エレミヤ書7章に入ります。7章から、エレミヤの第二のメッセージになります。第一のメッセージは1~6章までの内容でした。それはエレミヤが預言者として召命を受けてすぐあとの若い頃に語られたものでした。この7章からの第二のメッセージは、それから約15~20年くらい後に語られたものです。なぜなら、7:2に「主の宮の門に立ち、そこでこのことばを叫べ。「主を礼拝するために、これらの門に入るすべてのユダの人々よ、主のことばを聞け。」とありますが、これが26:2と同じ内容だからです。26:2には「主はこう言われた。「主の宮の庭に立ち、主の宮に礼拝しに来るユダのすべての町の者に、わたしがあなたに語れと命じたことばを残らず語れ。」あります。ですから、この二つの内容は同じ背景で語られたものであることがわかるのです。そして、これはいつ語られたものかというと、26:1に「ユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの治世の初めに、主から次のようなことばがあった。」とあります。このエホヤキムの治世の初めはB.C.609年ですから、エレミヤが預言者として召命を受けたB.C.627年から18年後であることがわかります。それがこの7章の内容なのです。この時エレミヤは40歳を少し過ぎたくらいだったのではないかと思われますが、これまで南ユダ王国を治めてきたヨシヤ王がエジプトの王パロ・ネコとの戦いに敗れて死に、代わってパロ・ネコによって立てられたエホヤキムが王として立てるという不安定な社会の中で、このことばを語ったのです。それはこれを聞いたユダの宗教指導者たちから反発を招き、捕らえられ、殺されそうになるほどの厳しいメッセージでした。それは、「生き方と行いを改めよ」という内容でした。。
Ⅰ.「これは主の宮、主の宮、主の宮だ」(1-7)
まず1~7節までをご覧ください。「1 主からエレミヤにあったことばは、次のとおりである。2 「主の宮の門に立ち、そこでこのことばを叫べ。『主を礼拝するために、これらの門に入るすべてのユダの人々よ、主のことばを聞け。3 イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。あなたがたの生き方と行いを改めよ。そうすれば、わたしはあなたがたをこの場所に住まわせる。4 あなたがたは、「これは主の宮、主の宮、主の宮だ」という偽りのことばに信頼してはならない。5 もし、本当に、あなたがたが生き方と行いを改め、あなたがたの間で公正を行い、6 寄留者、孤児、やもめを虐げず、咎なき者の血をこの場所で流さず、ほかの神々に従って自分の身にわざわいを招くようなことをしなければ、7 わたしはこの場所、わたしがあなたがたの先祖に与えたこの地に、とこしえからとこしえまで、あなたがたを住まわせる。」
これは、主の宮の門でエレミヤが語った主のことばです。だれに対して語ったのでしょうか。2節には「主を礼拝するために、これらの門に入るすべてのユダの人々よ、」とあります。エレミヤは、主の宮、エルサレムの神殿で礼拝をするためにやって来たすべてのユダの人々に対して語ったのです。
それはどのような内容だったかというと、3節にあるように、あなたがたの生き方と行いを改めよということでした。なぜなら、4節にあるように、彼らは「これは主の宮、主の宮、主の宮だ」という偽りのことばに信頼していたからです。どういうことでしょうか。
ここには「主の宮、主の宮、主の宮だ」と、「主の宮」という言葉が3回も繰り返して発せられています。この「主の宮」とはエルサレムの神殿のことです。その神殿に向かって、「これは主の宮、主の宮、主の宮だ」と連呼していたわけです。ここに、当時のユダの民と宗教指導者たちの思いが表れています。つまり、この「主の宮」さえあれば大丈夫という信仰です。これまでエレミヤが語って来たことを思い起こしてください。エレミヤは神に背いたイスラエル、ユダの民に対して、悔い改めて神に立ち返るようにとずっと語ってきました。そうでないとあなたがたは滅びると。具体的には北から一つの国、バビロン軍がやって来て、いなごが穀物を食い尽くすようにすべてを食い尽くすということでした。これは、その警告に対する反論です。「これは主の宮、主の宮、主の宮だ」。つまり、たとえバビロンが攻めて来ても大丈夫、たとえ飢饉があっても問題ない、この主の宮が立っているエルサレムが滅ぼされるはずがないという主張です。それほど彼らはエルサレムにあった神殿、「主の宮」を過信していたのです。ここにはこんなに立派な神殿があるではないか、この神殿が滅ぼされるはずはない。神が共にいて必ず守ってくださると。
