きょうは、エレミヤ書27章からお話します。タイトルは、「神の時がある」です。私たちは、自分の欲しいものがあると、すぐにでも欲しいと願います。けれども、すべてのことに神の時があります。その時を待つことが大切です。そうするなら、ちょうど良い時に神は与えてくださいます。きょうは、そのことについて語っておられる主のことばを聞きたいと思います。
Ⅰ.縄とかせを作り、あなたの首に付けよ(1-8)
まず、1~8節をご覧ください。「1 ユダの王、ヨシヤの子のエホヤキムの治世の初めに、【主】からエレミヤに次のようなことばがあった。2 【主】は私にこう言われた。「あなたは縄とかせを作り、それをあなたの首に付けよ。3 そうして、エルサレムのユダの王ゼデキヤのところに来る使者たちによって、エドムの王、モアブの王、アンモン人の王、ツロの王、シドンの王に伝言を送り、4 彼らがそれぞれの主君に次のことを言うように命じよ。『イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。あなたがたは主君にこう言え。5 わたしは、大いなる力と伸ばした腕をもって、地と、地の面にいる人と獣を造った。わたしは、わたしの目にかなった者に、この地を与える。6 今わたしは、これらすべての地域をわたしのしもべ、バビロンの王ネブカドネツァルの手に与え、野の生き物も彼に与えて彼に仕えさせる。7 彼の地に時が来るまで、すべての国は、彼とその子と、その子の子に仕える。しかしその後で、多くの民や大王たちが彼を自分たちの奴隷にする。8 バビロンの王ネブカドネツァルに仕えず、またバビロンの王のくびきに首を差し出さない国や王国があれば、わたしは剣と飢饉と疫病をもってその民を罰し──【主】のことば──彼の手で彼らを皆殺しにする。」
1節に「ユダの王、ヨシヤの子のエホヤキムの治世の初めに」とありますが、これは写本に書き写す際の間違いです。正しくは下の欄外の説明にあるように、「ゼデキヤ」の治世です。聖書は誤りがない神のことばですが、それは原本において誤りがないという意味で、このように非常に稀ですが写本において間違うことがあります。特に、エレミヤ書は年代順に書かれたわけではないので、書き写す際に間違えたのではないかと考えられています。なぜそこがゼデキヤなのかというと、前後の文脈をみるとわかりますが、ゼデキヤということばが何回も出てくるので、そのように読むのが自然だからです。
ゼデキヤは南王国ユダの最後の王です。彼が王の時にユダは滅ぼされバビロンの捕囚にされます。そのゼデキヤの治世の初めに、主からエレミヤに次のようなことばがありました。2節です。「あなたは縄とかせを作り、それをあなたの首に付けよ」これは13章に「行って亜麻布の帯を買い、それを腰に締めよ」という命令がありましたが、それと同じように、エレミヤに行動によって預言を行なわせるものです。かせとは、二頭の牛の首にかけて農作業などをさせるくびきのことです。横木ですね。そこに縄を付けたものです。勿論、普通はそんなものを付けて歩いている人はいません。そんなものを首につけていたら、頭がおかしいのではないかと思われるでしょう。でも主はそのように命じられたのです。それによって主がご自分の思いを伝えるためです。その思いとはどんな思いでしょうか。
その思いが、3節から8節で具体的に語られます。それはユダと周辺諸国はバビロンの王ネブカドネツァルによって滅ぼされ、首にかせをかけられるようになるということです。すなわち、バビロン捕囚の民となるということです。しかしゼデキヤはエレミヤのことばを嫌って受け入れませんでした。3節にあるように、エドム、モアブ、アンモン、ツロ、シドンという5つの国々と軍事同盟を結んでバビロンに対抗しようとしたのです。彼はエレミヤのことばを信じようとしませんでした。バビロンによって滅ぼされるなんてあり得ない。自分たちは神の民である。「これは主の宮、主の宮、主の宮だ」。だれも手を出すことはできないといった偽りの預言者たちのことばに騙されて、周辺諸国と手を組んでバビロンに対抗しようとしたのです。
