Ⅱサムエル記12章

 

 Ⅱサムエル記12章1節から25節までを学びます。

 Ⅰ.預言者ナタン(1-12)

 まず1~6節をご覧ください。「主はナタンをダビデのところに遣わされた。ナタンはダビデのところに来て言った。「ある町に二人の人がいました。一人は富んでいる人、もう一人は貧しい人でした。富んでいる人には、とても多くの羊と牛の群れがいましたが、貧しい人は、自分で買ってきて育てた一匹の小さな雌の子羊のほかは、何も持っていませんでした。子羊は彼とその子どもたちと一緒に暮らし、彼と同じ食べ物を食べ、同じ杯から飲み、彼の懐で休み、まるで彼の娘のようでした。一人の旅人が、富んでいる人のところにやって来ました。彼は、自分のところに来た旅人のために自分の羊や牛の群れから取って調理するのを惜しみ、貧しい人の雌の子羊を奪い取り、自分のところに来た人のために調理しました。」ダビデは、その男に対して激しい怒りを燃やし、ナタンに言った。「主は生きておられる。そんなことをした男は死に値する。その男は、あわれみの心もなく、そんなことをしたのだから、その雌の子羊を四倍にして償わなければならない。」」

 ウリヤが死に、喪が明けると、ダビデは人を遣わして、バデ・シェバを自分の家に迎え入れました。彼女は彼の妻となり、彼のために息子を産みました。めでたし、めでたし、です。ダビデがした行為は、人々の目から消え去ろうとしていました。しかし、彼が行ったことは主のみこころを損ないました。

そこで主はナタンをダビデのところに遣わしました。ナタンにつては7章にも出てきましたが、彼は王宮付きの預言者でした。王宮付きの預言者とは、王の個人的な助言者でもありました。7章では、ダビデが杉材の家に住んでいるのに神の箱が天幕に宿っている現実を憂いたダビデが、そのことを彼に相談しました。するとナタンは、「さあ、あなたの心にあることをみな行いなさい。主があなたとともにおられるのですから。」(7:3)と即答しましたが、それは主のみこころではありませんでした。ナタンは預言者であったにもかかわらず主に伺うことをせず、個人的な判断をしてしまったのです。

そのナタンがダビデのところにやって来て、一つのたとえ話をします。それは富んでいる人と貧しい人の話でした。富んでいる人には多くの羊と牛の群れがいましたが、貧しい人には、一匹の小さな雌の子羊のほかは、何も持っていませんでした。そこへ一人の旅人がやって来ます。そこで富んでいる人はどうしたかというと、この旅人をもてなすために自分の羊や牛の群れから取って料理するのを惜しみ、貧しい人の雌の子羊を奪い取り、自分のところに来た人のために料理しました。

するとダビデはその男に怒りを燃やし、そんなことをした男は死に値すると死刑を宣告し、その貧しい男に雌の子羊を四倍にして償うようにと宣告しました。ダビデは、悪に対する義憤を抱いていましたが、それが自分のことであるということには気づきませんでした。これが私たち人間の姿です。私たち人間は、罪の中にいるとき罪に対して非常にきびしい態度をとるものの、それが自分の姿であることには全く気付かないのです。ダビデは他人の罪に対しては非常に厳しい態度を取りつつも、それを自分に適用することができませんでした。

私たちも同じです。他人の罪に対しては厳しい態度をとっても、自分に適用することはできません。自分だけはそのさばきを免れることができると思っているのです。私たちは、罪の認識が深くなればなるほど、神の恵みの深さも理解できるようになるのです。

