Ⅱサムエル記21章

 Ⅱサムエル記21章に入ります。

 Ⅰ.3年間続いた飢饉(1-6)

 まず、1~6節をご覧ください。「1 ダビデの時代に、三年間引き続いて飢饉が起こった。それで、ダビデは主の御顔を求めた。主は言われた。「サウルとその一族に、血の責任がある。彼がギブオン人たちを殺戮したからだ。」2 王はギブオン人たちを呼び出し、彼らに話した。このギブオンの人たちは、イスラエル人ではなくアモリ人の生き残りで、イスラエル人は彼らと盟約を結んでいた。だが、サウルはイスラエルとユダの人々への熱心のあまり、彼らを討とうとしたのである。3 ダビデはギブオン人たちに言った。「あなたがたのために、私は何をすべきであろうか。私が何をもって宥めを行ったら、主のゆずりの地が祝福されるだろうか。」4 ギブオン人たちは彼に言った。「私たちと、サウルおよびその一族との間の問題は、銀や金のことではありません。また、私たちがイスラエルのうちで人を殺すことでもありません。」ダビデは言った。「私があなたがたに何をしたらよいと思うのか。」5 彼らは王に言った。「私たちを絶ち滅ぼそうとした者、私たちを根絶やしにしてイスラエルの領土のどこにも、いさせないように企んだ者、6 その者の息子の七人を私たちに引き渡してください。私たちは主が選ばれたサウルのギブアで、主のために彼らをさらし者にします。」王は言った。「引き渡そう。」」

この21~24章までは、ダビデの晩年について記されてあります。1節には、ダビデの時代に、3年間引き続いて飢饉が起こった、とあります。カナンの地では雨は神の祝福を、飢饉は神のさばきを表していました。それで何かおかしいと、ダビデは主の御顔を求め、主に伺いを立てました。すると主の答えがありました。それは、「サウルとその一族に、血の責任がある。彼がギブオン人たちを殺戮したからだ。」ということでした。このことについてはここに触れられているだけでサムエル記には記録されていないので、実際にどの出来事を指して言われているのかわかりませんが、おそらく、サウルが周囲の敵と戦っているときにギブオン人らをも次々と殺戮したのではないかと思われます。しかしヨシュア記9章3節以下には、ヨシュアはこのギブオン人たちと契約を結んだことが記されてあります。ギブオン人たちはイスラエルがエリコとアイに対して行ったことを聞くと、遠い国からやって来たかのように装い、盟約を結ぶことを求めたのです。それは彼らがイスラエルの属国となってイスラエルに仕える代わりに、彼らを生かしておくというものでした。それでヨシュアは彼らと和を講じ、彼らを生かしておく盟約を結んだのです(ヨシュア9:15)。後で彼らは近くの者たちで、自分たちのたた中に住んでいるということがわかっても、主にかけて誓ったことなので、彼らを殺すことはしませんでした。それなのにサウルはこの契約を破り、ギブオン人を殺戮し、その地を汚してしまったのです。

それは許されることではありません。それでダビデはギブオン人たちを呼び出し、問題の解決に乗り出します。「あなたがたのために、私は何をすべきだろうか。何をもって宥めを行ったら、主のゆずりの地が祝福されるか」と。

すると彼らは、この問題は金銭で解決できるようなことではないこと、また、そのことで復讐して、イスラエル人を殺すことでもない、と答えました。ではどうすれば良いのか。彼らは言いました。5、6節です。「私たちを絶ち滅ぼそうとした者、私たちを根絶やしにしてイスラエルの領土のどこにも、いさせないように企んだ者、その者の息子の七人を私たちに引き渡してください。私たちは主が選ばれたサウルのギブアで、主のために彼らをさらし者にします。」

何だ、イスラエル人を殺すことではないと言いながら、殺そうとしているんじゃないですか。「さらし者にする」と言っているのですから。でもここで注目していただきたいのは、彼らは決して復讐心からこれを要求しているのではないということです。問題は、神の前でその契約が破られ、その結果約束の地が汚されてしまったことです。

民数記35章33節にこうあります。「あなたがたは、自分たちのいる土地を汚してはならない。血は土地を汚すからである。土地にとって、そこで流された血は、その血を流した者の血以外によって宥められることはない。」

「あなたがた」とは、イスラエル人たちのことです。主は彼らに、自分たちのいる地を汚してはならないと命じられていたのに、サウルはこの戒め破り汚してしまいました。それゆえに、彼らの土地は汚れたものとなってしまったのです。そこで流された血は、その血を流した者以外によって宥められることはなかったのです。それでダビデはそれに同意し、彼らをギブオン人に引き渡すことにしたのです。

この箇所を見ると、ある人は主エジプト記20章5節にある「父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、」と関連させ、先祖の罪の報いが子孫に及ぶと考える人がいますがそう意味ではありません。エゼキエル書18章20節に、エゼキエル書18章20節に「罪を犯した者は、その者が死に、子は父の咎について負い目がなく、父も子の咎について負い目がない。正しい者の義はその者に帰し、悪者の悪はその者に帰する」とある通りです。確かに先祖が犯した罪の悪影響をその子孫が受けることはありますが、その子孫が罪の負い目を受けることはないのです。