でもそれは実に愚かなことでした。なぜなら、もう既にバビロン捕囚が始まっていたからです。バビロン捕囚は全部で3回行われましたが、既に第二回目が完了していました。もうすぐ三回目の捕囚が行われようとしていました。それはB.C.586年に起こることですが、エルサレムは完全に滅ぼされ、ユダの民は捕囚の民としてバビロンに連れて行かれることになります。それなのにゼデキヤは、その前のエホヤキンという王がバビロンの捕囚になると、バビロンによって擁立された王であるにも関わらず、ネブカドネツァルに反逆して、このような外交ルートを作ってバビロンに対抗しようとしたのです。だから主はエレミヤを通して、そのようなことをしても無駄であること、バビロンの王のくびきに服するようにと伝えるために、エレミヤにこのような格好をさせたのです
それはいつまでもということではありません。7節に「彼の地に時が来るまで」とあります。「彼の地」とはバビロンのことを指しています。それはバビロンに時が来るまでのことです。それまですべての国は彼とその子と、その子の子に仕えますが、その後で多くの民や大王たちが彼を自分たちの奴隷にします。どういうことかというと、その子とはネブカドネツァルの子のエビル・メロダク(Ⅱ列王25:27)のことで、そしてその子の子とはベルシャツァルのことでが、その子の子であるベルシャツァルまでの70年間は、すべての国がバビロンの奴隷となってバビロンに仕えることになりますが、その後は、多くの民や大王たちが、逆に彼を自分たちの奴隷にするということです。果たして、それがこの通りになります。バビロンの王ベルシャツァルは、メディヤとペルシャの連合軍との戦いに敗れ、彼らに服することになるのです。ここに書かれてあるとおりです。
いずれにしても、神の時があります。神の時が来たら、そのことがわかります。それまでは我慢しなければなりません。それまで耐え忍んでください。そうするなら、神はあなたに祝福をもたらしてくださいます。
メソジスト運動の創始者であるジョン・ウェスレーは有名ですが、彼はオックスフォード大学で学ぶと、最初は英国国教会の聖職者となりました。オックスフォード大学在学中に信仰熱心な友人たちとともに「ホーリー・クラブ」というクラブを作ると、これが「メソジスト」と呼ばれ、その後のメソジスト派の名前となっていきました。彼は、弟のチャールズ・ウェスレーやホイットフィールドとともに、英国にリバイバルをもたらす器となります。そのウェスレーの日記を見ると、その働きが必ずしも順調ではなかったことがわかります。
5月5日(日)午前、聖アンナ教会で説教する。もう二度と来なくてよい、と言われる。午後、聖ヨハネ教会で説教する。執事の一人に、「出て行け、ここに近寄るな!」と言われる。
5月12日(日)午前、聖ユダ教会で説教する。あそこにも、もう行かれない。午後、聖ジョージ教会で説教する。またつまみ出される。
5月19日(日)午前、聖ペテロ教会で説教する。執事が特別会議を開き、私は招かれざる客だ、と言い渡される。午後、路傍で説教する。路傍からも追い出される。
5月6日(日)午前、野原で説教する。説教中に野原に放たれた雄牛に追いかけまわされて、走って逃げる。
6月2日(日)、町はずれで説教する。道路から立ち退かされる。午後の集会、放牧地で説教する。なんと1万人もの人が来る!