彼らがこのように叫んだのには、根拠がなかったわけではありません。第一に、このエルサレムは自然の要塞に囲まれていた堅固な町でした。ですから、どんな敵が攻めて来ても簡単には落とせなかったのです。第二に、このエルサレム神殿は約350年前にソロモン王によって建てられたものですが、その奉献式でソロモンは、この神殿には主なる神様の名が置かれている、と言いました。つまり、神様が共にいて守ってくださると信じられていました。第三に、何といってもこの時から約100年前に、アッシリヤの王セナケリブが攻め上って来た時も、主は守ってくださいました。当時の王様はヒゼキヤという王様でしたが、彼が主の前に悔い改め、主に助けを祈り求めると、主はさばきを思いとどまり、奇跡的に彼らを助け出されました(イザヤ36~37章)。日本でも「神風が吹く」ということばがありますが、まさに神風が吹いたわけです。ですから、他の町が滅びることがあってもこのエルサレムだけは大丈夫!絶対に滅びないという確信があったのです。それがこの「これは主の宮、主の宮、主の宮だ」ということばに表れていたわけです。
しかしキリスト教信仰とは、勢いでもなければ迷信的なものでもありません。鰯の頭も信心からと、どんなにつまらないと思えるようなものでも信じればご利益があるというものではありません。その中身が問われるわけです。彼らは表向きには礼拝をささげ敬虔に振る舞っているようでしたが、その中身は神から遠く離れていました。こうした外面的なこと、すなわちハードな面を重視して、もっとも重要なこと、つまり、主の御声に聞き従うという本質的なことをなおざりにしていたのです。皆さん、信仰の中身、信仰の本質とは何でしょうか。それは何度もお話しているように、主の御声に聞くということです。それはただ礼拝で説教を聞くということ以上のことです。主の御声に聞き従うということです。彼らにはそれがありませんでした。
それは、5~7節を見るとわかります。彼らは「これは主の宮、主の宮、主の宮だ」と言っていながら、生き方と行いが伴っていませんでした。たとえば、5~7節には「あなたがたが生き方を改め、あなたがたの間で公正を行い、寄留者、孤児、やもめを虐げず、咎なき者の血をこの場所で流さず、ほかの神々に従って自分の身にわざわいを招くようなことをしなければ、7 わたしはこの場所、わたしがあなたがたの先祖に与えたこの地に、とこしえからとこしえまで、あなたがたを住まわせる。」とあります。「公正」とは神のことばに基づく正義のことです。彼らには神のことばに基づく行いが伴っていませんでした。ただ「これは主の宮、主の宮、主の宮だ」と叫んでいただけだったのです。ですから、寄留者、孤児、やもめを虐げ、咎なき者の血を流し、ほかの神々に従って自分の身にわざわいを招くようなことをしていました。彼らは、自分では神を信じていると言いながら、その行いは神のみこころにかなったものではなかったのです。彼らが拠り所としていたのは神様ご自身ではなく神の宮、神殿にすぎませんでした。そこにいれば大丈夫、そこに属していれば問題ないと思い込んでいたのです。
これは私たちにも言えることです。たとえば、自分が伝統のある立派な教会に通っているというだけで安心したり、聞けば誰でもすぐにわかるような有名な牧師であるというだけで、自分たちの信仰は正しいものだと思い込んでいることがあります。それはここでユダの民が「これは主の宮、主の宮、主の宮だ」と叫んでいるようなものです。そのような人たちは神ご自身に信頼しているよりも、教会の伝統とか、教会の建物、牧師といった表面的なもので自分の信仰を正当化しているにすぎません。幸い、キリスト教には迷信とかお守りといったものはありません。しかし、もし私たちが表面的な儀式を行うことで自分を安心させていることがあるとしたら、それは迷信と何ら変わりがありません。
新約聖書ヤコブ2:14にはこうあります。「私の兄弟たちは。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立つでしょうか。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。」
