エレミヤ書22章に入ります。今日は22章前半から、「人生の目的を知る」というテーマでお話します。自分は何のために生きているのか、何のために存在しているのかということです。多くの人が、自分がどこから来て、どこへ行こうとしているのか、なぜこの世に存在しているのかがわからず、自問自答しながら生きています。クリスチャンになることの素晴らしさの一つは、この目的を知っていることです。皆さんは何のために生きていますか。今日は、そのことをご一緒に考えたいと思います。
Ⅰ.私たちの人生の目的(1-9)
まず、1~9節をご覧ください。5節までをお読みします。「22:1 【主】はこう言われる。「ユダの王の家に下り、そこでこのことばを語れ。22:2 『ダビデの王座に着くユダの王よ。あなたも、これらの門の内に入って来るあなたの家来も、またあなたの民も、【主】のことばを聞け。22:3 【主】はこう言われる。公正と正義を行い、かすめ取られている者を、虐げる者の手から救い出せ。寄留者、みなしご、やもめを苦しめたり、いじめたりしてはならない。また、咎なき者の血をここで流してはならない。22:4 もし、あなたがたがこのことばを忠実に行うなら、ダビデの王座に着く王たちは車や馬に乗り、彼らも、その家来も、またその民も、この家の門の内に入ることができる。22:5 しかし、もしこのことばを聞かなければ、わたしは自分にかけて誓うが──【主】のことば──この家は必ず廃墟となる。』」」
主からエレミヤに主のことばがありました。それは、ユダの王の家に下り、そこで主のことばを語れということでした。「ユダの王の家」とは、王たちの住まいであった王宮のことです。エルサレムにあった神の宮、神殿から、自分たちの住まいであった王宮に下れということです。そこで主のことばを語るように。ダビデの王座に着くユダの王とその家来たちに、です。
その内容は、3節にあるように「公正と正義を行い、かすめ取られている者を、虐げる者の手から救い出せ」ということでした。「公義」とは、神の律法にかなった行為のこと、つまり、神の律法に従って社会的弱者と呼ばれる人たちを踏みにじることがないように、正しいさばきを行うように。そして、そうした社会的弱者と言われる人たちをあわれみ、決して虐げることないように、いやむしろ、そのように虐げる者の手から救い出すようにということでした。
また、「正義」とは、神様との正しい関係のことを言います。平たくいうと、神のことばに対して忠実に生きるようにということです。この公義と正義は、神にとって最も重要なことでした。
それなのに、ダビデの王座に着く王たちは、本来すべきことをしないで、私腹を肥やしていました。この王たちは誰のことを指しているのかはっきりわかりません。お手元に「南ユダ王国の年代表」を用意しましたが、南ユダの王たちの中の最後の4人の王たちのいずれかの王です。すなわち、エホアハズ、エホヤキム、エホヤキン、ゼデキヤの中の誰かです。いや、誰というよりも、この4人の王たちに代表されるすべてのユダの王たちと言ってもいいでしょう。彼らは王として自分が成すべきことをしていませんでした。彼らはダビテの王座に着いていましたが、ダビデの心を持っていなかったのです。ダビデの心とはどんな心ですか。使徒13章22節にはこうあります。「そしてサウルを退けた後、神は彼らのために王としてダビデを立て、彼について証しして言われました。『わたしは、エッサイの子ダビデを見出した。彼はわたしの心にかなった者で、わたしが望むことをすべて成し遂げる。』」
ここには、「彼はわたしの心にかなった者で、わたしが望むことをすべて成し遂げる」とあります。「彼は」とは「ダビデ」のことです。彼は主の心にかなった者で、主が望むことをすべて成し遂げました。これがダビデの心です。それは、神が望むことをすべて成し遂げる心です。しかし、彼らは王という立場にありながらも、その使命とか責任を果たしていませんでした。社会的弱者と呼ばれる人たちを虐げる者の手から救い出すところか、寄留者、みなしご、やもめを苦しめたり、咎なき者の血を流したりしていました。
もし、あなたがたが主の心にかなった者であるなら、彼らはそのまま王座にいることができ、家来や民たちもこの町に住み続けることができますが、そうでなければ、ユダの王も国も必ず亡びることになります。
これは、クリスチャンにも言えることです。Ⅰペテロ2章9 節にはこうあります。「しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。」