では、ここでサウルの罪のためにその子孫の血が宥めるとはどういうことなのでしょうか。それはイエス・キリストの十字架の犠牲です。この血に対して血をもって贖うという方法は、イエス・キリストの十字架を指し示していたのです。私たちの罪に対する神の呪いも、イエス様の血の犠牲がなければ宥められることはありません。私たちの罪の解決は、ただイエス様の血によってもたらされるのです。そのことを示していたのです。

 Ⅱ.天からの雨(7-14)

次に、7~14節までをご覧ください。「7 王は、サウルの子ヨナタンの子メフィボシェテを惜しんだ。それは、ダビデとサウルの子ヨナタンの間で主に誓った誓いのためであった。

8 王は、アヤの娘リツパがサウルに産んだ二人の息子アルモニとメフィボシェテ、それに、サウルの娘メラブがメホラ人バルジライの息子アデリエルに産んだ五人の息子を取って、9 彼らをギブオン人の手に渡した。彼らは、この者たちを山の上で主の前に、さらし者にした。これら七人は一緒に倒れた。彼らは、刈り入れ時の初め、大麦の刈り入れの始まったころ殺された。10 アヤの娘リツパは、粗布を手に取って、それを岩の上に敷いて座り、刈り入れの始まりから雨が天から彼らの上に降るときまで、昼には空の鳥が、夜には野の獣が死体に近寄らないようにした。11 サウルの側女アヤの娘リツパのしたことはダビデに知らされた。12 ダビデは行って、サウルの骨とその息子ヨナタンの骨を、ヤベシュ・ギルアデの者たちのところから持って来た。これは、ペリシテ人がサウルをギルボアで討った日に、二人をさらし者にしたベテ・シャンの広場から、ヤベシュ・ギルアデの者たちが盗んで行ったものであった。13 ダビデはサウルの骨とその息子ヨナタンの骨をそこから携えて上った。人々は、さらし者にされた者たちの骨を集めた。14 彼らはサウルとその息子ヨナタンの骨を、ベニヤミンの地のツェラにあるサウルの父キシュの墓に葬り、すべて王が命じたとおりにした。その後、神はこの国の祈りに心を動かされた。」

ダビデは、サウルの子ヨナタンの子メフィボシェテを引き渡すことを惜しみました。それは、ダビデとヨナタンの間で主に誓った誓いのためです(Ⅰサムエル20:14~16)。ダビデはそのヨナタンとの契約において、ヨナタンの子らを生かすことを約束していました。ダビテは、そのヨナタンとの誓いを重んじていたのです。

それで彼は、サウルのそばめでアヤの娘リツパがサウルに産んだ二人の息子アルモニとメフィボシェテと、サウルの娘メラブがメホラ人バルジライの息子アデリエルに産んだ5人の息子を、ギブオン人の手に渡しました。アヤの娘リツパは、サウルの死後将軍アブネルと通じたという過去がありました(3:7~8)。また、サウルの娘メラブはダビデの妻になる予定でしたが、アデリエルの妻になってしまったという経緯がありました(Ⅰサムエル18:17-19)。

これら7人は、大麦の刈り入れが始まったころに殺されました。アヤの娘リツパは、荒布を手に取って、それを岩の上に敷いて座り、昼は空の鳥が、夜は野の獣が死体に近寄らないように守りました。猛禽と野獣の被害から遺体を守ったのです。刈り入れの始まりは4月、雨季は10月です。その約半年間、彼女はずっと遺体を守ったのです。神の怒りをなだめるために差し出した自分の愛する二人の息子の死は、彼女にとってどれほど悲しく辛いことだったでしょう。それは私たちの神も同じです。ここに神の痛み、悲しみが表されています。「神は、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛さそれた。それは、御子を信じる者が一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16) 神は私たちの罪のために、そのひとり子イエスを与えてくださいました。その神の悲しみはいかばかりかと思うのです。しかし、そのひとり子によって神の怒りは完全に宥められたのです。それは、御子を信じる者が一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためだったのです。

そのことがダビデに知らされると、ダビデはヤベシュ・ギルアデに行って、そこに葬られていたサウルとヨナタンの骨を持って来て、さらし者にされた者たちの骨と一緒に、ベニヤミンの地のツェラにあるサウルの父キシュの墓に葬りました。これらのことはすべて、神を喜ばせました。ここに「その後、神はこの国の祈りに心を動かされた。」とある通りです。ダビデは、神との関係がしっかりしていました。自分が罪を犯しているのに、祈りを聞いてくださるわけがないことを、知っていたのです。それで罪を悔い改め、問題の解決のためにギブオン人の敵意を取り除き、和解したことで、主が祈りに答えてくださったのです。

あなたは神との平和がありますか。イエス・キリストが宥めとなってくださいました。その犠牲によって神との平和を得ることができます。ローマ5章1節に、「こうして、私たちの信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」とあります。私たちのちもイエス・キリストによって神との平和を持つことができます。その時神様は私たちの祈りに答えて心を動かされ、天から雨を降らせてくださるのです。

