エレミヤ書書50章21~46節「聞け、バビロンに対して立てられた主の計画を」

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前回からバビロンに対する神のさばきの宣告から学んでいます。今回はその続きとなりますが、50章後半の箇所から、「聞け、バビロンに対して立てられた主の計画を」というタイトルでお話します。三つのポイントでお話します。

第一に、バビロンが滅ぼされた理由です。それは神に対しておごり高ぶったことです。神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになられます。

第二のことは、バビロンに対するさばきは、同時にイスラエルに解放と贖いをもたらしました。イスラエルを贖われる方は強いのです。この方にできないことは一つもありません。

第三のことは、ですから、あなたに対して立てられている主のご計画を聞かなければならないということです。

Ⅰ.高ぶったバビロン(21-32)

まず、21~32節をご覧ください。21節には「メラタイムの地、ペコデの住民のところに攻め上れ。彼らを追って、殺し、聖絶せよ。──【主】のことば──すべて、わたしがあなたに命じたとおりに行え。」とあります。
 これはペルシャの王キュロスに対して語られたことばです。「メラタイム」とはバビロンの南部にある地名ですが、「2倍の反抗」という意味があります。「ペコデ」とは地名ではなくバビロンの南部、チグリス川東岸に住むアラム人の部族の名前です。意味は「罰する」です。つまり、神は2倍の反抗を重ねてきたバビロンを罰するというのです。

23節と24節をご覧ください。ここには「50:23 全地を打った鉄槌は、どうして折られ、砕かれたのか。バビロンよ、どうして国々の恐怖のもととなったのか。50:24 バビロンよ。わたしがおまえに罠をかけ、おまえは捕らえられた。おまえはそれを知らなかった。おまえは見つけられて捕まえられた。【主】に争いを仕掛けたからだ。」とあります。

「全地を打った鉄槌」とは、バビロンのことです。バビロンは鉄槌のように他国を破壊してきましたが、今度はそのバビロンが砕かれることになります。どうしてでしょうか。それは24節にあるように、主が彼を捕えたからです。全地を打った鉄槌のようなバビロンも、主の支配下に置かれていたということです。彼らはそれを知りませんでしたが、主はちゃんと覚えておられました。なぜなら、24節の最後にあるように、彼らは「主に対して争いを仕掛けたから」です。

これはどういうことかというと、彼らはやりすぎたということです。これは前回のところにもありました。14節です。そこには「彼女が主に対して罪を犯したからだ」とありました。ここでは「主に争いを仕掛けたからだ」と言われています。これが、バビロンが滅ぼされた最大の理由だったのです。彼らが主に捕まえられたのは、彼らが主に対して罪を犯したからです。主に争いを仕掛けたからなのです。彼らはイスラエルを懲らしめる道具として主に用いられましたが、やりすぎてしまいました。イスラエルの神にまで手を伸ばすべきではなかったのです。

それは具体的にはどういうことかというと、28節にあるとおりです。ここには「バビロンの地から逃れて来た者の声がする。シオンで、私たちの神、【主】の復讐のこと、その神殿の復讐のことを告げ知らせている。」とあります。これはエルサレムの神殿が汚されたということです。勿論、汚したのはバビロンです。彼らは、神殿の祭儀で用いる金の器とか銀の器を持ち出して自分たちの偶像の宮に飾ったり、それで酒を飲んだりしたのです。いわゆる、神にケンカを売ったわけです。これはいけません。彼らはあくまでもイスラエルを懲らしめるための神の道具として用いられただけであって、その役割を果たしたならばそれで手を引くべきだったのに、調子にのってその神にまで手を伸ばし神を冒涜するようなことをしたのです。ですからここに「主の復讐」とあるわけです。バビロンの地から逃れて来た者たちは、主の復讐のことを告げ知らせていたとはそのことです。

29節の最後のところには、そのことがもっと端的に表現されています。ここには、「【主】に向かい、イスラエルの聖なる方に向かって高ぶったからだ。」とあります。これが彼らの最大の問題でした。彼らは、イスラエルの聖なる方に向かって高ぶったのです。それゆえ、その日、その若い男たちは町の広場に倒れ、その戦士たちもみな、黙らされることになったのです。