このようなことばを聞くと、ああ、私は救われていないのではないかと心配される人もおられるかもしれませんが、そういう方はどうぞ心配しないでください。それだけご自分が本気で信仰のこと、救いのことを考えているということなのですから。ここでヤコブが言っていることは、まさにこうした形式的な信仰に対するチャレンジです。自分には信仰があると思っても、その人に行いがないとしたら、そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。信仰には行いが伴うからです。その行いとは、神の御声に聞き従うということです。それは自分の力でできることではなく神の恵みによるわけですから、その神の恵みに応答して生きているかどうかということです。それが、生き方と行いを改めるということです。そうすれば、主はあなたを主が約束してくださった場所に住まわせてくださいます。
今日は、4名の兄姉がバプテスマを受けられました。うれしいですね。しかも、その内3名は小学3年生です。聖書に「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。」(伝道者の書12:1)とありますが、本当に若い日にイエス様を信じて、信仰のスタートを切ることができて、そのように導いてくださった主に感謝します。しかもこの中には私の孫もいて、感無量ですね。ところで、その孫が先ほど証をしてくれましたが、事前にチェックしたところ、こうなっていました。「だから、バプテスマを受けて、私は天国行きのきっぷをもらいたいと思います。」 それを読んだ時「ん?」と思いました。バプテスマを受ければ天国に行くんですか?勿論、バプテスマを受けることは大切なことです。けれども、ただバプテスマを受ければいいということではなく、イエス様を信じてバプテスマを受けるのでなければ意味がありません。多くの人はバプテスマが天国行きの切符であるかのように思っていますが、そうではありません。天国に行くことができるのは、イエス様を信じることによってです。イエス様を信じてバプテスマを受けるなら、だれでも救われます。天国に行くことができます。だから、「イエス様を信じて」ということばを加えてもらいました。イエス様を信じているのでバプテスマを受けるのです。なぜなら、それが神様の御声、イエス様の命令だからです。イエス様はこう言われました。「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:19-20)
バプテスマはすばらしい恵みです。しかし、バプテスマを受けたから大丈夫という信仰は、ここでユダの民が、「これは主の宮、主の宮、主の宮だ。」と叫んでいるのと変わりありません。バプテスマはイエス様の御声に聞き従うことの応答の一つであって、そのスタートの時なのです。今日バプテスマを受けた4名の兄姉も、既にバプテスマを受けて神の恵みに歩んでいる人も、どうかこのことを覚えて、ますます主の御声に聞き従う歩みをしていただきたいと思うのです。
Ⅱ.強盗の巣にしてはならない(8-11)
次に、8~11節をご覧ください。「8 見よ、あなたがたは、役に立たない偽りのことばを頼りにしている。9 あなたがたは盗み、人を殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに犠牲を供え、あなたがたの知らなかったほかの神々に従っている。10 そして、わたしの名がつけられているこの宮の、わたしの前にやって来て立ち、「私たちは救われている」と言うが、それは、これらすべての忌み嫌うべきことをするためか。11 わたしの名がつけられているこの家は、あなたがたの目に強盗の巣と見えたのか。見よ、このわたしもそう見ていた──主のことば──。」
また出てきましたよ、ユダの民の主張が。10節にこうあります。「私たちは救われている」これも先ほどの「主の宮、主の宮、主の宮だ。」と言っているのと同じです。
