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今日、私たちに与えられている御言葉は、エレミヤ書51章11~46節です。50章からバビロンに対するさばきの宣告が語られていますが、今日はその続きとなります。今日のメッセージのタイトルは、「その中から出て、自分自身を救え」です。45節にこうあります。「わたしの民よ、その中から出よ。主の燃える怒りから逃れ、それぞれ自分自身を救え。」
それは、その前の6節でも勧められていたことでした。「バビロンの中から逃げ、それぞれ自分自身を救え。バビロンの咎のために絶ち滅ぼされるな。これは、【主】の復讐の時、主がこれに報いをなさるからだ。」主はバビロンを滅ぼされるので、そこに留まって一緒に滅ぼされることがないように、その中から逃れるようにということです。そのことが繰り返して勧められているわけです。
このように繰り返して語られているということは、それだけ重要であるということです。バビロンから出ることがどうしてそれほど重要なのでしょうか。今日は、このことについて3つのポイントでお話します。
第一のことは、主はご自分にかけて誓われたことを必ず成し遂げられるということです。すなわち、主は必ずバビロンを滅ぼすということです。
第二のことは、たとえ理解できなくても従わなければならないということです。イスラエルを懲らしめる道具として用いられたバビロンが裁かれるのはおかしいのではないですか。それは主のご計画であって、そのために用いられたのに、そのバビロンがどうして滅ぼされなければならないのですか。全く理解できません。しかしたとえあなたの頭で理解できないことであっても、主が命じておられるならばそれに従わなければなりません。
第三のことは、だから、バビロンの中から出て、自分自身を救えということです。そうでないと、この世から聞こえてくるうわさによってあなたの心が弱くなってしまうからです。あなたが聞かなければならないのはこの世の声ではなく主なる神の声なのです。
まず、11~19節をご覧ください。14節までお読みします。「51:11 矢を研ぎ、小盾を取れ。【主】はメディア人の王たちの霊を奮い立たせられる。御思いは、バビロンを滅ぼすこと。それは【主】の復讐、ご自分の神殿の復讐だからである。51:12 バビロンの城壁に向かって旗を掲げよ。見張りを強くし、番兵を立て、伏兵を備えよ。【主】は計画を練って、バビロンの住民について語ったことを実行されるからだ。51:13 大水のほとりに住む、財宝に富む者よ。おまえの最期、おまえの寿命が尽きる時が来た。51:14 万軍の【主】はご自分にかけて誓われた。「わたしは必ず、バッタの大群のような人々でおまえを満たす。彼らはおまえに対して叫び声をあげる。」」
11節には、「矢を研ぎ、小盾を取れ。」と命じられています。これは、バビロンを攻撃する軍隊に向けて命じられていることばです。ここでは、バビロンを攻撃する軍隊が「メディア人の王たち」と複数形で書かれてあります。これは1節でも触れたようにメディアとペルシャの王たちのこと、あるいは、キュロス王とダリヨス王のことを指しているものと思われます。主はこうした王たちの霊を奮い立たせてバビロンを滅ぼされるのです。それはバビロンが主の神殿を破壊したからです。その復讐なのです。
12節には、バビロンの城壁に向かって旗を掲げよ、とあります。旗を掲げるとは、敵に向かって行動を起こすという意味です。それを命じられるのは主であって、主は計画を練って、バビロンの住民について語ったことを必ず実行されるのです。
13節には「大水のほとりに住む、財宝に富む者よ」とありますが、これはバビロンに住む者たちのことです。バビロンの真ん中にはユーフラテス川が流れていました。彼らはその恩恵を受けて富んでいたのです。しかしそのバビロンの住民に対して主は、「おまえの最期、おまえの寿命が尽きる時が来た」と宣告されます。彼らはユーフラテス川がもたらす恵みによって繁栄と豊かさを誇りましたが、その最期を迎えることになるというのです。それは14節にあるように、諸国の軍隊という大群のバッタのような人々でその地を満たされることによってです。
富であれ、名誉であれ、力であれ、こうしたものは究極的な救いをもたらすことはできないのです。それは、私たちも注意しなければなりません。これだけ富があれば、これだけ蓄えがあれば、この先、安心して暮らしていけると思ったら大間違いです。そうしたものが究極的な救いをもたらすことはできないからです。やがて寿命が尽きてしまう時が来るのです。