この彼らの「高ぶり」については、31節と32節にも繰り返して語られています。「50:31 高ぶる者よ。見よ、わたしはおまえを敵とする。──万軍の【神】、主のことば──おまえの日、わたしがおまえを罰する時が来たからだ。50:32 そこで、高ぶる者はつまずき倒れ、これを起こす者もいない。わたしは、その町々に火をつける。火はその周りのものすべてを焼き尽くす。」」

いったいバビロンはなぜ滅びてしまったのでしょうか。それは彼らがイスラエルの聖なる方、主に向かって、高ぶったからだったからなのです。

ところで、高ぶるとはどういうことでしょうか。イザヤ14章12~15節を見ると、それがどういうことなのかがわかります。「14:12 明けの明星、暁の子よ。どうしておまえは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうしておまえは地に切り倒されたのか。14:13 おまえは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山で座に着こう。14:14 密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』14:15 だが、おまえはよみに落とされ、穴の底に落とされる。」

ここには、「暁の子、明けの明星」が天から落ちたことが記されています。「暁の子、明けの明星」とは、ラテン語では「ルシファー」と言います。ルシファーは光輝く天使で、天使たちの中でも最高位に位置していた天使長でした。そのルシファーがどうして落ちてしまったのか。実はこれが悪魔の起源と考えられています。悪魔はどこから来たのでしょうか。悪魔は神が造られたのではありません。悪魔は神によって造られた天使が堕落して存在するようになったのです。いったいどうして暁の子、明けの明星は天から落ちてしまったのでしょうか。それは彼が心の中でこう言ったからです。「私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山で座に着こう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。」

これが高ぶるということです。皆さん、高ぶるとは神を神としないことです。神に代わって自分が神になろうとすることなのです。「俺は神だ」と言う人がいますが、恐ろしいことです。「罪」は英語で「sin」と言いますが、その真ん中には何がありますか。「I」です。「自分」です。神ではなく自分、神中心ではなく自分中心であること、それが罪の本質なのです。ですから、罪とは神を信じないで、自分を信じること、神に従わないで自分の思いで生きることです。そしてこの高ぶりこそありとあらゆる罪の根源なのです。この罪の結果、明けの明星、暁の子、ルシファーは天からよみの穴の底に落とされてしまいました。この罪の結果、バビロンはさばかれ、滅ぼされることになったのです。それは彼らが主に対して罪を犯したからです。主に争いを仕掛けたからです。主に向かい、イスラエルの聖なる方に向かって高ぶったからです。

それは私たちとも無縁ではありません。だれもがこの罪にさらされています。たとえば、もしあなたが何かをする時、別に祈らなくてもいい、自分でできるから大丈夫だと思っているなら、それは無意識のうちに高ぶっていることになるのです。なぜなら、特に神は必要ではないと思っているからです。私たちは神の助けがなければ一歩も前に進むことができないどころか、生きていくことすらできないのに、いつしか自分の力でできると思い込んでいるわけです。無意識のうちにこの高ぶりの罪に陥っているのです。悪魔の誘惑は本当に巧妙ですね。そのように思い込ませるわけですから。しかし、神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになられます。私たちに求められているのは、すべてを支配しておられる神の力強い御手の下にへりくだることなのです。

Ⅱ.イスラエルを贖う方は強い(33-34)

次に、33節と34節をご覧ください。「50:33 万軍の【主】はこう言われる。「イスラエルの子らとユダの子らは、ともに虐げられている。彼らを捕らえて行った者はみな、彼らを固くつかんで解放することを拒んでいる。」50:34 彼らを贖う方は強い。その名は万軍の【主】。主は、必ずや彼らの訴えを取り上げて、その地を憩わせるが、バビロンの住民は震え上がらせる。」