(Bob Hartman, Plugged In Used by Permission from Preaching Today.com)
ジョン・ウェスレーは、実に忍耐深い伝道者でした。どんなに人々に無視され、拒絶されても、神を信じてあきらめませんでした。そして、神の時が来た時、神はそれを祝福に変えてくださいました。
ゼデキヤは、この神の時を見分けることができませんでした。8節に、「バビロンの王ネブカドネツァルに仕えず、またバビロンの王のくびきに首を差し出さない国や王国があれば、わたしは剣と飢饉と疫病をもってその民を罰し──【主】のことば──彼の手で彼らを皆殺しにする。」とありますが、彼はバビロンに仕えず、バビロンに首を差し出さなかったので、彼の息子は虐殺され、彼自身も目をえぐり取られて殺されてしまうことになってしまいました。ここに警告されているとおりです。
主イエスは、パリサイ人たちやサドカイ人たちが、天からのしるしを見せてほしいと求められた時、こう言われました。「「夕方になると、あなたがたは『夕焼けだから晴れる』と言い、朝には『朝焼けでどんよりしているから、今日は荒れ模様だ』と言います。空模様を見分けることを知っていながら、時のしるしを見分けることはできないのですか。」(マタイ16:2-3)
「時のしるしを見分けることができないのですか」。時のしるしを見分けることができないと、この時のゼデキヤのようになってしまいます。今がどういう時なのかをしっかり見分けなければなりません。そのためには、いつもイエス様と親しく交わっている必要があります。日々のディボーションを通して自分の置かれている状況がどういう時なのかを見分け、神の時を待ち望みたいと思います。
Ⅱ.にせ預言者に聞き従ってはならない(9-18)
第二のことは、だから、にせ預言者に聞き従ってはならないということです。9~11節をご覧ください。「9 だから、あなたがたは、バビロンの王に仕えることはないと言っているあなたがたの預言者、占い師、夢見る者、卜者、呪術者に聞き従ってはならない。10 彼らは、あなたがたに偽りを預言しているからだ。それで、あなたがたは自分たちの土地から遠くに移され、わたしはあなたがたを追い散らして、あなたがたは滅びることになる。11 しかし、バビロンの王のくびきに首を差し出して彼に仕える国を、わたしはその土地にとどまらせる──【主】のことば──。こうして、人々はその土地を耕し、そこに住む。』」
だからエレミヤは、偽りの預言をしている者たちのことばを聞き従ってはならないと警告しています。彼らは自分たちに都合の良いことばかり主張していました。14節にあるように、「バビロンの王に仕えることはできない」と語っていたのです。なぜ彼らはそのように語っていたのでしょうか。それは、彼らがエレミヤのさばきの預言を聞いた時、神のことばに信頼しないで自分の感情、自分の思いに支配されていたからです。危機に直面したとき、感情的になるか、それとも、神のことばに信頼するかによって、正反対の結果が生じます。にせ預言者たちはエレミヤのことばを聞いて感情的になり、神のみこころに反する預言を語りましたが、そのような反応はただ滅びをもたらすだけでした。大切なのは感情的になることではなく、神のことばに信頼することです。
では、このときの神のことば、神のみこころは何だったのでしょうか。それは11節にあるように、バビロンの王に仕えることでした。11節をご一緒に読みましょう。
「しかし、バビロンの王のくびきに首を差し出して彼に仕える国を、わたしはその土地にとどまらせる──【主】のことば──。こうして、人々はその土地を耕し、そこに住む。」
バビロンの王のくびきに首を差し出して彼に仕えるとは、バビロンの捕囚の民となることです。そうすれば、主はその土地にとどまらせてくださいます。これが彼らのすべきことでした。自分がとどまりたいところにとどまるのではなく、神がとどまらせたいところにとどまらなければなりません。自分が行きたいところに行くのではなく、神が行かせたいところに行かなければなりません。そうすれば、主はその土地にとどまらせてくださいます。新改訳第三版ではこの「とどまらせる」を「いこわせる」と訳しています。「その土地にいこわせる」と。それが私たちに求められていることです。そこにいこいがあります。それは、具体的にはバビロンの王のくびきに首を差し出すことです。バビロンの捕囚の民となることです。しかし、にせ預言者たちは反対のことを語っていました。そこにいこいはないと。あくまでも反バビロン同盟を組んでバビロンと戦うべきだと。バビロンの王に仕えることはできないし仕えるべきではない。あくまでも徹底抗戦すべきだと語っていたのです。でも神のみことばに逆らうなら、その身にわざわいを招くことになります。