エレミヤはここで、悔い改めないイスラエル、ユダの民に対して、その罪を責め立てています。9節には、「あなたがたは盗み、人を殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに犠牲を供え、あなたがたの知らなかったほかの神々に従っている。」とあります。これは律法の中心である十戒を破っているということです。たとえば、「あなたは盗み」とありますが、これは第8戒の「盗んではならない」(出エジプト記20:15)を破る罪です。また「人を殺し」は、第6戒の「殺してはならない」(出エジプト記20:13)です。同様に「姦淫し」は、第7戒の「姦淫してはならない」(出エジプト記20:14)を破る罪であり、「偽って誓い」は、第9戒の「あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない。」(出エジプト記20:16)を破る罪です。そして「ほかの神々に従っている」とは、第1戒の「あなたには、わたしの以外に、ほかの神々があってはならない。」(出エジプト記20:3)を破る罪です。このように彼らは、ことごとく律法の中心である十戒を破っていました。にもかかわらず彼らは、主の宮の神様の前にやって来て、「私たちは救われている」と言っていたのです。どういうことでしょうか。彼らの礼拝の姿勢がズレていたということです。彼らは「私たちは救われている」と言いながら、あらゆる忌むべきことを行っていたのです。すなわち、そこには真の悔い改めが伴っていなかったということです。それは主に受け入れられるものではありません。「私たちは救われている」というのはただの思い込みであって、実際はそうではなかったということです。
それに対して主はこう言われます。11節です。「わたしの名がつけられているこの家は、あなたがたの目に強盗の巣と見えたのか。見よ、このわたしもそう見ていた。」
「あなたの名がつけられているこの家」とは、主の宮のことです。神を礼拝するはずの神殿が、強盗の巣になっているというのです。「強盗の巣」とは「強盗のアジト」のことです。強盗が自分のアジトに逃げ帰るように、神殿に逃げ帰っている、神殿が律法を違反する者の隠れ家になっているというのです。
実は、新約聖書の中にこのことばが引用されています。聖書を読んでいる方はすぐにピンときたかと思いますが、引用されたのはイエス様ご自身です。イエス様は宮きよめの時にこのことばを引用されました。マタイ21:12~13です。「12それから、イエスは宮に入って、その中で売り買いしている者たちをみな追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。13 そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書いてある。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしている。」」
このようなイエス様の姿を見て、中には「ちょっと理解できないなあ」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。神殿で売り買いしている人たちを見て、気が狂ったかのようにその人を追い出したり、両替人の台とか、鳩を売る者たちの腰掛けを倒されたのですから。ちゃぶ台をひっくり返すということばがありますが、まさにそんな光景です。エレミヤの場合はただことばで指摘しただけですが、イエス様の場合はことばだけでなく実際に行動に移されました。文字通りちゃぶ台をひっくり返されたわけです。神殿で商売をしていた人たちを追い出して、宮をきよめられました。心の中では商売人たちの姿を見て「それはどうかなぁ」と思うことはあっても、実際にそこまでする人はほとんどいないのではないかと思います。事実、これが決定的な出来事となってイエス様は十字架に付けられることになります。それほど激しい行為だったのです。いったいなぜイエス様はそこまでされたのでしょうか。それは「祈りの家」であるはずの神殿が「強盗の巣」になっていたからです。神の家は祈りの家でなければならないのに、そうではなかったのです。いけにえさえささげればよいと、不当な利益をむさぼり、神殿を強盗の巣としていた彼らに対して激しく憤ったのです。
それは私たちにも言えることであって、私たちも口では「私たちは救われている」と言いますが、彼らと同じようなことをしていることがあるのではないでしょうか。