これはバビロンではなくイスラエルに対して語られたことばです。バビロンに対するさばきは、イスラエルには解放と贖いをもたらしました。それは前回もお話したように、1枚の紙の表裏のようなもので、表がバビロンに対するさばきなら、裏はイスラエルに対する解放と贖いがあります。彼らはどのようにして解放されるのでしょうか。その鍵となることばは、ここにある「彼らを贖う方は強い」ということばです。イスラエルはかつて400年間エジプトに捕えられていましたが、どのようにしてそこから解放されましたか。主の一方的な御業によってです。それは第二の出エジプトと呼ばれているこのバビロン捕囚にも言えることで、彼らは主の力強い御業によって70年にわたるバビロン捕囚から一方的に解放されるのです。それは人にはではないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。彼らを贖われる方は強いからです。この方は最強なのです。今、東京で世界陸上が行われていますが、男子棒高跳びのディブランティスを観ましたか。すごかったですね。6メートル30センチですよ。世界新記録です。しかも3回目で。憎いですね。私はテレビで観戦していて、飛び上がって喜びました。「ディプランティスすごい!最強だ!」そう叫びながら、「あれ、ちょっと待てよ。最強はディプランティスではなく、イスラエルを贖われる方だな。比較にもならない。だってイスラエルを贖う方は6メートル30センチどころか、天の天まで飛ぶことができるんだから」。当時はバビロンが絶大な力を持って諸国を支配しましたが、バビロンがどんなに強くても、イスラエルを贖われる方には全くかないません。ですから、バビロンが彼らを解放することをどんなに拒んでも、この方はそれを成し遂げられるのです。いったいどのようにして主はバビロンからイスラエルを解放されたのでしょうか。

35~37節をご覧ください。ここには、「50:35 「剣がカルデア人に下り、──【主】のことば──バビロンの住民、その首長たち、知恵ある者たちに下る。50:36 剣が易者たちにも下り、彼らは愚かになる。剣がその勇士たちにも下り、彼らは気をくじかれる。50:37 剣が、その馬と車、そこに住む混血の傭兵にも下り、彼らは女たちのようになる。剣がその財宝にも下り、それらはかすめ取られる。」とあります。ここには「剣」ということばが5回も繰り返して使われています。「剣」がカルデア人に下るのです。この剣とは神の審判、神のさばきを表しています。神の審判、神のさばきが彼らの上にくだるのです。どのように?それが38節に書かれてあります。ここには、「日照りがその水の上に下り、それは涸れる。」とあります。どういうことでしょうか。

この水とはユーフラテス川のことを指しています。バビロンの真ん中にはユーフラテス川が流れていました。ですから、どんなに兵糧攻めにしても落とすことはできなかったのですが、神はその川を干上がらせることによってこれを落としました。具体的には、B.C.539年にメド・ペルシャの連合軍がこの城壁を取り囲むとユーフラテス川を堰き止めて支流を作り、人工的に川の流れを変えたのです。するとここにあるようにバビロンを流れていたユーフラテス川が涸れ川底まで見えるようなり、ペルシャ軍はその川底をくぐって場内に侵入することができたのです。それだけだったらさすがにバビロンを落とすことはできなかったでしょう。なぜなら、仮に場内に侵入することができたとしても、そこには通常、青銅の扉があり、それを打ち破らなければならなかったからです。それは至難の業でした。しかし、神はこれを難なく討ち破られたのです。どうやってというと、敵であるバビロンを酔わせることによってです。誰も攻めてくることなどできないと高をくくっていたバビロンの王ベルシャツァルは、城内で酒を飲んで酔っ払っていました。それで鍵をかけるのを忘れてしまったのです。それで無防備となっていたバビロンは難なくメド・ペルシャ軍によって攻め落とされてしまったのです。偶然でしょうか。いいえ、違います。神がそのようにされたのです。神はすべてのことを支配しておられ、この難攻不落と呼ばれたバビロンをそのような方法で討ち破られたのです。これが、神がなさることです。神様は本当に不思議なことをされるのです。このような方はほかにはいません。この方に優る者はだれもいないのです。イスラエルを贖う方は強いのです。この方が私たちの救い主であられます。34節後半に「主は、必ずや彼らの訴えを取り上げて、その地を憩わせる」とありますが、主は必ずあなたの訴え、あなたの祈りを取り上げて、あなたを憩わせてくださるのです。

Ⅲ.聞け、あなたに対して立てられた主の計画を(41-46)