ここには、すべてのクリスチャンは王である祭司と言われています。イエス・キリストを信じたことでクリスチャンは神の子どもとされました。聖なる国民、神の所有の民とされたのです。神の民です。それは何のためですか。それは、私たちを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方の栄誉を宣べ伝えるためです。それなのに、その使命を果たしていないとしたら、それはここで糾弾されているダビデの王座に着くユダの王たちと何ら変わらないことになります。毎週日曜日教会に集い、神を賛美し、みことばに感動して、神をほめたたえることはすばらしいことです。神の家族としての教会の交わりに加えられ、時には美味しい食事を囲んで満足すこともすばらしい恵みです。でも、ただそれだけならば、この王たちと何ら変わらないのです。その使命を果たしていないからです。私たちは自分が救われた目的を知り、そこに生きる者でなければなりません。
カトリックの神学者で、晩年を知的障害者とともに過ごしたヘンリー・ナーウェンは、このように言っています。
「自分が神に「選ばれている」ということをいつも喜ぶのです。神に、「選んでくださってありがとう。」と言い、選ばれたことを思い起こさせてくれる人にも、「ありがとう。」と言うのです。 感謝をすることによって、自分が意味もなく、偶然、この世に生まれてきたのではなく、神に選ばれて生まれてきたのだということを心に刻むのです。」
とても含蓄のあることばではないでしょうか。自分が意味もなく偶然に生まれてきたのではなく、神に選ばれて生まれてきたのだということを心に刻むために、神に「選んでくださったありがとう」と言う。大切なことです。あなたはどうですか。あなたは神によって選ばれていることを感謝し、喜んでいるでしょうか。そういう人は、自分に与えられた特権や立場を感謝し、自分に与えられている使命に生きようと願いますが、そうでなければ、ただの自己満足で終わってしまいます。私たちが王である祭司、聖なる国民、神の民として選ばれたのは、私たちを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を告げ知らせるためです。私たちにはそのような使命が与えられているのです。その使命をしっかり押さえている人こそ、自分がどこから来て、どこへ行くのか、何のために生きているのかということを正しく理解し、それに向かって生き生きと生きることができるのです。
6~9節をご覧ください。「22:6 まことに、ユダの王の家について、【主】はこう言われる。「あなたは、わたしにとってはギルアデ、レバノンの頂だが、必ず、わたしはあなたを荒野にし、住む人もいない町々にする。22:7 わたしはあなたを攻めるために、それぞれ武具を持つ破壊者たちを取り分ける。彼らは、最も美しいあなたの杉の木を切り倒して火に投げ入れる。22:8 多くの国々の者がこの都のそばを過ぎ、彼らが互いに、『何のために、【主】はこの大きな都をこのようにしたのだろうか』と言えば、22:9 人々は、『彼らが、自分の神、【主】の契約を捨ててほかの神々を拝み、仕えたからだ』と言う。」」
「ギルアデ、レバノンの頂」とは、エルサレムのことです。ギルアデ、レバノンは森林地帯でした。ユダの王たちは、その森林地帯にある高級建材を輸入して王宮を建てていました。ですから、王宮のことを「レバノンの森」と呼んだのです。そこにはまさにレバノン杉という当時の最高建材がふんだんに使われていました。しかし、その王宮が敵の攻撃によって火で焼かれてしまうことになります。神の都エルサレムが、住む人のいない廃墟のようになってしまうのです。
さらに8節と9節を見ると、そのエルサレムが崩壊するのを見た異邦人が、どうしてエルサレムはこんなことになってしまったのかと言う時、それは「彼らが、自分の神、主の契約を捨ててほかの神々を拝み、仕えたからだ。」と、人々が噂するようにまでなるというのです。
これが文字通りB.C.586年に起こります。バビロン捕囚という出来事です。バビロンの王ネブカデネザルがやって来てエルサレムは火で焼かれ、町の中心にあった神殿も完全に滅ぼされてしまうことになります。いったいなぜこのようなことになってしまったのでしょうか。それは彼らが神に背き、神の民として自分たちに与えられた使命を見失ってしまったからです。
伝道者の書1章5~8節にこうあります。「日は昇り、また沈む。風も吹いては、同じことを繰り返す。川の流れはやがて海に行き着くが、めぐりめぐってまた元に帰り、再び海に向かって流れ出す。すべては退屈な繰り返しにすぎない。」(TEV)
皆さん、人生の目的を見失うと、このようになってしまいます。人生がただの退屈な繰り返しになってしまうのです。
ですから、私たちは私たちに与えられている役割、自分が存在している理由を知ることが重要です。そうすれば、私たちは、その役割を果たすために、そこに向かって進むことができます。そうです、私たちは神に選ばれた者、神の民として、私たちを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方のすばらしい御業をほめたたえ、神の栄光を現わす者となるのです。