では、私たちに究極的な救いをもたすものは何でしょうか。15~19節をご覧ください。ここにはイスラエルの神と、バビロンの偶像が比較を通して、イスラエルの神、主がどれほど偉大な方であるかが示されています。
15~16節には、「主は、御力をもって地を造り、知恵をもって世界を堅く据え、英知をもって天を張られた。主の御声に、天では水のざわめきが起こる。主は地の果てから雲を上らせ、雨のために稲妻を造り、ご自分の倉から風を出される。」とあります。主は天地の創造主であられます。その力と知恵は創造された世界を見ればわかります。雲、稲妻、風といった自然現象は、その神の力を示しています。
一方、偶像はどうでしょうか。17~18節には「すべての人間は愚かで無知だ。すべての金細工人は、 彫像のために恥を見る。その鋳た像は偽りで、その中には息がない。それは空しいもの、物笑いの種だ。刑罰の時に、それらは滅びる。」とあります。偶像には息もなく、力もありません。そんな偶像に頼るのはまことに愚かなことです。それは空しいことであり、物笑いの種でしかありません。
しかし、主に信頼する者はそうではありません。19節に「ヤコブの受ける分は、このようなものではない。主は万物を造る方。イスラエルは主のゆずりの民。その御名は万軍の【主】。」とあるように、ヤコブが信じた神は、無力な偶像のようなものではなく、万軍の主です。だから、この方に信頼する者は決して失望することはないのです。問題は、あなたが何に信頼するか、誰に従うのかということです。あなたが従うものによってその結果も決まるのです。
アメリカのニューヨークにブルックリン・ダバナクルという教会があります。1972年にこの教会に牧師として赴任したのはジム・シンバラという牧師でしたが、彼は神学を学んだことがありませんでした。バスケットボールの選手として活躍が認められると、スポ―ツ特待生として大学に入りました。卒業後、就職してサラリーマンをしていたとき、妻の父親に「ニューヨークの小さな教会で牧会者として仕えてみないか」と勧められました。しかし、自信がなかったので「私に牧会ができるでしょうか。神学も学んだこともないし、運動ばかりして本もろくに読んだことがないのに」と断りました。その時、父の一言が胸に刺さりました。「資格が重要なのではない。神が召しておられるかどうかが重要なんだよ。」
彼はその教会に赴任すると、見捨てられた人々にイエス様の愛を伝え始めました。麻薬中毒者、犯罪者、売春婦、ホームレスの人たちを対象に福音を宣べ伝えたのです。すると神の愛によって多くの人々が変えられました。彼は神に用いられ、ニューヨークを変えるほどの影響力のある人になったのです。
皆さん、資格が重要なのではありません。あなたがどのような人かは全く関係ないのです。重要なのは、「あなたを召し、用いてくださるのは誰か」ということです。まさにイエス様が「わたしは、この岩の上にわたしの教会を建てます。」(マタイ16:18)と言われたとおりです。それは主がなさることなのです。主が真理の御言葉の上にご自身の教会を建ててくださいます。主は万物を造る方、その御名は万軍の主です。あなたにはできなくても、神にできないことは一つもありません。あなたにとって難しいことでも、神にとっては何でもないことです。あなたの力で神の力をはかってはなりません。あなたの人生のすべてを神に明け渡してください。そうすれば、神があなたの人生を、祝福へと導いてくださいますから。
第二のことは、たとえあなたが理解できなくても従うということです。20~33節をご覧ください。まず24節までお読みします。「51:20 「あなたはわたしの鉄槌、戦いの道具だ。わたしはあなたによって国々を砕き、あなたによって諸王国を滅ぼす。51:21 あなたによって馬も騎手も砕き、あなたによって戦車も御者も砕き、51:22 あなたによって男も女も砕き、あなたによって年寄りも幼い者も砕き、あなたによって若い男も若い女も砕き、51:23 あなたによって牧者も群れも砕き、あなたによって農夫もくびきを負う牛も砕き、あなたによって総督や長官たちも砕く。51:24 わたしはバビロンとカルデアの全住民に対し、彼らがシオンで行ったすべての悪に、あなたがたの目の前で報復する。─【主】のことば─」
ここには、「あなたによって」ということばが10回も出てきます。「あなた」とはバビロンのこと、「わたし」とは主なる神のことです。バビロンはかつて主の鉄槌、戦いの道具として諸国を砕く神の道具として用いられました。