するとナタンはこのように言いました。7~12節です。「ナタンはダビデに言った。「あなたがその男です。イスラエルの神、主はこう言われます。『わたしはあなたに油を注いで、イスラエルの王とした。また、わたしはサウルの手からあなたを救い出した。さらに、あなたの主君の家を与え、あなたの主君の妻たちをあなたの懐に渡し、イスラエルとユダの家も与えた。それでも少ないというのなら、あなたにもっと多くのものを増し加えたであろう。どうして、あなたは主のことばを蔑み、わたしの目に悪であることを行ったのか。あなたはヒッタイト人ウリヤを剣で殺し、彼の妻を奪って自分の妻にした。あなたが彼をアンモン人の剣で殺したのだ。今や剣は、とこしえまでもあなたの家から離れない。あなたがわたしを蔑み、ヒッタイト人ウリヤの妻を奪い取り、自分の妻にしたからだ。』主はこう言われる。『見よ、わたしはあなたの家の中から、あなたの上にわざわいを引き起こす。あなたの妻たちをあなたの目の前で奪い取り、あなたの隣人に与える。彼は、白昼公然と、あなたの妻たちと寝るようになる。あなたは隠れてそれをしたが、わたしはイスラエル全体の前で、白日のもとで、このことを行う。』」

ダビデが憤って死刑を宣告するのを聞いたナタンは、そのたとえ話を適用して、「あなたがその男です。」と言いました。そして彼は次の三つのことを伝えます。

まず、主がいかにダビデに良くしてくださったかです。主はダビデを恵んでくださり、彼に油を注いで王としてくださいました。一介の羊飼いが王になるなど考えられないことです。しかし、主はそのようにしてくださいました。そればかりか、サウルからいのちを狙われていたときも、彼の手から救い出してくださいました。また、主君の妻までも与えられました。これは本当に感謝なことです。彼もそのことを思い出しては言葉にならない感謝をささげていたはずです。それなのに彼はむさぼったのです。「それでも少ないというのなら、わたしはあなたにもっと多くのものを増し加えたであろう。」(8)とナタンは言っています。私たちがむさぼることのないようにする方法は、主の恵みを知ることです。主がいかに自分たちの必要を満たしてくださるお方なのか、どれほどの祝福を与えてくださっているのかを知ることです。そしてそれを忘れないことです。

次にナタンはダビデに罪の結果を告げています。ダビデがウリヤをアンモン人の剣で殺したので、以後、ダビデの家から剣が離れることはない(10)と。これは、このあと13章以降で実現していくことです。

そればかりではありません。ダビデの家にわざわいが引き起こされます。ダビデの妻たちが奪い取られ、白昼公然と置かされることになります(11)。これも16章22節で成就することになります。

ダビデは一時的な欲望を満足させるために罪を犯しましたが、その結果、悲劇をもたらすことになってしまいました。人は種をまけば、その刈り取りもするようになるのです。

Ⅱ.ダビデの悔い改め(13-23)

次に13~14節をご覧ください。「ダビデはナタンに言った。「私は主の前に罪ある者です。」ナタンはダビデに言った。「主も、あなたの罪を取り去ってくださった。あなたは死なない。しかし、あなたはこのことによって、主の敵に大いに侮りの心を起こさせたので、あなたに生まれる息子は必ず死ぬ。」」

ナタンのことばを聞いたダビデは、すぐに自らの罪を認め告白しました。すると主も、彼の罪を取り去ってくださいました。しかし、彼はこのことで、主の敵に大いに侮りの心を起こさせたので、バテ・シェバによって生まれてくる子供は死ぬと宣告されました。

ここには、二つの大事なことが教えられています。一つは、神は私たちの罪を赦すのに早い方であるということです。ダビデは、ナタンから罪を指摘されると、すぐに罪を認め悔い改めました。ここがダビデのすばらしい点です。彼はここでナタンを殺すことも出来ましたがそのようにはせず、すぐに悔い改めました。すると、主もまたすぐに彼を赦されました。13節に「主も、あなたの罪を取り去ってくださった。あなたは死なない。
」とあります。Ⅰヨハネ章9節に、「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」とある通りです。

ダビデは罪が赦されたことの喜びを、詩篇32篇で次のように言っています。「幸いなことよ その背きを赦され罪をおおわれた人は。幸いなことよ 主が咎をお認めにならずその霊に欺きがない人は。私が黙っていたとき私の骨は疲れきり 私は一日中うめきました。昼も夜も御手が私の上に重くのしかかり 骨の髄さえ夏の日照りで乾ききったからです。セラ 私は自分の罪をあなたに知らせ 自分の咎を隠しませんでした。私は言いました。「私の背きを主に告白しよう」と。するとあなたは私の罪のとがめを赦してくださいました。セラ」