ですから第三のことは、あなたに対して立てられた主の計画を聞くように、ということです。まず、41~44節をご覧ください。41節には「見よ、一つの民が北から来る。大きな国と多くの王が、地の果てという果てから奮い立つ。」とあります。

「北から来る一つの民」とは、メディアとペルシャの連合軍のことです。さらに多くの王たちが地の果てから攻めてきます。彼らは弓と投げ槍をもってバビロンに襲いかかります。それは残忍で、あわれむことがありません。それは獅子がヨルダンの密林から突如して上ってくるように、一瞬にして彼らを追い出してしまうのです。注目すべきことは、そのために神は「選ばれた人をそこに置く」ということです。44節をご覧ください。「見よ。獅子がヨルダンの密林から常に潤う牧場に上って来るように、わたしは一瞬にして彼らをそこから追い出し、選ばれた人をそこに置く。だれがわたしのようであろうか。だれがわたしを呼びつけるだろうか。だれがわたしの前に立つことができる牧者であろうか。」ここに「選ばれた人をそこに置く」とあります。この「選ばれた人」とはだれでしょうか?それはバビロンの王ネブカドネツァルではありません。彼はイスラエルを懲らしめるために神によって選ばれた人でしたが、ここではそのバビロンを滅ぼすために選ばれた人ですから、これはペルシャの王キュロスのことを指していることがわかります。神はそのためにキュロスを選び、そこに置かれたのです。

不思議なことは、そのために神が彼を選ばれたことが、エレミヤから遡ること10年も前の預言者イザヤに名指しで語られていたことです。イザヤ45章1節です。「【主】は、油注がれた者キュロスについてこう言われる。「わたしは彼の右手を握り、彼の前に諸国を下らせ、王たちの腰の帯を解き、彼の前に扉を開いて、その門を閉じさせないようにする。」(イザヤ45:1)

イザヤはエレミヤから遡ること100年も前の預言者ですよ。その時にはまだアッシリア帝国の時代で、バビロンはまだ新興国の一つにすぎませんでした。ましてメディアとかペルシャといった国はどこにあるかもわからない小さな国だったのです。そんな時代に主はイザヤを通してご自身の民をバビロンから解放するためにキュロス王を選び、そこに置くと言われたのです。すごいですね。だれがこんなことを考えることができるでしょうか。だれもいません。しかし、神にはどんなことでもできます。神は光を造り出し、闇を創造され、平和をつくり、わざわいを創造されました。主はこれらすべてを行うことができる方なのです。このような神はほかにはいません。神はその全知全能の御手をもってすべてを導いておられるのです。

ですから、結論は何かというと、45節にあることです。ここには、「それゆえ、聞け。バビロンに対して立てられた主の計画を。カルデア人の国に対して練られた策を。」とあります。主がバビロンに対してどのような計画を持っておられたのかを聞かなければなりません。そして、主があなたに対して立てられている主の計画を聞かなければならないということです。

もしかするとあなたは、今、自分が置かれた状況を見て、「主よ、どうしてですか」とつぶやいておられるかもしれません。それは自分が考えていたこととは違います。むしろ自分が願っていることとは正反対のようですと思っておられるかもいるかもしれません。それはあなたの人生だけでなく、あなたの家族や教会にも言えることかもしれません。自分が願っていることと違う状況に置かれているように感じているかもしれない。でも、聞いてください。これがバビロンに対して立てられた主の計画です。これがあなたに対して立てられた主の計画なのです。あなたにとって必要なことは、主がどのようなお方なのかを知り、その主がすべてを支配しておられると信じ、その力強い主の御手の下にへりくだることです。イエス様は十字架に架けられる前夜、あのゲッセマネの園でどのように祈られましたか。イエス様はこう祈られました。「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」(ルカ22:42)それは私たちの模範です。イエス様が、「わたしの願いではなく、あなたのみこころがなりますように」と祈られたように、私たちもすべてを信じ、すべてをゆだね、主の計画に従うことが求められているのです。

皆さんも聞いたことがあるでしょう。ニューヨークにあるリハビリテーションセンターの受付の壁に「ある病者の祈り」が掲げられています。作者不詳とされていますが、含蓄のある祈りだと思いますので紹介したいと思います。