16~18節をご覧ください。ここでは、祭司とすべての民に向けてメッセージが語られています。「16 私はまた、祭司たちとこの民全体に向かって語った。「【主】はこう言われる。あなたがたは、『見よ、【主】の宮の器は、バビロンから今すぐにも戻される』とあなたがたに預言している、あなたがたの預言者のことばに聞き従ってはならない。彼らはあなたがたに偽りを預言しているのだ。17 彼らに聞き従ってはならない。バビロンの王に仕えて生きよ。どうして、この都が廃墟になってよいであろうか。18 もし彼らが預言者であるなら、もし彼らに【主】のことばがあるなら、彼らは、【主】の宮、ユダの王の宮殿、またエルサレムに残されている器がバビロンに持って行かれないよう、万軍の【主】にとりなしをするはずだ。」
バビロンによって持ち去られた神殿の器について、にせ預言者たちは、祭司とユダの民のすべてに向かって偽りを預言していました。それらはすぐにバビロンから戻されると。でもそれはただの気休めのことばにすぎない偽りのことばでした。返還されるどころかさらに奪われる危機に直面していたからです。というのは、これが語られたのは第二回目のバビロン捕囚の直後(B.C.597年)でしたが、B.C.586年の第三回目の捕囚、これが最後の捕囚となりますが、この時エルサレムは完全に廃墟となり、そのすべてがバビロンにもって行かれることになるからです。ですから、もし彼らが真の預言者ならば、逆にそういうことがないように、主にとりなすはずなのにそういうことをせず、ただ自分たちに都合が良いこと、耳障りの良いことを語り、神の真理のことばを語りませんでした。でもたとえそれが心地よいことば、慰めのことばであっても、そういう偽りの預言に聞き従ってはなりません。
聖書には、世の終わりが近くなると、こうした偽りの預言をする者がたくさん現れるようになるとあります。イエス様は、マタイ24:11で「偽預言者が大勢現れて、多くの人を惑わします。」と言われました。まさに今はそういう時ではないでしょうか。聖書のことばを私的に解釈し、自分に都合が良いように語って多くの人を惑わす偽預言者が大勢現れています。
苫小牧福音教会牧師の水草修治先生は、「神を愛するための神学講座」という本を書いておられますが、その中で、主イエスが話された偽預言者の特徴を次のようにまとめておられます。
1.偽預言者は表面的には羊のように見えるが、中身は狼のように貪欲である。彼らは「私は偽預言者です」とは自己紹介しない。表面的にはとても良い人である。「こういう者たちは偽使徒、人を欺く働き人であり、キリストの使徒に変装しているのです。しかし、驚くには及びません。サタンでさえ光の御使いに変装します。ですから、サタンのしもべどもが義のしもべに変装したとしても、大したことではありません。彼らの最後は、その行いにふさわしいものとなるでしょう。」(2コリント12:13-15)
2.偽預言者は主イエスの名によって預言し、主イエスの名によって悪霊を追い出し、主イエスの名によって奇跡を行い、そういう行いが自分が真の預言者である証拠であると思っている。つまり偽預言者は教えの正しさよりも、ある種の霊的体験を優先する。イエスの名によって不思議なことをし、霊的体験を与えてくれるからといって、それが本物の預言者とはかぎらないから、むしろ警戒すべきである。教理よりも体験を重んじがちなタイプの信者は欺かれる。
3.偽預言者は、「悪い実」「不法」を行う。すなわち、彼らは表面的には「羊のなり」をしてよい人なのだが、注意深くその行動を見ると、「悪い実」をみのらせている。「悪い実」とはガラテヤ書で言えば「肉のわざ」である。「肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。以前にも言ったように、今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。このようなことをしている者たちは神の国を相続できません。」(ガラテヤ5:19-21)
4.偽預言者は世の終わり(携挙・再臨)が何年何月何日に来ると予言する。だが主イエスは言われた。「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。ただし、その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。」(マタイ24:35,36)