彼は、隠していた罪を主に言い表わすことにより、罪の赦しと解放を体験することができたのです。

しかし、もう一つ大切なことがあります。それは、罪の告白をすればその罪は赦されますが、その結果を刈り取ることもなる、ということです。ここには、ダビデに生まれる息子は必ず死ぬ、とあります。ダビデが罪を犯したことで、彼の家から剣が離れないこと、彼の妻が白昼公然と置かされるようになることについては見ましたが、ここではバデ・シェバによって与えられる息子が死ぬとあります。こんなに悲しいことがあるでしょうか。罪の結果、このような悲惨な結果も刈り取るようになるということを忘れてはなりません。

しかし、ここでダビデがすばらしかった点は、このような罪の中にあっても神の恵みを忘れなかったことです。彼は、神の恵みによって神に立ち返ることができると信じました。私たちはクリスチャンになるともうどんな罪も犯してはならないと思い、それを隠したくなる傾向がありますが、クリスチャンになっても完全になるわけではありません。大切なのはその罪を認め、悔い改めることです。そうすれば、主は赦してくださいます。ヒソプによってではなく、イエスの血潮によってきよめてくださいます。大切なのは、主は赦してくださる方であると信じ、その恵みにお頼りすることです。

15節から23節までをご覧ください。「ナタンは自分の家へ帰って行った。主は、ウリヤの妻がダビデに産んだ子を打たれたので、その子は病気になった。ダビデはその子のために神に願い求めた。ダビデは断食をして引きこもり、一晩中、地に伏していた。彼の家の長老たちは彼のそばに立って、彼を地から起こそうとしたが、ダビデは起きようともせず、彼らと一緒に食事をとろうともしなかった。七日目にその子は死んだ。ダビデの家来たちは、その子が死んだことをダビデに告げるのを恐れた。彼らは、「聞きなさい。王はあの子が生きているとき、われわれが話しても、言うことを聞いてくださらなかった。どうして、あの子どもが死んだことを王に言えるだろうか。王は何か悪いことをされるかもしれない」と言ったのである。ダビデは、家来たちが小声で話し合っているのを見て、子が死んだことを悟った。ダビデは家来たちに言った。「あの子は死んだのか。」彼らは言った。「亡くなられました。」ダビデは地から起き上がり、からだを洗って身に油を塗り、衣を替えて主の家に入り、礼拝をした。そして自分の家に帰り、食事の用意をさせて食事をとった。家来たちは彼に言った。「あなたのなさったこのことは、いったいどういうことですか。お子様が生きておられるときは断食をして泣かれたのに、お子様が亡くなられると、起き上がり食事をされるとは。」ダビデは言った。「あの子がまだ生きているときに私が断食をして泣いたのは、もしかすると主が私をあわれんでくださり、あの子が生きるかもしれない、と思ったからだ。しかし今、あの子は死んでしまった。私はなぜ、断食をしなければならないのか。あの子をもう一度、呼び戻せるだろうか。私があの子のところに行くことはあっても、あの子は私のところに戻っては来ない。」」

主が宣告したように、ウリヤの妻バテ・シェバによって生まれた子は、主に打たれたので病気になりました。ダビデはこの病気が主によるものであることを知っていましたが、それでも、もしかすると主があわれんでくださり、生きるかもしれないと、その子の癒しを求めて、ひたすら主に祈りました。自分の罪のゆえにその子が死のうとしているのを知って、ダビデは相当苦悩したことでしょう。彼は断食し、徹夜で祈り、地にひれ伏して主に願い続けました。