しかし、24節を見ると、そのバビロンがシオンで行ったすべての悪のゆえに、イスラエルの民の目の前で裁かれることになるというのです。どういうことでしょうか。理解できません。神のご計画のためにその道具として用いられたバビロンが、今度はその神によってさばかれなければならないというのは。それは神様が計画されたことであって、バビロンはただそのために用いられただけなのに、どうしてバビロンがさばかれなければならないのでしょうか。勿論、やりすぎたことは否めません。彼らはあくまでも神の道具としてイスラエルを懲らしめるための器にすぎなかったのに、自分に与えられた分を越えて、神の領域にまで手を伸ばしてしまいました。主の神殿にあった器を自分たちの偶像の宮に飾ったり、それで酒を飲んだりしました。彼らは主に向かい、イスラエルの聖なる方に向かって高ぶってしまったのです。だからといって、神の道具として使われたバビロンがさばかれるというのは納得できません。
このようなことは、この世界を創造し、主権者として常に支配しておられる神の存在を認めることなくしては、なかなか受け入れることができないことです。人間の理性では納得できることがではないからです。それは神が一方的になしてくださったイエス・キリストによる贖いのみわざを、救いの恵みとして受け入れることも同じです。頭で理解することができません。それは理性だけではなく、信じることによってもたらされるものだからです。賛美歌に「ただ信ぜよ」という讃美がありますが、たとえ自分に理解できないことでも、神が言われることをただ信じて受け入れることが求められるのです。
ある目の見えない人が、眼球を提供されて手術を受けることになりました。手術が無事終わり、目の包帯を取る日が来ました。少しずつ包帯が取れて次第に物体が見え始めました。彼の目の前に広がったのは非常に美しい世界でした。うれしさのあまり、そばにいた母親に言いました。「お母さん、どうしてこんなに美しい世界を話してくれなかったの。」すると、母親は答えました。「毎日あなたにこの美しい世界のことを話して聞かせたわ。ただ、あなたがその言葉を理解できなかっただけよ。」
これと同じです。どんなに聖書に書かれてあっても、どんなに聞いても、その言葉を理解できないことがあります。しかし、終わりの日が来ると、すべてが明らかになります。人々は目の前のあまりにもすばらしい天国と、永遠の燃える火の世界があることを知るでしょう。その時、人々は「どうしてこんな世界があることをもっと早く教えてくれなかったのか」と言って泣き叫ぶでしょう。しかし、神はすでにそのことを多くの預言者たちを通して語られ、神の国に行く唯一の道であるイエス・キリストを送ってくださいました。大切なのはそれがあなたにとって理解できるかどうか、納得できるかどうかではなく、神のことばを信じるかどうか、信じて従うかどうかにかかっているのです。
今は天国におられる滝元明先生が書かれたトラクトに、こんな話があります。
ひとりの実業家がイエス様を信じてクリスチャンになりました。彼は、人生があまりにも素晴らしく変えられ、うれしくて仕方がないので、誰にでもイエス・キリストを信じた喜びを伝えました。
かつて学校の校長をしていたおじさんのところにも伝道に行き、イエス・キリストは神が遣わされた神の子であり、人間を罪から救うために、身代わりとなって十字架で死なれたこと、三日目に死の力を打ち破って、死人の中から復活されたこと、そして、イエスを信じるなら、救われて永遠のいのちを持つことができることを、30分ほど熱心に話しました。
するとおじさんは大声で笑い出しました。
「なに、キリストが死人の中から復活した?そんな馬鹿な話はするな。おれに話しても、他の人にそんな話をするのはやめておけ。」
「おじさん、どんなに笑ってもいいよ。私は本気で信じているんだ。クリスチャンは死ぬことは恐ろしくないよ。死ぬのは永遠のいのちの始まりだから」
それから数年後、そのおじさんはがんになり、がんセンターに入院しました。だんだん食欲もなくなり、目の前に死が近づいたことを知りました。夜になると死の恐れがおそってきて、眠ることもできなくなりました。
「おれは死ぬ。死んだらどこに行くのか」と、毎晩苦しみ続け、数年前に聞いた言葉をふと思い出しました。
「おじさん、クリスチャンは死ぬことは永遠のいのちの始まりだよ」
本当にそんな心境になれるのだろうか・・・・。叔父さんは、奥さんに電話をかけてもらい、彼を呼び出しました。
彼が病院に駆けつけると、伯父さんは言いました。
「おまえの言っていたイエスの話を聞かせてくれ。ほんとうに死の恐れから救われることができるのか」
危篤状態にある人に長い話はできません。
「叔父さん、三つの話をするので聞いてください。一つ、聖書には「すべての人は罪を犯した」とあります。叔父さんも神の前に罪人だよ。そのことを認めますか?