次に、10~12節をご覧ください。「22:10 死んだ者のために泣くな。その者のために嘆くな。去って行く者のために、大いに泣け。彼が再び帰って、故郷を見ることがないからだ。22:11 父ヨシヤに代わって王となった、ヨシヤの子、ユダの王シャルムについて、【主】はまことにこう言われる。「彼はこの場所から出て行って、二度とここには帰らない。22:12 彼は引いて行かれた場所で死に、再びこの地を見ることはない。」」
何のことを言っているのか、ちょっと読んだだけではピンときません。ここに「死んだ者」とありますが、これは誰のことを指して言われているのかというと、南ユダ王国の第16代の王であるヨシヤ王のことです。彼は宗教改革を行うなど、善王としてよく知られています。彼は民の大きな期待を集めていました。しかし、B.C.609年にエジプトの王パロ・ネコとの戦いで死してしまいました。彼は8歳で王になると、16歳で献身し、20歳で国内にあったありとあらゆる偶像礼拝の施設を取り除きました。南ユダ王国にリバイバルをもたらしたのです。ですから、そのヨシヤ王が死んだ時、民はヨシヤ王の死を悼み悲しんだのです。
でもここには、そのヨシヤ王のために泣くな、と言われています。その者のために嘆くなと。どうしてですか?もっと他に嘆き悲しまなければならない人がいるからです。それは、ヨシヤ王の息子の「シャルム」です。
「シャルム」とは、ヨシヤ王の子「エホアハズ」のことです。エホアハズの幼名がシャルムです。彼はその後改名して「エホアハズ」となります。意味は「ヤーウェーは捉えてくださる」、「主は捉えてくださる」です。エホアハズ王はヨシヤ王の息子で、第17代の南ユダの王でしたが、その在位期間はたったの3か月でした。たった3か月しか王座にいることができなかったのです。彼はエジプトに連れて行かれ、そこで死ぬことになります。10節に「去って行く者のために、大いに泣け。」とありますが、これがこのエホアハズ王のことです。彼のために嘆けというのです。なぜでしょうか?なぜなら、彼が再びエルサレムに帰って来ることはないからです。そして次に王になるのが「エホヤキム」です。ここには「エホアハズ」とか「エホヤキム」とか「エホヤキン」とか、「きん」さん、「ぎん」さん、みたいな名前がたくさん出てくるので、皆さんどうぞ混乱しないでください。エホアハズの後がエホヤキムです。実はエホヤキムはエホアハズの2歳上の兄でしたが、最初に王になったのは弟のエホアハズの方でした。なぜなら、南ユダの民が兄のエホヤキムではなく、弟のエホアハズに希望を託したからです。エホアハズこそエジプトから自分たちを解放してくれるに違いない、そう思ったのです。しかし、そのエホアハズはどうなりましたか?彼も神のことばに聞き従わなかったので、結局のところ、王位から退けられエジプトに連行され、そこで死ぬことになります。南ユダ王国の歴史の中で初めて、自分の国ではない他の国で死ぬという不名誉な死に方をするわけです。民にとって希望の星だったエホアハズがエジプトに幽閉されて惨めな死に方をするわけです。このエホアハズのために嘆き悲しむように。主はそう言われたのです。どういうことでしょうか。あなたの希望が打ち砕かれたので嘆き悲しみなさいということです。
あなたはどこに希望を置いているでしょうか。エホアハズですか。でもエホアハズに希望を置くなら失望することになります。必ず裏切られることになります。この人なら何とかしてくれるに違いない、あの人なら大丈夫だろう。気を付けなければなりません。そのような人があなたを救うことはできないからです。あなたを救うことができるのは、あなたの救い主イエス・キリストだけです。この方に希望を置かなければなりません。聖書にこうあるからです。「この方に信頼する者は決して失望させられることがない。」(Ⅰペテロ2:6)
あなたはどこに希望を置いていますか。あなたが希望を置かなければならないのは、あなたの救い主イエス・キリストです。なぜなら、彼に信頼する者は、決して失望させられることはないからです。どんなことがあってもびくともすることはありません。
Ⅲ.主にあって死ぬ者は幸いである(13-19)
