのことを必ずダビデに告げ、ダビデが殺されることがないように無事に逃がしてやる代わりに、自分の家族をあわれんで、恵みを施してほしいということでした。たとえ自分が死ぬようなことがあっても、どうか自分の家族だけは助けてやってほしい、彼の家が断たれることがないようにしてほしいということだったのです。ダビデはこのヨナタンのことばを受け入れ、主の前で契約を結びました。それが今、実行に移されようとしていたのです。ダビデは、そのヨナタンとの契約のゆえに、その真実を尽くそうとしたのです。

日本のことわざに、「喉元過ぎれば熱さ忘れる」ということわざがあります。苦しい時に人を助けてやっても、その苦しみが過ぎ去るとその恩を忘れてしまうということです。ルカの福音書17章には、イエス様にツァラートを癒してもらった10人の人の話があります。しかし、そのうちで感謝するためにイエス様のところに戻って来たのはたった1人だけでした。しかもそれはサマリヤ人だけ、外国人だけでした。それを見られて嘆かれたイエス様はこう言われました。「10人きよめられたのではないか。9人はどこにいるのか。この他国人のほかに、神をあがるために戻って来た者はいなかったのか。」(ルカ17:17-18)

このように、私たちは往々にして人から受けた恵みを忘れ、感謝の心をなくしたり、神に対する感謝や約束を忘れてしまったりすることがあります。しかし、ダビデはそうではありませんでした。彼は、ヨナタンと交わした契約を忘れることなく、その契約のゆえに、彼の家族を助けようとしたのです。ここにダビデの誠実な信仰を見ることができます。私たちもダビデのように、主の前で契約したことを最後まで果たそうとする誠実な信仰者でありたいと思います。

Ⅱ.メフィボシェテへの恵み(2-8)

次に、2~8節をご覧ください。「サウルの家にツィバという名のしもべがいて、ダビデのところに呼び出された。王は彼に言った。「あなたがツィバか。」彼は言った。「はい、あなた様のしもべです。」王は言った。「サウルの家の者で、まだ、だれかいないか。私はその人に神の恵みを施そう。」ツィバは王に言った。「まだ、ヨナタンの息子で足の不自由な方がおられます。」王は彼に言った。「その人は、どこにいるのか。」ツィバは王に言った。「お聞きください。ロ・デバルのアンミエルの子マキルの家におられます。」ダビデ王は人を送って、ロ・デバルのアンミエルの子マキルの家から彼を連れて来させた。サウルの子ヨナタンの子メフィボシェテは、ダビデのところに来て、ひれ伏して礼をした。ダビデは言った。「メフィボシェテか。」彼は言った。「はい、あなた様のしもべです。」ダビデは言った。「恐れることはない。私は、あなたの父ヨナタンのゆえに、あなたに恵みを施そう。あなたの祖父サウルの地所をすべてあなたに返そう。あなたはいつも私の食卓で食事をすることになる。」彼は礼をして言った。「いったい、このしもべは何なのでしょうか。あなた様が、この死んだ犬のような私を顧みてくださるとは。」

サウルの家にツィバという名のしもべがいました。彼はダビデのところに呼び出されると、ダビデは彼に、サウルの家の者で、まだだれかいるかどうかを尋ねました。その者に恵みを施すためです。あのヨナタンのゆえにです。そこでツィバは、ヨナタンの息子で足の不自由なメフィボシェテが残っていることを知らせます。覚えているでしょうか、Ⅱサムエル記4章で、このヨナタンの子について紹介されていました。彼がメフィボシェテです。サウルとヨナタンがペリシテ人との戦いによって死んだとき、メフィボシェテの乳母があまりにも急いで逃げたので、その子を落としてしまいました(Ⅱサムエル4:4)。それで彼は足なえになってしまったのです。彼は今、名も明かさずに、マキルという人の家で世話になっていました。

メフィボシェテは、いのちが奪われるのではないかと恐れながらダビデのもとに来て、ひれ伏して礼をしました。するとダビデは彼に信じられないことを言いました。何でしょうか。7節です。「恐れることはない。私は、あなたの父ヨナタンのゆえに、あなたに恵みを施そう。あなたの祖父サウルの地所をすべてあなたに返そう。あなたはいつも私の食卓で食事をすることになる。」