5.偽預言者による世の終わりの預言を信じた人は落ち着きを失ってしまうが、正しく聖書の終末預言を学んだ人は、神を愛し隣人を愛する落ち着いた生活をする。主が再び来られたときに、主のもとに引き上げられるのは、その日をあらかじめ知って騒ぎ立てている人ではなく、神を愛し隣人を愛し、地道に落ち着いた生活をしている人である。「また、私たちが命じたように、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くことを名誉としなさい。」(1テサロニケ4:11)
実に、的を得た指摘だと思います。世の終わりになると、こういう預言者がはびこるようになります。ですから、私たちも注意しなければなりません。自分にとって都合が良いこと、心地よいこと、耳障りの良いことばではなく、神が語っておられる神のことばを聞かなければなりません。
Ⅲ.この場所に戻す(19-22)
最後に、19~22節をご覧ください。ここに真の預言者であるエレミヤのすばらしい預言のことばが記されてあります。
このようにバビロンに運ばれた神殿の器とエルサレムに残された器に付いて、エレミヤはこう預言します。19~22節をご覧ください。「19 まことに万軍の【主】は、神殿の柱、『海』、車輪付きの台、また、この都に残されているほかの器について、こう言われる。20 ──これらの物は、バビロンの王ネブカドネツァルがユダの王、エホヤキムの子エコンヤ、およびユダとエルサレムのすべてのおもだった人々をエルサレムからバビロンへ引いて行ったときに、奪い取らなかったものである──21 まことに、イスラエルの神、万軍の【主】は、【主】の宮とユダの王の宮殿とエルサレムに残された器について、こう言われる。22 『それらはバビロンに運ばれて、わたしがそれを顧みる日まで、そこにある──【主】のことば──。そしてわたしはそれらを携え上り、この場所に戻す。』」
19~20節には、バビロンに奪われずエルサレムに残された神殿の器について記録されています。「神殿の柱」とは、神殿の玄関に立てられた2本の青銅の柱のことです。「海」とは、鋳物でできた円形の器のこと。そこに海のようにたくさんの水がためられていました。「車輪付きの台」とは、洗盤を載せる青銅の台のことです。これらの物は、バビロンの王ネブカドネツァルがユダの王とエルサレムのおもだった人たちをバビロンへ引いて行ったときに、奪い取りませんでした。そのままエルサレムに残されたのです。それらのものは、バビロンへ持ち去られ、主が顧みる日まで、そこにとどめ置かれることになりますが、主はこれらの物をこの場所に戻してくださいます。
これが真の預言者のことばです。確かにエルサレム神殿は崩壊し、そこにあったすべての物はバビロンに奪い去られますが、主が顧みられる日に、これらの物をこの場所に戻してくださいます。真の預言者は良いことばかり預言するわけではありません。彼らの罪の結果、受けなければならない神のさばきを語りますが、同時に主の慰めと希望も語るのです。主が顧みられる時に、主は必ず戻してくださると。
エレミヤは、ユダの民がバビロンに捕囚とされて行く中で、やがて主がそれらをこの場所に戻すという希望のメッセージを語ったのです。それは今ではありません。それは主がそれを顧みる日まで、そこにあります。しかし、その日が満ちるとき、主はユダの民がそれらを携えて、この場所に戻すようにしてくださいます。すばらしい約束ですね。バビロンの支配は一時的であり、その期間が過ぎるとき、それは70年間ですが、バビロンに捕えられていた民が、これらの物を携えてエルサレムに帰ってくるようになるというのです。この預言は、確かに捕囚の70年後に成就しました(B.C.536年)。エズラ記1章に、そのとおりに成就したことが記録されてあります。
ここでエレミヤが預言したとおり、バビロンの王ネブカドネツァルがエルサレムから持ち出して、自分の神々の宮に置いていた主の宮の器が、運び出されました。この預言を聞いた祭司たちは、どんなに励まされたことでしょうか。将来の神殿の回復が約束されたからです。ですから、私たちは希望を失ってはなりません。必ず、神の約束が成就する時が来るからです。それは今ではないかもしれません。しかし、すべてのことに神の時があります。神のなさることは時にかなって美しいのです。神に信頼しましょう。神に信頼してこの時を待ち望みましょう。そうするなら、神は必ずあなたの人生にも良いことをしてくださいますから。