しかし、7日目にその子は死にました。家来たちは、ダビデの悲しみがその死を告げ知らされることによって増し加わると心配していました。けれどもダビデは、正反対の反応を取ります。子どもが死んだことを悟ると、彼は起きて身を洗い、主を礼拝して、食事を取ったのです。息子が生きているときには断食し、死ぬと食事です。いったいどういうことでしょうか。驚いた家来たちがその理由を尋ねると、ダビデはこう言いました。「あの子がまだ生きているときに私が断食をして泣いたのは、もしかすると主が私をあわれんでくださり、あの子が生きるかもしれない、と思ったからだ。しかし今、あの子は死んでしまった。私はなぜ、断食をしなければならないのか。あの子をもう一度、呼び戻せるだろうか。私があの子のところに行くことはあっても、あの子は私のところに戻っては来ない。」生きているときは、もしかすると主があわれんでくださり、あの子が生きるかもしれないと思ったが、子どもが死んだ以上、その事実を受け入れなければならないというのです。あの子をもう一度呼び戻すことはできません。自分があの子のところに行くことはできても、あの子が自分のところに戻ってくることはできません。この事実を受け止めなければならないのです。彼は信仰者として、主がなされたことをそのまま受け入れようとしました。

自分の祈りが聞かれないとき、その祈りに反してこのようなことが起こるとき、私たちはなかなかその事実を受け取ることができないときがあります。そして、「主よ、どうしてですか」と嘆きです。しかし、主がなさることは完全です。たとえ、自分が祈ったとおりにならなくても、主がなさることはいつも最善であって、それ以下ではありません。ですから、たとえ自分が祈った通りにならなくても、主の答えをそのまま受け止めることが大切です。私は、昨日、改めて「祈りのノート」を作りました。A5のノートを三つに区切り、祈った日と、祈りの課題、答えられた日を書き込むことができるようになっています。主は祈りを聞いておられます。私たちの祈りの答えが何なのかを、ノートを取ることによってはっきりとわかります。もしそれが、私たちが祈ったことと違ったとしても必ずしも祈りが答えられなかったというのではなく、別の形で答えられたということかもしれないし、もしかすると、まだ聞かれていないということかもしれません。時が来れば明確な答えがわかるでしょう。いずれにせよ、そのことによって主が何を語ろうとしていのかを、耳を澄ませて聞かなければなりません。それが、次に進ませる力となるからです。

Ⅲ.ソロモンの誕生(24-25)

最後に24~25節をご覧ください。「ダビデは妻バテ・シェバを慰め、彼女のところに入り、彼女と寝た。彼女は男の子を産み、彼はその名をソロモンと名づけた。主は彼を愛されたので、預言者ナタンを遣わし、主のために、その名をエディデヤと名づけさせた。

ここでソロモンが生まれます。産まれた子どもが死んだことは、ダビデだけでなくバテ・シェバにとってもショックなことでした。それでダビデは彼女を慰め、彼女のところに入り、彼女と寝ました。ここで初めてバテ・シェバのことが「妻」と呼ばれていることに着目してください。ここで彼女は、ダビデの正式な妻となりました。こうした正式な夫婦関係の中でソロモンが生まれたのです。「ソロモン」という名前は、「平和な」とか「平和を好む」という意味があります。この名前は、彼と神との間に平和が与えられたことを示しています。そして、ソロモンの治世が平和なものとなることを表しています。主はその子を愛されたので、預言者ナタンを遣わし、主のために、その子は「エディデヤ」と名づけさせました。意味は「主に愛される者」です。

ソロモンによってもたらされる平和な治世は、イエス・キリストによってもたらされる「平和」の予表でした。イエス・キリストこそ神との平和をもたらしてくださいました。イエス様はご自身の血によってそれを成し遂げてくださいました。キリストによる全世界の平和がやがてこの地上に実現します。イスラエルとパレスチナをはじめ、いま世界中で戦争が繰り広げられています。20世紀は二つの大きな世界戦争がありましたが、それは20世紀にはじまったことではありません。この人類の歴史は、まさに戦争の歴史です。有史以来この地上に戦争がなかった時代はありませんでした。今もアメリカと中国の関係が微妙です。一刻即発の様相を呈しています。

いったいどこに平和があるのでしょうか。イエス・キリストです。イエス・キリストは、私たちに真の平和をもたらすために来られました。そして、それを十字架によって成し遂げてくださいました。それゆえ、この方を信じる者は神との平和が与えられ、この地上で平和をつくることができるのです。「平和をつくる者は幸いです。天の御国はその人たちのもみのだからです。」(マタイ5:9)イエス・キリストを通して神との平和が与えられていることを感謝しましょう。