大事をなそうとして
力を与えて欲しいと神に求めたのに
慎み深く従順であるようにと
弱さを授かった。

より偉大なことができるように
健康を求めたのに
よりよきことができるようにと
病弱を与えられた。

幸せになろうとして
富を求めたのに
賢明であるようにと
貧困を授かった。

世の人々の賞賛を得ようとして
権力を求めたのに
神の前にひざまずくようにと
弱さを授かった。

人生を享受しようと
あらゆるものを求めたのに
あらゆることを喜べるようにと
生命を授かった。 

求めたものは一つとして与えられなかったが
願いはすべて聞き届けられた。

神の意にそわぬ者であるにもかかわらず
心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた。

私はあらゆる人の中でもっとも豊かに祝福されたのだ

私はこの詩を読んで思ったことは、これを書いた人はだれかははっきりわかりませんが、この人は自分に対する神の計画を聞き、それに生きた人ではないかということです。だれも失敗なんてしたくありません。病気にもなりたくない。貧しいのなんて嫌です。できるだけ楽しく、できるだけ豊かに、できるだけ明るく生きていきたいと思います。それにも拘わらず、病気や苦しみ、失敗、貧しさ、弱さ、悲しみがあるとしたら、それこそ、私が謙虚であるようにと、神が与えてくれた恵みなのだと。その神の計画を聞き、すべてを支配しておられる神のみ旨に生きることこそ、力強い神の御手の下にへりくだることこそ、神が私たちに求めておられることなのです。

先週、那須の礼拝に千葉県浦安市で牧師をしておられる小塚朝生先生が出席されました。礼拝後に、近くのレストランで会食しながら交わりの時を持たせていただきましたが、その時先生が私にこの本(「心通わせて」)をプレゼントしてくれました。この本は重い障害を持って生まれたご次男の和基君と過ごした23年間の記録をまとめたものです。先生は銀行で30年余り働いた後で献身し牧師となられましたが、先生をそのように導かれたのは何だったのかと思いながら読ませていただきましたら、それはやはりこの和基くんとの関わりを通して与えられた思いであったことを知りました。銀行の世界では効率や成果を求められますが、重い障害者の世界では、ただそこに存在するだけの世界です。そういう人も天国に行けるのでしょうか。答えはイエスです。先生はそれを聖書のみことばから確信し、同じように重い障害を持って生まれた人がいる家族にその希望を伝えたいという思いが与えられたのです。それが先生に対して立てられた主の計画でした。確かにそれは厳しい戦いの連続だったかと思いますが、そのことを通して先生ご自身が深い主の恵みに触れさせていただいたのではないかと思うのです。

同じように主は、あなたの人生にも深い計画を持っておられます。それはエレミヤ29章11節にあるように、わざわいではなく平安を与える計画であり、将来と希望を与えるためのものです。だったらなぜそんな苦難があるんですかと思われる人もいるでしょう。それはあなたの人生には何の苦難もないという意味ではありません。あなたの人生のすべてがバラ色で、楽しく、豊かで、希望に満ちた人生であるということを約束しているわけではないからです。それは、終わってみたらすべてが恵み、すべてが感謝と言うことを意味しているのです。あなたがその人生を終えるとき、それを振り返ってみたら、そこには平安と希望があると言っているのです。それがクリスチャンに約束されていることです。それがあなたに約束されていることです。だから、たとえあなたの人生において苦難が尽きないようであっても、終わってみたら感謝というような人生を、神様はあなたに用意しておられるのです。私たちは今、その全容を知ることはできませんが、やがて天の御国に行くとき、「ああ、こういうことだったのか」ということを知り、神を崇めるようになるでしょう。ですから、どうぞ聞いてください。あなたに対して立てられている主の計画を。

それは必ずなります。主がすべてを支配し、導いておられるからです。このような神はほかにはいません。彼らを贖う方は強いのです。その名は万軍の主。この力強い神の御手の下にへりくだりましょう。そして、あなたの思い煩いを、いっさい神にゆだねましょう。神があなたのことを心配してくださるからです。神は、ちょうど良い時に、あなたを高く上げてくださるのです。