「おれは罪人だとわかっている」
「もう一つ、『人間には、一度死ぬことと死後にさばきをうけることが定まっている』とあります。叔父さんも罪人のまま死んだら地獄に行くよ。わかる?」
「もう一つ、主イエスを信じたら天国に行ける。なぜなら、罪のない神の御子イエスが人の罪の身代わりとなって十字架に死なれ、人類の誰も打ち破ることができなかった、死の力を打ち破って死人の中からよみがえられたから。このことを信じるだけで、罪の赦しを受けて、天国に行けるんです。」
すると叔父さんがいいました。
「おれはイエスを信じる。おれのために祈ってくれ」
5分間ほどの会話でした。
「主イエスさま、私は罪人です。お赦しください。主イエスさまを信じます。永遠のいのちをお与えください」
二人は声を出して祈りました。その瞬間、伯父さんの上に平安が訪れました。
「ああ、もうこれでいい。おれも天国に行ける」
それから数日後、伯父さんは最期に次の言葉を筆で書きしるし、安らかに天国に行きました。
「天国のいのちがあることがわかった。イエス・キリストを信じることができた」
だれでも、主イエスを信じるだけで救われるのです。(Precius Vol7 )
このような不思議は、次の25節と26節にも出てきます。ここには、「51:25 全地を破壊する、破壊の山よ。見よ、わたしはおまえを敵とする。──【主】のことば──わたしはおまえに手を伸ばし、おまえを岩から突き落とし、おまえを焼けた山とする。51:26 だれもおまえから石を取って、要の石とする者はなく、礎の石とする者もない。おまえは永遠に荒れ果てた地となる。──【主】のことば。」」
ここには、バビロンの崩壊の様子が描かれています。「全地を破壊する破壊の山」とは、バビロンのことです。主はその破壊の山であるバビロンに手を伸ばし、彼を岩から突き落として、焼けた山とするのです。もう誰もバビロンから石をとって要の石、礎の石とする者はいません。バビロンは永遠に荒れ果てた地となるからです。
これが常識です。かつてどんなに権勢を誇り、栄華を極めたバビロンでも、そこから石を取って要の石、礎の石にする人はいません。しかし、そのように人に捨てられた石が、要の石、礎の石になったという例があります。それがイエス・キリストです。マルコ12章10~11節には「12:10 あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった。12:11 これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ。』」とあるように、イエス様は家を建てる者たちが捨てた石なのに、要の石となりました。要の石とは、その家を建てるに当たり、無くてはならない要の石のことです。イエス様はまさに、家を建てる者たちが捨てた石なのに、要の石になりました。これは私たちの目には不思議なことです。しかし、神はこのようなことをなさるのです。それは、人間の理解を越えた神のみわざです。私たちに求められているのは、私たちが理解できないことでも、それを神の救いの御業として受け入れることなのです。そうすれば、あなたは救われます。自分自身を救うことができるのです。
ですから、第三のことは、その中から出て、自分自身を救え、ということです。「その中」とはとの中ですか?バビロンです。バビロンの中から出て、自分自身を救わなければなりません。これが、主が命じておられることです。27~46節をご覧ください。まず、32節までをお読みします。「51:27 この地に旗を掲げ、国々の中で角笛を鳴らせ。バビロンに向けて国々を聖別せよ。バビロンに向けて王国を召集せよ。アララテ、ミンニ、アシュケナズを。バビロンに向けて司令官を立て、群がるバッタのように、馬を上らせよ。51:28 バビロンを攻めるため国々を聖別せよ。メディアの王たち、その総督やすべての長官たち、その支配にある全土の民を。51:29 地は震え、もだえる。【主】はご計画をバビロンに成し遂げ、バビロンの地を住む者もいない荒れ果てた地とされる。51:30 バビロンの勇士たちは戦いをやめ、砦の中に座り込む。彼らの力は干からびて、女たちのようになる。その住まいは焼かれ、かんぬきは砕かれる。51:31 飛脚はほかの飛脚に走り次ぎ、使者もほかの使者に取り次いで、バビロンの王に告げて言う。「都は、くまなく攻め取られ、51:32 渡し場も取られ、湿地も火で焼かれ、戦士たちはおじ惑っています」と。」