次に13~19節をご覧ください。「22:13 「わざわいだ。不義によって自分の家を建て、不正によって自分の高殿を建てる者たち。隣人をただで働かせて報酬も払わず、22:14 『私は自分のために、広い家、ゆったりとした高殿を建てよう』と言い、それに窓を取り付けて、杉の板でおおい、朱を塗る者は。22:15 あなたは杉の木で競って、王になろうとするのか。あなたの父は食べたり飲んだりし、公正と義を行ったではないか。そのとき、彼は幸福であった。22:16 虐げられた人、貧しい人の訴えを擁護し、彼は、そのとき幸福であった。それが、わたしを知っていることではないのか。──【主】のことば──22:17 しかし、あなたの目と心は、自分の利得に、さらには、咎なき者の血を流すこと、虐げと暴虐を行うことにだけ向けられている。」22:18 それゆえ、ヨシヤの子、ユダの王エホヤキムについて、【主】はこう言われる。「だれも、『ああ、悲しい、私の兄弟よ。ああ、悲しい、私の姉妹よ』と言って彼を悼まず、だれも、『ああ、悲しい、主よ。ああ、悲しい、陛下よ』と言って彼を悼まない。22:19 彼はエルサレムの門の外へ引きずられ、投げ捨てられて、ろばが埋められるように埋められる。」」
そんなエホアハズの次にユダの王になったのが、先程申し上げた兄のエホヤキムという人です。18節に彼の名前が出て来ます。エホヤキムは、エホアハズの2歳年上の兄でした。意味は「主は起こされる」です。彼はまさに弟亡き後に主が起こされたかのように王位に就きました。
彼は25歳で即位し、11年間南ユダを治めました。しかし、残念ながら彼も弟同様、悪い王に成り下がってしまいます。というのは、当時、南ユダ王国はエジプトの属国だったので、エジプトの王パロ・ネコの操り人形にすぎなかったからです。すべてエジプトの言いなりでした。ですから、エジプトの異教的な習慣を積極的に取り入れたので、霊的には真っ暗な状態だったのです。
そればかりか、エジプトの王パロ・ネコが重税を課したので、彼は民に重税を課さなければなりませんでした。さらにそれに輪をかけるかのように、自分の王宮を建てるために労働者に正当な報酬を支払わないで強制労働させました。もう贅沢三昧です。15節と16節には、父ヨシヤ王と比較されていますが父のヨシヤ王は正しい政治を行い、虐げられた人、貧しい人の訴えを擁護して王として幸福な生活を送りましたが、息子のエホヤキムはそうではありません。17節にあるように、彼の目と心は、自分の利益のことばかり、さらには、咎なき者の血を流すこと、虐げと暴虐を行うことだけに向けられていました。
それゆえ、ヨシヤの子、ユダの王エホヤキムについて、主はこう言われるのです。18節と19節をご覧ください。 「「だれも、『ああ、悲しい、私の兄弟よ。ああ、悲しい、私の姉妹よ』と言って彼を悼まず、だれも、『ああ、悲しい、主よ。ああ、悲しい、陛下よ』と言って彼を悼まない。22:19 彼はエルサレムの門の外へ引きずられ、投げ捨てられて、ろばが埋められるように埋められる。」」
誰も彼の死を悼み悲しむ人はいません。葬式もなければ、国葬も行われないのです。彼はエルサレムの門の外へ引きずられ、投げ捨てられて、ろばが埋められるように埋められるのです。野ざらしにされたのです。
なんと寂しいことでしょう。でもこの預言の通りになります。ここでエレミヤが預言したとおり、エホヤキムはネブカデネザル王によって送られたカルデア人の部隊、モアブ人の部隊、アンモン人の部隊によって殺されることになります。どういうことかというと、人は生きてきたようにしか死ぬことができないということです。あなたがどのように生きたかによって、その死に方も決まります。
ある母親が次のような実話を語っています。
息子が6歳の時でした。教会の礼拝で「世の終わりのラッパ」という讃美歌が歌われました。 「その時我が名も、呼ばれなば必ずあらん。」という歌詞の歌です。
家に帰ると息子が歌詞の意味を知りたいと尋ねてきました。そこで私はこう説明しました。 「学校で、先生が生徒たちの名前を呼んで出席を取るでしょう?それと同じように、天国に行ったら神様も私たちの名前を呼ばれるの。神さまが「パパ・ロジャースさん」。と呼んだら、パパは「はい、ここにいます。」って答えて、「ママ・ロジャースさん。」って読んだら、ママも「はい。ここにいます。」って答えるの。神様が「デニス・ロジャースくん。」って読んだら、あなたも「はい。ここにいます。」とお返事するのよ。」
そんな出来事があってしばらく後に、息子は重い病気にかかってしまいました。様態はどんどん悪くなり、ついに意識もなくなり、何の反応もしなくなりました。そんな状態のある日、突然、息子がはっきりした声で「はい。ここにいます。」と叫んだのです。そして、そのまま息を引き取りました。医師が息子の死亡を確認したときに、私は、ふと、息子が神さまに名前を呼ばれて天に召されたことを悟ったのでした。
黙示録14章13節に、「主にあって死ぬ死者は幸いである」とあります。主にあって死ぬ者は何と幸いでしょうか。私たちも、永遠に価値あるものを求めましょう。私たちはそのために生かされているのですから。あなたが今ここに存在しているのは、あなたを愛し、あなたのためにご自身の命を捨ててくださった神の御子イエス・キリストのすばらしい御業を宣べ伝え、その御心に生きるためなのです。その人生の目的を知り、イエス・キリストにあって目標を目指して走ってまいりましょう。