何とベニヤミンの地にある祖父サウルの土地をすべて自分に返すというのです。そればかりではあふりません。いつもダビデの食卓で食事をすることになるというのです。

これは考えられないことです。当時の世界では、王が他の王によって滅ぼされたとき、新しい王は、自分に反逆して自分の国を乗っ取ることがないように前の王の家族全員を皆殺しにしました。ですから、サウルの家からダビデの家にイスラエルの統治が移ったのであれば、メフィボシェテは殺されて当然でした。その彼のいのちが守られるというだけでなく、先祖の土地まで返してもらうことができ、さらに、王の食卓で食事をすることまで許されたのです。その恵みがどれほど大きいものであったかがわかるかと思います。これが神の恵みです。Amazing Grace! 驚くばかりの恵みです[o1] 。罪過と罪との中に死んでいた私たちは滅ぼされても当然の者でした。にもかかわらず、神は十字架のキリストにその敵意を置いてくださることによって、私たちの罪を赦してくださいました。そればかりか、私たちを神の子として御国を相続する者としてくださったのです。そしてキリストとの食事、親密な交わりを持つ特権に預からせてくださいました。これは大いなる恵みです。それは、アブラハムを通して約束してくださったことであり、またモーセを通して約束してくださったことであり、このダビデを通して約束してくださったことです。神はその約束のゆえに、それを実現してくださったのです。神は約束を実行される真実な方なのです。その契約のゆえに、私たちも神の尊い救いに与る者となったのです。

メフィボシェテは、感謝してダビデの申し出を受け取りました。感謝して受け取るしかなかったのでしょう。足なえの身ですから、かつてイシュボシェテがダビデと戦ったように、戦うことはできません。また、このようなすばらしい恵みが用意されているのに、それを受け取らない理由はないからです。

 彼は自分のことを、「死んだ犬のような者」と言っています。私たちにはあまりこの言葉の持つ重みを理解していません。「犬」というのは聖書の中で非常に恥ずべきもの、卑しいものを呼ぶときの呼称として用いられた言葉です。彼は、自分がいかに卑しい者であるかを知っていました。

 神の恵みを受け入れる人は、それが恵みであることが分からないと、受け入れることができません。自分はすでに豊かであり、満足していると思っていると、罪の赦しや永遠のいのの必要性を感じなくなってしまうからです。ですから、恵みが恵みであることを知るには、本当の自分の姿、心の貧しさを知る必要があります。イエス様は、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」(マタイ5:3)と言われましたが、自分がいかに貧しく、惨めな者であり、さばきと死に値する者であることを認めることが救いの入口です。このメフィボシェテのように、そのことを認めることができなければ、その恵みの大きさを知ることはできないのです。

Ⅲ.王の食卓で食事をしたメフィボシェテ(9-13)

次に、9~13節をご覧ください。「王はサウルのしもべツィバを呼び寄せて言った。「サウルと、その一家の所有になっていた物をみな、私はあなたの主人の息子に与えた。あなたも、あなたの息子たちも、あなたの召使いたちも、彼のために土地を耕し、作物を持って来て、それがあなたの主人の息子のパン、また食物となる。あなたの主人の息子メフィボシェテは、いつも私の食卓で食事をすることになる。」ツィバには息子が十五人と召使いが二十人いた。 ツィバは王に言った。「わが主、王がこのしもべに申しつけられたとおりに、このしもべはいたします。」メフィボシェテは王の息子たちの一人のように、王の食卓で食事をすることになった。メフィボシェテには、ミカという名の小さな子がいた。ツィバの家に住む者はみな、メフィボシェテのしもべとなった。メフィボシェテはエルサレムに住み、いつも王の食卓で食事をした。彼は両足がともに萎えていた。」

メフィボシェテへの約束を実行するために、ダビデはサウル王のしもべであったツィバを呼び寄せて言いました。サウルと、その一家が所有していた物はみな、メフィボシェテに返還されるということ、そして、ツィバも、ツィバの息子たちも、またツィバの召使いたちも、返還されたサウル家の土地を耕して、サウル家の生計を立てなければならないということです。そして、メシュボシェテは、いつもダビデの食卓で食事をするようになるということです。ツィバには15人の息子と20人のしもべがいたので、かなりの広い土地を耕すことができました。

ツィバはダビデの命令を受け入れ、それを実行しました。そして、メフィボシェテは王の息子たちの一人のように、王の食卓で食事をするようになりました。メフィボシェテには、ミカという名の小さな子がいました。この子は成長して多くの子孫をもうけ、彼によってサウルの家系が何世紀にもわたって存続するようになります(Ⅰ歴代誌9:41~44)。

かくしてメフィボシェテは、まるで王の息子たちのように、ダビデの食卓に連なるようになりました。彼はダビデと食事を共にするために、先祖の地ではなく、エルサレムに住みました。このダビデの姿はイエス様の姿を、メフィボシェテは私たちクリスチャンの姿を表しています。ダビデはメフィボシェテを恵みによって取り扱いました。また、常に自らの食卓に連なることを許しました。これは一方的な恵みによるものです。恵みとは、受ける価値のない者が受けるようになることです。メフィボシェテはまさに受ける価値のない者でした。滅ぼされてもしょうがない者でしたが、ダビデ王の恵みによって慈しみとあわれみを受けただけでなく、ダビデと同じ食卓にあずかるという光栄に預かる者となったのです。私たちも同じです。私たちは神に敵対していた者、どうしようもない罪人であったのに、神があわれんでくださり、神との食卓に与るという栄光を受ける者とされました。何という恵みでしょうか。これは人知を超えた祝福です。このような恵みと祝福を与えてくださった主に心から感謝します。そして、その恵みに生きる者でありたいと思います。


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