神が諸国を招集し、バビロンに向かって旗を掲げるようにと命じるのは、これが3度目です(50:2,51:12)。その攻撃に加わるのは、アララテ、ミンニ、アシュケナズといった国々です。「アララテ」はノアの箱舟が漂着したところですが、現在のアルメニア地域のあたりです。「ミンニ」は、現在のイラン西部にあたります。「アシュケナズ」はアララテに近い所にあります。こうした国々が、バビロンを攻撃する軍隊に加わるのです。
これらの軍隊がバビロンを攻撃すると、バビロンの兵士たちは戦いをやめ、砦の中にこもり、力を失ってしまいます。やがて門のかんぬきは砕かれ、敗戦を告げる飛脚たちが走り継ぎ、バビロンの王にこのように告げます。「都は、くまなく攻め取られ、渡し場も取られ、湿地も火で焼かれ、戦士たちはおじ惑っています。」(31b-32)
この王とはバビロンの王ナボニドゥスです。息子のベルシャツァルは城内で酒を飲んで酔っ払っていたところを、メディアの王率いる軍隊によって殺されてしまいました。その知らせが父親のナボニドウスに伝えられるのです。当時、世界の七不思議の一つと言われた空中庭園を作り、その繁栄を誇示したバビロンが陥落したのです。
世の人は、それは時代の流れだと言います。平家物語の冒頭に、「祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声、諸行無常(しょぎょうむじょう)の響あり、とあるように、この世のすべての現象は常に変化し、一瞬たりとも同じ状態を保つことはない。それこそ自然の成り行きだと自分にも言い聞かせ、美しいまでに寂しい歴史観を説明するかもしれませんが、しかし聖書は、繰り返し、繰り返し、そうではないと、私たちに訴えるのです。33節にも「イスラエルの神、万軍の【主】が、こう言われるからだ。」とあるように、それは主権者である神が、なされることなのです。
33節には、そのバビロンの滅亡が麦の打ち場にたとえられています。収穫の前には、その準備のために打ち場が作られます。そうすれば、誰もが、刈り入れの時がやって来たことを知ります。そのように、バビロンも刈り入れのとき、すなわち、神の審判の時が来たことを知るのです。そして、バビロンに神の審判が下ることになります。
その様子が36~44節に描かれています。44節には、「わたしはバビロンでベルを罰し、これが呑み込んだ物を吐き出させる。国々はもう、そこに流れ込むことはない。バビロンの城壁さえも倒れてしまった。」とあります。「ベル」はバビロンの偶像です。主はそのベルを罰し、これ呑みこんだ物を吐き出させます。これはバビロンに捕えられていたユダの民を、エルサレムに帰還させるということです。34節にあるように、バビロンの王ネブカドネツァルはユダの民を食い尽くし、竜のように呑み込み、それで腹を満たしますが、今度はその呑み込んだイスラエルを吐き出すわけです。こうしてバビロンは完全に滅びることになるのです。
だから、45節と46節に、こう勧められているのです。「51:45 わたしの民よ、その中から出よ。【主】の燃える怒りから逃れ、それぞれ自分自身を救え。51:46 そうでないと、あなたがたの心は弱まり、この地に聞こえるうわさを恐れることになる。今年、うわさが立ち、その後、次の年にも、うわさは立つ。この地には暴虐があり、支配者はほかの支配者に立ち向かう。」
「その中から出よ」とは、バビロンの中から出よということです。これは6節でも言われていたことです。そうでないと、バビロンとともに滅ぼされてしまうことになるからです。46節にはこうあります。「そうでないと、あなたがたの心は弱まり、この地に聞こえるうわさを恐れることになる。今年、うわさが立ち、その後、次の年にも、うわさは立つ。この地には暴虐があり、支配者はほかの支配者に立ち向かう。」