聖書の解説と適用が付いている「バイブルナビ」というのがありますが、その中に次のように解説されてありました。的を得た解釈と適用だと思いましたので引用したいと思います。「ユダの民がどのように神殿を扱ったかということと、現代人が教会をどのように扱うかということの間には、いくつかの類似がある。①彼らは神殿を毎日の生活の一部にしなかった。私たちは崇拝にふさわしく準備された美しい教会堂に行くかもしれないが、週日は神の存在を離れて忘れてしまっていることが多い。(いわゆるサンデークリスチャンということですね)②神殿の概念の方が信仰の中身よりも大切になっていた。教会に通い、団体の一員であるということの方が、神のために自分の生活を変えることよりも大切になっている。③民は神殿を避難所にした。多くの宗教団体を隠れ家として、それが悪い問題から守っていれると考えている。」。
どうでしょうか。よくまとまった解釈と適用ではないでしょうか。
信仰生活は、神との人格的な関係であるということを覚えておきたいと思います。そして、神との人格的な交わる中で神のみこころに従い、神の愛に応答することこそがその本質なのです。神殿に入るだけの形式的なものではありません。イエス様とつながり、イエス様との関係の中で実を結ぶ者でありたいと思います。
最後に、12~15節をご覧ください。「12 だが、シロにあったわたしの住まい、先にわたしの名を住まわせた場所へ行って、わたしの民イスラエルの悪のゆえに、そこでわたしがしたことを見てみよ。13 今、あなたがたは、これらのことをみな行い──主のことば──わたしがあなたがたに、絶えずしきりに語りかけたのに、あなたがたは聞こうともせず、わたしが呼んだのに、答えもしなかったので、14 わたしの名がつけられているこの家、あなたがたが頼みとするこの家、また、わたしが、あなたがたと、あなたがたの先祖に与えたこの場所に対して、わたしはシロにしたのと同様のことを行う。15 わたしは、かつて、あなたがたのすべての兄弟、エフライムのすべての子孫を追い払ったように、あなたがたをわたしの前から追い払う。』」
では、どうすればいいのでしょうか。第三のことは、シロの教訓から学べということです。12節には、シロにあったわたしの住まいを見て来なさいと呼び掛けられています。「シロ」とは犬の名前ではありません。そこはかつてイスラエルの礼拝が行われていた中心地でした。そこはエルサレムから北に30㎞ほど行ったところにありますが、ヨシュアがカナンを占領したとき、そこに会見の天幕を立てました(ヨシュア18:1)。それ以来この「シロ」が、イスラエルの礼拝の中心地となったのです。ところが預言者サムエルの時代に、イスラエルはペリシテ人との戦いに敗れ、その神の箱が奪われてしまいました。彼らは神の箱があれば大丈夫、絶対に勝利できると戦いの最前線に持って来たのですが、結果は散々たるものだったのです。このエレミヤの時代から500年も前のことです。そのサムエルの時代とこのエレミヤの時代には一つの共通点があります。それは主の箱を持って行きさえすれば戦いに勝利できる、この宮さえあれはば大丈夫だと思い込んでいたことです。それを絶対的な拠り所としていたことです。しかし、それは単なる思い込みにすぎませんでした。そのことを知るためにシロに行って、そこで主がなさったことを見て来なさいと言われたのです。シロが廃墟となったように、今エルサレムに対しても同様のことをすると。それは彼らが表面的なものを拠り所にして、本質的なものを見ていなかったからです。
そればかりではありません。15節には「わたしは、かつて、あなたがたのすべての兄弟、エフライムのすべての子孫を追い払ったように、あなたがたをわたしの前から追い払う。」とあります。「エフライム」とは北イスラエル王国のことです。北イスラエル王国、エフライムはアッシリヤによって滅ぼされてしまいました。B.C.722年のことです。かつて彼らの兄弟北イスラエル王国がアッシリヤによってその地から追い払われたように、彼らも主の前から追い払われることになると言われたのです。つまりエレミヤはここで、冷静に歴史的事実として現わされた神のさばきに目を留めるようにと言っているのです。そこから学ぶように・・・と。皆さん、歴史は繰り返します。歴史を学ぶ大切さはそこにあります。過去にどんなことがあったのかを学び、それを教訓にして、将来に向かっていくのです。
このようにユダの民は10年以上もエレミヤから神のことばを聞いてきたのにもかかわらず全く聞こうししなかったので、シロのように、またエフライム、北イスラエルのように神のさばきが彼らを襲うようになると告げられたのです。