 Ⅲ.ダビデを助けた家来たち(15-22)

 最後に15~22節をご覧ください。「15 ペリシテ人が再びイスラエルに戦いを仕掛けたことがあった。ダビデは自分の家来たちを連れて下り、ペリシテ人と戦ったが、ダビデは疲れていた。16 ラファの子孫の一人であったイシュビ・ベノブは、「ダビデを討つ」と言った。彼の槍の重さは青銅で三百シェケル。そして彼は新しい剣を帯びていた。17 ツェルヤの子アビシャイはダビデを助け、このペリシテ人を打ち殺した。そのとき、ダビデの部下たちは彼に誓って言った。「あなたは、もうこれから、われわれと一緒に戦いに出ないでください。あなたがイスラエルのともしびを消さないために。」18 その後のこと、ゴブで再びペリシテ人との戦いがあった。そのとき、フシャ人シベカイは、ラファの子孫のサフを打ち殺した。19 ゴブでペリシテ人との戦いが再びあったとき、ベツレヘム人ヤイルの子エルハナンは、ガテ人ゴリヤテを打ち殺した。ゴリヤテの槍の柄は、機織りの巻き棒のようであった。20 再びガテで戦いがあったとき、手の指、足の指が六本ずつで、合計二十四本指の闘士がいた。彼もラファの子孫であった。21 彼はイスラエルをそしったが、ダビデの兄弟シムアの子ヨナタンが彼を打ち殺した。22 これら四人はガテのラファの子孫で、ダビデとその家来たちの手にかかって倒れた。」

ギブオン人との和解が果たせた後、ペリシテ人がイスラエルを攻めてきました。ペリシテ人は、イスラエルとの戦いに敗れイスラエルに従属する形になっていましたが、反逆の機会を伺う度に戦いを仕掛けてきたのです。ダビデは自分の家来たちを連れて、ペリシテ人と戦いに行きましたが、かなり疲れていました。武器を持って戦うには歳を取りすぎていたのです。

この戦いで、ラファの子孫の一人イシュビ・ベノブは、「ダビデを打つ」と言いました。彼の子孫は巨人で有名な人たちで、あのゴリヤテもそうでした。つまり、彼はゴリヤテの親族だったのです。そのとき、ダビデを救ったのが甥のアビシャイです。アビシャイはダビデを助け、このペリシテ人を打ち殺しました。そのとき、ダビデの部下たちはダビデに、もうこれからは戦いの前線に出ないようにと懇願しました。ここで彼らは「あなたがイスラエルのともしびを消さないために」と言っています。まさに、ダビデの存在こそ、イスラエルのともしびそのものだったのです。

このところは教えられますね。「何をなすべきか」は重要なことですが、それ以上に重要なことは「いかにあるべきか」ということです。人々はダビデが戦果を挙げるよりも、そこにいてくれることをより望んでいたのです。私も「いつでも夢を」と、いつまでも最前線に立って主のために奮闘していきたいと願っていますが、それが必ずしも良いことかどうかは別です。もっと重要なのは、自分の存在そのものです。自分の存在が周りの人たちのともしびを燃やし続けているかどうかということです。あなたの存在はどうでしょうか。周りにどのような影響を与えているでしょうか。考えてほしいとい思います。存在していることに価値があると評価されるような人生を目指したいものです。

その後もペリシテ人との戦いが続きます。その後ゴブでペリシテ人と戦ったときは、フシァイ人シベカイが、ラファの子孫のサフを打ち殺しました。また、再びゴブで戦いがあったときには、ベツレヘム人ヤイルの子エルハナンが、ガテ人ゴリヤテを打ち殺しました。実際にはゴリヤテではなく、ゴリヤテの兄弟ラフミのことです。彼はゴリヤテのように巨人で、槍の柄は、機織りの巻き棒のようでしたが、その巨人を打倒したのです。

また、再びガテで戦いがあったときには、何と手の指と足の指がそれぞれ6本ずつ、合計24本の闘士がいました。彼もラファの子孫でした。彼はイスラエルをそしったりしましたが、ダビデの兄弟シムアの子のヨナタンが彼を打ち殺しました。

これら4人のラファの子孫は、イスラエルに攻めて来ましたが、ダビデの家来たちの手にかかって倒れました。このようにして、ダビデは弱まっていましたが、その家来たちが見事にペリシテ人の巨人らを倒すことができたのです。ダビデは自分の下で仕えている家来たちに助けられ、敵に勝利することができたのです。

パウロは若き伝道者テモテに、教える能力がある忠実な人たちにゆだねなさい、と言いましたが、私たちも自分にできることには限界があります。やがて働くことができない日がやって来ます。しかし、ダビデの家来たちのように、彼を助ける存在がいれば大丈夫です。私たちが最前線で戦うことも重要ですが、その働きを担うことができるように後継者を育てることも重要なのです。私たちはなかなか自分の働きをゆだねることができない弱さを持っていますが、むしろそのような人たちにゆだねることでさらに主の働きが力強く前進していくことを覚え、後継者の育成に力を注いでいくことに力を注いでいきたいと思います。