そうでないと、あなたの心は弱まり、この地に聞こえるうわさを恐れることになります。この「うわさ」とは何でしょうか。これは前回お話したように、バビロンとは「この世」の象徴ですが、あなたが救われてもこの世というバビロンから出ないと、この世がもたらすさまざまなうわさによって翻弄され、心が弱くなってしまうということです。世を恐れると、信仰が委縮してしまうからです。だからイエス様は、からだを殺してもたましいを殺せない者たちを恐れるな、と言われたのです。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさいと。そうするなら、世に対する恐れから抜け出すことができます。そして、世を制することができる真実な信仰者として、力強く歩むことができるのです。
「この世と調子を合わせてはなりません。むしろ、何が良いことで神に受け入れられ、完全なのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」(ローマ12:2)
この世と調子を合わせてはなりません。そうでないと、この世のうわさに翻弄され、心が弱くなってしまいます。結果的にその中に埋没してしまうことになってしまうのです。そうではなく、むしろ、神のみこころは何か、何が良いことで神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなければなりません。たとえあなたが苦手な人にプレッシャーをかけられても、本当に恐ろしい存在は別にあると思い出せば、落ち着いて対応できるのではないでしょうか。
神のことばに従うのか、この世の声に従うのかによって結果は大きく変わります。神のことばに信頼を置いて行動しないなら、やがてこの世のうわさに翻弄され、心が弱くなってしまうのです。でも、神のことばを聞いてそれに従うなら、あなたは神によって力をいただき、鷲のように、翼をかって上ることができます。
先日、三原先生の奥様の鳩子さんのお母様が召されました。その告別式の中で鳩子さんがお母さんとの思い出を証しされました。
前夜式が終わり寝る前にお父さんと二人で少し話ました。お父さんはこう言いました。
「お母さんは、お父さんの事が好きだったんだな~。だから天に召される時も娘も息子も待たずに行ったんだろう。」
来てくれた看護師さんが、召される直前の人は会いたい人が来るまで頑張れると父に教えてくれたそうです。確かに、お父さんと二人が良かったんだね。お母さんらしい!と思い笑ってしまいました。
仲の良い両親の下に生まれたことは幸せであり、神様からの大きな恵みです。
聖書には、「妻たちよ。主に従うように、自分の夫に従いなさい。」とあります。母の尊敬しているところは、父に従いなさいという命令に最後まで従ったところです。母は父がする事に反対した事がなかったそうです。私からすると、えっ?そんなことあるの?反対した事がないなんて・・・。
でも、私が信じている事は、聖書のみことばは、この世界を造られた神様に従うなら必ず幸せになれる!という事です。確かに、母は聖書のみことばに従いました。そして、幸せでした。これは、神さまと母からのチャレンジかもしれません。私も天に召されるその日まで、夫を愛し、夫に従う。頑張ります!
それは夫婦関係ばかりでなく、私たちの生活のすべてにおいて言えることです。皆さん、聖書のみことばに従えば、必ず幸せになれます。そして、神様から聖霊の力を受けることができます。走ってもたゆまず、歩いても疲れません。しかし、この世の声に従うなら、あなたの心は弱まり、そこから聞こえてくるうわさに翻弄されることになるでしょう。だから、あなたはそこから出て、主の燃える怒りから逃れ、自分自身を救わなければなりません。それは簡単なことではありません。この世の力が強く、日々その影響を受けながら私たちは生きているからです。しかしたとえその中にいても、私たちは主のもの、その牧場の羊です。いつも主を求め、主を見上げ、主の聖霊の助けをいただきながら、主の御声に聞き従う者でありたいと思います。そのときあなたは自分自身を救うことができます。たとえ意気消沈することがあっても主によって励まれ、勝利ある人生を歩むことができるのです。