このことからどのようなことが言えるでしょうか。真の安全を得る方法は、形式的な信仰や儀式的な張りぼてのような中身が伴わない信仰では得られないということです。そうした生き方と行いを改めて、神のことばに従って生きなければならないということです。
では、どうしたらそのような生き方ができるのでしょうか。もう一度12節をご覧ください。ここには、シロにあった神様の住まいのことが言及されていました。それは「わたしの名を住まわせた場所」と言われています。それは神が住まわれる所という意味です。しかしよく考えてみると、この天地万物を創られた神が、人間が作った幕屋に住まわれるはずがありません。事実、この神殿を建てたソロモン自身も、奉献式の祈りの中でこのように言っています。「それにしても、神は、はたして地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして私が建てたこの宮など、なおさらのことです。」(Ⅰ列王記8:27)
そうです、実に、天も、天の天も、神様をお入れすることなどできません。しかし、それを可能にした方がおられます。それは私たちの主イエス・キリストです。ヨハネ1:14には、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」とあります。「ことば」とは、勿論イエス様のことです。イエス様は世の初めから神とともにおられた神です。すべてのものは、この方によって造られました。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもありません。この方こそまことの神であり、救い主であられます。この方が人となって、私たちの間に住まわれたので、私たちは神と出会うことができるのです。「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」(ヨハネ1:18)つまり、キリストを通して私たちは神と出会い、神が私たちの間に住まわれたということです。「住まわれた」ということばは「幕屋を張られた」という意味ですが、まさに神がキリストを通して私たちの間に幕屋を張られた、私たちの間に住まわれたのです。
しかしよく考えてみると、罪に汚れた人間の間に神が住むことはできません。神は聖なる方であり、ほんの小さなしみやしわでも交わることができないからです。しかしその神の方からその道を開いてくださいました。一方的な恵みによって幕屋を張ってくださったのです。ことばが人となって、私たちの間に住まわれたのです。それが十字架でした。イエス様が十字架に付けられ、無実の人の血が流されたことによって、その尊い犠牲によって、本当は誰も近づくことができない神様と交わる道が開かれ、神が住まわれる、「神ともにいまし」という神の約束が実現したのです。神の宮である教会は、一方的な恵みによって神が私たちと出会うところなのです。それをあたかも人間が作った神殿に神様を閉じ込めておけるかのような錯覚を持つのは間違っています。ここに儀礼的というか、形式的な礼拝が生じてくる原因があったのではないでしょうか。
そうならないために必要なことは何でしょうか。私たちが神と出会うように導いてくださったまことの神であられるイエス様を信じ、イエス様から目を離さないことです。イエス様から目を離すと、神への恐れと感謝を忘れてしまい、こうした形式的な礼拝に陥ってしまうことになります。自分は毎週礼拝に来ているから大丈夫だ、バプテスマ(洗礼)を受けたからもう安心だ、奉仕もしているし、献金もささげているから問題ないというのは、神様が望んでおられるまことの礼拝ではありません。勿論、こうしたことも大切なことですが、それが信仰の中心ではないのです。神が願っておられる信仰とは、私たちの罪のために十字架で死なれ、その血によって罪を贖い、ご自身のみもとへと引き寄せてくださった神の御子イエス・キリストに感謝し、その神の恵みに応答して、神のことばに従って生きることなのです。それが生き方と行いを改めるということなのです。イエス様によって与えられたこの恵みを無駄にしないようにしましょう。神への感謝と恐れが私たちの中に本当にあるならば、それに応答して生きようとする思いが必ず生まれてくるのではないでしょうか。